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香典とは

 今回は香典に付いて書かせて頂きました。

 香典とは 仏式のご葬儀で 故人様の霊前に供える金品を指します。古くは 香奠と書き、故人様の霊前に香を供えると言う意味でした。その後 香・線香に代えて金品をお供えする様に成りました。本来の香奠は 奠の文字が当用漢字より外されて以降、典を当て字として使用するように成って居ります。

 香典は金銭、あるいは品物を 霊前にお供えする訳ですが、古くは品物 特に米や食料が主としてお供えされました、これを食料香典と言います。金銭香典は貨幣経済の発展と共に都市部を中心に普及しました。室町時代後期には武士が金銭香典をお供えしたとの記録が有ります。

 食料香典の由来は 農村部の地域共同体では ご葬家は 故人様の成仏を願い、贖罪する為の お布施として 人々に食事を振舞う習慣が一般的でした。古い記録では 葬儀の期間 地域の共同体の人々は 子供を含めて 自宅で食事をする事無く 葬家の振る舞いで過した、などと有ります。従いまして ご葬家では 多量の食物が必要となり、故人様との交わりの濃さに合わせて、親族香典、村香典、等が 米・野菜・酒などで提供され 貧富に係わらず、共同体の相互扶助により葬儀を執り行う事が出来ました。又 葬儀を出した時の香典帳は 長く保管して 他家の葬儀の際は その香典帳を参照して 見合った香典を包む習慣にもなって居りました。

 現在の金銭香典の相場は 近隣の方;3千―5千円、勤務先関係・友人;5千―1万円、一般親族;1万―3万円、兄弟姉妹;3万ー5万円、父母;5万―10万円位となります。伝統的な禁忌としては 奇数は陽数であり、偶数は陰数として 金額や紙幣の枚数では偶数を避ける様にといわれて居ります。しかしながら 現在では 1万円の次が3万円では その差が大き過ぎると言う事で 2万円と言う金額も使用される様にも成って居ります。

 香典の上書きは 四十九日法要までは 御霊前、それ以降は 御仏前と 薄墨で書きます。但し 浄土真宗では 死去即成仏と成りますので 御霊前は使用しません。又 曹洞宗などの禅宗では 教義に浄土は有りませんので 成仏以前という考え方が無いので 御仏前とするのが一般的です。

尚 会葬者の立場から考えると 必ずしも ご葬家の宗教・宗派を理解した上で会葬するとは限りませんので、御自身の宗旨で上書きを選択しても良い考えます。

   今回は以上です。 

阿如来(あしゅくにょらい)

 今回は阿如来に付いて書かせて頂きました。

 十三仏信仰に於ける 七周忌の審判は蓮華王により司られ 三回忌までの厳密な審理と言うよりは 成仏後の導きという意味合いが強くなります。蓮華王の本地は 阿如来で 密教に於ける 金剛界五仏の一尊で 金剛界曼荼羅では 大日如来の東方(右下)に位置します。

 十三仏信仰は 中陰の間の七王は インド仏教で説かれ、中国に渡って 百ヶ日・一周忌・三周忌の三王が加わり 十王信仰となり、日本に渡来した後 七回忌・十三回忌・三十三回忌の三王を加えて 十三仏(十三王)信仰となり 現在に至ります。

 阿如来は 梵名をアクショービアと呼ばれ ”揺るぎ無い” という意味を持ち、この如来の悟りの境地が 金剛(ダイアモンド)の様に堅固で揺るぎ無いもの で有る事を示します。阿仏国経によれば 昔 この娑婆世界から東方千仏の国を経て阿比羅堤という国があり、そこに大日如来が出現した際 無瞋の願を発して修行し、一切の淫欲を断滅し 成就完成して阿仏となり、今現在も仏国土で説法中であると説きます。インド仏教は イスラム教の台頭と共に衰退して行きます。その時期には 後期密教において 憤怒相の護法尊が信仰される様になり、五智如来の中心が大日如来から 阿金剛仏へと転換して行きました。

 日本に於ける阿如来の彫像は 五仏の一として作られたものがほとんどですが、単独の造像もわずかに御座います。阿如来の印相は 右手の指先を下げて 地に触れる ”触地印” を結びますが、これは 釈迦が悟りを求めて修行中に悪魔の誘いを受けたが、触地印により これを退けたとの伝説に由来します。煩悩に屈しない堅固な決意を示します。著名な作像としては 奈良 法隆寺大宝蔵殿南倉の木造坐像、和歌山 高野山親王院の銅像立像が御座います。

   今回は以上です。

霊柩車の費用

 今回は霊柩車の費用に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは 貨物自動車運送事業法に規定される 遺体の搬送に使用する特殊用途自動車を言います。そして 霊柩運送事業は 国土交通省管轄の許可事業となって居り、許可のない車でご遺体を搬送し 費用を請求する事は 法律違反となります。又 その料金も事前届け出制となって居ります。

 霊柩車の型式は 多きく分けて 宮型、洋型、バン型、バス型の4種類が有ります。

宮型は 車の後部(棺室)を輿の様に宗教的な装飾を施し、主として火葬場にご遺体を搬送する為に使用します。

洋型は 高級ワゴン車の後部リムジン化して 棺室として使用し 特別な装飾は施しません、このタイプも 主として ご遺体を火葬場に搬送する為に使用します。

バン型は バンやステーションワゴンの後部を棺室に改造して使用し、火葬場への搬送だけではなく 病院、自宅、葬儀会場間での搬送等にも使用する 多目的車です。霊柩車とは呼ばずに 寝台車、搬送車などと呼ばれます。

バス型は ご遺体と共にご遺族、ご親族を乗せて運用する形の霊柩車です。

 霊柩車の費用は出発車庫より目的地までの運賃となり その体系は 運賃、諸費用、実費からなります。

運賃は 基本額、加算額、特別加算額を足したものが費用となります。

  基本額は 霊柩車の型式により費用は異なりますが、最初の10Km以内の運賃となります。

  加算額は 走行距離が10Kmを超える場合の運賃で、10Km単位で加算されます。尚 ご遺体を届けた後  の 復路については費用請求はされません。

  特別加算額は 深夜・早朝に於ける作業の割増費用です。30分箪位で費用が必要となります。

諸費用は 特殊仕様車料金、遺骨宅送料、車両留置料等です。

実費は 有料自動車道使用料、フェリーボート使用料、駐車料金、依頼人の特別要請にもとずく作業実費などです。

   今回は以上です。

葬儀の祭壇

 今回は祭壇に付いて書かせて頂きました。

 祭壇とは 神、仏、精霊、あるいは死者などに 供物や犠牲を捧げる為の壇ををさします。祭壇の形状は多様で 台状あるいは板状の自然石を用いた石壇、土を盛り上げて作る土壇、石を積み上げて作る石積壇、そして木材などの自然物を加工して作られたもの等が御座います。

 葬儀で用いる祭壇を葬儀壇とも言います。仏教の古くからの仕来りでは 葬儀は 自宅での法要と 葬列を組んで蔡場 あるいは菩提寺に行ってからの法要と 二段構えでした。現在の都市部では この二つの法要は合体して 一つの法要となり、その飾り付けは 蔡場 或いは菩提寺の祭壇を原型として居ります。

