死装束

 今回は死装束(しにしょうぞく)に付いて書かせて頂きました。

 

 死に装束とは 古来 死を覚悟した者が着用する白を基調とした衣服を指しますが、現代の日本では 故人さまに対し施される衣裳を指します。仏式のお見送りに際し 故人様が仏の世界、浄土へ旅する為の装いとなります。但し 死出の旅を説かない 浄土真宗では死に装束を施しません。神道でも白い死に装束を纏う場合が有りますが、キリスト教では死に装束に相当する衣裳は有りません。

 

 現代の死に装束は 仏式の巡礼者や修行僧の衣裳を基本として居り、故人さまのご遺体を棺にお納めする際に装います。その内訳は 経帷子(きょうかたびら)・帯、三角頭巾、手甲、脚絆(きゃはん)、白足袋、草鞋(わらじ)、編笠(あみがさ)、木製の杖、頭陀袋(ずだぶくろ)・六文銭、数珠から成ります。

経帷子・帯は 白無地 木綿の帷子に真言や経文を記したもので、古くは 親族の女性の手により 引っぱり合いながら縫い 糸尻を止めてはいけないとされました。現代では 真言・経文などが記されていない 白無地の帷子を装うことが一般的です。帷子は左前でお着せします。

三角頭巾は 額に付ける三角形の布で、閻魔大王に拝喝する際の正装である烏帽子とする説など、幾つかの説が有ります。

手甲、脚絆、白足袋は左右逆、あるいは裏返しで装い 草鞋、編笠、杖、数珠を施して 死出の旅路への装いとします。

そして 三途の川の渡し賃である六文践を入れた頭陀袋を首に掛けて 装いを終えます。尚 頭陀袋は修行僧が托鉢の際に使用するものです。

 

 以上をご遺体にお着せするのが本来の姿ですが、死後硬直が進んでいたり、ドライアイスにより関節が硬直しいる場合には ご遺体を傷めぬ様 上から覆うことで済ませる事も少なく有りません。

 

   今回は以上です。 

喪中

 今回は喪中に付いて書かせて頂きました。

 

 喪中とは 喪の期間の中に身を置いている事を示します。古来の日本では 死は穢れの一種であるとして、死に関与した者は 一定の期間 穢れを他の者え移さぬ様 他者との接触を避け、慶事の外に身を置くこととしました。喪の期間内には 忌の期間(最長50日)と 服の期間(最長13ヶ月)がありますが、死者との縁故関係、宗派、地域により大きく異なります。喪の状態に身を置く事を 喪の服する、服喪などとも言い、喪中を 服喪期間、忌服期間などとも言います。死の穢れは別にしても 死別は悲しい事であり、嬉しい事をしている場合ではないと言う心情的な理由も御座います。

 

 

 本来の喪とは 近親者や心を寄せる人 あるいは尊ぶべき方などが亡くなり、それを悲しむ者が一定期間 過ごす、日常生活とは異なる 禁忌状態を指します。一般的には近親者を亡くされたご遺族が身を置く場合、最高為政者や最高権力者が死去した場合の強制的な服喪、社会的に崇敬を集めた人物の死去に対する自発的な服喪、大規模な災害やテロなどにより亡くなられた多数の死者に対する服喪などが有ります。

 

 喪中の期間は 忌と服に分けられます。忌の期間は 死の穢れがご遺族の身に付いている期間で、故人様の為に祈りに専念する期間でも有ります。服の期間は 故人様への哀悼の気持ちを示す期間であり、慶事を執り行う事や、慶事への参加を控える期間です。

 

 喪中の服装は 原則として葬儀の際に用いた喪服を着用しますが、一般的には 派手な服装は避けて、黒を基調とした控え目な服装であれば良いと考えられます。

 

   今回は以上です。

 

忌中

 今回は忌中(きちゅう)に付いて書かせて頂きました。

 

 忌中とは 日本では古くから ”死は穢れたもの” と考えられ、近親者が亡くなったとき、その穢れを 祝いの場などにに持ち込まない様 外出を控え、社交的な行動を避けて身を慎む期間とされます。又 この期間には殺生をしては成りませんので、魚や肉を食する事が出来ません。その期間は亡くなられてから四十九日(神道では五十日祭)の法要を終えるまでとされます。当然 キリスト教では 死を穢れとは捉えませんので 忌の概念は有りません。又 浄土真宗でも 死を穢れとは考えませんので、忌を考慮する事は有りません。そして 忌中には四華を飾り、玄関に忌中札を掲げます。


 四華とは 法華経が説かれる時、めでたい印として天から降ると言う 四種の蓮華花を指し、曼荼羅華(まんだらげ 白花)、摩訶曼荼羅華(まかまんだらげ 大白花)、曼珠沙華(まんじゅしゃげ 赤花)、摩訶曼珠沙華(まかまんじゅしゃげ 大赤花)の四種です。釈尊の死を悼んで 沙羅双樹林が白変し その遺体を覆ったとする 故事によるとされます。その作り方は 白紙を細長く切り、横に細かい刻み目を入れて、細い棒に螺旋状に巻き付け、4本を一つの台に挿して、2台を一組として飾ります。地域により作り方が異なる場合が御座います


 忌中札とは 玄関に 忌中と書いた札を掲げるものですが、死穢を他に及ぼさぬ様 告知し、遺族は死の穢れに染まっているので 籠っている事をお知らせする お札です。様々な形式が有りますが、簾を裏に返して垂らし、そこに 忌中と書いた紙をはる事も有ります。最近は 昔の死穢観念の名残りであるとして用いない事も多く成りました。


   今回は以上です。

ご遺体の安置

 今回はご遺体の安置に付いて書かせて頂きました。

 

 御家族が亡くなられ、ご遺体をご自宅に安置される場合 まず 神棚を白紙で覆い、お布団を敷いてご遺体を北枕に安置し、ご遺体保全の為のドライアイスをお当てします。神式であれば 枕元に白木でできた八脚の台(案とも言います)をそなえ、その上に燭台と榊を生けた花瓶を置き、白木の三宝にのせた 洗米・塩・水・お神酒をお供えします。仏式であれば 同じく枕元に白木の小机を用意し、三具足を配置し枕飯・枕団子をお供えします。但し浄土真宗では枕飯・枕団子を用いません。キリスト教では特別 お飾りをする習慣は有りません。

 

 神道では 死は穢れであり、死穢(しえ)が神棚に及ばぬ様、神棚を白紙(半紙)で覆います。又 この作業は 忌みがかかっていない他人にお願いすべきとされます。この白紙は忌明け後に取り除きます。

 

