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中世の葬儀
2016年3月2日
今回は室町、安土桃山、江戸時代初期の葬儀事情に付いて書かせて頂きました。
室町時代 天皇家の葬儀は鎌倉時代に続いて火葬により行われ、ご遺骨は寺院に納め、陵墓には卒塔婆を立て、樹木を植えて墓標としました。後光厳天皇(1374年崩御)は崩御された後に 京都市東山区の東山泉涌寺(とうざん せんにゅうじ)に埋葬され、以降 同寺は江戸時代末まで皇室の菩提寺として歴代の天皇が埋葬されました。一方 庶民の遺体は惣村により決められた墓地に埋葬、或いは置かれるのが一般的でした。しかし 江戸時代に入ると、大百姓は没落し民衆は本百姓として自立して行きます。本百姓には一家と言う考え方が生まれ始め、一家一寺の関係が生まれ、祖先崇拝が強まり、一家の墓が建てられる様になります。
江戸時代初頭 それまで惣村を支配していた大百姓が没落すると、村は 平均的な本百姓により構成される様になります。そして 大百姓の庇護の下にあった寺院や道場は その保護者を地域共同体に変化させて、村惣堂や惣道場へと転換しました。
江戸時代初期(17世紀前半)は 一家の構成員全員が家を単位として寺の檀家となる 一家一寺の状態では無く、夫と妻がそれぞれ 別の寺院に属する事もしばしばでした。これが 17世紀後半に入りますと 幕府による寺請制度の推進と、自立した農民が多数 形成された事により、一家一寺の制度が確立します。一家は 菩提寺の経済基盤を支えると共に、葬祭 仏事を寺院に委託する関係が出来上がって行きます。
それまで 庶民が自前の墓を持つ事は有りませんでしたが、寺院と檀家の関係が確立して来ると、次第に 石碑を備えた自分達の墓を持つ様になって行きます。その墓は 家の確立と深く関係し、家の根拠であり、又 象徴として建てられることと成りました。それに伴い それまでの抽象的な祖先崇拝は 具体的な 家の先祖崇拝へと変化して行きました。
今回は以上です。