葬儀 臨済宗

 今回は葬儀 臨済宗に付いて書かせて頂きました。

 

 臨済宗は 千光国師(栄西 1141〜1215年)を宗祖と仰ぎ、法の精神は 文字で伝える事は出来ないという ”不立文字(ふりゅうもんじ)”の伝統をもつ 禅宗の宗派です。その葬儀は 死者を大悟の境地に導くことを目的として居ります。端的には 死者が仏弟子となり、修行の道に入り、自己の仏性に目覚めることを願う儀式 です。したがって 死者を仏弟子とする為の授戒と、仏性に目覚めさせる為の引導が 葬儀式の中心となります。

 

 臨済宗は多くの派に分かれて居り、代表的な 建仁寺派や東福寺派を含み15の派からなりたって居ります。臨済宗の葬儀式次第としては 特に定められた葬送儀則はなく、各派本山、僧堂、僧侶が個別に 慣例による儀則を作り 執り行われて居りますが、基本的には江戸時代に作られた 清規 を基にして居ります。

 

 葬儀式には 人間は仏の世界から見れば まだまだ修行が不足した存在であるから、縁が無くて この世で修行ができなかったにしろ、この後 仏の世界に縁を結んで、亡くなった後でも 仏弟子として修行に励んで欲しいとの 願いが込められて居ります。又 これによって ご遺族は 亡き人の最後をきちんとしてあげ、故人様の安心(あんじん)を願うと共に、葬儀式を営むことを通して 故人様と共に平静な心(安心)を得、故人様に報いようと自ら促されます。

 

 葬儀式次第は 導師さまにより異なりますが、一般的には 龕前念誦(がんぜんねんじゅ、棺の前でお経をあげる)、鎖龕念誦(さがんねんじゅ、棺を閉ざしてお経をあげる)、起龕念誦(きがんねんじゅ、お経をあげて出棺)、葬列(そうれつ、葬列を組み寺院へむかう)、山頭念誦(さんとうねんじゅ、寺院でお経をあげる)‥‥と昔の葬儀の一連の流れを追う形で行われます。

 

 引導法語は 四六文と言われる形式を用いて漢詩文で書かれるのが普通で、漢詩作法にのっとり、禅の宗旨、生死の安心を示し、故人様の生涯や戒名の意味 を示すなど 様式に従って 導師様の修行を背景として作られます。

 

   今回は以上です。

葬儀 浄土真宗V大谷派

 今回は葬儀 浄土真宗大谷派に付いて書かせて頂きました。

 

 真宗大谷派は 浄土真宗の宗派の一つで 親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、京都市下京区烏丸通り七条の真宗本廟(通称 東本願寺)を本山とします。大谷派、大派、谷派 と略称され お東さん とも通称されます。1602年 顕如上人の長男 教如上人が徳川家康より 烏丸七条に土地を拝領し 真宗本廟を建立して分派しました。明治14年の 宗教団体法により 宗派名が真宗大谷派と定まりました。尚 東京台東区の 浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺 を本山とする 浄土真宗東本願寺派は 1981年に真宗大谷派から 離脱・独立した 別の宗教法人です。

 

 真宗大谷派の葬儀式は 棺前勤行 と葬場勤行からなる ”葬儀式第一”と 告別式形式の ”葬儀式第二”があります。その次第は以下の通りです;

1 葬儀式第一

 1−1 棺前勤行

  (1) 総礼(そうらい) 導師・衆僧が合わせて合掌・蹲踞・起立・蹲踞する礼をなすこと。

  (2) 勧衆偈(かんしゅうげ) 帰三宝偈と同じ。

  (3) 短念仏十遍(たんねんぶつじゅっぺん) 

  (4) 回向(えこう) 我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水‥‥ (十二礼 より)。

  (5) 総礼(そうらい)。

  (6) 三匝鈴(さんそうりん) 三匝の鈴(鈴をきざんで小から大へと打ち上げ、あるいは大から小へと打ち下げる)を打ち出す。

  (7) 路念仏(じねんぶつ) 葬列の際に詠唱するもので 南無阿弥陀仏 4句を1節とする念仏で独特の節回しがある。

 1−2 葬場勤行

  (8) 三匝鈴(さんそうりん)。

  (9) 路念仏(じねんぶつ)。

  (10) 導師焼香(どうししょうこう) 導師焼香のときに総礼。

  (11) 表白(ひょうびゃく) 葬儀式の趣旨を簡略に述べる文。

  (12) 三匝鈴(さんそうりん)。

  (13) 路念仏(じねんぶつ)。

  (14) 弔辞(ちょうじ)。

  (16) 正信偈(しょうしんげ)。

  (17) 和讃(わさん) 本願力あひぬれば、むなしくすぐる人ぞなき‥‥。

  (18) 回向(えこう) 願以此功徳‥‥。

2 葬儀式第二

  (1) 総礼(そうらい)。

  (2) 伽陀(かだ) 先請弥陀入道場‥‥。

  (3) 勧衆偈(かんしゅうげ)。

  (4) 短念仏十遍(たんねんぶつじゅっぺん)。

  (5) 回向(えこう)。

  (6) 総礼(そうらい)。

  (7) 三匝鈴(さんそうりん)。

  (8) 路念仏(じんねんぶつ)。

  (9) 三匝鈴(さんそうりん)。

  (10) 導師焼香(どうししょうこう) 導師焼香の時に総礼。

  (11) 表白(ひょうびゃく)。

  (12) 三匝鈴(さんそうりん)。

  (13) 弔辞(ちょうじ)。

  (14) 正真偈(しょうしんげ)。

  (15) 短念仏(たんねんぶつ)。

  (16) 三重念仏(さんじゅうねんぶつ)。

  (17) 和讃(わさん)。

  (18) 回向(えこう)。

  (19) 総礼(そうらい) 弔電代読。

焼香は 額に押し戴かず 一回となります。


   今回は以上です。 

      


葬儀 浄土真宗U

 今回は浄土真宗の葬儀式に付いて書かせて頂きました。

 

 浄土真宗の葬儀式は ご遺族やご縁故の方々が集まり 故人様を偲んで共に読経念仏して 尊い仏縁にあうという大切なご縁であると共に 亡き人に永遠の別れを告げる葬送儀礼でもあります。華美になることなく、又 見栄や外聞にとらわれることなく、阿弥陀如来のおはたらきによって お念仏をいただかれて お浄土へ還られた故人様を偲びながら、人生における生と死の問題にしっかりと目を向け、浄土真宗に相応しい葬儀式でありたいものです。世間には 葬儀にまつわる様々な 風習や世俗の迷信・俗信がありますが、浄土真宗では それらに振り回される事無く、簡素な葬儀でなければ成りません。

