横浜で葬儀、お葬式ならひかりの杜
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ひかりの杜
〒222-0033
神奈川県横浜市港北区
新横浜3-2-6
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TEL : 0120-264-664
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葬儀横浜神奈川区、葬儀費用の困窮者支援制度
昨日は4月1日新会計年度の始まり、と共にエイプリルフールでした。 エイプリルフールの日は一日中”噓をついても良い”とされる世界共通の風習として定着して居ります。 但し、イギリスでは噓をつけるのは正午までとされています。 エイプリルフールが何時、何処で始まったのか、その起源は不明です。 然しながら、その起源説はインド、中国、ヨーロッパのフランス・イギリスなどでそれぞれに仮説が有り、世界共通の風習である事が分ります。
お問い合わせ;
過日、横浜市神奈川区内の女性の方よりお電話を頂き; ”ご母堂様がご逝去、母子二人で倹しく暮らしていたが蓄えも無くどの様にして見送れば良いか分らず、教えて欲しい”とのこと。 実情をお伺いする為、面談のご了解を得てご自宅に急行致しました。 ご母堂様は急な病を得て往診医の診療の下でご逝去されましたが、 ご母堂様の蓄えを確認したところ残金は無く、ご自身にも余分な蓄えも無い事から途方に暮れて、ひかりの杜へ電話をされたとの事。ひかりの杜よりのアドバイス;
まずは、お二人が居住されている神奈川区役所生活支援課に相談する事をお勧めし、 ご母堂様のご遺体保全の為のドライアイスを当てた上で神奈川区役所生活支援課に同行致しました。 生活支援課ではケースワーカーの方をアサインして頂き、実情を説明して支援をお願い致しました。 お話合いの結果、お二人を生活保護受給者として受理して頂く事となり、即日その手続きを行いました。 その結果、ご母堂様のお見送りは生活保護者に対する葬祭補助費用の範囲で営む事となりました。
ご母堂様のお見送り;
最初にご母堂様のご遺体をご自宅に安置しておく事が難しいので、ご遺体をひかりの杜遺体安置所に移送させて頂きました。 葬祭補助の範囲ではご火葬のみを営む”直葬”でのお見送りとなりますので、火葬炉としてご自宅に近い横浜市久保山斎場を予約致しました。 ご火葬当日は、 先ず、担当者の手により、ひかりの杜遺体安置所内でご母堂様のご遺体をお浄めし、衣服を正してお柩にお納めし、横浜市久保山斎場に向けて出棺と成りました。 横浜市久保山斎場入口にてご息女と合流し、火葬炉前で最後のお別れをされ、荼毘に付されました。 ご火葬終了後は横浜市久保山斎場担当者の下で拾骨をされ、御見送りは滞りなく営む事が出来ました。 以上全ての費用は葬祭補助の範囲でお手伝いさせて頂き、ご息女が負担される費用は御座いませんでした。 今回は以上です。葬儀横浜神奈川区、保険求償での葬儀
3月31日は期末の最終日です。 最後の締めでお忙しい一日と拝察いたします。 48年前(昭和47年、1972年)の3月31日は横浜市民の足として多くの人々に利用されていた横浜市路面電車運行の最後一日でした。 横浜市電は明治37年(1904年)に運行を開始し、68年間に渡って運行され48年前の本日が最終運行日となりました。
横浜市電保存館(磯子区滝頭3丁目)に展示されている横浜市電車両
ご遺族様からのお問い合わせ
過日、横浜市内の男性の方よりお電話を頂き ”ご妻女がご逝去、葬儀の費用は保険求償後の清算でも可能か?”との問い合わせをいただきました。 ”問題無く可能です”、とお答えして面談を希望し、ご了解を得て横浜神奈川区内の病院に急行致しました。ご遺族様のご希望
ご妻女様は永らくの闘病生活の後にご逝去され、ご主人様も会社生活から退職後それなりの時間を経て居り、社会への告知は必要ないので、ご家族・近親者のみでお見送りしたい。 ご葬儀は仏式で営みたい。 但し、故人様・ご遺族様共に特定の宗教・宗派を信仰している訳ではないので、然るべき僧侶を紹介して欲しい。 ご葬儀の会葬予定人数は15名。 ご自宅でのご遺体安置が困難な為、葬儀社の安置所を利用したい。 葬儀費用の清算は保険求償入金後としたい。ひかりの杜よりのご提案
-葬儀の導師として現代葬儀の原型を創り上げた曹洞宗の僧侶を推薦し、お布施・その他の費用に付きご説明。 -葬儀式場は費用的に廉価な横浜市営斎場のご利用をお薦めして、横浜市北部斎場の費用をご説明。 -葬儀費用は廉価でご利用し易い”ひかりの杜家族葬プラン”のご利用を推奨して、その内容と葬儀の流れをご説明。 -ひかりの杜遺体安置所の設備・費用をご説明。 -僧侶依頼の費用及び式場・火葬炉利用料は現金でご用意いただく必要があるが、ひかりの杜関連費用は保険金入金後の清算で良い旨をご説明。 以上のご説明、質疑応答をさせて頂いた後に見積書を提出させて頂き、ご承認を頂き申込書を受領して、ひかりの杜のお手伝いが確定致しました。 [caption id="attachment_5527" align="alignnone" width="300"]
葬儀横浜、新型コロナウィルスへの対応
この週末は横浜でも新型コロナウィルス拡散防止の為の外出自粛週末となりました。 横浜市内の多くのショピングモールも食料品売り場を除いてお休みとなって居ります。 この状態は治療薬やワクチンが出来上がるまでの半年から1年簡は続くのでしょうか。
コロナウィルスに感染した方のご葬儀;
万一新型コロナウィルスに感染されてご逝去された方のご遺体は第二次感染を防ぐ為に、出来るだけ早期にご火葬されなければなりません。 従いまして、ご遺体は先ずご火葬を優先し、その後にご葬儀を営む事と成ります。ご遺体の移送;
ご遺体の移送に当たっては第二次感染を防ぐ為に細心の注意が必要と成ります。 先ずご遺体は非透過性の納体袋にお納めして、完全な消毒を施します。(この作業には防護服が必要な為、病院の方にお願いする事となります)。 お柩へは納体袋に納められた状態でお納めする事となります。 お柩は医療機関から火葬場まで、直接搬送させて頂きます。 ご自宅での安置、ひかりの杜遺体安置所でのお預かりは出来ません。 ご遺体の搬送に当たり、ご遺族の方の搬送車・霊柩車への同乗は出来ません。 尚、ご遺体の搬送に際してひかりの杜担当者は、マスク、手袋、ゴーグル等を着用させて頂きますが、ご理解の程お願い申し上げます。 今回は以上です。葬儀横浜神奈川区、駅近くでのご葬儀
いよいよ米国ワシントン・ポトマック公園の桜並木も見頃の季節となりました。 この桜の苗木は1912年(明治45年)3月27日、当時の東京市からアメリカ合衆国に贈与され、ワシントン・ポトマック川沿いに植樹されて、現代の春の風物詩となりました。 [caption id="attachment_5925" align="alignnone" width="300"]
お問い合わせ
過日深夜にお電話を頂き、”ご妻女様がご逝去、横浜神奈川区内の駅周辺での葬儀は可能か?”とのお問い合わせを頂きました。 ご希望に合わせてご用意可能とお答えをし、面談のご了解を得て、ご指定の病院に急行させて頂きました。 ご妻女様は永らく横浜神奈川区を中心として各種のボランティア活動に従事されて居り、 ご葬儀はご妻女様のご友人を中心にして営みたい。 ご友人の方々が公共交通機関を利用して参列頂ける様、駅から徒歩で来場頂ける式場をご希望。 ご葬儀は仏式(曹洞宗)で、会葬予定人数は約100名程度。 尚 菩提寺はお持ちでなく、曹洞宗僧侶の紹介をご希望。 又、ご遺体はひかりの杜での保管をご希望。ひかりの杜よりのご提案
