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横浜市民の葬儀・葬儀と文化

人類が地球上に誕生して以来、人が亡くなると葬送の儀礼が営まれて来たと考えられて居ります。

その葬送の儀礼(葬儀)は、地域、民族、宗教などによって育まれた文化を基にして作りだされて来ました。

葬儀は、それぞれの死生観を反映するだけでなく、精神文化や生活文化を反映したものともなって居ります。

そういう意味では、葬儀は人の生死に係わる総合文化であるとも言えます。

1 葬儀と文化

葬儀文化は、長い歴史を通じて、その地域の人々が培ってきた大切な儀礼ですから、

その中に込められた精神は大切にしなければ成りません。

又、葬送の儀礼には永く、多くの人々が育んできた智恵に溢れています。

”過去の遺物である”と単純に切り捨てる事無く、その中に込められた意味を学ぶ事は大切です。

確かに文化は、過去の歴史と、その時代を反映して居りますので、

内容によっては現在の事情に合わなくなって来たものもあり、全てをそのまま継承する必要はありません。

しかし、その文化がどの様な目的で、どの様な歴史の中で形成されてきたのかに、思いをはせれことは、

永く続いて来た文化、習慣、儀礼から古人が何を大切にして来たかを学ぶ事が出来ます。

そうした中で、葬儀が形骸化してしまわぬ様、葬儀の意味を常に再確認して、

その時代にあった、そして、そのご遺族に寄り添える葬儀が営める様、心する事が大切です。

私どもも、歴史の中に連なる者として、この時代に生きて居り、

多くの先達により育まれた葬儀文化を大切にすると共に、

今の時代に必要とされる葬儀文化を築いていかなければ成りません。

少子高齢化、人口の都市集中、核家族化、それに伴う地域社会の大きな変容は、

多様な死生観ともなり、葬儀の様式も多様化することとなります。

横浜での海洋散骨

2 横浜の葬儀文化

葬儀文化は、その地域で長い歴史を通して人々が培って来たもので有り、

多くの先達の知恵によって出来上がって居ります。

そこに含まれている意味合いを良く理解し、その精神を大切にする事が必要です。

勿論、文化はその時々の時代を反映して出来て居りますので、中には現代にそぐわない儀礼等も含まれますが、

古い物と、単純に切り捨てるのでは無く、

その儀礼(文化)が、何故、どの様にして形成されたのかを学ぶ事により、

過去の人々がどの様な、習慣、儀礼、文化を大切にし、

どの様な価値を生み出したかを知る事が大切ではないでしょうか。

横浜市の花・薔薇

横浜は、古くは小さな漁村と宿場町を擁する地域であり、特別な文化を持つ地方では有りませんでしたが、

百数十年前の開港から、多くの人々が集まり現在に至って居ります。

その文化は各国、各地域の文化が集合、混在して出来て居ります。

又、高齢化、核家族化が大きく進む中では、多様な文化と死生観を持つ人々の都市となり、

葬儀文化もより個人化された形に成りつつ有ります。

私ども葬儀社も既成概念に捉われず、

ご遺族さまの死生観に合わせたご葬儀を企画しなければ成らないと愚考する昨今で御座います。

私共も、日本の葬儀文化を良く理解した上で、ご喪家様のお気持ちに合ったご葬儀を企画出来る様、

心しなければ成らないと考える日々で御座います。

   今回は以上です。

 

横浜市民の葬儀・葬儀とは

死者を弔う礼の心は、日本の文化の中で古くより深くねずいて居ります。

これは、日本古来の宗教である神道と中国より伝来した仏教が融合して創り上げられました。

故人様をお見送りする儀礼を葬儀と言いますが、葬儀は本来仏教用語の葬送儀礼を略した言葉ですが、

現代の日本では、故人様をお見送りする儀礼を示す普通名詞として使用されて居ります。

1 葬送儀礼

葬送儀礼(葬儀)とは 狭い意味では通夜式、葬儀式(葬式)を想像しますが、

本来の意味では、人の臨終から、その後の喪までを含めた、故人様を葬り、悼む、一連の儀礼を表わします。

その次第は、それを営む人々の死生観や宗教観が深く反映されたものであり、

葬送に伴う儀礼は、宗教が文明のなかで発生する以前の旧石器時代から営まれてきた

人間自身の宗教的行為であるとも言えます。

又、葬送儀礼は、故人様のためであると共に、

故人様の死を悼む、残された方々の心を癒す手助けとなる儀礼でもあります。

1)葬送儀礼の歴史

日本に於けるお見送りの儀礼次第は仏式が主流となって居りますが、

具体的には、インドから中国を経て伝来した仏教の儀式に中国の儒教の教えや、神道の習慣等、

更に、日本で培われた文化が加味されて、現代日本の葬送儀礼があります。

通夜は、日本で古代に行われていた”もがり”に発すると言われて居り、

故人様との最後のお別れをすると共に、魔除けの意味も込めて、

夜明けまで灯明や線香の火を絶やさぬようにするとされます。

出棺時に行う故人様の飯茶碗を割る儀式は、故人様の霊が自宅に名残りを残さぬようにと執り行われます。

葬儀の終了後に、”振り塩”と呼ばれる、塩で清める習慣は神道由来の習慣であります。

孔子を始祖とする儒教は5世紀頃に中国から日本に伝来し、永く日本文化の進捗に寄与しましたが、

その教えの中で 親の葬儀を盛大に営む事が何より大切な事とされます。

その死生観では、人は死ぬと魂(こん)と魄(はく)という二つたましいに別れ、

魂は精神を、魄は肉体を司るたましいであるとされます。

魂は天に昇って神となり、魄は地にかえる、とされます。

残された人々は魂を祀る為に位牌を作って廟に祀り、魄の戻る場所として地中にご遺体を埋葬します。

天国や地獄などの7っの世界は、儒教から生まれて居り、

紙幣を燃やして死者の魂を慰めるのも儒教から来ております。

2 葬送儀礼を営む目的

葬送儀礼とは、一般的に通夜、葬式、及び告別式と理解されておりますが

本来は、臨終から死後の喪に至るまでの”死者を葬リ、悼む”為の一連の儀礼のことを表します。

では 何故 葬儀が必要なのでしょうか?

人は誕生とともに多くの愛に育まれ、多くの愛を与え、様々な社会生活を営みます。

そして、生が有るところには必ず死が有り、それは事故であったり、病に倒れるものであったり、

老齢になり命尽きるものであったり、短い人生、長い人生と様々です。

全ての人に、それぞれに生と、それぞれの死が有ります。ひとつとして同一の死は有りません。

では、人が死ぬと何をしなければならないでしょうか

   1 社会への告知
   2 遺体の処理
   3 霊の処理
   4 悲嘆の処理
   5 様々な感情の処理

1)は故人さまとご遺族さまの為に、2)と3)は故人さまの為に、

4)と5)はご遺族、そして故人さまと近しい方々の為に営まれる葬送儀礼の大切な目的です。

人の死は大切な命が失れることであり その死は周囲の人々に危機状況を作り出します。

葬送の為の儀礼は地域社会、民族、宗教、時代などをもとに長い時間をかけて作り出された文化であると共に 

残された方々が危機を乗り越える為に人々が作り出した知恵の集合体です。

又、人々は葬儀の中から多くのことを学ぶことになります。

故人を偲んで集まる人々は、人の命の大切さを、人は何時か必ず死に直面するという事、

そして、人の死は大きな悲しみを生み出すという事を体験します。

この貴重な体験から "生きることの大切さ" と "死は無に帰るだけではない"、ということを実感するでしょう。

カトリック教会の儀礼

葬送儀礼の流れの中では、ご家族、ご親族、会葬ご参列の方々が故人の生き様を振り返り、

それぞれの心の痛み悲嘆を思い遣りたいものです。

葬儀は有史以前より、人の死と共に育まれて来た死生観であり、大切な精神文化であります。

この葬儀文化は長い時間をかけて培って来た人間の知恵の集積です。

従って、それぞれの儀礼には重要な意味があります。

もちろん時代の流れとともに文化は変化していくものですから、過去に捉われる必要は有りませんが、

長く続いて来た、習慣、儀礼、文化を一度考え直す事も必要ではないでしょうか。

   今回は以上です。

横浜市内の民間葬送施設・西寺尾火葬場

横浜市民の為のご火葬設備は、現在市内に5施設が御座います。

4ヶ所の横浜市営火葬場と1ヶ所の私営火葬場が横浜市民のご火葬を営んでおります。

横浜市久保山斎場に続いて古くより市民のご火葬に供されて居りました火葬場が

民間が経営する西寺尾火葬場です。

その民営西寺尾火葬場には隣接した葬儀式場として西寺尾会堂がご利用頂けます。

1 民営西寺尾火葬場

西寺尾 火葬場は横浜市神奈川区松見町 2 丁 目 418-12 に所 在す る、民間経営の火葬場です。

敷地面積;4,875平方メートルに、鉄筋コンクリート造りの炉棟が建てられ、火葬炉10基を有しております。

その始まりは、大正時代、地元では谷戸の地形を利用して、自然発生的に火葬が営まれて居りましたが、

東京都大 田 区内 に 寺院 を有す る 個人により、

大正13年(1924年)6月5日に火葬設備として正式に設立されました。

西寺尾火葬場

長らく横浜市民、川崎市民、東京都民(大田区民)に利用されてまいりました。

昭和50年2月に増改築を行い、現在の施設と成って居ります。

火葬炉に、特等・1等・ 2等・3 等の 格差 を 設 け て運用されて居ります。

多くの横浜市民は、この火葬場を横浜市営と思い込んで居られますが、実体は民間で経営されて居り、

横浜市の管理下にはなく、その料金体系も横浜市営の料金とは異なります。

横浜市営斎場の火葬炉利用料金は一律で、市民;12,000円、市外;50,000円ですが、

民営西寺尾火葬場では、等級に合わせて56,000から85,000円の間での選択と成ります。

尚、横浜市営斎場利用者との利用料金差額補助として17,000円が横浜市より支給されますので

居住される区役所への葬儀費用補助金申請と同時に、お忘れなく申請して下さい。

2 西寺尾会堂

西寺尾会堂は西寺尾火葬場を併設した、古くより港北、神奈川、鶴見区民及び川崎市民の方々に利用されて来た、

宗旨、宗派に係わらずご利用頂ける私営の葬儀式場です。

百合花祭壇

会堂は総二階の建物として建設され 一階には受付 待合せロビー 葬儀式場 宗教家控室が、

二階には待合せロビー お清め室 遺族控室・通夜仮眠室が配置されて居ります。

葬儀式場は約60席の会葬者席が用意可能で 数百名程度までのご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

尚 同会堂では花輪の取り付けが出来ぬ為、斎場のお飾りは生花のみのご利用となります。

又 西寺尾火葬場への移動は徒歩での移動成りますので、マイクロバス等は不要となります。

   今回は以上です。

横浜市民の葬送施設・横浜市北部斎場

横浜市民の為の葬送設備として四番目に開業致しました斎場が、東名高速道路・横浜インターチェンジに隣接した、

緑地内に建造された横浜市北部斎場で御座います。

横浜市北部斎場は、横浜市営葬送施設の中で、最新、最大の施設でもあります。

1 横浜市北部斎場

横浜市北部斎場は緑区長津田町に位置する横浜市営の斎場で、平成14年(2002年)4月に開設されました。

横浜市北部斎場は、青葉・都筑・港北・緑・旭・瀬谷・保土ヶ谷区民のご喪家を中心にご利用頂ける葬儀式場です。

横浜市北部斎場は、葬儀式場;四室、火葬炉;16基を運用する最大規模の横浜市営葬送施設でも御座います。

横浜市北部斎場には葬儀式場と火葬場が併設され、大駐車場(180台)も備えた大変便利な葬儀式場で、

宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。

又、葬儀式場から火葬場への移動は徒歩が可能で、マイクロバス等の移動手段を必要と致しません。

横浜市北部斎場は正門を入りますと直ぐにトンネルとなり、

トンネルを抜けると前に駐車場、正面奥に火葬場、右手に式場の建物が配置されて居ります。

葬儀式場は4式場あり、いずれの式場にも

受付・待合せロビー・式場・お清め室・親族控室・宗教家控室・シャワー室・トイレが配置されて居り、

席数100席・数百名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

通夜仮眠は5名様程度までは可能です。

但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので 

灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。

横浜市北部斎場の利用料は、故人様が横浜市民であれば 

式場利用料(2日間)8万円、

火葬炉利用料1万2千円、火葬時の控室利用料5千円でご利用頂けます。

横浜市北部斎場は建物も新しく、駐車場も地上・地下に幅広く用意されて居り、

多くのご利用頂いた方々よりは好評を頂く式場で御座います。

不対称花祭壇

来場に当たりましては、公営交通機関ご利用であれば、

JR横浜線十日市場駅より横浜市営バス55系統に乗車して頂き北部斎場前で下車(所要10分)の後 

徒歩で10分となります。

又、タクシ-をご利用の場合はJR横浜線長津田駅南口より約8分前後(料金1500円前後)で来場頂けます。

お車で来場の場合は、東名高速道路横浜インターより5分の距離となります。

遠方よりご参列の方々には最寄のホテルとして、“東京・湯河原温泉・万葉の湯”が御座います。

万葉の湯は東名高速横浜インター前に位置する温泉ホテルで 

JR横浜線・小田急線町田駅よりシャトルバスが運行されて交通の便も良く、

北部斎場まではタクシーで10分(料金1500円前後)とご利用しやすい宿泊設備です。

ご利用料金は、洋室ツイン2名利用で10400円/人(税込)からとなります。

尚、町田駅周辺でも各種のホテルをご利用頂けます。

    今回は以上です。 

横浜市営の葬送施設、横浜市南部斎場

横浜市民の為の葬送設備として三番目に開業致しました斎場が、金沢緑地内みず木町に建造された、

横浜市南部斎場です。

横浜市南部斎場は、葬儀式場と火葬炉が併設された市民の為に大変便利な葬儀式場・火葬設備です。

又、立地的にも、横浜・横須賀道路の朝比奈インターチェンジに隣接して居り

車輛での来場には大変便利な斎場です。

1 横浜市南部斎場

昭和50年代横 浜市 内の 火 葬場 は,市 営 2 ヵ 所・ 民営 1 カ所 で27 炉 が横浜市民の為に稼働して居りました。

しかし,10大都市で比較してみると ,その整備水準はきわめて低く,

都市施 設として必要不可欠な 火葬 場の 整備 が望まれました。

横浜市当局 も現状での施設不足の解消と ,将来の人口増に対応できる火葬場建設が絶対必要 と考え、

特に金沢区を中心に,市域南部の開発はまだまだ進 むと見通 してい た市当局としては ,

市域 南部の火葬場不足を解消するため ,緊急かつ重要な事業として,南部斎場の 建設を計画 しました。

金沢区・港南区・栄区の全部,磯子区の半分,戸塚区の一部地域を火葬の対象として,

昭和 62年度の操業開始を目途に,金沢区内に火葬場の新設を計画しました。

横浜横須賀道路(都市計画 自動車専用道 路 )の朝比 奈インターチェンジの傍ら,釜 利谷町 に用地 を確保 し、

昭和 59 年 2 月 22 日, 市 は 南部 斎場 の 計画 を発表 しました 。

これに対して,建設予定地の住民 自治会 による 建設反対の運動が起こされ、

以後5年簡に渡る議論、法定闘争を経て、平成元年7月に和解が成立して、

横浜市南部斎場は、産みの苦しみを経て,計画より3年余り遅れて

平成3年9月に横浜市営の三番目の葬儀式場・火葬場として操業を開始しました。

横浜市南部斎場は金沢区みず木町に位置する横浜市営の斎場で、葬儀式場と火葬場が併設され、

大駐車場を備えた大変便利な葬儀式場で、宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。

又、葬儀式場と火葬場は併設されて居り、その間の移動は徒歩が可能で、マイクロバス等を必要と致しません。

横浜市南部斎場
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2 横浜市南部斎場の設備

横浜市南部斎場は、県道23号線より案内に従って入りますと、先ずはトンネルを潜り正門を入ります。

正面左手に火葬場・式場の建物が御座います、

この前を通り建物奥には駐車場が配置されて居ります。

葬儀式場は1Fに第一式場、2Fに第二式場、の計2式場が設営されおり、いずれも式場も、

受付・待合せロビー・式場・お清め室・親族控室・宗教家控室・トイレが配置され、

席数100席・数百名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

通夜仮眠は5名様程度までは可能です。

但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので 

灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。

横浜市南部斎場は横浜横須賀道路朝比奈インター出口に隣接し、

地元住民に配慮して深い緑地の中に造られた静かな斎場で、駐車場も大きく取られ居り、

お車でご来場頂く方々よりは好評を頂く式場で御座います。

3 横浜市南部斎場来場の交通機関

横浜市南部斎場来場に当たりましては、

京浜急行線金沢文庫駅(特急停車駅)よりタクシ-利用で約20分(料金3000円前後)で来場頂けます。

路線バスご利用の場合は京浜急行金沢八景駅より

神奈川中央交通の大船駅行、庄戸行、上郷ネオポリス行にお乗り頂き、 

隧道東口で下車(所要時間約20分)後、斎場まで徒歩10分です。

尚、斎場までの徒歩10分間は急な登り坂となりますのでお気を附け下さい。

お車で来場の場合は、大変便利で横浜-横須賀高速道路朝比奈インター出口前となります。

4 横浜市南部斎場最寄の宿泊施設

遠方よりご参列の方々には最寄の宿泊施設として、横浜市営“上郷・森の家”が御座います。

上郷・森の家は斎場よりタクシ-で5分(料金1000円)の距離にあるご利用し易い横浜市営の宿泊設備です。

金沢八景駅周辺のホテルと致しましては“横浜テクノタワーホテル”が御座います。

ご利用料金は時期により異なりますのでホームページよりご確認願います。

横浜市南部斎場まではタクシ-で4000円前後となります。

   今回は以上です。

横浜市営の葬送施設、横浜市戸塚斎場

横浜市戸塚斎場は、横浜市民の為に最初に建造された横浜市営の葬儀式場です。

又、横浜市戸塚斎場は横浜市内では三番目建造された現存する火葬設備でも御座います。

1 横浜市戸塚斎場

横浜市戸塚斎場の開設時期は不明ですが、1939年(昭和14年)横浜市の市域拡張に伴い、

鎌倉郡戸塚町より引継がれた戸塚火葬場を前身とします。

しか し , そ の 火 葬場 は 施設 面 に 問題 ありとして,横 浜市編 入 と 同時 に ,市 は 操業 を中止 しました 。

家族葬

その当時は大岡(現在の上大岡)に火葬場が稼働して居り、

戸塚区民は大岡、又は久保山の火葬場を利用する事と成ります。

と こ ろが ,昭和十五 年 戦争 の 戦時体 制が しだ い に 強 まっ てい くな か で ,

距離的 に 遠 い 旧市域 に 所在 する 久保 町火葬場 などでの 葬送もま ま な ら な い と ,

戸塚 火葬場 の 改修 ・復 活 を要 望 す る声が戸塚区民から上がり、昭和15年操業が再開されます。

こ の 戸塚 火葬場 は ,炉数 1基 なが ら,戦中 ・戦後の 激動期 も操業 を続 け,

昭和 25 年 (1950 )に 待合棟 の 改築が 完成し ,同年 4 月か ら操業 に 入りました。

横浜市戸塚斎場
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1990年(平成2年)に式場棟が併設され、総合斎場として横浜市民のご葬儀に利用されて居ります。

