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葬儀の祭壇

 今回は葬儀式、告別式に於ける祭壇について書かせて頂きました。

 葬儀に於ける 祭壇の位置付けは 必ずしも明確では有りませんが 仏教において 葬儀式は 故人さまをあの世にお送りする宗教儀式であり、告別式は 故人さまとご遺族・会葬者の方々のお別れの場であります、従いまして 祭壇は この二つの目的を満たすものでなければ成りません。現在 多く見られる白木の祭壇は 明治時代に より華やかと成りました葬列で お棺は白木の輿に乗せられ、色々なお飾りをして 運ばれ、そのまま葬儀の場に安置されました。これを原型として 戦後に現在の白木祭壇が作られました。

 ご葬儀を執り行う場所は ご自宅、公営斎場、民営斎場、寺院・集会場等が有ります。ご自宅は 斎場を借りる費用も掛らず、ご近所の方々も会葬に来て頂きやすい 良い点は有りますが、祭壇を飾り ご焼香をして頂く場所を確保する必要が有ります。又 ご近所へのお気使いも必要と成ります。公営斎場は 祭壇を飾る場所も広く 利用料も廉価ですみますが、時として混んでいる場合が有ります。民営斎場は 施設もきれいで設備も整っていますが 利用料は高額となります。寺院・集会場は 貸斎場に比べると設備は整って居りませんので、準備には注意が必要です、尚 寺院をご使用の場合は檀家に限定される事が有ります。

 白木祭壇は 上部が宮型で、寺院建築風の装飾がされたもので 仏式葬で主として使用され、白木祭壇の上にお花を飾り、祭壇の両脇に頂いたご供花を添えます。

 現在は 宗教儀式もさることながら、故人さまとのお別れを主体にと 白木祭壇の代りに 生花で祭壇を作るケースが増えて参りました。生花祭壇には飾り方の決まりが有る訳では有りませんので、ご予算とお好みに合わせてデザインする事が出来ます。故人さまのお好きな花に囲まれたお見送りや フラワーアレンジメントによりましては 雰囲気の違うご葬儀を執り行う事も可能となります。

   今回は以上です。

ご遺体の保全

今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 人間や動物の肉体は死後 体内にある自己溶解酵素、及び体の内外に棲息する微生物などによって、細胞は急速に分解を始め(腐敗)、さらに ハエの幼虫など 死肉食性の昆虫の摂食活動により速やかに損壊されます。又 ご遺体から浸出す体液・腐敗汁などの汚染による感染症の危険もあります。これらを防ぐ為に ご遺体の衛生保全(エンバーミング)や 腐敗の進行を遅延させる為のドライアイス使用などを行います。日本国内の法律では 医師による死亡の判定から24時間以内のご火葬は許されて居りません(死亡原因が感染症である場合を除く)、又 火葬炉の空状況によりましては 更に数日間 ご遺体を保全する必要が有り、この間は一般的にドライアイスによる腐敗防止を、ご遺体を遠方に移送したり 何らかの事情で長期間 保全する必要が有る場合は遺体衛生保全(エンバーミング)を施す必要が御座います。

 ドライアイスは 皮膚に直に当てますと皮膚が傷つきますので、タオルなどでくるんで使用します。胃や腸の腐敗は早く、腐敗ガスを発生させますので 側頭部と胸から腹部を中心としてドライアイスを当てます。通常は10Kgで24時間 保全が可能ですが、夏場の暑い時などは量を増やしたり、交換の頻度を上げたりして調節する必要が御座います。又 ドライアイスは直下にしか効きませんので、ご遺体の上に置くかたちとなります。

   今回は以上です。

祭壇

 今回は祭壇に付いて書かせて頂きました。

 祭壇は 神、仏、精霊、や死者などに 犠牲や供物を捧げる為の壇を指します。仏教に於ける祭壇としては 仏像を安置する為の須弥壇、ご家庭内に置かれる仏壇は常設の祭壇であり、仮設の祭壇としては 葬祭儀礼用の葬儀壇、四十九日までの間 置かれる中陰壇、お盆の時期に設置される精霊棚(盆棚)等があります。

 仏教の葬祭儀礼に於ける祭壇は 儀礼により目的が異なります。葬儀の目的は 御仏を供養し それによって得られた功徳を故人さまに振り向けて頂くことに有ります、従いまして祭壇は仏様の為に設けられます。告別式の場合は 故人さまとご遺族や会葬者の方々とのお別れが主体と成りますので 祭壇は故人さまの為に設けられます。しかしながら 昨今の事情では 葬儀と告別式を個別に行う事は少なくなり、同時に執り行われる様に成り 祭壇も二つの目的を持つように成りました。

 江戸時代では 柩の前に野机と呼ばれる小机を置き、白布で覆い、灯明・香炉・花立て・位牌・供物を置き、両側に供花を添えて祭壇として居りました。明治に入りましてから 葬列がより盛大となり 柩を運ぶ白木の輿に色々な装飾がされる様に成り、戦後 この白木の輿が二段、三段となって 白木祭壇が祭壇の主流と成りました。戦後の葬祭儀礼は 葬儀よりも告別式が中心と成り 立派な祭壇を飾る事が故人さまを弔う事に成るとの考えが生まれ、祭壇はより大きなものへと変わりました。又 故人さまを より中心として弔う為に 故人さまの愛用品を祭壇に飾ったり、故人さまの人柄に合わせた生花祭壇を設ける事が流行とも成りつつあります。

   今回は以上です。

通夜

 今回は通夜に付いて書かせて頂きました。

 通夜は 故人さまとの別れの最後の夜と言う事で、故人さまと親しかった方が 故人さまを取り囲み、故人さまの思い出話を通して、語り合う夜の事です。ご遺族や身近な方々にとりましては 故人さまのご逝去はまだ 受入れ難く、夜を徹して 故人さまの周りに侍り、ご生前と同じよう仕えて、最後に過ごす大切な時間でも有ります。起源は お釈迦さまの入滅後、その死を悲しんだ弟子たちが ご遺体を見守りながら夜を通して お釈迦さまが生涯をかけて説いた お説法を弟子たちが互いに聞かせあったとの故事によります。

 現代のお通夜では 故人さまがご逝去されてから 斎場・火葬炉の空状況、ご遺族のご都合等を考慮し、ご予定を決めますが、ご逝去から葬儀まで数日の間が有ります。従いまして ご逝去の夜はご自宅で仮通夜、葬儀の前日を斎場で本通夜とする形がほとんどです。本通夜は 夜の6時から7時の一時間くらいを 僧侶の読経、弔問客によるご焼香にあて、その後 弔問客に対して通夜振る舞いのお酒と食事を供して 一時間から二時間で順次散会し、その後はご遺族や極く親しい方のみで 故人さまを見守るというのが一般的です。又 昨今は お仕事のご都合から会葬者の方々は 昼間のご葬儀よりも 夜間のお通夜のみに参列されるケースが多く見られ、通夜の参列者が多くなる傾向に有ります。