駅近くの式場としてJR京浜東北線東神奈川駅(京急東神奈川駅、旧仲木戸駅)近くの宗興寺会館をご紹介。 火葬場は廉価な横浜市営の横浜市久保山斎場(横浜西区内)をお薦め。 葬儀費用は廉価な”ひかりの杜一般葬プラン”のご利用をお薦めして、その内容と流れをご説明しました。 以上の概要と概算費用をご了解頂いた後、ご遺体をひかりの杜遺体安置所へ搬送させて頂きました。 [caption id="attachment_5926" align="alignnone" width="300"]
葬儀横浜神奈川区、横浜市北部斎場で一日葬
本日は3月25日、3月25日の花は”カキツバタ”です。 カキツバタはアヤメ科アヤメ属の植物で、その花言葉は”希望””信頼””友情”などです。
小規模医療法人殿より;
過日、横浜神奈川区内の小規模医療法人殿よりお電話を頂き、”同院の患者様がご逝去、対応は可能か?”との問い合わせを頂きました。 お手伝いは可能、とお答えしてご指定頂いた患者様のご自宅に急行致しました。ご遺族様のご希望;
故人様は高齢の男性の方で、”ご自宅で生涯をまっとうしたい”との故人様のご希望から医療法人殿より医師の往診を受けて加療中でありましたが、昨夜ご逝去されたとの事。 ご遺族様は故人様のご妻女とお嬢様のお二方。 故人様は永らく町内会の世話役なども務められた事から、広く故人様のご逝去を知らしめるべくご葬儀を営みたい。 但し、奥様は高齢で体力も十分では無い為、葬儀・告別式のみの一日葬で見送りたい。 ご葬儀は仏式で浄土真宗高田派の菩提寺ご住職をご導師として営みたい。ひかりの杜よりのご提案;
前記のご希望を前提に; 1 式場は費用も廉価な横浜市北部斎場のご利用を推奨。 2 葬儀費用は一日葬である事から”ひかりの杜一般葬Lightプラン”のご利用を推奨して、その内容と流れをご説明。 3 プラン以外で追加ご希望可能な項目とその費用をご説明。 4 菩提寺へは故人様のご逝去をご連絡頂き、以降の詳細は全てひかりの杜担当者が対応する旨をお約束。 以上の内容をご理解頂き、見積書を提出、ご了解を得て申込書を受領、ひかりの杜でのお手伝いが確定致しました。
葬儀・告別式;
葬儀・告別式の前日にご自宅にて、 -ご遺族・ご近親の方々の手により故人様のご遺体は清められ、衣服を改めて、お柩をにお納めし、ご出棺となりました。 -その後はひかりの杜担当者の手でお柩は横浜市北部斎場に移送され、式場内に安置されました。 -当日、通夜は営まず、ひかりの杜担当者により式場・お柩の保全が図られました。 葬儀・告別式の当日は午前10時より、 約100名の方々の会葬を得て、浄土真宗高田派のご僧侶のご指導の下、葬儀・告別式・初七日法要・火葬・拾骨が営まれ、全て恙なく終える事が出来ました。 今回は以上です。横浜神奈川区、火葬儀(直葬)プランと僧侶読経
”寒さ暑さも彼岸まで”と良く言われますが、春のお彼岸明けとなる本日は生憎花冷えの日となってしまいました。
直葬のご依頼;
過日、男性の方よりお電話を頂き”ご尊父様がご逝去、相談に乗って欲しい”との問い合わせを頂き横浜神奈川区内のご自宅に訪問させて頂きました。 ご遺族様のご希望は; ーお見送りは社会に対する告示など必要無いので、通夜・葬儀は営まず、ご妻女・ご子息お二人の3名のみで静かにお見送りしたい。 ーご遺体はご自宅に安置し、ご火葬のみの直葬をご希望。ひかりの杜よりのご提案;
前記のご希望を頂き、”ひかりの杜火葬儀プラン”のご利用を提案して、その内容と流れをご説明しました。 プラン外費用としては2日目以降、火葬炉利用日までのご遺体保全の為のドライアイス費用のみです。 ご利用頂く火葬場は横浜神奈川区のご自宅に最っとも近く、費用も廉価な横浜西区の横浜市久保山斎場をお勧めして、その費用をご説明しました。 以上の内容をご理解頂いた後、見積書を提出し、ご了解を頂いて、申込書を受領し、お手伝いを確定させて頂きました。
追加のご依頼;
ご了解を頂いたご提案の内容に基ずき準備させて頂いた後にご子息よりお電話を頂き、 ”その後考えるに、僧侶の読経無しに見送りを終えるのはあまりに寂し過ぎるので、自宅に曹洞宗の僧侶をお招きして法要出来ないか?”とのお話。 僧侶へのお布施、法要葬具のご利用費用、を前提としてお手伝い可能とお答えして、ご了解を頂き火葬場への出棺まえに法要を営む事としました。ご火葬当日;
早朝にご遺族様の手で故人様のご遺体をお浄め頂き、柩の中にお納めしました。 そのお柩を居間に安置し、その前に簡易祭壇を設営し、法事に必要な五具足、木魚、鈴を配置して準備を整えました。 その後、曹洞宗僧侶をご導師としてご遺族お三方により法要が執り行われました。 以降、僧侶の同伴を得て、出棺、火葬炉前読経、火葬、拾骨と営まれ、ご遺族は納得して故人様をお見送りする事が出来ました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、西寺尾火葬場での直葬
令和2年、新型コロナウィルスの嵐が吹き荒れる中、春のお彼岸も終えようとして居ります。 今年の中日は20日でしたが、ご先祖様や故人様を偲んでお墓参りに出かけられたご家族も多々居られた事と拝察致します。
御家族様よりの希望;
現在、ご母堂様が港北区内の病院で病気加療中。 昨日、担当の医師より”万一の場合の準備を”との診断を受けたとの事。 ご母堂様はすでに高齢で、長期の入院加療を受けて居られる事からご友人も無く、葬儀式は営まずに火葬のみでお見送りしたい。 火葬はご自宅近くに所在する西寺尾火葬場での荼毘に付したい。 又、お柩の中のご遺体を飾るお花を用意して欲しい。ひかりの杜よりのご提案;
ご家族様のご希望に従い、”ひかりの杜火葬儀プラン”のご利用を推奨し、その内容と流れを説明させて頂きました。 他に必要な費用として、西寺尾火葬場での費用明細、お花代、ご遺体の移送が深夜の場合、等に付きご説明。 以上の内容は”ご家族様が考えた費用の範囲内である”との事で、ひかりの杜へのご依頼を頂きました。 その後、万一の場合は24時間対応可能の旨をご報告して辞去致しました。
横浜市港北区駅前でのご葬儀にあたってのご質問をいただきました
いよいよ春分の日を迎え、日照時間も夜間の時間を超える日々、春爛漫の季節到来となりましたが、残念ながら新型コロナウィルスの為、制限の多い日々を過ごさなければなりません。
ひかりの杜宛てにお電話を頂き、”ご母堂様がご逝去、ご遺体引取りにどの程度の時間で来れるか?”との問い合わせを頂きました。
車の混雑状況により差異が出来ますが1時間以内、通常であれば30分でお伺い出来ます。と回答し、了解を得て病院に急行致しました。ご遺族様のご希望
1 ご母堂のお見送りは菩提寺(浄土真宗)ご住職による仏式ご葬儀をご希望。 2 会葬予定者数は約100名前後。 3 式場はご自宅の近くで、会葬者の便を考え駅の近くをご希望。ひかりの杜よりのご提案
以上のご希望を前提に 葬儀式場は東急東横線妙蓮寺駅前の妙蓮寺斎場、火葬場は横浜市久保山斎場、葬儀は”ひかりの杜一般葬プラン”をご利用頂く前提で提案させて頂き、 ご了解を得て、ご遺体を病院からご自宅へ移送させて頂きました。妙蓮寺斎場
妙蓮寺斎場は東急東横線で横浜駅から三つ目の妙蓮寺駅前に位置する私営の斎場で、大変交通の便の良い斎場であります。 又 お車で来場の場合は 首都高速神奈川1号生麦インター、もしくは 第三京浜道路新横浜インターをご利用頂き、いずれのインターからも15分程度の時間で斎場に到着が可能です。 遠方より来られた参列の方々にも、横浜駅周辺のホテルにお泊り頂き、東急東横線をご利用頂いて10分以内で斎場においで頂く事が可能です。 現在の妙蓮寺境内には二棟の葬儀式場棟が建てられおり、宗旨・宗派に係わらずこれらの式場を利用出来る形となって居ります。
妙蓮寺斎場 第一斎場 正面
正門をくぐりますと左手に第一斎場があり、式場内席数100席 参列者500人規模の葬儀を営む事が出来ます。
又 右手墓地の脇の坂道を上りますと第二斎場があり、一階では式場内席数40席 参列者100名規模の葬儀が、二階では蓮華の間として席数10席 10名規模の家族葬と初七日法要を営む事が出来る別室が用意されて居ります。 第一斎場、第二斎場共に和室の遺族控室が付属して居り、5名前後の通夜仮眠が出来る様になって居り、浴室・シャワーも完備しております。家族葬専用式場
