葬儀作法の原型

 今回は葬儀作法(葬法)の原型に付いて書かせて頂きました。

 

 現代の仏教葬の原型は鎌倉時代に作り上げられたという説が一般的ですが、当時は龕堂と火葬場の二ヶ所で仏事が行われ、禅宗の葬儀として 湯灌・剃髪・三具足の祭壇・焼香・読経が成され、須弥壇の上に肖像画が飾られ、ご遺体を移動させたり ご遺体に対して所作を行う毎に仏事を重ねました。

 

 龕(がん)とは 柩 又は柩を納める容器の事で、龕堂とは柩を安置しておく堂を指します。お寺や自宅、或いは火葬を行う火屋に向かい合せて龕前堂が建てられました。この龕前堂で行う仏事が 現在の葬儀式に発展したと考えられます。横浜市営の斎場は久保山斎場を除き、龕堂と火葬場が対となった構造になって居ります。

 

 禅宗の葬儀の次第では ご遺体を湯灌し、剃髪し、清浄な新しい衣服に着替えさせ、龕に納めて 袈裟などで覆います。龕前に卓を置き 白打敷で覆い その上に花・香炉・燭台の三具足をならべ、更に故人愛用の道具をならべます。龕前の準備が整ったところで、一同が集まり仏事が行われます。導師は法語を唱え、焼香し、茶湯を献じ、読経 回向と続きます。龕を覆う袈裟は 現在の柩覆いであり、龕前の卓は 現在の枕飾りと考えられます。

 

 龕堂の設営に関して 龕を安置した部屋の周囲に白幕を張り巡らしました。そして 龕を閉じた後に 掛真(かしん)の儀式が行われます、これは須弥壇の上に 故人の肖像画を飾る儀式ですが、現在の遺影写真に繋がるものです。

 

 火葬の当日には出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、葬列を組んで火屋(火葬場)へ向かいます。火屋では 仏事を行った後に荼毘に付し、翌朝 火屋で拾骨をし、ご遺骨を寺 又は自宅に安置して 安位法事を行いました。禅宗では 本来 龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と ご遺体を動かしたり ご遺体への所作を行う毎に 仏事を重ねる事になって居りますが、次第に簡略化され、自宅と火屋での仏事のみとなって行きました。


    今回は以上です。

禅苑清規

 今回は禅苑清規に付いて書かせて頂きました。

 

 禅苑清規とは 禅苑は禅寺を指し、清規とは規範を現します、宋の時代に作成され 全10巻から成る禅宗 の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や 日常の行法などを記したものです。現在の仏教葬儀の原型は 鎌倉時代に 禅苑清規の中に書かれている、禅僧に対する葬送儀礼を元に出来上がったと言われて居ります。

 

 鎌倉時代は 貴族階級が没落し、武士が興隆して、民衆は厄災苦難に悩まされた時代でもありました。この様な背景のもとに 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場します。

禅宗の葬儀では 出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と 修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っに分かれておりました。尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心で、亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。この亡僧喪儀法に 浄土教や密教の念仏や往生祈願が取り入れられて発展し、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。

 

 在家の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として 剃髪し 戒名を授け、そして 引導を渡して成仏させます。これを 死後に僧侶にする事から ”没後作僧” とよばれます。現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。

 

   今回は以上です。

往生要集

 今回は往生要集に付いて書かせて頂きました。

 

 往生要集は 比叡山中 横川に隠遁していた 恵心僧都源信によって985年に書かれた、一部三巻からなる仏教書です。源信は 浄土教の観点から 多くの仏教経典や論書から、極楽往生に関する重要な文章を集めて、この書を起こしました。この書は 後の法然や親鸞に多くの影響を与え、浄土真宗各派では 正依の聖教とされて居り、葬祭はこの書を基に執り行われることとなります。

 

 その内容は;

巻上

 第一章 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説く。

 第二章 極楽浄土に生まれる十楽を説く。

 第三章 極楽往生の証拠を書く。

 第四章 浄土往生の道を明らかにする。

巻中

 第五章 念仏修行の方法論。

 第六章 臨終の念仏を説く。

巻下

 第七章 念仏を唱えることによる功徳。

 第八章 念仏を唱えることによる善業。

 第九章 念仏の包容性。

 第十章 何よりも優れているのが念仏であると説く。

であり、六道の苦しみを述べ、極楽浄土の素晴らしさを語り、死後に六道の苦しみから逃れ、極楽浄土で往生するには 一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はない と説きます。

念仏も 浄土宗では観想念仏から 専修念仏へ変化し そして 浄土真宗では 称仏念仏となります。この変化と共に その精神は 広く民衆にも普及し、庶民の葬祭は浄土宗の手にある様になります。

 

 尚 本書は撰述された直後に 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台宗国清寺に運ばれ、僧俗多数の尊信を受けました。又 唐末五代の混乱により散失した教法を復活させるための基とも成りました。

 

   今回は以上です。

 

二十五三昧会

 今回は二十五三昧会(にじゅうご ざんまいえ)について書かせて頂きました。

 

 二十五三昧会は 平安時代 986年に比叡山に於いて慶慈保胤(よししげ たねやす)や恵心僧都源信を中心とした25名の浄土教僧侶により結成され、毎月十五日に集まり 念仏三昧を行い、極楽往生を希求する念仏結社です。この結社で行われた作法は 臨終行儀として 現在の枕経の原型になったとされて居ります。

 

 二十五三昧会の起請文は;

1 毎月十五日に念仏三昧を修すること。

2 光明真言を誦して、土砂加持を修すること。

3 結衆は規律を厳守し、叛いた者は脱退させて、代りの者を補充すること。

4 別所に阿弥陀如来を奉安した往生院を建立し、病んだ結衆はそこに移すこと。

5 病んだ結衆を往生院に移したのちは、二人一組となり昼夜の別なく従い、一人は看病、他の一人は念仏を担当すること。

6 花台廟と名ずけた結衆の墓地を定めて、春秋二回、集まって念仏会を修すること。

7 ひたすら西方極楽浄土を念じ、極楽往生を念ずること。

8 結衆に欠員が出ても、残された結衆は修善によって、先に往生した結衆との縁を保たなければならないこと。

と決まりが述べられて居ります。

 

 毎月十五日に集まって念仏を唱え、同志に病人が出ると皆で看病をし、病が重くなると往生院へ移し、皆で励ましあって重篤な僧の心をやすめ、死去後にはご遺体に光明真言をもって 土砂加持をし、3日の内に墓所に卒塔婆を建てて葬りました。そして 同志の葬儀には必ず出席し、七七日(四十九日)までは七日ごとに集まって念仏を修し、春秋二回同志で集まり念仏を修し、過去帳に名前を記し、祥月命日にも供養するとあります。

 

 臨終に際しては 西方を向いた阿弥陀仏の前に病者を寝かせ、仏の右手に五色の糸を付け、病者の左手にその糸を結んで念仏を唱えながら寝入るように息を引き取ると極楽往生まちがえなし と言われました。こうした臨終の作法(臨終行儀)から 葬祭に於ける阿弥陀仏信仰が浸透して行くことになります。

 

   今回は以上です。

 

 

 

葬儀と聖

 今回は葬儀と聖(ひじり)について書かせて頂きました。

 