横浜市戸塚斎場は戸塚区鳥が丘に位置する横浜市営の斎場で、

葬儀式場と火葬場が併設され、ぺットの火葬も可能な、駐車場の完備された、

大変便利な葬儀式場で、宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。

横浜市戸塚斎場の設備は;

火葬炉;6炉。

控室; 8室(40人用5室、20人用3室)。

葬儀式場;2ホール。

で御座います。

横浜市戸塚斎場は鳥が丘の小高い丘の上に建設されて居り、

坂道を登って正門に立ちますと、正面手前が駐車場、正面奥に火葬場、右手に式場の建物が御座います。

葬儀式場は二階建てで、1Fに第一式場、2Fに第二式場、計2式場があり、

いずれも式場も、受付・待合せロビー・お清め室・式場・親族控室・宗教家控室・トイレが配置されて居り、

席数100席数百名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

通夜仮眠は5名様程度までは可能です。

但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので 

灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。

横浜市戸塚斎場の利用料金は、故人様が横浜市民の場合は式場利用(2日間)5万円、

火葬炉利用1万2千円、火葬時の控室利用5千円と大変廉価でご利用頂けます。

戸塚斎場は古くから横浜市民に利用されている火葬場であり

ぺットの火葬は戸塚斎場でのみ可能となって居ります。

横浜市戸塚斎場への来場に当たりましては 

公共交通機関ご利用の場合は

横浜市営地下鉄線踊場駅より徒歩で15分、

JR線戸塚駅から路線バス利用であれば西口バスセンターより“戸79;弥生台駅行き”に乗車し

戸塚斎場前で下車(所要時間10分前後)、

タクシ-利用であれば所要10分(料金1500円前後)で来場頂けます。

お車で来場の場合は、横浜新道を藤沢方面に向かい、戸塚駅入り口・矢沢立体(IC)を右折、約5分となります。

遠方よりご参列の方々には最寄の宿泊施設として、戸塚駅前西口に“相鉄フレッサイン横浜戸塚”が御座います。

相鉄フレッサイン横浜戸塚は斎場までタクシ-で10分(料金1500円前後)の距離にある

ご利用し易い宿泊設備です。

   今回は以上です。

横浜市営の葬送施設、横浜市久保山斎場

横浜市民の為の葬送設備として横浜市久保山斎場が御座います。

横浜市久保山斎場は横浜市内で最っとも古くから操業されている火葬場で、開港横浜を象徴する火葬場であります。

明治8年(1875年)6月より操業が開始されました。

その主要な目的は、多くの人々が海外との往来をする中で、

死者による伝染病の拡散防止を目的とした火葬場でありました。

又、横浜市久保山斎場では、第二次世界大戦後、A級戦犯として死刑判決を受けた方々のご遺体は、

この横浜久保山斎場で荼毘に付され、東京湾に散骨されました。

尚、横浜市久保山斎場は、他の横浜市営斎場と異なり、火葬炉のみの操業で、

葬儀式場は併設されて居りません

通夜・葬儀はご自宅近く、若しくは横浜市久保山斎場に隣接する式場で執り行う必要が御座います。

1 横浜市久保山斎場

横浜市久保山斎場は、明治6年(1875年)6月、民間会社により”久保山町共葬墓地の一画に設立されました。

当時は、久保山町火葬場と呼称され、同年5月には火葬解禁の太政官布告がなされて居ります。

明治 末期 の こ の 火 葬 場の 周辺 の こ とを記 憶され て い る古 老 に よれ ば ,

火 葬場 と称 して も簡易 な 木造建 築物 で あ り、雑木林 に 囲 ま れ て い て , 付 近 は 寺 院 や墓地 の み で ,

民 家な どは ほ と ん ど無 く,山の 中 の 寂 しい火葬 場 とい う感で あっ た と 言われて居ります。

火葬場 に 通 じてい る 道路 は 狭 く ,柩 は 荷車 に 乗せ て 運 ん で 来た り,

丸太材 を組 ん で幾 人 か の 肩 で 担い で登って 来た と 言われます。

こ の 火葬 場 は,初 め民営で あ っ た もの が ,後に横浜市に 寄付 され ,

横浜 市が設営した 久保 山 の 市営墓地内に ,野焼き場程度の簡易火葬炉を 28 基 も設置して,

使用 の 便 に 供 し て い た が ,

火 葬業務 は 従前 の 民 営 であ っ た こ ろ の経 営者の 差 配 に 任 せ て い た ようで す 。

その 契約期限が 切 れ ,火葬業 務 も市 の 直営 と な っ たの は ,大正 中期 ご ろ で あ っ た よ う で あ ります。

当時は、火葬炉二十八基で 運営されて居たとされます。

炉 数が 28 基 とい うの は,現在 と比 べ て 甚 だ 多過 ぎ るの で は な い か と い う疑 問 も有りますが

こ の 時期 の 都 市 の火葬場 は, 薪 が主燃料 で ,主 と して 夜 間の み 火葬 を 行 った こ とに よ り ます。

その後、炉 の 技 術改善 や 重油 な どの 燃 料 の 変化 に よ り, 炉 数 は 漸時 減少 して まいります。

第 二 次世界大戦前に な る と, 都市火葬場 は 整備 され てゆき ,昼間の火葬が可能となって、

火葬炉の数は10 基 どま り と な っ て行きます 。

散骨

大 正 12 年の 関 東 大震 災 で ,こ の 明治 20 年 に 建 て ら れ た と い う木造建築物 の 火 葬場 は ,

壊滅的 な 被害 を受 けます。

しか も火 葬業務 は焦眉 の 急 とな り,休業は 許されません。

横浜 市 は そ の 善後策 に腐心 しますが ,

そ の窮状は、”火葬場 殃死 者算 な く遺族 は火 葬 場に 、墓 地 に搬 入 し、

無 縁 の 惨死者 は市吏員の 手に よ り て 処分 した る が 、 こ の 場合 に 於 て 火葬場 の 急施 を必要 と し、

仮火葬炉 を 設 け,一時 の 要求 を充 したれ ども棺桶 山積 し惨状言 語 に 絶 し た り” とあります。

その窮状を打開すべく、大正 15年 3 月 に は , こ の 火葬場 の 面積 1600 坪の 都 市 計画決定 が 行 わ れ 、

横 浜市 に ふ さ わ しい 近 代的火葬 場と して ,装 い も新 た に 整備 され た の は,

昭和 2 年 (1927)の こ と で ります 。

「横浜 市営 久 保町 火葬場」 と い う正 式 の名称 とな っ た の も, そ の こ ろか らで あります。

更に、重油燃料の 採用 な どに よ る 炉の 効率化 に よ り,炉数 の 減 少が み られ,

昭 和 2 年 6 月 に発行 され た 『横浜 市要覧』に 市内久保町所 在の葬儀所 は ,

鉄 筋 コ ン ク リート,屋根 銅板破風 造 の 美的構 造 に して ,

大正十五 年 七 月 の 竣工九 万九 千余 円を費 せ り.

又 火葬場 も同町 に あ り,鉄筋 コ ン ク リート平家建に して,火葬 炉十二 個を有 しt 無烟無臭の 装置 と な し,

重油を以て燃料に 充つ 。昭 和二 年七 月竣工の 予定 に して ,総経費十四 万四 千余 円の 予算 と す。と あ る 。

こ う して ,正 式 に は 昭 和 2 年 6 月 2 日 に 横浜 市へ 移管 され た と い う記録 が ある。

同時 に , こ の 新装の 建造 物 は ,関 東大震 災で 焼 失 した 建物の 位 置 よ り,

約 200m 南西 に 当 た る位 置 に 新 設 さ れ て 現在 に 至 っ て い る こと も判 明 し た 。

横浜 市 の 記録 に も, 「現建 物 (本館)は昭和二 年」 の 設立 と記載 され て い る。

横浜市の花・薔薇

こ の 久 保町 火葬 場 は , 第 二 次世界大戦 末 期 の 昭和 20年 (1945 )5 月 29 日 の 横 浜大 空襲 で は ,

奇蹟的 に 戦 火を免 か れ ,戦後 を迎 えます。

敗戦 直前の 久 保町火葬 場 に つい て ,一市民 の 思 い 出 を 記 し た記録 が御座います;

”霊柩車 な ど も ちろ ん な か っ た。お 父 さん と お 兄 さん が ,リヤカ ーに 薪 を積 み ,お 母 さ んを乗 せ て ,

久 保山の 火葬場 に行った。

当時 は薪 をもっ て 行か な けれ ば,火葬 して もら うこ とも出来 な か っ た の で あ る 。

そして、現在の横浜市久保山斎場の設備は;

所在地;横浜市西区元久保町3-1

火葬炉;電気炉12基、

控室;12室、

駐車場;80台、

で運営されて居ります。

   今回は以上です。


横浜市民の葬儀・横浜市都筑区

横浜市都筑区は横浜市内の北部に位置し、人口21万5千人・8万7千世帯が居住する、

サクラソウを区の花と制定した、都市と農業が調和した街です。

横浜市都筑区民の方の葬儀式場と致しましては、横浜市営であれば横浜市北部斎場、

ご自宅の近くをご希望であれば長徳寺観照堂(私営)のご利用がお勧めです。

1 横浜市都筑区

横浜市都筑区は、平成6年11月6日、港北区・緑区の分割により誕生しました。

横浜の北西部一帯は、奈良時代から昭和14年まで「都筑郡」と呼ばれていました。

「都筑」の名称は、公募により以下の意味を込めて命名されました。

①広く地域の人に定着している由緒ある地名を将来に向けて大切にする。

②奈良時代から続く歴史的な地名にちなみ、これからのまちづくりが新しい「都を筑(築)く」。

尚、都筑区区民の平均年齢は40.49歳(横浜市平均 44.72歳)で 

市内では最とも平均年齢の若い区となって居ります。

都筑地区の歴史は古く、1万年前には人の居住が認められ(花見山遺跡)、

6千年前には中央部まで海が入り込んでいました(折本貝塚、茅ヶ崎貝塚)。

紀元1世紀にはこの地で稲作が始まり、7世紀に武蔵国都筑郡が制定されたと考えられます。

都筑郡の文字が初めて有史に出てきたのは、万葉集20巻の中の

都筑郡の防人(さきもり)の歌(755年)によります。

中世には北条家の所領となり、江戸期は幕府直括領で東海道の脇街道・

中原街道が制定され佐江戸宿などが出来ます。

廃藩置県後の神奈川県都筑郡は、現在の旭区・緑区・青葉区・都筑区の全域と 

保土ヶ谷区・港北区・瀬谷区・川崎市麻生区の一部を含む地域でしたが、

昭和14年に横浜市と川崎市に編入され都筑郡の名は消滅します。

横浜市に編入された区域は港北区となり、昭和44年に緑区として分区され、

更に平成6年港北区と緑区の一部が分区されて現在の都筑区と成りました。

都筑区は奈良時代から昭和14年まで続いた都筑郡と言う歴史ある名称を引き継いだ区で、

永らく続いた農業の街に、近年宅地が造成され現在の都筑区があります。

農業としては小松菜の生産量は日本一であり、江戸時代に作られた”川和の菊”は有名で、

江戸期の著名人から賞賛されました。

かつて、住む人の多くは農業を営んでいましたが、昭和30年代には鶴見川沿岸への工場の進出が始まり、

働く場所として大勢の人々が通うようになりました。

また、昭和40年からは港北ニュータウンの開発が進められ、自然を生かした緑の環境や計画的に整備された道路、

身近な公共公益施設などの整備が進みました。

人口は、区誕生から現在までに約10万人増え、現在は21万人を超えるまでに成長しています。

子育て世代を中心とした人口構成となっており、横浜市内で最も平均年齢の低い区となっています。

以前から住んでいた人々と移り住んできた人々の間にも新たなコミュニティが生まれ、

多様な活動が展開されるようになりました。

休日には、大型の商業施設での買物を楽しみに区外から足を運ぶ人も増えています。

このように、地域との関わり方に、住む、働く、訪れる、交流すると多様性があるのが都筑区の特徴です。

また、計画的な土地利用がなされている港北ニュータウンが区域の約半分を占めており、

大部分は住宅や商業施設として利用され、公園・緑道や保存緑地などが計画的に整備されています。

ニュータウン計画の一環で創設された農業専用地区のある区北西部や早淵川沿い、区中南部、

鶴見川沿いの市街化調整区域では、農地や樹林地が残されています。

また、鶴見川沿いには市内でも有数の工業地域が広がっています。

横浜市都筑区では、平成21年都筑区制15周年を記念し、区民投票により、

サクラソウが都筑区の花として選定されました。

都筑区では、サクラソウを色々な機会に活用していき、多くの区民に親しまれて居ります。

都筑区内を通る交通機関としては横浜市営地下鉄のブルーラインとグリーンラインの2線が区民の足となって居り、

道路としては第三京浜(国道466号線)と国道246線が主要な道路です。

尚、都筑区内の第三京浜ICは港北ICで、都筑ICは港北区内に有り、注意が必要です。

都筑区での見どころは、大塚・歳勝土遺跡公園、東方天満宮、都筑中央公園、横浜市歴史博物館、

横浜国際プール等が御座います。

2 横浜市都筑区の葬儀式場

都筑区民の方のご葬儀をお考えのご喪家には、 

市営の葬儀式場をご希望であれば横浜市北部斎場(緑区)のご利用をお薦めします。

北部斎場は東名高速横浜町田ICの裏手に位置する、葬儀式場と火葬炉を併設した、

葬儀式場-火葬場間で移動手段を必要としない、ご喪家・会葬者の方々より好評を頂く葬儀斎場です。

又、駐車場スペースも十分とられて居り、お車でお越しの方々にも不便は御座いません。

お通夜・ご葬儀の施行をご自宅近くでお考えであれば、

ひかりの杜では、慈恩寺会館(私営)、長徳寺観照堂(私営)他 

の葬儀式場をご葬家様のご要望に合わせてご紹介させて頂きます。

蘭の花

1)長徳寺観照堂

弘願山長徳寺は横浜市都筑区牛久保西に位置する浄土真宗本願寺派の寺院で、

本堂に隣接して観照堂が建立されて居ります。

観照堂は長徳寺お檀家様の為の設備では有りますが、お檀家様以外にもご利用を許して居り、

宗旨・宗派を問わず利用が可能で、林に囲まれ静かな佇まいの、都筑区民の方には大変便利な葬儀式場です。

ご火葬は横浜市北部斎場をご利用頂き、マイクロバスで往復されるのがお勧めです。

長徳寺観照堂は横浜市営地下鉄センター北駅より徒歩で15分の都筑区内に位置する私営の式場です。

長徳寺境内に建てられた観照堂は総二階の建物で、宗旨・宗派に係わらずご利用出来る形となって居ります。

堂内は1階にセレモニーホール、トイレ・洗面場所が、

2階には、待合せロビー、和風客室(28帖)、洋風客室(お清め室32帖)、親族控室(14帖)、

トイレ・洗面所が配置されて居ります。

正面入り口より入りますと、受付、待合せロビー そしてセレモニーホールと続く形となって居ります。

セレモニーホールでは式場内席数100席 参列者500人規模の葬儀を営む事が可能で、

通夜式の後のお清め室は2階の洋風客室をご利用頂く形となります。

尚、観照堂をご利用頂いた場合の火葬場はマイクロバスをご利用頂き、

横浜市北部斎場(横浜市営)をご利用頂くのが一般的です。

弘願山長徳寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、開山後500年と伝えられて居ります。

ご本尊は阿弥陀如来です。

  今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市青葉区

横浜市青葉区は横浜市内の北西部に位置し、人口31万人、13万5千世帯が居住する、

ナシを区の花と制定した、東京に勤務・通学する方々のベットタウンとなる街です。

青葉区でご葬儀をお考えの青葉区民の皆様には、

公営の葬儀式場をご利用頂くのであれば横浜市北部斎場(緑区)がご利用頂けます。

私営の葬儀式場と致しましては、徳恩寺あおば浄苑、他ご希望に合わせてご紹介させて頂きます。

1 横浜市青葉区

横浜市青葉区は、横浜市の北西部に位置する、中央部に一級河川鶴見川が流れ、

その流域には“ハマナシ”生産を中心とした農地が広がり、その他の丘陵を住宅地とする街です。

青葉区は平成6年11月6日に行政区再編成を経て、港北区や緑区の一部から分区して誕生した区です。

面積は、35.06平方キロメートルで、市内では、戸塚区に次いで2番目の広さとなっています。

東は都筑区、西は町田市、南は緑区、北は川崎市に接しています。

地形的には「丘の横浜」と呼ばれるとおり、丘陵が多く、また、区の中央部を鶴見川が流れており、

これに沿って田園風景が広がる緑豊かな景観が青葉区の特色です。

青葉区の地名は;