 尚 横浜市営の斎場では 5名程度まで宿箔が可能です。又 通夜ではロウソクと線香の火を絶やしてならないとの俗言が有ります これはご遺体の保全が十分に出来なかった時代にご遺体の腐臭を消す為に必要だったと考えられますが、現在ではドライアイス等によりご遺体の保全は問題御座いませんので 不要と成りました。市営斎場でも 火災予防の観点から 夜間は火気厳禁となって居ります。これは余談ですが 夜間に線香を絶やさない為の 蚊取り線香型の線香が御座いますが、これは 江戸時代の線香屋さんがか発明したものです。

  今回は以上です。

献花

 今回は献花について書かせて頂きました。

 献花とは 無宗教葬のお別れ会、キリスト教葬、香を使用出来ないホテルでの葬儀等で 故人さまをお見送りする際に捧げるお花を指します。ご遺体にお花を捧げる習慣は非常に古くから有り、イラク北部で発見された シャニダール遺跡で ネアンデルタール人のご遺骸の周りで 洞窟内では咲くはずの無い 花の花粉が見つかり 数万年前の亜人類にも 死者を葬る習慣があり、葬られたご遺体に お花を捧げたのではないかと 推測されております。

 キリスト教葬における献花は 白のカーネーションで行われるのが一般的ですが、これは日本だけの習慣で、仏教葬の焼香の変わる行為と言われて居ります。海外では お柩にお花を捧げる習慣は有りますが、ご葬儀でお花を捧げる習慣は有りません。ご献花を捧げる作法として決められた形は有りません、 その教会により異なりますが、参列者は各自一輪の花を持ち、一人ずつ式場の前に進み、お柩やご遺影の前に置かれたテーブルの上にお花を置いて、故人さまに拝礼をして席に戻ります。お花の置き方は お花をお棺に向けて置く場合と、茎の部分をお棺に向けて置く場合とが御座いますが、前の方と同じ方法で置かれるのが良いでしょう。又 お花は教会の入り口で会場に入る際に渡される場合と、献花の前に介添いの方より渡される場合が有ります。

 無宗教葬の場合や、仏教葬でもホテルで執り行う場合は焼香が出来ない為、献花を行います。献花に使用する花は ① 一輪咲き、② 茎がしっかりしてる、③ 持ちやすい長さがある、④ 白色の品種がある の条件を満たす花であれば良いのですが、トゲを持つ花は避けます。但し 今後は世の変化と共に変わって行くかもしれません。お花の置き方に付きましては 特に決められた作法は御座いませんので、前の方に従うのが良いと思われます。

   今回は以上です。 

葬儀と文化

 今回は葬儀と文化に付いて書かせて頂きました。

 有史以来 人が亡くなられると葬儀が営まれて参りました。そして その葬儀は 地域、民族、宗教などに根ざした文化と死生観を基に営まれ それぞれの時代の生活文化、精神文化を反映したもので有りました。その意味では 葬儀は 人の生死に係わる総合文化とも言えます。

 葬儀文化は その地域で長い歴史を通して人々が培って来たもので有り、多くの人々の知恵によって出来上がって居ります。そこに含まれている意味合いを良く理解し、その精神を大切にする事が必要です。勿論 文化はその時々の時代を反映して出来て居りますので、中には現代にそぐわない儀礼等も含まれますが、古い物と 単純に切り捨てるのでは無く、その儀礼(文化)が なぜ、どの様にして形成されたのかを学ぶ事により 過去の人々が どの様な 習慣、儀礼、文化を大切にし、どの様な価値を生み出したかを知る事が大切ではないでしょうか。

 横浜は 古くは小さな漁村と宿場町を擁する地域であり 特別な文化を持つ地方では有りませんでしたが、百数十年前の開港から 多くの人々が集まり現在に至って居ります。その文化は各国、各地域の文化が集合、混在して出来て居ります。又 高齢化、核家族化が大きく進む中では 多様な文化と死生観を持つ人々の都市となり、葬儀文化もより個人化された形に成りつつ有ります。私ども葬儀社も既成概念に捉われず、ご遺族さまの死生観に合わせたご葬儀を企画しなければ成らないと愚考する昨今で御座います。

   今回は以上です。 

葬儀の意味

 今回は葬儀の意味について書かせて頂きました。

 葬儀は 故人さまの逝去を弔うために執り行う祭儀ですが、それと共に 残された方々のために執り行う意味合いも強く有ります。残された方々が 故人さまの逝去を どの様に心の中で受け留め、位置付け、そして処理するかを手助けするする為の儀式でも有ります。日本では 宗教が文明の中で作られる前の 旧石器時代には すでに行われていた宗教的儀式とも言えます。

 現代の葬儀では 宗教的係わりが大きな要素となって居ります。葬儀の主体は あくまでも故人さまですが、葬儀の責任は故人さまを見送るご遺族さまであり、執行は僧侶、神職、神父、牧師等の宗教者であり、さらに参列される方々により構成されます。 そして 日本の葬儀では 悲しみの場である事が一般的ですが、他国では死者の新たな門出の祝いとして 明るく見送るケースが多く見られます。

 現在 よく葬儀の形骸化という事が語られますが、葬儀が大切な営みである事に変わりは無く、人の生と死は それぞれ固有の価値を持つものであり、そのご葬儀は 故人さまとご家族にとって固有の大切な営みで御座います。従いまして ご葬儀は如何に在るべきかと言うよりは 故人様・ご遺族が如何に在りたいかを大切にすべきと考えます。形骸化が世の流れであるとすれば それはそれで良しとし、私ども葬儀コーディネーターは 執り行わさせて頂くご葬儀の中に 故人様・ご遺族のご希望を折り込むべく 心せねば成らないと考えて居ります。

 現在の横浜では 核家族化が進み、地域の人々の協力も得難い状態となって参りました、その中で ご葬儀と言う あまりご経験の無い事を執り行うには相談相手として 私ども 葬儀コーディネーターが居ります。私共も 既成の概念に捉われず、ご遺族さまのご要望を勉強させて頂き その実現に向けて努力したいと熱望致して居ります。

   今回は以上です。

葬儀の起源Ⅱ

 今回も葬儀、特に仏式葬儀の起源に付いて書かせて頂きました。

 仏式葬儀に於ける作法はお釈迦さまの葬儀を基本にしているとされて居ります。

ご遺体を洗う湯灌の行事に付きましては原始仏教の時代より ご遺体を棺にお納めする前に 香水で洗浴する事が行われて居りました。又 釈尊は ご遺体に触れた者は体と衣服を洗い、触れなかった者は手足を洗うだけで良いと 教えました。

 末期の水とは ご臨終を迎えた人に与える水を指します。筆先、あるいは 新しい綿に水を含ませ唇を湿らせます。これは 釈尊が臨終を迎えた時 水を所望し 従弟であり十大弟子の一人であった 阿難尊者が川の水を汲んで 釈尊に差し上げた事に由来します。釈尊はおいしいと言って水を飲み、この水が釈尊の最後の飲物と成りました。

 仏式に於ける死装束は 白の経帷子ですが、これは 巡礼をする際の装束で、巡礼の途上で亡くなられた場合は そのまま火葬、あるいは埋葬された事に由来します。釈尊の場合は 支援者より 金色の衣裳が贈られ、これが死装束と成りました。東南アジアで見られる寝釈迦像が金色で飾られているのは この死装束に由来します。

 釈尊は 旅の最後に沙羅双樹の林の中で入滅されました。入滅された時 沙羅双樹の木は白い花を咲かせて供養をしたと言われて居ります。日本の葬儀で良く見られる 紙華花は 沙羅双樹の白い花に由来していると言われて居ります。 