 ご遺体の枕元やご遺体の上に守り刀を置く習慣がありますが、これには 魔除けや死霊の鎮魂のため、死者の魂が持ち去られる事を防ぐ為、死霊を封じ込める為、など様々な言い伝えが有ります。ご遺体の上に置く場合は 刃先を足に向けて置きます。但し地域により異なる場合が御座います。又 浄土真宗では使用しません。

 

 ご遺体を悪霊から守る為、あるいは 故人の死霊が周囲に及ばぬ為、ご遺体の周囲を屏風で囲む習慣も有ります。この屏風は 死後の世界と日常の世界は逆になっている との考えから、上下を逆にした 逆さ屏風の形で引き回します。

 

 ご遺体の枕元に置かれる白木の小机と、その上に置かれるお道具は 枕飾りと呼ばれます。小机のうえには まず三具足を備えます。香炉を中心に 右に燭台(火立て)を備え灯明を灯します、左に花瓶(花立て)を備え 樒(しきみ)を1本 又は菊を1輪 生けます。この他に 鈴(りん)、枕飯(山盛りにご飯を盛った茶碗に2本の箸を垂直に挿したもの)、枕団子(お皿に半紙を敷き その上に小さな白い御団子を6っ 盛ります)、浄水、故人様が好まれた物 などをお供えします。

枕飯や枕団子は死出の旅の食料とされます、従いまして 死出の旅を説かない浄土真宗ではお供えしません。

 

   今回は以上です。

 

逆さごと

 今回は逆さごとに付いて書かせて頂きました。

 

 逆さごととは 私どもが生活する現世(娑婆)と死後の世界はあべこべになっているという習俗を前提とした 葬儀に於けれ日本の風習で、逆さ屏風、逆さ水、逆さ足袋、逆さ着物、左前等があります。又 現世が昼の時は 来世は夜間である という習俗は世界の多くの民族で信じられて居りました。

 

 現代の日本に於いては 葬儀・ご火葬は昼間に執り行われますが、古くは夜間に行われて居りました。これは 死者が来世に到着する際は 明るいときが良いとの考えから、現世が夜の間にお見送りをすべきであると考えたことによります。

 

 逆さ屏風とは 安置したご遺体の枕元、あるいは周囲を上下を逆にした屏風で囲む風習で、屏風をめぐらす事により ご遺体を悪霊から守る、もしくは 故人さまの死霊が他の人々に及ばぬ様に などの意味があり、死後の世界は日常の世界とは逆であることから 上下を逆にします。

 

 逆さ水とは 湯灌を行う際はぬるま湯でご遺体をお清めしますが、ぬるま湯は お湯に水を注ぐのではなく、水にお湯を注いで作ります。

 

 逆さ足袋とは ご納棺の前にご遺体の服装を整えますが、足袋は左右 逆におはかせします。おはかせするのが難しい場合は ご納棺後に足元に置かれるのが良いでしょう。

 

 逆さ着物は 故人さまの衣裳を逆さまにして ご遺体にかける事で、洋服の裾を顔の方に、襟を足元のほうにして掛けるので逆さ着物と言います。但し 仏衣をお着せする場合は 逆さ着物にはせず、通常の通りお着せしますが、襟元は通常の右前では無く、左前で合わせます。

 

 そして ひもの結びは通常の横結びではなく、縦結びとします。

 

   今回は以上です。   

葬儀の打ち合わせ2

 今回は葬儀の打ち合わせ2に付いて書かせて頂きました。

 

 ご葬儀をお手伝いさせて頂くに当たりましては まず基本方針をお決め頂く必要が御座います。そして その方針は故人さまの遺志に沿うかたちでお考え頂いては如何でしょうか。喪主様、葬儀の宗旨、会葬者への対応等 故人さまの生前のお言葉をひも解いて お決め頂いては如何でしょうか。

 

 ご葬儀施行の基本方針は以下の事をお決め頂かなければ成りません;

宗教

 故人さまのご信仰が最優先となりますが、場合に因りましてはご遺族のご意向を優先させるケース、又は特定の宗教によらない方式(無宗教葬)も御座います。壇那寺、信仰神社、所属教会が遠方である際は、連絡をして近隣の宗教者を紹介して頂くか、葬儀社に紹介を依頼することも可能です。何れの形にしろご遺族にお決め頂く必要が御座います。

方式

 ご火葬のみを行う直葬、お身内だけで行う密葬(家族葬)、知人・友人をお呼びする個人葬、社葬・団体葬、密葬の後に本葬 或いは偲ぶ会などを行うか お決め頂く必要が御座います。

式場

 葬儀の方式、会葬者の予測人数などを考慮して、ご自宅・集会所・市営斎場・私営斎場・寺院のなかからお選び頂きます。

日程

 ご遺族の都合、火葬場の都合、宗教家の都合、式場の都合を考慮して日取りをお決め頂きます。そして その日取りの中で日程表(時刻表)を作成します。

告知

 町内会への連絡、会社・団体への連絡、新聞への掲載有無をお決め頂きます。

接待

 通夜振舞い、火葬場での茶菓子、精進落とし、会葬礼状、香典返しなど 会葬者、参列者への接待方法 数量をお決め頂きます。

設営

 祭壇、式場設営、故人さまの写真などをお決め頂きます。想い出写真の閲覧、ビデオ放映、BGMの選曲などのご希望も合わせてお決め頂きます。

予算

 香典をお受けするかどうかを前提に ご予算の範囲をお決め頂きます。葬儀社には何にどれだけの費用が必要か問合せて下さい。アメリカなどでは 葬儀業者は内容の説明、料金の提示ををしなければならないが、どれにするかを勧めてはならない と法律で定めて居ります。

役割

 受付、案内、接待、その他の役割をお決め頂きます。

その他

 ご遺族、ご親族の間でのご希望や心配ごとを確認します。

   今回は以上です。

 

sougi 葬儀の打ち合わせ

 今回は葬儀の打ち合わせに付いて書かせて頂きました。

 

 御家族の方が亡くなられた場合 ご悲嘆の中でも故人様のお見送りを お考え頂かなければ成りません。一般的には 葬儀社の支援を得て、お見送りの計画を立てる事になりますが、故人様の想い、ご遺族様の想いをのせた計画が大切ではないでしょうか。

 

 私共 葬儀をお手伝いさせて頂く立場の者としても、葬儀のお打合せでは まず 故人様のひととなり、故人様の御家族への想い、葬儀に対して言い残した事、そして 御家族の故人様への想い をまずは聞かせて頂く事が大切です。故人様の想い、ご遺族様の想いを よく理解させて頂く事により ご葬儀の企画から その施行に至るまで 大きく異なる事と成ります。ご遺族様は どんな事でも忌憚なくお話されて、満足の行くお見送りを執り行う事がご遺族様の悲嘆を軽減することに繋がります。

 