分区の際に区民の公募により命名されました。

平成20年には男性の平均寿命が日本一(81.7歳)の区とも成りました。

青葉区域の歴史は古く、弥生時代の朝光寺原遺跡や古墳時代の稲荷前古墳、

市ケ尾横穴古墳群などさまざまな遺跡が点在し、歴史の古さを物語っています。

江戸時代には、東海道の脇往還として大山街道の通った荏田周辺はにぎわいを見せましたが、

昭和30年代後半の高度成長期を迎えるまで、その周辺は静かな農村地帯でした。

昭和41年の田園都市線の開通を機に、急激な人口増加が始まり、昭和44年には緑区が誕生しましたが、

当時の青葉区域の人口は5万人程度でした。

その後も、大規模な宅地開発が進み、昭和61年には緑区役所北部支所が開設され、

平成6年11月6日に青葉区が誕生しました。

平成16年11月には、青葉区制10周年を記念して、区民の皆様の投票をもとに

区の木を”ヤマサクラ”、区の花を”ナシ”と制定しました。

尚、ナシの原産地は、東アジア及びヨーロッパ、開花時期4月。大変美しい白い花を咲かせます。

果物のナシは青葉区で市内有数の生産高があり「ハマナシ」の名称で知られています。

青葉区内の交通機関としては、昭和41年開通の東急田薗都市線、昭和42年開通の東急こどもの国線、

そして、平成5年開通の横浜市営地下鉄ブルーラインが青葉区民の足となって居ります。

主要な道路としては、東名高速道路(平成10年横浜青葉IC開通)、

国道246号線、横浜市内環状4号線が青葉区民に便を供して居ります。

横浜市青葉区の見どころとしては、昭和41年開園の根強い人気を持つ“こどもの国”、

寺家ふるさと村、広い社叢林を持つ住吉神社、木造千手観音立像(平安時代作)を本尊とする真福寺、

400年前に創建されたとされる満願寺等が御座います。 

2 横浜市青葉区の葬儀式場

青葉区でご葬儀をお考えの青葉区民のご喪家様には 

公営の葬儀式場をご利用頂くのであれば横浜市北部斎場(緑区)をお薦めします。

横浜市北部斎場は東名高速横浜町田ICに隣接して居り、葬儀式場と火葬場を併設した、

葬儀式場-火葬場間で交通手段を必要としない、ご葬家・ご会葬者の方々に好評を頂く葬儀式場です。

お通夜・ご葬儀の施行をご自宅近くでとお考えのご葬家様には 

ひかりの杜より徳恩寺あおば浄苑、他 ご希望に合わせて葬儀式場をご紹介させて頂きます。

又、ひかりの杜では、ご葬儀での祭壇を花祭壇にお勧めして居り、

故人様をお偲びし、故人様がお好きだったお花を、ご希望のアレンジでお創りする事もお受け致して居ります。

横浜市青葉区の区の花は、平成16年区制10周年を記念して青葉区民の公募により“ナシの花”と制定されました。

その花言葉は“愛情”ですが、開花の季節となる4月・5月には 

祭壇にお飾りしたご遺影に白い花を咲かせた梨の枝をかかげさせて頂く事も御座います。

1)徳恩寺 あおば浄苑

あおば浄苑は高野山真言宗摩尼山延壽院徳恩寺により運営される私営の葬儀式場で宗派に関わらずご利用頂けます。

あおば浄苑は東急田薗都市線、若しくはJR横浜線の長津田駅からこどもの国線に乗り換え、

最初の駅であります恩田駅から徒歩で二分に位置する私営の斎場で、相模の田薗風景が残る地に建立された、

落ち着いた雰意気の大変良い斎場です。

あおば浄苑は徳恩寺敷地内に別棟として建てられおり、宗旨・宗派に係わらず

大、小のホールを利用出来る形となって居ります。

小高い丘の中腹に建てられて居り、徳恩寺を正面に見て右手の坂道を登って頂くと

あおば浄苑の正面入り口となります。

建物は二階建てとなって居り、

 一階には受付・待合せホール・大ホール・小ホール・パントリーが配置され、

 二階には和室控室(3室)迎賓室が配置されて居ります。

 大ホール内は席数50席・参列者数百人規模の葬儀を営む事が出来、

 小ホールでは15席の家族葬を営む事が可能となって居ります。

 二階の和室はご遺族の待合室としてご利用頂けると共に通夜仮眠の部屋としても使用可能です。

 5名前後の通夜仮眠が出来る様になって居ります。

尚、あおば浄苑をご利用頂いた場合の火葬場はマイクロバスをご利用頂き、

緑区内の横浜市北部斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市緑区

横浜市緑区は横浜市内中央北側に位置し、人口18万3千人・8万1千世帯が居住する、

区の花をシラン(紫蘭)と制定した、区内の山林・公園の緑・農地が52%を占める緑の多い街です。

緑区でご葬儀をお考えの区民の方々には、

ご利用頂ける区内の葬儀式場、及び火葬場として横浜市営の横浜市北部斎場が御座います。

1 横浜市緑区

横浜市緑区は、昭和44年(1969年)10月1日の行政区再編成により港北区を分割して新設されました。

平成6年(1044年)11月6日の行政区再編成により、一部の地域を青葉区・都筑区とし、現在の区域となりました。

区名は、一般の公募で、緑区・北区・川和区・都筑区・青葉区等の中から選定して、

緑を美しく保存したいという願いを込めて決定しました。

緑区は、横浜市の北西部に位置し、鶴見川とその支流の恩田川に沿うように、東西に細長い地形となっております。

緑区の中央部に近い三保・新治地区の樹林地は、横浜市内でも最大規模であり、

山林や公園の緑、農地などが緑区の面積に占める割合(緑被率)は、

面積76.09平方キロメートルのおよそ52パーセントで、横浜市18区内中、第一位であります。

横浜市緑区は、「こもれび踊るふれあいのまち、豊かな自然に恵まれ、いきいきと暮らし集えるまち」

をまちづくりの目標として掲げて。

区内の緑や水といった自然の資源を生かした拠点を回廊で結ぶ「緑と水の回廊構想」を進めて居ります。

この地域は、古くは武蔵国都筑郡の農村が散在する、主として山林でした。

江戸時代に入り、東海道の脇街道として中原街道が造られ、更に大山参りの流行と共に大山街道が整備され 

長津田宿が宿場町として繁栄します。

明治に入って後は、明治41年(1908年)開設の私営横浜鉄道沿線の農村地帯となります。

昭和14年都筑郡の主要部は横浜市に編入され港北区となります。

そして、昭和44年の行政区再編成により港北区より分区して緑区となります。

更に平成6年の行政区再編成により青葉区と都筑区が分区して現在の緑区となりました。

尚、緑区は東京工業大学、東洋英和女子学院大学、昭和大学、横浜商科大学、横浜創英短期大学のキャンパスを持つ

学園都市でもあります。

緑区は、中央を鶴見川が西から東に向かって流れ、その南側は丘陵地で宅地として利用され、

北側はIR横浜線鴨居駅と中山駅を中心として工業団地を持ち、それ以外を農地とした街で、

横浜市緑区の梨畑では浜なしと呼ばれる独自ブランドが育成されて居ります。

横浜市緑区の見どころと致しましては緑を楽しむ公園として、

県立四季の森公園、三保市民の森、新治市民の森、鴨井原市民の森、他多くの公園が御座います。

神社仏閣としては、558年創建の鴨井杉山神社、大石神社、1449年創建の林光寺、

桜や四季の花々が楽しめる萬蔵寺(まんそうじ)など。

又、四季おりおりの風景や夏の蛍が楽しめる、新治里山交流センター、

JSAT横浜衛星管制センターなども御座います。

緑区内の交通機関としては、明治41年開通の横浜鉄道(現在のJR横浜線)、

昭和41年開通の東急田薗都市線、横浜市営地下鉄グリーンライン、

そして令和5年4月には、東急新横浜線、相鉄新横浜線が開通して区民の足となって居ります。

通夜式の服装

2 横浜市緑区民の葬儀式場

緑区でご葬儀をお考えのご喪家の方々には

ご利用頂ける区内の葬儀式場、及び火葬場として、横浜市営の横浜市北部斎場が大変便利です。

又、北部斎場の葬儀式場予約が多数でご希望の日程で予約出来ない場合は 

ひかりの杜より大林寺会堂、他の私営葬儀式場をご紹介させて頂き、

お通夜・ご葬儀は私営式場で、ご火葬は横浜市北部斎場で執り行う事も可能です。

尚、ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は宗教・ご宗派に係わらずご利用頂けます。

又、仏式でのご葬儀をご希望で、菩提寺が遠方等の為、ご導師のご都合が付かない場合などでは

ひかりの杜より信仰されるご宗派の僧侶をご紹介する事も可能です。

ひかりの杜では、神道のご神官、キリスト教の司祭様・牧師様、他の宗教の宗教者も紹介させて頂いて居ります。

横浜市北部斎場

1)横浜市北部斎場

横浜市営斎場の一つである横浜市北部斎場は緑区長津田町に位置する葬儀式場で、

葬儀式場と火葬場が併設され、大駐車場を備えた大変便利な葬儀式場で御座います。

又、式場から火葬場への移動は徒歩5分と、マイクロバス等の移動手段を必要と致しません。

横浜市北部斎場は正門を入りますと直ぐにトンネルとなり、

トンネルを抜けると前に駐車場、正面奥に火葬場、右手に式場の建物が配置されて居ります。

葬儀式場は4式場あり、

いずれも式場も、受付・待合せロビー、式場、お清め室、親族控室、宗教家控室、シャワー室 トイレが備えられ

席数100席・数百名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

通夜仮眠は5名様程度までは可能です。

但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので 

灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市旭区

横浜市旭区は横浜市内の中央西側に位置し、人口24万3千人・10万8千世帯が居住する、

“あさがお”を区の花と制定した、横浜中心部や京浜工業地帯に勤務する方々のべツドタウンとなる街です。

旭区民の方々にご利用頂く葬儀式場と致しましては、私営であれば横浜市北部斎場、

私営であれば旭斎場、成願寺会館、他が御座います。

1 横浜市旭区

横浜市旭区は第二次世界大戦終了後、相模鉄道の沿線で始まった宅地開発と、それに伴う人口の激増により、

昭和44年保土ヶ谷区の一部を分区して誕生しました。

区名について、昭和43年11月から12月にわたって「広報よこはま」で公募し、選考委員会で検討がなされました。

区名については、当初、一定地域の住民による集団応募等もなされ、「鶴ヶ峰」に集中しましたが、

他地区からそれに反対する集団応募が「西保土ケ谷」「港西」として出されました。

このように上位3つは地域の対抗意識的現象を生み、さらに「鶴ヶ峰」の「峰」は字が統一しにくく、

各種登録等に混乱を来たす恐れがあります。

また、「西保土ケ谷」「港西」は西区、保土ケ谷区、港北区等との紛らわしさがあります。

これにより、「富士見」「旭」「緑」が候補となりますが、

これらのうちで字画数が一番少なく、字体も簡潔明瞭であるため「旭区」に決定しました。

旭区内には古くより神奈川県運転免許試験場、県立ガンセンタ-、県立公文書館などが所在し、

県行政の一助を担って居ります。

尚 横浜市内で平均年齢の最とも高い区でも御座います。

旭区地域の歴史は古く、紀元7世紀に制定された武蔵国都筑郡の一部として記され、

鎌倉時代にはこの地で鶴ヶ峰の乱(1205年)が起こり、勇将畠山重忠が討死して居ります。

明治4年の廃藩置県により神奈川県都筑郡となり、明治22年の市町村制施行により

この地は都岡町と二俣川町に統合されます。

昭和14年横浜市に編入され、保土ヶ谷区の一部となります。

昭和21年には鶴ヶ峰に県営の住宅が建築され、その後40年代まで宅地の開発、団地の造成が進みます。

そして、人口の激増に伴い、昭和44年保土ヶ谷区より分区して現在の旭区の形が出来上がります。

旭区は横浜中心部まで7Km、東京都心まで31Kmと、通勤・通学には便利な距離の街です。

尚、旭区は公園面積は市内2位、病院一般病床数市内2位の街でも御座います。

旭区花 朝顔

旭区内の交通機関としては、大正15年厚木-二俣川間で開業した

神中鉄道(現在の相模鉄道、二俣川-横浜間の開通は昭和8年)

と昭和51年に開通した相模鉄道いずみの線が区民の足となり、

主要な道路は国道16号線(その一部は保土ヶ谷バイパス)と横浜市内環状2号が区民へ便を供して居ります。

尚、旭区内の道路整備率はまだ十分では有りません。

旭区の見どころとしては、毎年6月22日に畠山重忠の慰霊祭を行う薬王寺、

源義家、頼朝が尊崇したと言われる不動明王を本尊とする白根神社(白根不動とも通称される)、

木造大日如来坐像(室町時代の作)を本尊とする長源寺、

源氏ほたるが見られるこども自然公園、四季折々のお花が見られる追分市民の森、

そして、よこはま動物園ズーラシア、こども自然公園等が御座います。

よこはま動物園ズーラシアは日本最大級の動物園です。

人気動物のオカピを始め、様々な動物が飼育されています。

特に「アフリカのサバンナ」は見どころの一つとなっています。

また、シーズンごとに動物たちのことを楽しく学べるプログラムも用意してあります。

そして、こども自然公園は、横浜の中でも最大級の面積を持つ公園で、

大池という池を中心に広がり、通称「大池公園」とも呼ばれます。

万騎が原ちびっこ動物園、とりでの森、青少年野外活動センター、バーベキュー広場、野球場、

教育水田など、数多くの施設が整っているため、他の市町村から団体や個人でやって来るお客さんも多いようです。

また、旭区の夏のイベント「横浜旭ジャズまつり」など、ビッグイベントの会場になることも多いこの公園は、

よこはま動物園ズーラシアと並んで、旭区のシンボルでもあります。

花祭壇

2 横浜市旭区の葬儀式場

横浜市旭区でご葬儀をお考えの旭区区民の皆様には 

横浜市営の式場のご利用をご希望の場合は、お近くでは横浜市北部斎場(緑区)が御座います。

横浜市北部斎場は東名高速横浜町田ICに隣接し、葬儀式場と火葬場を併設した

葬儀式場-火葬場間の移動に車輛等を必要としない、

ご利用頂いたご喪家様・会葬者の皆様方に好評を頂いている葬儀式場です。

お通夜・ご葬儀の施行をご自宅近くでとお考えのご葬家様には

ひかりの杜より旭斎場(私営)、浄願寺会館 他 ご希望に合わせて葬儀式場をご紹介させて頂きます。

ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は、

仏式・神道・キリスト教・他のいずれの宗教でもご利用頂く事が可能です。

1)旭斎場

旭斎場は横浜市旭区下川井町に位置する私営の葬儀式場で、家族葬など小規模のご葬儀を予定されるご葬家が、

横浜市営斎場の予約を中々取れない場合などにご利用頂ける便利な式場です。

葬儀式場の利用料金も7万円(税別)と、他の私営式場に比較して廉価でご利用頂けます。

旭斎場は相鉄本線三ツ境駅から路線バスで所要10分、

追分市民の森や矢指市民の森に近接した緑の中の静かな私営の葬儀式場です。

又、お車で来場の場合は保土ヶ谷バイパス下川井インターより6分と大変交通の便の良い式場でもあります。

旭斎場は受付、式場、お清め席がワンフロア―の中に配置されたコンパクトな式場で 

宗旨・宗派に係わらずご利用頂ける形となって居ります。

式場内席数は30席、参列者70~80名規模の葬儀を営む事が出来ます。

旭斎場ではご遺体の保管設備が用意されて居り、

ご遺体をご自宅に安置出来ない場合でも 斎場内に安置する事が可能です。

旭斎場はご利用費用が廉価な事から、家族葬を営まれるご葬家様から好評を頂いている斎場で御座います。

尚、旭斎場をご利用頂いた場合の火葬場はマイクロバスをご利用頂き、

近所の横浜市北部斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市瀬谷区

横浜市瀬谷区は横浜市内の西端に位置し、人口12万2千人 5万3千世帯が居住する、

“アジサイ”を区の花と制定した、農業、宅地、そして米軍通信隊の街です。

横浜市瀬谷区には南北に5本の川が流れ、その肥沃な農地を基に米と布を産する街です。

横浜市瀬谷区でご葬儀をお考えの瀬谷区区民の皆様には 

公営の葬儀式場のご利用をご希望の場合は、お近くでは横浜市北部斎場(緑区)のご利用をお勧めします。

1 横浜市瀬谷区

横浜市瀬谷区内には、南北に5本の川が流れ、その肥沃な農地を基に米と布を産する街でしたが、

第二次世界大戦終戦後、瀬谷区の15%の土地は2015年6月30日まで

米軍に接収され極東アジアの通信基地として使用されて居りました。

瀬谷区は昭和44年戸塚区の一部が分区されて誕生しました。

瀬谷区の地名は古くより使用されていた瀬谷村から命名されました。

セヤは「狭谷」で、「狭い川瀬の小谷のある地」が地名の由来と言われています。

「世野」という説もあります。(日本地名語源辞典から)