 人が亡くなられると 布団を敷き直し 頭を北に向けて安置します。これは 釈尊が沙羅双樹の林の中で入滅された時 頭は北、足は南、顔を西に向けていた事に由来します。これを頭北面西と言い、右脇を下にする寝方を獅子臥の法と言います。

 法事の際の食事を”お斎(おとき)”と言いますが、インドでは 僧侶が食事をして良い時間を時食、食事をしてはいけない時間を非時食と言います。この時食が日本に伝わり斎(とき)に変化したと言われて居ります。

  今回は以上です。 

埋葬

 今回は埋葬に付いて書かせて頂きました。

 埋葬とは ご遺体を土の中に埋める事を言いますが、必ずしも土中に限らず 地下室や地上の施設に葬る場合も埋葬と表現します。現在の横浜では 100% ご火葬後の埋葬と成っておりますので、ご遺骨を埋葬する事となります。

 埋葬の歴史は古く 10万年ほど前のネアンデルタール人の時代には 埋葬が行われていたと考えられて居ります。又 その前の猿人・原人の段階では埋葬は行われていなかったと推定されて居ります。これは 人類が考える力を持ち始め 人の死や死霊などを特別な意識で見始めてから 埋葬と言う行為が始まったと推定されます。そして 埋葬の場所として 墓域が設けられて居たとも推測されます。その後 文明の発展と共に 強力な権力者が誕生し 埋葬行為は権力の象徴へと変化して行きます。

 日本に於ける 埋葬では 旧石器時代に属する 北海道の湯の里遺跡で お墓と思われる遺構が発見されて居り、旧石器時代には既に埋葬が行われていたと考えられます。それに続く縄文式時代以降には多くの遺跡で 埋葬行為が確認されて居ります。集落内や貝塚などに墓域が設けられ、土器棺、石棺に納められて 土葬により埋葬されて居ります。埋葬には手足を折り曲げた屈葬と 手足を伸ばした伸展葬が有りますが、この時代は屈葬が一般的でした。又 再葬と呼ばれる埋葬方法も見られます。再葬は 一度 ご遺体を埋葬し 白骨化した後に 改めて骨壺に納めて埋葬し直す方法です。そして 埋葬の形態は 弥生時代、古墳時代と進むにつれ より大掛りなものへ変化して行きます。

   今回は以上です。 

平安時代の葬儀

 今回は平安時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 日本に於ける 仏式の葬儀の形式は 平安時代に出来あがったと考えられて居ります。その典型例として 第66代 一条天皇のご葬儀が語られます。一条天皇は わずか7歳で即位して後 1011年 32歳で崩御されるまで 25年間 在位し 平安王朝文化を花咲かせた天皇です。源氏物語の作者と言われる 紫式部は 一条天皇の中宮であった 彰子(しょうし)の女房として宮中に仕えて居りました。

 6月22日 譲位して上皇と成られた天皇は危篤状態となり 正午ごろに崩御。6月25日 宮中に陰陽師が召されて 葬送の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占わせる。同日 沐浴をさせ 深夜に入棺。入棺作業には 慶円僧正他数名の僧侶と 公卿数名が奉仕し 皇后・宮さま方により 棺に形代が入れられました。7月8日 葬送 参列の人々は 素服を裁縫して着用、慶円僧正が呪願を行い、院源僧都が導師を務める。出棺には 柩を輿の上に安置し葬列を組んで、通常の出入り口とは異なる 築垣を崩して 道に出 御竈所(火葬場)へ向かい、僧侶立会いの下に荼毘に付されました。7月9日 早朝 荼毘が終了し 会葬者により お骨が拾われ 白壺に納められました。骨壺は円成寺に移され仮安置され、その後 建てられた三昧堂に 7月20日 奉納されました。8月2日と11日に七七の法事を執り行い、翌年の6月22日に一周忌の法事を行い 葬送の行事が終了しました。

 以上の中で 危篤状態での念仏による臨終作法、納棺に先立つ沐浴、僧侶も奉仕した納棺作業、近親者による形代の奉納、輿を使用した葬列、荼毘への立会い、収骨、帰宅前の浄め、七七の法事、一周忌の法事等、日本の葬送習俗の原型がこの頃に出来あがったと考えられて居ります。

  今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀

 今回は前回に続けて鎌倉時代の葬儀に付いてもう少し書かせて頂きました。

 鎌倉、室町時代に葬儀は 山頭念誦と呼ばれる 火葬場に於ける仏事が中心となって居りました。その点 出棺前に儀礼を執り行う 現代の葬儀とは大きく異なって居ります。

 葬送当日は まず 素服という粗い布で作る 喪服を裁縫します。夜になると この素服を着て御仏供養を行い、出棺となります。柩は御車(牛車)に安置し、葬列を組んで火葬場へ運びます、出棺後の寝所は 竹の箒で掃き清め、使用した竹の箒や 集めた塵はまとめて 川や山野に捨て、枕火を消して終了します。

 火葬場には 火葬の為の小屋を建て その周りを荒垣で囲い、鳥居を建てます。火葬場に 御車が到着すると 御車の前で 導師、呪願の僧侶による儀礼が執り行われ、柩を小屋の中に運んで 火葬が行われます。ご火葬の間は 僧侶と近親者により 真言が誦されます。ご火葬が終ると 火は湯で消し、灰は水で流します。そして 収骨となりますが、火葬場から骨壺となるカメまでの間 焼骨を箸で挟んで次の人へ渡し、カメに納めました。

 収骨された骨壺は 白の革袋に包まれ 召使の首に掛けて運び 三昧堂に納められました。そして 帰宅する前に わらで作った人形で 手祓いをします。

 又 室町時代の文献によれば 武士の間では すでに 金銭による香奠のやり取りの記録も有ります。又 火葬場の荒垣に白絹の布を張ったともあり、位牌を持つ者は家督であるとも書かれて居ります。

 火葬場では 奠湯・奠茶が行われ、読経がされ、精進落とし等も行われていた様です。

   今回は以上です。

檀家制度

今回は仏教に於ける檀家制度について書かせて頂きました。

 檀家制度とは 仏教に於ける寺院と門徒の関係を指して居り、檀家とは 壇越(だんおつ)の家と言う意味であります。壇越とは梵語のダーナバティの音写で、寺や僧侶を援助する庇護者を指します。

 飛鳥時代の仏教伝来以来 仏教の壇越は皇室や有力氏族でした。この有力氏族が その宗派を信仰し、寺院を建立し、庇護者になると共に 僧侶は 有力氏族の為に葬祭供養を行いました。これが檀家制度の源流となります。その後 時代を経るとともに 寺院は寺領を持つ様になり 荘園領主と同様の 権力と権威を持つ様になり 寺院の収入原は 壇越のお布施から 荘園経営の収入へと変化し、壇越のお布施に依存しない寺院経営が行われます。しかし これも 応仁の乱頃までで 荘園制度の崩壊と共に失われます。