 ご葬儀の施行に当たりましては 喪主さま、施主さまをお決め頂く必要が御座います。喪主と施主は 一般的には 葬儀を主宰する人と言う意味で同じ様に用いられますが、厳密には異なります。

喪主とは 戦前であれば 家の祭祀を主宰する者で 戸主あるいは跡継ぎの男子でしたが、戦後の民法の改正により、家の祭祀権を承継する者と 遺産の相続とは分離され、本人が祭祀権の承継者を指名すれば 誰でも良い事となりました。もし本人が指名した者がいない場合は、ご遺族で協議しきめることとなります。一般的には 世帯主以外の方が亡くなられた場合は世帯主、世帯主が亡くなられた場合は 配偶者またはお子様が喪主となります。喪主は通常は一人ですが、場合により複数の方が共同で喪主を務めることもあります。(配偶者と長男、子供達)

施主は 布施をする者ということから転じたと言われますが、葬儀の金銭面の負担と運営の責任を負う人のことです。通常の個人葬の場合は 喪主と施主を同一の方が務めますが、社葬の場合などは ご遺族が喪主で、企業の責任者が施主となり 執り行われます。又 個人葬であっても ご長男が幼少の場合 叔父様が施主となり、ご長男を喪主として 執り行うケースも御座います。

 

   今回は以上です。

死因

 今回は死因に付いて書かせて頂きました。

 

 私共 葬祭業者がご遺体を取り扱えるのは 法律上 故人様の死が確定した後となります。即ち 医師により 死亡診断書 または死体検案書が発行された後となります。死亡診断書 または死体検案書には必ず死因が記入されます。

 

 厚生労働省の”人口動態総覧”によれば 平成21年(西暦2009年)の死亡者総数は1,141,035人で、約28秒に一人の方亡くなって居ります。そして その死因は以下の通りです。

 1 悪性新生物(ガン)    30.1%

 2 心疾患(心臓病)     15.8%

 3 腦血管疾患        10.7%

 4 肺炎              9.8%

 5 老衰              3.4%

 6 不慮の事故         3.3%

 7 自殺             2.7%

 8 腎不全           2.0%

 9 肝疾患           1.4%

 10慢性閉塞性肺疾患   1.3%

 

 又 東京都監察医務院の平成23年度版事業概要によれば 平成22年の23区内死亡者数は72,060人、内 検案総数は14,396人、解剖総数は2,035人でした。その内訳は以下の通りです。

 1 病死         69.4%

 2 自殺         14.1%

 3 災害          8.7%

    交通事故、転倒・転落、溺死、窒息、焼死、中毒、その他

 4 犯罪          1.6%

 5 その他         1.5%

 6 不詳の死       4.7%

 

 尚 横浜市内での実体は 公開されて居りませんので明細は不明ですが 平成24年の解剖総数は1,707件でした。

 

   今回は以上です。

 

 

 

 

行政解剖、司法解剖

 今回は行政解剖、司法解剖に付いて書かせて頂きました。

 

 人が亡くなられて場合は 亡くなられた場所、又は届け出人の居住する市区町村役所に死亡届を提出しなければ成りません。死亡届には故人様の死因が明記されます。通常は掛り付けの医師により、死因が確定されますが、各種の事情で掛り付けの医師がいない場合 又は死因の判明しない犯罪性のない異常死体に対して、死因の究明を目的として 監察医 若しくは警察の指定する医師により行われる解剖を 行政解剖と言います。そして 犯罪性のある死体 又はその疑いのある死体の死因を究明する為に行う解剖を司法解剖と言います。

 

 死体解剖保存法第8条に於いて

”政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域における伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体その他死因の明らかでない死体について、その死因を明らかにするため監察医を置き、これに検案をさせ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させることができる。”

と定められ、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市の5地区には 監察医が置かれ、その他の地区では警察により委嘱された嘱託医が検案・解剖を担当します。

 

 横浜市に於いては 伝染病、中毒、災害により死亡した疑いのある死体、又は死因の明確でない死体に対して まず監察医による検案(外見的調査により死因を特定、検死とも呼ばれます)が行われます。検案では死因が特定出来ない場合、行政解剖を行います。犯罪死のおそれがある場合は 全て司法解剖を行う事と成ります。又 行政解剖の途中でも 犯罪死が疑われる状況が出てきた場合には 司法解剖に移行されます。

 

 行政解剖、司法解剖 何れの場合もご遺族の同意は必要とされません。

 

   今回は以上です。   

 

死亡診断書、死体検案書

 今回は死亡診断書、死体検案書に付いて書かせて頂きました。

 

 人が亡くなった場合は 御家族、或いは身近な方は 死亡診断書、又は死体検案書を添付して、七日以内に死亡届を市区町村役所に届けなければ成りません。死亡診断書は 死亡事由や死亡日時などを証明する診断書で、故人様の診断・治療を担当していた医師、又は歯科医師により発行されます。死体検案書は 犯罪に関係したご遺体、若しくは診断・治療を担当した医師がいない場合のご遺体は 警察の検死を受け、監察医 もしくは警察の嘱託医が検案の後 発行します。

 

 戸籍法では 死亡届には やむおえない事由を除き、死亡診断書または死体検案書を添付するよう義務ずけられて居り、用紙はA3用紙の左半分が 死亡届、右半分が死亡診断書(死体検案書)の形式となって居ります。

 

 通常の病死あるいは老衰死等の自然死である事が明らかな場合は 診察・加療にあたっていた医師、又は歯科医師が死亡診断書を発行します。


 通常の病死、或いは自然死であっても 診察・加療に当る医師がいない場合、病死・自然死以外の異常死体、或いは 犯罪の疑いのある死体の場合は 警察に連絡し、その検死を受けて、監察医 又は警察の嘱託医による検案の上、死体検案書が発行されます。検案が必要なケースをまとめると;

 1 病死あるいは自然死であっても、生前に診察・加療を担当した医師がいない場合。

 2 病死あるいは自然死であるか 不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの非犯罪死の場合。

 5 犯罪関連死の場合。

となります。尚 横浜市内の場合 検案の費用はご遺族の負担となり、状況に応じて 二万五千円から七万五千円の間で検案料が必要と成ります。

 

   今回は以上です。

 

脳死

 今回は脳死について書かせて頂きました。

 

 脳死とは 腦の全ての機能が回復不可能な段階まで低下し、回復不能と認められる状態の事で、その判定は 脳死判定の経験を持つ 2名以上の医師により行います。判定は2回行われ、1回目の判定の後、6時間後に2回目の判定を行い、二回目の判定終了時刻が死亡時刻として死亡診断書に記載されます。尚 脳死の判断基準は国により定義が異なります。又 日本では 脳死を 個体死とする旨 法律には明記されて居りません。

 