 日本に於ける聖とは 寺院を離れ 日本国内を回遊した仏教僧を指し、仏教を庶民の信仰とさせる原動力と成りました。その中で 葬儀を司り、火葬の技術も世に広めて行く事と成ります。その後 学徳の高い僧を聖と呼ぶ様に成り、親鸞は念仏聖であり、聖人(しょうにん)とも呼ばれました。又 鎌倉時代中期の一遍は諸国を遊行しながら念仏を広め 捨聖(すてひじり)と呼ばれました。

 

 奈良時代 僧侶になり出家する為には官度と呼ばれる、官の許可が必要でした。官の許可を得ず出家する事を私度と呼び、官は厳しく禁じて居りました。しかし後期に入ると 私度僧が多く現れ 庶民の間にも仏教が広まって行きます。その指導者を 菩薩や 聖と呼んで民衆から慕われます。この時代に聖集団の頂点に立ち 近畿を中心に数々の社会事業を成し遂げた 民間仏教の指導者が行基です。行基は 当初 朝廷より弾圧を受けますが、広く仏法の教えを説くと共に、治水の為のため池・堀工事、架橋、困窮者の為の布施屋 設立等の社会活動が民衆の圧倒的支持を得て、朝廷もこれを認め、奈良の大仏 建立の実質的責任者として招聘され、大僧正(最高位の位、行基は日本で最初の大僧正)の位が与えられます。

 

 行基集団は 死者の弔いにも従事し、火葬や墓地の開創にも力をつくしました。火葬の技術を開創したのは 行基の法弟であった 志阿弥法師と言われて居りますが、志阿弥は架空の人物です。行基集団は 後に三昧聖として諸国を回遊しました。

 

 尚 仏教伝来以前の 民間信仰の司祭者をヒジリ(日知り)と呼び 太陽の司祭者を指していたと言われて居ります。

 

   今回は以上です。

葬儀の次第

 今回は葬儀の次第(流れ)に付いて書かせて頂きました。

 

 現在の日本に於ける 葬儀の全体的な次第は平安時代にその原型が作られ、江戸時代に 仏教儀礼の式次第が整えられたとされます。

 

 平安時代中期の天皇家葬儀では 危篤状態で 臨終作法として念仏(光明真言)が唱えられ、崩御の後には 陰陽師が呼ばれて 納棺・葬儀の日時や墓所の方角が占われて次第を決めました。この時代には すでに玉体は北枕で安置され、納棺に当っては 皇后・宮さま・しかるべき公卿の手により 事前に沐浴(湯灌)を行い、僧侶も加わって納棺が行われました。出棺の前には僧正による呪願(じゅがん)がなされ、輿に柩が載せられ、葬列を組んで、通常の門を使わず 築垣を壊して道に出、御竈所(みかまどころ、火葬場)へ向かいました。御竈所では ご火葬の前に 導師により呪願が行われ、僧侶立会いの下に荼毘に付されます。夜を通して荼毘が行われ 翌朝 皆でお骨を拾い 白壺に収めて 僧正の光明真言の念誦を受けます。お骨壺は 菩提寺に作られた三昧堂に安置され、七七日の法要、祥月命日の法要、一周忌の法要が行われて、葬送儀礼が終了しました。以上のごとく 日本の葬送習俗の原型はこの時代に出来上がったと考えられて居ります。この原型を基に庶民を含めた仏教の葬送儀礼が江戸時代に整えられました。

 

 光明真言は ”おん あばきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらぼりたや うん” で これを108回唱えます。死者の贖罪に力があるとされ、この真言により加持された砂を遺体にかけると 仏の光明に包まれ、極楽往生出来ると信仰される密教の修法です。なお 罪が許されると ご遺体は柔らかくなり 納棺しやすく成ると信じられても居りました。

 

 呪願とは 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生する事を祈願するものです。当時は 阿弥陀護摩と呼ばれる護摩焚きも行われて居りましたが、これは死者の減罪に力があると信じられて居りました。

 

   今回は以上です。

真言律宗

 今回は先日 葬儀のお手伝いをさせて頂きました、真言律宗に付いて書かせて頂きました。

 

 真言律宗は 空海を高祖と仰ぎ、奈良西大寺の興正菩薩叡尊(えいそん)を中興の祖とし、真言密教の宗義に基ずいて根本仏教の出家戒と金剛乗の修学を目的とする宗派です。総本山は西大寺(奈良市)、大本山として宝山寺(奈良県生駒市)があり、横浜市内には 別格本山として称名寺(金沢区)、鎌倉市には 由緒寺として 極楽寺などが有ります。

 

 鎌倉時代 叡尊は荒廃した既存仏教を批判し、律宗の覚盛とともに それまで国が定めた手続きでしか認められなかった出家戒の授戒を自らの手で独自に行いました(自誓授戒)。その後 西大寺、法華寺、般若寺などの再興を手掛け 朝廷の許可を得ずに独自の戒壇を設けました。そして 弟子の忍性により 民衆への布教が勧められ、一時は禅宗・浄土宗などと勢力をわける様になり、日蓮から 律国賊 との非難を受ける程に成りました。鎌倉幕府による 日蓮への処刑は 幕府への影響力を持つ忍性からの申し出によるものとされます。

当初は 真言宗 西大寺派 や律宗の新派とされて居りましたが、江戸時代前期に 浄厳により 真言律宗の名乗りを上げました。1872年(明治5年) 明治政府は 仏教諸宗派の整理を行い、真言律宗は真言宗に組み入れられました。その後 西大寺の努力により、明治25年真言宗からの独立が許され、真言律宗として再度独立しました。

 

 称名寺は 山号を金沢山(きんたくさん)と号し、真言律宗の別格本山として 金沢区金沢町に位置します。金沢山称名寺は 金沢北条氏の祖 北条実時が開基したとされ、1258年 実時が 居館内に建てた阿弥陀堂が その起源とされます。その後 鎌倉極楽寺の忍性の推薦により 下野薬師寺の僧 審海を招いて開山し、真言律宗の寺院と成りました。又 同じ居館内には 実時が収集した 政治・歴史・文学・仏教などに関わる書籍を収蔵した文庫が造られ、金澤文庫と呼ばれて居ります。現在は 神奈川県立の博物館兼図書館として中世の文化を表わす、貴重な役割を果たして居ります。

 

   今回は以上です。 

法華堂と三昧堂

 今回は法華堂と三昧堂に付いて書かせて頂きました。

 

 天台宗には 法華三昧や常行三昧と呼ばれる行があり、法華三昧を行う為に法華三昧堂が、常行三昧を行う為に常行三昧堂が建立されました。それが 後には 法華堂や三昧堂と呼ばれる様に変化し、法華堂には 明治維新以前の皇族や貴族の墓所として建てられた堂をさしたり、三昧堂は 墓所や葬場を意味する言葉として使われる様に変化しました。

 

 法華三昧は 天台宗の開祖最澄により日本に紹介されました。法華三昧は 法華懺法とも言われ、法華経を読経する事により、この身が清められ、罪障(極楽往生を妨げとなるもの)が消滅する と説かれています。尚 三昧は 心を一つの事に集中して余念を無くす事を意味します。法華三昧は 比叡山に於ける 天台宗の日常修行(朝題目、夕念仏)の一つですが、後に 三昧聖に法華経を唱えさせると死者の霊は清められ、贖罪がされ、地獄に堕ちる事は無い という信仰が広まり、葬儀で重んじられ、故人様の供養や菩提の為に用いられる様になります。

 