 これ等の旧仏教勢力に対して 新興仏教勢力は 一般民衆を対象として布教を行い 惣村の発達と結びついて 勢力を拡大して行きます。この間 仏教は 惣村の家々と結び付いて 民衆を壇越とし 檀家と壇那寺の関係が作られ始め その中身も 座禅中心から 葬祭中心へと 比重が逆転して行きます。これが 応仁の乱以降から江戸時代に施行された寺請制度までの200年間の推移です。

 江戸時代には キリスト教弾圧を目的とした 寺請制度に端を発する 檀家制度により 寺院の権限は強力となり 寺院は 檀家に対して 常時の参拝、年忌・命日の法要施行、寺院の改築費、本山上納金などの経済的負担を強要するようになります。今日に於ける 彼岸の墓参りや 盆の法事は この時代の檀家制度により確立しました。この時代 寺院は 社会に於ける基盤を強力なものとしましたが、一方で世俗化 形骸化も進み 各種の批判も起きて 明治の廃仏棄却へと繋がって行きました。

   今回は以上です。

一家一寺

今回は一家一寺に付いて書かせて頂きました。

 一家一寺制とは 家の家族全員が 同じ壇那寺に属する形を言います、丸檀家とも呼ばれます。江戸幕府による宗教政策 寺請制度により確立されました。これに対し 家族の中で異なる壇那寺を持つ場合は 一家寺違制と言います、半檀家、複檀家とも呼ばれます。

 江戸時代になると 惣村制がより確立され、大百姓が没落し、平均的な本百姓の集まりにより惣村が運営される様になります。その為 大百姓の菩提寺であった 寺院や道場は 地域共同体の母体となる 惣村の村惣堂や惣道場へと変化して行きます。

 江戸時代初期には 一家の構成員全てが家を単位として 一つの寺院の檀家となる 一家一寺制にはなって居りませんでした。家の中で 夫と妻が夫々 異なる寺院の檀家となる事もまま有る、半檀家状態でした。これが 17世紀後半 幕府による寺請制度の推進と、自立した農家の広がりにより 一家一寺制が確立しました。これに伴い 庶民の間でも 家という概念が成立し 祖先崇拝という考えが出来て行きます。一家は菩提寺としての寺院の経済基盤を支え、葬祭、仏事を寺院へ委託していく事に成ります。

 それまで 庶民の間では 自前のお墓を持つ習慣は有りませんでしたが、寺院と檀家という関係が出来上がると、次第に自前の墓を建てるようになって行きます。これまでは 庶民の間では ご遺体は共同の葬地に置いたり、埋めたりして居りましたが、家と言う考えが確立して行くと共に 自家の墓を所有する様に成ります。これらの事から 近世の庶民の墓は 家の確立と深く関係し 家の象徴、根拠として建てられたもので有る事が解ります。祖先崇拝が象徴的なものではなく、家の先祖という具体的な対象を持つ事が出来る様になると言う事は それが出来るような 庶民(農民)の自立が出来たと言う事でも有ります。

   今回は以上です。

寺請制度

 今回は寺請制度について書かせて頂きました。

 寺請制度とは 西欧列強のアジア進出手段の一つであったキリスト教布教を弾圧する為に 江戸幕府より発布された 宗教統制の制度で、キリシタンではない事を寺院に証明させる制度です。必然的に民衆は 寺院の寺請証文を得る為に 何れかの寺院の檀家と成らなければ成りませんでした。この制度により整備された 宗門人別改帳は住民調査台帳とも成りました。

 室町から江戸時代の初期にかけて 民衆の間で寺壇関係の強化が進み、葬祭・仏事の主体は仏教寺院へと移り、そして 1665年の 寺請制度 発令により 寺壇制度が法令により確立します。この制度により公認された寺院は 宗門人別改帳(宗旨人別帳)を調査・整備し、家単位で 全員の名前、年齢、続柄、家畜等が記載された台帳を、村の構成員全体に対して作成しその運用も司りました。以降 人々は 出産、結婚、旅行、転居、奉公、死亡などの際には 寺院が発行する 寺請証文、送り状、請け状、手形等が必要と成りました。この制度により 仏教寺院は戸籍事務を代行する事と成り、仏教は日本に於ける国教と成ります。尚 この人口調査は 当時としては世界最大の事業であったと言えます。

 又 江戸時代には ”宗門壇那請合之掟” という書物が書き起こされ 檀家とはいかなるものかが示されて居ります。概要は以下の通りです。

 1 以下の日には 必ず寺院に出向いて お参りする事。
    2月15日の涅槃会、4月8日の釈迦の降誕会、12月8日の成道会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日。
 2 説教や仏法を説く 寺院の集会に参加する事。
 3 寺院の建物の建立や修理に協力する事。
 4 葬儀は必ず寺院にお願いする事。 


葬儀は寺院に依頼するという 現在の常識は 当時は義務として理解されていた様です。

尚 本書は 当時 徳川家康の書として もてはやされた様ですが 偽書と言われています。




   今回は以上です。

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史について書かせて頂きました。

 火葬とは 葬送の手段の一つとして ご遺体を焼却する事です。火葬の習慣は釈尊の故事にちなんで 仏教の伝来と共に日本に伝わったと言われて居り、公衆衛生の面からも 土葬と比較して 衛生的であり、又 埋葬場所も小さくて済むメリットが有ります。尚 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼びます。

 日本で最初に火葬された人は 700年の僧道昭であり、最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇であると言うのが定説でした。しかし 近年の研究によれば 九州の古墳で 590年前後の火葬の痕跡が確認され、又 今月始めには 長崎県大村市で弥生時代後期(2世紀ごろ)の竹松遺跡に於いて 火葬されたと見られる人骨だ発見されたとの発表が有りました。検証の上でこれが認められれば 日本に於ける火葬の歴史が より古くから有った事になります。  

 中世の火葬は 常設の火葬場は無く 逝去した後 火葬の為の家屋を作り そこで火葬されました。当然の事ながら費用も掛り、庶民の間に普及する事は有りませんでした。江戸時代になり 寺請制度により 仏教が国教待遇となり 仏教が推奨する火葬は 仏教寺院に火屋と呼ばれる火葬施設が作られた事などから 大きく普及するかと考えられますが 費用等の面から 大きく広がる事は有りませんでした。当時の火葬率に関するデータは有りませんが 20%程度でないかと推測されます。火葬率に関するデータとして現存する物では 明治29年のデータで 全国での火葬率26.8%とあります。もちろん 階級や地域の格差は大きかった様で 東京や京都の大都市と 火葬を推奨する浄土真宗の勢力が強い 北陸地方では火葬率が高かったようです。大正14年の統計によれば 火葬率が65%を超える都道府県は 北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の八つです。そして 明治時代初期に 市街地での土葬を禁止した 京都市では 明治39年時点で 火葬率 80%の高率を示していました。何れにしろ明治以降 火葬率は高まり続け、現在では 火葬率 99%以上となって居ります。

   今回は以上です。

近世 庶民の葬儀

今回は庶民の葬儀、特に明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 葬儀の簡素化については 古くより 時の権力者により度々布告されて居ります。これは 葬儀の奢侈化が常に起こっていた事示して居ります。江戸時代には 士農工商の身分制度が確立され、夫々の身分ごとに 葬儀の基準が示されて居りました。明治に入り 身分制度が解放されると 力を持った商人を中心に 葬儀事情は大きく変化して行きます。 大きな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、粗供養の増大などです。