 人の死の判断は 古くは 息を引き取り、体温が低下し、身体が硬直する というプロセスをふんで確認しました。近代では 三徴候説と呼ばれる 肺機能の停止(呼吸停止)、心臓機能の停止(脈拍停止)、脳機能の停止(対光反射の消失)により判断する様変化しました。そして 現代では 医療技術の発達により 腦の心肺機能を制御する能力が喪失しても、心肺機能を維持し続けることを可能とする人口呼吸器の開発です。ここに 腦機能が停止しても 心肺機能は維持できるという状態が作り出されました。他方 生体移植技術の進歩とともに、臓器移植でのみ救済が可能な患者への光明を開く事とも成りました。

 

 日本に於ける 法的な脳死の定義は ”臓器の移植に関する法律”により規定されて居ります。脳死判定は 臓器提供を前提とした場合にのみ行われます。従いまして その実施に当っては 本人 及び家族の臓器提供同意が基本となります。日本では腦の機能を完全に解析出来て居る訳では有りません、又 脳死という新しい観念を受入れる為には 多くの議論がなされた事はご承知の通りです。

 

   今回は以上です。 

死の判定

 今回は死の判定に付いて書かせて頂きました。

 

 死の判定は 現在の日本の法律に於いては 医師のみが判定する事を許されて居りますが、古くは 宗教、哲学、神学などで 死の判定や定義を扱って居り、その地域、文化、時代、分野などにより様々な解釈が存在しました。死とは 命が亡くなる事、生命が亡くなる事、生命が存在しない状態等と定義されますが、はっきりとした尺度、基準を示すものでは有りません。

 

 人間の死亡の判定には 様々な解釈があり、文化的伝統、人の心情、医療、法制度、論理的観点など 複雑に関連しあって必ずしも明解では有りませんが、色々な観点での見解は以下の様に考えられます。

 息が止まる事

  古くから命は呼吸と強く結び付けられて考えられて居りました。従い 息が止まった状態を死と考えました。

 全身のさまざまな変化

  従来は 爪や髪が伸びている間は まだ生きていると考える人が多く居られました。

 三兆候

  医療に於ける死の三兆候で、脳死による臓器移植の問題が出るまでの基本形です。

   自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔が開く。

 バイタルサイン

  現在の一般的な判断基準です。

  心拍数、呼吸数、血圧、体温の状態を確認し、バイタルサインによる生命のしるしがなくなった時点で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合は死亡と判断します。

 

 生と死の境目は 必ずしも明確では有りません、考え方により大きく違います。しかしながら 社会生活を円滑に営む為には 法律により その境目を明確化せざるを得ませんでした。それが 医師による判断であり、死亡診断書に記載された死亡時刻が その方の死の瞬間と成りました。

 

 又 現在の医療の現場では臓器移植と言う治療法が開発され、移植の為の臓器をより新鮮な状態で得る為に脳死という概念が作られ、臓器移植法により運用されて居ります。ただし 同法では ”脳死状態の患者から臓器を移植してもよい” と書かれて居りますが、脳死は死であると規定しては居りません。

 

   今回は以上です。

 

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 

 臨終とは 臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語で、厳密には死を迎える直前の時期を指します。この時期は 本人にとっても、近親者にとっても危機的 かつ大切な時期で、古来より 死の受入れと死の看取りに関する様々な習慣と文化が生み出されて居りました。エジプトやチべットの”死者の書”、中世ヨーロッパに書かれた”往生術”、インド仏教に於ける祇園精舎の無常院、日本では 平安時代中期に書かれた”往生要集”等です。

 

 現代では 事故等による突然死を除くと、臨終される場所は75%が病院、20%がご自宅となって居ります。そして ご臨終の場所に係わらず 看護は延命を目的に治療を続けることよりは ご本人とその近親者の方々が 最後の時をどの様に迎えるかを大切に考える様に変わって来ました。ご本人と近親者がより良い別れの時をどう持つかが重視される様になったと言えます。

 

 ご臨終の時は 本人は勿論、御家族にとっても大切な時間です。最期の看取りを行い、きちんとお別れが出来るか如何かは 御家族の後々のお心に 大きな影響を与えるからです。ご本人が安らかに最期を迎える事が出来る様 御家族は医師とのコミニケーションを密にし、ご本人が希望されていた方や近親の方々に的確な連絡を行い、面会に来て貰う様 手配するのが良いでしょう。最期に立会えず、良いお別れが出来ないときは、後々まで近親者の心の傷として残る事が有ります。離れて住む近親者の方への配慮も必要と成ります。

 

 そして ご本人が深い信仰をお持ちの場合は ご本人が信頼する宗教者をご臨終の床にお呼びするのも 大切な事です。

 

   今回は以上です。 

グリーフケア

 今回はグリーフケアに付いて書かせて頂きました。

 

 グリーフケアとは 死別の悲嘆に対する介護の事で、大切な方を亡くされたご遺族は、故人様との別れのつらさや、環境の急激な変化に戸惑い、御自身の心は傷ついています。この傷を癒す為のケアを意味します。納得の行く ご葬儀の施行は グリーフケアの一つでも有ります。

 

 身近な方の死別を経験されると 自然に故人様を思い慕う気持ちと、その方を喪失した気持ちを中心に湧き起る 感情・情緒に心は占有されます。そして その一方では この窮状から脱却しようと努力を試みます。この 相反する 二つの感情は共存して揺れ動き お心は不安定な状態となります。同時に 身体上も不愉快な反応・違和感を経験します。この時期には 死者とは、死とは、自分とは何か、等の問いかけも行います。この状態をグリーフと言い、この状態の人に さりげなく寄り添い、援助する事を ”グリーフケア” と言います。

 

 人間はひとたび生を受けると、死という宿命から逃れる事は出来ません。従い いずれは 愛する人の死に遭遇します。両親、配偶者、子供、兄弟姉妹 人生を共有して来た大事な人の死は 深い悲しみを生み、突然の死別などは大きな心の混乱を生み出します。この混乱を鎮めてくれるのが、葬儀の施行であり、体験を共有する家族との触れ合いであり、地域社会からの思い遣りでした。しかしながら 核家族化・少子高齢化の進行は 悲嘆をより大きく、家族や地域社会からの援助をより難しくして居り、グリーフケアが必要な社会へと成りつつ有ります。

 

 死別経験者が受ける 感情の苦痛期間は 人生危機の時期とも言えますが、キチンとした対処が成されるならば、発想や生き方を変え得るようなパラダイムシフトに繋がるエネルギーを秘めた大切な時期でも有ります。グリーフが 苦境はチャンスだったと言えれば良いのですが。

 

 尚 横浜市内には 磯子区に ”スノードロップスの会”、神奈川区に お子様を無くされた方を対象とした ”天使のブティク” などのグリーフケア団体が御座います。

 

