死の判定

 今回は死の判定に付いて書かせて頂きました。

 

 死の判定は 現在の日本の法律に於いては 医師のみが判定する事を許されて居りますが、古くは 宗教、哲学、神学などで 死の判定や定義を扱って居り、その地域、文化、時代、分野などにより様々な解釈が存在しました。死とは 命が亡くなる事、生命が亡くなる事、生命が存在しない状態等と定義されますが、はっきりとした尺度、基準を示すものでは有りません。

 

 人間の死亡の判定には 様々な解釈があり、文化的伝統、人の心情、医療、法制度、論理的観点など 複雑に関連しあって必ずしも明解では有りませんが、色々な観点での見解は以下の様に考えられます。

 息が止まる事

  古くから命は呼吸と強く結び付けられて考えられて居りました。従い 息が止まった状態を死と考えました。

 全身のさまざまな変化

  従来は 爪や髪が伸びている間は まだ生きていると考える人が多く居られました。

 三兆候

  医療に於ける死の三兆候で、脳死による臓器移植の問題が出るまでの基本形です。

   自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔が開く。

 バイタルサイン

  現在の一般的な判断基準です。

  心拍数、呼吸数、血圧、体温の状態を確認し、バイタルサインによる生命のしるしがなくなった時点で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合は死亡と判断します。

 

 生と死の境目は 必ずしも明確では有りません、考え方により大きく違います。しかしながら 社会生活を円滑に営む為には 法律により その境目を明確化せざるを得ませんでした。それが 医師による判断であり、死亡診断書に記載された死亡時刻が その方の死の瞬間と成りました。

 

 又 現在の医療の現場では臓器移植と言う治療法が開発され、移植の為の臓器をより新鮮な状態で得る為に脳死という概念が作られ、臓器移植法により運用されて居ります。ただし 同法では ”脳死状態の患者から臓器を移植してもよい” と書かれて居りますが、脳死は死であると規定しては居りません。

 

   今回は以上です。

 

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 

 臨終とは 臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語で、厳密には死を迎える直前の時期を指します。この時期は 本人にとっても、近親者にとっても危機的 かつ大切な時期で、古来より 死の受入れと死の看取りに関する様々な習慣と文化が生み出されて居りました。エジプトやチべットの”死者の書”、中世ヨーロッパに書かれた”往生術”、インド仏教に於ける祇園精舎の無常院、日本では 平安時代中期に書かれた”往生要集”等です。

 

 現代では 事故等による突然死を除くと、臨終される場所は75%が病院、20%がご自宅となって居ります。そして ご臨終の場所に係わらず 看護は延命を目的に治療を続けることよりは ご本人とその近親者の方々が 最後の時をどの様に迎えるかを大切に考える様に変わって来ました。ご本人と近親者がより良い別れの時をどう持つかが重視される様になったと言えます。

 

 ご臨終の時は 本人は勿論、御家族にとっても大切な時間です。最期の看取りを行い、きちんとお別れが出来るか如何かは 御家族の後々のお心に 大きな影響を与えるからです。ご本人が安らかに最期を迎える事が出来る様 御家族は医師とのコミニケーションを密にし、ご本人が希望されていた方や近親の方々に的確な連絡を行い、面会に来て貰う様 手配するのが良いでしょう。最期に立会えず、良いお別れが出来ないときは、後々まで近親者の心の傷として残る事が有ります。離れて住む近親者の方への配慮も必要と成ります。

 

 そして ご本人が深い信仰をお持ちの場合は ご本人が信頼する宗教者をご臨終の床にお呼びするのも 大切な事です。

 

   今回は以上です。 

グリーフケア

 今回はグリーフケアに付いて書かせて頂きました。

 

 グリーフケアとは 死別の悲嘆に対する介護の事で、大切な方を亡くされたご遺族は、故人様との別れのつらさや、環境の急激な変化に戸惑い、御自身の心は傷ついています。この傷を癒す為のケアを意味します。納得の行く ご葬儀の施行は グリーフケアの一つでも有ります。

 

 身近な方の死別を経験されると 自然に故人様を思い慕う気持ちと、その方を喪失した気持ちを中心に湧き起る 感情・情緒に心は占有されます。そして その一方では この窮状から脱却しようと努力を試みます。この 相反する 二つの感情は共存して揺れ動き お心は不安定な状態となります。同時に 身体上も不愉快な反応・違和感を経験します。この時期には 死者とは、死とは、自分とは何か、等の問いかけも行います。この状態をグリーフと言い、この状態の人に さりげなく寄り添い、援助する事を ”グリーフケア” と言います。

 

 人間はひとたび生を受けると、死という宿命から逃れる事は出来ません。従い いずれは 愛する人の死に遭遇します。両親、配偶者、子供、兄弟姉妹 人生を共有して来た大事な人の死は 深い悲しみを生み、突然の死別などは大きな心の混乱を生み出します。この混乱を鎮めてくれるのが、葬儀の施行であり、体験を共有する家族との触れ合いであり、地域社会からの思い遣りでした。しかしながら 核家族化・少子高齢化の進行は 悲嘆をより大きく、家族や地域社会からの援助をより難しくして居り、グリーフケアが必要な社会へと成りつつ有ります。

 

 死別経験者が受ける 感情の苦痛期間は 人生危機の時期とも言えますが、キチンとした対処が成されるならば、発想や生き方を変え得るようなパラダイムシフトに繋がるエネルギーを秘めた大切な時期でも有ります。グリーフが 苦境はチャンスだったと言えれば良いのですが。

 

 尚 横浜市内には 磯子区に ”スノードロップスの会”、神奈川区に お子様を無くされた方を対象とした ”天使のブティク” などのグリーフケア団体が御座います。

 

   今回は以上です。

墓地

 今回は墓地に付いて書かせて頂きました。

 

 墓地とは 亡くなった方のご遺体やご遺骨を埋葬する場所をさします。古くは然るべき立場の人の葬祭を行う場所、或いは火葬を行う場所が墓地と成りました。一般民衆の間では 村落が出来始めた頃より 村の共同墓地が作られる様に成ります。そして 仏教の民衆への浸透とともに 村洛の寺院が共同墓地を管理する様に成ります。又 農民の地位向上と共に 自作農家は所有する土地の一部に自家の墓地を設ける様に成りました。

 

 現代では墓地も変化の中にあります。1960年以降 人口の都市集中、核家族化などから 都市部での墓地需要は増大し、公営霊園だけでは無く民間の霊苑開発も盛んに行われる様に成ります。その決果 地方の寺院墓地は過疎化の影響を受けて 無縁化が進む様に成りました。明治時代後半以降の ”家墓” 形態は 核家族化、少子化の進捗により、その継承に問題が生じ、無縁化が問題と成るように成りました。その為 男子継承を原則とした墓地運営規則も 見直される様になりました。そして 継承が無くても永代供養をしてくれる 永代供養墓、有期限墓地、集合墓等 多彩な墓が登場する様になって居ります。

