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葬儀横浜 葬儀の歴史・天皇家の葬儀Ⅱ
2018年9月13日
今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・天皇家の葬儀Ⅱに付いて書かせて頂きました。
天皇家の葬送儀礼は 古来 日本独自の宗教である神道を基にして営まれて居りましたが、仏教の伝来により、仏教に帰依する天皇も増え、古来の葬法に仏式の葬法が加えられて行きます。古墳時代末期(飛鳥時代末期)の持統天皇の葬送儀礼に於いては 多くの部分が仏式を前提と営まれ始め、平安時代初め 清和天皇の葬送儀礼は 天皇御自身が仏教に帰依して仏門に出家していた事もあり、葬儀は仏式により営まれました。以降 明治時代に至るまで、天皇家の葬送儀礼は 仏式で営まれる事となります。
後世 武門の棟梁となる清和源氏の祖である 清和天皇は 平安時代初期の850年に生誕し 同年に立太子となり、858年 9歳で第56代天皇位に即位します。876年 27歳で陽成天皇に譲位し、879年 出家して仏門に帰依します。その後は 畿内の仏寺巡拝の旅を続け、880年12月4日 粟田の円覚寺で崩御されました。
清和天皇は 円覚寺にて ”西向西方。結跏趺座。手作結定印而崩。”(西方に向かい、仏式の坐禅を組んで、両手を組み合わせた姿で崩御された)と伝えられ、念珠を手にかけたまま納棺され、その日の内に火葬に付されました。
素服、挙哀は禁止され、死後4日目の12月7日にはご遺骨が埋葬され、7日目の12月10日に初七日。翌日より 円覚寺にて僧侶延べ50人により 昼は法華経、夜は光明真言が誦経(ずきょう)され、四十九日までこれが続けられました。翌年1月22日には 円覚寺にて七七日の設斎が営まれました。
法華経は死者の魂を鎮めると同時に贖罪を行い、光明真言は減罪により極楽浄土への往生に力があると信じられていました。この清和天皇の葬送儀礼では 仏教が全面的に儀礼の中心となり、仲でも七七日が重要視されている事がわかります。以後 天皇家。貴族階級に於いては 仏教葬、火葬が定着してゆく事と成りました。
今回は以上です。