 

 臨終勤行である 枕経では ご本尊の前にご遺体を安置し勤行を行います。本願寺派では 阿弥陀経を読経し、念仏し、和讃、回向を行います。故人様が帰敬式・法名を受けていない時は、おかみそり・法名を枕経の段階で授けます。

 

 通夜勤行は 本願寺派では枕経と同じですが 最後に法話が行われます。通夜の前にご納棺を行いますが、このとき 棺の蓋の内側に 棺書(名号、命日、法名、年齢 等)を書くことが有ります。

 

 本願寺派の葬儀式次第は以下の通りとなります;

1 偈文(げもん)  帰三宝偈

2 念仏(ねんぶつ) 短念仏(ナムイダ あるいは ナンダム)

3 回向(えこう)  

4 お別れの言葉  弔辞に当りますが、死者を讃えるのではなく ”お浄土より我々を照覧して お導き下さい”という言い方を主とします。

5 三奉請(さんぶじょう) 法要を始めるに当たり、阿弥陀如来、釈迦如来、十方如来あるいは諸菩薩衆に入場を請う偈。

6 正信偈(しょうしんげ) 親鸞聖人の”教行信証” に付せられた120句からなる偈。

7 念仏(ねんぶつ) 短念仏。

8 和讃(わさん) ”本願力あひぬれば、むなしくすぐる人ぞなき‥‥。

9 回向(えこう) 

 

 ご遺体を火葬する時に行うのが 火屋勤行で 偈文(重誓偈)、念仏、回向となります。ご収骨のさいに行うのが 収骨勤行で 偈文(讃仏偈)、念仏、回向となります。

焼香は一回 額にはいただきません、香を香炉にくべる前に合掌はせず リンをならしたりもしません。線香を供える際は 一本の線香を 二つ あるいは三つに折り、火を点けた後に 線香を横に寝かせて供えます(寝線香)。

 

   今回は以上です。

 

 

 

 

 

葬儀 浄土真宗

 今回は葬儀 浄土真宗に付いて書かせて頂きました。

 

 浄土真宗は 親鸞聖人を宗祖と仰ぐ仏教の宗派ですが、絶対他力 平生業成を基本とし、全ての人が 阿弥陀如来の慈しみの世界(浄土)に納め取られ 仏と成る と教えます。人の往生、成仏は 阿弥陀如来のひとり働きによるのみで 普段にご信心をいただいているならば 浄土往生と成仏は平生に約束されていることなので 死者のために 成仏を祈る必要はない とされます。従いまして 浄土真宗の葬儀は ご遺体に対してではなく、ご本尊 阿弥陀如来の 仏徳を讃嘆し、故人様を偲びつつ、報謝のまことをささげる儀式となり、他宗派の葬儀で行う 授戒と引導は行いません。

 

 浄土真宗の葬儀では 日常勤行がそのまま移行する形で葬儀式が形成されます。従い 浄土真宗各派(10派、その中で大きな派は 本願寺派(西本願寺)と 大谷派(東本願寺)の二つ)の葬儀の違いは 各派の日常勤行の違いを表わしております。葬儀の目的は各派とも大きな相違は御座いません。

 

 浄土真宗の葬儀が 他宗派と大きく異なる点は 授戒と引導を行わないと共に 回向の意味合いです。通常 回向は ”私達の功徳を死者にめぐらし差し向ける”ことにありますが、浄土真宗では 死者に対する回向は無く、”仏から頂く功徳を仏の本願によって人々におよぼしていただけることを喜ぶ”となります、人間には他に分かち合うだけの功徳が備わっていないと考えるからです。

 

 更に 浄土真宗では 往生即成仏ですので 死出の旅路に必要とされる 死装束は不要となります。霊も認めていません。中陰に付いても 供養をしなければ成仏出来ない とする考えは有りません。穢れを清めると言う考えも有りませんので 浄めの塩も不要で、むしろ失礼にあたると考えます。

 

 浄土真宗に於ける 葬儀式は 死者は死という事実を身をもって示し、私たちに死を迎える用意が出来ているかを無言の内に教えているにであるから、これを機縁としてご本尊 阿弥陀如来に対して 報恩感謝し、仏の教えを学ぶ 聞法 の場であると位置付けております。


 浄土真宗の葬儀に際して 使用しない言葉は以下の通りです;

ご霊前−   ご仏前・ご尊前

祈る−    念じる・お念じ申し上げます

冥福を祈る− 哀悼の意を表します

戒名−    法名

魂ー     故人

ご回向を頂く− おつとめを頂く・読経を頂く

引導をわたす− おかみそりを行う

安らかにお眠り下さい− 私たちをお導き下さい

幽冥境を異にする− 御仏の国に生まれる

天国に昇天する− お浄土に生まれる

草ばのかげー お浄土・み仏の国


   今回は以上です。


 

葬儀 浄土宗U

 今回は前回に引き続き葬儀浄土宗Uに付いて書かせて頂きました。

 

 浄土宗では 臨終行儀を大切にしてきた伝統から枕経を重視して居り、このときに授戒するのが基本とされて居りました。しかし 現在では 枕経は 来迎仏をあげて念仏だけで良い と変化し、授戒は通夜のときに行うのが一般的となっております。

 

 浄土宗に於ける葬儀式は 堂内式と称します。その次第は以下の通りです。但し 葬儀式をご自宅で行う場合は 省略される部分も御座います;

序分(諸仏をお迎えし、讃嘆し、仏前で懺悔する部分)

1 洪鐘(こうしょう) 法要があることをご案内。

2 法鼓(ほうこ) 法要の開始準備をご案内、ご遺族・参列者 入堂。

3 喚鐘(かんしょう) 導師・式衆 入堂。

4 作相(さそう) 威儀を整える。

5 香偈(こうげ) 香を焚き、清らかな心になることを願う。

6 三宝礼(さんぽうらい) 仏・法・僧の三宝に礼をする。

7 奉請(ぶじょう) 諸仏の入場をお願いする。

8 懺悔偈(さんげげ) 迎えた仏、菩薩に対し自己の罪業を懺悔する。

正宗分(仏の説法を聞き 念仏し その功徳を回施する部分)