 

 横浜市内の公営墓地としては 西区の久保山墓地・久保山霊堂、神奈川区の三ツ沢墓地、港南区の日野公園墓地、中区の根岸外国人墓地、戸塚区のメモリアルグリーンが御座います。墓地の永代使用権購入は例年、11月に募集が行われており、集合墓の利用に付いては随時、申し込みを受け付けて居ります。

 

 尚 墓地を意味する 英語のCemeteryは ギリシャ語の”眠る場所”を語源として居ります。

 

   今回は以上です。

ターミナルケア

 今回はターミナルケアに付いて書かせて頂きました。

 

 ターミナルケアとは 終末期の人に対する医療、及び介護の事を指します。終末期の概念に 明確な定義は有りませんが、一般的には 老衰・病気・障害・損傷の進行により 死に至る事を回避するいかなる手段も無く、予想される余命が3ヶ月程度以内の状態を指します。ターミナルケアを専門に行う医療施設をホスピスと呼びます。それ以外の施設としては 緩和ケア病床、慢性期の医療病床、老人介護施設、障碍者介護施設等です。

 

 日本では 第二次世界大戦を経験した事により、人々は多くの死と直面せざるを得ませんでした、以後 死への忌避感が強くなり、死を語ることは社会的なタブーと成りました。しかし 戦後も遠くなり、高齢化が進むと伴に、その忌避感も緩和され、終末医療(ターミナルケア)への関心が高まります、そして 治療優先主義の医療に対する批判が出る様に成ります。病気や障害の最終治療に当っては 患者本人の生活を犠牲にするのではなく、患者の”生命の質”を尊重したケアが必要であると言う意見です。更には 死に方は 医師に決定権が有るのではなく、患者本人に決定権が有るべきでである とする 死の自己決定権が主張される様に成りました。医療情報の本人への開示(ガンの本人告知)、治療方法に対する患者本人の同意取り付け等です。そして 死後の自己決定権が提唱され、葬儀の次第やお墓の形式なども 本人のご意向が尊重される様になって参りました。

 

 ホスピス(hospice)の語源は 聖地への巡礼者を 小さな巡礼教会が宿泊させた事に始まります。ホスピスと言うと感覚的に高額の施設と考えがちですが、現在では 健康保険や介護保険が適用出来る、大型から小型の施設も数多く運営される様になって居ります。又 患者や家族のご希望に合わせ、訪問医療や訪問介護による在宅での ターミナルケアも多くなって参りました。


   今回は以上です。

斎場

 今回は斎場に付いて書かせて頂きました。

 

 斎場とは 神道の用語で 神道に於ける祭祀や儀式を行う場所の事を指します。神社内に常設された式場や、必要に応じて 屋外に仮設された 祭祀・儀式を行う為の式場も指します。又 神道では葬儀は死穢を嫌う事から 神社内では行わず、自宅或いは個別の式場に神官が出向いて執り行いますが、この場所も斎場と呼ばれます。しかしながら 現代の日本に於いては葬儀を行える施設を指す様に成りました。

 

 従来の葬儀は ご自宅で行うのが一般的でしたが、昨今の住宅事情や 車社会の進展、式場環境の快適化などの要望を基に、葬儀専用の式場が求められる様に成り、全国に大小 多くの葬儀会館(斎場)が作られました。民間の斎場、寺院の斎場、公営の斎場などです。更に 会葬者の利便性から、火葬場に隣接する斎場も多く見られます。これらの斎場は 式場だけでは無く 遺族控室、宗教家控室、会食室、通夜の為の仮眠設備、駐車場等を備えるのが一般的です。斎場によっては浴室を準備したところも御座います。

 

 横浜市内には多くの 民間・寺院・公営の斎場が御座いますが、火葬場は 民営1ヶ所、公営4カ所が有り、いずれも隣接して斎場が運営されて居ります。

 民営火葬場は 神奈川区に所在する西寺尾火葬場で、同一経営で斎場が隣接します。

 公営火葬場は4ヶ所で 何れも横浜市営の火葬場で、西区に所在する 横浜久保山斎場には 民営の斎場が隣接して居ります。他の3ヶ所は 緑区所在の横浜北部斎場、戸塚区所在の横浜戸塚斎場、金沢区所在の横浜南部斎場で 何れも横浜市営の斎場が隣接して居ります。

 尚 横浜市営の火葬場・斎場の利用料は 横浜市民にとり廉価で利用が可能となって居ります。

 

   今回は以上です。 

現代の葬儀

 今回は第二次世界大戦終了後、現代までの葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本では 敗戦とともに物資の不足、高度のインフレにより国民生活は混乱しましたが、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気をはじめとして、日本の戦後復興が始まります。葬儀も昭和28年ころより 告別式を中心とした葬儀式が行われる様に成り、祭壇・棺や各種の葬具が開発・製造され、祭壇を中心とした葬儀が一般的となって行きました。この流れとともに 地域特有の葬具は徐々に姿を消し、全国的に標準化が図られる様に成ります。

 

 そして 人口の大都市集中、核家族が進みます。それでも この時代には地区共同体としての葬儀が多く見られました。葬儀の取り仕切りは 町内会や、団地の自治会が中心となり、団地の集会所で執り行われる葬儀も多く見られました。又 家族・親戚が色々な地域から集まらねば成らなくなり、葬儀は通夜と葬儀式を中心とした2日間に集中するように成ります。告別式も葬儀式と同時に行い、会葬者への迷惑を考慮して 時間も一時間以内で終了する様になります。現在の横浜市内では 葬儀式・告別式・初七日法要・故人様との最後のお別れまでを一時間で執り行う形が 一般的と成って居ります。

 

 現代では 少子高齢化が進捗し、お仕事を引退されてから そこそこの時間が過ぎた方の葬儀では 社会への告知と言う目的はより薄れ、近親の方のみで静かにお見送りする 葬儀が多くなりました。密葬 あるいは家族葬と言われる形です。会葬者の方も限定される事から 大規模な五段の祭壇などは姿を消しつつ有り、お見送るする御家族のご希望に沿った祭壇、式次第などが主流になりつつ有ります。

 