妙蓮寺斎場には他に、家族葬専用の式場も用意されて居ります。 最大10名のご家族様が故人様との大切な思い出やお別れを語らい特別料理でお別れを惜しむ専用の空間が用意されて居ります。ご遺体の保管
又 妙蓮寺斎場ではご遺体の保管設備が用意されて居り、ご遺体をご自宅に安置出来ない場合でも 斎場内に安置する事が可能です。ご火葬
妙蓮寺斎場は交通の便の良さから 御選択頂くご葬家様がほとんどのケースですが、 妙蓮寺斎場をご利用頂いた場合の火葬場は マイクロバスをご利用頂き、近所の西寺尾火葬場(私営)、若しくは横浜市久保山斎場(市営)をご利用頂くのが一般的です。長光山妙蓮寺
長光山妙蓮寺は日蓮宗の寺院で、1350年に現在の神奈川区神明町に妙仙寺の名称で建立されました。 明治時代 横浜線設営の為、移転を余儀なくされて、菊名池畔にあった蓮光寺を移転先として合併し、妙仙寺の妙と蓮光寺の蓮を合わせて妙蓮寺と改名し、現在に至って居ります。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、桜の花に囲まれて家族葬
今年も桜の季節が巡って参りました。 横浜市内も昨日3月15日に開花宣言がなされこれから2週間程は爛漫の桜を満喫できる季節です
ご尊父様が事故でご逝去;
横浜市内の男性の方よりお電話を頂き; ”ご尊父様ご逝去、家族葬で見送りたいが、対応可能か? との問合せを頂きました。 具体的な説明をさせて頂くべく前提なしでの面談のご了解を得て、ご遺体が安置されている鶴見区の病院へ急行させて頂きました。 ご尊父様は元気に生活されていたが入浴中に意識を失い、気が付いたご家族の連絡で救急車により病院に搬送され、医師の処置を受けたが蘇生出来なかった、との事。 かかりつけ医師を持たないケースでのご逝去である事から所轄警察署の取り扱い案件となり、病院より港北警察署へ報告がなされました。 通報を受けて港北警察署係官が来院して、担当医師の同席の下検視がなされました。 その後、係官の指示に基いてご遺体を港北警察署にご移送し、鑑識係官の検視を再度受けた後にご遺体がご家族に戻されて、ご自宅に安置されました。 但し、検視医の検案が必要との事で、翌日港北警察署より指定された横浜市中区の検視医医院にご遺体を搬送し、検案を受けて死体検案書が発行され、故人様の自然死が確定しました。 横浜市内の場合 この間のご遺体の搬送費用、及び 検案の費用(2万円~7万5千円、状態により費用は変化、現金での支払いが必要)はご遺族の負担となります。 その後、改めてご遺体をご自宅に移送して安置させて頂きました。
新横浜駅前公園の桜花
ご遺族のご希望;
鶴見区内の病院でご遺体の検死を受けている間にご遺族様のご希望をお伺いしました; 1 横浜市内に檀家寺をお持ちで、そのご住職を導師として浄土真宗の作法に従いお見送りをしたい。 2 ご葬儀の式場はご自宅の近くで、会葬者は親族のみ10名で限定。 3 通夜式後のお清めの席は 10名のみでゆっくり食事を楽しみたい。 4 故人様はこよなく桜を愛されて、季節になるとご妻女と共に日々桜を見に散策されて居られたとの事。 以上のご希望をお伺いして、ひかりの杜家族葬プラン、通夜式・葬儀式・初七日法要の式場は妙蓮寺斎場家族葬専用式場、式場祭壇は上部に花を付けた桜の枝をかざして設営、お料理は式場指定の懐石コース(1万円/名)、ご火葬は横浜市久保山斎場、を前提としてご提案させて頂き、ご了解を得てお手伝いさせて頂く事となりました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、江戸時代の葬送
今回は葬儀横浜港北区、江戸時代の葬送に付いて書かせて頂きました。
村落と寺院;
江戸時代に入りますと、惣村を支配してきた大百姓は徐々に没落して行き、村は平均的な本百姓によって構成される様に成ります。 それに伴い、大百姓の菩提寺であった寺院や道場はそれぞれ独立をして、村惣堂や惣道場となり地域共同体の精神的な支柱となり、共同体内の結びつきを強化する糧と成ります。一家一寺;
江戸時代初期の段階では、家の構成員である夫と妻女が別々の寺院に帰依する事も許されて居り、寺院の檀家制度はそれ程明確ではありませんでした。 然しながら17世紀も後半に入ると、江戸幕府による寺請制度の推進と、自立した農民層が広く構成され始めた事と合わせて、一家一寺の関係が確立して行きます。 一家一寺の制度は、祖先崇拝を強め、一家の菩提寺として寺院の財政基盤を支える事となり、葬祭・仏亊を寺院に委託するが定着します。
庶民とお墓;
安土・桃山時代までの庶民が墓石を備えた墓を持つことはありませんでした。 江戸時代に入り、庶民にも家制度が取り入れられ、寺院と檀家の関係が確立して行くと、自家の墓を建てる事とが普及して行きました。 それまでの庶民は、地域共同体内の墓地と指定された区域に順次埋葬したり、放置したり、して居りました。 それが、家制度の確立と共に自らの墓を所有する様になります。 日本の近世、農民階級の自立により、家制度が創りあげられ、先祖崇拝と家の象徴として墓が建てられる事と成ります。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、室町時代農村の確立と庶民の葬儀
今回は葬儀横浜港北区、室町時代農村の確立と庶民の葬儀に付いて書かせて頂きました。
中世日本の民衆の葬儀;
現在の葬儀原型は鎌倉、室町時代に出来上がったというのが定説です。 それと共に貴族、上級武士だけではなく一般民衆にも葬儀の習慣が少しずつ浸透し始めました。 それまで民衆の遺体は川原や野原などに放置されて居りました。 時にはそれが余りに酷い為 鎌倉幕府は遺体をむやみに放置せぬ様 通達を出しております。仏教の普及と民衆葬儀;
鎌倉・室町時代、浄土宗開祖法然、浄土真宗開祖親鸞、どが親孝行の実遷のひとつとして葬儀を行うよう推奨しました。 さらに葬儀の型式は何故か自己修養が主体である禅宗により整えられ、その型式が各宗共通の型式となり全国へ普及していきます。 インド仏教の葬儀は簡単な儀礼のみでしたが、中国に伝わり道教の中で形が整えられ、日本に伝来し禅宗の中により多くの知識が蓄積されてゆきました。 鎌倉、室町時代は兵農一体の時代であり、織田信長の兵農分離まで農民は日々田畑を耕すとともに、領主の意向に応じて戦に出る生活でした。 従いまして一般民衆にとって 死は身近な存在でありました。 鎌倉幕府による遺体放置禁止令、また浄土宗・真言宗・浄土真宗・日蓮宗などの布教活動のもと、埋葬の習慣が少しずつ定着していきます。 もちろん費用の掛かる火葬などは出来ませんので、墓地にて僧侶による簡単な葬礼の後土葬される様に変化して行きます。 日本古来の宗教である神道では死は忌むべきもので有りますが、身近な問題でもあり、墓地は所有する土地の中の家から一番離れた場所、例えば田畑の片隅もしくは惣村の共同墓地などに埋葬される様になります。 葬礼型式も各宗派ごとに決まりは有りますが、地域の文化と融合し地域独特の葬礼型式が出来始めるのはこの時代からです。
仏教の民衆化と葬儀;
惣村が形成される事により自立した農民達は経済的な余裕も出来始め寺院を支える事が可能と成ります。 この状況を背景に仏教の各宗派は各地に進出して、寺や道場が造成され、仏教の民衆化が進捗します。 惣村を中心とする庶民に葬祭の営みを強く推し進めたのが浄土宗でした。 又、曹洞宗、真言宗、日蓮宗、浄土真宗(一向宗)などの各宗派も葬祭を中心として信徒の拡大に努めました。 そこから、民衆の間での葬祭仏教化が顕著となって行きます。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、鎌倉時代の葬儀
今回は葬儀横浜港北区、鎌倉時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。
