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葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 第二次世界大戦が終戦を迎え、その後の混乱期を乗り越えると、葬儀も落ち着いて営まれる様に成りました。その葬儀からは 葬列が組まれることがほとんど無くなり、通夜 葬儀式 告別式を2日間で営む形が一般的となり、更には 核家族に伴い 家族・親戚が度々集まる事の困難さから初七日(神式では十日蔡)もこの2日間の間で営み、そして 次の主要な儀礼は四十九日法要(神式では五十日蔡)が現代の主流となりました。

 戦後 全国的に葬列を組む葬儀は姿を消す様に成り、告別式を中心とする葬儀に移行して行きます。それと同時に 核家族化の進捗に伴う 家族 親戚 や関係者の地域拡散も進み、葬儀に参列する関係者の便宜を考え、必要とされる式典(通夜、葬儀、告別)を2日以内に納められる様、葬儀式 告別式の同時進行、総時間 1時間以内などが共通認識と成る様になります。更には 初七日法要も ご火葬の後に営む形態となります。日程の短縮により 葬儀式と告別式の同時進行型葬儀が増え、その日の内に初七日法要、精進落としを終えて、各地のご自宅にお帰り頂ける様、会葬者に負担頂く迷惑を最小限に抑える形が一般化しました。

 又 多忙な社会生活をおくる現代の人々は 通夜と告別式の両方に参列する事が難しくなり、どちらか 一方に参列する形態が理解を得る様になりました。会葬者は 昼間 会社を休んで参列する告別式を避けて、通夜に参列する形態が現代の葬儀となって居ります。本来 通夜は家族、親族が故人様との最後お別れをする場でしたが、現代の通夜では一般の弔問客も多く参列される事から、通夜式でも 祭壇を設けて 葬儀・告別式と同様の形で式を営み、弔問客への応接も必要となって居ります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・昭和中期後期の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・昭和中期後期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 昭和20年(1945年)8月15日 第二次世界大戦は日本の降伏により終結します。その後の日本国内は 物資の不足とインフレにより社会生活は混乱の極みとなります。葬儀を行う事も困難な時期が続きますが、昭和25年に始まった朝鮮戦争(昭和28年に休戦協定、現在に至)の特需により、日本の経済と社会は回復期に入り、経済の回復と共に葬儀に対する関心も 以前の状態に戻り、各種の祭壇や葬具が整備され、現代の葬儀様式が生まれ、宮型霊柩車が全国的に普及し、そして ご火葬の普及率が急速に高まりました。

 葬儀に於ける戦後の大きな変化は 祭壇、棺、葬具などの標準化があります。多くの葬具が開発されると共に、その製品は全国的に標準化が図られてゆきます。それまでは各地域で その地域特有の葬具が利用されて居りましたが次第に姿を消してゆきました。それまでは大都市だけで使用されていた 複数壇飾りの祭壇も全国に普及して行き、祭壇を飾る道具も多数 開発されて葬儀=祭壇の図式が出来上がります。

 大正から昭和初期(戦時下前まで)までにかけて 大都市で使用されていた霊柩車が、戦後には全国に普及して行きます。霊柩車の普及とともに、各地で行われていた葬列は姿を消して行きます。更に その後の高度経済成長の波に乗り、宮型霊柩車がご遺体移送の手段として一般化して行きます。

 又 戦後に大きく変化した事柄としては 火葬率の変化があります。戦前の昭和15年に初めて50%(55.7%)を超えた火葬率は 戦後 各地方自治体による 火葬設備の新設、統廃合、改善・整備が進められると共に、伝染病対策、墓地面積の不足、などが合いまって 急速に向上して行きました。昭和35年には63.1%、昭和40年 71.8%、昭和45年 79.2%、昭和50年 86.5%と火葬率は増え続け、現在では 特別な場合を除いてほぼ100%のご遺体が火葬される様になって居ります。

   今回は以上です。 

葬儀横浜 葬儀の歴史・祭壇

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・祭壇に付いて書かせて頂きました。

 祭壇とは 神 精霊 死者などに供え物や犠牲を捧げる為の檀を言います。日本に於いて葬儀に於ける祭壇は 仏教伝来以降 葬儀の仏式化が進むと共に、ご遺体(柩)の前に小机を備え、その上に祭祀の為の葬具と故人様への供物をお供えする形が一般的と成りました。そして 大正時代 葬儀の主体が葬列から告別式へと変化すると、小机に加えて 柩の周囲を装飾する大型の祭壇が登場して来ます。この形態が現代の葬儀式場の装飾へと受け継がれました。

 大都市に於いて 告別式が登場した事により、葬儀式場内で大きく変化したのが祭壇でした。それまで 葬送の為の祭壇といえば 現代の枕飾り程度のもので、仏具を備えた小机を置き、その左右に生花、造花、供物を配しただけの単純なものでした。告別式では 従来の祭壇は前机となり、その後ろに二段、三段、更には五段ともなる段を複数備えた祭壇が生まれ、その中心にお柩が安置されました。

始めは 段を組み合わせ、その上を白布で覆った形の単純な形態でしたが、その内 高欄を付けたような複雑な祭壇も登場する様になりました。

この時期に 六道(本来は葬列の為の道具)などの新しい燈台 その他、現在の祭壇道具の原型となるものが作られました。それらの葬具を製作する為の専門職人が生まれ、製作所も誕生します。昭和の初期には遺影写真が祭壇に飾れる様になります。

 昭和時代に入ってもこの状態が継続されましたが 昭和10年頃よりは戦時体制が始まりはじめ、昭和15年(1940年)には戦時下となります。昭和17年には 葬儀も国家統制の対象となり、戦局の悪化と共に ガソリンが不足し霊柩車も運用出来なく成り、各種葬具の製作も困難となり、更に 空襲下では 葬儀式や告別式を営むどころではなくなり、死者が出ても 火葬場にご遺体を運ぶだけで精一杯の状態が終戦まで続きます。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・霊柩車

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは 葬儀に於いて ご遺体を移送する為に用いる自動車を言います。日本の法令に於いては霊柩自動車と表現されます。その起源は 英国の霊柩馬車にあるとされます。大正時代 社会環境の変化と共に 大掛りな葬列が減少し、それに代わるご遺体移送の手段として霊柩自動車が出現しました。

 日本に於いて 古くはご遺体を納めた柩は 輿に載せ、人々が肩に担いでお運びしましたが、その後 柩は駕籠、人力車、大八車などで運ばれる様になります。明治時代の大八車には 二方破風の屋根が付けられ、側面には 花鳥などの彫刻が施され、形状や装飾は その後の宮型霊柩車に近いものでした。更には トラックの荷台に輿を載せて運ぶようになり、そして ご遺体移送専用の宮型霊柩車が出現します。日本では大正6年(1917年) 大阪の葬祭業者が米国より霊柩車を輸入し、その車に日本式の装飾を加えて使用したものが 最初の霊柩車であるとされます。

 大正時代に入り、葬列の廃止は 葬列を組む為に多くの要員を提供していた 葬祭業者にとり多大な打撃となります。そうした中で、その状況を打開する為、大阪で多くの奴(やっこ)を葬列に提供して活躍していた”籠友”の経営者 鈴木勇太郎は 米国の霊柩車を輸入し、その車の周囲に宮型の装飾を加えて、日本型の霊柩車が誕生しました。この時代は モータリゼーションの拡大期でもあり、宮型霊柩車は東京へも広がり、その利用は急激に増加して行きました。