 葬列では 柩は白木の輿に乗せられて運ばれ、そのまま蔡場に安置されます。時代の変化と共に 白木の輿に色々な装飾が施され、荘厳な祭壇へと変化して 現在の祭壇が出来上がりました。

 葬儀に於ける祭壇の位置付けは必ずしも明確では有りません。宗教儀礼として葬儀を営むのであれば 仏あるいは神の導きによって故人さまをあの世にお送りする事が基本となります。仏教では 仏を供養する事によって得られた功徳を故人さまに振り向けることから 祭壇は仏の供養の為に設けます。キリスト教の場合は 神を対象とした礼拝が中心となり、祭壇は神への礼拝の為に設けます。そして 告別式は 故人さまとご遺族や会葬者の方とのお別れが中心となり、祭壇はその為に設けられるべきです。

 葬儀と告別式では目的が異なりますので 祭壇も異なるべきですが、現在の葬送儀礼では 時間の制約も有り 葬儀と告別氏を同時に行うことが一般的となり その祭壇も両方を目的として設けられる様になりました。故人さまのお好きな花で飾った花祭壇などは より告別を主と考えた祭壇と言えるのではないでしょうか。

   今回は以上です。

仏教その➀

今回は仏教に付いて書かせて頂きました。

 仏教とは 紀元前5世紀にインドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ)を開祖として開かれた宗教で、キリスト教・イスラム教と並んで 世界の三大宗教の一つとされて居ります。その教えは 仏陀(目覚めた人、解脱した人)の説いた教えであり、そして 自ら仏陀になる為の教えでもあります。

 仏教は インド古来の世界観であった 輪廻 転生 解脱の考えを基に作り出されました。人の一生は苦であり 永遠に続く輪廻の中で終わり無く苦しまねばならない。その苦しみから抜け出す事が解脱であり、修行により解脱を目指すことが 釈迦の教えの目的でした。従いまして 釈迦の思想の中には偶像崇拝の概念は存在しませんでした。現在 伝来した各国で多く見られる仏像や仏閣は その土地、時代の主権者が政治的な目的で民衆に信仰を解り易くする目的で作り出されたと考えられます。

 初期仏教の歴史には時代区分があります。原始仏教、部派仏教、大乗仏教の三区分です。

 原始仏教は紀元前5世紀に インド北部ガンジス中流域で釈迦の提唱により生まれた初期仏教です。原始仏教は 他の世界的宗教と異なり、自然崇拝や民族宗教などをルーツに持たない宗教であり、世界各地で都市国家が成熟すると共に 社会不安が増大する中で、サマナ(沙門)と呼ばれる 出身・出自を問わない自由な立場の思想家・宗教家・修行者が持つ文化の中で作られました。釈迦の死後 その教えは弟子達により集められ、仏典として口誦により伝承され、後に文字化されます。更に経・律・論の三っに分類されて 仏教聖典に編纂されました。

 部派仏教は紀元前4世紀、仏滅後100年くらいに 釈迦の説いた教えの解釈に 色々な異見が出始め、考え方も岐れはじめます。その決果 上座部と大衆部の二つに大きく分裂し、その後 更に多くの部派に分裂して行きます。この時代の仏教を部派仏教と呼んでおります。上座部の一部は スリランカに伝わり、さらにミヤンマー・タイなどの東南アジアに伝わり、現在でも広く残って居ります(南伝仏教)。

 大乗仏教は紀元前後に 自身が解脱するだけではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に全ての衆生を得度する教え(大乗仏教)が起こります。この教えは急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して中国、更に韓国、日本へと伝来します(北伝仏教)。

更に7世紀頃にインドのベンガル地方でヒンドゥ-教の神秘主義一派であるタントラ教と融合した密教が起こり、様々な土地の習俗や宗教を包括しながら独自の修行体系を完成し、インドからチべット・ブータン、そして中国・韓国・日本にも伝えられました。

 現在の仏教は三大宗教の一つでは有りますが、大部分の仏教国は滅亡し、発祥の地であるインドでも廃れており、東南アジアの多くの国ではヒンドゥー教 或いはイスラム教へと移行が進み、中国・北朝鮮・モンゴルでは共産化により宗教は弾圧され、韓国ではキリスト教徒による廃仏運動が社会問題となっており、全体的には縮小傾向にあります。

現在 仏教を国教、或いは国教に準ずる地位としている国は タイ・スリランカ・カンボジア・ラオス・ブータンがあります。又 土着の信仰との混在・習合が顕著な国としては 日本・台湾・ベトナムなどがあります。

   今回は以上です。

日本の仏教

今回は日本の仏教に付いて書かせて頂きました。

 日本の仏教は 538年(552年とも言われます)に百済(現在の韓国・北朝鮮)より伝来したと考えられて居ります。その後 国家鎮護の道具として天皇家に支持され、聖徳太子の活動により飛躍的に発展しました。現在 文化庁の統計によれば 登録団体;85,343団体、教師(僧侶);332,971人、信者数;8,470万人とされて居ります。

 全世界の仏教徒数は3億数千万人といわれる中で、8千5百万人の信徒 約7万5千の寺院 30万体以上の仏像を有する日本は 世界有数の仏教国であると言えます。又 最古の仏典・古文書、世界最古の木造寺院 法隆寺も日本に御座います。

 日本の仏教には 数多くの様々な宗派が存在しますが、1940年公布の宗教団体法により 13宗28宗派に統合されましたが、第二次世界大戦後 多くの分派・独立が成されました。この13宗とは 華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗(おうばくしゅう)を指します。それぞれの宗の日本に於ける開祖と本山は以下の通りです。

 -奈良仏教系

   華厳宗 開祖は審祥 他、本山は東大寺。

   法相宗 開祖は道昭、本山は興福寺・薬師寺。

   律宗  開祖は鑑真(鑑真和上)、本山は唐招提寺。

 -平安仏教系・密教系

   真言宗(東密) 開祖は空海(弘法大師)、本山は東寺、高野山金剛峰寺 他。

   天台宗(台密) 開祖は最澄(伝教大師)、 本山は比叡山延暦寺。

 -法華系(鎌倉仏教法華系)

   日蓮宗 開祖は日蓮(立正大師)、総本山は身延山久遠寺。

 -浄土系(鎌倉仏教浄土系)

   浄土宗 開祖は法然(源空、円光大師、黒谷上人)、総本山は知恩院。

   浄土真宗 開祖は親鸞、本山は本願寺

   融通念仏宗 開祖は良忍(聖応大師)、本山は大念仏寺。

   時宗 一遍(証誠大師、円照大師)、本山は清浄光寺(遊行寺)。

 -禅系(鎌倉仏教禅系)・禅宗系

   曹洞宗 開祖は道元(承陽大師)、本山は永平寺。総持寺。

   臨済宗 開祖は栄西(千光国師) 他、本山は建仁寺・円覚寺・東福寺 他。

   黄檗宗 開祖は隠元(真空大師、華光大師)、本山は黄檗山萬福寺。

   今回は以上です。

日本のキリスト教

 今回は日本に於けるキリスト教に付いて書かせて頂きました。

 キリスト教の日本への伝来は 史実により確認されて居りますのは 1549年の カトリックの司祭 イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによる布教活動です。この時期 キリスト教は織田信長の後援を受け、九州から西日本を中心に多くの信者を獲得しましたが、江戸、明治、大正、昭和前半と迫害や制約を受け、自由な布教が出来る様に成りましたのは 第二次世界大戦後となります。尚 未確認の説としては 5世紀頃 中国では景教と呼ばれていた ネストリウス派キリスト教が 秦河勝らによって日本に伝えられたとする説が御座います。