 常行三昧は 同じく天台宗の行の一つで 阿弥陀仏の名を唱えながら 仏の教えを悟り、往生を願うもので、法華三昧による贖罪と対になって信仰を集めました。又 常行三昧は 後の浄土教に道を開くものでもありました。この修行を行う所を 常行三昧堂、あるいは 阿弥陀仏堂とも呼ばれ、奥州平泉の中尊寺金色堂は この様式に従うものと言われて居ります。

 

 法華三昧、常行三昧の流行により 天皇家や貴族のご遺骨は 法華堂や三昧堂に収められる事が多くなり、寺院への納骨が一般化して行く事と成りました。

 

   今回は以上です。

火葬と仏教

 今回は火葬と仏教に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬とは 葬送の一手段として ご遺体を焼却する事ですが、従来は 白骨化は成仏の徴(しるし)とする 仏教の伝来と共に日本に伝わったとされて居りました。しかしながら 近年 長崎県大村市の竹松遺跡に於いて 火葬による埋葬と見られる人骨が発見され 2世紀には既に火葬が行われていたと推定されます。又 六世紀後半には火葬が行われていた事が九州で確認されて居ります。

 

 続日本紀によれば 日本で最初に火葬された人は 700年に火葬された 僧道昭であるとされます、又 最初にご火葬された天皇は 702年に火葬された持統天皇であり、その後は 天皇に倣って 公卿、上級役人、武士の間でも火葬が広まって行きました。天皇家、公家社会では明治維新まで 仏教葬、ご火葬が定着して居りました。

 

 持統天皇は 第41代の天皇で、実際に治世を遂行した女帝です。大宝2年12月22日(703年1月13日)に崩御され、その葬儀は仏教を意識して執り行われ、ご遺体は火葬されました。天皇家の葬儀では 素服(白の喪服を着用) と挙哀(ああ 悲しいかな と礼拝する事) が前提とされて居りましたが 天皇は 葬儀を大袈裟にせぬ様 遣詔(いしょう 遺言)を出され 葬儀は倹約をこととし、素服と挙哀は禁止されました。 25日には 朝廷の祈願所である四大寺で法会(設斎)が行われ、29日には西殿にもがりが設けられ、一月五日には初七日の設斎、二月十七日には 七七日(四十九日)として 四大寺を含む33寺院で設斎、四月二日には 御在所に 百ヶ日の斎が設けられ、一年間のもがり の後 ご火葬されて 夫君の天武天皇の陵墓に合葬されました。


   今回は以上です。 

御霊信仰

 今回は御霊信仰(ごりょうしんこう)に付いて書かせて頂きました。

 

 御霊信仰とは 奈良時代末期より盛んになった日本の信仰で、人々を脅かす様な天災や疫病の発生は 恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の怨霊のしわざと考え、これを鎮めて御霊とすることにより 祟りを免れ、平和と繁栄を祈願する事です。平安京への遷都(794年)は 皇太子の地位を廃され憤死した早良親王の怨霊が 新皇太子の病気を引き起こしたとの占いにより、行われました。


 日本に於いて 霊の考えは古くから有りました。人が死ぬと 魂が霊として肉体から離れるという考え方です。縄文時代に見られる屈葬は この考え方の一つとされます。そして この霊が 人々に様々な災いをもたらすという考えが拡大し、政治的 失脚者や、戦乱での敗者などの霊が その相手や敵に災いをもたらすとなり、平安時代の陰陽師の活動と共に御霊信仰と成りました。非業の死を遂げた人の霊は亡霊となり世に災いを成すが、この亡霊を復位させたり、官位を贈り、その霊を鎮魂し、神として祀れば、亡霊は御霊となり 鎮護の神として平穏を与えるとされます。


 記録されているもので最っとも古いものは 775年に子供と共に憤死させられた 井上内親王の祟りにより、その夫である光仁天皇や新しい皇太子が病に悩まされていると考えられ、その死の二年後 井上内親王の墓は改葬され 正式な御墓(天皇家の墓)とされました。御霊信仰をもとにした鎮魂の為の儀式として宮中では 御霊会が行われました。最初の確認出来る御霊会は 863年5月20日に行われました。この御霊会では 崇道天皇(早良内親王の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘逸勢、文屋宮田麻呂、監察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)の6人が祭られました。


   今回は以上です。


  

薄葬令

 今回は薄葬令に付いて書かせて頂きました。

 

 薄葬令は 646年 大化の改新の中で発令された 墳墓の規模や副葬品などを制限した勅令です。大和朝廷が中央集権国家へと変貌して行く過程で 全ての土地と人民は天皇に帰属するとした 公地公民制を推進し、地方豪族を抑える為の施策の一つでした。

 

 石器時代、弥生時代、古墳時代と 権力者の陵墓は時代と共により大きな形(厚葬)へと変化して行きます。その様な中、大和朝廷は 中国の故事に習い、民衆の負担・犠牲を軽減する為として、身分に応じて 作ってよい陵墓の大きさを制限し、身分別の葬制秩序を定めました。その要旨は;

 1 必要以上に大きな墓を作る事は 民の貧窮を招くと警告し。

 2 死者の身分により、墓を作る夫役の延べ人数の上限を定め。

 3 出来れば遺体は一定の墓地に集めて埋葬する様。

 4 もがり や殉死、宝物を副葬品とする事を禁ずる。

となり 墳墓は小型簡素化されて、古墳時代は事実上終わりを告げました。

例えば 持統天皇は703年に崩御し、その葬儀は薄葬でした、天皇として始めて火葬され、独自の陵を持たず、夫の天武天皇の陵に合葬されました。又 この薄葬令をもとに もがり だけではなく、しのびごと(故人の遺徳を讃える儀式)、挙哀(きょあい 悲嘆の気持ちを表わし 礼拝する事)、などの儀礼も姿を消して行きました。

 

 一方 庶民の間では如何かと言うと、薄葬令では 色々な場所に埋葬せず、場所を定めて埋葬する様 と有りますが、実際には 死体遺棄に近い形で葬られたと考えられます。山の麓や川原等に捨てられる事も珍しい事ではなかったと思われます。今昔物語でも 平安京の正門である 羅生門の二階に遺体が遺棄された様子を伝えて居ります。

 

   今回は以上です。

古代の葬儀観

 今回は日本古来の葬儀観について書かせて頂きました。

 

 日本に於ける古代の葬儀観としましては まず 死者を一定の期間 生きている者と同様の扱いしている事、そして 死は穢れたものであり、死の世界や死霊に対する恐怖が示されて居ります。

 

 前回 書かせて頂きました もがりの期間では 死者を丁重に扱い、蘇りを祈念して 食事を供する等、生きている者と同様の扱いをして居ります。古代では 現代と違い 死を明確に判定する事が出来ませんでした、従いまして 人が死んだ事を納得する為には、ご遺体の腐敗や白骨化の確認する為に一定の期間が必要とされました。現代でも 医師が死亡の判定をした後でも、24時間は火葬にお付せする事は 伝染病で亡くなられたケースを除き 法律で禁止されて居ります。現代では 死の判定は特定時点で行われますが、古代では 死の判定の為に一定の期間が必要とされた訳です。その意味では もがりの期間は 生と死の境界線の期間といえます。

 