 まずその第一は 以前は 夜間にひっそりと 限られた人数で葬列が組まれて居りましたが、日中に葬儀が行はれる様に成り 商人たちは その財力を誇示して 大掛りな葬列を組む様に成ります。又 役目を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。

 第二には 寝棺と それを運ぶ輿の登場です。江戸時代には座棺が普通でしたが、富裕層では 葬列の肥大化と共に 寝棺が使われ始め、それを運ぶ為に 飾り付けられた白木の輿が作られました。現在も使われている白木の宮型霊柩車は この輿を原型として居ります。但し 一般庶民の間では 第二次世界大戦終戦まで 座棺が使われて居りました。

 第三は 色々な葬具の出現です。葬列を飾る為に 野道具と言われた葬具が見栄えの良いものに変わって行きます。金蓮、銀蓮、生花や造花を押した花車、鳩を放鳥する為に作られた放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿など 多彩な葬具が開発されて行きました。現代 葬具の始まりとも言えます。これ等の葬具を製作する為、専業化が進み葬具屋が出来てゆきます。

 第四としては 粗供養の大型化です。葬儀の際に地域の人々へ食事を振舞ったり、葬列 出発の際に 花籠に 菓子や小銭を入れ、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言った 供養は江戸時代でも行われて居りましたが、明治に入り 葬儀の大型化と共に 会葬者全てに対して 菓子包み、饅頭、弁当を配るという 今日の会葬返礼品の原型が出来てきます。そして 喪家側も不足しては恥と考え 大量に用意する様になり、費用の面でもかなりの比重を占めるように成りました。

   今回は以上です。

告別式

 今回は告別式に付いて書かせて頂きました。

 告別式とは 宗教的儀式を伴わない 故人様とのお別れの儀式が 本来の目的です。現在では仏式の葬儀に於いて、家族・親族によるお見送りを葬儀、知人・友人によるお見送りを告別式と定義して、葬儀・告別式は何時よりと 表現する事が一般的と成りました。日本で最初の告別式は 明治34年の中江兆民の葬儀と言われて居ります。

 明治時代に於ける葬儀は 葬列を中心とする儀式が主流でしたが、都市部においては 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げて良いのか” との批判や 明治17年に制定された ”墓地及び埋葬取扱い規則” により 火葬場や墓地の所在地が限定され 葬列を組む事が 徐々に難しくなって行きます。又 明治後半に導入された路面電車の発達が葬列廃止を加速させます。大正時代に入ると 葬儀の中心は告別式へと 変化して行きます、又 ご遺体の移送は 葬列から霊柩車の使用へと変わって行きました。

 中江兆民の葬儀は 明治34年12月17日に 青山墓地式場で執り行われました。中江は無宗教であった為、無宗教式の告別式により見送られました。柩が式場正面に安置された後、葬儀係による挨拶が行われ、板垣退助による弔辞拝読、大石正巳の演説、門下生総代 永訣弔詞、弔歌・弔詞の拝読と続いた後、嗣子・親族 及び会葬者が柩前で告別をなしました。最後に 嗣子(十三才)と親戚代表が会葬者に挨拶をして終了しました。

仏式の葬儀と比較すると 僧侶の読経に代えて 弔辞・演説・弔歌・弔詞などの献読が行われ、焼香の代りに 棺前告別が行われた考えられます。この告別式以降 かなりの数の告別式が行われる様に成りましたが 主として大学関係者や法曹関係者が中心で 一般大衆に広まるのは昭和に入ってからとなります。

   今回は以上です。 

霊柩車

 今回は霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは ご遺体をお納めした柩を移送する目的で作られた自動車です。ご遺体のみを移送する目的では寝台車が使用されます。霊柩車には 宮型霊柩車、洋型霊柩車、バス型霊柩車等が有ります。

 明治時代 葬儀の中心は葬列でしたが、葬列の拡大化に比例して批判の声も大きく成り、モータリゼーションの発達を基に霊柩車が開発されました。日本最初の霊柩車には諸説ありますが、確認出来るものでは 大阪の有力な葬列提供業者であった 籠友の鈴木勇太郎氏が米国の葬儀事情を視察し、大正6年に米国よりパッカードの霊柩車を輸入して日本風に改造しサービス提供を始めました。又 大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より 導入しました。

 宮型霊柩車は キャデラックブレアム、リンカーンタウンカー、トヨタクラウン等の高級乗用車を改造して 宗教的装飾を加えた棺室を設置して居ります。棺室は白木造りのものと 漆塗りのものがあり、壁面や天井部分に極楽浄土や蓮の花等が描かれたり、彫られて居ります。

 洋型霊柩車は 高級ワゴン車をリムジン化して使用されています。宮型の様な装飾はせずに シンプルな黒塗りの車体となります。最近は パールホワイトやシルバーに塗られたものも出て来ました。宮型霊柩車は余りにも目立ち過ぎる事から 乗り入れを拒否する施設も出始め、洋型霊柩車に変わりつつあります。

 バス型霊柩車は 大型バスやマイクロバスを改造して作られおり、柩と共に ご遺族・僧侶・会葬者が同乗出来る様になって居ります。冬季の気候が厳しい北海道などで多く利用されて居ります。

 霊柩車にまつわる迷信として ”霊柩車が走っているのを見たら 親指を隠さないと 親の死に目に会えない” というものが有ります。

   今回は以上です。   

近世の火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬に付す為の施設を言います。最近では 近代的施設として 無煙化、無臭化、緑地化を進め 近隣住民からの嫌悪感を無くす為 斎場や斎苑と呼ぶ様に成りました。現在の横浜では 横浜市営として葬儀式場を併設した斎場は3ヶ所(横浜市北部斎場、横浜市戸塚斎場、横浜市南部斎場)、火葬設備のみの斎場は1ヶ所(横浜市久保山斎場)の計4斎場が有ります。この他に私営の斎場として葬儀式場を併設した西寺尾会館が有り、合計5ヶ所の火葬場が運営されて居ります。

 日本に於ける火葬は 仏教による宗教的要請から発生しました。古くは常設の火葬場は無く、野焼きと呼ばれ 人里離れた場所に仮設の火床を設けて火葬が行われました。その後 墓地の傍らや、寺院の敷地内に常設の火床が設けられる様に成ります。とは言えまだ設備と呼べる様な状態では無く 火屋 とか 焼屍爐 などと呼ばれて居りました。本格的な火葬施設が出来たのは明治時代に入ってからです。欧米から輸入された 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した 大規模火葬場が作られました。又 この頃より ご遺体の火葬を行う施設を火葬場と呼ぶ様になって居ります。

ご火葬の使われた燃料は 野焼きの頃は もちろん 藁、木薪、木炭が使用されました。明治時代の作られた火葬炉でも 当初は 木薪や木炭が使われ、その後 大正に入り 石炭、コークス等が使われ始め、更に 重油が使われる様に成りますと 燃焼時間は飛躍的に短縮され 即日の収骨が可能となりました。その為 火葬場内に控室等も設備される様になります。現在では 高度に機械化されたコンピュウター制御による電気式火葬炉が一般的となって居ります。

