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大正時代の葬儀
2016年4月8日
今回は大正時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。
明治時代の葬儀の中心は 葬列に有りましたが、大正時代に入ると 市街地での埋葬や火葬が制限され始め、又 明治36年より走り始めた路面電車の走行に支障をきたす事などからも、徐々に葬列廃止の方向に進み、それに代わって告別式が登場して来ます。葬列が廃止されると共に、お柩の移送には霊柩車が使用される様に変化しました。
大正時代に入ると 都市部で行われていた 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げるのは良くない”などの批判が出始め、新聞などのマスコミにも 都市部では葬列を廃する などの論調が顕著と成り始め、葬列廃止の方向が急激に進み始めます。そして 葬列に代わる葬儀の儀式として、告別式が 葬儀の中止となって行きました。日本で最初に告別式が行われたのは 明治34年に行われた 中江兆民の葬儀であったと言われて居ります。中江兆民自身が無宗教であった事から、教え子たちにより 宗教儀礼を行わず、告別式によるお見送りを執り行いました。この時代 地方では 葬儀の中心は ”野辺の送り”と言われた葬列でしたが、東京、大阪、名古屋などの大都市では 葬列に代わって霊柩車が使用され、儀式のメインは告別式と成りました。
霊柩車が始めて使用された時期は諸説ありますが、明確な記録としては 大正6年に 大阪で葬列の要員派遣を生業としていた大手業者の 籠友が米国より輸入した霊柩車があります。大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より輸入して居ります。当時の米国の霊柩車は 彫刻がほどこされ、破風の付けられた派手な形の車でしたが、従来の輿にも似た形態から採用されたものと考えられます。大正10年前後には これらの輸入車に日本独自の装飾を施し、後部を輿仕立てにし、和風の唐草模様を施した 宮型霊柩車が登場しました。この形態が現在まで継承されて居ります。
今回は以上です。