   今回は以上です。

墓地

 今回は墓地に付いて書かせて頂きました。

 

 墓地とは 亡くなった方のご遺体やご遺骨を埋葬する場所をさします。古くは然るべき立場の人の葬祭を行う場所、或いは火葬を行う場所が墓地と成りました。一般民衆の間では 村落が出来始めた頃より 村の共同墓地が作られる様に成ります。そして 仏教の民衆への浸透とともに 村洛の寺院が共同墓地を管理する様に成ります。又 農民の地位向上と共に 自作農家は所有する土地の一部に自家の墓地を設ける様に成りました。

 

 現代では墓地も変化の中にあります。1960年以降 人口の都市集中、核家族化などから 都市部での墓地需要は増大し、公営霊園だけでは無く民間の霊苑開発も盛んに行われる様に成ります。その決果 地方の寺院墓地は過疎化の影響を受けて 無縁化が進む様に成りました。明治時代後半以降の ”家墓” 形態は 核家族化、少子化の進捗により、その継承に問題が生じ、無縁化が問題と成るように成りました。その為 男子継承を原則とした墓地運営規則も 見直される様になりました。そして 継承が無くても永代供養をしてくれる 永代供養墓、有期限墓地、集合墓等 多彩な墓が登場する様になって居ります。

 

 横浜市内の公営墓地としては 西区の久保山墓地・久保山霊堂、神奈川区の三ツ沢墓地、港南区の日野公園墓地、中区の根岸外国人墓地、戸塚区のメモリアルグリーンが御座います。墓地の永代使用権購入は例年、11月に募集が行われており、集合墓の利用に付いては随時、申し込みを受け付けて居ります。

 

 尚 墓地を意味する 英語のCemeteryは ギリシャ語の”眠る場所”を語源として居ります。

 

   今回は以上です。

ターミナルケア

 今回はターミナルケアに付いて書かせて頂きました。

 

 ターミナルケアとは 終末期の人に対する医療、及び介護の事を指します。終末期の概念に 明確な定義は有りませんが、一般的には 老衰・病気・障害・損傷の進行により 死に至る事を回避するいかなる手段も無く、予想される余命が3ヶ月程度以内の状態を指します。ターミナルケアを専門に行う医療施設をホスピスと呼びます。それ以外の施設としては 緩和ケア病床、慢性期の医療病床、老人介護施設、障碍者介護施設等です。

 

 日本では 第二次世界大戦を経験した事により、人々は多くの死と直面せざるを得ませんでした、以後 死への忌避感が強くなり、死を語ることは社会的なタブーと成りました。しかし 戦後も遠くなり、高齢化が進むと伴に、その忌避感も緩和され、終末医療(ターミナルケア)への関心が高まります、そして 治療優先主義の医療に対する批判が出る様に成ります。病気や障害の最終治療に当っては 患者本人の生活を犠牲にするのではなく、患者の”生命の質”を尊重したケアが必要であると言う意見です。更には 死に方は 医師に決定権が有るのではなく、患者本人に決定権が有るべきでである とする 死の自己決定権が主張される様に成りました。医療情報の本人への開示(ガンの本人告知)、治療方法に対する患者本人の同意取り付け等です。そして 死後の自己決定権が提唱され、葬儀の次第やお墓の形式なども 本人のご意向が尊重される様になって参りました。

 

 ホスピス(hospice)の語源は 聖地への巡礼者を 小さな巡礼教会が宿泊させた事に始まります。ホスピスと言うと感覚的に高額の施設と考えがちですが、現在では 健康保険や介護保険が適用出来る、大型から小型の施設も数多く運営される様になって居ります。又 患者や家族のご希望に合わせ、訪問医療や訪問介護による在宅での ターミナルケアも多くなって参りました。


   今回は以上です。

斎場

 今回は斎場に付いて書かせて頂きました。

 

 斎場とは 神道の用語で 神道に於ける祭祀や儀式を行う場所の事を指します。神社内に常設された式場や、必要に応じて 屋外に仮設された 祭祀・儀式を行う為の式場も指します。又 神道では葬儀は死穢を嫌う事から 神社内では行わず、自宅或いは個別の式場に神官が出向いて執り行いますが、この場所も斎場と呼ばれます。しかしながら 現代の日本に於いては葬儀を行える施設を指す様に成りました。

 

 従来の葬儀は ご自宅で行うのが一般的でしたが、昨今の住宅事情や 車社会の進展、式場環境の快適化などの要望を基に、葬儀専用の式場が求められる様に成り、全国に大小 多くの葬儀会館(斎場)が作られました。民間の斎場、寺院の斎場、公営の斎場などです。更に 会葬者の利便性から、火葬場に隣接する斎場も多く見られます。これらの斎場は 式場だけでは無く 遺族控室、宗教家控室、会食室、通夜の為の仮眠設備、駐車場等を備えるのが一般的です。斎場によっては浴室を準備したところも御座います。

 

 横浜市内には多くの 民間・寺院・公営の斎場が御座いますが、火葬場は 民営1ヶ所、公営4カ所が有り、いずれも隣接して斎場が運営されて居ります。

 民営火葬場は 神奈川区に所在する西寺尾火葬場で、同一経営で斎場が隣接します。

 公営火葬場は4ヶ所で 何れも横浜市営の火葬場で、西区に所在する 横浜久保山斎場には 民営の斎場が隣接して居ります。他の3ヶ所は 緑区所在の横浜北部斎場、戸塚区所在の横浜戸塚斎場、金沢区所在の横浜南部斎場で 何れも横浜市営の斎場が隣接して居ります。

 尚 横浜市営の火葬場・斎場の利用料は 横浜市民にとり廉価で利用が可能となって居ります。

 

   今回は以上です。 

現代の葬儀

 今回は第二次世界大戦終了後、現代までの葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本では 敗戦とともに物資の不足、高度のインフレにより国民生活は混乱しましたが、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気をはじめとして、日本の戦後復興が始まります。葬儀も昭和28年ころより 告別式を中心とした葬儀式が行われる様に成り、祭壇・棺や各種の葬具が開発・製造され、祭壇を中心とした葬儀が一般的となって行きました。この流れとともに 地域特有の葬具は徐々に姿を消し、全国的に標準化が図られる様に成ります。

 

 そして 人口の大都市集中、核家族が進みます。それでも この時代には地区共同体としての葬儀が多く見られました。葬儀の取り仕切りは 町内会や、団地の自治会が中心となり、団地の集会所で執り行われる葬儀も多く見られました。又 家族・親戚が色々な地域から集まらねば成らなくなり、葬儀は通夜と葬儀式を中心とした2日間に集中するように成ります。告別式も葬儀式と同時に行い、会葬者への迷惑を考慮して 時間も一時間以内で終了する様になります。現在の横浜市内では 葬儀式・告別式・初七日法要・故人様との最後のお別れまでを一時間で執り行う形が 一般的と成って居ります。