 古代では 死は穢れたものであり、死霊は生きている者を死の世界へ引きずり込む恐ろしいものと考えられて居りました。古事記の中にも 黄泉の国(よみのくに)の記述があり 汚い世界として描かれて居ります。もがりの期間に 歌舞を行うのは 死霊は荒ぶるものであり、生きている者に厄災を及ぼしかねないとの考えから、その霊を鎮める為でありました。古代の葬儀観には 死者を大切に扱う考えと 死を穢れた恐ろしいものとの考えが併存して居りました。死霊への恐怖は古くから有り、縄文時代に見られる 腕や膝を折り曲げた屈葬や、遺体の上に石を置いた抱石葬は 死霊を恐れて自由にさせない為の方法と考えられて居ります。

 

  今回は以上です。

もがり

 今回は”もがり”に付いて書かせて頂きました。

 

 もがりとは 日本の古代、仏教の伝来前に行われていた葬儀儀礼の一部で、死者を埋葬するまでの一定期間ご遺体を安置し、死者との別れを惜しみ、その霊魂を祀り 慰め、死者の復活を願う、と共に遺体の腐敗 白骨化などを確認して死者の死を確定する為の期間を”もがりの期間”と呼んで居りました。その期間は数ヶ月から3年の間で死者の地位により異なりました。現代の通夜は もがりの期間が一夜に短縮されたとの説も有ります。

 

 もがりに関しましては 古事記、日本書紀、そして万葉集などに記録が散見されますが、古事記(712年)の中に 天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の様子が記述されて居ります。

 すなわちそこに喪屋を作りて、河雁(かわがり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺を掃持(ほほきもち)とし、翆鳥(そにどり)を御食人(みけびと)とし、雀を碓女(うずめ)とし、雉を哭女(なきめ)とし、かく行いを定めて、日八日夜八夜を遊びき。

遺体を安置する為の小屋(喪屋)を作り、遺体安置後、八昼夜 死者を慰める為に歌ったり踊ったりしたと書かれて居ります。この中で 岐佐理持は旗持ち役、掃持は喪屋を掃除する箒を持つ役、御食人は死者に食事を出す役、碓女は死者の膳に出す米をつく役、哭女は悲嘆を表現して泣く役、遊ぶは歌舞を意味します。

 

 もがりの儀式は 大化の改新以降に発令された 薄葬令や、仏教と共に伝来した火葬の普及により 衰退しましたが、もがりの宮(喪屋)の習慣は現在の皇室典範の中に生きて居ります。もがりの宮は 皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されて居り、天皇 崩御後 13日目にご遺体を収めた柩は 御所から宮殿内に仮設された もがりの宮に移御され、崩御後 45日を目途に行われる大喪の礼までの間、もがりの宮拝礼の儀を始めとする 諸儀式がもがりの宮内で執り行われます。

 

   今回は以上です。  

葬儀の意味

 今回は葬儀の意味に付いて書かせて頂きました。

 

 現在では 葬儀の形骸化が多くの方々により語られる様に成りました。しかしながら 葬儀は大切な営みであり、ご遺族様の心の拠り所でも御座います。故人さまの生と死は 故人さま特有のものであり、その葬儀も故人さま特有の葬儀であらねば成りません。古来からの習慣、仕来りと共に 故人さまとご遺族のご意向をふまえたご葬儀で在らねばなりません。

 

 私ども ご葬儀をお手伝いする立場の者と致しましては 葬儀の習慣的な営みの意味を理解すると共に、故人さまの生と死は故人さま固有の価値を持つもので有り、その葬儀は二つとない故人さまの為の葬儀とし、ご遺族の方のお心を大切にした式でなければならない事を自覚しなければ成りません。ご遺族さまの悲しみを理解してお手伝いするには 自分自身が悲しみを感じることの出来る人であらねばなりません。

 

 現代では 地域社会の結びつきも弱くなり、町内会や団地の組合でも 葬儀を取り仕切る事は稀なケースとなって参りました。そんな中では ご遺族の相談相手として、私共は 心の相談にものれる 葬儀の専門家であらねばなりません。又 以前とは違い、故人さまの葬儀は 故人さま ただ一つの葬儀であり、ご遺族のお心に残る葬儀であらねばならないと考えて居ります。ご葬儀のお手伝いをさせて頂く中で、ご要望を伺い、いろいろな事を学ばせて頂ければと愚考致して居ります。

 

 ご葬儀の主体は あくまでも故人さまであり、施行の責任はご遺族さまが そして その執行は 僧侶、神職、神父、牧師などの宗教者があたります。私共 葬祭ディレクターは それを側面からお手伝いさせて頂く訳ですが、ご遺族さまとの接触が最っとも多い私共が そのお心をくみ取り、流れの中に反映させねばなりません。

 

   今回は以上です。

葬儀文化

 今回は葬儀文化に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀は 6万年前のネアンデルタール人の時代から 人が亡くなられると 営まれて来たと考えられます。そして 地域、民族、宗教により創り出された文化と その死生観が融合して、葬儀文化が出来上がりました。又 葬儀文化は それぞれの死生観を現すだけでなく、生活文化、精神文化をも反映した、人の生死に係わる総合文化とも言えます。

 

 葬儀文化は 長い歴史を通して 地域の人々が培って来たものであり、その中には多くの優れた知恵が含まれて居ります。葬儀文化に含まれるものを、過去の物と切り捨てる前に、そこに含まれる意味を学んだ上で取捨選択をし、込められた精神文化を大切にする事も必要かと考えます。文化は長い過去の歴史の上に作られ、時代や環境に合わせて変化してゆきます、葬儀文化の中でも現在に合わない物や、今の御遺族に合わない物があれば、そのまま継承する必要は有りませんが、その文化がどの様に作られ、どの様な目的を持っていたかを学び、長く続いた習慣、儀礼、文化を思い起す事も大切ではないでしょうか。

 

 私ども自身も 葬儀が形骸化してしまわぬ様、葬儀の意味を再確認して、この時代とそのご遺族に合った、適切な葬儀をお手伝い出来るべく努めねばなりません。地域社会の変容、核家族化、高度高齢化社会などを迎え、死生観も多様化する中で、故人さまとご遺族さまの葬儀文化に合わせたご葬儀をお手伝いさせて頂くべく、努める所存でございます。

 

   今回は以上です。

葬儀から学ぶ

 今回は葬儀から学ぶ事に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀を執り行う中で 学べる事が幾つか有ります。それは 身近な方の死から生の大切さを知る事、どんな命も重いと言う事、自らも何れは死すべき者と言う事です。

 

 故人さまの死を悼んで 人々が集まり営まれる葬儀は 生ある者は必ず死を迎えると言う現実を知らしめ、人の死が 周囲の多くの人々に悲嘆をもたらす程 大きな事実であることに直面させられ、集まる人々に人の命の大切さを体験的に教えてくれます。又 葬儀の場で 人々は死の事実に直面し、その事実の大きさから生の大切さを知ります。そして 故人さまの軌跡に思いをするとき 人の死は けっして終わりや、無に帰するものではないと言う事を学びとります。

 

 人の生と死は 重く、大切なものです。葬儀で 故人さまの生き様に思いを致し、ご遺体を大切にし、故人さまに寄せる ご遺族の痛みを思い遣り、会葬者の方々の心に思いをする時、どの様な命も重いものと知らしめられます。人の死は 軽いものでは有りません、それは その人の生、命が重いからです。

 

 葬儀を執り行い 故人さまを悼み、故人さまと別れ、故人さまを送り出すとき、参列された方々も いずれ死すべき者である と言う事に思いを致すでしょう。死と言う事に関しては 死者と 残された者との違いは 先に逝く者と、後から逝く者との違いでしか有りません。