 現在の日本に於ける 火葬率は99%を超え世界一の高水準となって居りますが、明治初期には必ずしも高くは無く、昭和15年に初めて過半数(55%)を超えるという状態でした。しかし 戦後 人口の都市集中、市街地での土葬禁止、土葬可能な広さの墓地は入手困難、地方自治体による火葬場の整備などが合いまって この高火葬率と成りました。

   今回は以上です。

ご遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 人が生命活動を停止すると その身体は徐々に腐敗して行きます。この腐敗が ご遺体への恐怖であったり、穢れの考えを生み出す事に成ります。腐敗が どの様に進むのか、どの様にしてそれを止める事が出来るのかは以下の通りです。

 生命活動を止めた身体には 個人差や身体が置かれていた場所の環境により違いは有りますが 次の様な変化が起きます。

 1 身体の腐敗

   死後1時間ぐらいから腸内細菌が増殖を始め、腸内細菌の増殖と胃腸の融解により腐敗が進行し、腐敗ガスが発生します。

 2 死後硬直

   身体の筋肉が硬直し関節が動かなくなる現象です。死後2時間ぐらいから出始め、20時間後くらいに硬直は 最も強くなり、その後 腐敗の進行と共に硬直は解けて行きます。最初は顎関節に現れ、順次 全身に広がります。手足の硬直は6、7時間前後から始まります。

 3 死斑

   心臓が停止すると 体内の血液は循環を止めて 身体の下部の静脈に留まります。この血液の色が皮膚を通して見えるのが死斑です。死斑は 死後30分程度でご遺体下部に斑点が出始め、2-3時間で融合し、20時間で固定します。

 ご遺体とは ”霊魂が遊離し遺された体” という意味ですが、ご遺族にとりましては 恐れでも、穢れでもなく 大切にお見送りするお体です。このお体を腐敗させない方法は幾つか御座います。

 1 ドライアイスによる冷却

    1週間から10日間の間に有効です。腐敗は内臓より始まりますので、お腹、胸、両脇などのドライアイスを当てて腐敗を遅らせます。季節にもよりますが 10Kgのドライアイスで24時間程 有効です。

 2 冷蔵保存

    1ヶ月位 有効です。専用の保管庫を摂氏2度に保って腐敗を遅らせます。

 3 冷凍保存

    非常に長期間の保存が可能です。専用の冷凍庫でご遺体を凍らせます。米国では一般的ですが、日本では特別な場合を除いて行われて居りません。

 4 エンバ-ミング

    半永久的に保存が可能です。血液を薬品と置き換えて腐敗を防止します。日本国内では業界自主規制により 50日以上の保管目的でのエンバーミングは行わない事にして居ります。費用は10万円+α。

 以上の他に 過去には ミイラ、即身仏、アイスマン、桜蘭の美女、ロザリア・ロンバルド 等が有りました。

    今回は以上です。

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 臨終とは 人が生命活動をを終える間際の時期を言い、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語です。古くから 人が必ず迎えなければならない 臨終という 危機的な時期を巡って 人は死をどう受入れるべきか、人の死をどう看取るべきか 様々な習慣と文化が生み出されて来ました。

 死を迎える事の意味を説いた古い文献としては エジプトやチベットで作られた ”死者の書”が有名です。又 西ヨーロッパに於いては 中世末期に ”往生術”として 臨終を迎える人の為の心得を書いた文献が出され、その手引書では 死の身取り手は臨終者に対して 回復するかも知れないと言う幻想を与えてはならず、臨終者が死を自然に受け入れられる様 出来るだけの手助けをすべきであると解説しています。

 インドの仏教に於いては 祇園精舎の北西の一部に無常院を作り 病人や死を迎える人々を受入れたとあります。その後 中国 唐代の僧侶 道宣は 無常院の堂内では 仏の立像が西方に向いて安置され その像手に五色の布をかけ その布を後ろに垂らし 背後に横臥した死を迎える人々はこの布を持って往生を祈願した と説いています。又 看病人は ともに念仏を唱えて 往生を助けなければ成らないとも説いています。日本の仏教に於ける 臨終の作法、習慣は これらを基にして作り上げられました。

 ご臨終は ご本人にとっては勿論、近親者にとっても大切な時です、最後の看取りがきちんと行えるかは 近親者の後のお心にも影響を与えるからです。ご本人が安らかに最後の時がお迎え出来る様、ご家族の方は 医師とも十分なコミュニケーションを図り、ご本人が会って於きたい方々を手配して 安らかなご臨終をお看取りしたいものです。

   今回は以上です。

枕経

 今回は枕経に付いて書かせて頂きました。

 枕経(まくらきょう)とは 仏教の行儀で 本来は 死に際にある方が不安にならぬ様 本人の枕元で 死を看取りながらお経をあげる事です。現在では 病院で亡くなる事が多く ご逝去の後 ご遺体を自宅に安置した上で行う 死後の儀式と成りました。ご宗派により 枕経を行わない場合もあります。

 ご葬家が仏式の場合 ご遺体を自宅の仏間、あるいは座敷に敷いたお布団の上に安置し、ご遺体の枕元に枕飾りを設営します。その上で壇那寺に故人様のご逝去をお伝えし 僧侶に来て頂いて 読経をして頂きます。壇那寺が遠方の場合は 壇那寺より紹介を受けて 近隣の僧侶にお願いをする場合もあります。

 枕経は 故人様に対して読経を聞かせると言う考え方や ご仏壇の内仏やご本尊に向かって読経すると言う考え方など ご宗派により考え方が異なります。真言宗では ご遺体の前に枕飾りを設け、僧侶が故人様へ末期の水を行い、印を結び、読経します。その際 枕元には不動明王の掛け軸を掛ける慣わしとなって居ります。曹洞宗の場合は 枕元に置いた机の上に ロウソク、線香、四華花を お供えして読経します。浄土宗では枕経の間に剃髪、授戒を行います。浄土真宗では亡くなった方を御縁として御本尊に向けて読経されます。

 枕経を上げて頂くときの 衣裳は喪服である必要なく、通常の衣服を整えて出れば良いとされて居ります。枕経の後に 葬儀の次第、その他を僧侶とご相談されるのが良いでしょう。又 戒名をいただく為に 故人様の人柄やご希望も この機会にお話されるのが一般的です。

   今回は以上です。  

火葬の流れ

 ご火葬に付きましては以前 何度か書かせて頂きましたが 今回は別の観点で書かせて頂きました。

 ご火葬の流れは 火葬場到着-火葬炉前での読経・ご焼香-ご火葬中の待機-ご拾骨-ご自宅へのお帰りと成ります。

 霊柩車が火葬場に到着致しますと 火葬場担当者が操作する お柩台車が用意され お柩を台車にお乗せし、炉前へと運ばれます。横浜市営の斎場をご利用頂く場合は 式場と火葬炉は隣接して居り 霊柩車は必要有りません、式場入口より お柩台車で火葬炉前までお運びする事となります。

 火葬炉前では ご遺族による最後のお別れの後に お柩は火葬炉内に移され ご火葬が始まります。そして 炉前で 僧侶による読経、ご焼香と続きます。ご火葬は一時間前後の時間を必要と致しますので ご遺族は控室にお移り頂いて お待ち頂く事と成ります。ここでお帰りになる方と 拾骨を待つ方とに分かれる事も御座います。