   今回は以上です。

大正・昭和初期の葬儀

 今回は大正・昭和初期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 明治の後半から大正時代にかけて、都市部では大型葬列に対する批判が高まります。私事の為に公道を妨げて良いのか 等の論調の批判がマスコミに登場するようになります。又 明治17年に制定された 墓地及び埋葬取締規則により 許可される区域が限られて 市街地での火葬や埋葬が制限され始め、更に明治36年には路面電車が走り始めた事により 葬列廃止は加速されました。大正時代に入り 大型葬列に代わり 登場したのが告別式です。告別式の最初は 明治34年に行われた 中江兆民氏の葬儀と言われて居りますが、この場合は葬列の代りに告別式ではなく、同氏は無宗教であったため、宗教儀礼は行わずに、お別れ会として 告別式が行われました。しかしながら これを機に大型葬列に代わり、大型の告別式が行われる様になります。そして 葬列に代わり霊柩車が登場します。

 

 日本型霊柩車は 大正11年の 大隈重信の国民葬で、トラックの後部荷台に白木の輿を載せて、ご遺体を移送した事にヒントを得たと言われて居ります。海外の大型車を輸入し、後部に和風の唐草模様などを装飾した、宮型霊柩車が登場します。日本で最初の宮型霊柩車は大阪で登場しました。

 

 告別式の大型化に伴い 大きく変化したのが祭壇でした。葬儀の祭壇は 現在の枕飾りと同様で 前机の上に三具足を供え、その横に御供花やお供物を供えたものでしたが、それが 二段、三段、そして五段へと大型化し、更に高欄を備えたものえと変化しました。それに伴い 六道などの新しい燭台や、祭壇を装飾する為の各種仏具が開発されました。遺影写真も昭和初期には登場しました。とはいえ 昭和初期の大恐慌なども有り、祭壇文化が本格的になるのは 世界大戦後の昭和28年以降となります。昭和15年には戦時下となり 葬列を組む事も困難になり、燃料不足により霊柩車も動かせず、祭壇の装飾にも困る様に成り、死者が出ても ご納棺して 火葬場へ行くだけという状態が 第二次世界大戦終戦後の一時期まで続きます。

 

   今回は以上です。 

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 現代の葬儀様式のルーツは明治時代にあると言われます。江戸時代に 葬儀は 士農工商の身分制度を基に、身分ごとに葬儀基準が示され、葬儀の簡素化が奨励されて居りましたが、明治時代に入ると 身分制度が取り払われ、大都市を中心に 大きく変化して行きます。大掛りな日中の葬列、白木の輿と寝棺の増加、葬列を飾る葬具の出現、大掛りな粗供養等です。

 

 江戸時代までは ご遺体の移送は夜間にひっそりと葬列を組むのが習慣でしたが、明治に入ると 台頭してきた商人層を中心に 家を誇示する為の大きな葬列を、日中に組む様に成ります。なかには その役割を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。


 葬列の大規模化と共に 従来 使用されていた座棺は寝棺へと変化し、寝棺を運ぶ為の白木の輿が出来、多くの人で運ぶ様に成ります。そして 白木の輿には色々な装飾がされました。現代の宮型霊柩車は この装飾された白木の輿を原型として居ります。ただし 庶民の間では 長い間 座棺が使用され、それを 駕籠や 装飾した人力車などで運ぶかたちが第二次世界大戦終了まで続きます。


 大きな 葬列を飾る為の 野道具(葬具)もきらびやかな形に成りました。金連、銀蓮、生花や造花を挿した花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥籠、位牌を運ぶ位牌輿、輿も 寝棺用、座棺用、遺骨用などが作られました。近代的な葬具の始まりと言えます。


 そして 粗供養が大型化します。葬儀に 地域の人々に食事を振舞うという習慣は江戸時代でも行われて居りました。又 葬列の出発に当たり 花籠に菓子や小銭を入れて、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言う様な事が 粗供養の起源と考えられますが、明治に入り大型化しました。


 明治18年に行われた 三菱の創設者 岩崎弥太郎氏の葬儀は 神葬祭で行われ、会葬者3万人、用意した料理は和洋食合わせて6万人分、葬儀に雇った人員は7万人と言われて居ります。


    今回は以上です。

火葬2

 今回は前回に続いて火葬について書かせて頂きました。

 

 現代の日本では ご遺体の処置はご火葬が一般的となって居りますが、その理由としては 公衆衛生上の観点、埋葬する際の場所の問題、宗教上の観点等が考えられます。又 ご火葬に際しては 法律上の規制も御座いますので注意が必要となります。

 

 現代の日本に於きましては 火葬を忌避する宗教を信仰する方(外国人を含む)、根強い土葬習慣を維持している特定地域の住民の方々、大規模な災害により火葬場が使用出来ない 等のケースを除いて、ほぼ100%のご遺体が火葬に付されます。その理由としては以下の事が考えられます;

1 公衆衛生上の観点から土葬よりも衛生的である。土葬の場合 ご遺体の腐敗は土中の微生物により進捗します、埋葬後 長期間にに渡って周辺地に腐敗菌が残存する為、衛生上 広域な土地が必要となります。

2 仏教では 仏陀は火葬に付された故事にならって、火葬が尊ばれて居ります。特に 浄土真宗では火葬を強く推進して来ました。ちなみに 日本で最初の 近代的火葬場は 1878年(明治11年)に京都に建設された 両本願寺火葬場(現在の京都市中央斎場)とされますが、浄土真宗の東・西の本願寺により建てられました。

3 都市部では 人口集中のため 条例により土葬が禁止されたり、許可された条件を満たす墓地を確保する事が困難である。

4 宗教への拘りが薄れ、埋葬の方法にも拘りが無くなり、又 墓を家単位で考えると 同じ墓石の中にご遺骨を納めるには火葬が必要となり、火葬は世間的にも認知された処理方法と成りました。

 

 日本では ”墓地・埋葬に関する法律” があり、その規定によれば

1 死体(もしくは妊娠7ヶ月以上の胎児)は 死後(もしくは死産後)24時間以内は 火葬してはならない とされて居ります。但し 一類から三類までの感染症や新型インフレンザ等の感染症の場合はこの限りではない。

2 火葬を行う場合は 死亡届を提出した 市区町村長の許可が必要となります。

  許可を受けずに火葬をした場合は 墓地・埋葬に関する法律違反と共に、死体遺棄・死体損壊罪に問われる可能性が有ります。

なお 墓地・埋葬に関する法律では、土葬等 火葬以外の埋葬方法を禁じては居りませんが、各地方自治体は 環境衛生面等から 火葬を奨励し、東京・大阪・横浜などの大都市では条例で土葬を禁止して居ります。

 

    今回は以上です。

火葬

 今回は火葬について書かせて頂きました。

 

 火葬とは ご遺体を焼却する事ですが、仏式では 火葬前の読経・焼香から 焼骨を骨壺に納める 収骨までも 葬儀式の一部であると言う考え方も有ります。又 ご遺体の安定化、減容化処理の手段の一つとも言えます。世界的には 火葬は必ずしも主流とは言えませんが、日本に於いてはほぼ100%でご火葬の上、納骨 或いは埋葬されて居ります。