葬儀式場;
この時代、仏亊は龕堂(がんどう)と火葬場の二ヶ所で営まれて居りました。 龕堂とは故人様のお柩を安置しておくために造られる建物を言います。 龕堂はお寺や自宅の片隅、若しくはご遺体を火葬する火屋に対面する形で建てられました。 現代日本で営まれる葬儀式の原型は龕堂での仏亊であり、龕堂が葬儀斎場であるとも言えます。葬儀式次第;
まずは、ご遺体を湯灌し、剃髪して、新しい清浄な着物をお着せします。 その上でご遺体を棺に納めて、龕堂内に安置し、棺を袈裟などで覆いました。この袈裟が現代の棺覆いの原型と考えられます。 安置した柩の前に小机を置き、その上を白内敷で覆い、祭壇とします。 祭壇には、花・香炉・燭台(現代の三具足)を供え、他に故人様が愛用した道具類も供えました(現代の枕飾り、祭壇に該当)。 以上を整え終えた後、一同が参集して仏亊が営まれます。 僧侶が法語を唱え、焼香し、茶湯を献じ、読経、回向と続きました。
式場内の造作;
この時代、龕堂にお柩を安置した後に部屋の周囲には白幕が張り巡らされました。 又、お柩を安置した後に、故人様の肖像画を須弥壇に飾る”掛真(かしん)の儀式”が営まれました。(現代のご遺影につうじます。)ご火葬;
ご火葬の当日の夕刻に出棺の儀礼を行い、葬列を組んで火葬場(火屋)に向かいます。 火葬場では仏亊を営み、その後にお柩は荼毘に付されました。 翌朝、近親者は火葬場に赴いて、故人様の焼骨を拾骨して、ご自宅又は寺院に安置して、安位仏亊を営みました。 鎌倉時代の禅宗では、龕(棺)前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と、ご遺体を移動させたり故人様に加持を営む毎に仏亊を重ねる事が基本でした。 然しながら、時代と共に簡略化されてゆき、自宅(葬儀式場)と火屋での仏亊のみへと変化して行きました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、禅宗の葬儀
今回は葬儀横浜港北区、禅宗の葬儀に付いて書かせて頂きました。
禅苑清規;
禅宗寺院での行事、制度等について述べられた書としては”禅苑清規”が御座います。 禅苑清規は禅宗の清規を述べた書としては現存する最古の書籍であり、中国の宋の時代に雲門下七世、慈覚大師宗賾により編纂されました。 日本の禅宗に於いても禅苑清規を基にして、受戒、上堂、監院、知客、化主、葬送儀礼等が営まれます。亡僧喪儀法(ぼうそうそうぎほう);
禅宗僧侶の葬儀は、出家した僧侶の葬儀次第を定めた”尊宿喪儀法(そんしゅくそうぎほう)”と、修行の途上で亡くなった僧侶の葬儀次第を定めた”亡僧喪儀法”の二つに分かれて居ります。 尊宿喪儀法は亡くなった僧侶とその弟子達に弔意を示すことが中心で、 亡僧喪儀法は死に臨み修行途上の僧侶の心中を拝察して、仏法の真理を伝授しようとする願いが中心と成りました。 この亡僧喪儀法を基にして、浄土教や密教の理念が加えられ、念仏や往生祈願なども摂り入れられて、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)が確立して行きます。壇信徒喪儀法;
現在の仏教葬儀の原型は亡僧喪儀法から発展して制度化されました。 その主旨は、故人様のお経を読んで覚りを得させ、僧にする印として剃髪し、戒名を授け、引導を渡して成仏させることです。 これらは作法は故人様をご逝去後に僧侶とすることから”没後作僧”と呼ばれます。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、日本に於ける仏式葬法の始まり
今回は葬儀横浜港北区、日本に於ける仏式葬法の始まりに付いて書かせて頂きました。
現代日本の仏教葬;
現代の日本に於けるご葬儀はそのほとんどが仏式で営まれて居ります。 日本に於ける仏式のご葬儀の形態は中国・朝鮮半島を経由して伝来した後、徐々に日本古来の宗教神道と融合しながら日本文化に浸透して行きました。 平安時代にはそれなりの儀礼形式が創りあげられてゆき、鎌倉時代の禅宗(曹洞宗)伝来によりその原型が出来上がったとされます。 現代の仏式葬儀の多くは、仏弟子となる為の戒を授ける授戒と、亡者を悟りの彼岸(西方浄土)に導き済度するための引導が、儀礼の中心となって居ります。 これは浄土真宗を除く全ての宗派で共通して居ります。仏教葬の軌跡;
仏教が誕生したインドに於ける当時の葬儀儀礼は、ご遺体の火葬の際に”無常経”をとなえる程度でした。 その後中国に伝わり、現地の儒教の葬送儀礼の影響を受けて、儀礼は整えられてゆきました。 特に禅宗ではその影響を強く受けました。 禅宗の規範を示した書籍の一つとして、現存する最古の文書に”禅苑清規”と題された書籍が有り、その中に書かれている葬送儀礼が仏教葬儀の原型であるとされます。
禅苑清規;
禅苑清規とは、禅苑は禅寺を指し、清規とは規範を現します。 中国宋の時代に作成され、全10巻から成る禅宗の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や日常の行法などを記したものです。 禅苑清規は鎌倉時代に宋(中国)に渡り修学した後、日本に帰国して曹洞宗を開いた道元禅師によりもたらされたとされます。 禅苑清規の中に書かれている、禅僧に対する葬送儀礼を元にして、現代日本の葬送儀礼の原型が出来上がったと言われて居ります。 鎌倉時代は貴族階級が没落し、武士が興隆して、民衆は厄災苦難に悩まされた時代でもありました。 この様な背景のもとに 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場します。 禅宗の葬儀では出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と、修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っに分かれておりました。 尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心で、亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして、仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。 この亡僧喪儀法に浄土教や密教の念仏や往生祈願が取り入れられて発展し、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。 在家の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として剃髪し戒名を授け、そして 引導を渡して成仏させます。 これを、死後に僧侶にする事から”没後作僧”とよばれます。 現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、鎌倉・室町時代の貴族。武士の葬儀
今回は葬儀横浜港北区、鎌倉・室町時代の貴族。武士の葬儀に付いて書かせて頂きました。
吉事次第;
鎌倉・室町時代の貴族や武士階級の葬儀の次第を記した文献として、”吉事次第”(著者、作年不詳)があります。 この中には、当時の天皇・貴族の間で行われた葬儀の概略が書かれて居ります。この時代には蔡事或いは凶事という言葉が忌み嫌われ、葬儀のことを吉事或いは勝事とよんで居たと考えられます。
鎌倉時代の仏教界;
鎌倉時代には 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が興されました。
貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、民衆は厄災に悩まされる事に成ります。