 このご待機の時間では 茶菓でお持て成しするのが一般的です。尚 横浜市営斎場の場合はご火葬後の式場利用が許されていない為、ご葬儀・告別式の後に初七日法要も合わせて執り行い、このご待機の時間を利用して 初七日法要後のお斎の席を設ける事として居ります。

 荼毘が終了致しますとご拾骨となります。火葬場からの連絡に従い ご遺族は控室から拾骨室へ移動します。その後は火葬炉担当者の指示に従い 二人一組でご遺骨の一つを拾い お骨壺に納めます。ご遺族間で一通り 周りました後は 残ったご遺骨は担当者が全てお骨壺に納めてくれます。お骨壺は桐の箱に納められ、埋葬許可証と共にご遺族に戻されます。

 ご火葬場からの帰路は 往路と同じ道を通ってはいけないと言う習俗が御座います。これは 昔 ご遺体を墓地に埋葬した後 死霊が追いかけて来ても 迷って道がわからない様にする為 道を変えた名残と言われて居ります。

   今回は以上です。

法要とは

今回は法要に付いて書かせて頂きました。

 法要とは 仏教に於いて 釈迦の教えを 仏法と言いますが、その仏法の要点・肝要を知る事を指します。それが 時代の流れと共に変化し 仏教行事の中の 儀式祭礼(法事・仏事・法会など)全般を指すようになりました。更に 日本に於いては 追善供養 即ち 死者を弔う儀式を指す様に成りました。法事、仏事とも言います。尚 供養以外に、寺の創立記念、堂宇の完成記念、仏像の開眼などの慶事も含みます。

 日本民族は 法要(死者供養)を大切にして来た民族であると言えます。供養には まず 中陰の間に行う 七仏事(初七日、ふた七日、み七日、よつ七日、いつ七日、むつ七日、ひちひち日)が有り、これはインドを起源として居ります。七仏事が中国に伝わり 百ヶ日、一周忌、三回忌が加わり 十仏事と成りました。更に 日本に於いて 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり 近世に十七回忌、二十五回忌が加わって 十五仏事と成り 現在に至ります。そして 地域によりましては 二十三回忌や二十七回忌を営む場合も御座います。又 五十回忌、そして五十年毎に営まれる遠忌が有りますが これは 宗派の祖師等に限り営まれます。

 以上の他に 祥月命日(故人様の命日、年一回)、月忌(月命日、年十一回)が有り、その他 春・秋のお彼岸と お盆が御座います。この様に日本に於きましては 遺された方は 生ある限り 故人様との関係を維持して行こうと言う 文化が長い時間をかけて作られて参りました。

 日本では古くから 三十三年、あるいは五十年をもって 死者は個性を失い 祖霊(先祖)に成ると考えられて来ました。故人様の法要も三十三回忌をもって ”弔い上げ” となります。ご仏壇から 戒名を書いたご位牌を下げ、”〇〇家先祖の霊”のご位牌に霊をお移しします。

   今回は以上です。

十王信仰

今回は十王信仰に付いて書かせて頂きました。

 十王信仰とは 中国の道教や仏教の教えで、十仏事を何故 営むのかの 前提となる信仰です。人間を始めとする衆生は 没後には中陰と言われる存在となり 節毎に十回 異なる王の審判を受けて六道の何れかに置かれ、最終的には 供養と徳を積んだ者は 極楽浄土へ、供養と徳の至らぬ者は地獄へ 行かねばならないと言う 冥界思想(他界思想)です。

 初七日には 秦広王(本地 不動明王)の審判を受け、行方の定まらない者は三途の川を渡ります。ふた七日には 初江王(本地 釈迦如来)の審判を受け ここでも定まらなければ、み七日には 宋帝王(本地 文殊菩薩)、よ七日には 五官王(本地 普賢菩薩)、いつ七日には 閻魔王(本地 地蔵菩薩)、む七日には 変成王(本地 弥勒菩薩)、なな七日(四十九日)には 泰山王(本地 薬師如来)の審判を受け この王の下で 六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何れかが決まるので 四十九日の追善供養は 特別懇ろに営まなければならないと説かれて居ります。これでも定まらない場合は 百ヶ日に 平等王(本地 観音菩薩)、ここでも定まらなければ 一周忌に 都市王(本地 勢至菩薩)、そして最後の審判は 三回忌の 五道輪転王(本地 阿弥陀如来)が行い 十分な供養がされて居れば 成仏出来るとされて居ります。

 以上の審判は 故人様の修功徳と、ご遺族様が執り行う 回向の功徳を判断して行うとされて居り、その比率は全体を七等分して 亡者に一分、生者に六分が割り振られると説かれて居ります。始めの七回で審理は決まりますが、その七回で決まらない場合は 追加の三回で決める事となります。俗には 閻魔王に対する信仰と 考えられる方が多く御座いますが、これは 閻魔王以外の各王の知名度が低かったせいでしょうか。

 この十王信仰は 中国より渡来し 平安末期に 仏教本来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透しました。又 日本に於いて 三途の川、賽の河原、奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)等が付け加えられ、江戸時代には 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加えられ 十三王と成りました。

   今回は以上です。

中陰とは

今回は中陰に付いて書かせて頂きました。

 中陰(中有とも言います)とは 仏教におきまして 人が亡くなられてからの四十九日間を指し 死者があの世へ旅立つ期間であり、生から死 陽と陰の狭間に置かれているとの考えから 中陰と言います。但し 浄土真宗では 故人様はご逝去と共に成仏されるとの考えから 中陰期間は 故人様を追悼し、生と死を考え、謹慎して仏法を考える期間とされて居ります。

 仏教発祥の地である古代インドでは 人は輪廻転生すると考えられており、誕生の瞬間が生有、生きている間が本有、死の瞬間が死有、死んだ後 次の生を得る間の期間を中有 あるいは中陰と呼び、その期間は四十九日間であるとされました。ご臨終の日(命日)を含めて七日毎に法要を執り行い それを七週続けた四十九日目に 次の六道中の何れかの世界へ生まれ変わるかが決まると考えられて居りました。それが日本に伝わり、宗派により考え方が異なりますが 魂を清めて成仏する期間へと変化しました。尚 なぜ七日毎、七週なのかは 古代インドでは七進法が使われていたからです。

 この四十九日間は 死の穢れの最っとも強い期間であると考えられ、死の穢れを他に移さぬ様 ご遺族は謹慎して家に籠るものとされました。この期間を忌中と言い、四十九日の法要を終えると 忌明けとなり 日常生活に復帰します。又 その一方では 精神的な打撃を受けたご遺族が 日常の生活から離れて 心の痛みを癒す期間であり、七日毎の法要は 故人様を弔うと共に 周囲の人々がご遺族を思いやる時でも御座います。