9 転座(てんざ) 向きを本尊から柩に変える。

10 作梵(さぼん) 転座する際に梵語の 四智讃を唱える。

11 合はち(がっぱち) はちを鳴らす。

12 鎖龕(さがん) 棺を閉ざす儀式。

13 起龕(きがん) 葬場へ赴くために柩を起こす儀式。

14 奠湯(てんとう) 葛湯を霊前に供養する儀式。

15 奠茶(てんちゃ) 茶を霊前に供養する儀式。

16 霊供(りょうぐ) 仏飯を霊前に供える。

17 念誦(ねんじゅ) 念誦僧が節をつけて唱えること。

18 下炬(あこ) 二本の松明を持ち、1本を捨て、残りの1本で一円を描き、下炬引導文を述べる。捨てるのは 厭離穢土(えんりえど)の意味、一円を描くのは欣求浄土(ごんぐじょうど)の意味を表す。終えると同時に松明を捨てて 十念を授ける。

19 弔辞(ちょうじ) 弔辞がある場合は ここで拝読。

20 開経偈(かいきょうげ) 誦経に際して 教えの真義を体得することを願う。

21 誦経(ずきょう) 四誓偈か仏身観文を読経、この間に焼香。

22 摂益文(しょうやくもん) 念仏を唱える者は皆仏に守られる との偈。

23 念仏一会(ねんぶついちえ) 救われる幸いを喜び、感謝し、数多く念仏を唱える(この間に向きを柩から本尊に変える)

24 回向(えこう) 死者の霊に誦経・念仏の功徳を捧げる。

25 総回向(そうえこう) 誦経・念仏の功徳を一切のものに振り向け、往生を願う。

流通分(誓いを新たにして仏をお送りする部分)

26 総願偈(そうがんげ) 仏道修行の四願を誓い、成就を念じ往生を願う。

27 三身礼(さんじんらい) 阿弥陀仏への帰依を表明する。

28 送仏偈(そうぶつげ) 諸仏諸菩薩を心からお送りする。

29 退堂(たいどう)

焼香は 仏や亡き人にご自分の真心をささげて供養すると共に 自らの身心を清らかにする為に 焚きます。

焼香をする際には 香炉の前に姿勢を正して合掌し、一礼した後、香合のお香を右手の親指、人差し指、中指の3指で軽くつまみ、その手を仰向けにし、この右手に左てを添えて、これを恭しく額の高さまで持ち上げ、そして 香炉の炭の上にくべます。くべ終わりましたら 再び合掌をして 最後に一礼します。焼香の回数は特に拘りません。

 

   今回は以上です。

葬儀 浄土宗

 今回は葬儀 浄土宗に付いて書かせて頂きました。

 

 浄土宗は 法然上人を宗祖と仰ぎ その教えは ただひたすらに仏に帰依すれば必ず救われる とし 南無阿弥陀仏 を口に出して唱えれば、必ず仏の救済を受けて平和な毎日を送り、浄土へ生まれ帰ることができる という 他力のおしえをひろめています。浄土宗の葬儀は 故人様を仏の弟子として 仏の本願により阿弥陀仏の下である極楽浄土に往生することを教え導き、本来の住処 生命の根源である極楽浄土へ立ち戻る凱旋式として行うとも考えられます。

 

 浄土宗では 生きていると言う事は 死に向かっている事で有り 人間を含めた生物は この世に生を受けた瞬間から必ず死を迎えること それを定めとして生活している と説きます。古い時代には 人の寿命も短く 医療も十分でない中で 死は身近な出来事でも有りました。その様な中で育まれた 習慣やしきたりから 現代の葬儀式があります。浄土宗の葬儀式では 故人様を極楽浄土へお見送りすると共に 参列された方々にも 、深い悲しみの内にも自らの死の意味を問い、清浄な心で仏の教えに耳を傾け、授戒し新しく仏の弟子となった 故人様と共に、一心に念仏する生活に生きる決意をする契機となるよう願っています。

 

 浄土宗の法要は 序文(法要を行うに当たって仏をお迎えする部分)、正宗分(法要で仏のお話を伺う部分)、流通分(法要を終えた後に感謝して仏をお送りする部分)の3段階で構成されます。この通常法要に授戒と引導を加えた形が葬儀式となります。授戒は 仏法に縁のなかった人でも 戒名を授けて仏に弟子とする事で、引導は仏の弟子として教え導くことです。生前に授戒されている方には 授戒は省略され 引導だけを行います。僧侶の場合には 授戒も引導も行いません。

 

   今回は以上です。

 

葬儀 真言宗U

 今回は葬儀 真言宗Uに付いて書かせて頂きました。

 

 真言宗は 弘法大師空海を開祖とする 真言密教の教えで、この身のままで仏になる即身成仏を目指しています。ご本尊は大日如来で その葬儀は 故人様を大日如来の密厳浄土、あるいは 弥勒菩薩の浄土である 都率天に送る儀式であります。高野山 金剛峰寺の奥ノ院で入定した空海は 弥勒菩薩が地上に降りてくる時に力を合わせて人々を救済すると言われて居ります。

 

 高野山真言宗では まず ご遺体を納棺してから、柩の前で授戒が行われます。真言宗の葬儀の特徴は 灌頂(かんじょう)の儀式にあると言われます。灌頂とは 頭に法水をそそぎかける事で、密教では 仏の位にのぼる為の重要な作法となります。故人様の霊を浄土にお運びする役目は弥勒菩薩で、この弥勒菩薩の来迎をを頂いて 故人様の霊を弥勒の浄土に成仏させることが 葬儀式の目的となります。その式次第は以下の通りです;

1 洒水(しゃすい)

  加持された法水を注いで 故人様の身心を浄める。

2 加持供物

  仏前に供えられた供物を加持して浄める。

3 三礼(さんらい)

  三礼文を唱えて仏法僧を礼拝する。

4 剃髪

  剃刀を執って偈を唱える。

5 授戒

  故人様に戒律を授けます。十善戒 又は 五善戒を授けます。

6 授戒名

  故人様に戒名を授けます。

7 表白(ひょうびゃく)

  本尊大日如来をはじめ 諸仏諸菩薩を讃え これから行う儀式の成就を祈ります。

8 神文(しんぶん)

  諸仏諸菩薩の降臨を感謝し、故人様の贖罪、生善、成仏を願う。

9 教化(きょうけ)

