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ご葬儀関連新着情報
横浜市営の葬送施設、横浜市久保山斎場
2023年5月1日
横浜市民の為の葬送設備として横浜市久保山斎場が御座います。
横浜市久保山斎場は横浜市内で最っとも古くから操業されている火葬場で、開港横浜を象徴する火葬場であります。
明治8年(1875年)6月より操業が開始されました。
その主要な目的は、多くの人々が海外との往来をする中で、
死者による伝染病の拡散防止を目的とした火葬場でありました。
又、横浜市久保山斎場では、第二次世界大戦後、A級戦犯として死刑判決を受けた方々のご遺体は、
この横浜久保山斎場で荼毘に付され、東京湾に散骨されました。
尚、横浜市久保山斎場は、他の横浜市営斎場と異なり、火葬炉のみの操業で、
葬儀式場は併設されて居りません
通夜・葬儀はご自宅近く、若しくは横浜市久保山斎場に隣接する式場で執り行う必要が御座います。

1 横浜市久保山斎場
横浜市久保山斎場は、明治6年(1875年)6月、民間会社により”久保山町共葬墓地の一画に設立されました。
当時は、久保山町火葬場と呼称され、同年5月には火葬解禁の太政官布告がなされて居ります。
明治 末期 の こ の 火 葬 場の 周辺 の こ とを記 憶され て い る古 老 に よれ ば ,
火 葬場 と称 して も簡易 な 木造建 築物 で あ り、雑木林 に 囲 ま れ て い て , 付 近 は 寺 院 や墓地 の み で ,
民 家な どは ほ と ん ど無 く,山の 中 の 寂 しい火葬 場 とい う感で あっ た と 言われて居ります。
火葬場 に 通 じてい る 道路 は 狭 く ,柩 は 荷車 に 乗せ て 運 ん で 来た り,
丸太材 を組 ん で幾 人 か の 肩 で 担い で登って 来た と 言われます。

こ の 火葬 場 は,初 め民営で あ っ た もの が ,後に横浜市に 寄付 され ,
横浜 市が設営した 久保 山 の 市営墓地内に ,野焼き場程度の簡易火葬炉を 28 基 も設置して,
使用 の 便 に 供 し て い た が ,
火 葬業務 は 従前 の 民 営 であ っ た こ ろ の経 営者の 差 配 に 任 せ て い た ようで す 。
その 契約期限が 切 れ ,火葬業 務 も市 の 直営 と な っ たの は ,大正 中期 ご ろ で あ っ た よ う で あ ります。
当時は、火葬炉二十八基で 運営されて居たとされます。
炉 数が 28 基 とい うの は,現在 と比 べ て 甚 だ 多過 ぎ るの で は な い か と い う疑 問 も有りますが
こ の 時期 の 都 市 の火葬場 は, 薪 が主燃料 で ,主 と して 夜 間の み 火葬 を 行 った こ とに よ り ます。
その後、炉 の 技 術改善 や 重油 な どの 燃 料 の 変化 に よ り, 炉 数 は 漸時 減少 して まいります。
第 二 次世界大戦前に な る と, 都市火葬場 は 整備 され てゆき ,昼間の火葬が可能となって、
火葬炉の数は10 基 どま り と な っ て行きます 。

大 正 12 年の 関 東 大震 災 で ,こ の 明治 20 年 に 建 て ら れ た と い う木造建築物 の 火 葬場 は ,
壊滅的 な 被害 を受 けます。
しか も火 葬業務 は焦眉 の 急 とな り,休業は 許されません。
横浜 市 は そ の 善後策 に腐心 しますが ,
そ の窮状は、”火葬場 殃死 者算 な く遺族 は火 葬 場に 、墓 地 に搬 入 し、
無 縁 の 惨死者 は市吏員の 手に よ り て 処分 した る が 、 こ の 場合 に 於 て 火葬場 の 急施 を必要 と し、
仮火葬炉 を 設 け,一時 の 要求 を充 したれ ども棺桶 山積 し惨状言 語 に 絶 し た り” とあります。
その窮状を打開すべく、大正 15年 3 月 に は , こ の 火葬場 の 面積 1600 坪の 都 市 計画決定 が 行 わ れ 、
横 浜市 に ふ さ わ しい 近 代的火葬 場と して ,装 い も新 た に 整備 され た の は,
昭和 2 年 (1927)の こ と で ります 。
「横浜 市営 久 保町 火葬場」 と い う正 式 の名称 とな っ た の も, そ の こ ろか らで あります。
更に、重油燃料の 採用 な どに よ る 炉の 効率化 に よ り,炉数 の 減 少が み られ,
昭 和 2 年 6 月 に発行 され た 『横浜 市要覧』に 市内久保町所 在の葬儀所 は ,
鉄 筋 コ ン ク リート,屋根 銅板破風 造 の 美的構 造 に して ,
大正十五 年 七 月 の 竣工九 万九 千余 円を費 せ り.
又 火葬場 も同町 に あ り,鉄筋 コ ン ク リート平家建に して,火葬 炉十二 個を有 しt 無烟無臭の 装置 と な し,
重油を以て燃料に 充つ 。昭 和二 年七 月竣工の 予定 に して ,総経費十四 万四 千余 円の 予算 と す。と あ る 。
こ う して ,正 式 に は 昭 和 2 年 6 月 2 日 に 横浜 市へ 移管 され た と い う記録 が ある。
同時 に , こ の 新装の 建造 物 は ,関 東大震 災で 焼 失 した 建物の 位 置 よ り,
約 200m 南西 に 当 た る位 置 に 新 設 さ れ て 現在 に 至 っ て い る こと も判 明 し た 。
横浜 市 の 記録 に も, 「現建 物 (本館)は昭和二 年」 の 設立 と記載 され て い る。

こ の 久 保町 火葬 場 は , 第 二 次世界大戦 末 期 の 昭和 20年 (1945 )5 月 29 日 の 横 浜大 空襲 で は ,
奇蹟的 に 戦 火を免 か れ ,戦後 を迎 えます。
敗戦 直前の 久 保町火葬 場 に つい て ,一市民 の 思 い 出 を 記 し た記録 が御座います;
”霊柩車 な ど も ちろ ん な か っ た。お 父 さん と お 兄 さん が ,リヤカ ーに 薪 を積 み ,お 母 さ んを乗 せ て ,
久 保山の 火葬場 に行った。
当時 は薪 をもっ て 行か な けれ ば,火葬 して もら うこ とも出来 な か っ た の で あ る 。
そして、現在の横浜市久保山斎場の設備は;
所在地;横浜市西区元久保町3-1
火葬炉;電気炉12基、
控室;12室、
駐車場;80台、
で運営されて居ります。
今回は以上です。