 忌明け法要をもって精進落としとなり、中陰壇(後飾り)を片ずけ、白木の仮位牌を壇那寺へ返し、本位牌を仏壇にお納めします。

   今回は以上です。  

法事とは

 今回は前回とは異なる観点で法事(法要)に付いて書かせて頂きました。

 法事(法要)とは 十王信仰や十五王信仰を元にして営む 追善供養を指しており、その他に月命日、お彼岸、お盆の法要などが含まれます。

 まずは 中陰の間に営む 初七日から七七日まで の七回の法要が御座います。故人様がご逝去された日を一日目として 七日毎に営む法要ですが、現在では 初七日はご葬儀・ご火葬の後 同日に営むのが一般的と成りました。特に横浜市営の斎場をご利用頂く際は ご葬儀・告別式と合わせて ご火葬の前に初七日法要を営ませて頂いて居ります。これは ご参加頂く方が何度も足を運んで頂かなくとも良い様、又 斎場をより多くの方にご利用して頂く為で御座います。更に ふた七日から む七日までの 5回の法要はご家族だけで営み、僧侶 関係者をお呼びして営む事も少なく成りました。七七日(四十九日)は忌明けの法要と共に納骨 そして精進落とし を営まれるのが一般的です。法要の日取りは早めに 僧侶とご相談され ご出席頂く方々に ご案内状を出状して ご連絡されるのが良いでしょう。法要の日取りは ないがしろにしない と言う事で 正しい日取りより早い日に営む事が許されます。ご出席の方々のご都合を考え、早い日の日曜・祭日を選ぶのが良いでしょう。

 以降 百ヶ日、一周忌、三回忌と続きますが 日取りは七七日法要と同様に選び 営みます。尚 現在では 百ヶ日法要を営む事は無くなりました。

 ご法要に招待する方々の範囲に決まりは有りませんが 故人様との関係、ご家庭の事情を慎重に検討してお決め頂く事が良いでしょう。法要の会場は ご自宅、寺院、墓地霊苑の会場、料理屋、ホテル等 ご都合の良い会場をお選び頂けます。

   今回は以上です。

死亡広告

今回は死亡広告に付いて書かせて頂きました。

 死亡広告とは 故人様のご逝去を広く社会に伝える為の広告で 主として日刊新聞を利用します。その費用は 依頼する大きさ(スペース)と 依頼先の新聞社により異なります。又 死亡記事が御座いますが これは 新聞社が独自の判断で 著名人の物故を記事として掲載するもので 費用は発生致しません。

 死亡広告は ご遺族、或いは施主様のご希望により ご逝去の事実と 葬儀・告別式の 日時・場所を広く告知する事が目的です。通常は新聞の紙面にて 黒枠で囲まれますので 黒枠広告 とも言われます。広告内容に於ける 決まりは特に有りませんが 物故者の肩書、氏名、享年、葬儀・告別式の日程、場所、喪主、葬儀委員長(施主)などを記載します。供物・献花・香典を辞退する場合は それを明記します、何も書かない場合は お受けする前提となります。又 葬儀と告別式を別に行う場合は それも明記する方が良いでしょう。

 死亡広告は 各新聞社ともに 特別扱いとしており 希望掲載日の間際の申込みでも 極力 調整して掲載の努力をしてくれますが、あまりに急な場合は 紙面の確保が出来ない場合も御座いますので、なるべく早めの手配が必要です。

 死亡記事に付きましては 各新聞社とも 特定の 死亡記事書式を用意しており どなたでも新聞社に送る事が出来ます。記載するかどうかは新聞社の判断となります。掲載が決定すると 新聞社より内容確認の電話が入ります。

 尚 日本に於ける 最初の死亡広告は 1873年1月14日の 日新真事誌に掲載された 明治政府 外務少輔 上野景範氏 ご尊父の死亡広告とされて居ります。

   今回は以上です。

焼香の作法

今回は焼香の作法に付いて書かせて頂きました。

 焼香とは 仏教に於いて 仏や故人様に対して 香を焚いて拝む事を言います。焼香には 線香焼香と抹香焼香が有りますが、一般的には 抹香焼香をさし 通夜・葬儀・法要などでの 故人様との告別に使用されます。心身の穢れを取り除き、清浄な心でお参りする際の作法とされます。左手に数珠をかけ、右手の 親指、人指し指、中指の三本で 香をつまみ 香炉にくべます。

 焼香の作法は ご宗派により異なりますが 主としては以下の通りです。

天台宗; 焼香回数に付いて特に定めは有りません。

真言宗; 焼香三回、線香も三本立てます。身、口、意の三業を清めるとされます。

臨済宗; 回数に拘りません。

曹洞宗; 焼香二回、線香は一本。初回は香をつまみ額に押し戴いてから焚きます。二回目は押し戴かずに炊きます。初回を主香、二回目を従香と言います。

浄土宗; 特に定めは有りませんが一回から三回までの間で焼香します。線香も一から三本立てます。

日蓮宗; 焼香は三回、線香は一本立てます。

    以上の宗派では焼香の前に 香を額に押し戴きます。

真宗大谷派; 焼香は二回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

浄土真宗本願寺派; 焼香は一回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

 以上の様に焼香の作法は宗派により異なります。ご葬家の宗派と ご会葬の方の宗派が異なる場合 以前はご葬家に合わせると言う考え方が有りましたが、信教の自由の観点から 会葬者の方のお気持ちを尊重するのが良いのではないでしょうか。特に 他の宗教の場合は 焼香を禁じている場合も御座います。又 会葬の方々が多数の場合は宗派に係わらず、焼香を一回に制限させて頂く場合も御座います。

   今回は以上です。

玉串奉奠の作法

 今回は神葬祭に於ける玉串奉奠(たまぐしほうてん)に付いて書かせて頂きました。

 玉串奉奠とは 神式のご葬儀に於いて 故人様を告別する為の玉串拝礼を指し、仏教の葬儀に於ける ご焼香に該当します。真榊の小枝に紙垂(しで)をつけたもの(玉串)を神前に捧げ 故人様が神の下に戻り 無事にご葬家の守護神になられる事を祈念致します。

 神社本庁編の ”神社祭式同行事作法解説” によれば 玉串を捧げる事(玉串拝礼)を 玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受ける為に祈念をこめて捧げるものである と説明されて居ります。

 玉串の由来は 天照大御神の天の岩戸隠れの際に 神々が行った祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだ との古事記の神話によります。その語源には 幾つかの説が有り、神前に手向ける為の手向串であるという本居宣長説、本来は木や竹の串に玉を着けたものであったので 玉串と称したと言う 平田篤胤説、真榊は神霊の宿る料であり 本来は 霊串(たまぐし)であると言う 六人部是香(むとべよしか)説等です。玉串は神霊を迎える依代であり 祀られる神と祀る人の霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であると言われます。

 玉串奉奠の作法は以下の通りです。

1 神職より玉串を受取ります。

   右手のひらを下に向けて玉串の下部を持ち、左手のひらを上に向けて上部を支えます。玉串は胸の高さに持ちます。神職は玉串を渡した後 小損(軽いお辞儀)をしますが、答礼の必要は有りません。

2 神前に立つ前に作法を行います。

   玉串を時計回りに回して 玉串を立てます。左手を右手と同じ位置まで下げ、玉串を手前に引いて 祈念を込めます。そして玉串を体から離して 右手を玉串に中ほどまで上げ 右手を手前に、左手を向こう側に動かして時計回りに回します。玉串の根元を神前に向け 左右の両手で持ちます。左足から一歩進み 玉串を玉串案(机)の上にお供えします。右足から一歩退き 神前で二拝、二拍手、一拝します。尚 二拍手は 両手を打つ寸前で止める しのび手により行います。

以上ですが 要点は 玉串は時計回りに回す事、玉串は一旦 立てて祈念を込める事の二点です。

   今回は以上です。

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