  故人様が即身成仏の正覚を得る為に、その開発、教化を願う。

10 引導の印明

  臨終の大事を授けます。

11 破地獄の印明

  故人様の心内の地獄を破砕する。

12 五鈷杵授与偈文(ごこしょじゅよげもん)

  如来の五智を表現する五鈷杵を授けて灌頂とする。喝を三遍唱える。

13 真言

  真言を授ける。

14 大師御引導の大事偈文

  弘法大師による引導の印明、偈文を授け即身成仏の境地に引導する。真言宗引導の中心。

15 開眼の印明

  仏眼の印明により故人様を加持し、位牌を開眼します。

16 授血脈(じゅけちみゃく)

  大日如来から弘法大師に至る系譜の後に導師名、故人様戒名を加え、真言密教の師資相承の血脈を授ける。

17 六大の印明

  地・水・火・風・空・識の六大縁起による生命の境界を与えて引導を授ける。

18 諷誦文(ふじゅもん)

  導師により 故人様の生前の功績と徳を讃え、その成仏を願う文 が読まれます。

以降 弔辞、弔電、焼香、祈願、導師最極秘印、出棺と続きます。

尚 焼香は 戒香、定香、解脱香の3っを 仏法僧に捧げる意味で 三回行います。

   今回は以上です。  
















    

葬儀 真言宗

 今回は葬儀 真言宗に付いて書かせて頂きました。

 

 真言宗の葬儀観は 弘法大師の作と伝えられる 御詠歌により端的に示されております。御詠歌は ”阿字の子が 阿字の古里 立ち出でて また立ち帰る 阿字の古里” と詠まれます。阿は ご本尊である 大日如来と その生命を表し、葬儀は 大日如来の阿字へ還ることを意味します。葬儀の精神は 亡者(死者)を宇宙生命の源である 大日如来の大生命に包まれている 弥勒菩薩の浄土である 都率天(とそつてん 都率浄土とも言う)へ帰還させることです。

 

 真言宗の葬儀式は 即身成仏への引導作法として示されます。即身成仏とは この身このまま仏になること、身・口・意(しん・く・い)が行者と仏において一体となることです。こうなる為の修行を三密と呼びます。葬儀の前段階は 大日如来との一体感へ導くための準備段階の作法で、剃髪(ていはつ)、授戒(じゅかい)、戒名に授与 が行われます。後段階は 大日如来との永遠の生命との一体感に係わる作法となります。亡者(死者)に真言の教義を教え、一刻も早く仏弟子にする(即疾成仏 そくしつじょうぶつ)ため お経は微音で速めに読まれます。真言宗は 古儀真言宗と 新義真言宗に大別されますが、葬儀の基本思想に大差は有りませんが、高野山真言宗の古儀真言宗では 引導法の基軸を即身成仏に捉え、新義真言宗である 真言宗豊山派や真言宗智山派は 即身成仏に浄土思想を付加して捉える という違いがあります。尚 実際の葬儀の進行に当たりましては 宗派の違いだけではなく、地域によりましても異なる場合が御座いますので、ご導師様との事前確認が肝要となります。


 真言宗の葬儀式に於ける 焼香は 戒香、定香、解脱香 の3っを 仏法僧の三宝に捧げる意味で 三回行います。


   今回は以上です。 

葬儀 天台宗U

 今回は前回に続き天台宗の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 天台宗の教えでは衆生は全て仏性を持っており、必ず仏になることが出来ると説きます。仏に成る為には 仏様と縁を結ぶ事が大切となり、その為 葬儀にあたっては 先ず心身ともに仏様の弟子になるための儀式を行い、その後 仏弟子としてこの世(娑婆世)を離れ 仏の国(浄土)へ向かう事となります。

 

 葬儀

1 身体を清浄ににする。

 仏の浄土への門出に際し 姿形を改めて清浄にします。洒水(しゃすい 水で清める) 塗香(香で清める)で清めた後、髪を剃ります(剃髪)。剃髪は煩悩を除き去る儀式として行いますが 実際に髪を剃る事はあまり行われません。

2 心を清浄にする。

 次に心を清浄にします。私たちが生きて行く為には多くの助けを受けなければ成りません。生きてゆくこと自体が他の犠牲の上で成り立ち、意識 無意識に係わらず多くの罪を背負ってもいます。それらを懺悔し 心を清浄にするため懺悔の文を唱えます。

3 戒名を授かる(三帰授戒)

 心身ともに清浄になったところで、いよいよ仏の教えを授かります。ここで授かる教えは 仏教徒としての基本である 三っの戒めであります。第一は帰依仏 先ずなんと言っても仏を信じなければ始まりません、第二は帰依法で 仏の残された教えを法と言い それを信じることです、そして 第三が帰依僧で 仏の法えお実践する人を僧と言い 僧の教えに従い それを拠り所にして暮すことです。この三っを仏様に誓うことで 成仏の縁を受ける事ができます。

4 戒名

 戒を受け終わった証が戒名です。戒名は仏の弟子としての名前です。法名とも言われ 漢字二文字で表わされます。現在では 法名の上に道号二文字や院号などが付けられますが 仏弟子としての大切な名前は法名の二文字です。法名は生前に授戒して仏様を心に頂いて生活する事が本来の姿ですが、葬儀の中で頂くことも出来ます。

5 引導(いんどう)・下炬(あこ)。

 旅立ちの準備も整い、いよいよこの世とのお別れとなります。全ての執着心を絶って浄土に向かう訳です。最後にもう一度 仏の教えにより、必ず成仏することを 旅立ちの錢として言い渡すのが引導です。次に 霊棺に松明で火を点ける下炬の儀式を行います。勿論 実際に火をつける訳ではありませんが、釈尊の最期に倣って 火葬の儀式を行うわけです。

6 念仏

 最後に 新霊の往生(浄土に生まれ直す)をお迎えの阿弥陀如来にお願いし 十返のお念仏が唱えられて葬儀は終了します。

本内容は天台宗のHPを参考に書かせて頂きました。

   今回は以上です。

葬儀 天台宗

 今回は 葬儀 天台宗に付いて書かせて頂きました。

 

 天台宗では 死は誰にでも訪れ、生者必滅、出会いの後には必ず別れがあり、これが この世の真実である。そして 残された者にとって ぽっかりと空いた穴は埋めがたく、その悲しみは 哀惜の情が深ければ深いほど大きいものでしょう。しかし 嘆いても死者が蘇えるものではありません。悲しみを乗り越えて送り出さなければならない。と説きます。