 

 現代では 少子高齢化が進捗し、お仕事を引退されてから そこそこの時間が過ぎた方の葬儀では 社会への告知と言う目的はより薄れ、近親の方のみで静かにお見送りする 葬儀が多くなりました。密葬 あるいは家族葬と言われる形です。会葬者の方も限定される事から 大規模な五段の祭壇などは姿を消しつつ有り、お見送るする御家族のご希望に沿った祭壇、式次第などが主流になりつつ有ります。

 

   今回は以上です。

大正・昭和初期の葬儀

 今回は大正・昭和初期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 明治の後半から大正時代にかけて、都市部では大型葬列に対する批判が高まります。私事の為に公道を妨げて良いのか 等の論調の批判がマスコミに登場するようになります。又 明治17年に制定された 墓地及び埋葬取締規則により 許可される区域が限られて 市街地での火葬や埋葬が制限され始め、更に明治36年には路面電車が走り始めた事により 葬列廃止は加速されました。大正時代に入り 大型葬列に代わり 登場したのが告別式です。告別式の最初は 明治34年に行われた 中江兆民氏の葬儀と言われて居りますが、この場合は葬列の代りに告別式ではなく、同氏は無宗教であったため、宗教儀礼は行わずに、お別れ会として 告別式が行われました。しかしながら これを機に大型葬列に代わり、大型の告別式が行われる様になります。そして 葬列に代わり霊柩車が登場します。

 

 日本型霊柩車は 大正11年の 大隈重信の国民葬で、トラックの後部荷台に白木の輿を載せて、ご遺体を移送した事にヒントを得たと言われて居ります。海外の大型車を輸入し、後部に和風の唐草模様などを装飾した、宮型霊柩車が登場します。日本で最初の宮型霊柩車は大阪で登場しました。

 

 告別式の大型化に伴い 大きく変化したのが祭壇でした。葬儀の祭壇は 現在の枕飾りと同様で 前机の上に三具足を供え、その横に御供花やお供物を供えたものでしたが、それが 二段、三段、そして五段へと大型化し、更に高欄を備えたものえと変化しました。それに伴い 六道などの新しい燭台や、祭壇を装飾する為の各種仏具が開発されました。遺影写真も昭和初期には登場しました。とはいえ 昭和初期の大恐慌なども有り、祭壇文化が本格的になるのは 世界大戦後の昭和28年以降となります。昭和15年には戦時下となり 葬列を組む事も困難になり、燃料不足により霊柩車も動かせず、祭壇の装飾にも困る様に成り、死者が出ても ご納棺して 火葬場へ行くだけという状態が 第二次世界大戦終戦後の一時期まで続きます。

 

   今回は以上です。 

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 現代の葬儀様式のルーツは明治時代にあると言われます。江戸時代に 葬儀は 士農工商の身分制度を基に、身分ごとに葬儀基準が示され、葬儀の簡素化が奨励されて居りましたが、明治時代に入ると 身分制度が取り払われ、大都市を中心に 大きく変化して行きます。大掛りな日中の葬列、白木の輿と寝棺の増加、葬列を飾る葬具の出現、大掛りな粗供養等です。

 

 江戸時代までは ご遺体の移送は夜間にひっそりと葬列を組むのが習慣でしたが、明治に入ると 台頭してきた商人層を中心に 家を誇示する為の大きな葬列を、日中に組む様に成ります。なかには その役割を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。


 葬列の大規模化と共に 従来 使用されていた座棺は寝棺へと変化し、寝棺を運ぶ為の白木の輿が出来、多くの人で運ぶ様に成ります。そして 白木の輿には色々な装飾がされました。現代の宮型霊柩車は この装飾された白木の輿を原型として居ります。ただし 庶民の間では 長い間 座棺が使用され、それを 駕籠や 装飾した人力車などで運ぶかたちが第二次世界大戦終了まで続きます。


 大きな 葬列を飾る為の 野道具(葬具)もきらびやかな形に成りました。金連、銀蓮、生花や造花を挿した花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥籠、位牌を運ぶ位牌輿、輿も 寝棺用、座棺用、遺骨用などが作られました。近代的な葬具の始まりと言えます。


 そして 粗供養が大型化します。葬儀に 地域の人々に食事を振舞うという習慣は江戸時代でも行われて居りました。又 葬列の出発に当たり 花籠に菓子や小銭を入れて、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言う様な事が 粗供養の起源と考えられますが、明治に入り大型化しました。


 明治18年に行われた 三菱の創設者 岩崎弥太郎氏の葬儀は 神葬祭で行われ、会葬者3万人、用意した料理は和洋食合わせて6万人分、葬儀に雇った人員は7万人と言われて居ります。


    今回は以上です。

火葬2

 今回は前回に続いて火葬について書かせて頂きました。

 

 現代の日本では ご遺体の処置はご火葬が一般的となって居りますが、その理由としては 公衆衛生上の観点、埋葬する際の場所の問題、宗教上の観点等が考えられます。又 ご火葬に際しては 法律上の規制も御座いますので注意が必要となります。

 

 現代の日本に於きましては 火葬を忌避する宗教を信仰する方(外国人を含む)、根強い土葬習慣を維持している特定地域の住民の方々、大規模な災害により火葬場が使用出来ない 等のケースを除いて、ほぼ100%のご遺体が火葬に付されます。その理由としては以下の事が考えられます;

1 公衆衛生上の観点から土葬よりも衛生的である。土葬の場合 ご遺体の腐敗は土中の微生物により進捗します、埋葬後 長期間にに渡って周辺地に腐敗菌が残存する為、衛生上 広域な土地が必要となります。

2 仏教では 仏陀は火葬に付された故事にならって、火葬が尊ばれて居ります。特に 浄土真宗では火葬を強く推進して来ました。ちなみに 日本で最初の 近代的火葬場は 1878年(明治11年)に京都に建設された 両本願寺火葬場(現在の京都市中央斎場)とされますが、浄土真宗の東・西の本願寺により建てられました。

3 都市部では 人口集中のため 条例により土葬が禁止されたり、許可された条件を満たす墓地を確保する事が困難である。

4 宗教への拘りが薄れ、埋葬の方法にも拘りが無くなり、又 墓を家単位で考えると 同じ墓石の中にご遺骨を納めるには火葬が必要となり、火葬は世間的にも認知された処理方法と成りました。

 

 日本では ”墓地・埋葬に関する法律” があり、その規定によれば

1 死体(もしくは妊娠7ヶ月以上の胎児)は 死後(もしくは死産後)24時間以内は 火葬してはならない とされて居ります。但し 一類から三類までの感染症や新型インフレンザ等の感染症の場合はこの限りではない。