日本に於ける 武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。
その基になるのは中国で編纂された禅宗の葬法で、本来は僧侶の為の葬法ですが それに手を加えて武家や民衆の葬法と変化して行きました。
鎌倉市の花・りんどう
鎌倉時代の仏式葬儀;
吉事次第には 以下のように書かれて居ります。 まず人が亡くなると寝床を北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。 香は燈火の火を点けて焚く。 夏は酢を容器に入れて死臭を消す。 人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。 棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。 棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。 納棺は褥のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。 そして、頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて葬儀の時まで北枕で安置する。 葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り荼毘に付す。 拾骨は焼骨をカメに納めて光明真言をもって土砂加持をし、蓋をして白の皮袋に包む。 そのご遺骨は三昧堂に納める。 葬儀・火葬が終れば貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。 この当時は葬儀の後、魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。 七七日と一周忌の法要は以前から有りましたが、この時代から三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、極楽往生の為の葬儀
今回は葬儀横浜港北区、極楽往生の為の葬儀に付いて書かせて頂きました。
二十五三昧講;
二十五三昧会の思想は日本国内に広く影響を与えます。 以降、日本各地で二十五三昧講が作られる様になり、多くの念仏集団が務めを果たす様になります。 こうした念仏講は”疑̪死再生の逆修”という考えを生むようになります。 すなわち、一度往生する事により穢れが清められ、病気が治り、長生きが出来、最後には安楽死で往生できる、という信仰で民衆の間に広まりました。 二十五三昧会は臨終行儀と死後の世界を大切にした結社でしたが、後には死後の世界が中心へと変化して行きました。 平安時代末には寺院である往生院は臨終に際してのものではなく、死後の葬祭に事へと変化して行きました。
恵心僧都源信;
二十五三昧会結成の中心人物の一人であった恵心僧都源信は三昧会結成の前年に”往生要集”(極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書)を著しました。 往生要集は1部3巻からなり、巻上は第1章から第4章まで、巻中は第5章から6章まで、巻下は第7章から10章までの総十章で記され; 巻上では、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説き。極楽浄土に生れる十楽を説き、 正修念仏--浄土往生の道を明らかにしました。 巻中では、念仏修行の方法論、臨終の念仏を説き。 巻下では、 念仏利益--念仏を唱えることによる功徳、 念仏証拠--念仏を唱えることによる善業、 往生諸行--念仏の包容性、 問答料簡--何よりも勝れているのが念仏であると説き。 念仏による浄土信仰の全てを記した教科書ともいえます。 そして、浄土教の宗教家の多くは地方へと、民衆の中えと入って行き、念仏三昧の浄土教は民間葬祭の中心となって行きます。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、浄土教の世界
今回は葬儀横浜港北区、浄土教の世界に付いて書かせて頂きました。
二十五三昧会;
二十五三昧会とは慶滋保胤(よししげのやすたね)と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)を中心として比叡山の僧侶25名により結成された浄土教の死の結社です。 この集団は毎月15日に集まって念仏三昧をし、”最後臨終には相助けて教えを念仏せしめん”と、臨終の床にある仲間には皆で助けて念仏させ、極楽浄土に往生させようしました。 25名の同志の中で病人が出ると皆で看病し、病が重くなると往生院と呼ばれる建物に移し、励まし合って死に臨んでいる同志僧侶の心が乱れぬ様にしました。 同志僧侶が逝去すると、ご遺体に光明真言をもって土砂加持をし、3日のうちに墓所に卒塔婆一基を建てて葬りました。 同志僧侶の葬式には必ず出席し、四十九日までは七日毎に集って念仏を修しました。 そして、春秋の2回同志僧侶は集って念仏を修し、過去帳に名前を記し、祥月命日にも供養したといわれます。
臨終行儀;
臨終に際しては、西方を向いた阿弥陀仏の前に病者を寝かせ、阿弥陀仏の右手に五色の糸を付け、病者の左手にその糸を結んで、念仏を唱える中で寝入る様に逝去すると、極楽浄土への往生は間違えない、と言われました。 この二十五三昧会での臨終の作法が”臨終行儀”と言われる様になります。 臨終に際して阿弥陀仏に帰依して念仏を唱え極楽往生を願う作法は、日本における葬儀の作法として定着して行きます。 この臨終行儀としての念仏が現代に於ける枕経の原型であるとされます。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、仏教の庶民への広がりと葬儀
今回は葬儀横浜港北区、仏教の庶民への広がりと葬儀に付いて書かせて頂きました。
私度僧と聖(ひじり);
奈良時代、僧侶となり出家する為には朝廷の許可が必要であり、官度(かんど)と呼ばれました。 許可を得ずに出家する事は、私度(しど)として禁じられて居り、民間布教活動は禁じら、制限がされて居りました。 然しながら、奈良時代も中期を過ぎると私度僧が多く現れはじめ、庶民に対する布教活動が盛んと成ります。 この私度僧は”菩薩”あるいは”聖”と呼ばれて民衆から慕われました。民間仏教の指導者とその集団;
奈良時代に於ける民間仏教の指導者として、その頂点に立つのが行基上人です。 民間仏教に制約を加えていた朝廷もやがてその活動を評価せざるを得なくなりました。 行基上人は東大寺の大仏殿建立にあたって聖武天皇より造立の実質的責任者として招聘され、後に日本で初めての大僧正の位が授与されました。 ”続日本紀”には行基集団が”死魂(しこん)を妖祀(ようし)す”とあり、集団が死者の弔いに従事していた事を伺わせます。 又、行基上人の弟子である志阿弥(しあみ)が火葬の技術を伝え、三昧聖(さんまいひじり)になったとの伝承も御座います。
空也上人とその集団;
行基上人の集団の系譜にあって平安時代に活躍するのが、”阿弥陀聖”あるいは”市聖”と尊称された空也上人です。 空也上人は口称念仏の祖、民間に於ける浄土教の先駆者とも評価されて居ります。 阿弥陀仏の名を唱えると阿弥陀仏の絶大な力を働かせる事が出来るとして、民間念仏は死者儀礼や農耕儀礼と結びついて仏教の民衆化を推し進める事と成りました。 念仏は呪力を持ち、死者の滅罪に力があると信じられました。 又、空也上人の集団も火葬に従事していたと考えられて居ります。 こうした民間仏教の広がりは仏教の民衆化を推し進めると共に、民衆の葬儀の仏教化も推し進める事と成りました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、平安時代の葬儀Ⅱ
今回は前回の続き葬儀横浜港北区、平安時代の葬儀Ⅱに付いて書かせて頂きました。