 

 天台宗の葬儀は 三種の儀礼によって営まれます。顕教法要の法華懺法(ほっけせんぽう 法華経を読誦する事で煩悩を薄くし減罪する作法)、例時作法(れいじさほう 阿弥陀経を読誦する事で極楽往生の指南とする作法)、そして 密教法要の光明供(こうみょうく 阿弥陀如来の来迎を得てその指導の下に故人を引導して仏となす作法)です。顕教とは仏法を理解しやすいように文字や言葉を用いて説くものであり、密教とは仏と自身が一体であることを念じ 仏の加護により仏の境地に達っしようとする秘法のことです。天台宗では顕密一致を説き、供養する遺族・縁者と 供養される故人が一体となり、仏の本性を開発し、共に仏道を成してゆくことが 天台宗の葬儀の本質であるとされます。 

 

枕経・通夜

 葬儀に先立ち通夜を行います。古くは臨終に当たり 臨終行儀と呼ばれる儀式が有りましたが、最近では稀と成りました。又 地域によっては 枕経をあげる場合があります。通夜は 近親の方々にとって故人との最後の交流の機会でもあり、又 死そのものを直視し考えるかけがえのない機会とも言えます。通夜の儀式は 新霊の浄土への引入を祈る事が中心となります。多くは阿弥陀如来のお迎えを頂戴するお経が唱えられます。(来仰仏)

 

   今回は以上です。次回は葬儀・告別式に付いて書かせて頂きます。

神葬祭 W

 今回は神葬祭のW回目を書かせて頂きました。

 

 神葬祭では ご遺体の埋葬を終え、帰家祭 直会をもって一段落となりますが、以降 百日祭までを霊前祭、一年祭以後を式年祭といい 節目毎に故人様の霊に考敬を尽くします。霊前祭には 翌日祭、十日祭、二十日祭、三十日祭、四十日祭、五十日祭、百日祭が有り 夫々 霊前・墓前に考敬を尽くします。式年祭は 一年祭、三年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭、五十年祭と続きますが、二十年祭までが一般的と成って居ります。尚 年数は仏教とは異なり満年数で行います。

 

 霊前日供の儀

霊璽を祖霊舎に合祀するまで(五十日祭まで)は 霊前に朝夕の二回 常饌(日常の食物) あるいは生饌(洗米、塩、水)をお供えします。

 霊前祭

翌日祭; 葬儀の翌日に 葬儀が無事終了した事を霊前に報告する為の式ですが 最近はほとんど行われなくなりました。

毎十日祭; ご逝去の日から数えて十日毎に 霊璽、ご遺影、お供物を飾った仮霊舎の前で 神職により営みます。近年は 十日祭を繰り上げて帰家祭と合わせて行い、二十日、三十、四十祭は省略される傾向に有ります。五十日祭は 仏式の四十九日に当るもので、この日をもって忌明けとなります。本来は墓前で、そうでなければ自宅あるいは式場に神職をお迎えし、祭詞奏上 玉串奉奠などを行い、その後 参会者で会食をしながら故人を偲びます。五十日祭の後に清祓いの儀を行い 神棚や祖霊舎の白紙を取り除き、霊璽を仮霊舎から祖霊舎にお移ししてご先祖の霊と合祀します。

百日祭; ご逝去後 百日目に行いますが、近年は省略されるケースが多くなりました。

 

 式年祭

最初の式年祭は一年祭となります。仏教の一周忌にあたり 重要な祭儀となります。一年祭をもって 喪明けとなります。一年祭までは 柏手は 音をたてない しのび手で行いますが、以降は音をたてる 通常の柏手に戻る事と成ります。以後は三年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭と供養を行い、五十年祭をもって打ち上げとなり、故人様の霊はご先祖の霊へと合わさる事に成ります。但し近年では 二十年祭で打ち上げとされるご遺族も多く成られました。

 

   今回は以上です。 

神葬祭V

 今回も前回に引き続き 神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭は神道に於ける葬儀式ですが 前回までの枕直しの儀、納棺の儀 に続きまして 通夜祭、遷霊祭、蔡場祭、火葬祭、埋葬祭、帰家祭、直会、そして 御霊祭と執り行われます。又 神葬祭に於いて 仏式との相違は 戒名・法名に代わり 諡(おくりな)が贈られ、その諡は霊璽(れいじ 仏式の位牌)に記されます。更に線香は使わず 代りに玉串を使用します。玉串とは 榊などの木の枝に紙垂を付けたもので、この紙垂は 参拝者の真心を表わすものとされます。

 

 通夜祭は 故人様がご逝去された後 葬儀を行うまでの間 ご遺体に付添い生前同様の礼を尽くして手厚く奉仕する大切な儀式です。通常は遷霊祭の前夜に行うのが一般的で、仏式の通夜式にあたります。

 

 遷霊祭とは 故人様の霊を ご遺体から霊璽に遷し留める儀式で、御魂移しの儀が 主なる目的で、本来は夜間に灯火を消して執り行います。神職は祝詞を奏上し、ご遺族・参列者は玉串を奉って拝礼します。現代では昼間に執り行うのが普通と成りましたので、夜を象徴するように 部屋を暗くして執り行う事が一般的と成りました。

 

 蔡場祭は 遷霊祭の後 故人様との最後の別れを告げる儀式で 神葬祭最大の重儀です。弔辞の奉呈、弔電奉読、神職による祝詞奏上、玉串奉奠などが行われます。仏式の葬儀・告別式に当る儀式です。

 

 火葬祭は ご遺体を火葬に付す前に、火葬炉の前で行う儀式で、神職が祝詞を奏上し、ご遺族は玉串を奉って拝礼します。

 

 埋葬祭は ご遺骨を墓地の奥津城(神道のお墓)に納骨する儀式で、奥津城の四方に竹を立てて 注連縄で囲い、ご遺骨の埋葬、祭詞奏上、ご遺族の拝礼が行われます。神葬祭では火葬を終えたご遺骨は そのまま墓地へ移動して埋葬します。しかしながら 最近ではご遺骨をご自宅に持ち返り、五十日祭で埋葬されるケースも多くなりました。