 大正時代 昭和初期と 大都市では葬列が無くなり、それに代わって、告別式と霊柩車が登場して来ましたが、それが 全国に広がるのは 第二次世界大戦後のこととなります。大都市と地方に於ける 交通事情や社会生活の違いによるものと考えられます。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅳ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅳに付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商の身分制度の下で庶民の葬儀は簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。そして明治時代にも葬儀が奢侈化して行き非難を浴びる様に成ります。

 明治時代の葬儀は葬列が大掛りになると共に、粗供養も大掛りとなり、必要とされる費用は増大して行きました。粗供養とは江戸時代に一般的と成る習慣で、葬儀の後に食事を供する習慣です。現代のお清めの席にも当ります。又 葬列の出発の際に 花籠にバラ菓子や小銭を入れ、これを振って近隣の人々に振る舞い、供養としました。明治時代に入り葬儀が大型化すると、会葬者全てに対して菓子包み、饅頭、弁当を配るという、現代の粗供養(会葬返礼品)の原型が出来上がります。配られる粗供養を目当てに関係の無い人でも葬儀に加わったり、粗供養の列に何回も並ぶ人が出る事も有りました。喪家側も不足すると失礼に当ると考え、大量に準備しなければ成らず、費用の面でかなりの比重を占める事となりました。

 更には 葬列を演出する為の人夫の費用も増大しました。大きな葬列を組み、演出する為には 多くの葬具運搬人や参列者が必要となります。数十人から数百人、中には数千人の人夫を動員した記録も残されて居ります。このため 東京、大阪、名古屋などの大都市では 人夫を動員する為の組織が生まれ、この組織が後に葬祭業者と呼ばれる様に成ります。この組織は 人夫の動員だけでは無く、葬具の貸出し、葬列の為の衣装の貸出しなども担いました。

 葬列、葬具が大きく、立派になる葬儀の形態は 都市に於いて富裕層から 一般庶民にも影響を及ぼして行きます。葬列の肥大化は 明治20年から30年の間がピークと成りました。明治30年頃からは 葬儀の奢侈化に対する非難の声が社会の中で高まり始めます。この時代 葬儀に於ける貧富の格差が大都市で顕著に成り始めると共に、地方に於いては 地域共同体を主体とする民俗型葬儀が従来と同じ形で営まれて居りました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅲ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅲに付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商の身分制度の下で庶民の葬儀は簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。

 明治時代の半ばに入ると 富裕層の葬儀では大きな葬列が組まれる様に成ります。その葬列に使用される柩は江戸時代に使用された座棺(棺桶)ではなく 寝棺となり、寝棺を運ぶ為の白木の輿が出現します。更に 白木の輿には装飾が施され、大人数で運ぶ様になり、葬列の大きさが財力の象徴とも成りました。現在 使用されている宮型霊柩車の原型は この白木の輿にあります。尚 庶民の間では 変わらず座棺が使用され、これを 駕籠や神輿型の金色に塗られた人力車などで運んでいました。この状況は第二次境大戦が終了するまで続きます。

 葬列の肥大化と共に 葬列を彩る為の 各種の葬具が出現しました。野道具と呼ばれます。金蓮、銀蓮、生花や造花を挿して車仕立てにした花車、鳩を運ぶ放鳥輿(鳩の放鳥はこの時代に始まりました)、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿、などです。又 柩を運ぶ輿も 寝棺用、座棺用、遺骨用、と多彩な輿が作られました。現代も使用されている 近代的葬具の始まりとも言えます。これらの葬具は 従来の葬儀の仕来りであった、地域共同体の者による手作りと言う訳にはいかず、専門の葬具作成業者がこの時代から出現しました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅱ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅱに付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商の身分制度の下で庶民の葬儀は簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。

 明治時代初期には 葬儀に関する多くの布告が出されて居りました。明治5年 自葬の禁止、神官による葬儀執行の認可、神葬祭の為の青山墓地、明治6年 火葬の昼間施行禁止、更には火葬の禁止、明治8年 火葬禁止の廃止、明治10年 死亡届には医師の死亡診断書が必要となる、明治13年 火葬場取締規則の交付、明治15年 神官が葬儀に係わる事の禁止、明治17年 墓地および埋葬取締規則の公布(死後24時間居ないの火葬・埋葬の禁止)などです。

 そして 明治も中期に入ると それまで夜間に少人数で密やかに営まれていた葬儀が日中に営まれる様になり、地位や財力を誇示した大掛りな葬列が組まれる始めます。中には 時代と共に役割を終えた大名行列の奴(やっこ)を動員した葬列なども出現しました。

 明治18年に営まれた 三菱会社 岩崎弥太郎社長の葬儀は 2月13日 下谷茅町の自宅に於いて 神葬式で執り行われ、葬儀の後に 北豊島郡染井村の新設墓地まで葬列が組まれました。その葬列は 巡査、騎馬により先導され、雅楽の奏者が続き、”従五位勲四等岩崎弥太郎之棺”と記された旗を持つ者、生花・造花が300余り続き、そして 霊柩が進みました。柩の周りには三菱の要人24名が護衛し、次に喪主、親戚、社員一同と続きました。この日の会葬者は3万人と言われて居ります。葬列に供えられた生花は 白梅 桃の花、造花は 牡丹 芍薬(しゃくやく) かきつばた でした。

尚 埋葬式では 墓地の前面に仮小屋が構えられ、周囲の畑一面に筵が敷き詰められ、会葬者には貴賤を問わず、直会の料理が立食で振舞われました。料理は6万人分が用意され、早い時間に8割方が食されたと言われます。又 当日の葬儀に雇った人員は7万人といわれます。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 葬儀を営むに当たり、葬儀の簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。

 江戸時代末期の葬儀も模様を表わすものとして、慶応元年(1865年)の日本を訪問していた ドイツの考古学者シュリーマンが立会った 幕府高官の葬儀の模様しめす記述があります;

故人の遺体には職務を司る際に着用していた衣服が着せられ、帯に日本の刀と扇子を差し、頭には漆塗りの竹製の黒い帽子をのせ、‥‥婦人の帽子の箱に似た柩に納められた。死者の足と腕は折り畳まれ、座ってちょうど生まれる前の胎児の格好になった。(中略)次に柩の蓋は釘で打ちつけられ、百合の花飾りのある白い覆いがかけられた。そして その寺院(善福寺)の大きな祭壇の前にある高座に安置された。白の喪服によって礼装した王国政府の300名すべての役人が、その柩の周りで、手指を組むのではなく、掌を合わせて跪いていた。僧侶が祭壇の上のすべての蝋燭に火を灯し、香を焚き、鐘を鳴らして祈祷を行う間、両側に並んだ他の40名ばかりの僧侶たちが、サンスクリット語で葬送の賦を唱え始めた。葬儀執行者と僧侶たちは白の喪服を纏っていた。宗教儀式が終了すると、一人の僧侶が寺院の階段のところまで進んで、その手にしていた鳥籠をあけ、中に入れられていた一羽の白い鳩を放った。この象徴的な儀式の後、木棺は竹の網で取り巻かれた。そして柩は竹竿に通され、それぞれの端を二人の日本人が、その寺院の傍らにある墓地へ駈足で運んでいった。(藤川徹訳)