 キリスト教は 日本伝来後 耶蘇教(やそきょう)と呼ばれ(耶蘇はラテン語 Jesusの中国音訳 耶蘇の音読み)、キリスト教徒を切支丹(きりしたん)、宣教師を伴天連(ばてれん)と呼び、信長、秀吉の保護を得て 大きな広がりを見せました。しかしながら その後 キリシタン大名による 神道徒や仏教徒への迫害や、ポルトガル商人による日本人の人身売買などから 1587年 バテレン追放令が出され 布教活動への制限が始まります。更に江戸時代 1612年禁教令が出されて 教会の破壊と布教の禁止が発令されました。1637年の島原の乱がおこる事により 宗教団体が政治勢力となる事を恐れた幕府は 1639年 鎖国令を発布すると共に キリスト教徒の根絶やしに乗り出し、以後 信徒は地下にもぐり,潜伏キリシタンとして 信仰を守ることとなります。

 明治維新後 日本政府は欧米諸国からの強い抗議を受けて、1873年 キリスト教禁制を徹廃します。カトリック、プロテスタント、正教会は日本へ宣教師を派遣して 教会や伝道所を立てて宣教に努めます。又 社会実践として 学校(ミッションスクール)や病院を設立して 活動を行いました。正教会はロシアからの援助により 東京神田に 大聖堂・ニコライ堂を建設しました。しかしながら 総じて 日本政府の神道崇拝との間で十分な宣教活動が出来たとは言えませんでした。

 戦後 GHQの意向により存続した 日本基督教団、教団より訣別したプロテスタント各派、正教会、そして 異端とされる 未日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、エホバの証人などが活動して居ります。

   今回は以上です。

葬儀の習慣

 今回は葬儀に付いて書かせて頂きました。

 葬儀とは 仏教に於ける葬送儀礼の略で、一般的には葬儀式を指して居りますが、本来の意味では 故人さまのご臨終から、死後の喪に至るまでの、死者を葬り 悼む為の一連の祭儀・儀礼を指して居ります。

 葬儀は 人の死を弔うために行う祭儀であり、その様式は それを行う人たちの 死生観や宗教観が深く関っており、信ずる宗教の違いが そのまま様式の違いとなります。そして 葬儀は 故人さまの為だけでなく、残された方々の為に行われるという意味合いも強くあります。残された方々が 故人さまの死を その心の中でどの様に受け止め、位置付け、処理するか、これを援助するための儀式でもあります。従いまして 葬儀は 宗教が文明の中で体系立つ以前の旧石器時代から執り行われて来た宗教的行為であると言えます。約6万年前のネアンデルタール人も葬儀を行っていたと推定される報告がなされて居ります。

 日本に於ける葬儀の習慣では 通夜、葬儀、告別式、火葬、納骨と執り行われるのが一般的です。

通夜は古代日本の ”もがり” から発しており、葬儀の前夜祭の形態をとります。魔除けの為に 灯明や線香の火を絶やさぬ様、だれかが寝ずの番をします。但し 横浜市営の斎場では 消防署の指導により、夜間に火を焚く事は禁止されて居り、半通夜と呼ばれる形態で 夜間はご遺族にお帰り頂くケースが多くなりました。

葬儀・告別式は 宗教家の指導の下に執り行われます。告別式が終ると出棺となります、多くの参列者は ここで故人さまとお別れとなります。火葬場に向かう道と 帰り道は 同じ道を通らない という習慣がありますが、本来は 埋葬した死霊が 迷ってついて来れない様にと 昔 土葬が一般的であった時代の習慣が引継がれたものです。

葬儀終了後に 振り塩 と呼ばれる清めの塩を撒く習慣が有りますが、これは 神道古来の習慣が仏教の葬儀に融合したと考えられます。死を穢れとは考えない仏教では教義に反するとの意見も有ります。浄土真宗では当初より 清めの塩は使用しません。

   今回は以上です。

葬儀の様式Ⅱ

 今回は前回に続き葬儀の様式(仏教)に付いて書かせて頂きました。

 現在 日本に於ける葬儀の90%以上は仏式で執り行われて居ります。これは 江戸時代に徳川幕府によれ施行された寺請制度に始まります。それ以前には 葬式組と呼ばれる村落共同体の一組織が葬式を取り仕切り、棺や葬具を作り、炊き出しなどを行って居りました。1635年頃から寺請制度が始まり、葬式は僧侶の指導により執り行われ、位牌、戒名、仏壇などが取り入れられ始めました。

 仏教の葬儀は 浄土真宗や日蓮宗を除き 葬儀は死者に対する 授戒成仏を主な目的として行われます。すなわち 死者を仏弟子となるべく発心した者とみなし、戒を授け 成仏させる為の儀式です。

 浄土真宗では 教えの上で 無戒のため授戒は無く、仏徳を讃嘆し、故人さまを偲んで報謝のまことを捧げる儀式となります。又 迷信を忌む教えから 日や方向に吉凶を選んだり、守り刀、逆さ屏風、左前の死に装束、北枕、六文銭の副葬、振り塩などの習俗は行いません。

 日蓮宗では 法華経を唱える事自体が 戒を保つことであるとして 死後の授戒は行いません。但し 寺院によっては 通夜の時に授戒作法を行うケースもあります。

 仏教の葬儀に一般的な流れは まず 死後すぐに枕経を行い、ご遺体を湯灌した後に納棺して通夜を行います。翌日に葬儀と告別式を行い、ご火葬・拾骨 又は土葬となります。現在の横浜では 葬儀会場は葬斎場で営むケースが多く 又 会葬者が度々集う事が難しい事も有り、初七日を告別式に続けて行う事が一般的となり、お斎の席も ご火葬の待ち時間を利用して営む様に成りました。 

   今回は以上です。

葬儀の様式Ⅲ

 今回は葬儀の様式(キリスト教)に付いて書かせて頂きました。

 キリスト教に於いて 信者の死は 天に昇り神の下で永遠の命を得、復活への希望を待つ事とされます。従いまして キリスト教の葬儀は 故人さまのご逝去を悼む事は勿論ですが、残された方々の為に祈る事を主な目的とします。

 カトリック教会に於ける葬儀は 第二バチカン公会議で決められた文書の一つである 典礼憲章の第81条 ”葬儀はキリスト信者の死の過ぎ越しの性格をより明らかに表現し、典礼色を含めて各地方の状況と伝統により良く適応したものでなければならない” を基に作成された カトリック教会の儀典書”葬儀”(1969年発表)により執り行われます。キリスト信者の過ぎ越しの性格を表現するもの との宣言から 死は信者にとって完全な終わりではなく、永遠の命と復活への希望に入るものとして 帰天とも呼ばれて居ります。又 カトリックの葬儀は 全世界一律ではなく 地域の文化と融合されて居り、日本に於いても 通夜、葬儀の流れで行われ、他国では無い 献花や 場合によっては焼香が行われることも有ります。

 通夜では 聖書の朗読、聖歌、死者の為の祈り、柩への献香、参列者による献花 又は焼香、遺族代表挨拶 などが行われます。通夜は教会では無く、自宅で行う行うケースも多く有ります。