 帰家蔡 と直会(なおらい)は ご火葬・ご埋葬を終えてご自宅に戻りましたら、神職のお祓いを受けて家の門戸に塩をまきます。その後 神棚と祖霊舎(仏式の仏壇)に葬儀が滞りなく終了したことを報告します。その後に 葬儀でお世話になった神職、世話役などの労をねぎらい、直会を開いてもてなします。直会の終了により 葬儀に関する儀式は全てを終えることとなります。


   今回は以上です。


神葬祭U

 今回は前回に続き神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭は 日本古来の宗教である神道の葬儀ですが、全国的に統一された式次第(祭式)が有る訳では有りません。神道は 日本古来の自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰だからです。従いまして 地域によって、神社によって、更には斎主となる神職によっても 異なった祭式となります。とは言え 大きな混乱を招かぬ様、神社本庁では ”神葬祭の栞(しおり)” という小冊子を用意して 信徒の方のお手伝いをして居ります。

 

 前回は納棺前に行う事を書かせて頂きましたが、それ以降 神葬祭の最初の儀式であります 枕直しの儀 からご説明致します。

ご逝去されたご遺体には 白の小袖をお着せし 病室から殯室(ひんしつ ご遺体を安置する部屋)にお移しします。殯室では ご遺体は頭を北 若しくは 部屋の上位に向かって右に来るように 安置します。そして 白布で顔を覆い、枕元に枕屏風を立て、小案(小机)を備えて その上に守り刀を置き灯火を点けます。守り刀は柄を向こうにして 刃をご遺体に向けない様に置きます。ご遺体の前には 案(白木八足の机)を設けて 上に 故人様が生前好まれた常饌(じょうせん 日常の食べ物) や生饌(せいせん 洗米・塩・水)をお供えし、御家族やご親族は謹んで ご遺体の側近くでご奉仕します。

 

 次には 納棺の儀式 となります。ご遺体を棺にお納めする儀式ですが、まず ご遺体を湯灌などによりお清めして、神衣をお着せします。男性であれば 白の狩衣に烏帽子を被らせ、女性であれば白の小袿に扇を持たせて 柩にお納めします。お納めした後に 柩の蓋を閉め、白い布で柩を覆い、正寝(表座敷 神葬祭式場)に移動して、柩前を装飾し饌をお供えして 全員で拝礼します。尚 地域によりましては 柩の蓋をする前に 榊の葉に水を付けて口を湿らせる 末期の水 の行事を行う場合も御座います。


   今回は以上ですが、次回は通夜祭以降を書かせて頂きます。

神葬祭

 今回は神葬祭について書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本古来・固有の宗教である神道の葬儀を言います。神道に於いては ”人は皆 神の子であり、神の計らいにより母の胎内に宿り、この世に生まれ、この世での役割を終えると神々の住まう世界に帰り、子孫たちを見守る” と考え、従って 神葬祭は 故人様に家の守護神となって頂く為の儀式であります。神道に於いては死は穢れとされて居り、神葬祭は聖域である神社では行わず、自宅 又は別の式場で行います。又 仏教に於ける戒名・法名に代わり 諡(おくりな)が贈られます。

 

 神葬祭を執り行うに当たりましては まず斎主(葬儀を担当する神職)様にその手順、注意事項を確認頂く必要が御座います。その上で ご納棺の前に行う事は以下の通りです;

1 まず神棚と祖霊舎(ご先祖を祀る舎)に 故人様が帰幽(ご逝去のこと)したことを奉告し、その後 前面に白紙を貼ります。

2 病気平癒などを祈願した神社があれば、その祈願を解き 故人様の帰幽を奉告します。ご自分で神社に礼拝出来ない場合は 代参を送るか、遥拝(ようはい 遠くより礼拝)により奉告します。

3 葬儀執行の為の 斎主、副斎主、祭員、伶人(れいじん 雅楽を奏でる人)などを委嘱します。

4 各祭で必要な 幣帛(へいはく 進物)、神饌(しんせん 食物)、玉串、その他 の数量や程度を協議し決定します。

5 霊璽(れいじ 仏教の位牌)、墓誌、銘旗、墓標等の揮毫を依頼します。

以上を終えましたら 枕直しの儀に入りますが 以降は次号で書かせて頂きます。


日本のイスラム教

 今回は日本に於けるイスラム教に付いて書かせて頂きました。

 

 イスラム教は 全世界に16億人の信者を持つ世界第二位の宗教で、唯一絶対の神アラー(アラビア語でアッラ−フ)を信仰し 神より送られた預言者ムハンマドを通して人々に下されたコーラン(クルアーン)の教えを信じ 従う 一神教の宗教です。日本へは明治維新後 日本に滞在したロシア人、インド人、トルコ人のイスラム教徒(ムスレム)により伝えられました。特にロシア革命により祖国を逃れ 来日したカザフ人が 日本のイスラム教に大きな役割りを果たしたと言われます。日本に於けるイスラム教徒は中東出身者を中心として 7万人とも20万人とも言われますが、何れにしろ多くは有りません。

 

 イスラム教は 西暦610年頃に ムハンマドは メッカ(現在のサウジアラビア国内)の郊外で 天使ガブリエルよりアラーの啓示を受けたと主張し、以後 アラビア半島でイスラム教の布教を始めました。その後 拡大と分裂を繰り返しながら信徒を増やし続け 八世紀半ば以降 アラブ帝国からイスラム帝国へと変貌し そのテリトリーもアラビアから 西アフリカ、東アフリカ、南ヨーロッパ、中央アジア、インドへと広がりました、その後 キリスト教との争いから弱体化し、現在に至ります。その教義は六信と五行から成ります。六信は6っの信仰箇条で 1 神(アラー)、2 天使(マラーイカ)、3 啓典(クトゥブ)、4 使徒(ルスル)、5 来世(アーヒラ)、6 定命(カダル) から成り 五信は5っの信仰行為で 1 信仰告白(シャハーダ)、2 礼拝(サラー)、3 喜捨(ザカート)、4 断食(サウム)、5 巡礼(ハッジ)から成ります。イスラム教の教えは その解釈の仕方により 世界一般の概念と異なる部分も有り、その差異が多くの摩擦を生み出して居ります、ジハードの概念、信教の自由、偶像崇拝、女性差別、一夫多妻、女性の服装規定 等です。

 