 江戸幕府による葬儀簡素化の方針は 明治時代に入り 士農工商の身分制度が取り除かれると大きく変化して行きます。特に都市部が顕著でした。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬場の変遷

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬場の変遷に付いて書かせて頂きました。

 人がご逝去された際 そのご遺体をどの様な形で埋葬するかは 信仰する宗教的要請による所がだいです。世界四大文明の一つであるインダス文明より生まれたヒンズー教では ご遺体を火葬して聖なる川に流す葬送方法を基本として居り、その延長線で生まれた仏教でも ご遺体の葬送は火葬を前提としました。日本に於いても 仏教の伝来と共に火葬の技術も伝来し、その布教拡大に伴い火葬が普及して行きました。

 古代に於いては 天皇家を中心とする貴族階級で 火葬が行われておりました。その火葬炉は 常設ではなく、占いを基に火葬の場所を定め、その場所の周囲に幕や板塀を巡らし、その中に火床を設けて火葬が営まれました。天皇の火葬を営む場所は 山作所と呼ばれ、火葬の後は火葬塚が築かれました。

 中世になると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい程度の浅い溝を掘って、周囲を石や土器で覆った恒久的な火床が設けられる様になり、そこで火葬が営まれました。この時代に 皇族や貴族の他にも 僧侶や浄土真宗の門徒の間で火葬を営む者が増えて行きました。尚 浄土真宗の門徒以外の庶民の間では ご遺体を墓地や山林に放置する 風葬が一般的でした。

 近世となり 江戸時代に入ると多くの寺院や墓地で火葬場が設けられる様になりますが、火葬の臭煙が問題となり、火葬場を設ける場所が限定され、昼間の火葬は禁止されます。この時代 火葬を行う為には 多くの焚き木を必要とする為、それなりの費用が必要であり、火葬を営む事が出来る庶民には限りがありました。但し 浄土真宗では 信徒間の協力により火葬を営み続けました。

 そして 明治時代に入ると西欧より伝来した技術を基にして 燃焼室に炉扉と煙突を備えた 現代の火葬炉の原型となる火葬場が建設される事と成りました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の火葬場

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を言いますが、現代では火葬場とは呼ばずに 斎場と称されるケースが多くなりました。本来 斎場とは 葬送儀礼を営む為の施設全般を指す呼称ですが、横浜市内には4カ所の公営の火葬場が有り 全て斎場の名称で運営されて居ります。尚 私営の火葬場も運営されて居り、こちらは 西寺尾火葬場の名称で運営されて居ります。横浜市内5ヶ所の火葬場は いずれも公害を最小とする為、火葬炉は電気式を採用して居ります。

 江戸時代 日本に於けるご遺体の火葬率は30%前後でしたが、現在では 99.986%となって居り ダントツで世界一の割合となりました。この火葬率の向上は 明治30年の 伝染病予防法制定により始まります。この法律により 法定伝染病の患者のご遺体は 原則として火葬しなければ成らないと定められました。現在 火葬場及び墓地は ”墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)”のより管理されて居り、厚生労働省の管轄となります。明治以降 墓地や火葬は公衆衛生の観点で行政に理解されて居りました。江戸時代の火葬場は 仏教寺院が運営する 火屋(ひや)と呼ばれる火葬施設でしたが、伝染病予防法の制定後は 火葬場の統廃合、改修、新設が進み、自治体もその経営に参加する様に成ります。

 現在 横浜市内では 火葬場に葬儀式場を併設した横浜市営の斎場が3ヶ所(横浜北部斎場、横浜南部斎場、横浜戸塚斎場)、火葬場のみの横浜市久保山斎場、私営の西寺尾火葬場が横浜市民のご不幸に対するお手伝いを致して居ります。何れの火葬場も 高度に機械化されてコンピュータが燃焼制御する火葬炉を備えて居ります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・近世の火葬場

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・近世の火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を言いますが、現代では火葬場とは呼ばずに 斎場と称されるケースが多くなりました。本来 斎場とは 葬送儀礼を営む為の施設全般を指す呼称ですが、横浜市営の火葬場も全て斎場の名称で運営されて居ります。日本に於ける火葬場の歴史は古く、古代の時代から火葬は行われて居りました。古代から近世に至るまで火葬は 野天に火床を造り、木薪を組み上げて、その上にご遺体を載せて梵焼(ぼんしょう)する野焼きが一般的で、常設の火葬場が出来るのは江戸時代となってからです。江戸時代には 屋根付きの火葬場も見られる様になります。そして 明治11年には 建物内に火葬炉を設けた火葬場が、浄土真宗大本山である東・西本願寺により京都市内に建設されました。

 神道を国教とする明治政府は 明治6年に火葬を推奨する仏教を憂慮し、火葬禁止令を布告します。しかしながら 2年後には 火葬禁止令の行き過ぎを認めて、おこれを徹回しました。更に同年 火葬場建設の許可条件が内務省より示されます。その内容は ①市街地から離れている事、②ご遺体を焼く際の臭いや煤煙が住民の健康を損なわぬ様 煙突を高く設ける事、③火葬場と墓地を分離する事、などを条件としました。これを受けて 京都市は市街地にある寺院墓地での土葬を禁止します。東京市では 遅れて 明治24年に市街地での土葬を禁止します。

 当時の火葬場の運営規則を見ると、ご遺体の火葬は夜の8時から10時までに間で始め(すなわち ご火葬は深夜に行い)、拾骨は 翌日の午前8時から午後3時までの間で行う様 定められて居ります。昼間に火葬と拾骨が行える様になるのは 昭和2年 東京の町屋火葬場(現在の東京都荒川区 私営町屋斎場)が重油火葬炉を導入して後の事と成ります。又 明治17年には 墓地及び埋葬取締規則が制定されました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬場

今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を言います。現代では斎場と称されるケースが多くなりました。本来 斎場とは 葬送儀礼を営む為の施設全般を指す呼称ですが、横浜市営の火葬場も全て斎場の名称で運営されて居ります。日本に於ける火葬場の歴史は古く、古代の時代から火葬は行われて居りました。古代から近世に至るまで火葬は 野天に火床を造り、木薪を組み上げて、その上にご遺体を載せて梵焼(ぼんしょう)して居り、野焼きが一般的で、常設の火葬場が出来るのは江戸時代となってからです。江戸時代には 屋根付きの火葬場も見られる様になります。そして 明治11年には 建物内に火葬炉を設けた火葬場が、浄土真宗大本山である東・西本願寺により京都市内に建設されました。

 日本に於いて 火葬が増えて来たと言われますが、古代、中世は貴族階級、地方豪族のみであり、その後 江戸時代でも 人工密度が高く墓地となる土地が逼迫した一部地域(大都市)と、火葬を奨励する仏教宗派(浄土真宗他)の門徒、信者が多い地域に限られて居りました。