 

 日本に於ける火葬の歴史は古く、確認された火葬としては6世紀後半のものが有り、現在 検証中の遺跡としては 長崎県大村市の竹松遺跡(弥生時代後期、2世紀ころ)などが有ります。しかしながら 火葬は仏教の伝来と共に伝わったとされる説が有力で、最初に火葬された人物は 僧道昭(700年)であり、最初の天皇は 持統天皇(702年)とされます。その後 火葬の習慣は上級役人、公家、そして武士社会へと広がって行きます。とは言え 儒教の教えでは 体を傷付ける事は大罪であり、火葬もその一つと考えられ、又 火葬の為の燃料代も高額であったことから 火葬率はそれ程高くは有りませんでした。仏教が準国教とされた江戸時代でも 2割前後の火葬率と想定されます、棺桶を使った土葬が主流でした。明治時代に入り国教は神道に変わり 天皇家を必頭に土葬へと変化しますが、都市部では 土葬の為の土地確保の困難さ、火葬技術の進歩、衛生管理上の問題などから、徐々に火葬率は上昇し、現在ではほぼ100%となって居ります。そして 火葬された最後の天皇は 1617年に崩御された後陽成天皇で、以降 陵を設けて土葬ががされて参りました。今上天皇は 繁多な陵墓設営などを憂慮し、皇后・皇族の了解を得て、崩御の際は火葬を希望され、2013年11月火葬の正式発表がされました。

 

   今回は以上です。

 

神葬祭

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

 

   今回は以上です。

神葬祭

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

 

   今回は以上です。

神道

 今回は神道について書かせて頂きました。

 

 神道(しんとう、かんながらのみち)は 日本古来の宗教で、自然や自然現象を敬い、その中に八百万の神を見出す、日本独特の多神教です。全ての自然の中に神が存在し、神と人間を取り結ぶ作法が祭祀であり、祭祀を行う場所が神社という聖域です。現在の 神道として体系や儀礼を作り上げるのに貢献した人物は 吉田兼倶(1434−1511)です。

 

 吉田兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 神道を体系化して、神道が儒教や仏教の宗主であり、万法の根底であると理論付けました。古代日本に起源をたどる事が出来る神道は 日本の伝統的な民俗信仰や自然信仰を基盤として居り、日本の国家形成に影響を与えた宗教でも有ります。そして 宗教名は他の宗教とは異なり 神教とは言わず 神道と呼びます。神道には 確定した教祖や創始者は居らず、経典や聖書の様な明確な聖典も有りません。吉田兼倶による体系化に当っては 古事記・日本書紀・古語拾遣・宣命などの 神典とされる古典を規範として作られました。尚 富士山の世界遺産登録に当っては 富士山に対する山岳信仰が登録決定の大きな要素と成りました。

 

 神道は 奈良時代以降 江戸時代までの間 仏教信仰に吸収されて来ました(神仏習合)。しかしながら 明治政府は 天皇を中心とした 国民・国家統合を図る為、神仏分離を行い、水戸学やそれまでの国体神学を基にした 国家神道を作り上げました。そして 全国各地の氏神を祀った神社に 皇統神を合祀し、国家による組織化を進めました。

 

   今回は以上です。

廃仏毀釈

 今回は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に付いて書かせて頂きました。

 

 廃仏毀釈とは 仏を廃し 釈迦の教えを毀(壊)す 事を意味し、仏教寺院・仏像・教典を破毀し 僧尼や寺院が受けていた特権を廃する事です。その最たるものは 明治維新後の廃仏毀釈運動ですが、これは 徳川幕府が仏教を国教としたのに対し 新政府は神道を国教に変更する為、発令された 神仏分離令等を民衆が拡大解釈して 引き起こされました。

 

 廃仏毀釈運動は 仏教の特定宗派に対する反対運動として、或いは キリシタン大名が支配した領地等で小規模には発生して居りましたが、明治時代初期の運動は全国に波及した大規模な運動となりました。徳川幕府の時代には寺請制度により 仏教は国教としての位置付けにあり、神道は寺院の一部として機能して居りました。明治政府は この体制を壊す為、まずは神道と仏教の分離を目的として各種の布告を発令しました。神仏習合の廃止、仏像を神体として使用する事の禁止、神社から仏教的要素を払拭する事、各神社での祭神決定、僧職から神職への転向等と共に 仏像・仏具の破壊や 仏事の禁止という過激な発令も一時的には出されました。この運動により古くからあった多くの寺院や仏像が毀損され、貴重な文化遺産を失う事と成りました。

 

 寺請制度を基にした寺院の特権は 汚職の温床ともなり、それに対する民衆の反発が、より大きな運動に発展させたと考えられます。この仏教の危機は 仏教界の反省を促し、以後 近代化へと結び付いて行きます。

 

   今回は以上です。 

寺請制度

 今回は寺請制度に付いて書かせて頂きました。

 

 寺請制度とは 1961年からの寛文年間に江戸幕府より発冷された キリシタン禁制、及び住民調査を目的とした宗教統制の制度です。武士・農民・町人に係わらず、全ての人々に仏教寺院より寺請証文を受ける事を義務付け、寺院にその人々がキリシタンではない事を証明させる制度です。必然的に 人々は家を単位として寺院の檀家とならねば成らず、檀家制度を確立させる基とも成りました。

 

 寺請制度は 仏教の壇信徒で有る事の証明書を寺院から請ける制度で、旅行や住居の移動の際には寺請証文の提示が必要とされました。従い 民衆は幕府又は大名家に認められた仏教寺院の檀家と成らねばなりませんでした。又 寺院側へは 現在の戸籍に当る宗門人別帳の作成、年一回の更新、キリシタンの発見 及びその家族・親族の監視などが義務付けられ、仏教寺院は 幕府の出先機関として民衆管理を行うと共に大きな権限を与えられる事と成ります。そして この権限が汚職の温床となり、宗教活動をおろそかにし、明治時代初期の廃仏棄却へと繋がってゆきます。

 

 とは言え、この制度により 当時としては世界一の人口調査が可能となり、人々は寺院の檀家となる事で戸籍を得る事になり、以降は 出生・結婚・旅行・移転・奉公・逝去等の際には 村役人の発行する送り状・請け状・手形と共に 寺院が発行する 送り状・請け状・手形も必要とする様になります。

 

 又 江戸時代も進むと 世の中は平和になり 民衆は自分の死後の葬儀や供養の事を考えて菩提寺を望む様になり、寺請制度は受入れ易い環境とも成りました。そして 仏教は 幕府や藩の行政権威を補う役割を担い、事実上の国教と成りました。現在 私共が接する 寺院と信徒の関係(檀家制度)や 葬儀・法要の基本は寺請制度を基にして作られと言っても過言では有りません。