瀬谷区域の歴史は古く、2万年前の旧石器時代の遺跡が2ケ所、縄文時代の遺跡が50ケ所、

弥生時代の遺跡が9ケ所、古墳時代の遺跡が25ケ所 瀬谷区内で発掘されて居り、

出土品の一部は東京国立博物館にも収められて居ります。

鎌倉時代には鎌倉街道の追分として上瀬谷、中瀬谷、下瀬谷で構成されて居り、

江戸時代には中原街道が通り問屋場が設けられ、将軍家のお鷹場も有りました。

明治となり、この地区には瀬谷村、宮沢村、阿久和村、二ツ橋村が有りましたが、

明治34年の町村合併により鎌倉郡瀬谷村と鎌倉郡中川村となります。

この2村が昭和14年横浜市戸塚区に編入されます。

そして、昭和44年分区され現在の瀬谷区となりました。

瀬谷地区では明治中期から昭和30年頃まで養蚕が盛んで、

養蚕農家の為の金融機関瀬谷銀行(後に鎌倉銀行に吸収)も設立されて居ります。

瀬谷区は市内18区中、第2位の農地面積割合※を誇るため、

四季を通じてさまざまな農畜産物を味わうことができます。

そして、平成19年度から瀬谷区では、地元で愛され、親しまれている名品や名店を「瀬谷の逸品」として認定し、

商店街の活性化を図るとともに、瀬谷の魅力を広く発信しています。

(現在、22商品・16店舗が「瀬谷の逸品」として認定されています。)

瀬谷区の見どころとしては、桜並木として通信基地内の海軍道路、三ツ境駅前の野境道路、

和泉川土手などが御座います。

古跡としては、鎌倉時代に鋳造されたとされる鐘を持つ妙光寺、968年に創建されたとされる熊野神社。

そして、瀬谷の風土や農村生活を体験出来る長屋門公園、瀬谷の自然に親しむ瀬谷市民の森等が御座います。

瀬谷区の花は、昭和59年区制15周年を記念して、”アジサイ”と制定されました。

制定にあたっては、瀬谷区にふさわしいものを選ぶため、広く区民の人気投票により選ばれて居ります。

区の花“アジサイ”は、誰でも簡単に親しめ、広く普及しやすいことから選ばれました。

花祭壇

2 横浜市瀬谷区の葬儀式場

瀬谷区でご葬儀をお考えの瀬谷区区民の皆様には、

横浜市営の葬儀式場のご利用をご希望の場合は、お近くでは横浜市北部斎場(緑区)が御座います。

又、ご自宅近くの式場での通夜・葬儀をご希望の場合は私営旭斎場のご利用をお勧め致します。

いずれの式場も宗旨・宗派を問わずにご利用頂く事が可能です。

横浜市北部斎場火葬場
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1)横浜市北部斎場

横浜市北部斎場は緑区長津田町に位置する横浜市営の斎場で、

瀬谷・旭・青葉・都筑・港北・緑・保土ヶ谷区民のご葬家でご利用頂ける葬儀式場です。

横浜市北部斎場には火葬場が併設され、大駐車場も備えた大変便利な葬儀式場で、

宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。

又、葬儀式場から火葬場への移動は徒歩が可能で、マイクロバス等を必要と致しません。

横浜市北部斎場は正門を入りますと直ぐにトンネルとなり、

トンネルを抜けると前面に駐車場、正面奥に火葬場、右手に式場の建物が配置されて居ります。

葬儀式場は4式場あり、いずれも式場も受付・待合せロビー・式場・お清め室・親族控室・

宗教家控室・シャワー室・トイレが配置されて居り、

席数100席 500名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

通夜仮眠は5名様程度までは可能です。

但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので 

灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。

北部斎場は建物も比較的新しく駐車場も大きく取られ居り、

ご利用頂いたご葬家様、会葬の皆様方からは好評を頂く式場で御座います。

2)私営旭斎場

旭斎場は横浜市旭区下川井町に位置する、

追分市民の森や矢指市民の森に近接した緑の中の静かな私営の葬儀式場です。

式場は宗旨、宗派に拘わらずご利用頂く事が可能であり、費用もご利用し易い設定となって居ります。

又 同式場には遺体安置所も併設されて居り、ご遺体をご自宅に安置出来ないご遺族様の助けとなって居ります。

旭斎場へは相鉄本線三ツ境駅下車、

その後”若葉台中央行”路線バスを利用頂いて”カントリークラブ前”で下車、徒歩1分で到着します。

路線バスの所要時間は約10分です。

又、お車で来場の場合は保土ヶ谷バイパス下川井インターより約6分と大変交通の便の良い式場でもあります。

旭斎場は受付、式場、お清め席がワンフロア―の中に配置されたコンパクトな式場で 

式場内席数は30席 参列者100名規模の葬儀を営む事が出来ます。

又、別棟に4.5畳の僧侶控室が容易されて居り、

この部屋を通夜仮眠の部屋としても利用出来る形となって居ります。

旭斎場ではご遺体の保管設備が用意されて居り、

ご遺体をご自宅に安置出来ないご葬家様の為に斎場内に安置する事が可能です。

旭斎場はご利用費用が廉価な事から、家族葬を営まれるご葬家様から好評を頂いている斎場で御座います。

尚、旭斎場をご利用頂いた場合の火葬場はマイクロバスをご利用頂き、

所用10分前後の横浜市北部斎場(市営)をご利用頂くのが一般的となります。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市泉区

横浜市泉区は横浜市内の南西部に位置し境川を挟んで大和市と藤沢市に接する、

人口15万1千人・6万4千世帯が居住する、区の花を“あやめ”と制定した、緑豊かな農業と住宅の街です。

泉区民の為の葬儀式場と致しましては、公営であれば横浜市戸塚斎場、

ご自宅近くをご希望であれば浄蓮会館、他の私営式場をお勧め致します。

1 横浜市泉区

横浜市泉区は昭和61年戸塚区の一部が分区して誕生しました。

泉区は横浜市の南西部に位置していて、市内では、旭区・瀬谷区・戸塚区と隣接しています。

また、市境を流れる境川・相沢川を挟んで、大和市と藤沢市と接しています。

泉区の東端は緑園七丁目、西端は上飯田町で、東西の距離は約6.0キロメートル、

南端は下飯田町、北端は緑園七丁目で南北の距離は約7.8キロメートルです。

藤沢市・大和市と接する市境には境川・相沢川が流れ、区内には和泉川・阿久和川・宇田川が流れています。

泉区内を流れる3本の河川はいずれも境川の支流で、泉区はすっぽりと境川の流域に含まれています。

河川以外に地下水脈も豊富で、湧水の数が多く、水が豊かなところが泉区の特徴です。

地形的には、なだらかな丘陵地に河川が段丘を形成し、変化を与えています。

泉区の区名は、その中心となる和泉町を基に、

公募により泉が湧き出る様に若い活力を生み出しながら発展する街を願い命名されました。

又、泉区は市街化区域の割合が最小で、耕地面積は最大の区であり、

“ゆめはま2010プラン”ではやすらぎと潤いあふれる田薗文化都市と位置ずけられ開発が進められて居ります。

泉区の地域は旧石器時代の遺跡も発掘されて居り、1万年前には人の居住が確認されており、、

平安時代後期には水田が営まれていたと考えられる古い歴史を持つ街です。

区内を流れる境川や和泉川、阿久和川に沿って縄文時代や弥生時代の遺跡が発掘されています。

そして、その住居跡や土器・石器によって、区内にあった先史時代の文化を知ることができます。

平安時代には相模国鎌倉郡84ケ村の一部でした。

鎌倉時代に入り、鎌倉七切通しの西の道(上の道)が泉区内を通って居りました。

古文書では、鎌倉鶴岡八幡宮所蔵の文永7(1270)年12月のものに岡津の地名が見え、

ついで永仁6(1298)年の文書に飯田の地名が記されています。

これにより、両地域とも水田地帯として早くから開けていたことがわかります。

ちなみに鎌倉幕府成立前後、飯田には飯田五郎家義という武士が住んでいて、

「平家物語」や「吾妻鏡」にも、その名前を見ることができます。

江戸時代に入ると、上飯田は佐野、下飯田は筧、和泉は松平、岡津は黒田、阿久和(新橋)は安藤、

中田は石巻といった旗本の領地となります。

石巻の祖は小田原北条氏に仕えた有力な武士・五太夫康敬であり、

江戸時代初期に岡津にいた彦坂小刑部元正は代官頭の一人でした。

明治の廃藩置県により神奈川県鎌倉郡となり、

明治22年の町村合併により鎌倉郡中川村と中和田村に統合されます。

明治に入ってからは養蚕が盛んとなる街でした。

昭和に入り、戸塚駅を中心として建てられた軍需・民間工場の社宅として、

戦争末期には疎開地として、戦後は戸塚を中心とした宅地化により人口は増加を続け、現在の泉区となります。

昭和14年横浜市に編入され戸塚区の一部となります。

そして、昭和61年中川地区と中和田地区の岡津・新橋両町が分区して泉区と成りました。

泉区内の交通機関としては、平成11年に延伸した相模鉄道いずみの線 

と横浜市営地下鉄ブルーラインが区民の足となって居ります。

泉区内の見どころとしては、上飯田・下飯田・俣野から村岡・深沢・化粧坂を経て鎌倉へ通じる「鎌倉道」は、

「鎌倉上の道」としてよく知られています。

弘安5年(1282)、身延山を出て、生涯最後の旅に出た日蓮が、池上で入寂(にゅうめつ)し、

荼毘(だび)に付され、遺骨が身延山へ向かう途中、飯田に泊まり、

その跡に本興寺が建てられたという日蓮ゆかりの道が御座います。

江戸期には、江ノ島・鎌倉への参詣の道「鎌倉道(藤沢八王子道)」として、

また、暮らしの道として賑わいました。

この古(いにしえ)の街道には、本興寺や飯田神社などの寺社をはじめ、史跡・石造物などが多くあり、

私達に歴史を語りかけてくれます。

また、せせらぎ緑道や、上飯田西公園などの憩いの場もあり、

桜の美しいいずみ桜広場、自然が豊かな天王森泉公園、いずみ歌舞伎等が御座います。

2 横浜市泉区の葬儀式場

横浜市泉区でご葬儀をお考えの泉区民の皆様には 

横浜市営の葬儀式場のご利用をご希望であれば最寄の葬儀式場として横浜市戸塚斎場が御座います。

戸塚斎場の式場予約が混雑している場合は少々遠方にはなりますが 

横浜市北部斎場(緑区 火葬場併設)、横浜市南部斎場(金沢区 火葬場併設)もご利用頂けます。

又、お通夜・ご葬儀をご自宅近くでの施行をご希望であれば、

浄蓮会館。他の私営の式場で通夜・ご葬儀を行い、ご火葬を市営火葬場で行う事も可能です。

ひかりの杜ではご要望に合わせた葬儀式場をご紹介させて頂きます。

ひかりの杜では、ご葬儀の式典でお使い頂く祭壇は花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。

ご利用頂いた花祭壇のお花は全て故人様のご遺体をお飾りしてお棺の中にお納め致します。

又、故人様を偲び、故人様が好きだったお花をお好みのデザインで祭壇とする事も可能です。

泉区の区の花は平成4年区制5周年を記念して公募により水と緑をイメージした“あやめ”と制定されました。

あやめの花言葉は“良き便り”、“吉報”ですが

季節となる5月-7月には花祭壇の周囲を飾るアクセントのお花として使わせて頂く事も御座います。

1)浄蓮会館(私営)