平安時代中期の天皇の葬儀(新谷尚紀著”日本人の葬儀より);
前回は日本国第66代一条天皇の臨終、納棺、葬送までを書かせて頂きましたが、以降は;拾骨と納骨の次第
7月9日、前日より夜を通して営まれた荼毘は朝6時におわる。 御骨を皆で拾い、4升程の白磁の壺に納めて、天台座主慶円僧正が光明真言を念誦(ねんじゅ)する。 骨壺は京都の円成寺に移動。 その後、入れ替わり御骸骨所(みがいごつどころ)に人々が伺候(しこう、側に付いて奉仕する事)し、阿弥陀護摩も行われる。 7月20日、御骨を奉納する三昧堂のような小堂を円成寺に造り、奉納。法要の次第
8月2日、七七日の法要。 8月11日、七七の正日にも法要を行う。 9月12日、月例の御念仏を初めて行う。 翌年5月27日、京都円教寺にて一周忌の法要を繰り上げて行う。 6月22日、一周忌の正日、法要を行う。 これで葬送の行事は全て終了しました。
現代にも伝えられる葬送の儀礼;
一条天皇の葬送儀礼は現代の葬送儀礼にも多く通じるものが有ります。 先ず第一には危篤状態で念仏を臨終作法として行った事、現代でも宗派、地域によっては営まれて居ります。 納棺に先立って沐浴を行った事(現代の湯灌に通じる)。 納棺に際して近親者が形代(霊が依り憑く為の人形など)を収めた事。 出棺に先立ち儀礼が行われ、柩は輿に乗せて運ばれ、出棺には通常の出入口以外が使用され、葬列が組まれた事。 荼毘の前に儀礼が営まれ、荼毘に立会い、拾骨が行われた事。 又 帰宅する前には浄めが行われました。 七七日の法要、一周忌の法要を営むなど、日本の葬送儀礼の習俗はこの時代に原型が整えられたと考えられます。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、平安時代の葬儀
今回は葬儀横浜港北区、平安時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。
平安時代に現代葬儀の原型が定着;
平安時代とは、西暦794年日本国第50代天皇である桓武天皇により都が奈良から京都へと遷都されます。 以降、鎌倉時代が始まるまでの360年簡の平安京を中心とした期間を示します。 平安時代には天台宗と真言宗が誕生し社会に大きな影響を与えました。 この時代に天皇家の葬儀は仏式で営む事が定着します。 天皇の御体(ご遺体)は火葬が基本となり、平安京鳥部野(現在の京都市東山区)に荼毘所(火葬場)が設けられました。 そして、遺骸を埋めた場所には石の碑や卒塔婆を立て、墓標としました。 初七日、七七日などには読経をし、一周忌には「御はての業(わざ)」と名づけ供養をしました。 この日には重服の人も喪服を脱ぎ、平服に改めました。 一周忌法要が最後の法事で、この時代には三回忌、七周忌はまだ行なわれて居りませんでした。
平安時代中期の天皇の葬儀;
日本国第66代天皇、一条天皇の葬儀は以下の通りでした。(新谷尚紀著”日本人の葬儀”より)臨終と納棺
6月22日、危篤状態の中で時々念仏を唱えていたが、正午頃に崩御。 6月25日、陰陽師を召して、葬送に日時、入棺の日時、墓所の方角、などを占わせ、深夜に入棺。 入棺作業には天台座主慶円僧正をはじめ数名の僧侶、諸卿数名が奉仕。 皇后や宮たちが形代を柩に納める。葬送の次第
7月8日、葬送、素服を裁縫し、人々は着用。 慶円僧正が呪願を行い、院源僧都が導師を務める。 出棺に際して、御輿の前を2人が松明を持って先導、築垣を壊して道路に出る。 葬列には松明を持った近習が10名、香炉を首にかけて従う役、黄幡を持つ役などが続いた。 火葬場である御竈所(もかまどころ)で出棺の時と同様に導師、呪願が行われ、僧も立ち会って荼毘を行う。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、法華三昧
今回は葬儀横浜港北区、法華三昧に付いて書かせて頂きました。
天台宗による仏教の変化;
平安時代初期、日本の仏教は朝廷を中心とした特定上流階級のための宗教から、幅広く人々への宗教へと変化を始めます。 その始まりは天台宗の宗祖、伝教大師最澄によります。 最澄は平安時代初期に唐(現在の中国)に渡り浙江省天台県の天台山を発祥の地とする天台教学を修学して日本に戻り、比叡山延暦寺でにて天台宗(正式名称は天台法華円宗)を起こしました。比叡山法華三昧堂;
伝教大師最澄は比叡山に法華三昧堂を建立し、法華三昧を日本に初めて紹介しました。 そして、法華三昧は天台宗第三世座主により広められ増した。法華三昧;
法華三昧とは、法華経を読経する事によりその身は清められ、罪障(悟りをひらいたり極楽往生したりする上で、妨げとなる罪(悪い行い))が消滅するとの考え。法華懺法とも呼ばれる。 三味とは心を一つに集中して余念を抱かぬ事を言います。 法華三昧は比叡山延暦寺に於ける日常修行の一つで、”朝題目、夕念仏”とも言われます。死者供養の為の法華経;
その後、法華経を唱えると死者の霊が清められ、減罪され、極楽往生が出来る、との信仰が強まって行きました。 その信仰により葬儀が重んじられる様になり、三昧聖による法華経の読経は、死者の供養や菩提を弔う為に必要な儀礼とされるようになります。三昧堂;
法華三昧が広まると共に天皇家や貴族のご遺骨は法華三昧堂に納める事が一般化して行きました。 それに伴い、納骨の為の法華三味堂が各地で建立されるようになりますが、その納骨堂は三味堂とも法華堂とも呼ばれるようになりました。 更に時代が進むと、ご遺骨は寺院に納められる様になり、現在に至ります。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、仏教と天皇家の葬儀
仏教は葬儀横浜港北区、仏教と天皇家の葬儀に付いて書かせて頂きました。
仏教公伝(ぶつきょうこうでん、仏教伝来);
紀元前5世紀、ネパールのルンピニで誕生した仏教は広く東南アジア、中央アジアを経由して中国に伝わり開花します。 そして、朝鮮半島を経由して6世紀半ばに百済国王・聖明王より飛鳥朝廷に伝来しました(仏教公伝)。 日本に伝来した仏教は政治の中心であった天皇家に受け入れられ、以降明治維新までの間天皇家の葬儀は仏式が基本とされました。 7世紀前半に営まれた聖徳太子の葬儀には仏教の僧侶が関わりを持つたといわれます。
持統天皇の葬儀;
持統天皇は日本国第41代の天皇で3人目の女流天皇です。 持統天皇は朝廷が奈良に遷都する7年前に崩御され、その葬送の儀礼は仏式で営まれ、その御体は荼毘(火葬)に付されました。 そのご葬儀は持統天皇自らの違勅により、倹約をむねとし、素服(そふく)・挙哀(きょあい)は禁止されました。 素服とは質素な白服で、素服を着用して喪に服するのが基本とされました。 挙哀とは”ああ、悲しいかな”と唱えて礼拝する事で、素服・挙哀共に仏教伝来以前の葬儀の基本をなすものでした。 これらは葬儀をおおげさにする象徴として禁止されたと考えられます。 持統天皇は西暦703年12月22日に崩御され、25日に四大寺(大宮大寺、川原寺、飛鳥寺、薬師寺)で設斎(法要)。 29日に西殿にて殯(もがり)。 1月5日大安寺他3寺院で設斎。 2月17日(四十九日)に四大寺他33ヶ寺で設斎。 4月2日、御在所で百日の斎を設ける。 以上の事から、初七日、中陰、百ヶ日の法要が営まれて居りました。 12月17日、”しのびごと”、”おくりな”、飛鳥岡にて火葬。 ”しのびごと”は故人の徳を讃える事、”おくりな”は死後に故人に称号を贈る事です。 そして、崩御後1年を経て、12月26日大内陵に埋葬されました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、火葬の歴史
今回は葬儀横浜港北区、火葬の歴史に付いて書かせて頂きました。
日本の火葬の始まり;