 

   今回は以上です。

檀家制度

 今回は檀家制度について書かせて頂きました。

 

 檀家制度は 日本独特の制度であり、寺院は檀家の葬祭供養を独占的に執り行い、それに対し檀家は寺院へ布施を施し 経済支援を行うという、寺院と檀家の関係を指します。この制度は 応仁の乱以降 荘園制の崩壊と共に惣村が生まれ、家という概念が出来始めて進捗し、江戸時代の寺請制度により確立しました。

 

 檀家とは 壇越(だんおつ)の家という意味ですが、壇越とは 梵語のダーマパティの音写で、寺院や僧侶を援助する庇護者を意味します。仏教伝来の後 有力な氏族は壇越となって、寺院を建立し仏教諸宗派を保護しました。例えば蘇我氏は飛鳥寺を、秦氏は広隆寺を建立して居ります。この壇越が檀家の源流となります。伝来当初は 有力者の信仰対象であった仏教は その後 広く世に浸透し、仏教の庇護者は有力氏族から惣村へ、更には 家単位へと広がって行きました。そして キリシタン禁制を目的とした寺請制度により、檀家制度が始まりました。寺請制度とは キリスト教徒ではない証として、武士・農民・町民を問わず 全ての国民は家単位で 特定の寺院に所属し、寺院の住職は 檀家である証明として寺請証文を発行する という制度です。又 キリシタン改めの責任も壇那寺に委ねられ、それと共に壇那寺に権限も与えられる様に成ります。

檀家の義務として以下の様な事項が定められました;

1 4月8日の釈迦 降誕会、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りすること。

2 説教や 仏法を説く寺院の集会に参加すること。

3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。

4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。

お盆や彼岸の墓参はこの時代に定められた様です。

 

   今回は以上です。

一家一寺

 今回は一家一寺について書かせて頂きました。

 

 昭和の時代には 一家一寺 即ち檀家制度が一般的でした。この一家一寺制は17世紀後半の江戸時代に制度化された”寺請制度”と共に確立されました。江戸時代 農民の自立化が促進され、そこで家という考え方出来、祖先崇拝も強まり、家の菩提寺として その寺の経済基盤を支えると共に、葬祭や仏事を寺院に委託して行く事と成ります。


 室町・安土桃山の時代には 村は大百姓により支配され、村の寺院や道場は大百姓の菩提寺としての性格が強く有りました。それが 江戸時代に入ると 徐々に大百姓が没落して行き、村は平均的な本百姓により構成される様に成ります、そして 地域共同体としての村を 精神的な結びつきにより強化する為 村惣堂や惣道場と呼ばれる寺院が出来始めます。


 江戸時代初期には それ程 一家という概念は確立されて居らず、同時に妻と夫が別々の寺院に属する等、一家の構成員全員が一つの寺院に所属する檀家制度はまだ確立されて居りませんでした。それが 17世紀後半に幕府より公布された寺請制度により一家一寺が強力に推進されました。同時に家系の考え方も庶民に間に広がる事と成ります。


 檀家制度が確立されると、それまで庶民が石碑を備えた墓を持つことは有りませんでした、家族が亡くなると 共同墓地に埋葬したり、山間に置いて来たりしていましたが、家の確立と共に 家の墓地を持ち、家の墓石を建てる様に成り、先祖崇拝も庶民の間に根付いてゆきました。


 現代のお墓は 農民(庶民)の自立を前提とした、家の確立により、家の象徴 或いは根拠として建てられ始めたと考えられます。又 お墓は 抽象的な祖先崇拝ではなく、家の先祖という具体的な対象を崇拝する形を取る事とも成りました。


   今回は以上です。 

葬祭の民衆化

 今回は葬祭の民衆化に付いて書かせて頂きました。

 

 鎌倉時代中期 それまでの荘園公領制は変質し始め、弱小農民層は 水利配分や水路・道路の修築、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などの為に地縁的な結合を深め、耕地から住居を分離して 住居を集合させた村落が出来始めます、これを惣村と呼びました。惣村は畿内を中心に始まり全国へと広がって行きます。この惣村に葬祭を中心とした仏教が布教され 受入れられて行きました。

 

 惣村は地域共同体の自治組織であり、連帯を守る為の罰則・検察・裁判機能を有し、領主の増税に対する闘争組織であり、そして 余剰生産物の保管組織でも有りました。惣村の成立により 自立した農民達は寺院を支える事も可能となり、仏教各宗派は広く地方へも進出し、各地で寺院・道場が作られ、仏教の民衆化が広く進みます。庶民に広く葬祭を推し進めたのは浄土宗でしたが、禅宗(特に曹洞宗)・真言宗(密教)・日蓮宗・天台宗・浄土真宗(一向宗)なども 布教に当っては 葬祭を中心とする事が多く、葬祭仏教化が一段と進みました。

又 この時代 仏教界は その布教の為に その土地の民俗とも融合して行きます。現在 同じ宗派でも 地域により葬儀の次第が相違するのは 仏教と民俗との融合によるものです。


 日本に於ける 仏教寺院と信徒の関係は 壇那寺(旦那寺)−檀家(信徒)として結ばれて居り、これを 寺壇関係とも言います。中世までの寺院は 貴族や武士により支えられて居りましたが、惣村の出現により 農民も寺院の支え手に加わる事と成ります。農民は葬祭・仏事を寺院に委託する代わりに、寺院の維持費を負担する様に成りました。尚 檀家とは 古代インド語のダーナパティの音写である 壇越 が変化した言葉で、寺や僧侶を供養する施主を意味します。


   今回は以上です。

 

葬儀作法の原型

 今回は葬儀作法(葬法)の原型に付いて書かせて頂きました。

 

 現代の仏教葬の原型は鎌倉時代に作り上げられたという説が一般的ですが、当時は龕堂と火葬場の二ヶ所で仏事が行われ、禅宗の葬儀として 湯灌・剃髪・三具足の祭壇・焼香・読経が成され、須弥壇の上に肖像画が飾られ、ご遺体を移動させたり ご遺体に対して所作を行う毎に仏事を重ねました。

 

 龕(がん)とは 柩 又は柩を納める容器の事で、龕堂とは柩を安置しておく堂を指します。お寺や自宅、或いは火葬を行う火屋に向かい合せて龕前堂が建てられました。この龕前堂で行う仏事が 現在の葬儀式に発展したと考えられます。横浜市営の斎場は久保山斎場を除き、龕堂と火葬場が対となった構造になって居ります。

 