2 火葬を行う場合は 死亡届を提出した 市区町村長の許可が必要となります。

  許可を受けずに火葬をした場合は 墓地・埋葬に関する法律違反と共に、死体遺棄・死体損壊罪に問われる可能性が有ります。

なお 墓地・埋葬に関する法律では、土葬等 火葬以外の埋葬方法を禁じては居りませんが、各地方自治体は 環境衛生面等から 火葬を奨励し、東京・大阪・横浜などの大都市では条例で土葬を禁止して居ります。

 

    今回は以上です。

火葬

 今回は火葬について書かせて頂きました。

 

 火葬とは ご遺体を焼却する事ですが、仏式では 火葬前の読経・焼香から 焼骨を骨壺に納める 収骨までも 葬儀式の一部であると言う考え方も有ります。又 ご遺体の安定化、減容化処理の手段の一つとも言えます。世界的には 火葬は必ずしも主流とは言えませんが、日本に於いてはほぼ100%でご火葬の上、納骨 或いは埋葬されて居ります。

 

 日本に於ける火葬の歴史は古く、確認された火葬としては6世紀後半のものが有り、現在 検証中の遺跡としては 長崎県大村市の竹松遺跡(弥生時代後期、2世紀ころ)などが有ります。しかしながら 火葬は仏教の伝来と共に伝わったとされる説が有力で、最初に火葬された人物は 僧道昭(700年)であり、最初の天皇は 持統天皇(702年)とされます。その後 火葬の習慣は上級役人、公家、そして武士社会へと広がって行きます。とは言え 儒教の教えでは 体を傷付ける事は大罪であり、火葬もその一つと考えられ、又 火葬の為の燃料代も高額であったことから 火葬率はそれ程高くは有りませんでした。仏教が準国教とされた江戸時代でも 2割前後の火葬率と想定されます、棺桶を使った土葬が主流でした。明治時代に入り国教は神道に変わり 天皇家を必頭に土葬へと変化しますが、都市部では 土葬の為の土地確保の困難さ、火葬技術の進歩、衛生管理上の問題などから、徐々に火葬率は上昇し、現在ではほぼ100%となって居ります。そして 火葬された最後の天皇は 1617年に崩御された後陽成天皇で、以降 陵を設けて土葬ががされて参りました。今上天皇は 繁多な陵墓設営などを憂慮し、皇后・皇族の了解を得て、崩御の際は火葬を希望され、2013年11月火葬の正式発表がされました。

 

   今回は以上です。

 

神葬祭

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

 

   今回は以上です。

神葬祭

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

 

   今回は以上です。

神道

 今回は神道について書かせて頂きました。

 

 神道(しんとう、かんながらのみち)は 日本古来の宗教で、自然や自然現象を敬い、その中に八百万の神を見出す、日本独特の多神教です。全ての自然の中に神が存在し、神と人間を取り結ぶ作法が祭祀であり、祭祀を行う場所が神社という聖域です。現在の 神道として体系や儀礼を作り上げるのに貢献した人物は 吉田兼倶(1434−1511)です。

 

 吉田兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 神道を体系化して、神道が儒教や仏教の宗主であり、万法の根底であると理論付けました。古代日本に起源をたどる事が出来る神道は 日本の伝統的な民俗信仰や自然信仰を基盤として居り、日本の国家形成に影響を与えた宗教でも有ります。そして 宗教名は他の宗教とは異なり 神教とは言わず 神道と呼びます。神道には 確定した教祖や創始者は居らず、経典や聖書の様な明確な聖典も有りません。吉田兼倶による体系化に当っては 古事記・日本書紀・古語拾遣・宣命などの 神典とされる古典を規範として作られました。尚 富士山の世界遺産登録に当っては 富士山に対する山岳信仰が登録決定の大きな要素と成りました。

 

 神道は 奈良時代以降 江戸時代までの間 仏教信仰に吸収されて来ました(神仏習合)。しかしながら 明治政府は 天皇を中心とした 国民・国家統合を図る為、神仏分離を行い、水戸学やそれまでの国体神学を基にした 国家神道を作り上げました。そして 全国各地の氏神を祀った神社に 皇統神を合祀し、国家による組織化を進めました。

 

   今回は以上です。

廃仏毀釈

 今回は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に付いて書かせて頂きました。

 

 廃仏毀釈とは 仏を廃し 釈迦の教えを毀(壊)す 事を意味し、仏教寺院・仏像・教典を破毀し 僧尼や寺院が受けていた特権を廃する事です。その最たるものは 明治維新後の廃仏毀釈運動ですが、これは 徳川幕府が仏教を国教としたのに対し 新政府は神道を国教に変更する為、発令された 神仏分離令等を民衆が拡大解釈して 引き起こされました。

 

 廃仏毀釈運動は 仏教の特定宗派に対する反対運動として、或いは キリシタン大名が支配した領地等で小規模には発生して居りましたが、明治時代初期の運動は全国に波及した大規模な運動となりました。徳川幕府の時代には寺請制度により 仏教は国教としての位置付けにあり、神道は寺院の一部として機能して居りました。明治政府は この体制を壊す為、まずは神道と仏教の分離を目的として各種の布告を発令しました。神仏習合の廃止、仏像を神体として使用する事の禁止、神社から仏教的要素を払拭する事、各神社での祭神決定、僧職から神職への転向等と共に 仏像・仏具の破壊や 仏事の禁止という過激な発令も一時的には出されました。この運動により古くからあった多くの寺院や仏像が毀損され、貴重な文化遺産を失う事と成りました。

 

 寺請制度を基にした寺院の特権は 汚職の温床ともなり、それに対する民衆の反発が、より大きな運動に発展させたと考えられます。この仏教の危機は 仏教界の反省を促し、以後 近代化へと結び付いて行きます。

 

   今回は以上です。 

寺請制度

 今回は寺請制度に付いて書かせて頂きました。

 

 寺請制度とは 1961年からの寛文年間に江戸幕府より発冷された キリシタン禁制、及び住民調査を目的とした宗教統制の制度です。武士・農民・町人に係わらず、全ての人々に仏教寺院より寺請証文を受ける事を義務付け、寺院にその人々がキリシタンではない事を証明させる制度です。必然的に 人々は家を単位として寺院の檀家とならねば成らず、檀家制度を確立させる基とも成りました。

 