 葬儀は 教会で 葬儀ミサとして行われるのが一般的です、聖書朗読、聖歌、祈り、説教が行われ、その後 告別式として 故人の紹介、弔辞、弔電の紹介、献花、遺族代表挨拶が行われます。尚 ミサ以外の司会は 信徒が行う事も可能です。

 プロテスタントに於いても 人の死は忌むものではなく、人の霊が地上の肉体を離れ、天にいる神とイエス・キリストのところえ召される事で有り、イエス・キリストの再臨に合わせて復活する為の準備に過ぎないとされ、地上に残されたご遺族の寂しさは慰められるべきであるが、故人さまの逝去そのものは悲しむべき事ではないとされます。

プロテスタントの葬儀は 本来 葬儀・埋葬礼拝の一日のみですが、日本に於いては 仏式に合わせ 前夜式と葬儀・告別式の二日間で行うのが一般的です。前夜式は自宅で、葬儀は教会で行うケースが多く見られます。葬儀の礼拝は 祈祷、聖書朗読、説教、賛美歌、祝福などが行われ、その後 追悼の辞、遺族挨拶、献花、牧師の説教などが加えられます。日本では キリスト教徒の比率が低く、参列者はもとより ご遺族すらもキリスト教徒で有る事が期待できない為、宗教的純潔主義よりも 地域の習俗を重んじる方々への配慮が優先されます。

 キリスト教の葬儀では 六曜(友引)を避ける必要は有りませんが、一般的に友引の日は火葬場が休業の為、避けざる得ないのが実情です。

   今回は以上です。

日本古代の葬儀観

 今回は日本古来の葬儀観について書かせて頂きました。

 日本に於ける古代の葬儀観としましては まず 死者を一定の期間 生きている者と同様の扱いしている事、そして 死は穢れたものであり、死の世界や死霊に対する恐怖が示されて居ります。

 前回 書かせて頂きました もがりの期間では 死者を丁重に扱い、蘇りを祈念して 食事を供する等、生きている者と同様の扱いをして居ります。古代では 現代と違い 死を明確に判定する事が出来ませんでした、従いまして 人が死んだ事を納得する為には、ご遺体の腐敗や白骨化の確認する為に一定の期間が必要とされました。現代でも 医師が死亡の判定をした後でも、24時間は火葬にお付せする事は 伝染病で亡くなられたケースを除き 法律で禁止されて居ります。現代では 死の判定は特定時点で行われますが、古代では 死の判定の為に一定の期間が必要とされた訳です。その意味では もがりの期間は 生と死の境界線の期間といえます。

 古代では 死は穢れたものであり、死霊は生きている者を死の世界へ引きずり込む恐ろしいものと考えられて居りました。古事記の中にも 黄泉の国(よみのくに)の記述があり 汚い世界として描かれて居ります。もがりの期間に 歌舞を行うのは 死霊は荒ぶるものであり、生きている者に厄災を及ぼしかねないとの考えから、その霊を鎮める為でありました。古代の葬儀観には 死者を大切に扱う考えと 死を穢れた恐ろしいものとの考えが併存して居りました。死霊への恐怖は古くから有り、縄文時代に見られる 腕や膝を折り曲げた屈葬や、遺体の上に石を置いた抱石葬は 死霊を恐れて自由にさせない為の方法と考えられて居ります。

  今回は以上です。

薄葬令

 今回は薄葬令に付いて書かせて頂きました。

 薄葬令は 646年 大化の改新の中で発令された 墳墓の規模や副葬品などを制限した勅令です。大和朝廷が中央集権国家へと変貌して行く過程で 全ての土地と人民は天皇に帰属するとした 公地公民制を推進し、地方豪族を抑える為の施策の一つでした。

 石器時代、弥生時代、古墳時代と 権力者の陵墓は時代と共により大きな形(厚葬)へと変化して行きます。その様な中、大和朝廷は 中国の故事に習い、民衆の負担・犠牲を軽減する為として、身分に応じて 作ってよい陵墓の大きさを制限し、身分別の葬制秩序を定めました。その要旨は;

 1 必要以上に大きな墓を作る事は 民の貧窮を招くと警告し。

 2 死者の身分により、墓を作る夫役の延べ人数の上限を定め。

 3 出来れば遺体は一定の墓地に集めて埋葬する様。

 4 もがり や殉死、宝物を副葬品とする事を禁ずる。

となり 墳墓は小型簡素化されて、古墳時代は事実上終わりを告げました。

例えば 持統天皇は703年に崩御し、その葬儀は薄葬でした、天皇として始めて火葬され、独自の陵を持たず、夫の天武天皇の陵に合葬されました。又 この薄葬令をもとに もがり だけではなく、しのびごと(故人の遺徳を讃える儀式)、挙哀(きょあい 悲嘆の気持ちを表わし 礼拝する事)、などの儀礼も姿を消して行きました。

 一方 庶民の間では如何かと言うと、薄葬令では 色々な場所に埋葬せず、場所を定めて埋葬する様 と有りますが、実際には 死体遺棄に近い形で葬られたと考えられます。山の麓や川原等に捨てられる事も珍しい事ではなかったと思われます。今昔物語でも 平安京の正門である 羅生門の二階に遺体が遺棄された様子を伝えて居ります。

   今回は以上です。

日本の御霊信仰

 今回は御霊信仰(ごりょうしんこう)に付いて書かせて頂きました。

 御霊信仰とは 奈良時代末期より盛んになった日本の信仰で、人々を脅かす様な天災や疫病の発生は 恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の怨霊のしわざと考え、これを鎮めて御霊とすることにより 祟りを免れ、平和と繁栄を祈願する事です。平安京への遷都(794年)は 皇太子の地位を廃され憤死した早良親王の怨霊が 新皇太子の病気を引き起こしたとの占いにより、行われました。

 日本に於いて 霊の考えは古くから有りました。人が死ぬと 魂が霊として肉体から離れるという考え方です。縄文時代に見られる屈葬は この考え方の一つとされます。そして この霊が 人々に様々な災いをもたらすという考えが拡大し、政治的 失脚者や、戦乱での敗者などの霊が その相手や敵に災いをもたらすとなり、平安時代の陰陽師の活動と共に御霊信仰と成りました。非業の死を遂げた人の霊は亡霊となり世に災いを成すが、この亡霊を復位させたり、官位を贈り、その霊を鎮魂し、神として祀れば、亡霊は御霊となり 鎮護の神として平穏を与えるとされます。

 記録されているもので最っとも古いものは 775年に子供と共に憤死させられた 井上内親王の祟りにより、その夫である光仁天皇や新しい皇太子が病に悩まされていると考えられ、その死の二年後 井上内親王の墓は改葬され 正式な御墓(天皇家の墓)とされました。御霊信仰をもとにした鎮魂の為の儀式として宮中では 御霊会が行われました。最初の確認出来る御霊会は 863年5月20日に行われました。この御霊会では 崇道天皇(早良内親王の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘逸勢、文屋宮田麻呂、監察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)の6人が祭られました。