 禅宗の葬儀の次第では ご遺体を湯灌し、剃髪し、清浄な新しい衣服に着替えさせ、龕に納めて 袈裟などで覆います。龕前に卓を置き 白打敷で覆い その上に花・香炉・燭台の三具足をならべ、更に故人愛用の道具をならべます。龕前の準備が整ったところで、一同が集まり仏事が行われます。導師は法語を唱え、焼香し、茶湯を献じ、読経 回向と続きます。龕を覆う袈裟は 現在の柩覆いであり、龕前の卓は 現在の枕飾りと考えられます。

 

 龕堂の設営に関して 龕を安置した部屋の周囲に白幕を張り巡らしました。そして 龕を閉じた後に 掛真(かしん)の儀式が行われます、これは須弥壇の上に 故人の肖像画を飾る儀式ですが、現在の遺影写真に繋がるものです。

 

 火葬の当日には出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、葬列を組んで火屋(火葬場)へ向かいます。火屋では 仏事を行った後に荼毘に付し、翌朝 火屋で拾骨をし、ご遺骨を寺 又は自宅に安置して 安位法事を行いました。禅宗では 本来 龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と ご遺体を動かしたり ご遺体への所作を行う毎に 仏事を重ねる事になって居りますが、次第に簡略化され、自宅と火屋での仏事のみとなって行きました。


    今回は以上です。

禅苑清規

 今回は禅苑清規に付いて書かせて頂きました。

 

 禅苑清規とは 禅苑は禅寺を指し、清規とは規範を現します、宋の時代に作成され 全10巻から成る禅宗 の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や 日常の行法などを記したものです。現在の仏教葬儀の原型は 鎌倉時代に 禅苑清規の中に書かれている、禅僧に対する葬送儀礼を元に出来上がったと言われて居ります。

 

 鎌倉時代は 貴族階級が没落し、武士が興隆して、民衆は厄災苦難に悩まされた時代でもありました。この様な背景のもとに 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場します。

禅宗の葬儀では 出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と 修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っに分かれておりました。尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心で、亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。この亡僧喪儀法に 浄土教や密教の念仏や往生祈願が取り入れられて発展し、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。

 

 在家の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として 剃髪し 戒名を授け、そして 引導を渡して成仏させます。これを 死後に僧侶にする事から ”没後作僧” とよばれます。現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。

 

   今回は以上です。

往生要集

 今回は往生要集に付いて書かせて頂きました。

 

 往生要集は 比叡山中 横川に隠遁していた 恵心僧都源信によって985年に書かれた、一部三巻からなる仏教書です。源信は 浄土教の観点から 多くの仏教経典や論書から、極楽往生に関する重要な文章を集めて、この書を起こしました。この書は 後の法然や親鸞に多くの影響を与え、浄土真宗各派では 正依の聖教とされて居り、葬祭はこの書を基に執り行われることとなります。

 

 その内容は;

巻上

 第一章 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説く。

 第二章 極楽浄土に生まれる十楽を説く。

 第三章 極楽往生の証拠を書く。

 第四章 浄土往生の道を明らかにする。

巻中

 第五章 念仏修行の方法論。

 第六章 臨終の念仏を説く。

巻下

 第七章 念仏を唱えることによる功徳。

 第八章 念仏を唱えることによる善業。

 第九章 念仏の包容性。

 第十章 何よりも優れているのが念仏であると説く。

であり、六道の苦しみを述べ、極楽浄土の素晴らしさを語り、死後に六道の苦しみから逃れ、極楽浄土で往生するには 一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はない と説きます。

念仏も 浄土宗では観想念仏から 専修念仏へ変化し そして 浄土真宗では 称仏念仏となります。この変化と共に その精神は 広く民衆にも普及し、庶民の葬祭は浄土宗の手にある様になります。

 

 尚 本書は撰述された直後に 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台宗国清寺に運ばれ、僧俗多数の尊信を受けました。又 唐末五代の混乱により散失した教法を復活させるための基とも成りました。

 

   今回は以上です。

 

二十五三昧会

 今回は二十五三昧会(にじゅうご ざんまいえ)について書かせて頂きました。

 

 二十五三昧会は 平安時代 986年に比叡山に於いて慶慈保胤(よししげ たねやす)や恵心僧都源信を中心とした25名の浄土教僧侶により結成され、毎月十五日に集まり 念仏三昧を行い、極楽往生を希求する念仏結社です。この結社で行われた作法は 臨終行儀として 現在の枕経の原型になったとされて居ります。

 

 二十五三昧会の起請文は;

1 毎月十五日に念仏三昧を修すること。

2 光明真言を誦して、土砂加持を修すること。

3 結衆は規律を厳守し、叛いた者は脱退させて、代りの者を補充すること。

4 別所に阿弥陀如来を奉安した往生院を建立し、病んだ結衆はそこに移すこと。

5 病んだ結衆を往生院に移したのちは、二人一組となり昼夜の別なく従い、一人は看病、他の一人は念仏を担当すること。

6 花台廟と名ずけた結衆の墓地を定めて、春秋二回、集まって念仏会を修すること。

7 ひたすら西方極楽浄土を念じ、極楽往生を念ずること。

8 結衆に欠員が出ても、残された結衆は修善によって、先に往生した結衆との縁を保たなければならないこと。

と決まりが述べられて居ります。

 

 毎月十五日に集まって念仏を唱え、同志に病人が出ると皆で看病をし、病が重くなると往生院へ移し、皆で励ましあって重篤な僧の心をやすめ、死去後にはご遺体に光明真言をもって 土砂加持をし、3日の内に墓所に卒塔婆を建てて葬りました。そして 同志の葬儀には必ず出席し、七七日(四十九日)までは七日ごとに集まって念仏を修し、春秋二回同志で集まり念仏を修し、過去帳に名前を記し、祥月命日にも供養するとあります。

 

 臨終に際しては 西方を向いた阿弥陀仏の前に病者を寝かせ、仏の右手に五色の糸を付け、病者の左手にその糸を結んで念仏を唱えながら寝入るように息を引き取ると極楽往生まちがえなし と言われました。こうした臨終の作法(臨終行儀)から 葬祭に於ける阿弥陀仏信仰が浸透して行くことになります。

 

   今回は以上です。

 

 

 

葬儀と聖

 今回は葬儀と聖(ひじり)について書かせて頂きました。

 

 日本に於ける聖とは 寺院を離れ 日本国内を回遊した仏教僧を指し、仏教を庶民の信仰とさせる原動力と成りました。その中で 葬儀を司り、火葬の技術も世に広めて行く事と成ります。その後 学徳の高い僧を聖と呼ぶ様に成り、親鸞は念仏聖であり、聖人(しょうにん)とも呼ばれました。又 鎌倉時代中期の一遍は諸国を遊行しながら念仏を広め 捨聖(すてひじり)と呼ばれました。