 日本に於けるイスラム教 最初期の日本人教徒としては 明治時代にインドで貿易商をしていた有賀文八郎氏が著名です。日本国内最初のモスクは愛知県名古屋市に1931年建設された名古屋モスクで それ以外にも 兵庫県神戸市の神戸モスク、東京都渋谷区の東京ジャーミィ等が有名です。著名な日本人モスレムとしては 山岡幸太郎氏(オマル山岡 日本人初のメッカ巡礼者)、三田了一氏(オマル三田 コーランの日本語訳者の一人)、市来龍雄氏(アブドルラフマン市来 インドネシア独立戦争 義勇兵)、吉住留五郎氏(アレフ吉住 インドネシア独立戦争義勇兵)、谷豊氏(日本軍諜報員 マレーのハリマオ)他が居られます。

 

   今回は以上です。

日本のキリスト教

 今回は日本のキリスト教について書かせて頂きました。

 

 キリスト教の日本への伝来は 16世紀 ローマカトリック教会の一派であった イエズス会のバスク人司祭 フランシスコ・ザビエルによるとされて居ります。戦国時代のさなか 1549年ザビエル達イエズス会の宣教師により布教が開始され、織田信長の庇護を受ける事に成功し順調に信者を増やしましたが、仏教徒や神道徒を迫害する事例などから豊臣秀吉から宣教の禁止が出され、更には徳川幕府の鎖国令に伴い禁教として信仰を禁止されました。キリシタン(キリスト教徒)は地下に潜り 隠れキリシタンとして信仰を伝える状態が江戸時代末まで続きます。明治時代に入り信教の自由が許されると ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教、プロテスタント各教が相次いで来日し 布教活動を開始しました。現在の日本では ローマ・カトリック教会は カトリック中央協議会となり、ギリシャ正教会系は日本ハリストス正教会教団として活動して居ります。プロテスタント系では 最大の教団として プロテスタント諸教派が合同してできた日本基督教団、他に 英国国教会系の日本聖公会、ルター派の諸教団(ルーテル教会)などが有ります。

 

 日本へキリスト教が何時 伝来したかに付いては諸説御座います。その一つは 5世紀頃 中国で景教と呼ばれていた ネストリウス派キリスト教が 秦河勝(はたのかわかつ)などにより 日本に持ち込まれたとする説が有りますが 歴史的な証拠や文書による記録が少なく 定説とななって居りません。16世紀 イエズス会来日の背景は ローマ・カトリック教会の 権威回復と収入拡大に有ります。16世紀 ドイツで起きた マルティン・ルターによる宗教革命は ヨーロッパ各国に波及し、教皇の権威に陰りが見え始めました。プロテスタント勢力への対抗上、新たな信者を増やし 献金を期待して 教団の目はアジアに向けられ、イエズス会やフランシスコ会の多くの宣教師が インドや東南アジアに派遣され 更には極東の日本にまで進出する事と成りました。

 

   今回は以上です

禅宗 曹洞宗

 今回は禅宗 曹洞宗(そうとうしゅう)に付いて書かせて頂きました。

 

 曹洞宗は 鎌倉時代に道元禅師により中国から伝えられた 日本の禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)・普化宗)の一つで、”正伝の仏法” を伝統とし 南無釈迦牟尼仏として釈迦をご本尊と仰ぎ  修証一如(無限の修行こそが成仏である)、只管打坐(しかんたざ、ひたすら座禅する事)をもっぱらとし、座禅を通して 真実の自己・仏性に目覚め、懺悔・菩薩心の働きによる菩薩行により他者に働きかけ活かすことを教義とします。大本山は 福井県吉田郡の 吉祥山永平寺(ご本尊 釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来)と 神奈川県横浜市鶴見区の 諸嶽山総持寺(ご本尊 釈迦如来)の二寺が有ります。

 

 道元禅師は 1200年京都に生まれ、14歳で天台宗座主公円の下で出家し 仏法房道元と名乗ります。その後 三井寺で天台教学を修め、1217年より京都建仁寺にて栄西の弟子 明全に師事します。1223年 明全と共に南宋に渡り 諸山を巡って修学し、曹洞宗禅師 天童如浄より 印可を与えられ 1228年に帰国します。帰国後 1233年京都深草に興聖寺を開きますが 比叡山からの度重なる弾圧を受け、1243年 越前国の地頭 波多野義重の招きに応じて 越前志比荘に移り 傘松に大仏寺(後に永平寺)を開き 自ら貫首となります。そして1253年病を得て 貫首の座を 弟子の弧雲懷ジョウ(こうんえじょう)に譲り、京都高辻西洞院で没っしました。享年は54歳でした。

 

 道元禅師は 自らの教えを 正伝の仏法であるとして セクショナリズムを否定し、弟子達にも特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗として見られることすら 拒否感を示したと伝えられます。従いまして 道元の下に集まる人々により教団が形成されましたが 特定名称を持ちませんでした。宗派の呼称として曹洞宗を用いる様になるのは 宗団の太祖と仰がれる 第四祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の頃からで、瑩山により 禅の大衆化と 現在の様な大教団なる為の基礎が築かれました。総持寺は瑩山により 能登で開山しましたが 明治時代に焼失した為 現在の横浜市鶴見に移して建立されました。

 

   今回は以上です。

 

禅宗 臨済宗

 今回は禅宗の臨済宗(りんざいしゅう)に付いて書かせて頂きました。

 

 日本の臨済宗は 平安時代末 中国宋に学んだ栄西により日本に伝えられた 禅の宗派の一つで、悟りを開く事を目的とし、座禅 禅問答 詩 絵画 や建築などを通して、師から弟子へ悟りを伝えます。禅宗に於ける悟りとは ”生きるもの全てが本来もっている本性である仏性に気付く”、そして 仏性とは ”言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力”のこと と説かれます。 鎌倉・室町時代と  幕府の庇護を受けて大きく発展すると共に多くの派に分かれ臨済十四派と言われ、教義内容は同じですが 14の派が大本山をを持ちます。最大宗派は 栄西が建立した 京都 東山建仁禅寺を大本山とする 建仁寺派で ご本尊は釈迦如来です。神奈川県内には建長寺派と円覚寺派の 二つの大本山が鎌倉に建立されており それぞれ 巨福山 建長興国禅寺(ご本尊 地蔵菩薩)、瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ご本尊 宝冠釈迦如来)を中心として布教活動が行われて居ります。

 

 臨済宗は ゴータマ・シッダッタ(釈迦)の教え(悟り)を直接に受け継いだ マハーカ―シャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨 達磨大師)によりインドから中国へ伝えられ、それから起きた中国禅宗五家(臨済、蕩仰、曹洞、雲門、法眼)の一つで、日本には 栄西以降 中国から各時代に多くの僧により伝えられました。特に 江戸時代の白隠エイ鶴は有名です。