   今回は以上です。

葬儀の次第

 今回は葬儀の次第(流れ)に付いて書かせて頂きました。

 現在の日本に於ける 葬儀の全体的な次第は平安時代にその原型が作られ、江戸時代に 仏教儀礼の式次第が整えられたとされます。

 平安時代中期の天皇家葬儀では 危篤状態で 臨終作法として念仏(光明真言)が唱えられ、崩御の後には 陰陽師が呼ばれて 納棺・葬儀の日時や墓所の方角が占われて次第を決めました。この時代には すでに玉体は北枕で安置され、納棺に当っては 皇后・宮さま・しかるべき公卿の手により 事前に沐浴(湯灌)を行い、僧侶も加わって納棺が行われました。出棺の前には僧正による呪願(じゅがん)がなされ、輿に柩が載せられ、葬列を組んで、通常の門を使わず 築垣を壊して道に出、御竈所(みかまどころ、火葬場)へ向かいました。御竈所では ご火葬の前に 導師により呪願が行われ、僧侶立会いの下に荼毘に付されます。夜を通して荼毘が行われ 翌朝 皆でお骨を拾い 白壺に収めて 僧正の光明真言の念誦を受けます。お骨壺は 菩提寺に作られた三昧堂に安置され、七七日の法要、祥月命日の法要、一周忌の法要が行われて、葬送儀礼が終了しました。以上のごとく 日本の葬送習俗の原型はこの時代に出来上がったと考えられて居ります。この原型を基に庶民を含めた仏教の葬送儀礼が江戸時代に整えられました。

 光明真言は ”おん あばきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらぼりたや うん” で これを108回唱えます。死者の贖罪に力があるとされ、この真言により加持された砂を遺体にかけると 仏の光明に包まれ、極楽往生出来ると信仰される密教の修法です。なお 罪が許されると ご遺体は柔らかくなり 納棺しやすく成ると信じられても居りました。

 呪願とは 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生する事を祈願するものです。当時は 阿弥陀護摩と呼ばれる護摩焚きも行われて居りましたが、これは死者の減罪に力があると信じられて居りました。

   今回は以上です。

神道の軌跡

 今回は神道について書かせて頂きました。

 神道(しんとう、かんながらのみち)は 日本古来の宗教で、自然や自然現象を敬い、その中に八百万の神を見出す、日本独特の多神教です。全ての自然の中に神が存在し、神と人間を取り結ぶ作法が祭祀であり、祭祀を行う場所が神社という聖域です。現在の 神道として体系や儀礼を作り上げるのに貢献した人物は 吉田兼倶(1434-1511)です。

 吉田兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 神道を体系化して、神道が儒教や仏教の宗主であり、万法の根底であると理論付けました。古代日本に起源をたどる事が出来る神道は 日本の伝統的な民俗信仰や自然信仰を基盤として居り、日本の国家形成に影響を与えた宗教でも有ります。そして 宗教名は他の宗教とは異なり 神教とは言わず 神道と呼びます。神道には 確定した教祖や創始者は居らず、経典や聖書の様な明確な聖典も有りません。吉田兼倶による体系化に当っては 古事記・日本書紀・古語拾遣・宣命などの 神典とされる古典を規範として作られました。尚 富士山の世界遺産登録に当っては 富士山に対する山岳信仰が登録決定の大きな要素と成りました。

 神道は 奈良時代以降 江戸時代までの間 仏教信仰に吸収されて来ました(神仏習合)。しかしながら 明治政府は 天皇を中心とした 国民・国家統合を図る為、神仏分離を行い、水戸学やそれまでの国体神学を基にした 国家神道を作り上げました。そして 全国各地の氏神を祀った神社に 皇統神を合祀し、国家による組織化を進めました。

   今回は以上です。

神道の神葬祭

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

   今回は以上です。

神道の神葬祭Ⅱ

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

   今回は以上です。

火葬の歴史

 今回は火葬について書かせて頂きました。

 火葬とは ご遺体を焼却する事ですが、仏式では 火葬前の読経・焼香から 焼骨を骨壺に納める 収骨までも 葬儀式の一部であると言う考え方も有ります。又 ご遺体の安定化、減容化処理の手段の一つとも言えます。世界的には 火葬は必ずしも主流とは言えませんが、日本に於いてはほぼ100%でご火葬の上、納骨 或いは埋葬されて居ります。

 日本に於ける火葬の歴史は古く、確認された火葬としては6世紀後半のものが有り、現在 検証中の遺跡としては 長崎県大村市の竹松遺跡(弥生時代後期、2世紀ころ)などが有ります。しかしながら 火葬は仏教の伝来と共に伝わったとされる説が有力で、最初に火葬された人物は 僧道昭(700年)であり、最初の天皇は 持統天皇(702年)とされます。その後 火葬の習慣は上級役人、公家、そして武士社会へと広がって行きます。とは言え 儒教の教えでは 体を傷付ける事は大罪であり、火葬もその一つと考えられ、又 火葬の為の燃料代も高額であったことから 火葬率はそれ程高くは有りませんでした。仏教が準国教とされた江戸時代でも 2割前後の火葬率と想定されます、棺桶を使った土葬が主流でした。明治時代に入り国教は神道に変わり 天皇家を必頭に土葬へと変化しますが、都市部では 土葬の為の土地確保の困難さ、火葬技術の進歩、衛生管理上の問題などから、徐々に火葬率は上昇し、現在ではほぼ100%となって居ります。そして 火葬された最後の天皇は 1617年に崩御された後陽成天皇で、以降 陵を設けて土葬ががされて参りました。今上天皇は 繁多な陵墓設営などを憂慮し、皇后・皇族の了解を得て、崩御の際は火葬を希望され、2013年11月火葬の正式発表がされました。

   今回は以上です。

火葬の歴史2

 今回は前回に続いて火葬について書かせて頂きました。

 現代の日本では ご遺体の処置はご火葬が一般的となって居りますが、その理由としては 公衆衛生上の観点、埋葬する際の場所の問題、宗教上の観点等が考えられます。又 ご火葬に際しては 法律上の規制も御座いますので注意が必要となります。

 現代の日本に於きましては 火葬を忌避する宗教を信仰する方(外国人を含む)、根強い土葬習慣を維持している特定地域の住民の方々、大規模な災害により火葬場が使用出来ない 等のケースを除いて、ほぼ100%のご遺体が火葬に付されます。その理由としては以下の事が考えられます;

1 公衆衛生上の観点から土葬よりも衛生的である。土葬の場合 ご遺体の腐敗は土中の微生物により進捗します、埋葬後 長期間にに渡って周辺地に腐敗菌が残存する為、衛生上 広域な土地が必要となります。

2 仏教では 仏陀は火葬に付された故事にならって、火葬が尊ばれて居ります。特に 浄土真宗では火葬を強く推進して来ました。ちなみに 日本で最初の 近代的火葬場は 1878年(明治11年)に京都に建設された 両本願寺火葬場(現在の京都市中央斎場)とされますが、浄土真宗の東・西の本願寺により建てられました。

3 都市部では 人口集中のため 条例により土葬が禁止されたり、許可された条件を満たす墓地を確保する事が困難である。

4 宗教への拘りが薄れ、埋葬の方法にも拘りが無くなり、又 墓を家単位で考えると 同じ墓石の中にご遺骨を納めるには火葬が必要となり、火葬は世間的にも認知された処理方法と成りました。

 日本では ”墓地・埋葬に関する法律” があり、その規定によれば

1 死体(もしくは妊娠7ヶ月以上の胎児)は 死後(もしくは死産後)24時間以内は 火葬してはならない とされて居ります。但し 一類から三類までの感染症や新型インフレンザ等の感染症の場合はこの限りではない。