 寺請制度は 仏教の壇信徒で有る事の証明書を寺院から請ける制度で、旅行や住居の移動の際には寺請証文の提示が必要とされました。従い 民衆は幕府又は大名家に認められた仏教寺院の檀家と成らねばなりませんでした。又 寺院側へは 現在の戸籍に当る宗門人別帳の作成、年一回の更新、キリシタンの発見 及びその家族・親族の監視などが義務付けられ、仏教寺院は 幕府の出先機関として民衆管理を行うと共に大きな権限を与えられる事と成ります。そして この権限が汚職の温床となり、宗教活動をおろそかにし、明治時代初期の廃仏棄却へと繋がってゆきます。

 

 とは言え、この制度により 当時としては世界一の人口調査が可能となり、人々は寺院の檀家となる事で戸籍を得る事になり、以降は 出生・結婚・旅行・移転・奉公・逝去等の際には 村役人の発行する送り状・請け状・手形と共に 寺院が発行する 送り状・請け状・手形も必要とする様になります。

 

 又 江戸時代も進むと 世の中は平和になり 民衆は自分の死後の葬儀や供養の事を考えて菩提寺を望む様になり、寺請制度は受入れ易い環境とも成りました。そして 仏教は 幕府や藩の行政権威を補う役割を担い、事実上の国教と成りました。現在 私共が接する 寺院と信徒の関係(檀家制度)や 葬儀・法要の基本は寺請制度を基にして作られと言っても過言では有りません。

 

   今回は以上です。

檀家制度

 今回は檀家制度について書かせて頂きました。

 

 檀家制度は 日本独特の制度であり、寺院は檀家の葬祭供養を独占的に執り行い、それに対し檀家は寺院へ布施を施し 経済支援を行うという、寺院と檀家の関係を指します。この制度は 応仁の乱以降 荘園制の崩壊と共に惣村が生まれ、家という概念が出来始めて進捗し、江戸時代の寺請制度により確立しました。

 

 檀家とは 壇越(だんおつ)の家という意味ですが、壇越とは 梵語のダーマパティの音写で、寺院や僧侶を援助する庇護者を意味します。仏教伝来の後 有力な氏族は壇越となって、寺院を建立し仏教諸宗派を保護しました。例えば蘇我氏は飛鳥寺を、秦氏は広隆寺を建立して居ります。この壇越が檀家の源流となります。伝来当初は 有力者の信仰対象であった仏教は その後 広く世に浸透し、仏教の庇護者は有力氏族から惣村へ、更には 家単位へと広がって行きました。そして キリシタン禁制を目的とした寺請制度により、檀家制度が始まりました。寺請制度とは キリスト教徒ではない証として、武士・農民・町民を問わず 全ての国民は家単位で 特定の寺院に所属し、寺院の住職は 檀家である証明として寺請証文を発行する という制度です。又 キリシタン改めの責任も壇那寺に委ねられ、それと共に壇那寺に権限も与えられる様に成ります。

檀家の義務として以下の様な事項が定められました;

1 4月8日の釈迦 降誕会、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りすること。

2 説教や 仏法を説く寺院の集会に参加すること。

3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。

4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。

お盆や彼岸の墓参はこの時代に定められた様です。

 

   今回は以上です。

一家一寺

 今回は一家一寺について書かせて頂きました。

 

 昭和の時代には 一家一寺 即ち檀家制度が一般的でした。この一家一寺制は17世紀後半の江戸時代に制度化された”寺請制度”と共に確立されました。江戸時代 農民の自立化が促進され、そこで家という考え方出来、祖先崇拝も強まり、家の菩提寺として その寺の経済基盤を支えると共に、葬祭や仏事を寺院に委託して行く事と成ります。


 室町・安土桃山の時代には 村は大百姓により支配され、村の寺院や道場は大百姓の菩提寺としての性格が強く有りました。それが 江戸時代に入ると 徐々に大百姓が没落して行き、村は平均的な本百姓により構成される様に成ります、そして 地域共同体としての村を 精神的な結びつきにより強化する為 村惣堂や惣道場と呼ばれる寺院が出来始めます。


 江戸時代初期には それ程 一家という概念は確立されて居らず、同時に妻と夫が別々の寺院に属する等、一家の構成員全員が一つの寺院に所属する檀家制度はまだ確立されて居りませんでした。それが 17世紀後半に幕府より公布された寺請制度により一家一寺が強力に推進されました。同時に家系の考え方も庶民に間に広がる事と成ります。


 檀家制度が確立されると、それまで庶民が石碑を備えた墓を持つことは有りませんでした、家族が亡くなると 共同墓地に埋葬したり、山間に置いて来たりしていましたが、家の確立と共に 家の墓地を持ち、家の墓石を建てる様に成り、先祖崇拝も庶民の間に根付いてゆきました。


 現代のお墓は 農民(庶民)の自立を前提とした、家の確立により、家の象徴 或いは根拠として建てられ始めたと考えられます。又 お墓は 抽象的な祖先崇拝ではなく、家の先祖という具体的な対象を崇拝する形を取る事とも成りました。


   今回は以上です。 

葬祭の民衆化

 今回は葬祭の民衆化に付いて書かせて頂きました。

 

 鎌倉時代中期 それまでの荘園公領制は変質し始め、弱小農民層は 水利配分や水路・道路の修築、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などの為に地縁的な結合を深め、耕地から住居を分離して 住居を集合させた村落が出来始めます、これを惣村と呼びました。惣村は畿内を中心に始まり全国へと広がって行きます。この惣村に葬祭を中心とした仏教が布教され 受入れられて行きました。

 

 惣村は地域共同体の自治組織であり、連帯を守る為の罰則・検察・裁判機能を有し、領主の増税に対する闘争組織であり、そして 余剰生産物の保管組織でも有りました。惣村の成立により 自立した農民達は寺院を支える事も可能となり、仏教各宗派は広く地方へも進出し、各地で寺院・道場が作られ、仏教の民衆化が広く進みます。庶民に広く葬祭を推し進めたのは浄土宗でしたが、禅宗(特に曹洞宗)・真言宗(密教)・日蓮宗・天台宗・浄土真宗(一向宗)なども 布教に当っては 葬祭を中心とする事が多く、葬祭仏教化が一段と進みました。

又 この時代 仏教界は その布教の為に その土地の民俗とも融合して行きます。現在 同じ宗派でも 地域により葬儀の次第が相違するのは 仏教と民俗との融合によるものです。


 日本に於ける 仏教寺院と信徒の関係は 壇那寺(旦那寺)−檀家(信徒)として結ばれて居り、これを 寺壇関係とも言います。中世までの寺院は 貴族や武士により支えられて居りましたが、惣村の出現により 農民も寺院の支え手に加わる事と成ります。農民は葬祭・仏事を寺院に委託する代わりに、寺院の維持費を負担する様に成りました。尚 檀家とは 古代インド語のダーナパティの音写である 壇越 が変化した言葉で、寺や僧侶を供養する施主を意味します。


   今回は以上です。

 

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