浄蓮会館は横浜市泉区岡津町に位置する、私営の葬儀式場で宗旨・宗派に係わらずご利用頂く事が出来ます。

浄蓮会館は横浜市戸塚斎場から車で5分の距離に有り、

横浜市戸塚斎場の式場が混雑していた場合には代わりの式場として利用出来る便利な式場でも御座います。

同式場は会葬者数百名の葬儀式場と共に、10名以内での家族葬が執り行える小式場、

法要の為の会場も用意されて居り、葬送儀礼に係わる全ての式典を催す事が出来る式場です。

浄蓮会館は県道401号瀬谷柏尾道路に面して建造されて居り、

入口前面が駐車場、右手に本館葬儀式場、左手に別館家族葬式場が配置されて居ります。

又、本館右手には浄蓮茶房がオープンして居り、早めにご来場頂いた方々へのお休みの場としてもご利用頂けます。

本館葬儀式場は、入口を入りますと、受付・待合せロビーとなり、左手に席数40席(会葬者数百名)の葬儀式場、

右手にお清め室、僧侶控室、親族控室・通夜仮眠室が配置されて居ります。 

又、浄蓮会館にはご遺体の安置設備が完備されて居り、

ご遺体をご自宅に安置出来ないご事情をお持ちの場合は利用頂く事が可能です。

尚、浄蓮会館をご利用頂いた場合の火葬場はマイクロバスをご利用頂き、

戸塚区内の横浜市戸塚斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市戸塚区

横浜市戸塚区は横浜市内の南西部に位置し南に鎌倉市や藤沢市と接する、

人口28万4千人・12万4千世帯が居住する、東京・横浜に勤務する方々のベッドタウンとなる街です。

戸塚区民の為の葬儀式場と致しましては、

公営葬儀式場として横浜市戸塚斎場、ご自宅近くの私営葬儀式場として宝蔵院会堂・他をご利用頂く事が出来ます。

尚、戸塚区には制定された区の花は御座いませんが、平成11年区制60周年を記念して桜を区の花に指定しました。

1 横浜市戸塚区

横浜市戸塚区は、昭和14年(1939年)鎌倉郡内の1町7か村が横浜市に編入されて誕生しました。

昭和30年以降は、道路網の整備や鉄道の延伸、工場の進出や宅地開発などで人口が急増しました。

その後、瀬谷区、栄区、泉区を分区しましたが、それでも面積は35.7km²と横浜市でいちばん広い区です。

横浜市戸塚区は、旧東海道の戸塚宿に代表される歴史があり、水や緑の豊かな自然にも恵まれています。

伝説によると、「戸塚」の地名には「富塚」「十塚」「豊塚」という三つの由来があります。

また、富塚八幡(戸塚町)の縁起には、平安時代の後期、

戸塚修六郎友晴及びその子孫がこの地の開発に努力したので「戸塚」と呼ぶようになったとしるされています。

戸塚は、鎌倉時代、政治の中心となった鎌倉への出入り口の一つとして、

1604年の東海道戸塚宿制定以後は江戸から5番目の宿として、最初の宿泊地であり、

大山参りや鎌倉への追分の宿場町として発展しました。

戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、

隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。

戸塚宿は、起点の日本橋から数えて5番目の宿場町で、日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、

朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適でした。

また、鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。

戸塚区内の旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。

その中で戸塚宿は、江戸方見附跡と上方見附跡の2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、

今も戸塚区の中心地として賑わっています。

1856年には柏尾川の堰堤に桜の木が植樹され名所となります。

明治に入り宿駅制は廃止されますが、明治20年の戸塚駅開業と共に東京・横浜への野菜出荷地と成ります。

その後、大手企業の工場が進出してきますが、それよりも横浜・東京勤務の方々への宅地供給が上まわり、

戦後は人口が大きく増大して行きます。

人口の増加に伴い、昭和44年には瀬谷区が分区し、昭和61年には栄区と泉区が分区して現在の形と成りました。

尚、現在戸塚区内の大学施設としては明治学院大学横浜校舎、横浜薬科大学、横浜市立大学木原生物研究所、

そして、2015年4月に開校した湘南医療大学が御座います。

戸塚区の見どころとしては、何と言っても柏尾川の桜並木とミズキンバイが一番です。

他に、旧東海道の松並木、まさかりが淵市民の森などの自然や、

八坂神社、親鸞聖人ゆかりの寺永勝寺などの神社仏閣、

戸塚カントリークラブ、Jリーグ横浜FC練習場等も御座います。

2 横浜市戸塚区民の葬儀式場

戸塚区でご葬儀をお考えのご葬家様には 区内に横浜市戸塚斎場が御座います。

戸塚斎場は横浜市営の葬儀式場で火葬炉も併設されて居り、戸塚区民の方々にはご利用し易い葬儀式場です。

横浜市戸塚斎場の式場予約に時間が掛る場合、

他の私営葬儀式場で通夜・ご葬儀を行い、ご火葬を市営火葬場で行う事も可能です。

ひかりの杜では戸塚駅近くの宝蔵院会堂(私営)他の葬儀式場をご希望に合わせて紹介させて頂いて居ります。

ひかりの杜がご紹介する葬儀式場は全て、宗教・ご宗派を問わずご利用頂けます。

尚、仏式のご葬儀をお考えで、菩提寺が遠方等の為、ご導師のご都合が付かないなどの場合には 

ひかりの杜より紹介させて頂く事も可能です。

何れのご宗派の僧侶でも責任を持って紹介させて頂きます。

又、ひかりの杜では、神道の神官、カトリックの司祭様、プロテスタントの牧師様、

他の宗教の宗教者もご紹介する事は可能です。

ひかりの杜ではご葬儀の式典でお使い頂く祭壇には花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。

お使い頂いた花祭壇のお花は全て故人様のご遺体をお飾りしてお棺の中にお納め致します。

又、故人様を偲び、故人様が好きだったお花をお好みのデザインで祭壇とする事も可能です。

横浜市戸塚区の区花は平成11年区制60周年を記念して公募により“桜”と指定されました。

桜の花言葉は“精神の美”、“優美な女性”ですが、季節となる3月、4月には 

ご遺影に桜の枝をかざしてお見送り頂く事も良いお見送りではないかと考えます。

横浜市戸塚斎場
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1)横浜市戸塚斎場

横浜市戸塚斎場は横浜市民の為の葬儀式場の一つで、横浜市戸塚区鳥が丘に位置する、

横浜市営地下鉄線踊場駅より徒歩で15分の斎場です。

横浜市戸塚斎場は葬儀式場と火葬場が併設され、ぺットの火葬も可能な、駐車場の完備された、

大変便利な葬儀式場で、宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。

又、火葬場は隣接されて居り、式場からの移動は徒歩が可能で、マイクロバス等を必要と致しません。

横浜市戸塚斎場は小高い鳥が丘の上に建設されて居り、

坂道を登って正門に立ちますと、正面手前が駐車場、正面奥に火葬場の、右手に式場の建物が御座います。

葬儀式場は二階建てで、1Fに1式場、2Fに1式場、計2式場があり、

いずれも式場も、受付・待合せロビー・お清め室 式場 親族控室 宗教家控室 トイレが配置されて居り、

席数100席、数百名規模のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

通夜仮眠は5名様程度までは可能です。

但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので 

灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市港南区

横浜市港南区は横浜市内の中央南部に位置し、人口21万4千人・9万7千世帯が居住する、

区の花を“ひまわり”“キキョウ”“アジサイ”の三花と制定した、緑豊かな丘陵地が連なる住宅都市です。

港南区民の方の葬儀式場といたしましては、横浜市戸塚斎場、若しくは、横浜市南部斎場の

ご利用をお勧め致します。

1 横浜市港南区

港南区は、1969年(昭和44年)10月1日、行政区再編により南区の人口増加に伴い分区して誕生しました。

横浜市の南部に位置し、区域面積は19.86平方キロメートル(横浜市の面積の約4.6パーセント)、

東西に5.1キロメートル、南北に6.6キロメートルにわたって広がっており、

東は磯子区、西は戸塚区、南は栄区、北は南区に隣接しています。

港南区の地形は、大岡川と、柏尾川の支流である平戸永谷川の上流の谷と台地が細かく入り組んでいます。

そして、区を南北に貫くように旧武蔵の国と相模の国を分ける国境(くにざかい)の道が通っています。

この道は鎌倉へ通じる道として、古来重要な役割を果たしてきました。

また、この国境の道は分水嶺にもなっていて、東側の日野川・大岡川は東京湾へ、

西側の平戸永谷川は相模湾へ注いでいます。

江戸時代までは、横浜自体が寒村に過ぎず、現在の港南区一帯も主要道周辺にのみ集落をなす、

緑豊かな丘陵に囲まれたのどかな農村地帯でした。

それが、横浜開港とともに横浜港の後背地として徐々に開発が進み、産業が興ってきました。

なかでも捺染(なっせん)業は大岡川の水流をいかして発生し、港南区の地場産業として有名です。

また、都市部へ供給する野菜・花卉(かき)の栽培も盛んに行われていました。

その後、ベッドタウンとして大規模な宅地開発が進み、田園都市から住宅都市へと大きく変貌を遂げました。

区内には、湘南電気鉄道(現在の京浜急行線)、JR根岸線、市営地下鉄の3つの鉄道が通り、

特に上大岡及び港南台地区は商業施設が集中し、ターミナルとして賑(にぎ)わい、

利便性と居住性を併せもつ、暮らしやすい区となっています。

横浜市港南区の見どころとしては、自然を楽しむ施設として四季の花と緑が楽しめる港南桜道 

ホタルも楽しめる港南萩久保公園、

名所・古跡としては茶釜伝説のある東樹院、1099年創建の春日神社、

縁日には屋台の店が楽しめる日限地蔵尊、

港南のこだわりとして捺染技術が見られる吉原産業捺染工場 

フリーマーケットが楽しめる港南台テント村等が御座います。

そして、港南区内は、なだらかな丘陵に富んでいるため、空気が澄んで天気のよい冬の朝などには、

下記の高台住宅地や公園からきれいな富士山が見えます。

その一部を紹介しますと;

日野公園墓地、鍛冶ヶ谷南公園、芹が谷一丁目公園、下永谷市民の森、県立永谷高校、他が御座います。

葬儀について

2 横浜市港南区の葬儀式場

港南区でご葬儀をお考えの区民の皆様には、

身近な横浜市営式場と致しましては、戸塚区鳥が丘所在の横浜市戸塚斎場が御座います。

又、金沢区みず木町の横浜市南部斎場もそれほど遠方では御座いません。

横浜市戸塚斎場、横浜市南部斎場は共に横浜市営の葬儀式場で、葬儀式場と火葬炉が併設されて居り、

駐車場も十分なスペースを持ち、お車でご来場のご会葬の方々にも大変便利な葬儀式場です。

ひかりの杜ではご葬儀の式典に利用する祭壇として”花祭壇”のご利用をお薦め致して居ります。

花祭壇で使わせて頂いたお花は全て故人様のご遺体を飾る花としてお柩に納めさせて頂きます。

又、故人様を偲び、故人様のお好きだったお花で、お好きなデザインの祭壇を御造りする事も可能です。

金沢区の区の花は昭和54年に“ひまわり”“キキョウ”“アジサイ”の三花と制定されました。

ひまわりは明るく伸び伸びと栄える様に、

キキョウは自然を大切に、

アジサイは寄り添う小さな花びらの集まりを区民の和、との願いを込めて制定されました。

この三花ともに特徴を持つ花であり、

ひかりの杜でお飾りする祭壇のアクセントとして利用させて頂く事も多々御座います。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市栄区

横浜市栄区は横浜市内の再南部に位置し、鎌倉市と接する、人口12万1せ千人・5万4千世帯が居住する、

区の花を“きく”と制定した、緑豊かな丘陵地を開発した住宅都市です。

栄区民の方の葬儀式場と致しましては、横浜市南部斎場(横浜市営)、もしくは横浜市戸塚斎場(横浜市営)

のご利用をお勧め致します。

1 横浜市栄区

横浜市栄区は、昭和61年(1986年)に戸塚区から分区して誕生しました。

栄区の名称は公募により“新しい区として未来に向けて大きく栄える”事を祈念して命名されました。

区内には東西にいたち川、西側を南北に柏尾川が流れ、それを中心とした農村地帯でありましたが、

昭和40-50年代に掛けての大規模な住宅地開発により住宅都市へと変化しました。

現在は緑豊かな生活文化都市として発展を続けて居ります。

栄区内の歴史は遠いむかしまでさかのぼることができます。

栄区の地域では3万年前の頃から人が居住していたと考えられ、

1万年前の縄文式土器の時代の公田遺跡からは桂台式土器も出土して居ります。

桂台式土器は東北地方を中心に出土した土器ですが、最初に栄区公田町桂台より出土した事から名付けられました。

飛鳥・平安時代には相模国鎌倉郡尺戸郷として豊な水田地帯でした。

鎌倉時代に入り鎌倉に幕府が建てられるとこの地は幕府東方警備の為の重要な拠点となります。

従いまして、栄区には鎌倉時代の史跡が多く残されて居ります。

明治22年の市町村制施行により、

鎌倉郡本郷村(笠間、小菅ケ谷、公田、桂、中野、鍛冶ケ谷、上野)、

豊田村(飯島、長沼、下倉田、上倉田)、及び長尾村(金井、田谷、長尾台、小雀)が成立し、

その後、大正4年には、金井、田谷、長尾台は豊田村に統合されました。

昭和14年、本郷村と豊田村は、横浜市に編入されて戸塚区の一部となりました。

参考として、編入直前(昭和13年12月31日現在)の両村の人口は、

豊田村2,978人(下倉田・上倉田含む)、本郷村4,316人でした。(神奈川県統計書による)

昭和40年代から50年代前半にかけて、丘陵地を中心とした大規模な住宅地開発が行われ、

人口が急増し、住宅都市として大きく変貌を遂げました。

このような人口の急増に対応し、地域により身近な行政を推進するために、

昭和61年11月3日行政区再編成が実施され栄区が誕生しました。

横浜市栄区の”区の花”制定は、区制5周年を記念し、

栄区のテーマである「緑豊かな生活文化都市」づくりを進めるとともに、

花の普及を通じて区民の皆さんの心のふれあい、運帯を一層深めてもらおうとするものです。

区の花の制定にあたっては、制定委員会を設置し、区の花の募集を行ない、

1,323票、99種類(詳細は下表参照)の花が侯補として寄せられました。

この応募結果をもとに、委員全員の賛成により“キク”と決定。選定理由としては、

  1. 応募票数が他の花と比較して圧倒的に多く、応募した人の意向に沿う
  2. 知名度が高く、種類も多いため幅広い年齢層の人に親しまれる

などがあげられました。

葬儀について

2 横浜市栄区民の葬儀式場

横浜市栄区でご葬儀をお考え方の区民の皆様には 

公営の葬儀式場をご希望であれば隣接する金沢区内釜利谷に横浜市南部斎場が御座います。

横浜市南部斎場は横浜市営の葬儀式場で、葬儀式場と火葬炉が併設されて居り、

駐車場も十分なスペースを持ち、お車でご来場のご会葬の方々にも大変便利な葬儀式場です。

電車でご来場の場合は京浜急行金沢文庫駅よりタクシーで10分から15分の距離となります。

ご自宅周辺でのご葬儀をご希望の場合は、栄区内に御座います寺院会館(私営)の葬儀式場を 

ご葬家様のご事情に合せてひかりの杜よりご紹介させて頂きます。

ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は全て宗教、ご宗派に係わらずご利用頂く事が可能です。

この場合の火葬場としては横浜市南部斎場、横浜市久保山斎場(市営 西区)、

横浜市戸塚斎場(市営 戸塚区)等がご利用頂けます。

又、仏式のご葬儀がご希望で、菩提寺が遠方等の為ご導師様のご都合が付かない場合などでは

ひかりの杜よりご紹介させて頂く事も可能です。

ご希望の宗派の僧侶を責任を持って紹介させて頂きます。

神道、新宗教、キリスト教、他の宗教者もご紹介する事が可能です。

ひかりの杜ではご葬儀の式典に利用する祭壇として花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。

祭壇で使わせて頂いたお花は全て故人様のご遺体を飾る花としてお柩に納めさせて頂きます。

又、故人様を偲び、故人様のお好きだったお花で、お好きなデザインの祭壇を御造りする事も可能です。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市金沢区

横浜市金沢区は横浜市内の最南部に位置し、東側を東京湾に面する、人口20万人・9万世帯が居住する、

牡丹を区の花と制定した、起伏に富んだ緑の台地と自然の海浜を持つ、歴史と文化の街です。

横浜市金沢区区民の為の葬儀式場、火葬場と致しましては、横浜市南部斎場が御座います。

1 横浜市金沢区

横浜市金沢区は、昭和11年久良岐郡金沢町、六浦荘町が横浜市磯子区に編入され、

昭和23年に分区して金沢区が誕生しました。

金沢の地名は平安・鎌倉の時代にこの地で砂鉄が産したことに始まると言われます。

その当時の地名は金澤(かねさわ)と呼ばれて居りました。

横浜市金沢区は、横浜市の南端に位置し、

東には東京湾に面し、南は横須賀市、逗子市、鎌倉市、西は栄区に、北は磯子区に面しており、

面積は約30.68平方km、周囲を海と山に囲まれています。

区の大部分は起伏の激しい丘陵地で、概ね100m前後の山が入り組んだ地形になっています。

内陸部には、横浜市南部地域唯一の大規模な緑地圏が形成され、

臨海部には、横浜市としても貴重な海辺の資源を有しています。

また、関東の南寄りにあたるため降雪が少なく、秋季の強い西風もやや緩和されます。

冬季は黒潮の影響を受けて気温が緩み、市の中心に比べ夏涼しく、冬暖かい気候です。

横浜市金沢区は、古代・武蔵国倉城郡(後の久良岐郡)の六浦荘と呼ばれる荘園(皇族門跡の寺院荘園)でしたが

鎌倉時代に入り幕府の湊町として栄えます。

1269年には初めて六浦湊に唐船が入ります。

1275年には北条実時により金沢文庫が開かれ、日本史の図書館として近代まで多くの学者に利用されました。

江戸時代にはその風光明媚さから金沢八景の名称が生まれます。

江戸・明治・大正・昭和と半農半漁の町として営まれましたが、

第二次世界大戦後、昭和24年の学制改革により横浜市立大学、関東学院大学が金沢区内に創立され

学園都市となります。

昭和46年からは、臨海部の埋立工事が始まり、昭和63年には完工して660万㎡の土地が創り出され、

多くの企業を誘致して、現在では1、000社を超える企業が活動する産業団地となって居ります。

ちなみに、平成18年には日本最大の風力発電設備(高さ116m、発電量2,400KW)が建設され、

平成21年には東京入国管理局横浜支局が中区より移転して居ります。

現在の金沢区は市内唯一の自然海浜を持つ町であり、市内最大の漁業の街でもあります。

更に緑地化率が最とも高く(31.8%)、国宝・指定文化財などの保有数1位の区でも有ります。

金沢区の区花は平成5年に区民の方々の公募により“牡丹”と制定されました。

牡丹の花言葉は 風格、富貴、恥じらいですが、

季節となる10月から5月の間には、ひかりの杜でお飾りする祭壇のアクセントとして 

赤や紫の牡丹を使わせて頂く事も御座います。

金沢区の見どころとしては、レジャ-施設としては

横浜ベイサイドマリーナ、八景島シーサイドパラダイス、金沢動物園等 、

公園としては、海の公園、野島公園 、

博物館としては神奈川県立金沢文庫 

寺社として、称名寺、瀬戸神社等が御座います。

不対称花祭壇

2 金沢区民の葬儀式場

横浜市金沢区内でご葬儀をお考えのご喪家には区内みず木町所在の横浜市南部斎場が御座います。

横浜市南部斎場は横浜横須賀道路・朝比奈インターチェンジに隣接した横浜市営の斎場で、

葬儀式場と火葬炉が併設されて居り、駐車場も十分なスペースを持ち、ご会葬の方々にも大変便利な葬儀式場です。

電車でご来場の場合は、京浜急行金沢文庫駅よりタクシーで15分から20分の距離となります。

もし、駅周辺でご葬儀をご希望の場合は、金沢八景駅より徒歩の範囲で上行寺会館(私営)他の葬儀式場を、

ご葬家様のご事情に合せてひかりの杜よりご紹介させて頂きます。

この場合の火葬場は横浜市南部斎場をご利用頂く事と成ります。

ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は、全て宗教・ご宗派に係わらずご利用頂く事が可能です。

又、仏式のご葬儀がご希望で菩提寺が遠方等の為ご導師様のご都合が付かない場合は 

ひかりの杜よりご紹介する事も可能です。

ご希望の宗派の僧侶を責任を持って紹介させて頂きます。

神道、新宗教、キリスト教、他の宗教者もご紹介する事は可能です。

ひかりの杜ではご葬儀の式典に使用する祭壇を花祭壇でお薦め致して居ります。

祭壇のお花は全て故人様のご遺体を飾る花として使わせて頂きます。

又、故人様を偲び、故人様のお好きだったお花で、お好きなデザインの祭壇を御造りする事も可能です。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市磯子区

横浜市磯子区は横浜市内の東南部に位置し、根岸湾に面する、人口16万5千人・7万9千世帯が居住する、

ピンクのコスモスを区の花と制定した、海岸部分の平地とそれを囲む緑の丘陵地から成る街です。

磯子区民のご喪家がご利用頂く葬儀式場と致しましては、

横浜市営であれば、金沢区みずき町に位置する”横浜市南部斎場”、

ご自宅近くの式場がご希望であれば、臨済宗東漸寺会館・その他がご利用頂けます。

尚、ご自宅近くの式場をご利用頂いた場合の火葬場は、マイクロバス利用で、

横浜市南部斎場、若しくは横浜市久保山斎場をご利用頂く事となります。

1 横浜市磯子区

横浜市磯子区は、市の東南に位置する南北に細長い形をした区です。

根岸湾に面した海岸部分の平地とそれを囲む丘陵地からなり、その境には斜面緑地が点在しています。

また、区南部の峰・氷取沢には市内でも有数の大規模な緑地が広がっています。

東京湾に面する海岸線平地部分の石油コンビナートを中心とした工業地帯として使用され、

丘陵部分はベットタウンとして利用されて居ります。

横浜市磯子区は昭和2年の横浜市区制制定に伴い誕生致しました。

磯子区の命名は中心部に所在した磯子村を基にされたと言われます。

磯子区内では、三殿台遺跡から縄文時代の竪穴式住居や、弥生式時代の住居が出土して居り、

古くから半農半漁の村落が営まれていたと考えられます。

江戸時代には、杉田村の杉田一族から杉田玄白が、又、間宮林蔵もこの地から輩出して居ります。

磯子区域は古くは丘陵部が海岸にせり出した風光明媚な漁村でしたが、

明治・大正・昭和と埋立が続き、現在の海岸部分の平地が出来上がりました。

明治・大正時代は小型底引き網漁が盛んとなりカレイ、イカ、アナゴなどが横浜に出荷され 

のりの養殖もおこなわれて居りました。

そして、横浜開港により、居住した外国人向けとして西洋野菜や生花(ゆり、、バラ、カーネーション等)