 明治6年 明治政府は火葬禁止令を布告します。これは火葬が仏教的であるとの理由によるものと考えられます。この火葬禁止令に対して 東京市内の常設火葬場を持つ寺院は連名で 火葬の有用性を説いた訴え(火葬便益論)を起しました。そこでは 土葬にはそれなりの土地が必要となり市内が墓地だらけになってしまう事、それに比べ 火葬された焼骨は大きな土地を必要としない事、事情に応じて焼骨は故郷の墓地に送る事も出来る事、これらの事から火葬は都市生活に有用な手段である事、などが強調されて居りました。尚 この訴えには 政府の意向を忖度して仏教の文字を避けて書かれて居りました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬に付いて書かせて頂きました。

 ご火葬とは 葬送の手段の一つとしてご遺体を焼却する事ですが、日本の一時代では 葬儀全体をさした事もありました。日本に於いて ご火葬が何時から始まったかは定かで有りませんが、紀元前10世紀以前の縄文時代の遺跡から火葬遺骨が出土して居ります。その後 7世紀の仏教伝来と共に火葬の技術も伝来しましたが、特定階級の方々を除いては一般的に普及する事はなく、火葬が普及するのは大正時代以降となります。

 仏教葬と火葬は 密接な関係にあると言われて居り、江戸時代中期以降に成立した寺請制度による仏教葬の普及から考えると、火葬も普及したと考えがちですが、現実は必ずしもそうでは有りませんでした。江戸時代当時の火葬率の統計は有りませんが、明治29年のデータによれば、火葬率は 26.8%と記されて居り、この状態から推測すると 江戸時代の火葬率は20%前後ではないかと考えられます。

 ご火葬の比率は 階級や地域により大きく異なるものと考えられますが、江戸(東京)や京都などの大都市と浄土真宗の信者が多かった北陸地方では火葬率は高かった様です。大正14年(1925年)の統計によれば、火葬率が65%を超えている都道府県は 北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の8県でした。但し 京都市は明治時代初期に市街地墓地での土葬を禁じた事も有り、明治39年の時点の火葬率が80%と高率を示している事から、江戸時代にあっても火葬が普及していたものと考えられます。ちなみに 火葬炉を建物の中に収容した形の 最初の近代的火葬場は 明治11年に東・西本願寺が建設した 両本願寺火葬場(現在の京都市中央斎場)です。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・神葬祭墓地

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・神葬祭墓地に付いて書かせて頂きました。

 1868年 討幕を実現した明治政府の下 神道は国教と定められ、従来の寺請制度を廃止し、神仏習合の習慣を禁止しました。神道と仏教、神と仏、神社と寺院、とお分離 区別する一連の神仏分離令を発令しました。以降 神葬祭の施行が許可され、神葬祭を営んだ故人の為の 神葬祭墓地も開設されました。しかしながら 神葬祭は必ずしも庶民の間で一般化はして行きませんでした。永い年月を経て民衆の間に定着した檀家制度は大きく変化する事無く現在に至っております。

 明治5年(1872年) 明治政府は自葬禁止の布告を行います。自葬とは 僧侶・神官に頼らず、自らで葬儀を営む形態をいいますが、この布告により ”葬儀を営むに当たっては 神職・僧侶に依頼すべし” との事から、神職は自由に氏子の葬儀を司どる事が出来る様に成りました。しかし 寺院の墓地は有りましたが、神葬祭の墓地が存在しないと言う事で、同年に神葬祭墓地として東京市営墓地が開設されました。青山墓地、谷中墓地、染井墓地がそれに当ります(現在は神葬祭に限定して居りません)。

余談ですが 桜の品種の一つである 染井吉野 は明治初期に染井村(染井墓地の所在村)で交配によ開発された品種です。

尚 明治6年には キリシタン禁制の高札も撤去され、明治8年には、安寧秩序を妨げない 事を前提に 信教の自由が布告されます。これにより キリスト教も公認されるところとなります。

 神道に於きましては 本来 神社は祈りを営む神聖な場であり、人間の死は穢れである事から、神葬祭を神社内では営めません。明治政府は 神道を国教とし、神葬祭の営みを支援しますが、それほど大きな広がりは見せませんでした。それは 檀家制度は 法的根拠は失いましたが、明治政府の家制度を強化する施策の中で強い基盤を維持し続け、地域の民俗と同化した仏教葬は民衆の支持を受け続けました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・神仏分離令

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・神仏分離令に付いて書かせて頂きました。

 江戸時代 幕府は寺請制度の下、仏教は国教に位置図けられ、葬儀も仏式で営む事が基本でした。1868年 討幕を実現した明治政府は 神道を国教と定め、従来の寺請制度を廃止し、神仏習合の習慣を禁止しました。神道と仏教、神と仏、神社と寺院、とお分離 区別する一連の神仏分離令を発令しました。以後 神葬祭の施行が許可され、神葬祭を営んだ故人の為の 神葬祭墓地も開設されました。

 江戸時代後期 知識人の間に於ける 国学の進展と共に尊皇思想が広がり。1867年 王政復古の大号令が下され、翌年 明治政府の樹立により神仏分離令(狭義には神仏判然令)が出されました。これは 従来 国教の位置にあった仏教に代わって、神道を国教とするものでした。神仏習合的な要素を持つ神社は 仏教的要素を無くすようにされ、神社か仏教寺院かはっきり判別出来ない場合は神社とされました。この神仏分離令を拡大解釈した庶民により 全国各地で廃仏棄却運動が起きます。寺院を破壊し、僧侶を還俗させる運動が相次ぎ、この運動により破壊された寺院は有名古刹を含め数万に及んだと言われます。

日本に於いて、中世後期以降 民衆の中に宗教として定着し、江戸幕府の寺請制度により国教とも位置付けられた仏教は 明治維新という政治体制の革新的変革により大迫害を受ける事と成りました。

 神仏分離令の発令と共に 神職の家族にも神葬祭の営みが許可されました。更に明治3年(1870年)以降。神葬祭を願い出る動きが拡大し、神職家族のみならず一般にも許可される様になります。神葬祭が許可されると言う事は 寺院の檀家を止める事を意味しました。翌明治4年には 戸籍法が制定され、正式に寺請制度の法的根拠が廃止される事となります。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・江戸時代の神道

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・江戸時代の神道に付いて書かせて頂きました。

 日本古来の宗教である神道は 6世紀の仏教伝来以降、対立と併存を繰り返して来ましたが、大化の改新以後は併存が定着し、更に 平安時代に天台・真言の2宗派が起されると 神仏は併存から 神仏が混ざり合う 習合へと変化しました。神道は他の宗教とは異なり、戒律や教義を説く教典が無く、素朴な精霊信仰に専心する数少ない宗教でしたが、吉田神道 伊勢神宮を始めとして、江戸時代には 仏教や儒教と対立しながら、国学者たちにより学問的につきつめられ、復古神道が形成されました。

 江戸時代初期は 民衆支配の為の檀家制度を基にした仏教と、行政の基となる儒教が共存して居りましたが、徐々に行政に係わる儒教学者から仏教批判が出る様になります。行政の単位である藩では 民衆の寺院に対する寄進や布施は 藩の徴税と対立し、寺院が民衆を経済的に圧迫しているとして、僧侶に対する 道義批判のかたちをとった仏教批判が強まりました。水戸藩や土佐藩などの特定な藩は 仏教葬ではなく 儒教葬を営んでもおりました。