2 火葬を行う場合は 死亡届を提出した 市区町村長の許可が必要となります。

  許可を受けずに火葬をした場合は 墓地・埋葬に関する法律違反と共に、死体遺棄・死体損壊罪に問われる可能性が有ります。

なお 墓地・埋葬に関する法律では、土葬等 火葬以外の埋葬方法を禁じては居りませんが、各地方自治体は 環境衛生面等から 火葬を奨励し、東京・大阪・横浜などの大都市では条例で土葬を禁止して居ります。

    今回は以上です。

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 現代の葬儀様式のルーツは明治時代にあると言われます。江戸時代に 葬儀は 士農工商の身分制度を基に、身分ごとに葬儀基準が示され、葬儀の簡素化が奨励されて居りましたが、明治時代に入ると 身分制度が取り払われ、大都市を中心に 大きく変化して行きます。大掛りな日中の葬列、白木の輿と寝棺の増加、葬列を飾る葬具の出現、大掛りな粗供養等です。

 江戸時代までは ご遺体の移送は夜間にひっそりと葬列を組むのが習慣でしたが、明治に入ると 台頭してきた商人層を中心に 家を誇示する為の大きな葬列を、日中に組む様に成ります。なかには その役割を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。

 葬列の大規模化と共に 従来 使用されていた座棺は寝棺へと変化し、寝棺を運ぶ為の白木の輿が出来、多くの人で運ぶ様に成ります。そして 白木の輿には色々な装飾がされました。現代の宮型霊柩車は この装飾された白木の輿を原型として居ります。ただし 庶民の間では 長い間 座棺が使用され、それを 駕籠や 装飾した人力車などで運ぶかたちが第二次世界大戦終了まで続きます。

 大きな 葬列を飾る為の 野道具(葬具)もきらびやかな形に成りました。金連、銀蓮、生花や造花を挿した花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥籠、位牌を運ぶ位牌輿、輿も 寝棺用、座棺用、遺骨用などが作られました。近代的な葬具の始まりと言えます。

 そして 粗供養が大型化します。葬儀に 地域の人々に食事を振舞うという習慣は江戸時代でも行われて居りました。又 葬列の出発に当たり 花籠に菓子や小銭を入れて、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言う様な事が 粗供養の起源と考えられますが、明治に入り大型化しました。

 明治18年に行われた 三菱の創設者 岩崎弥太郎氏の葬儀は 神葬祭で行われ、会葬者3万人、用意した料理は和洋食合わせて6万人分、葬儀に雇った人員は7万人と言われて居ります。

    今回は以上です。

現代の葬儀

 今回は第二次世界大戦終了後、現代までの葬儀に付いて書かせて頂きました。

 日本では 敗戦とともに物資の不足、高度のインフレにより国民生活は混乱しましたが、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気をはじめとして、日本の戦後復興が始まります。葬儀も昭和28年ころより 告別式を中心とした葬儀式が行われる様に成り、祭壇・棺や各種の葬具が開発・製造され、祭壇を中心とした葬儀が一般的となって行きました。この流れとともに 地域特有の葬具は徐々に姿を消し、全国的に標準化が図られる様に成ります。

 そして 人口の大都市集中、核家族が進みます。それでも この時代には地区共同体としての葬儀が多く見られました。葬儀の取り仕切りは 町内会や、団地の自治会が中心となり、団地の集会所で執り行われる葬儀も多く見られました。又 家族・親戚が色々な地域から集まらねば成らなくなり、葬儀は通夜と葬儀式を中心とした2日間に集中するように成ります。告別式も葬儀式と同時に行い、会葬者への迷惑を考慮して 時間も一時間以内で終了する様になります。現在の横浜市内では 葬儀式・告別式・初七日法要・故人様との最後のお別れまでを一時間で執り行う形が 一般的と成って居ります。

 現代では 少子高齢化が進捗し、お仕事を引退されてから そこそこの時間が過ぎた方の葬儀では 社会への告知と言う目的はより薄れ、近親の方のみで静かにお見送りする 葬儀が多くなりました。密葬 あるいは家族葬と言われる形です。会葬者の方も限定される事から 大規模な五段の祭壇などは姿を消しつつ有り、お見送るする御家族のご希望に沿った祭壇、式次第などが主流になりつつ有ります。

   今回は以上です。

斎場とは

 今回は斎場に付いて書かせて頂きました。

 斎場とは 神道の用語で 神道に於ける祭祀や儀式を行う場所の事を指します。神社内に常設された式場や、必要に応じて 屋外に仮設された 祭祀・儀式を行う為の式場も指します。又 神道では葬儀は死穢を嫌う事から 神社内では行わず、自宅或いは個別の式場に神官が出向いて執り行いますが、この場所も斎場と呼ばれます。しかしながら 現代の日本に於いては葬儀を行える施設を指す様に成りました。

 従来の葬儀は ご自宅で行うのが一般的でしたが、昨今の住宅事情や 車社会の進展、式場環境の快適化などの要望を基に、葬儀専用の式場が求められる様に成り、全国に大小 多くの葬儀会館(斎場)が作られました。民間の斎場、寺院の斎場、公営の斎場などです。更に 会葬者の利便性から、火葬場に隣接する斎場も多く見られます。これらの斎場は 式場だけでは無く 遺族控室、宗教家控室、会食室、通夜の為の仮眠設備、駐車場等を備えるのが一般的です。斎場によっては浴室を準備したところも御座います。

 横浜市内には多くの 民間・寺院・公営の斎場が御座いますが、火葬場は 民営1ヶ所、公営4カ所が有り、いずれも隣接して斎場が運営されて居ります。

 民営火葬場は 神奈川区に所在する西寺尾火葬場で、同一経営で斎場が隣接します。

 公営火葬場は4ヶ所で 何れも横浜市営の火葬場で、西区に所在する 横浜久保山斎場には 民営の斎場が隣接して居ります。他の3ヶ所は 緑区所在の横浜北部斎場、戸塚区所在の横浜戸塚斎場、金沢区所在の横浜南部斎場で 何れも横浜市営の斎場が隣接して居ります。

 尚 横浜市営の火葬場・斎場の利用料は 横浜市民にとり廉価で利用が可能となって居ります。

   今回は以上です。 

ターミナルケアとは

 今回はターミナルケアに付いて書かせて頂きました。

 ターミナルケアとは 終末期の人に対する医療、及び介護の事を指します。終末期の概念に 明確な定義は有りませんが、一般的には 老衰・病気・障害・損傷の進行により 死に至る事を回避するいかなる手段も無く、予想される余命が3ヶ月程度以内の状態を指します。ターミナルケアを専門に行う医療施設をホスピスと呼びます。それ以外の施設としては 緩和ケア病床、慢性期の医療病床、老人介護施設、障碍者介護施設等です。