が栽培される様に成ります。

特に、昭和15年には鮮やかな紅色をしたカーネーションの新種“コーラル”が磯子で開発されました。

しかしながら、昭和に入ると磯子区には軍事目的の施設が目立つ様に成ります。

昭和16年には杉田町に軍が埋立を行い飛行場が開場します。

そして敗戦となり、磯子区内の多く土地が駐留米軍に接収され、その状態が昭和30年前後まで続きます。

根岸に所在した小型飛行場は昭和33年まで米軍管理下となりました。

米軍による接収解除後は丘陵部の土を海岸部分の埋め立てに使用し平地部分を大きく広げると共に、

平にされた丘陵地域を造成して最新式の団地磯子団地(現在の汐見台団地)を建設しました。

その後、磯子区は横浜市民のべットタウンとして急激に人口が増大して行きます。

現在でも磯子区民の60%は出生地が横浜市内です。

区政70周年(平成10年)を記念して、区の花「コスモス」と区の木「梅」のデザインマークを募集したところ、

区民の皆さんから111通の応募をいただき、多数のすばらしい作品の中から、

人の融和・自然との 調和をイメージした作品を採用しました。

採用作品には専門家によって文字を加えるなどの補正をし、 デザインマークになりました。

区の木・区の花デザインマーク 

区の木・梅

人と人の輪を円で表現。杉田の梅林と円海山をイメージして、海と山そして地球を 表現しています。

区の花・コスモス

コスモスはやさしい感じの花なので、2つのコスモスがやさしげに語りあっているような イメージで描いています。

横浜市磯子区内の見どころとしては、

根岸湾に面する事から磯子海の見える公園・海釣り施設、流れるプールの横浜プールセンター、

馬との交流が楽しめる根岸森林公園、1400年の歴史を持つとされる根岸八幡神社、

そして、昭和35年開場の名門ゴルフ場、磯子カンツリークラブ等が御座います。

花祭壇

2 磯子区民の葬儀式場

磯子区民の方がご葬儀をお考えの場合は横浜市南部斎場(金沢区 市営)をご利用頂くのが便利です。

横浜市南部斎場は横浜市営の葬儀式場で火葬場を併設して居り、

葬儀式場から火葬場への移動に交通手段を必要とは致しません。

磯子区内からはお車で30分前後の距離です。

ご葬儀式をご自宅の近くでお考えの場合、ひかりの杜では新杉田駅前の東漸寺会館(私営)、他を

ご喪家様のご希望に合わせて葬儀式場をご紹介させて頂きます。

その場合の火葬場は先の横浜市南部斎場(市営)、

若しくは横浜市久保山斎場(西区 火葬炉のみ 市営)をご利用頂くのが便利です。

ひかりの杜よりご紹介させて頂く式場は全てご宗教、ご宗派を問わずにご利用頂ける葬儀の式場です。

ひかりの杜では宗教者のご紹介も可能です。

檀家寺・教会が遠方などでご都合が付かない場合は、

ひかりの杜より責任を持って希望される宗派の僧侶、神官、司祭、牧師様を紹介させて頂きます。

ひかりの杜ではご葬儀の式典の祭壇として花祭壇をお薦め致して居ります。

故人様を偲び、お好みのお花でお包みした心を込めたお見送りは如何でしょうか。

磯子区の区花は “ピンクのコスモス”と制定されて居りますが、

季節となる4月から10月にはコスモスを使わせて頂き、白を基調とした花祭壇にピンクのコスモスは 

良いアクセントとなります。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市南区

横浜市南区は横浜市内のほぼ中央部に位置する、人口19万8千人・10万6千世帯が居住する、

区の花を”さくら”と制定した、横浜・川崎・東京に勤務する方々のベッドタウンとなる街です。

南区内にお住まいのご葬家様の葬儀式場といたしましては、

横浜市営式場であれば、横浜市戸塚斎場、横浜市南部斎場、横浜市北部斎場のご利用か、

若しくは横浜市久保山斎場に隣接する私営式場のご利用をお勧め致します。

又、お住まい近くの葬儀式場がご希望であれば南区日枝町に所在する瑞延寺会館がご利用頂けます。

2 横浜市南区

横浜市南区は昭和18年に中区より分区して誕生しました。

南区は中央に大岡川が流れ、その周りを七つの丘が囲んだ桜の美しい住宅地です。

又、横浜市内最古の寺院である瑞應山蓮華院(弘明寺)の門前町であり、

昭和49年まで本学が所在した横浜国立大学の学生街でも有りました。

そして、南区は横浜市18区のなかで最も人口密度の高い区でもあります。

横浜市南区からは弘明寺遺跡、殿ヶ谷遺跡などが発掘されて居り、

古くから大岡川を中心に農村が散在していたと考えられます。

この大岡川は暴れ川でもあり、大雨が降ると洪水を起こす川でもありました。

江戸時代初期、江戸の材木商吉田勘兵衛は幕府の許可を得て大岡川河口流域を吉田新田として開墾・治水します。

この吉田新田が南区、中区発展の源と成りました。

明治22年の横浜市制制定後、南区地域の村々は横浜市に編入されて、昭和2年の区制と共に中区となります。

更に、昭和18年中区から分区され、中区の南に所在する事から南区と命名され誕生しました。

第二次世界大戦敗戦後は南区内の多くの土地が米軍に接収され、

返還される昭和30年までは大きな変化は阻害されます、

その中でのわずかな変化は昭和24年の横浜国立大学創立でした。

学生街として賑いが出始めます。

昭和30年以降、横浜・東京に勤務する人々の居住区として農地が宅地へと転換されて行きます。

以後、南区の人口は増え続け、昭和44年には南部を港南区として分区して現在の南区と成りました。

南区の見どころと致しましては、区花となる桜の見所として大岡川プロムナードの桜並木、

蒔田公園・清水ヶ丘教会の桜林を中心として区内至る所で花見を楽しめます。

奈良時代に開設されたとされる市内最古の寺院弘明寺、

吉田新田鎮守の日枝神社(1673年創建)なども一見の価値が御座います。 

家族葬

2 瑞延寺会館

横浜市南区日枝町に位置する瑞延寺は、浄土真宗大谷派の寺院ですが、

寺院境内の本堂とは別棟に瑞延寺会館は建てられて居り、

会館の利用に当たりましては、宗旨・宗派を問わずご葬儀を営む事が出来る葬儀式場です。

瑞延寺会館は、市街地に建立された式場で、横浜市営地下鉄線吉野町駅から徒歩で3分、

京浜急行線南太田駅からは徒歩で5分と、大変交通の便の良い葬儀式場です。

瑞延寺会館は横浜市南区日枝町の市街地に建立された瑞延寺の境内に建つ落ち着いた雰生きの私営の葬儀式場です。

又、お車で来場の場合は、首都高速道路神奈川3号狩場線の花之木ランプを下りて10分以内の距離となります。

瑞延寺会館 全景
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瑞延寺会館は総二階建ての葬儀式場で1Fに受付 お清め室、

2Fに式場、ご遺族控室が配置されて居り、宗旨、宗派に係わらずご利用頂ける葬儀式場で御座います。

式場は、式場内席数40席 参列者数百名規模の葬儀を営む事が可能です。

ご遺族控室・通夜仮眠室としては和室(6畳)が用意されて居り、通夜仮眠は5名の方がお出来になります。

瑞延寺会館をご利用頂いた場合の火葬場は、

マイクロバスをご利用頂き、横浜市久保山斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。

瑞延寺会館は市街地にあり、駐車場は必ずしも広くありません。

最寄駅に近接する交通の便の良い式場ですので、ご来場のせつは電車利用をお薦め致します。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市中区

横浜市中区は横浜市内の東側中央部に位置する、人口15万人、9万6千世帯が居住する、

区の花をチュウリップと制定した、金港の美称を持つ国際貿易港横浜港を持つ国際都市であります。

横浜市中区区民のご喪葬家様にご利用頂くご葬儀式場と致しましては、

横浜市久保山斎場を中心とした、隣接する私営の斎場をご利用頂くのが便利です。

又、横浜市営の式場がご希望でしたら、少々遠くは成りますが、

横浜市戸塚斎場、横浜市北部斎場、横浜市南部斎場などの市営式場もご利用頂けます。

1 横浜市中区

半農半漁の街、横浜村は明治22年の市制施行により横浜市となり、

昭和2年の区政施行により鶴見区・神奈川区・磯子区・保土ヶ谷区と共に中区が誕生しました。

横浜市中区の区名は、行政的にも横浜の中央であることから名付られています。

区域は丘陵地と海岸線によって囲まれた沖積層低地や埋立地から形成され、

港湾施設や公園・道路の公共用地が多く、農地や山林はほとんどありません。

横浜市中区は、神奈川県、横浜市の行政・経済の中心として発展を続けるなか、

関東大震災や横浜大空襲の被害を受けました。

さらに戦後長期にわたる連合軍の接収が行われましたが、その後目覚しい発展を遂げています。

元々は小さな漁村でありました横浜村は、江戸時代に新田開発が行われて半農半漁の村となります。

東海道神奈川宿の対岸に位置する半農半漁の寒村であった横浜村は、 

1858年の日米修好通商条約締結と共に大きく変化する事と成ります。

条約締結により江戸幕府は神奈川、長崎、兵庫、新潟、函館の開港に同意しますが、

東海道神奈川宿での開港を嫌った幕府はその対岸の横浜村を港として建設する事としました。

その横浜村が中区の前身であります。

横浜港の建設に伴い明治2年には日本で二番目の鉄橋として吉田鉄橋(現在の吉田橋、JR根岸線関内駅前)

が架けられます。

明治27年には横浜鉄さん橋(現在の大さん橋)が完成し、昭和2年にはホテル・ニュ-グランドが開業します。

このホテルは後に、昭和20年終戦と共に陸軍厚木飛行場に到着したマッカーサー元帥の宿舎ともなりました。

横浜市中区は国際都市の名に恥じず、人口の10%・1万5千人の外国人が居住して居ります。

神奈川区の花・チューリツプ

中区の花「チューリップ」は、区制70周年(1997年)を記念して区の花として制定されました。

その花言葉は”思いやり”です。

ひかりの杜がお手伝いさせて頂く花祭壇でも季節となる3月から5月には 

ご葬家様のご希望に合わせた色のチュウリップをアクセントとして使わせて頂いて居ります。

横浜市中区の見どころとしては数多くの場所が御座います。

本牧地区であれば本牧公園、国の名勝に指定されている三溪園。

山手地区では港のみえる丘公園、外人墓地、日本最初のテニス・クラブ、

レディス・ローン・テニス&クロッケ-クラブ(明治11年創立)が所在する横浜山手公園。

そして、山手の下の元町商店街、運河をはさんで横浜中華街。

関内・外地区としてはマリンタワー、人形の家、山下公園、氷川丸、横浜大桟橋等が御座います。

葬儀について

3 横浜市中区でのご葬儀

中区区民の方々がご葬儀をお考えの場合は、お近くの火葬場としては横浜市久保山斎場(西区)が便利です。

久保山斎場は火葬炉利用のみで式場を備えては居りませんが、

隣接して一休庵久保山斎場(私営)、小西斎場(私営)、寺院会館多数があり、

ひかりの杜よりご紹介させて頂けます。

ひかりの杜よりご紹介させて頂く式場は宗教・宗派に係わらずご利用頂く事ができます。

又、横浜市営式場の利用をご希望される場合は少々離れますが、

横浜市北部斎場(緑区 火葬炉併設)、横浜市戸塚斎場(戸塚区 火葬炉併設)、

横浜市南部斎場(金沢区 火葬炉併設)がご利用頂けます。

何れの市営斎場も駐車スペースは十分にとられて居り、お車であればそれ程の交通時間を必要とは致しません。

仏式のご葬儀をお考えで、檀家寺が遠方などでご都合が付かない場合は

ひかりの杜よりご希望の宗派の信頼できる僧侶をご紹介する事も可能です。

神道でご葬儀をお考えの場合も神官をご紹介させて頂きます。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市西区