私たちも 何れ死を迎えなければならない者であります。

 

   今回は以上です。

 

葬儀の様式

 今回は葬儀の様式(キリスト教)に付いて書かせて頂きました。

 

 キリスト教に於いて 信者の死は 天に昇り神の下で永遠の命を得、復活への希望を待つ事とされます。従いまして キリスト教の葬儀は 故人さまのご逝去を悼む事は勿論ですが、残された方々の為に祈る事を主な目的とします。

 

 カトリック教会に於ける葬儀は 第二バチカン公会議で決められた文書の一つである 典礼憲章の第81条 ”葬儀はキリスト信者の死の過ぎ越しの性格をより明らかに表現し、典礼色を含めて各地方の状況と伝統により良く適応したものでなければならない” を基に作成された カトリック教会の儀典書”葬儀”(1969年発表)により執り行われます。キリスト信者の過ぎ越しの性格を表現するもの との宣言から 死は信者にとって完全な終わりではなく、永遠の命と復活への希望に入るものとして 帰天とも呼ばれて居ります。又 カトリックの葬儀は 全世界一律ではなく 地域の文化と融合されて居り、日本に於いても 通夜、葬儀の流れで行われ、他国では無い 献花や 場合によっては焼香が行われることも有ります。

 

 通夜では 聖書の朗読、聖歌、死者の為の祈り、柩への献香、参列者による献花 又は焼香、遺族代表挨拶 などが行われます。通夜は教会では無く、自宅で行う行うケースも多く有ります。

 葬儀は 教会で 葬儀ミサとして行われるのが一般的です、聖書朗読、聖歌、祈り、説教が行われ、その後 告別式として 故人の紹介、弔辞、弔電の紹介、献花、遺族代表挨拶が行われます。尚 ミサ以外の司会は 信徒が行う事も可能です。

 

 プロテスタントに於いても 人の死は忌むものではなく、人の霊が地上の肉体を離れ、天にいる神とイエス・キリストのところえ召される事で有り、イエス・キリストの再臨に合わせて復活する為の準備に過ぎないとされ、地上に残されたご遺族の寂しさは慰められるべきであるが、故人さまの逝去そのものは悲しむべき事ではないとされます。

プロテスタントの葬儀は 本来 葬儀・埋葬礼拝の一日のみですが、日本に於いては 仏式に合わせ 前夜式と葬儀・告別式の二日間で行うのが一般的です。前夜式は自宅で、葬儀は教会で行うケースが多く見られます。葬儀の礼拝は 祈祷、聖書朗読、説教、賛美歌、祝福などが行われ、その後 追悼の辞、遺族挨拶、献花、牧師の説教などが加えられます。日本では キリスト教徒の比率が低く、参列者はもとより ご遺族すらもキリスト教徒で有る事が期待できない為、宗教的純潔主義よりも 地域の習俗を重んじる方々への配慮が優先されます。

 

 キリスト教の葬儀では 六曜(友引)を避ける必要は有りませんが、一般的に友引の日は火葬場が休業の為、避けざる得ないのが実情です。

 

   今回は以上です。

 

葬儀の様式

 今回は前回に続き葬儀の様式(仏教)に付いて書かせて頂きました。

 

 現在 日本に於ける葬儀の90%以上は仏式で執り行われて居ります。これは 江戸時代に徳川幕府によれ施行された寺請制度に始まります。それ以前には 葬式組と呼ばれる村落共同体の一組織が葬式を取り仕切り、棺や葬具を作り、炊き出しなどを行って居りました。1635年頃から寺請制度が始まり、葬式は僧侶の指導により執り行われ、位牌、戒名、仏壇などが取り入れられ始めました。

 

 仏教の葬儀は 浄土真宗や日蓮宗を除き 葬儀は死者に対する 授戒成仏を主な目的として行われます。すなわち 死者を仏弟子となるべく発心した者とみなし、戒を授け 成仏させる為の儀式です。

 

 浄土真宗では 教えの上で 無戒のため授戒は無く、仏徳を讃嘆し、故人さまを偲んで報謝のまことを捧げる儀式となります。又 迷信を忌む教えから 日や方向に吉凶を選んだり、守り刀、逆さ屏風、左前の死に装束、北枕、六文銭の副葬、振り塩などの習俗は行いません。

 

 日蓮宗では 法華経を唱える事自体が 戒を保つことであるとして 死後の授戒は行いません。但し 寺院によっては 通夜の時に授戒作法を行うケースもあります。

 

 仏教の葬儀に一般的な流れは まず 死後すぐに枕経を行い、ご遺体を湯灌した後に納棺して通夜を行います。翌日に葬儀と告別式を行い、ご火葬・拾骨 又は土葬となります。現在の横浜では 葬儀会場は葬斎場で営むケースが多く 又 会葬者が度々集う事が難しい事も有り、初七日を告別式に続けて行う事が一般的となり、お斎の席も ご火葬の待ち時間を利用して営む様に成りました。 

 

   今回は以上です。

葬儀の様式

 今回は葬儀の様式について書かせて頂きました。

 

 日本に於ける葬儀の様式と致しましては 宗教に捉われない 助葬、友人葬 又 信仰する宗教を基にした 神道、仏教、キリスト教(カトリック・プロテスタント・正教会) などが主な形となります。

 

 助葬とは 生前の縁者や身寄りの方が居られなかったり、居られても葬儀を行う事が出来ない場合は 替わって 市区町村の社会福祉事業や慈善事業団体、又はNPOなどによって行われる形態の葬儀の事です。ホームレスなどで生活保護などの支援を受けて居ない死者であっても、各地方自治体が定めた定額の中で ご遺体保全、ご火葬、共同墓地への埋葬までを助葬と呼んで居ります。横浜市の場合は 共同納骨堂は用意されて居り、無料で納骨をする事が出来ます。又 2年間に限り ご遺骨を保管する制度も用意されて居ります。これらの手続きは 助葬を取り扱う葬儀社でお手伝いが可能です。

 

 神道に於ける葬儀は神葬祭と呼ばれます。神道では死を穢れたものと考え、聖域である神社では葬式を行わず、ご自宅か葬祭場で行います。横浜市営の斎場 3ヶ所では神葬祭を行う事が出来ます。最近は信徒の強い希望により、神社内で葬儀を行う事も多くなりました、この場合は 神殿と葬儀会場の間に式幕による結界を設けて行います。

式のおおまかな流れは まず神職により 塩水の湯や大痲等によってご遺族・参列者・会場を祓い清める 修祓が行われます。そして神職により祖霊に対して供物である神饌が供されます。神職は祭詞を奏上し、故人さまの生前の業績を述べご遺徳をしのびつつ、祖霊となってご遺族を守ってくれるよう祈念します。参列者は玉串をささげ、二拝二拍手一拝を行い故人さまを偲びます。このとき二拍手は 音を立てない しのび手 で行います。

神道では お墓を 奥津城(おくつき)と呼びます。墓石には 〇〇家の奥津城 と刻みます。又 仏教の位牌に当る 霊璽(れいじ)を祀る場合は御霊舎(みたまや)を置いてお祀りします。

 

   今回は以上です。次回は続いて仏教、キリスト教を書かせて頂きます。 

葬儀の役割

 今回は葬儀の役割に付いて書かせて頂きました。

 