 日本では 第二次世界大戦を経験した事により、人々は多くの死と直面せざるを得ませんでした、以後 死への忌避感が強くなり、死を語ることは社会的なタブーと成りました。しかし 戦後も遠くなり、高齢化が進むと伴に、その忌避感も緩和され、終末医療(ターミナルケア)への関心が高まります、そして 治療優先主義の医療に対する批判が出る様に成ります。病気や障害の最終治療に当っては 患者本人の生活を犠牲にするのではなく、患者の”生命の質”を尊重したケアが必要であると言う意見です。更には 死に方は 医師に決定権が有るのではなく、患者本人に決定権が有るべきでである とする 死の自己決定権が主張される様に成りました。医療情報の本人への開示(ガンの本人告知)、治療方法に対する患者本人の同意取り付け等です。そして 死後の自己決定権が提唱され、葬儀の次第やお墓の形式なども 本人のご意向が尊重される様になって参りました。

 ホスピス(hospice)の語源は 聖地への巡礼者を 小さな巡礼教会が宿泊させた事に始まります。ホスピスと言うと感覚的に高額の施設と考えがちですが、現在では 健康保険や介護保険が適用出来る、大型から小型の施設も数多く運営される様になって居ります。又 患者や家族のご希望に合わせ、訪問医療や訪問介護による在宅での ターミナルケアも多くなって参りました。

   今回は以上です。

墓地

 今回は墓地に付いて書かせて頂きました。

 墓地とは 亡くなった方のご遺体やご遺骨を埋葬する場所をさします。古くは然るべき立場の人の葬祭を行う場所、或いは火葬を行う場所が墓地と成りました。一般民衆の間では 村落が出来始めた頃より 村の共同墓地が作られる様に成ります。そして 仏教の民衆への浸透とともに 村洛の寺院が共同墓地を管理する様に成ります。又 農民の地位向上と共に 自作農家は所有する土地の一部に自家の墓地を設ける様に成りました。

 現代では墓地も変化の中にあります。1960年以降 人口の都市集中、核家族化などから 都市部での墓地需要は増大し、公営霊園だけでは無く民間の霊苑開発も盛んに行われる様に成ります。その決果 地方の寺院墓地は過疎化の影響を受けて 無縁化が進む様に成りました。明治時代後半以降の ”家墓” 形態は 核家族化、少子化の進捗により、その継承に問題が生じ、無縁化が問題と成るように成りました。その為 男子継承を原則とした墓地運営規則も 見直される様になりました。そして 継承が無くても永代供養をしてくれる 永代供養墓、有期限墓地、集合墓等 多彩な墓が登場する様になって居ります。

 横浜市内の公営墓地としては 西区の久保山墓地・久保山霊堂、神奈川区の三ツ沢墓地、港南区の日野公園墓地、中区の根岸外国人墓地、戸塚区のメモリアルグリーンが御座います。墓地の永代使用権購入は例年、11月に募集が行われており、集合墓の利用に付いては随時、申し込みを受け付けて居ります。

 尚 墓地を意味する 英語のCemeteryは ギリシャ語の”眠る場所”を語源として居ります。

   今回は以上です。

グリーフケアとは

 今回はグリーフケアに付いて書かせて頂きました。

 グリーフケアとは 死別の悲嘆に対する介護の事で、大切な方を亡くされたご遺族は、故人様との別れのつらさや、環境の急激な変化に戸惑い、御自身の心は傷ついています。この傷を癒す為のケアを意味します。納得の行く ご葬儀の施行は グリーフケアの一つでも有ります。

 身近な方の死別を経験されると 自然に故人様を思い慕う気持ちと、その方を喪失した気持ちを中心に湧き起る 感情・情緒に心は占有されます。そして その一方では この窮状から脱却しようと努力を試みます。この 相反する 二つの感情は共存して揺れ動き お心は不安定な状態となります。同時に 身体上も不愉快な反応・違和感を経験します。この時期には 死者とは、死とは、自分とは何か、等の問いかけも行います。この状態をグリーフと言い、この状態の人に さりげなく寄り添い、援助する事を ”グリーフケア” と言います。

 人間はひとたび生を受けると、死という宿命から逃れる事は出来ません。従い いずれは 愛する人の死に遭遇します。両親、配偶者、子供、兄弟姉妹 人生を共有して来た大事な人の死は 深い悲しみを生み、突然の死別などは大きな心の混乱を生み出します。この混乱を鎮めてくれるのが、葬儀の施行であり、体験を共有する家族との触れ合いであり、地域社会からの思い遣りでした。しかしながら 核家族化・少子高齢化の進行は 悲嘆をより大きく、家族や地域社会からの援助をより難しくして居り、グリーフケアが必要な社会へと成りつつ有ります。

 死別経験者が受ける 感情の苦痛期間は 人生危機の時期とも言えますが、キチンとした対処が成されるならば、発想や生き方を変え得るようなパラダイムシフトに繋がるエネルギーを秘めた大切な時期でも有ります。グリーフが 苦境はチャンスだったと言えれば良いのですが。

 尚 横浜市内には 磯子区に ”スノードロップスの会”、神奈川区に お子様を無くされた方を対象とした ”天使のブティク” などのグリーフケア団体が御座います。

   今回は以上です。

死の判定

 今回は死の判定に付いて書かせて頂きました。

 死の判定は 現在の日本の法律に於いては 医師のみが判定する事を許されて居りますが、古くは 宗教、哲学、神学などで 死の判定や定義を扱って居り、その地域、文化、時代、分野などにより様々な解釈が存在しました。死とは 命が亡くなる事、生命が亡くなる事、生命が存在しない状態等と定義されますが、はっきりとした尺度、基準を示すものでは有りません。

 人間の死亡の判定には 様々な解釈があり、文化的伝統、人の心情、医療、法制度、論理的観点など 複雑に関連しあって必ずしも明解では有りませんが、色々な観点での見解は以下の様に考えられます。

 息が止まる事

  古くから命は呼吸と強く結び付けられて考えられて居りました。従い 息が止まった状態を死と考えました。

 全身のさまざまな変化

  従来は 爪や髪が伸びている間は まだ生きていると考える人が多く居られました。

 三兆候

  医療に於ける死の三兆候で、脳死による臓器移植の問題が出るまでの基本形です。

   自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔が開く。

 バイタルサイン

  現在の一般的な判断基準です。

  心拍数、呼吸数、血圧、体温の状態を確認し、バイタルサインによる生命のしるしがなくなった時点で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合は死亡と判断します。

 生と死の境目は 必ずしも明確では有りません、考え方により大きく違います。しかしながら 社会生活を円滑に営む為には 法律により その境目を明確化せざるを得ませんでした。それが 医師による判断であり、死亡診断書に記載された死亡時刻が その方の死の瞬間と成りました。

 又 現在の医療の現場では臓器移植と言う治療法が開発され、移植の為の臓器をより新鮮な状態で得る為に脳死という概念が作られ、臓器移植法により運用されて居ります。ただし 同法では ”脳死状態の患者から臓器を移植してもよい” と書かれて居りますが、脳死は死であると規定しては居りません。

   今回は以上です。

脳死とは

 今回は脳死について書かせて頂きました。

 脳死とは 腦の全ての機能が回復不可能な段階まで低下し、回復不能と認められる状態の事で、その判定は 脳死判定の経験を持つ 2名以上の医師により行います。判定は2回行われ、1回目の判定の後、6時間後に2回目の判定を行い、二回目の判定終了時刻が死亡時刻として死亡診断書に記載されます。尚 脳死の判断基準は国により定義が異なります。又 日本では 脳死を 個体死とする旨 法律には明記されて居りません。