 江戸時代 仏教からの独立を果たそうとする神社にとっての最大の問題は 寺壇制度(檀家制度)でした。寺壇制度の下、神社の神職も 壇那寺に属さなければならず、葬儀は仏教葬をしいられたからです。この状況を打開する為 神社は永き渡って 仏教を排撃し、仏教色を払拭し、宗教と神道を確立ささせ、神葬祭の施行許可を唱え続けました。しかし 神葬祭を営む為には 寺院の許可を必要とし、檀家を止める事にも繋がりますので、寺院との軋轢が昂じる事となりました。江戸幕府は 寺壇制度を宗教問題ではなく、民衆支配体制の問題と捉えて居りましたので、神葬祭を容易に許可する事はありませんでした。ようやく 1785年江戸幕府は ”吉田家から神職の免許状を与えられた当人 及び その嫡子に限り 寺院の宗門を離れ神葬祭を営んでも良いが、その他の家族は宗門から離れてはならない”との判断が下され、この状態は明治維新まで続く事と成ります。但し この時代の神葬祭は儒教葬とそれほで違いは無く、神葬祭の次第がまとめられるのは 1872年(明治5年)維新政府 教部省により制定された ”葬祭略式”によってです。

 江戸時代の国学者(平田篤胤他)などによる復古神道は 排仏論を進めると共に幕末の精神的支柱ともなり、社会的な影響を少なからず与える事とも成りました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・神道

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・神道に付いて書かせて頂きました。

 神道(しんとう、かんながらのみち)は古代日本に起源を遡ることが出来る、教祖・創設者を持たず、教典も無く、森羅万象に神が宿るとして八百万(やおよろず)の神を持ち、神社を聖域として祭祀を司る、日本固有の宗教です。古代日本より 民俗信仰・自然信仰を基にして政治体制と関連しながら成立して行き、日本国家の形成にも影響を与えた宗教です。仏教の伝来により その立場は入れ替わりますが、古来の民俗は仏教にも取り入れられ、日本仏教が出来上がります。そして 室町時代 吉田兼倶(かねとも)により神道の体系化、儀礼が作り上げられました。更に 明治維新の心の拠り所となります。

 神道 神社信仰は 日本古来の民族信仰ですが、神道という宗教の体系となるのは鎌倉時代の伊勢神宮の神官による学問的研究の始まりからであります。更に具体化に貢献するのは 吉田兼倶(1434~1511)です。兼倶は 密教や陰陽道(おんみょうどう)を取り込み 神道の理論つけと体系化をして 吉田神道をつくりあげます。

 室町時代 惣村の成立と共に寺院の建立や寺壇化の進行により、各地に於ける仏教の影響力が強まり、それに反比例して神社の地位は低下して行きます。それまで 神仏習合(神道よ仏教の融合)により出来ていた 神社内に作られた 天台宗や真言宗の寺院である別当寺や神宮寺も室町時代後期になると 仏教の宗派を離れ、修験道の手に移って行きます。吉田神道は こうした神社・別当寺・神宮寺などを唯一の神道として置く様になり、その体制は1700年頃に完成されたと言われます。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・寺請制度の意味

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・寺請制度の意味に付いて書かせて頂きました。

 寺請制度とは キリスト教徒の拡大に伴う反体制勢力の拡大を怖れた江戸幕府が設けた、宗教統制の制度で、全ての国民は特定の仏教寺院に帰依し、その寺院から 檀信徒である事を証明する証書(寺請証文)を得なければ成らない、と定めました。この制度により キリスト教徒(後に日蓮宗の不受不施派も加えられる)を国内から締め出すと共に、寺院が作成する 宗門人別改帳は 戸籍台帳ともなり住民調査を担う事とも成りました。又 旅行をしたり、住居を移転する際には 寺請証文の提示が必要とされました。

 寺請制度は 天草四朗時貞(本名 益田四朗時貞)を総大将として起こったキリシタンの反乱、島原の乱(日本の歴史上 最大規模の一揆)を契機として、キリシタンを取り締まる為に定められたとされます。しかしながら 島原の乱は1637年12月から4ヶ月で鎮圧され、その後 宗門改めが実施されますが、宗門人別改帳の作成は30数年後の1671年からであり、寺請制度は キリシタン取締と共に 幕藩体制を民衆に浸透させる為の施策であったとも言えます。

 寺請制度の下、檀家に成る為の必要事項も定められ 宗門檀那請合之掟(徳川家康が定めたとも言われる)と言われる書が出回り、檀家の心得ともされました。その要点は;

1 4月8日釈迦の降誕会、12月8日成道会、2月15日涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日、には必ず寺院に出向いてお参りをする事。

2 説教や仏法を説く寺院の集会に参加する事。

3 寺院の建物の建立や修理に協力する事。

4 葬儀は必ず寺院にお願いする事。

この事から 葬儀は寺院に依頼する と義務付けがされ、葬祭仏教化が一段と進む事と成りました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・寺請制度

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・寺請制度に付いて書かせて頂きました。

 寺請制度とは キリスト教徒の拡大に伴う反体制勢力の拡大を怖れた江戸幕府が設けた、宗教統制の制度で、全ての国民は特定の仏教寺院に帰依し、その寺院から 檀信徒である事を証明する証書(寺請証文)を得なければ成らない、と定めました。この制度により キリスト教徒を国内から締め出すと共に、寺院が作成する 宗門人別改帳は 戸籍台帳ともなり住民調査を担う事とも成りました。又 旅行をしたり、住居を移転する際にも 寺請証文の提示が必要とされました。

 室町時代後期から江戸時代初期にかけて、寺院と信徒(檀家)の関係となる寺檀関係が生成され始め、葬祭・仏事は 仏教界が支配する形となって居りました。こうした背景を基に 寺請制度が定められると、全ての人は仏教寺院の檀徒となり、各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招く習慣が定められました。1965年には 幕府は諸藩にも宗旨人別改帳の作成を命じ、1971年からは 毎年の作成が命じられ、以後 明治維新まで継続します。

 宗旨人別改帳とは 家単位で 居住者全員の名前、年齢、続柄、家畜、持ち高などを記した台帳で、公に認可された寺院が 村の構成員全員を対象に作成しました。そして 寺院からは 寺請証文が発行され、キリシタン(後に日蓮宗 不受不施派も邪宗の対象となる)ではないことを証明しました。本来 寺壇関係は自然発生的に作られましたが、寺請制度に発布により、法的な制度化が成され、全ての国民は どこかの寺院の壇徒と成らなければならず、又 その最小単位は家単位に定められました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・庶民のお墓

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・庶民のお墓に付いて書かせて頂きました。

 日本に於いて庶民のご遺体は集落の共同墓所に埋葬されるのが一般的で、この状態は古くは古代より室町時代まで続きます。その後 惣村の確立と共に庶民個々の経済力が向上し、家族、一族として固有の墓所を保持する様になり、墓石の建立も普及して行きます。そして 江戸時代の寺請制度により、一家一寺の関係と菩提寺(若しくは所有地内)にお墓を建立する習慣が確立しました。