 

 奈良時代 僧侶になり出家する為には官度と呼ばれる、官の許可が必要でした。官の許可を得ず出家する事を私度と呼び、官は厳しく禁じて居りました。しかし後期に入ると 私度僧が多く現れ 庶民の間にも仏教が広まって行きます。その指導者を 菩薩や 聖と呼んで民衆から慕われます。この時代に聖集団の頂点に立ち 近畿を中心に数々の社会事業を成し遂げた 民間仏教の指導者が行基です。行基は 当初 朝廷より弾圧を受けますが、広く仏法の教えを説くと共に、治水の為のため池・堀工事、架橋、困窮者の為の布施屋 設立等の社会活動が民衆の圧倒的支持を得て、朝廷もこれを認め、奈良の大仏 建立の実質的責任者として招聘され、大僧正(最高位の位、行基は日本で最初の大僧正)の位が与えられます。

 

 行基集団は 死者の弔いにも従事し、火葬や墓地の開創にも力をつくしました。火葬の技術を開創したのは 行基の法弟であった 志阿弥法師と言われて居りますが、志阿弥は架空の人物です。行基集団は 後に三昧聖として諸国を回遊しました。

 

 尚 仏教伝来以前の 民間信仰の司祭者をヒジリ(日知り)と呼び 太陽の司祭者を指していたと言われて居ります。

 

   今回は以上です。

葬儀の次第

 今回は葬儀の次第(流れ)に付いて書かせて頂きました。

 

 現在の日本に於ける 葬儀の全体的な次第は平安時代にその原型が作られ、江戸時代に 仏教儀礼の式次第が整えられたとされます。

 

 平安時代中期の天皇家葬儀では 危篤状態で 臨終作法として念仏(光明真言)が唱えられ、崩御の後には 陰陽師が呼ばれて 納棺・葬儀の日時や墓所の方角が占われて次第を決めました。この時代には すでに玉体は北枕で安置され、納棺に当っては 皇后・宮さま・しかるべき公卿の手により 事前に沐浴(湯灌)を行い、僧侶も加わって納棺が行われました。出棺の前には僧正による呪願(じゅがん)がなされ、輿に柩が載せられ、葬列を組んで、通常の門を使わず 築垣を壊して道に出、御竈所(みかまどころ、火葬場)へ向かいました。御竈所では ご火葬の前に 導師により呪願が行われ、僧侶立会いの下に荼毘に付されます。夜を通して荼毘が行われ 翌朝 皆でお骨を拾い 白壺に収めて 僧正の光明真言の念誦を受けます。お骨壺は 菩提寺に作られた三昧堂に安置され、七七日の法要、祥月命日の法要、一周忌の法要が行われて、葬送儀礼が終了しました。以上のごとく 日本の葬送習俗の原型はこの時代に出来上がったと考えられて居ります。この原型を基に庶民を含めた仏教の葬送儀礼が江戸時代に整えられました。

 

 光明真言は ”おん あばきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらぼりたや うん” で これを108回唱えます。死者の贖罪に力があるとされ、この真言により加持された砂を遺体にかけると 仏の光明に包まれ、極楽往生出来ると信仰される密教の修法です。なお 罪が許されると ご遺体は柔らかくなり 納棺しやすく成ると信じられても居りました。

 

 呪願とは 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生する事を祈願するものです。当時は 阿弥陀護摩と呼ばれる護摩焚きも行われて居りましたが、これは死者の減罪に力があると信じられて居りました。

 

   今回は以上です。

真言律宗

 今回は先日 葬儀のお手伝いをさせて頂きました、真言律宗に付いて書かせて頂きました。

 

 真言律宗は 空海を高祖と仰ぎ、奈良西大寺の興正菩薩叡尊(えいそん)を中興の祖とし、真言密教の宗義に基ずいて根本仏教の出家戒と金剛乗の修学を目的とする宗派です。総本山は西大寺(奈良市)、大本山として宝山寺(奈良県生駒市)があり、横浜市内には 別格本山として称名寺(金沢区)、鎌倉市には 由緒寺として 極楽寺などが有ります。

 

 鎌倉時代 叡尊は荒廃した既存仏教を批判し、律宗の覚盛とともに それまで国が定めた手続きでしか認められなかった出家戒の授戒を自らの手で独自に行いました(自誓授戒)。その後 西大寺、法華寺、般若寺などの再興を手掛け 朝廷の許可を得ずに独自の戒壇を設けました。そして 弟子の忍性により 民衆への布教が勧められ、一時は禅宗・浄土宗などと勢力をわける様になり、日蓮から 律国賊 との非難を受ける程に成りました。鎌倉幕府による 日蓮への処刑は 幕府への影響力を持つ忍性からの申し出によるものとされます。

当初は 真言宗 西大寺派 や律宗の新派とされて居りましたが、江戸時代前期に 浄厳により 真言律宗の名乗りを上げました。1872年(明治5年) 明治政府は 仏教諸宗派の整理を行い、真言律宗は真言宗に組み入れられました。その後 西大寺の努力により、明治25年真言宗からの独立が許され、真言律宗として再度独立しました。

 

 称名寺は 山号を金沢山(きんたくさん)と号し、真言律宗の別格本山として 金沢区金沢町に位置します。金沢山称名寺は 金沢北条氏の祖 北条実時が開基したとされ、1258年 実時が 居館内に建てた阿弥陀堂が その起源とされます。その後 鎌倉極楽寺の忍性の推薦により 下野薬師寺の僧 審海を招いて開山し、真言律宗の寺院と成りました。又 同じ居館内には 実時が収集した 政治・歴史・文学・仏教などに関わる書籍を収蔵した文庫が造られ、金澤文庫と呼ばれて居ります。現在は 神奈川県立の博物館兼図書館として中世の文化を表わす、貴重な役割を果たして居ります。

 

   今回は以上です。 

法華堂と三昧堂

 今回は法華堂と三昧堂に付いて書かせて頂きました。

 

 天台宗には 法華三昧や常行三昧と呼ばれる行があり、法華三昧を行う為に法華三昧堂が、常行三昧を行う為に常行三昧堂が建立されました。それが 後には 法華堂や三昧堂と呼ばれる様に変化し、法華堂には 明治維新以前の皇族や貴族の墓所として建てられた堂をさしたり、三昧堂は 墓所や葬場を意味する言葉として使われる様に変化しました。

 