 人は誕生した後には 何れの日にか死を迎えなければ成りません。そして 人がご逝去された後には 各種の処理を行わなければ成りませんが、その多くを葬儀により担う事と成ります。主な役割としては 社会的な処理、ご遺体の処理、霊の処理、悲嘆の処理、さまざまな感情の処理、などが考えられます。

 

 生のあるところには 必ず死があります。それは病であったり、突然の事故であったり、老衰によるものであったり、又 その年齢も様々で、人の死には一つとして同じものは有りません。そして 人の死により様々な事が起こります。その処理をする為 葬儀を執り行う事となります。

1 社会的な処理(社会的役割)

   人は社会の中で生活して居ります、人の死は社会に告知すると共に、社会はその死を受入れなければ成りません。

2 ご遺体の処理(物理的処理)

   死者の身体は 生命を失うとともに腐敗が始まります。その為 ご遺体を土中に埋めたり、火葬をしたり、エンバーミングしたりなどの処理が必要と成ります。特に 土葬やご火葬などの処理は ご遺体との訣別となりますので、単なる物理的な処理以上の意味を持つ事と成ります。

3 霊の処理(文化・宗教的役割)

   人は死ぬ事により この世に残された人との関係を閉ざします。残された人々は 異なる世界の故人さまの幸せを祈ると共に 新たな関係を作り上げなければ成りません。これは 日常の営みを超えるものであり、多くは宗教的儀礼により行われます。これが葬儀の目的の主要な部分の一つとなります。

4 悲嘆の処理(心理的役割)

   人の死は周囲の方々に衝撃を与え、悲しみ、心の痛みをもたらします。従い 周囲の人がその死を受入れる為には それなりの思考と時間が必要と成ります。葬送儀礼は そのプロセスに沿って執り行われ、ご遺族の悲嘆を癒す事も主要な目的に一つとなります。

5 さまざまな感情の処理(社会心理的役割)

   人が死ぬと 周りの人々はさまざまな感情に捉われます。古くは 人の死は新たな死を招く とか 祟りを引き起こす とか ご遺体の腐敗に対する恐怖心などです。これらの恐怖心を和らげる為 死者の霊を鎮魂する儀礼が要請されました。

 

 葬送儀礼は 宗教、時代、民族、地域などにより さまざまな行われ方が有りますが、人が死ぬと言う事は 人の大切な命が失われると言う事で有り、故人さまの命の大切さに見合った葬儀が営まれることを祈念致します。

 

   今回は以上です。

葬儀

 今回は葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀とは 仏教に於ける葬送儀礼の略で、一般的には葬儀式を指して居りますが、本来の意味では 故人さまのご臨終から、死後の喪に至るまでの、死者を葬り 悼む為の一連の祭儀・儀礼を指して居ります。

 

 葬儀は 人の死を弔うために行う祭儀であり、その様式は それを行う人たちの 死生観や宗教観が深く関っており、信ずる宗教の違いが そのまま様式の違いとなります。そして 葬儀は 故人さまの為だけでなく、残された方々の為に行われるという意味合いも強くあります。残された方々が 故人さまの死を その心の中でどの様に受け止め、位置付け、処理するか、これを援助するための儀式でもあります。従いまして 葬儀は 宗教が文明の中で体系立つ以前の旧石器時代から執り行われて来た宗教的行為であると言えます。約6万年前のネアンデルタール人も葬儀を行っていたと推定される報告がなされて居ります。

 

 日本に於ける葬儀の習慣では 通夜、葬儀、告別式、火葬、納骨と執り行われるのが一般的です。

通夜は古代日本の ”もがり” から発しており、葬儀の前夜祭の形態をとります。魔除けの為に 灯明や線香の火を絶やさぬ様、だれかが寝ずの番をします。但し 横浜市営の斎場では 消防署の指導により、夜間に火を焚く事は禁止されて居り、半通夜と呼ばれる形態で 夜間はご遺族にお帰り頂くケースが多くなりました。

葬儀・告別式は 宗教家の指導の下に執り行われます。告別式が終ると出棺となります、多くの参列者は ここで故人さまとお別れとなります。火葬場に向かう道と 帰り道は 同じ道を通らない という習慣がありますが、本来は 埋葬した死霊が 迷ってついて来れない様にと 昔 土葬が一般的であった時代の習慣が引継がれたものです。

葬儀終了後に 振り塩 と呼ばれる清めの塩を撒く習慣が有りますが、これは 神道古来の習慣が仏教の葬儀に融合したと考えられます。死を穢れとは考えない仏教では教義に反するとの意見も有ります。浄土真宗では当初より 清めの塩は使用しません。

 

   今回は以上です。

 

 

 

念法眞教

 今回は念法眞教(ねんぽうしんきょう)に付いて書かせて頂きました。

 

 念法眞教は 1925年(大正14年)小倉正太郎(小倉霊現)によって 立教開宗された仏教系の新宗教です。本部は 大阪府大阪市鶴見区緑の総本山 金剛寺に所在し、念法法語集を教典として布教活動を行い、信者数は80万人と公称されます。”人として行うべき誠の道―五聖訓” を基に 宗教宗派・国境・民族に捉われない世界平和の実現を説きます。

 

 開祖 小倉霊現は出生前に父を亡くし、祖父母に育てられましたが、祖父母の死去後 小学校を4年で中退し、苦しい少年時代を送ります。成人後も 出征、自身の病気、長男の病死などの苦しい経験をし 樋口セイ(霊媒師、教団内では霊生院と称す)に帰依して 心霊現象に傾倒しました。そして 1925年8月3日に阿弥陀如来から託宣を受け、大峰山で修験道修行の後に 神仏心霊感応会を発会し、その後 戦時下での 新体制運動・翼賛思想を鼓舞して教勢を大きく拡大します。1939年に天台宗の傘下に納まり 金剛教会と改称しましたが、戦後 新宗教ブームにの追い風を受け、1947年 小倉山金剛寺の名で独立し、1952年 現教団名の 念法眞教に改めて 宗教法人格を取得しました。

 

 教義では 世の立て直し をうたう一方 共産主義の脅威、北方領土返還、愛国心の滋養を訴え、宗教右派の性格を鮮明にして居ります。小倉霊現は常に戦闘帽を着用していたと言われます。又 既に入信している宗教を否定することは有りません。

 

 葬儀の施行に特別な規定は有りませんが、天台宗の葬儀に準拠して執り行います。

 

   今回は以上です。

 

 

 

 

創価学会

 今回は創価学会に付いて書かせて頂きました。

 

 創価学会は 1930年(昭和5年)牧田常三郎と戸田城聖を中心に設立された日蓮大聖人の仏法を信奉する宗教団体です。本部は東京都新宿区信濃町に所在し、会員世帯数は827万世帯と公称され、本仏は日蓮大聖人、本尊は日蓮により図顕された 文字曼荼羅、経典は法華経を使用し 布教活動をして居ります。

 

 昭和5年11月18日 日蓮正宗の信徒であり 東京都立白金尋常小学校の校長であった牧田常三郎と、同じく信徒の戸田甚一(後の戸田城聖)を中心にして、日蓮の仏法精神にもとずく教育の実践を目的とした 創価教育学支援会が結成されました。(創価学会ではこの日を創立記念日として居ります) その後 創価教育学会と改称し、1946年 創価学会と再度改称して現在に至ります。戦時中は苦難の時代で 昭和18年には 治安維持法違反 及び不敬罪の容疑で 牧田、戸田、他21名の幹部が逮捕 投獄され、牧田は翌年 東京拘置所内で獄死。昭和20年になり 戸田が出獄して 西神田に教育学会の本部を立ち上げ 布教活動を再開しました。