 江戸時代に入ると、それまで村落を支配していた大地主が没落し、平均的な本百姓による共同支配へと変化して行きます。村落の中に有った大地主に庇護された寺院や道場は 村落共有の精神的結びつきを強化する為の惣寺院や惣道場へと変化しました。

 安土桃山時代、江戸時代初期には 民衆は寺院に帰依する様になりますが、一家の構成員全てが 家を単位として一つの寺院の檀家となる、一家一寺の関係は確立されては居りませんでした。家の構成員である夫と妻がそれぞれ異なる寺院に帰依する形態も多く見られました。それが 17世紀後半 江戸幕府による 寺請制度の推進と、自立した農家が広く形成された事により、一家一寺の関係が確立しました。一家という考え方が定まる事により、祖先崇拝も強まり、一家は 菩提寺としてその寺の経済的基盤を支え、代りに 葬祭 仏事は寺院に委託すると言う関係が定着しました。

 共同墓所への埋葬の時代には 墓石を建てるという習慣は有りませんでしたが、壇那寺と檀家という関係が確立すると 一家は独自の墓所を持つ様になり、その墓所には自分達の墓石を建立する習慣が徐々に広がり一般化して行きます。近世の庶民のお墓は 一家の確立、先祖崇拝、家の象徴を前提として建立される事と成りました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・民衆の葬祭

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・民衆の葬祭に付いて書かせて頂きました。

 鎌倉・室町時代 仏式による葬儀は貴族階級から武士階級へと広がり、更には 惣村と呼ばれる農民の村社会が形成されると、惣村の中に設けられた寺院や道場による仏教の布教活動が活発となり、信者の拡大は庶民へとも広がり、庶民も葬祭を営む様になり、それは仏式で営なまれました。多くの 仏教宗派は 葬祭の施行を中心に置いて布教活動を行つても居り、特に 浄土真宗は 火葬を推奨した事から 火葬が普及し始めました。そして 室町時代末期 応仁の乱以降には 農民が寺院の支え手に加わる形も出来始め、檀家制度がつくられ始めます。

 室町時代以降 貴族や武士の間では ご遺体を火葬に付す習慣が進みます。この習慣は 仏教が庶民の間に普及すると共に、庶民階級にも広がりました。しかしながら 時代も進んだ明治時代中期の火葬率が30%前後である事から見ると、庶民の多くのご遺体は 土葬されて居りました。仏教の教えでは火葬を原則として居り、特に浄土真宗は火葬を推奨しましたが、火葬場の数は少なく、ご火葬する為の費用(人手と薪)が高額でもある事から、普及率が高まる事はありませんでした。

 日本に於ける 寺院と信徒の関係は 壇那寺(旦那寺)ー檀家の関係で結ばれています。檀家とは 檀越(だんおつ)の家と言う意味で、檀越とは古代インド語である梵語のダーナパティの音写で、寺や僧侶を援助する庇護者を意味します。日本に於いて 中世までは寺院は天皇家を中心とする貴族と武士により支えられて来ましたが、室町時代末期 応仁の乱以後 戦乱の世を中心に惣村が形成されると、庶民(農民)も寺院の支え手に加わり始めます。庶民は 葬祭や仏事を寺院に委託する代わりに、寺院の維持費を負担する様になり、自然発生的に寺檀関係が出来始め、江戸時代の檀家制度へと発展して行きました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・葬祭仏教化

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・葬祭仏教化に付いて書かせて頂きました。

 鎌倉・室町時代 仏式による葬儀は貴族階級から武士階級へと広がり、更には 惣村と呼ばれる農民の村社会が形成されると、惣村の中に設けられた寺院や道場による仏教の布教活動が活発となり、信者の拡大は仏式葬祭の普及へと繋がって行きました。又 宗派によっては葬祭の施行を中心に置いて布教活動を行つても居りました。そして 室町時代末期 応仁の乱以降には 農民が寺院の支え手に加わる形も出来始め、檀家制度がつくられ始めました。

 鎌倉時代までの農民の結合は 有力な地域の有力名主を中心としてなされて居りましたが、室町時代も進むと 小規模農民層もその結合の中に加わり始め、近代の村と呼ばれる ”惣村”が形成されます。農民による自治組織、共同体としての惣村が作られ、地域共同体が出来上がってゆきました。惣村は地域の連帯を維持する為の規則や罰則などの検察・裁判機能も有し、領主の圧政に対する闘争組織でも有り、余剰の生産物を保管、販売する組織でもありました。

 惣村の形成により 独立性を持った農民たちは寺院を支える財政力を持つようにも成ります。こうした事情を背景に 仏教各宗派は地方へ進出し、寺院や道場が作られて、仏教はより民衆化して行きます。民衆の仏教葬祭化を最初に広く推し進めたのは浄土宗でしたが、その後 禅宗、真言宗(密教)、日蓮宗、浄土真宗、天台宗なども 民衆の中の布教手段として葬祭を中心としましたので、葬祭仏教化が一段と進む事となりました。

 惣村を中心とした民衆の葬祭では 仏式の葬儀が民衆の中に受入られると同時に、それぞれの土地の民俗が仏教に融合して行きました。従いまして 仏教の葬儀であっても宗派によりその次第は異なり、更に 同じ宗派でも地域によりその次第が大きく異なる 事と成りました。そのしきたりは 江戸時代から現代にも受け継がれて居ります。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀Ⅳ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀Ⅳに付いて書かせて頂きました。

 現代 私供がお手伝いをして営むご葬儀の原型は鎌倉時代に作られたと言われて居りますが、その基となるものが 禅宗の僧侶の実践規範を記した ”禅苑清規”によります。禅苑清規とは 禅苑は禅寺を、清規とは規範を現します、北宋の末期 雲門宗 第七世 慈覚大師により編纂された 全10巻から成る禅宗 の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や 日常の行法などを記したものです。日本に於ける曹洞宗の準経典とも位置付けられて居ります。

 禅苑清規では 出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と 修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っが記されて居ります。尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心とされ、亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。この亡僧喪儀法を基に 浄土教 密教の念仏や往生祈願が付け加えれられて、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。

 在家の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して次第とされたものですから、死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として剃髪し、戒名を授け、そして 引導を渡して成仏させます。これを 死後に僧侶にする事から ”没後作僧” とよばれます。現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。

 鎌倉時代・室町時代は 龕堂(がんどう)と火葬場の2ヶ所で仏事が営まれました。龕(がん)とは 棺や柩を納める容器の事を言い、龕堂とは 柩を安置しておく家屋を指します。寺院や自宅、あるいは ご火葬を行う火屋の前に龕前堂が作られました。この龕前堂は 現代に於ける斎場、葬儀式場にあたるとも言えます。龕前堂で営む儀式が 現代の葬儀式に発展したと考えられて居ります。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀Ⅲ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀Ⅲに付いて書かせて頂きました。

 平安時代 日本古来の葬送儀礼と仏教の葬送儀礼が融和して、日本人の葬儀次第の原型が出来上がりましたが、日本を統治する政権が武士の手に移った 鎌倉時代には 仏教の宗派として新しく 浄土宗、禅宗、浄土真宗、日蓮宗が登場します。特に 葬送儀礼に関しては 禅宗により僧侶の葬法が中国より伝えられ、それに過去の日本の習俗が加えられて 武家や庶民の葬法が作り上げられました。この時代に営まれた 天皇や貴族の葬儀の概要を記したものとして ”吉事次第”が御座います。