現代の日本に於きまして、ご遺体の火葬はごく一般的な葬法で、特別な事例を除いてほぼ100%の故人様が焼骨となって埋葬されて居ります。 日本で火葬が始まった時期ははっきりしませんが、日本国内各地の縄文時代の遺跡からも、時々火葬骨が出土される事から、古くより特定の人に限り火葬が行われていた事が伺われます。 とは言え、ご遺体の火葬が葬法の一つとして確立されるのは仏教の伝来によるとされるのが通説となって居ります。 仏教は西暦538年(552年説もあります)百済の聖王により日本に伝えられました。 仏教に於いては、教祖である釈尊(お釈迦様)のご遺体が荼毘に付された事から仏教の葬法の基本は火葬として居ります。 記録によれば西暦700年に営まれた飛鳥寺の僧侶道紹のご火葬が初めての火葬と言われて居ります。 そして、人工的にご遺体を焼却する葬法の火葬は、”白骨化は成仏の徴(しるし)”とする仏教による火葬の意味付けをもとにして、日本人の社会に浸透して行く事と成りました。火葬の広がり;
”続日本記”によれば、前述のとおり日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧道紹であります。 また最初に火葬された天皇家は、大宝2年(西暦702年)に崩御され、殯(もがり)の儀礼を終え、大宝3年に荼毘に付された持統天皇でした。 又、兵士の火葬も法律によって定められており、大宝元年編纂の『大宝律令』には、”行軍中の兵士が死んだ場合は焼いてその場に埋める”ように記述されておりました。 東国の防人が死んだ際も、柩を給付して焼くようにという記事もあります。 天皇が火葬される以前から兵士の火葬は規定されていることです。 持統天皇の火葬以降、倣って上級の役人、公家、武士の間にも火葬による葬法が広まってゆきました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、平安時代の死生観・御霊信仰
今回は葬儀横浜港北区、平安時代の死生観・御霊信仰(ごりょうしんこう)に付いて書かせて頂きました 。
御霊信仰(ごりょうしんこう);
御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 奈良時代末期に始まる 日本の信仰の一つです。 人は死ぬと その魂は霊となり肉体から離れると考えられて居り、恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の霊は 怨霊となって 特定の人を脅かしたり、天災や疫病をさせると考えられました。 この怨霊を鎮めて 御霊とする事により 祟りを免れ、平穏を繁栄を祈念する信仰であります。 史実にもとずく御霊信仰の歴史は ある意味では政争の歴史でもあります。 その例で古いものは 775年にその子供と共に憤死させられた、井上内親王(いのえないしんのう)が御座います。 井上内親王は第45代聖武天皇の第1皇女で、のちに第49代光仁天皇の皇后に即位されます。 井上内親王の崩御の後に、その祟りにより夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされたと考えられて、777年に 内親王の墓を改葬し 御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊を鎮めたとあります。 又 平安京への遷都も、皇太子の座を廃され憤死した、早良(さがら)親王の怨霊により、新皇太子が病に侵されたとの”陰陽師の占いによる”とされて居ります。怨霊鎮魂(おんりょうちんこん);
平安時代に入ると貴族階級の中で陰陽師による”怨霊鎮魂”が盛んとなりました。 何か事有る度に”怨霊鎮魂”の為の御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。 又、大宰府に左遷され非業の死を遂げた”菅原道真”の怨霊により、親王や天皇が崩御したとの占いから御霊会を営むと共に道真公の霊を北野天満宮にお祀りして 霊の鎮魂を図りました。 その後、都市住民の間でも怨霊への信仰が広まり大規模な災害や疫病などは怨霊によるものと考えられて 怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になりました。 御霊神社も各地に建立されるように成ります。
葬儀横浜港北区、大化改新・薄葬令
今回は葬儀横浜港北区、大化改新・薄葬令に付いて書かせて頂きました。
大化改新・履葬令;
弥生時代に権力者はその権力の象徴となる墳墓が造成される様になり、より大掛かりなものへと変化し、次の古墳時代にはその頂点を迎えます。 そして、大和朝廷による飛鳥時代が始まり、その大きな変化として大化の改新が発せられ、その一つとして薄葬令が発令されました。 薄葬令とは 大化の改新の中で646年(大化2年)に発令された勅令で、身分に応じて墳墓の規模などを制限したものです。 薄葬令は 地方豪族の権力の象徴であった巨大古墳の築造を制限するものであり、大和朝廷が地方豪族を管理下に従え、中央集権国家に変貌した象徴と解釈されます。 それに従い 前方後円墳の築造を象徴とした厚葬の時代・古墳時代が終焉を迎え、墳陵は小型簡素化された飛鳥時代へと入って行きます。 薄葬令は 中国の故事にならい、民衆の犠牲を軽減するために 権力者の葬送に多くの財や労力を費やしてはならない との考えから生まれたと共に、身分ごとの葬制秩序の確立という側面も備えて居りました。その内容は; 1 必要以上に大きな墳墓を造る事は 民衆の貧窮を招くと警告し。 2 死者の身分により墳墓を造る夫役の延べ人数の上限を定め(天皇の陵にかける日数は7日以内)。 3 一般階級の遺体は 一定の墓地に集めて埋葬することとし。 4 殯(もがり)や、人馬の殉死 殉葬、そして 宝物を副葬することを禁じました。 これらの事により 旧来の習俗を否定しました。 薄葬政策は その後もしばしば発令されます。 703年に崩御された女性天皇である持統天皇は 倹約・簡素な葬儀を遺詔(天皇による遺言)され、火葬された初めての天皇となり、ご遺骨は 独自の墳陵を持たずに夫君であった天武天皇の陵に合葬される薄葬でした。 この様な事から 巨大墳墓や殯などの習俗が姿を消して行きます。しかし 地域によっては 民俗として殯や泣き女などが生き続けておりました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、日本古代の墳墓
今回は葬儀横浜港北区、日本古代の墳墓に付いて書かせて頂きました。
日本古代の墳墓;
日本古代の縄文時代の集落では中央広場の一画を死者の埋葬地にあてられて居りました。 紀元前4000年前から紀元前200年ころまでは、死者は住居の近くに埋葬されたのであります。 縄文社会では死者と生者が密接に関わりあった時代であると考えられます。 そこには死者は身分の区別なくが並び葬られている。葬法は大半が土葬で、時には火葬された幼児骨を納めた土偶形容器も発見されております。 風葬も何らかの理由から、広場に葬れない者に適用されたことが考えられます。 縄文時代の土葬の場合、死者の多くはは屈葬の姿で葬られ、わずかに伸展葬での埋葬も見られます。 そして両方ともに遺体を強く緊縛しているのであります。 こうした処置は、おそらく死者の体に悪霊がとりつき、それが動き出して住民に悪さをすることを恐れての処置であろうと考えられて居ります。 又、胸に石を抱かせたり、頭に甕をかぶせたりする処置も同じような配慮と考えられます。 死者と一緒に副葬品を埋葬する風習は、縄文時代にはほとんど御座いません。 もちろん耳飾りや、腕輪をはめたご遺体は多く見られますが、これは生前身につけていた装飾品がそのまま持ち込まれたものであると思われます。弥生時代の墳墓;