 法華三昧は 天台宗の開祖最澄により日本に紹介されました。法華三昧は 法華懺法とも言われ、法華経を読経する事により、この身が清められ、罪障(極楽往生を妨げとなるもの)が消滅する と説かれています。尚 三昧は 心を一つの事に集中して余念を無くす事を意味します。法華三昧は 比叡山に於ける 天台宗の日常修行(朝題目、夕念仏)の一つですが、後に 三昧聖に法華経を唱えさせると死者の霊は清められ、贖罪がされ、地獄に堕ちる事は無い という信仰が広まり、葬儀で重んじられ、故人様の供養や菩提の為に用いられる様になります。

 

 常行三昧は 同じく天台宗の行の一つで 阿弥陀仏の名を唱えながら 仏の教えを悟り、往生を願うもので、法華三昧による贖罪と対になって信仰を集めました。又 常行三昧は 後の浄土教に道を開くものでもありました。この修行を行う所を 常行三昧堂、あるいは 阿弥陀仏堂とも呼ばれ、奥州平泉の中尊寺金色堂は この様式に従うものと言われて居ります。

 

 法華三昧、常行三昧の流行により 天皇家や貴族のご遺骨は 法華堂や三昧堂に収められる事が多くなり、寺院への納骨が一般化して行く事と成りました。

 

   今回は以上です。

火葬と仏教

 今回は火葬と仏教に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬とは 葬送の一手段として ご遺体を焼却する事ですが、従来は 白骨化は成仏の徴(しるし)とする 仏教の伝来と共に日本に伝わったとされて居りました。しかしながら 近年 長崎県大村市の竹松遺跡に於いて 火葬による埋葬と見られる人骨が発見され 2世紀には既に火葬が行われていたと推定されます。又 六世紀後半には火葬が行われていた事が九州で確認されて居ります。

 

 続日本紀によれば 日本で最初に火葬された人は 700年に火葬された 僧道昭であるとされます、又 最初にご火葬された天皇は 702年に火葬された持統天皇であり、その後は 天皇に倣って 公卿、上級役人、武士の間でも火葬が広まって行きました。天皇家、公家社会では明治維新まで 仏教葬、ご火葬が定着して居りました。

 

 持統天皇は 第41代の天皇で、実際に治世を遂行した女帝です。大宝2年12月22日(703年1月13日)に崩御され、その葬儀は仏教を意識して執り行われ、ご遺体は火葬されました。天皇家の葬儀では 素服(白の喪服を着用) と挙哀(ああ 悲しいかな と礼拝する事) が前提とされて居りましたが 天皇は 葬儀を大袈裟にせぬ様 遣詔(いしょう 遺言)を出され 葬儀は倹約をこととし、素服と挙哀は禁止されました。 25日には 朝廷の祈願所である四大寺で法会(設斎)が行われ、29日には西殿にもがりが設けられ、一月五日には初七日の設斎、二月十七日には 七七日(四十九日)として 四大寺を含む33寺院で設斎、四月二日には 御在所に 百ヶ日の斎が設けられ、一年間のもがり の後 ご火葬されて 夫君の天武天皇の陵墓に合葬されました。


   今回は以上です。 

御霊信仰

 今回は御霊信仰(ごりょうしんこう)に付いて書かせて頂きました。

 

 御霊信仰とは 奈良時代末期より盛んになった日本の信仰で、人々を脅かす様な天災や疫病の発生は 恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の怨霊のしわざと考え、これを鎮めて御霊とすることにより 祟りを免れ、平和と繁栄を祈願する事です。平安京への遷都(794年)は 皇太子の地位を廃され憤死した早良親王の怨霊が 新皇太子の病気を引き起こしたとの占いにより、行われました。


 日本に於いて 霊の考えは古くから有りました。人が死ぬと 魂が霊として肉体から離れるという考え方です。縄文時代に見られる屈葬は この考え方の一つとされます。そして この霊が 人々に様々な災いをもたらすという考えが拡大し、政治的 失脚者や、戦乱での敗者などの霊が その相手や敵に災いをもたらすとなり、平安時代の陰陽師の活動と共に御霊信仰と成りました。非業の死を遂げた人の霊は亡霊となり世に災いを成すが、この亡霊を復位させたり、官位を贈り、その霊を鎮魂し、神として祀れば、亡霊は御霊となり 鎮護の神として平穏を与えるとされます。


 記録されているもので最っとも古いものは 775年に子供と共に憤死させられた 井上内親王の祟りにより、その夫である光仁天皇や新しい皇太子が病に悩まされていると考えられ、その死の二年後 井上内親王の墓は改葬され 正式な御墓(天皇家の墓)とされました。御霊信仰をもとにした鎮魂の為の儀式として宮中では 御霊会が行われました。最初の確認出来る御霊会は 863年5月20日に行われました。この御霊会では 崇道天皇(早良内親王の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘逸勢、文屋宮田麻呂、監察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)の6人が祭られました。


   今回は以上です。


  

薄葬令

 今回は薄葬令に付いて書かせて頂きました。

 

 薄葬令は 646年 大化の改新の中で発令された 墳墓の規模や副葬品などを制限した勅令です。大和朝廷が中央集権国家へと変貌して行く過程で 全ての土地と人民は天皇に帰属するとした 公地公民制を推進し、地方豪族を抑える為の施策の一つでした。

 

 石器時代、弥生時代、古墳時代と 権力者の陵墓は時代と共により大きな形(厚葬)へと変化して行きます。その様な中、大和朝廷は 中国の故事に習い、民衆の負担・犠牲を軽減する為として、身分に応じて 作ってよい陵墓の大きさを制限し、身分別の葬制秩序を定めました。その要旨は;

 1 必要以上に大きな墓を作る事は 民の貧窮を招くと警告し。

 2 死者の身分により、墓を作る夫役の延べ人数の上限を定め。

 3 出来れば遺体は一定の墓地に集めて埋葬する様。

 4 もがり や殉死、宝物を副葬品とする事を禁ずる。

となり 墳墓は小型簡素化されて、古墳時代は事実上終わりを告げました。

例えば 持統天皇は703年に崩御し、その葬儀は薄葬でした、天皇として始めて火葬され、独自の陵を持たず、夫の天武天皇の陵に合葬されました。又 この薄葬令をもとに もがり だけではなく、しのびごと(故人の遺徳を讃える儀式)、挙哀(きょあい 悲嘆の気持ちを表わし 礼拝する事)、などの儀礼も姿を消して行きました。

 

 一方 庶民の間では如何かと言うと、薄葬令では 色々な場所に埋葬せず、場所を定めて埋葬する様 と有りますが、実際には 死体遺棄に近い形で葬られたと考えられます。山の麓や川原等に捨てられる事も珍しい事ではなかったと思われます。今昔物語でも 平安京の正門である 羅生門の二階に遺体が遺棄された様子を伝えて居ります。

 

   今回は以上です。

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