 吉事次第は葬儀の模様を記した書物ですが、この時代には 凶事や蔡事という言葉は忌み嫌われ、吉事 もしくは 勝事と言われました。吉事次第によれば 御座直し、入棺、葬送、火葬、納骨、香奠・白布・位牌、などの付いてが記されて居ります;

拾骨が終り、白の革袋に納められたお骨壺は 召使の首に架けられて三昧堂(高野山や納骨する寺院の)に運ばれ納骨されます。納骨は 三昧堂の仏壇の下に穴を掘り、その中にお骨壺を安置し、土と石でその上を覆い、更に石灰で塗り固めました。納骨に参加した方々は 帰宅する前に故人様の霊の成仏を祈念して藁(わら)で作った人形で手祓いをしました。

 この時代には 既に香奠・白布・位牌の習慣が見られます。記録を見るに 武士の間では金銭による香奠をよせる事が記されて居ります。又 火葬場の荒垣に白絹の布を張り巡らしたとあり、現代の葬儀式場で周りに白布を張り巡らす習俗につなげられます。更に ご位牌は家督相続者が保持した、とも記されて居ります。

 現代の葬送儀礼の中心は出棺前の 葬儀式・告別式ですが、この時代は 山頭念誦(さんとうねんじゅ)と呼ばれる火葬場での仏事でした。火葬場で読経がされ、現在の精進落としにあたる 奠湯(てんとう)、奠茶(てんちゃ)が火葬場で振舞われました。そして 七七日法要(四十九日)の仏事をもって精進上げとされました。

 葬列を組む際の善の綱や、火葬場の前で入る前に3回廻る所作なども 記されて居ります。これらは現在でも地域により 伝承されて居ります。又 この時代に行われた ご遺骨をお骨壺に納める際の箸渡しは 簡素化されて2人一組となりご遺骨を持ってお骨壺に納める形で現在に伝承されて居ります。  

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀Ⅱ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀Ⅱに付いて書かせて頂きました。

 平安時代 日本古来の葬送儀礼と仏教の葬送儀礼が融和して、日本人の葬儀次第の原型が出来上がりましたが、日本を統治する政権が武士の手に移った 鎌倉時代には 仏教の宗派として新しく 浄土宗、禅宗、浄土真宗、日蓮宗が登場します。特に 葬送儀礼に関しては 禅宗により僧侶の葬法が中国より伝えられ、それに過去の日本の習俗が加えられて 武家や庶民の葬法が作り上げられました。この時代に営まれた 天皇や貴族の葬儀の概要を記したものとして ”吉事次第”が御座います。

 吉事次第には 御座直し、入棺、葬送、火葬、納骨、香奠・白布・位牌、などの付いてが記されて居ります。

葬送では 早朝に山作所(さんさくしょ)と呼ばれるお墓を造ります。葬送当日に素服と呼ばれる粗い白布で作る喪服を裁縫します。夜になるとその素服を着用して御仏供養を営み、出棺となります。お柩は御車(牛車)に載せられ火葬場へお運びします。残された者は お柩が安置されていた寝所を竹の箒で掃き清め、集められた塵と箒は 川もしくは山野に捨て、枕火を消して終了となります。

ご火葬は まず火葬場となる場所の周りを荒垣で回らし、入口に鳥居を建て、中に小屋を造ります。ご火葬はこの小屋の中で行います。

ご火葬場に御車に載せられたお柩が到着すると、導師と呪願の僧侶が御車の前で儀礼を営み、お柩を小屋の中に安置してご火葬を行います。ご火葬の間 僧侶と近親者は真言を誦(じゅ)します。ご火葬の時間は夜半から翌朝までが必要となります。翌朝 ご火葬が終りましたら 湯で火を消し、灰を水で流します。そして 拾骨となりますが、ご遺骨を箸で挟んで次々と他の人に渡して行き、最後の方がお骨壺にお納めします。ご遺骨が全てお骨壺に納められましたら、ご遺骨に真言土砂をお掛けして、蓋をし、白の革袋にお納めします。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・鎌倉時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 平安時代 日本古来の葬送儀礼と仏教の葬送儀礼が融和して、日本人の葬儀次第の原型が出来上がりましたが、日本を統治する政権が武士の手に移った 鎌倉時代には 仏教の宗派として新しく 浄土宗、禅宗、浄土真宗、日蓮宗が登場します。特に 葬送儀礼に関しては 禅宗により僧侶の葬法が中国より伝えられ、それに過去の日本の習俗が加えられて 武家や庶民の葬法が作り上げられました。この時代に営まれた 天皇や貴族の葬儀の概要を記したものとして ”吉事次第”が御座います。

 吉事次第には 御座直し、入棺、葬送、火葬、納骨、香奠・白布・位牌、などの付いてが記されて居ります。

 吉事次第は葬儀の模様を記した書物ですが、この時代には 凶事や蔡事という言葉は忌み嫌われ、吉事 もしくは 勝事と言われました。吉事次第によれば 御座直し、入棺、葬送、火葬、納骨、香奠・白布・位牌、などの付いてが記されて居ります;

人が亡くなると”御座直し”が行われます。ご遺体を北枕にして筵(むしろ)の上に寝かし直し、逆さ屏風や几帳(きちょう)を立て回わし、枕元に灯明を一つ立てて葬儀が終るまで消さぬよう守り、香を灯明の火で焚き、夏は酢を鉢に入れてご遺体の鼻の側に置き(消臭の為)、僧侶 遺族 近親者は屏風の外に侍り、僧侶は真言を唱えました。

次に ご遺体を棺のお収めしますが、木製の棺(標準は 長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸)を用意し、棺の底に土器のかけらと香を敷き詰めます(ご遺体が動くのを防ぎ、ご遺体から漏れる体液を吸収する為)。ご遺体の納棺は 筵ごと棺の中にお収めし、枕で頭を支え、ご遺体の上を引覆(ひきおおい、野草衣とも言い 曼陀羅を書いた衣)で覆いました。引覆の上から 頭、胸、足の3ヶ所に土砂加持の砂をかけます。そして 棺の蓋をし、布の綱で縛り、北枕で葬儀の時まで安置します。

 今回は以上です。葬送以降は次回に書かせて頂きます。

葬儀横浜 葬儀の歴史・浄土教と葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・浄土教と葬儀に付いて書かせて頂きました。

 平安時代 三昧会を中心として、死後に極楽往生するには 念仏の行をあげる以外に無い、という浄土教(浄土思想)が生まれ、信徒の層は民衆へと大きく広がりを見せました。又 浄土思想を基に 葬送儀礼の形態も、現代に近い形態とその意味つけがこの時代に成されました。その基本とされた考えが、天台宗の僧侶 恵心僧都源信によって記された”往生要集”です。源信の教えは 法然上人の浄土宗、親鸞聖人の浄土真宗へと受け継がれます。