弥生時代は「死者観」が大きく変化しました。 大陸から移動して来た民族が新しい論理と制度を携えて渡つてきたとき、縄文文化の風習は新しい風習へと変化して行きました。 弥生式文化は近畿地方を中心に新しい墳墓をもたらしました。 方形周溝墓と呼ぶ、四方を溝で区画し内部を盛り土した墳墓が登場したのです。 この墳墓には、中央に戸主を葬り、脇に妻、周囲にその子といつた「家族墓」の形態をとって居ります。 そして、2代目は先代の方形周溝墓の一辺を借りて一段と小さく営むといつた特色をもちます。 その規模は1辺10メートルを超える例が多く、生者の生活空間よりも広い空間を死者に与えて居ります。 同じ時期、北九州では石柱の上に平らな石を乗せて、その下にご遺体を埋葬した”支石墓”や甕棺が発見されて居ります。 甕棺は弥生中期から後期にかけて九州各地に分布している。 この葬法は古墳時代中期まで行なわれているが、その後、減少している。
横浜市内の古墳;
横浜に於ける古墳遺跡と致しましては”綱島古墳”、”市が尾横穴古墳群”、”稲荷前古墳群”、他、多数の遺跡、遺跡跡が御座います。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、日本の古代の死生観
今回は葬儀横浜港北区、日本の古代の死生観に付いて書かせて頂きました。
縄文時代のご遺体の埋葬;
日本の各地で発堀されて居ります遺跡の墳墓では多くのご遺体は腕を曲げ、膝を折った、”屈葬”でお納めされて居ります。(現代の様な身体を伸ばして埋葬する”伸展葬”も僅かには見られます)。 更には、ご遺体の上に石を置いたり、石を抱かせて埋葬する”抱石葬”も多くみられます。 これらの埋葬の方法は、人々が死者の霊(死霊)に対して深い恐怖の念を覚え、その死霊が蘇えらぬ為に選択したと考えられて居ります。古代に於ける生死の判別;
前回に書かせて頂きました”殯(もがり)の儀礼”は各種の文献から、ご遺体を安置した喪屋の中で一諸に食事をするなど、死者を生者と同様に丁重に取り扱っていた事を伺わせます。 現代における死の判定は定められた法律に基ずいて医師によって為されますが、古代に於いては人の死の判定は人体の変化を基に行う為それなりの時間が必要とされました。 人が死んだという事実を周囲の人々が納得する為には一定の時間が必要とされました。 人が死んだと考えられても、直ぐにご遺体を処理する事無く、一定の期間は”生きているかの如く”取り扱われました。 殯の儀礼は人の生と死の境界線の時間を過ごすための儀礼であったとも言えます。 尚、喪屋を個別に建ててご遺体を安置したのは、ご遺体の腐敗を考慮しての事と考えられます。
死の世界への恐怖;
殯の儀礼の中で歌舞を行うのは、死者の霊を慰めると共にその霊を鎮める為でもありました。 古代に於いては死霊は荒ぶるもので、生きている者へ厄災を及ぼしかねないとも考えられて居りました。 死後には死の世界が有り、それは恐ろしい世界で、生きている者達を引きずり込む力を持ている、と考えられて居りました。 そして、死とは穢れたもので、死霊は生きている者を死の世界に引きずり込もうとする恐ろしいものと考えられて居りました。 日本古代の死生観では、死者を大切にすると言う考えと、死は穢れているものとして恐怖する考え方が併存して居りました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、日本古代の葬送儀礼
今回は葬儀横浜港北区、日本古代の葬送儀礼に付いて書かせて頂きました。
喪屋
現代通夜の起源;
日本に於ける古代の葬送儀礼として”殯(もがり)”と呼ばれた儀礼が御座いました。 この殯の儀礼は現代の葬送儀礼で一般的に営まれる通夜式の原型とも考えられて居ります。 当時の葬送儀礼としての殯の様子は古事記や日本書紀、万葉集などの書物の中に示されて居ります。 古事記の中では、天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の模様が下記の内容で残されて居ります; すなわちそこに喪屋を作りて、河雁(かわがり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺(さぎ)を掃持(ほほきもち)とし、翆鳥(そにどり)を御食人(みけびと)とし、雀(すずめ)を碓女(うすめ)とし、雉(きじ)を哭女(なきめ)とし、かくおこない定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びき。 喪屋とは死者のご遺体を安置する為の簡易な家屋で死者の為に造られ、ご遺体を安置した後にその中で様々な事が営まれました。 岐佐理持は旗を保持する役です。 掃持は喪屋を掃除する箒を持つ役です。 御食人は死者に食事を供する役、碓女は死者の膳に供するお米を突く役、哭女は悲嘆を表現して泣く役(哭き女とも言います)。 遊ぶとは歌舞音曲で死者の霊を慰める為に歌い踊る事を示します。
古代に於ける死の判定;
現代の発達した医学の中では人の死は定められて手続きの中で判定されますが、古代に於いては死の判断基準は明確でなく、死者の死は時間をかけてご遺体の変化から判断せざるを得ませんでした。 従いまして、ある程度の時間をかけて営む”殯の儀礼”は故人のご逝去を悼み、その霊を慰めると共に、故人の死を判定する為の時間でもありました。 今回は以上です。葬儀横浜港北区、葬儀の起源
今回は葬儀横浜港北区、葬儀の起源に付いて書かせて頂きました。
葬儀の起源;
日本に於いて死者を見送る儀礼は一般的に葬儀と呼ばれて居ります。 葬儀の語源は仏教用語である”葬送儀礼”の略語ですが、江戸時代以来日本に於けるお見送りの儀礼は仏式で営む事が通例となった事から、信仰する宗教に関わらず人の死を弔う祭事・儀礼は葬儀或は葬式と呼ばれる事となりました。 葬儀の様式にはそれを営むご遺族の死生観や宗教観が深く反映されます。 そして、葬儀は宗教が文明の中で発生する以前の旧石器時代から営まれていた宗教的行為であるといえます。 また、葬儀は故人の為に営むだけでなく、残された人の為に営むという意味合いもあり、残された人々が故人の死を心の中で受け止められる様援助する儀式でもあります。 現在、人類の歴史上初めての葬儀跡と言われている物はイラク北部にあるシャニダール洞窟で見つかっているネアンデルタール人の埋葬遺跡です。
シャニダール洞窟遺跡;
シャニダール洞窟遺跡はイラク北部のクルヂィスタン地域にある考古遺跡で、洞窟内部から3万5千年前から6万5千年前にかけてのネアンデルタール人の人骨10体が発見されたことで知られて居ります。 そして、その人骨周辺にはこの洞窟から見つかるはずの無い花粉が見つかって居ります。 これは死者を弔うために花を死体の周りに添えたのではないかと解釈されて居ります。フィリップ・アリエス(1914~1984);
P・アリエスはフランスの中世・近世社会研究を主とする歴史家で、特に家族、子供、死をテーマとしまた。 アリエスの著作”死の文化史”の冒頭で; ”人間は自らが死に逝くことを知っている唯一の動物だ、という事は、じつは確実ではありません。その代わり確かな事は、人間が死者を埋葬する唯一の動物だという事です。”人間は有史以前から、人が死ぬと葬儀を営み、ご遺体を埋葬してまいりました。
今回は以上です。横浜港北区でのご葬儀の意味
今回は横浜港北区でのご葬儀の意味に付いて書かせて頂きました。
ご葬儀の主体;
ご葬儀の主体はあくまでも故人様であります。 又、ご葬儀を施行する責任は故人様を見送られるご遺族様(喪主様)にあります。 そして、ご葬儀の執行は宗教家(僧侶、神職、神父、牧師)にお願いすることとなります。 その中で葬儀社はご遺族様のご希望に合わせて、宗教家のご指導の下で、ご葬儀全体の企画と施行管理をお手伝いさせて頂く事と成ります。故人様の為の悲しみの儀礼;
人は固有の価値を持って生を受け、その営みと共に新たな価値を創造し、そしてその人固有の死を迎える事と成ります。 ご遺族の方々は故人様固有の価値の重みと共に、故人様のご逝去を固有の悲しみとして受け止める事と成ります。 従いまして、故人様のご葬儀は故人様固有の儀礼であり、ご遺族様固有の悲しみを表現し、そのお気持ち安らげるべき儀礼でも御座います。