 人の死の判断は 古くは 息を引き取り、体温が低下し、身体が硬直する というプロセスをふんで確認しました。近代では 三徴候説と呼ばれる 肺機能の停止(呼吸停止)、心臓機能の停止(脈拍停止)、脳機能の停止(対光反射の消失)により判断する様変化しました。そして 現代では 医療技術の発達により 腦の心肺機能を制御する能力が喪失しても、心肺機能を維持し続けることを可能とする人口呼吸器の開発です。ここに 腦機能が停止しても 心肺機能は維持できるという状態が作り出されました。他方 生体移植技術の進歩とともに、臓器移植でのみ救済が可能な患者への光明を開く事とも成りました。

 日本に於ける 法的な脳死の定義は ”臓器の移植に関する法律”により規定されて居ります。脳死判定は 臓器提供を前提とした場合にのみ行われます。従いまして その実施に当っては 本人 及び家族の臓器提供同意が基本となります。日本では腦の機能を完全に解析出来て居る訳では有りません、又 脳死という新しい観念を受入れる為には 多くの議論がなされた事はご承知の通りです。

   今回は以上です。 

逆さごととは

 今回は逆さごとに付いて書かせて頂きました。

 逆さごととは 私どもが生活する現世(娑婆)と死後の世界はあべこべになっているという習俗を前提とした 葬儀に於けれ日本の風習で、逆さ屏風、逆さ水、逆さ足袋、逆さ着物、左前等があります。又 現世が昼の時は 来世は夜間である という習俗は世界の多くの民族で信じられて居りました。

 現代の日本に於いては 葬儀・ご火葬は昼間に執り行われますが、古くは夜間に行われて居りました。これは 死者が来世に到着する際は 明るいときが良いとの考えから、現世が夜の間にお見送りをすべきであると考えたことによります。

 逆さ屏風とは 安置したご遺体の枕元、あるいは周囲を上下を逆にした屏風で囲む風習で、屏風をめぐらす事により ご遺体を悪霊から守る、もしくは 故人さまの死霊が他の人々に及ばぬ様に などの意味があり、死後の世界は日常の世界とは逆であることから 上下を逆にします。

 逆さ水とは 湯灌を行う際はぬるま湯でご遺体をお清めしますが、ぬるま湯は お湯に水を注ぐのではなく、水にお湯を注いで作ります。

 逆さ足袋とは ご納棺の前にご遺体の服装を整えますが、足袋は左右 逆におはかせします。おはかせするのが難しい場合は ご納棺後に足元に置かれるのが良いでしょう。

 逆さ着物は 故人さまの衣裳を逆さまにして ご遺体にかける事で、洋服の裾を顔の方に、襟を足元のほうにして掛けるので逆さ着物と言います。但し 仏衣をお着せする場合は 逆さ着物にはせず、通常の通りお着せしますが、襟元は通常の右前では無く、左前で合わせます。

 そして ひもの結びは通常の横結びではなく、縦結びとします。

   今回は以上です。   

ご遺体を安置する

 今回はご遺体の安置に付いて書かせて頂きました。

 御家族が亡くなられ、ご遺体をご自宅に安置される場合 まず 神棚を白紙で覆い、お布団を敷いてご遺体を北枕に安置し、ご遺体保全の為のドライアイスをお当てします。神式であれば 枕元に白木でできた八脚の台(案とも言います)をそなえ、その上に燭台と榊を生けた花瓶を置き、白木の三宝にのせた 洗米・塩・水・お神酒をお供えします。仏式であれば 同じく枕元に白木の小机を用意し、三具足を配置し枕飯・枕団子をお供えします。但し浄土真宗では枕飯・枕団子を用いません。キリスト教では特別 お飾りをする習慣は有りません。

 神道では 死は穢れであり、死穢(しえ)が神棚に及ばぬ様、神棚を白紙(半紙)で覆います。又 この作業は 忌みがかかっていない他人にお願いすべきとされます。この白紙は忌明け後に取り除きます。

 ご遺体の枕元やご遺体の上に守り刀を置く習慣がありますが、これには 魔除けや死霊の鎮魂のため、死者の魂が持ち去られる事を防ぐ為、死霊を封じ込める為、など様々な言い伝えが有ります。ご遺体の上に置く場合は 刃先を足に向けて置きます。但し地域により異なる場合が御座います。又 浄土真宗では使用しません。

 ご遺体を悪霊から守る為、あるいは 故人の死霊が周囲に及ばぬ為、ご遺体の周囲を屏風で囲む習慣も有ります。この屏風は 死後の世界と日常の世界は逆になっている との考えから、上下を逆にした 逆さ屏風の形で引き回します。

 ご遺体の枕元に置かれる白木の小机と、その上に置かれるお道具は 枕飾りと呼ばれます。小机のうえには まず三具足を備えます。香炉を中心に 右に燭台(火立て)を備え灯明を灯します、左に花瓶(花立て)を備え 樒(しきみ)を1本 又は菊を1輪 生けます。この他に 鈴(りん)、枕飯(山盛りにご飯を盛った茶碗に2本の箸を垂直に挿したもの)、枕団子(お皿に半紙を敷き その上に小さな白い御団子を6っ 盛ります)、浄水、故人様が好まれた物 などをお供えします。

枕飯や枕団子は死出の旅の食料とされます、従いまして 死出の旅を説かない浄土真宗ではお供えしません。

   今回は以上です。

葬儀と告別式

 今回は葬儀と告別式に付いて書かせて頂きました。

 現代では 葬儀式と告別式は一体と理解される事がしばしばで、色々な制約条件から45分の間で 葬儀式と告別式を行うことが一般的となり、その違いが判然としなくなって居ります。本来 葬儀式は 故人様をこの世から あの世に引き渡す 宗教的儀礼であり、ご遺族・ご親族が宗教家を中心として執り行われます、それに対し 告別式は 知人・友人が故人様に別れを告げ ご遺族・ご親族に慰めの言葉を寄せる社会的儀礼であり、喪主様を中心として執り行われます。 

 葬儀式は 人の死を弔う為に執り行われる祭儀の一部で 宗教が文明の中で発生する以前の旧石器時代から行われてきた宗教的行為です。葬儀の様式は それを執り行う人の 死生観・宗教観を前提として居り、宗教の違いが そのまま 葬儀様式の違いとなります。又 葬儀は 亡くなられた故人様の為だけでなく 残された者の為にもあります。残された人々が故人様の逝去をどのように心の中で受け止め、位置付け、そして処理をするか、これらに対する手助けをする儀式でも御座います。尚 参列の際の服装は 喪服 もしくは 喪服に準ずる黒を基調とした服装を着用します。

 告別式は 葬儀式の後 あるいは葬儀式の代りに行われる式で、喪主様が中心となり 故人様のご逝去を社会に告知し 多くの方々が故人様に別れを告げる儀式であります。従いまして 故人様の死を悼む方であれば 誰でも参列して良い式であります。行われる内容と致しましては 弔辞の朗読、弔歌の斉唱、弔電の披露、参列者による故人様への告別(焼香、献花など)などを執り行います。参列の際の服装は 喪服 もしくは喪服に準ずる服装を着用するのが慣例ですが、平服着用のおことわりがある場合は 喪服の着用は避けた方が良いでしょう。

 葬儀式・告別式 何れの場合も 華美な服装や 光り物と呼ばれる装身具の着用、派手な美粧はタブーとなります。

   今回は以上です。

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