 往生要集は 985年に 浄土思想の観点から、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要部分を抜粋した仏教書で、一部三巻からなります。その中では六道が説かれ、特に地獄道は醜く示されて居り、三悪趣(地獄道、餓鬼道、畜生道)に堕ちる事を避け、極楽浄土に往生すべき事を説きます。そして 極楽浄土への往生の方法を説き 念仏の必要性と 念仏修行の方法を説きます。更に 念仏の功徳、その包容性、最後に 何よりも勝れているのが念仏であると説きます。この書に記された精神は 貴族階級だけではなく、庶民階級にも広く普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えました。特筆すべきは 本書が 中国 天台宗国清寺に渡り、中国の僧侶多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来 唐末五代の混乱によって 散逸した教法を復活させる機縁となった事です。

 日本の仏教では 死後 人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔を始めとする十王により7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる とされ、その救済のため 四十九日まで7回の法要を営みます。これらの儀礼も平安時代に意味ずけられ、習慣化されたと考えられます。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・死後の世界と葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・死後の世界と葬儀に付いて書かせて頂きました。

 二十五三昧会に始まる浄土思想が広がりを見せた平安時代、当初 臨終行儀を中心としていた浄土思想は 死後の世界おも含めた思想へと拡大します。それに伴い 葬送の儀礼も臨終の儀礼から死後の法要に至るまでの儀礼へと変化し、それぞれの儀礼の意味ずけも成されました。地獄道を含む 仏教の六道が日本成りに解釈されて紹介されるのもこの時代であり、その中心となったのが 二十五三昧会の中心人物 天台宗僧侶 恵心僧都源信でした。尚 日本に於きましては 日本書記に反映される日本神話の中に地獄は存在して居りません。

 二十五三昧会は 日本国内に広く影響を与え、各地に二十五三昧講が作られました。そして 12世紀に入ると 往生院は臨終に際しての場所ではなく、死後の墓堂へと変化して行き、死後の葬祭を営む所ともなって行きます。又 念仏三昧を行う念仏講は 輪廻転生(りんねてんしょう)から変化した 擬死再生の逆修、一度往生することにより、穢れが清められ、病気が治り、長生き出来、更には安らかに死ねる、として民間に流行し、信仰を集めました。

 仏教の六道とは 衆生(しゅうじょう)がその業(ごう)の結果として輪廻転生する6種の世界で、天道(天界道とも言う)、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、の六道で 天道から修羅道までを三善趣、畜生道から地獄道までを三悪趣(三悪道)と呼称されます。六道は古代インド思想を起源とし、原始仏教では大きな意味を持っては居りませんでしたが、その後 中国に伝わり 儒教の文化と結び付いた後に、日本に伝来しました。六道は 恵心僧都源信が著した ”往生要集”により紹介されました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・浄土思想

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・浄土思想に付いて書かせて頂きました。

 平安時代 仏教は貴族階級だけでなく、一般民衆へも信徒を広げて行きますが、そうした中で 阿弥陀仏の本願に基ずいて 観仏や念仏によって阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し成仏を願うべし、との教えが始まり、広がります。この教えを浄土思想(浄土教とも言う)と言いました。その始まりが 比叡山天台宗で 慶滋保胤(よしげのやすたね、法名 寂心)と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)を中心として集った ”二十五三昧会”と呼ばれる集団でした。

 10世紀末 比叡山の天台宗僧侶25名が集い 二十五三昧会 と呼ぶ集団を結成します。三昧会(ざんまいかい)のメンバーは 毎月15日に集まって念仏三昧をし、臨終にある仲間には皆で助けて念仏させ 西方極楽浄土へ往生させようとする、浄土思想を基にした結社でした。

 同志の中に病人が出ると 皆で看病し、病が重くなると 往生院と呼ばれる建物に移し、励まし合って死に臨んでいる者の心が乱れぬ様にし、亡くなったのちには ご遺体に光明真言をもって土砂加持を行い、3日の内に墓所に卒塔婆(そとば)を立てて葬りました。同志の葬式には必ず参加し、七七日法要までの間は 七日ごとに集まって念仏を修しました。又 春秋2回同志は集って 念仏を修しました。過去帳に名前を記し、祥月命日にも供養をしました。往生院で営まれた往生行儀としての念仏が 現代の枕経の原型と言われて居ります。

 臨終行儀とは 臨終(臨命終時の略)に際して 西方極楽浄土への往生を祈念して行う行儀で、阿弥陀仏の前に西方を向かせて病者を寝かせ、仏の右手と病者の左手を五色の糸で結び、念仏を唱えながら亡くなると 極楽往生間違いないとされました。この 臨終に於ける阿弥陀仏への帰依が 日本に於ける 葬祭での阿弥陀仏信仰を決定的にしました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・葬儀の仏教化

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・葬儀の仏教化に付いて書かせて頂きました。

 現代 葬儀の中心儀礼とされる仏教は 日本伝来以来 天皇家を中心とする上流階級の庇護の下、日本文化に同化して参りましたが、奈良時代後半には 官の許可を持たない私度僧による、仏教の民間に対する布教が始まります。更に 行基を頂点とする民間仏教の指導集団も形成されるます。平安時代中期には 末法思想の広まりに対して 阿弥陀聖(あみだひじり)との呼ばれる 空也により、仏教の民衆化が進捗し、民衆の葬儀にも仏教の儀式が取り入れられ始めます。

 奈良時代 出家して仏教の僧侶となる為には 官の許可が必要であり、これを官度(かんど)と呼ばれ、民間に対する仏教の布教は禁じられたり、制限が加えられたして居りました。こうした中で 官の許可が得られなくとも 仏教を得度し布教を志す人々が現われ始め、私度僧(しどそう)と呼ばれて、民衆の中に受入始められました。

 この様な中で 仏教の民衆化は高まり続け、行基を頂点とする民間仏教の布教集団が形成されはじめます。やがて 朝廷もこうした民間仏教の高まりを評価せざるを得なくなり、東大寺 大仏建立にあたり行基に協賛の要請がなされ、同意・協賛した行基は 大僧正の位が与えられました。この 行基集団は 死者の弔いにも従事していたと ”続日本紀”に記されて居り、行基の弟子の一人である志阿弥(しあみ)が火葬の技術を伝え、日本各地で火葬・埋葬を司る 三昧聖の始祖と伝承されます。

 聖(ひじり)とは 古来 仏教伝来以前は ”日知り”を意味し、太陽の司祭者・呪術者を指したとされ 民間信仰の司祭者とされました。仏教伝来以降は 聖の字が当てられ、学徳の高い僧を聖と呼ぶようになり、更には 諸国を回遊する仏教僧を示すようになりました。平安時代に活躍する高名な聖 阿弥陀聖、あるいは 市聖と呼ばれる 空也(903-972年)は 阿弥陀仏の名を唱えると阿弥陀仏の絶大な力を働かせる事が出来るとして、南無阿弥陀仏(南無は信じますを意味)と口誦する事を説きました。これは民間念仏として死者儀礼や農耕儀礼と結び付いて仏教の民衆化を押し進めました。念仏は呪力を持ち、死者の滅罪に供すると考えられました。空也の集団も火葬や埋葬に従事したと考えられて居ります。こうして民衆の葬儀は仏教化されていったと考えられます。

   今回は以上です。 

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