 

 本来 創価学会は宗教団体では無く、日蓮正宗の講(信徒団体)の一つでした。現在 名誉会長の池田大作氏も 当初は日蓮正宗総本山である大石寺の法華講総講頭に選任されて居りましたが、教義上の対立から 現在は 宗門と信徒団体の関係は消滅して居ります。

 

 教団の目的は 日蓮が説く 仏法の実践を通して、一人一人が真の幸福境涯を確立すると共に、生命の尊厳を説く仏法哲理を根本に、恒久平和、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の発展に寄与すること と有ります。 

 

 葬儀は 所属する地域の 儀典長を中心の導師とした 友人葬となります。

 

   今回は以上です。

立正佼成会

 今回は立正佼成会に付いて書かせて頂きました。

 

 立正佼成会は 1938年(昭和13年) 霊友会の有力な信者であった 庭野鹿蔵と長沼政により創立された 法華系の新宗教で、在家仏教教団です。本部は 東京都杉並区和田2丁目に位置し、国内238教会 海外21ヶ国・67拠点を中心に布教活動を行い、会員世帯数;127万世帯と公称されます。ご本尊は 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(くおんじつじょうだいおんきょうしゅしゃかむにせそん)で、主要経典は法華三部経です。

 

 霊友会の新井支部・副支部長であった庭野鹿蔵と 庭野の勧誘で霊友会を信仰していた長沼政は 支部長で熱心な法華経行者であった新井助信の勧めを元に、1938年3月5日 大日本立正佼成会を設立しました。当時は満州事変から第二次世界大戦へと続く時代で、多くの人が苦しい生活を強いられていた為、多くの会員は現実的な救われを求めて修行に励みました。戦後は長沼副会長を中心とする霊能指導などで批判を浴びる事や、創価学会との軋轢なども有りましたが、活動の中心を法華経を背景とした先祖供養・教学研修・人間修養へと移し、それを基にした 地域社会・国家・世界平和の実現に向けて貢献してゆく活動にシフトして居ります。

 

 その信仰姿勢は ”心田を耕す”として この世に生を受けたことの不思議、有り難さを知り、一人ひとりが ”今・ここ・わたし”を充実させて、毎日を楽しく生きる心を培うように と説きます。そして 法華三部経を所依の経典として すべての人が人間的に向上して、最終的には仏になることができる と教えます。

 

 葬儀に付きましては 然るべき立場の方は 戒名を佼成会でいただき佼成会葬を執り行いますが、一般会員の方々は 日蓮宗のご導師をお呼びして執り行うのが一般的です。

 

   今回は以上です。

 

 

 

孝道教団

 今回は孝道教団に付いて書かせて頂きました。

 

 孝道教団は 1936年(昭和11年)岡野正道と岡野貴美子によって設立された 法華系 新宗教の在家仏教教団です。その沿革から天台宗系教団にも分類されて居ります。本部は 横浜市神奈川区鳥越38に建立された”孝道山”で、信徒数は16万人、孝道経典を基に 父母・祖先に対する考養の道・子や子孫に対する功徳の道を中心に 世界平和を目指すマイトリー運動を提唱して居ります。

 

 始祖 岡野正道師は 大正7年 埼玉県川越市の天台宗星野山無量寿寺中院に出家し、天台僧として寺務に従事した後、独自に法華経の研鑚に努め、昭和11年に開顕して教団を設立しました。その後 貴美子夫人と共に 孝道の布教に努め、昭和27年 現在地に孝道山 本仏殿を建立して根本道場にすると共に、天台宗との深い縁により、総本山比叡山延暦寺より 伝教大師請来の仏舎利を分譲され、後には 不滅の法灯 の分灯も請ける事と成りました。

 

 その教えは 信徒は家庭に本尊をお祀りし、朝夕 法華経を読誦して、慈悲(マイトリー)の心をもって人々の善き友となるべく心がける事とされます。マイトリーとは サンスクリット語で 慈(いつくしみ)を意味しますが、教団では 人も動物も木も草も、すべてのものが互いに助け合って生きている事を自覚し、一人一人が相手を思いやる暖かい心をもって生活する事が大切であり、このマイトリーが人類の幸せをひらく道として、マイトリー運動を推奨して居ります。この運動の為 マイトリーカードが作られましたが そこには;

 マイトリー(おもいやり)の生活

  −大自然の中に生かされている自分の存在を知ろう

  −家族に対する責任を果たそう

  −人びとと共に喜びも苦しみも分かち合おう

  −すべての生きものに対する思いやりをもとう

  −自分のもつ能力を世の中のために生かそう

と書かれて居ります。

 

   今回は以上です。

 

霊友会

 今回は霊友会に付いて書かせて頂きました。

 

 霊友会は 1920年(大正9年) 久保角太郎によって創立された、法華系の在家による新宗教です。本部は東京都港区麻布台に有り、本山 弥勒山は静岡県賀茂郡東伊豆町に置かれ、国内支局38ヶ所 海外支局15ヶ所を中心に布教活動を行って居り、会員数は426万人と公称されます。その目的は 在家による法華経の菩薩行の実践とその普及にあります。

 

 創立者 久保角太郎は 西田無学の思想と行法に感銘を受け、自らも 本格的に法華経の研究を始め、在家による実践方法を模索しました。その成果を基に第一次霊友会として南千住霊友会を結成し、その後 赤坂霊友会に変化し、最終的には1930年 貴族院議員 永山武敏男爵を会長に迎えて 現在の霊友会が発足しました。

 

 教義の基本は 仏教の縁起観によって自分自身を理解し直し、自らの問題点に気付き、その気付きを基に日常の行動パターンを変革させて行く事に有ります。自己という存在は 時間的・空間的な様々な関係性の中で現象して居り、自分に繋がる父系・母系の全ての先祖との関係性と、日常生活で触れ合う 他者との関係性の中に 自分の在り方が反映されている事を認識して 内省し 気付きを得ます。具体的には 自分に繋がる父・母双系の全ての先祖を象徴した 総戒名を前にして 日々 法華三部経から伐粋して編纂された 青経巻と呼ばれる 経巻を読誦します。これを霊友会では先祖供養と呼んで居ります。

 

 この先祖供養を通して 気付き を得、気付きによる変革の努力の成果を 他者と分かち合う事によって、他者にも 気付き を誘発し 悟りの連鎖が広がる事を期待しています。

霊友会の修行は 自らの悟りと他者の悟りを同時に希求するという 法華経が唱導した 菩薩行を実現する事に有ります。

 

 尚 霊友会においては 特別な葬儀の規定は御座いません。

 

   今回は以上です。 

本門仏立宗

 今回は本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)に付いて書かせて頂きました。

 

 本門仏立宗は 1857年(安政4年) 長松清風(日扇)によって開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ、法華系の一宗派で、新宗教に分類される事も有ります。大本山は 京都府京都市上京区の宥清寺で、信徒数 41万人とされます。その教えは 宗祖日蓮の伝えた法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱える修行を第一とし、それにより授かる 目に見える現証利益を強調するものです。

 