横浜市西区は、横浜市内の東側中央部に位置する、人口10万4千人、56千万世帯が居住する、

区の花をスイセンと制定した、金港と美称される国際貿易港横浜港に隣接した街です。

西区民の為の葬送施設と致しましては、元久保町に所在する横浜市久保山斎場をご利用頂く事をお勧めいたします。

1 横浜市西区

横浜市西区は昭和19年(1944年)に中区より分区して誕生しました。

西区は、人口・面積ともに横浜市内で最小規模の区ですが、

横浜開港以来の下町情緒を持つ既成市街地地域と、横浜駅周辺地区、そしてみなとみらい21地区を持つ、 

横浜市内の商業と企業業務の中心ともなる街であります。

横浜での海洋散骨

横浜市西区は中区と同じく東海道神奈川宿の対岸に位置する横浜村と呼ばれる半農半漁の寒村でしたが、

江戸幕府の開港政策により大きく発展します。

横浜港開港に伴い岡野新田や平沼新田などの開発が進み、

明治5年、新橋ー横浜間鉄道の開通後には横浜港に隣接する埋め立て地に多くの工場が建設されました。

特に、桜木町駅近くには大きな鉄道操車場が、又巨大な造船場もいくつか建設されました。

西区地域は、横浜村、横浜市、横浜市中区、横浜市西区と名称を変えてきました。

西区の誕生は終戦前年の昭和19年です。

西区の名称は中区の西に位置する事から命名されました。

西区は誕生の翌年昭和20年5月29日の横浜大空襲により主要地域は焼失し焼野原となります。

そして、敗戦とともに進駐してきた米軍により多くの地域が接収され、その状態が昭和30年まで続きます。

従いまして、西区が戦後復興を開始出来たのは昭和30年以降となります。

昭和26年には野毛山動物園が開園し市民の憩いの場となり、横浜駅周辺地区は商業・事業の中心に、

旧造船場地域は再開発されてみなとみらい21地区となり、平成5年に完成したランドマークタワーを中心とした

オフィス、ホテル、高級店舗、国際会議・展示場が立ち並ぶ街として発展を続けて居ります。

文化芸術施設といたしましては、横浜みなとみらいホールをはじめ、

中央図書館、横浜能楽堂、県立図書館、県立音楽堂、みなとみらい21地区や横浜駅周辺地区の各種ホール等、

文化・芸術施設が数多く整備されています。

又、横浜駅周辺地区やみなとみらい21地区において、国際会議や大規模イベント等が数多く開催されています。

区の花、スイセンは昭和59年に区制施行40周年を記念し、公募により選定されました。

2 横浜市西区区民のご葬儀

横浜市西区区民の方がご葬儀をお考えの場合、

区内には、横浜市内で最古の横浜市久保山斎場が運営されて居り、身近な場所でご葬儀を営む事が出来ます。

しかしながら、久保山斎場は火葬炉のみの運用ですので、通夜・葬儀の式場は、

隣接する一休庵久保山斎場(私営)、小西斎場(私営)を葬儀式場として御利用頂く事と成ります。

ひかりの杜ではご喪家様のご要望に合わせてご紹介する事が可能です。

尚、ご喪家様が横浜市営式場でのご葬儀施行をご希望でしたら、

横浜市北部斎場(緑区 横浜線長津田駅よりタクシ-で10分)、

横浜市南部斎場(金沢区 京浜急行金沢八景駅よりタクシーで15分)、

横浜市戸塚斎場(戸塚区 市営地下鉄踊場駅より徒歩15分)をご利用頂く事も可能です。

何れの斎場も十分な駐車スペースを備えており、お車でのご来場には大変便利です。

尚、ひかりの杜より紹介させて頂くご葬儀の式場は宗教・宗派を問はずにご利用頂けますのでご安心下さい。

又、仏式のご葬儀で僧侶のご都合が付かない場合は、ひかりの杜よりご紹介する事も可能です。

ご希望の宗派の僧侶を責任を持ってご紹介致します。

神式の葬儀がご希望であれば、神官をご紹介させて頂きます。

ひかりの杜では葬儀式典の祭壇には花祭壇をお薦めして居ります。

故人様を偲ぶご希望のお花を、ご希望のアレンジで御創りしご満足の頂けるご葬儀を執り行わさせて頂きます。

  今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市保土ヶ谷区

横浜市保土ケ谷区は、横浜市内の中央部に位置し、人口20万人・9万世帯が居住する、

区の花を”スミレ”と制定した、関東ローム層の南東端の起伏に富んだ街です。

区民の方々の葬儀式場といたしましては、

横浜西区元久保町に所在する、横浜市久保山斎場(横浜市営、火葬場のみ)とその周辺の葬儀式場、

若しくは、緑区長津田町所在の横浜市北部斎場をご利用頂くのが便利です。

1 横浜市保土ヶ谷区

横浜市保土ヶ谷区は、横浜市の中央に位置し、東西に5.80km、南北に7.40kmあります。

また、起伏に富んだ地形で山坂が多く、最高地は今井町で海抜97.0m、

最低地は天王町で海抜0.1mとなっています。

保土ヶ谷の歴史は古く、関連の地名が最初に見られるのは、

901年~931年、延喜~延長の頃の「和名抄」に久良郡星川郷、都筑郡幡屋郷などの郷名が見られます。

1480年ころの、太田道灌の歌日記「平安紀行」に「帷子」の地名が見られます。

1601年には、年東海道に宿駅の制度が定められ、

保土ケ谷宿が幕府の公認の宿場となり、本陣・問屋場が置かれます。

1831年には、葛飾北斎(1760~1849)が「富嶽三十六景」のうち「境木」を作成しました。

そして、1927年(昭和2年)保土ケ谷町と西谷村が横浜市に編入され、保土ケ谷区が誕生しました。

横浜市保土ケ谷区は大正、昭和前期は工業の街でしたが、

第二次世界大戦下、東京・横浜大空襲によりほとんどの工場が焼失し、戦後に住宅地として再生しました。

尚、保土ケ谷のケは小文字ではなく大文字の“ケ”が正しい区名です。

平成元年(1989年)に、市政100周年・開港130周年を記念して区の花・区の鳥を制定されました。

文化の香り高く、21世紀に向けて伸びゆく保土ケ谷区にふさわしい花と鳥を選ぶにあたって、

区内在住・在勤・在学のみなさんから募集を行い、花は63種類、鳥は46種類の応募がありました。

これらを、選定委員会を開いて検討した結果、区の花は「すみれ」、区の鳥は「カルガモ」に決定しました。

「区の花・すみれ」と「カルガモ・カールズ」のマスコットマークは、地域連帯を育み保土ケ谷への親しみを深め、

区のイメージを高めるため平成2年に制定されました。

2 横浜市久保山斎場

保土ヶ谷区民の方がご利用頂ける横浜市営火葬場といたしまして横浜市久保山斎場が御座います。

横浜市久保山斎場は、他の横浜市営斎場とは異なりご火葬炉のみを提供する斎場で御座います。

横浜市久保山斎場は横浜市西区元久保町に位置するご火葬専用の斎場で、

主として保土ヶ谷、中、西、南、鶴見、神奈川区民の故人様のご火葬にご利用頂いて居ります。

ご来場に当たりましては、JR線保土ヶ谷駅、若しくは京浜急行線黄金町駅よりタクシ-利用が便利です。

何れも所要時間10分、千参百円前後の費用で来場頂けます。

お車で来場の場合は首都高速横浜3号線永田インターより10分の距離となり、

十分な広さの駐車場が用意されて居ります。

3 横浜市久保山斎場に隣接する葬儀式場

横浜市久保山斎場はご火葬のみにご利用頂ける斎場ですので、

ご葬儀を営む場合には別途葬儀式場をご利用頂く必要が御座います。

隣接する葬儀式場としては、小西斎場、若しくは一休庵久保山斎場がご利用頂けます。

小西斎場

1)小西斎場

小西斎場は西区元久保町に位置する私営の斎場で、

横浜市久保山斎場(火葬場のみ)に隣接した大変便利な葬儀式場です。

火葬場への移動は徒歩が可能でマイクロバス等を必要と致しません。

小西斎場の式場は1室あり1Fが駐車場と入口、60席 数百名の葬儀を執り行う事が可能な式場となります。

その構造は1FとB1Fの二階構造となって居り、

1Fに正面入り口、受付、待合せロビー、式場、そして宗教者控室が配置され、

B1Fには遺族控室(和室18畳)お清め室(立食100名)シャワー室が御座います。

1FとB1Fの間にはエレベーターで繋がれ、B1Fには多目的トイレも設備されて居ります。

遺族控室は通夜仮眠のお部屋としてもご利用頂け、大変ご利用頂き易い斎場で御座います。

尚、ご自宅でご遺体を安置する事が出来ない場合は別棟にご安置する事も可能となって居ります。

一休庵久保山斎場 正面入口

2 一休庵久保山斎場

一休庵久保山斎場は西区元久保町に位置する私営の斎場で、

横浜市久保山斎場(火葬場のみ)に隣接した大変便利な葬儀式場です。

火葬場への移動は徒歩が可能でマイクロバス等を必要と致しません。

一休庵久保山斎場の式場は2室あり、1Fが駐車場と正面入口、

B1Fが第一式場、B2Fが第二式場となり、正面入口からはエレベーターで下りて頂きます。

エレベーターで下りますと受付と待合せロビーとなり、

正面の通路を挟んで左側に式場とお清め室、

右側に遺族控室(和室12畳)手洗いシャワー室が配置されて居ります。

式場は会葬の方々の予定人数に合わせて、広さを調整する事が可能となって居り、

ご利用される広さに合わせた利用料体系となって居ります。

式場とお清めの席の間はパ-ティションで区切る形となります。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市神奈川区

横浜市神奈川区は横浜市内のほぼ中央部に位置し、人口24万人・13万世帯が居住する、

区の花を”チュウリップ”と制定した東京湾に面した街です。

神奈川区にご在住のご葬家様にご利用頂ける葬儀式場と致しましては、

松見町に所在する西寺尾会堂・西寺尾火葬場(私営)を、

若しくは、雪ヶ谷に所在する私営宗興寺会館のご利用をお勧め致します。

火葬場と致しましては、西寺尾火葬場(私営)の他に、横浜市久保山斎場(横浜市営)をご利用頂く事も可能です。

1 横浜市神奈川区

横浜市神奈川区は明治34年に神奈川町が横浜市に編入され、昭和2年の区制制定に伴い神奈川区が誕生しました。

神奈川区西側は緑多い台地で住宅地として利用され、

東側は東京湾に接した埋立低地として多くの港湾施設が立ち並ぶ、海・緑・丘をもつ表情豊かな街です。

昭和5年には横浜専門学校(現在の神奈川大学)が六角橋に移転して学園都市とも成りました。

又、浦島太郎伝説 発祥の地でも御座います。

古文献の中に”かながわ”の文字が初めて現れるのは、1266年北条時宗下文の中の”神奈河”です。

そして、1601年東海道宿駅伝馬の制度制定により神奈川宿が設置され、以後宿場町として発展します。

1853年のペリー下田来航、翌1854年に締結された日米和親条約は 

この神奈川区内で調印されたことから神奈川条約とも呼ばれて居ります。

更に神奈川(横浜)・長崎・函館の開港により、1860年神奈川台場が築かれました。

当時の横浜港は神奈川区を中心に築かれておりました。

この様に横浜市内でも古くからの歴史を持つ神奈川区ですが、

その面影は昭和20年3月10日の東京・横浜大空襲により失われ、

残念ながら現在に留めるものはほとんど有りません。

現在の神奈川区は神奈川大学、浅野学園(創立者 浅野総一郎)を中心とした学園都市であり、

東京のベットタウンでもあります。

神奈川区の区花はチュウリップで、その花言葉は”思いやり”です。

この区花チュウリップは、1988年に区政60周年を記念して区民の投票により制定されました。

ひかりの杜がお手伝いさせて頂くご葬儀の花祭壇でも季節となる3月から5月の間で、

ご葬家のご希望の色のチュウリップをアクセントとして使わせて頂いて居ります。

神奈川区内の見どころとしては、

古い櫻林と陸上競技場・サッカ-場・テニスコート・野球場・馬術練習場などを有する三ツ沢公園、

横浜市中央卸売市場、通年でアイススケートが楽しめる反町公園等が有ります。

尚、神奈川区内には横浜市営の三ツ沢墓地が御座います。

神奈川区内の交通機関としては、明治5年の新橋横浜間鉄道(現在のJR京浜東北線)の開通、

明治37年横浜電気鉄道(市電、現在は廃止)の開通、

明治38年京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)品川―神奈川間 開通、

明治41年横浜鉄道(現在のJR横浜線)東神奈川―八王子間 開通、

大正15年東京横浜電鉄(現在の東急東横線)二子多摩川―神奈川間 開通、

平成16年みなとみらい線 開通 と多くの鉄道が網羅されて居ります。

又、道路としては京浜第一国道(国道15号線)、京浜第二国道(国道1号線)、第三京浜道路(有料道路)、

首都高速横羽線が通り、都心との交通の便も良好です。

2 西寺尾会堂、西寺尾火葬場(私営)

西寺尾会堂は西寺尾火葬場に併設した、

古くより港北、神奈川、鶴見区民及び川崎市民の方々に利用されて参りました、

宗旨、宗派に係わらずご利用頂ける私営の葬儀式場です。

会堂は総二階の建物として建設され、

一階には受付、待合せロビー、葬儀式場、宗教家控室が、

二階には待合せロビー、お清め室、遺族控室・通夜仮眠室が配置されて居ります。

葬儀式場は約60席の会葬者席が用意可能で、数百名程度までのご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

又、西寺尾火葬場への移動は歩での移動と成りますので、マイクロバス等は不要となります。

西寺尾火葬場は昭和時代初期に東京大田区、川崎市、横浜市に居住する方々の為に民間人により建設された

私営の火葬場で、創立当時は林と畑に囲まれた長閑な火葬場でありました。

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 宗興寺会館(そうこうじかいかん)

宗興寺会館は曹洞宗の寺院である開塔山日輪院宗興寺の管理による私営の葬儀式場で

宗旨・宗派を問わずにご利用く事が可能です。

宗興寺会館はJR京浜東北線東神奈川駅と横浜駅の中間に位置して居り、

どちらの駅からも徒歩10分以内で来場が可能な大変便利な葬儀式場です。

宗興寺会館は国道15号線とJR京浜東北線の間に建立された寺院で、

2階建の建物は、1階が式場設備、2階が寺院本堂となって居ります。

1階は、正面入り口を入りますと受付となり、受付の先に式場の部屋とお清め室とが襖を挟んで配置され、

右手にお清め室、奥に親族控室・僧侶控室等が用意されて居ります。

式場は席数40席、会葬者数百名での葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

尚、宗興寺会館をご利用頂いた場合の火葬場はマイクロバスをご利用頂き、

西区内の横浜市久保山斎場(横浜市営)をご利用頂くのが一般的です。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市鶴見区

横浜市鶴見区は、横浜市内北東部に位置し人口30万人、15万世帯が居住する、

区花をサルビアとする、東京湾に接した街です。

又、古くは飛行場を持つ町でもありました。

鶴見区民の方々の為の葬儀式場と致しましましては、曹洞宗大本山総持寺三松閣、西寺尾会堂、

火葬場と致しましては、西寺尾火葬場(私営)、横浜市久保山斎場(市営)をご利用頂くのが便利です。

1 横浜市鶴見区

横浜市鶴見区は北西部の豊な緑を保つ丘陵地帯(宅地)、一級河川鶴見川流域の低地(商業地)、

旧東海道が通る歴史の町、日本近代化の礎となった京浜工業地帯の中心となる湾岸埋立地帯(工業地)、

を持つユニークな街でも有ります。

昭和2年(1927年)の横浜市の区制施行によって誕生した鶴見区は、工業地帯としての顔ばかりでなく、

商業都市、住宅都市としての顔も兼ね備えています。

そして、鶴見の歴史は鶴見川との戦いの歴史でもありました。

近年は堤防や各種の増水対策設備も整い、暴れ川の面影も消えつつあります。

近世においては、鶴見川の船運により川筋が賑わい、東海道を往来する人々で繁盛し、漁業も盛んでした。

明治に入ると西洋野菜の特産地として全国的にその名が知られ、海苔繁殖も行われるようになりました。

一方、臨海部では埋立が進み日本を代表する大企業の工場が進出し、

京浜工業地帯の中核として大きく発展してきましたが、

近年わが国の産業構造の転換が進む中で再活性化への取組みが行われています。

現在は湾岸工場地帯も煙を出さない近代工場へと変化し、

交通の便の良さから東京・横浜中心部に勤務する方々のベットタウンとしても発展を続けて居り、

又、明治44年に能登より移転した曹洞宗大本山総持寺が建立され、門前町としての顔も合わせ持って居ります。

そして、鶴見区市場町は箱根駅伝に於ける往路で最初の、復路では最後の中継地となります。

1)鶴見の飛行場

大空へ飛び立つ夢を抱く人々が,自分で飛行機をつくったりしていた大正時代,

鶴見には飛行場が3つもありました。

① 大正10年(1921)12月,玉井照高が自作の飛行機で,

後輩たちを指導していた玉井飛行場が生麦にあり、

関東大震災(大正12年9月1日)後に閉鎖され,その跡地にキリンビールの工場が建設されました。

② 大正12年5月,宗里悦太郎が末広町に第一航空学校を開設,宗里飛行場と呼ばれました。

飛行機は7機,訓練生は15名。

訓練のほか一般の人も料金15円で横浜上空一周遊覧を楽しめました。

宗里飛行場には,日本で2番目の女流飛行家として注目を浴びた19才の木部シゲノも在籍し。

木部は「男装の麗人」と呼ばれ,海軍機で高等飛行も行い,航空界の女性ではただ一人,宝冠章を贈られました。

スマートな姿でプロペラの音も勇ましく,大空に銀翼をひる返して飛ぶ勇姿に男性飛行士は見ほれ,

プロマイドも売り出されるほどの人気者でありました。

③ 大正13年には末広町の埋立地(現日本鋼管正門から入舟橋にかけて)に,片岡飛行場が開設されました。

練習機のほかに偵察機や戦闘機など8機で飛行士の養成をしておりました。

宗里飛行場・片岡飛行場のいずれも,浅野総一郎が埋め立てた土地を無償で提供していたが,

工場の進出により,宗里飛行場は千葉県船橋に移転し,片岡飛行場は閉校しました。

総持寺三松閣

2 曹洞宗大本山総持寺三松鶴

三松閣は鶴見区鶴見に位置する曹洞宗信徒の為に創立された式場ですが、

空き状況によりましては信徒以外のご喪家でも仏式のご葬儀を前提として、

了解を得て宗派に拘わらずご利用頂ける式場でも御座います。

三松閣は木々が生い茂り花々に囲まれて静かな曹洞宗大本山総持寺境内の参道に面して建てられた建物で、

世俗から離れた環境での厳かなお見送りを営む事が出来ます。

三松閣では1階全室利用(200席)、伝道室(50席)、小ホール(50席)の何れかの形での利用が可能です。

付随する設備としては受付・控室、僧侶控室、親族控室、応接室、医務室などが用意されて居り、

社葬・家族葬・オリジナル葬と幅広いご希望にお応えする事が可能です。

常設の売店も出店して居ります。

尚 駐車場は500台の車両が収容可能です。

又、総本山総持寺檀信徒、曹洞宗檀信徒、鶴見区民のご葬家がご利用頂く場合は

利用料金の割引を受ける事が出来ます。

尚、ご利用に当たりましては事前に利用申請を提出して許可を受ける必要が御座います。

火葬場は、マイクロバスを利用して、西寺尾火葬場(私営)もしくは横浜市久保山斎場をご利用頂く事と成ります。

3 西寺尾会堂

西寺尾会堂は神奈川区松見町に位置し、西寺尾火葬場に併設され、

古くより鶴見、神奈川、港北区民及び川崎市民のご喪家に利用されて参りました、

宗旨、宗派に係わらずご利用頂ける私営の葬儀式場です。

会堂は総二階の建物として建設され、

一階には受付、待合せロビー、葬儀式場、宗教家控室が、

二階には待合せロビー、お清め室、遺族控室・通夜仮眠室が配置されて居ります。

葬儀式場は約60席の会葬者席が用意可能で数百名程度までのご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。

尚、同会堂では花輪の取り付けが出来ぬ為、斎場のお飾りは生花のみのご利用となります。

又 西寺尾火葬場への移動は徒歩での移動と成りますので、マイクロバス等は不要となります。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・横浜市港北区