 長松清風は 人生への懐疑と求道心から 法華経本門の教えに帰依して一度は出家しましたが、当時の宗門の在り様にあきたらず、独自の道を歩み出し、京都新町通りで在家信徒を集めて 本門仏立講を始めました。正法弘通の働きのない寺院・僧侶の意義を認めず、また その様な宗門を否定したため、既成の寺院・僧侶からの讒言により、逮捕されること2回、遠足止めなどの弾圧を受けましたが、明治11年には 花洛佛立講三十三組 信徒凡そ一万人といわれ教線をのばしました。この様な事から 日扇は在家主義であると言われますが、日扇自身は僧籍を持って居り、実際は 僧形・俗形の区別に本質的な差異を認めないと教えました。

 

 その教えは 御教歌と呼ばれる 仏教の教義を和歌に盛り込んだ教えを用意し 万人に 誰でも解り易く御仏の教えを広めようとしました。清風は明治初期を代表する文化人でもあり、清風の詠んだ歌は 優れた歌として 明治天皇に奏上され、賞賛を受けても居ります。しかしながら 布教に当っては 正信の証として現証利益を強調し、他宗・他宗教に対する批判も激しく、その布教方法は多くの批判を生む一因ともなりました。又 入信に当っては他宗・他宗教のお札、お守り、像を破棄する様 強制されました。


 葬儀の施行に付きましては 法華教の儀式に準じて執り行われます。


   今回は以上です。


 

パーフェクト リバティー教団

 今回はパーフェクト リバティー教団(PL教団)に付いて書かせて頂きました。

 

 PL教団は 1916年(大正5年) 御木徳一により立教された神道系の宗教団体で、当初は御嶽教徳光大教会と称し、その後 何度が改称をした後、1974年に現在の名称と成りました。本部は大阪府富田林市新堂に大本庁が置かれ、日本国内・海外の主要都市に教会を開いて布教活動を行って居ります(信徒数;100万人)。信仰対象は 宇宙全体=神(大元霊みおやおおかみ、だいげんれい という)です。

 

 PL教団では パーフェクト リバティーを ”完全な自由” ”真の自由”とし、神(大元霊)より与えられた自己の能力を生かして 自由に表現し、周囲を明るく 平和にしてゆく道を開けと説きます。”人生は芸術である”の真理のもと、各人の真の個性を世の為、人の為に最大限発揮し、世界人類永遠の平和と福祉の為に貢献する事を目標とします。教えの特徴的なものとしては みしらせ、みおしえ の真理があります。

みしらせとは 身の回りに起こる全ての苦痛や困難を 自分自身の心の傾き(心癖)を知らせる神からの啓示ととらえる事で、みおしえは 個々の自己表現の上で邪魔となっている心癖を教えてもらうものです。

教団としての戒律は特に無く、日常生活の心得として PL処世訓、PL信仰生活心得などが有ります。

 

 教団本部である大本庁には 大本庁神霊を祀る正殿の他 初代教祖奥津城(初代教祖 御木徳一師の墓地)、万国の戦没者を超宗派で慰霊する 超宗派戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔(PLタワー)、高校野球で有名な PL学園高校、専門学校、中学校、幼稚園等が有ります。

 

 PL教団の葬儀は 神葬祭に準じた形で執り行われます。

 

   今回は以上です。

 

世界救世教

こんかいは世界救世教に付いて書かせて頂きました。

 

 世界救世教は 1935年(昭和10年)1月1日に 大本の幹部であった岡田茂吉により立教された 新宗教系の教団です。箱根強羅に箱根神仙郷、熱海に熱海瑞雲郷、京都嵯峨野に京都平安郷の 3ヶ所に聖地と呼ばれる神殿と庭園を有して居り、その信者数は国内103万人、海外200万人(タイ国;70万人、ブラジル;44万人)の計303万人と言われて居ります。宗教活動は浄霊の取次ぎ、自然農法の普及、芸術活動の奨励で有ります。

 

 教祖岡田茂吉は 幼少より病弱で その前半生を病苦との闘いに過ごしましたが、天性の美的感覚と優れた才能により 装身具業界で成功を納めましたが、第一次世界大戦後の経済恐慌により破産を味わい、宗教の道 教派神道 大本に入信して神霊研究の道を歩み始めます。そして昭和6年 千葉県鋸山山頂に於いて 霊界に於ける夜昼転換を感得し、昭和10年に立教します。その教えは この世界は霊界と現界から成り立ち、人間の運命の根本は霊界にあるを 宇宙の基本法則と説き、人間の幸・不幸は、人間の本体である霊魂の曇りの多少による として、その曇りを解消する 浄霊という救いの業を示します。浄霊とは身体のツボに手の平をかざし患者の病苦を霊力により治癒させる法であります。又 健康な体を作る為の自然農法(有機農法)の普及を薦め、人の心や魂の浄化をめざして芸術活動の奨励を薦め 特に花による霊性の向上をめざす華道が推奨されました。現在 教団は ”人を幸福にしなければ、自分は幸福に成りえない”という教祖の願いを基に、理想世界のモデルつくりを使命として活動中です。 


 現在は 病気治療的面を強調する 東方の光、病気治療的面を強調しない 世界救世教いずのめ教団、世界救世教主之光教団の 3派が並立して居ります。


 葬儀に付きましては 教団は 他の宗教に入信する事を許容しており、施行に当っての決め事は特に設けて居りません。

   

   今回は以上です。

生長の家

 今回は生長の家に付いて書かせて頂きました。 

 

 生長の家は 1930年 谷口雅春によって創設された新興宗教団体であります。本部を東京都渋谷区に置き、ボランティア(信徒)212万人を有し、その信仰は 神道・仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の教えに加え 心理学・哲学などを融合させて 全宗教の真理は一つとしたものです。主とする活動資金は 創設者 谷口雅春及びその子孫が出版した書籍を販売して得ており、当初は積極的に政治活動を行って居りましたが、現在は控えております。

 

 谷口雅春は大正時代 会社勤務の傍ら心霊科学研究会に加わり、宗教的・哲学的 彷徨を重ねて居りましたが、1929年12月13日深夜 瞑想中に 今起てと神の啓示を受け、1930年3月1日に修身書としての雑誌生長の家1000部を自費出版しました。(生長の家ではこの日を立教記念日として居ります) その後1932年に 雑誌生長の家に発表した論文をまとめて、自己啓発書 生命の實相が完成し、この書を基に支持者・購買者を拡大して 教化団体生長の家が創設されました。

 

 その教義は 谷口雅春の著作 特に生命の實相甘露の法雨を基礎として、神道・仏教・キリスト教・その他もろもろの宗教は根本に於いては一致するという 万教帰一という思想を主張し布教して居ります。

 

 又 その行法は 信者は 神想観、大祓の人型、浄心行、写経と呼ばれる行法のうち どれか一つを一日に一回行うのが望ましいとされます。

神想観は 正座をして招神歌を読み瞑目合掌する。大祓の人型は 紙のお札に氏名を書きそれで本人を擦り、息を吹きかけ、それを総本山や各教化部で焼納する(年に2回)。浄心行は 自分の考える悪い事を全て紙に書き出し、それを本山等で清めた炎で焼納する。写経は 甘露の法雨 を書き写す。

 

 供養は 永代供養、あるいは永代祭祀と言い 供養される者の氏名を専用の甘露の法雨教典に書き供養します。生存者の場合は総本山龍宮住吉本宮に奉安され 故人になると別格本山宝蔵神社の紫雲殿に遷され永代供養されます。

 

   今回は以上です。

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