港北区は、横浜市の北東部に位置し、三十五万人・十七万四千世帯が居住する、

日本の政令指定都市の中で最大の人口が生活する、梅の花を区花に制定した豊かな自然を備えた町です。

港北区内には、妙蓮寺斎場、永昌寺会館、他の葬儀式場が所在し、

隣接する神奈川区内には西寺尾火葬場(私営)稼働する町でも御座います。

1 横浜市港北区

横浜市港北区は、北から北東にかけて川崎市との境をもち、

東は鶴見区、南は神奈川区、西は都筑区と緑区にそれぞれ隣接しています。

昭和14年(1939年)の第6次市域拡張により横浜市に編入された都筑郡の9町村と、

先に編入されていた神奈川区の地域を併せて、「港北区」が誕生しました。

その後、昭和44年(1969年)に緑区が分区、

平成6年(1994年)に行政区再編成により区の北西部地域が都筑区に編入され、現在の姿となりました。

区域は、南北約8.1キロメートル、東西約6.9キロメートルにわたっており、

おおむね南北に長い長方形を成しています。

面積は31.40平方キロメートルで、横浜市の総面積の約7パーセントを占め、市内18区中5番目の広さです。

地形的には、多摩丘陵の東端に位置し、港北区を包むように丘陵から連なるなだらかな丘と、

丘陵を縫うように蛇行しながら流れる鶴見川・早淵川に沿って開かれた平地で成り立っています。

横浜市港北区は、新横浜をはじめ駅周辺の市街化が進んでおり、

令和2年(2020年)国勢調査において、区の人口は35万8530人、世帯数は17万5521世帯で、

人口・世帯数ともに市内のみならず、全国の政令指定都市の区の中で最も多くなっています。

一方で、鶴見川や市民の森など依然として多くの自然が残されており、

農業にたずさわる農家の数も多く、豊かな水と緑にも恵まれています。

又、住宅密集地である港北区は、ポップス コンサートが開かれる横浜アリーナや、

サッカーとラグビーのワールドカップが開催された日産スタジアムがあり、多くの人々が訪れて居ります。

新横浜ラーメン博物館は、1950 年代の日本の屋台を再現した造りで、

豊富なバリエーションのスープや麺を提供しています。

新横浜駅周辺のバーやカフェには仕事帰りのオフィス ワーカーが立ち寄り、

鶴見川の近くには人気の公園があります。

妙蓮寺斎場第一式場
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2 妙蓮寺斎場

横浜市港北区にお住まいのご葬家がご自宅の近くでのご葬儀を希望された場合の葬儀式場としては

妙蓮寺斎場が御座います。

東急東横線妙蓮寺駅前に位置する妙蓮寺斎場は日蓮宗の長光山妙蓮寺殿が運営する葬儀式場ですが、

東急東横線妙蓮寺駅に隣接する宗旨・宗派を問わずにご利用頂ける港北区民になじまれた便利な式場です。

1)交通の便

お車で来場の場合は首都高速神奈川1号生麦インター、もしくは第三京浜道路新横浜インターをご利用頂き、

いずれのインターからも15分程度の時間で斎場に到着がかのうです。

2)宿泊

遠方より来られた参列の方々にも、横浜駅周辺のホテルにお泊り頂き、

東急東横線をご利用頂いて10分以内で斎場においで頂く事が可能です。

3)式場設備

現在の妙蓮寺境内には二棟の葬儀式場棟が建てられおり、

宗旨・宗派に係わらずこれらの式場を利用出来る形となって居ります。

第一斎場は、式場内席数100席・参列者500人規模の葬儀を営む事が出来ます。

又、第二斎場は、一階には式場内席数40席 参列者100名規模のご葬儀が、

二階では蓮華の間として席数10席10名規模の家族葬を営む事が出来る別室が用意されて居ります。

第一斎場、第二斎場共に和室の遺族控室が付属して居り、5名前後の通夜仮眠が出来る様になって居り、

浴室・シャワーも完備しております。

妙蓮寺斎場ではご遺体の保管設備が用意されて居り、

ご遺体をご自宅に安置出来ない場合でも斎場内に安置する事が可能です。

4)火葬場

妙蓮寺斎場をご利用頂いた場合の火葬場は マイクロバスをご利用頂き、

近所の西寺尾火葬場(私営)、若しくは横浜市久保山斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。

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3 永昌寺会館

永昌寺会館は鶴見緑地内に位置した閑静な環境の中の式場で、

曹洞宗の久寶山永昌寺に所属する葬儀式場ですが、宗旨・宗派にかかわらずご利用頂けます。

1)交通の便

永昌寺会館は横浜市港北区の東急東横線大倉山駅から徒歩20分の鶴見緑地内に建立された

永昌寺の境内に建つ落ち着いた雰囲気の私営の葬儀式場です。

(タクシ-を利用した場合は約10分(料金1500円前後)となります)

又、お車で来場の場合は綱島街道大豆戸交差点より10分、

国道1号線下末吉交差点より15分程度の距離となります。

2)宿泊

最寄の宿泊設備と致しましては、横浜駅周辺のホテルにお泊り頂き、

東急東横線をご利用頂いて15分程度で大倉山駅にお出で頂くか、

新横浜駅前のホテルをご利用頂き、タクシーで(料金2000円前後)式場までお出で頂くのが便利です。

3)式場設備

永昌寺会館は大小二つのホールを持ち、仏式・神式・キリスト教式いずれのお見送りを執り行う事が可能です。

大ホールは式場内席数50席、列者150人規模の葬儀を営む事が出来、

小ホ-ルでは席数20席、参列者40名規模の家族葬が執り行えます。

大ホールでは洋間2室、小ホールでは洋間1室がお清め所として用意され、

ご遺族控室・通夜仮眠室としては和室(7.5畳)が用意されて居ります。

又、シャワー付き浴室も御座いますので真夏の夜間でも故人様への付添いが容易です。

尚、通夜仮眠は5名前後方々がお出来になります。

4)火葬場

永昌寺会館をご利用頂いた場合の火葬場は、マイクロバスをご利用頂き、近所の西寺尾火葬場(私営)、

若しくは横浜市久保山斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。

    今回は以上です。

   

横浜市民の葬儀・追悼会での参会者挨拶

故人を偲ぶ集いとして、故人様の祥月命日に営む追悼会(ついとうかい)が御座います。

追悼会とは、ご遺族や親しかった方々集まって故人様の思い出を語りあう、ご遺族以外の方が主催する集いで、

故人様のご逝去を悼(いた)んで、あるいは何年か後の然るべき記念日に営まれます。

1 追悼会での挨拶

追悼会に招待を受け、挨拶をされる際に幾つか気を付けなければならない事が御座います。

参会者の挨拶の内容は、故人様に係る回想や、故人様の人柄を示すエピソードの紹介を基本とします。

同時に、ご遺族に悲しみを思い出させてはなりませんし、かといって砕けすぎるのもヒンシュクです。

又、参会者挨拶では、故人様とご自分との関わり合いを紹介しなければなりませんが、

度を越して、自己宣伝に聞こえぬ様注意が必要です。

挨拶の内容が会の開催目的から外れぬ様、気をつけてください。

横浜での海洋散骨

1)挨拶での故人を懐かしむ表現

〇 追慕(ついぼ)の念にかられて居ります。

〇 遅まきながら、今になって父の気持ちが分かる様になりました。

〇 在りし日の姿が心によみがえって、感慨もひとしおです。

〇 面影が心によみがえってまいります。

〇 思い出が胸にせまってまいります。

〇 あの日の事が脳裏(のうり)に焼き付いて離れません。

〇 教えが私の中に脈打(みゃくうつ)って居ります。

2 挨拶例(故人様の教え子)

〇 自己紹介

私は○○先生の弟子の一人で、△△△△と申します。

先生の追悼会が催されるとの事で、松本から駆け付けて参りました。

〇 会主催者へのお礼

先ずは、この会を開催して下さいました、発起人の皆様に厚く御礼申し上げます。

〇 故人を偲ぶ

○○先生のことで真っ先に思い浮かぶのは、初めて先生のお宅に伺(うかがう)った時の事です。

せ先生のお宅にはお茶室がなくて、

お茶をたてて頂いた部屋には生活の匂いのする家具がいくつか置かれていました。

先生は、”無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)”とおっしゃつて、

”何もないところには何でもある様に、何でもあるところには何もないのよ”と説明されました。

私は、訳が分らなくて、きょとんとしていると、

先生は、楽しそうにお笑いになって、”あなたは、わたしのお弟子になりなさい”と言っていただきました。

もう二十五年も前のお話です。

〇 結び

今日は、皆様と共に先生の思い出話が出来ると思い、楽しみにして参りました。

心ゆくまで先生をおしのびしたいと思います。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・追悼会での挨拶

故人を偲ぶ儀礼として、追悼会(ついとうかい)が御座います。

追悼会とは、ご遺族以外の方が主催する故人様を偲び儀礼で、

故人様のご逝去を悼(いた)んで、あるいは何年か後の然るべき記念日に営まれます。

1 追悼会

死者を偲んでで営む仏教の法要では、宗教に定められた一定の式次第が御座います。

それと比べて、追悼会は宗教的儀礼に捉われず、式次第は主催者の望む内容で取り進められます。

従いまして、進行のパターンは様々ですが、中心となるのはスピーチです。

発起人や主催者の挨拶で始まり、参会の方がtそれぞれの思いを語り、遺族の代表も挨拶を求められます。

遺族の挨拶では、追悼会を開いて頂いた事へのお礼が述べると良いでしょう。

追悼会にはご遺族も招かれるのが一般的ですが

事情によりましては、遺族が遠慮されるケースが御座いますが、

出来るだけ出席するのが礼儀です。

出席される時には、追悼会で挨拶される方々と、ご自分がとのタイミングで挨拶するかを事前に確認し、

挨拶の原稿を事前に用意します。

挨拶の内容には、思い出話を求められることを想定して、

参会者各位の知らざるエピソードなどをを用意しておきたいものです。

2 追悼会での遺族代表挨拶(長男)

挨拶例

〇 追悼会開催のお礼

皆様、本日は亡き父のために、この様な盛大な追悼会を催して頂き、誠にありがとうございます。

〇 故人の思い出

皆様のお話をお聞きして、私どもの知らない父のもう一つの顔を知る事が出来ました。

家では、厳めしい頑固おやじでわがままそのものの人でしたのに、

皆様のお話をお聞きして、本当に以外に思って居ります。

そういうひょうきんで楽しい人だと分かっておれば、もっと気軽に口が利けたのにと、

いまさらながら、残念な気が致します。

それはともかくとしまして、こうして皆様と父の思い出話が出来ました事は、

私ども遺族にとりまして、何よりも嬉しい事で御座います。

〇 結び

この様な和やかな席を設けて下さいました事に心よりお礼申し上げ、

お礼の挨拶とさせていただきます。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・年忌法要と弔い上げ

日本文化の中に根ずいて居ります死者追悼の精神は、

日本古来の神道、インド発祥の仏教、中国より伝わった儒教が融合して作りあげられ、

忌日の概念がうまれました。

忌日(きじつ)とは”忌(い)むべき日”のことで、故人様のご逝去され日のことを言います。

仏教に於いて忌日は命日ともいい、故人様がご逝去されて後の月の同じ日を月忌(がっき)、

各年の同月同日を祥月命日(しょうげつめいにち)として法要を営み故人様の冥福を祈ります。

神道に於いても、仏教に準拠して祭祀を営み故人様の霊を偲びます。

キリスト教に於いては、故人様の霊は祝福を受けて神の下に召され

復活の日を待つこととなりますので忌日の概念は御座いません。

1 祥月命日法要

年忌法要も七回忌法要以降になりますと、歳月も過ぎ去り施主側も、参会者側も大きく生活が変化して居ります。

施主様の挨拶の中にも、自身の家庭の近況報告する様になりますが、

同時に参会者の消息を気使う配慮が必要と成ります。

招待した方ではなく、代理の方が出席されている場合には、お斎の席などで、それとなく事情をお伺いして、

ご本人が病気療養中などの場合には、お見舞いや慰めの言葉をかけるのが礼儀と成ります。

妙蓮寺正門

1)年忌法要の終了(弔い上げ)と永代供養

年忌法要の三十三回忌法要は、”清浄本然忌(しょうじょうほんねんき)”と呼ばれ、弔い上げとされます。

三十三年目には、どの様な罪を犯した人でも、清らかな自然の姿に戻り極楽往生できる、

として弔い上げと成ります。

そして、その後の供養はお寺の託し、永代供養をお願いします。

尚、故人様の霊魂が宿るご位牌は、中陰の間は”白木のご位牌、”四十九日の法要後は”本位牌”、

そして弔い上げをもって、故人様はその個性をなくして祖霊(先祖)となります。

白木のご位牌と本位牌には故人様の戒名・法名が記されますが、

弔い上げと共に本位牌を片ずけ、以降”〇〇家先祖の霊”と記された位牌をお祀りすることとなります。

 七回忌法要での挨拶(施主;長男)

挨拶例

〇 出席へのお礼

母○○七回忌法要の施主といたしまして、ひと言お礼のご挨拶を申し上げます。

本日は、お忙しい中、亡き母の七回忌法要にご参列頂きましてありがとうございました。

生前と変わらぬご厚誼を賜り、母もさぞ喜んでいる事と思料致します。

〇 故人様の思い出

光陰矢の如しで、母が逝きましてから六年の歳月が流れました。

六年もたったと言うのに、私の頭の中の母の面影はいっこうに薄らぎません。

むしろ、最近では鮮明に蘇ることも御座います。

不思議な事に、その面影は母の晩年の姿では無く、私が幼かった頃の母なのです。

やはり、子供にとっては若かれし頃の母親の姿が理想の女性なのかもしれません。

〇 宴席の案内、結び

今日は、そんな母を偲びながら、皆様と思い出話をさせて頂ければと存じます。

粗末な膳で恐縮ですが、お飲み物は十分用意させて頂きましたので、

どうか、時間が許される中で、ゆっくりお過ごし下さいませ。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・キリスト教での命日記念ミサ

死者を追悼する追善供養は、日本の文化・慣習の中の大切な行事の一つとして、長らく営まれ続けて参りました。

仏教では法要、神道では霊祭と呼ばれ、故人様ご逝去日をもととする式日に合わせて追悼の会が持たれます。

回忌のお祈りをする慣習を持たないキリスト教に於きましても、

日本では法要の文化に合わせて”記念会”として死者追悼の催しが営まれます。

1 キリスト教の命日追悼の会

キリスト教の場合は、本来、定められた年に追悼の儀式を営む習慣は御座いません。

しかしながら、日本に於きましては日本文化に準拠して、故人様の召天日に合わせて記念のミサを行います。

キリスト教の葬儀

1)カトリック教派

カトリック派に於きましては、特に一年目の召天記念日は盛大な記念ミサを執り行います。

多くの方々を教会に招いてミサを営み、その後には茶話会を設けて参会者を持てなし、故人様を偲びます。

お招き頂いた場合には、生花、若しくは”お花代”として現金を用意して参列します。

参列の際の服装は平服で構いませんが、派手な衣装は避けて、地味な平服で参列します。

2)プロテスタント派

プロテスタントの宗派の場合は、一年目の命日を”召天記念日”として儀礼を営みます。

営む式場は、自宅、教会、墓前のいずれかが選択されます。

教会で営むケースでは、伝道集会と合わせて営むのが一般的となります。

仏式や神式とは異なり、簡素に営まれます。

それ以降の営みに決まりはありませんが、ご喪家のご希望に合わせて、毎年営む事も許されます。

お招きを受けた際の心得は、カトリック宗派と同様です。

2 召天記念会。茶話会での挨拶

挨拶例

〇 参会へのお礼

皆様、お久しぶりです。

本日は、ようこそ弟の召天記念ミサに参列頂きまして、心からお礼申し上げます。

先ほど施主より開会の挨拶をさせて頂きましたので、お前はもういいよと言われそうですが、

お開きの挨拶ということで、親族を代表して兄の私からひと言挨拶させていただきます。

〇 故人の思い出

弟の○○は三十台の若さで召天致しましたが、思えば私などよりずっと中身の濃い毎日を送っていたようです。

とくに発病してからは、人間性が研ぎ澄まされてゆき、心の深さを感じる様になりました。

彼が、家族に残したものは、計り知れないほど多く、大きかった事は事実です。

〇 支援のお願い、結び

皆様には、弟が召天しましてから、残された妻と子供たちに対しまして、

温かいご指導とご支援を頂きおります事、心から感謝致して居ります。

これにて、お開きとさせて頂きます。

本日は、ありがとうございました。

   今回は以上です。

横浜市民の葬儀・回忌法要での施主挨拶

法要とは、仏教に於いて開祖釈迦の教えを仏法と言いますが、その仏法の要点・肝要を知る事を指します。

それが、日本に於きましては時代の流れと共に変化し、

仏教行事の中の儀式祭礼(法事・仏事・法会など)全般を指すようになりました。

更には、追善供養、即ち死者を弔う儀式を指す様に成りました。

法事、仏事とも言います。

尚、供養以外に、寺の創立記念、堂宇の完成記念、仏像の開眼などの慶事も含みます。

1 回忌法要

回忌法要は、故人様の冥福を祈る為、定められた年の祥月命日に

一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、二十五回忌と営み、三十三回忌をもつて”弔い上げ”として回忌法要を終了し

故人様の霊は個性を失くして、先祖の霊の中に入ります。

横浜での海洋散骨

1)法要の日取り

法要は定められた年の祥月命日に営む事が原則ですが、種々の事情により命日に営めない場合には、

法要の日取りを変更しても構いません。

変更する場合は、命日より遅らせると、ないがしろにしているとの誤解を受ける事も御座いますので、

必ず、祥月命日より前にずらすようにします。

横浜の多くのご喪家では、祥月命日の前の休日を選択さて居ります。

尚、同じ年に二つ以上の年忌法要を営む必要がある場合には、

”併修(へいしゅう)”とよばれる複数法要の同時開催も可能です。

その場合には、命日の早い方に合わせて年忌法要を営みます。

散骨

2)神式の年祭

神道に於きましても、仏式に準拠して故人様の祥月命日に冥福を祈って儀式を営みます。

この儀式は”式年祭(しきねんさい)”と呼ばれ、

一年祭、三年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭、四十年祭、五十日蔡、百年祭と続きます。

この中で、一年祭と十年祭は参会者をお招きして盛大に営むべきとされます。

儀式が終了した後には、直会(なおらい)と呼ばれる宴席を設けるのは、仏式の法要と同様です。

式年祭の招待を受けた場合には、”玉串料”を用意して、地味な平服を着用して出席します。

2 三回忌法要での施主挨拶(長男)

挨拶例

〇 出席へのお礼

皆様、本日は亡き父の三回忌法要にお越しいただきまして、ありがとうございました。

〇 葬儀へのお礼

皆様には、葬儀の折りとその後の法要でも、ありがたいご厚志を賜り、心より御礼申し上げます。

〇 無沙汰を詫びる

日頃はご無沙汰ばかりいたしまして、誠に申し訳なく思い居ります。

こうして、皆様のお元気そうなお顔を拝見いたしますと、安心するやら、懐かしいやらで、

春の風に吹かれる心地がいたします。

父も、あの世から拝見してさぞ喜んでいる事と思慮致します。

〇 心情

最近、話し方や仕草が父に似て来たと言われます。

その様に言われますと、やはりカエルの子はカエルですね。

〇 宴席の案内、結び

本日は、別室に昼食の用意をさせて頂きました。

どうか、父の生前を偲びながら、ゆっくりお過ごしくださいませ。

本日は、誠にありがとうございました。

   今回は以上です。

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