 

 栄西は 1141年備中国賀陽郡(岡山県加賀郡)に吉備津神社の禰宜の子として誕生し、1154年14歳で比叡山延暦寺にて出家得度します。以降 延暦寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学びますが、形骸化し貴族政争の道具と化した天台宗を立て直すべく、平氏の庇護を受けて1168年南宋に留学し、天台山万年寺などで修学します。その当時 南宋では禅宗が繁栄して居り、日本の仏教精神立て直しに活用すべく合わせて修行を受け、日本へ帰国します。1187年 再度入宋し 臨済宗で修行を重ね、1191年 臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受けて帰国します。帰国後は九州博多を中心に布教活動を始めますが、天台宗からの排斥を受けたり、既存勢力との摩擦も多く、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ます。1200年北条政子建立の寿福寺の住職に就き、1202年には源頼家の外護を得て 京都に建仁寺を建立し 禅宗の振興に努めます。1212年には 法印に叙任、1213年には 権僧正に栄進、そして 1215年7月5日 京都建仁寺で入滅しました。享年75歳でした。

 

   今回は以上です。

 

日蓮宗系

 今回は日蓮宗系に付いて書かせて頂きました。

 

 日蓮宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで日蓮上人を開祖とし、法華宗とも称されて居ります。日蓮上人の没後 多くの弟子達により布教が行われ、それに伴い 多くの派にも分かれて居りますので、日蓮宗系とさせて頂きました。日蓮上人は釈尊の教えの全ては法華経(妙法蓮華経)に凝縮されて居り、久遠の本仏として釈尊を諸仏の根源とすべきこと、滅後末法の世の衆生の救済は法華経の護持によりなされる、そして 南無妙法蓮華経(法華経に帰依する の意味)を題目として唱えよ と説きました。日蓮宗の総本山は 山梨県南巨摩郡身延町の 身延山久遠寺で ご本尊は三宝尊です。三宝尊とは 仏・法・僧の三宝をさし 仏の第一を釈迦如来、法の第一を法華経、僧の第一を日蓮大菩薩(後光厳天皇より、大正天皇よりは立正大師が贈られる)として祀られます。

 

 日蓮は 1222年安房国(千葉県鴨川市)の小湊で生まれ、11歳で地元の清澄寺の道善房に入門し、16歳で出家し是正房蓮長の名を与えられ、23歳の時 比叡山にのぼり就学し、その後 三井寺、薬師寺、高野山、天王寺、東寺などで遊学し、1253年 31歳で安房の清澄寺に帰山し 4月28日 朝 日の出に向かい 南無妙法蓮華経 と題目を唱えました(立教開宗の日)。そして 名を日蓮と改め、翌1254年 鎌倉に出て 辻説法を始めます。各地で辻説法を説き、1260年 立正安国論を著し、鎌倉幕府に建白しました。この建白により 日蓮は 幕府や他宗派より迫害を受けることとなります。1261年からは 伊豆国伊東へ、1271年からは佐渡へ流罪となりますが、その間にも 各地で辻説法を続け、”開目抄” ”観心本尊抄”などを著述し、法華曼荼羅を完成させました。1274年春 流罪赦免ののち 鎌倉で幕府に対し法華経 国教化の建白を行い、身延の地頭であった南部実長の招きを受けて、身延山に入山し、身延山を寄贈されて 身延山久遠寺を開山しました。1282年 病を得て 常陸国へ湯治に向かう途上 武蔵国の池上宗仲氏の邸宅近くに建立された一宇を開堂供養し 長栄山本門寺(通称池上本門寺)と命名。その一ヶ月後 10月13日 池上邸で逝去。享年は61歳でした。

 

 日蓮宗(法華宗)は 日蓮の死後 弟子たちにより各地で布教が行われましたが 法華教団は発展と共に分化されて行きます。多くに分かれた日蓮宗は1941年(昭和16年)政府の指導により 日蓮宗と法華宗の二つに統合されましたが、戦後は再び各宗派に分かれました。又 日蓮正宗は 日蓮の弟子 日興の流れをくむ派ですが 日蓮本仏の立場を取ります。

 

   今回は以上です。

鎌倉仏教 時宗

 今回は鎌倉仏教 時宗について書かせて頂きました。

 

 時宗は 鎌倉仏教の一宗派で 一遍上人を開祖とし 浄土教を基にして 阿弥陀仏への信・不信に係わらず、念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できる と説き、仏の本願力は絶対であるが故 それが信じない者にも及ぶという解釈です。一遍上人は 日本全国を念仏勧進して回り、遊行上人 捨聖とも尊称されます。一遍上人の時代には 時衆と呼ばれて居りましたが、江戸時代に現在の時宗として正式な宗派と成りました。総本山は 神奈川県藤沢市の 藤沢山無量光院清浄光寺(通称 遊行寺)、ご本尊は阿弥陀如来坐像です。

 

 一遍上人は 1239年四国の伊予国(現在の愛媛県)に生まれ、10歳で出家し(天台宗) 13歳で大宰府に移り 法然の孫弟子にあたる 聖達の下で10年に亘り浄土宗西山義を学びます。その間に法名を智真(智は悟りの智慧、真は御仏が示す真)と改めます。1263年 25歳で父の後を継ぐ為 還俗して伊予に戻りますが、1271年32歳で再び出家し 信濃の善光寺、伊予の窪寺などで修行を重ね、窪寺で十一不二のを感得し、1274年から遊行を始め、摂津国 紀伊国などの各地を転々としながら修行を積み、同時に六字名号を記した念仏札を配り始めます。更に 紀伊の熊野本宮で 阿弥陀如来の変わり身とされる熊野権現から 衆生得度の為に”信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札を配るべし”との夢告を受けて、名を一遍と定め、念仏札の六字名号に 決定往生/六十万人 を加えて日本全国を念仏勧進します。勧進は 15年に亘り 南は鹿児島から北は奥州平泉と ほぼ全国を網羅ししました。有名な 踊り念仏は 1279年信濃の国を勧進した時から始まりました。そして1289年 一編は 過酷な遊行による過労と栄養失調から 摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没し、15年半に及ぶ遊行を終えました。享年は51歳でした。一遍は時衆を率いて遊行を続け、民衆を踊り念仏と賦算(ふさん 念仏札を配る事)により極楽浄土へと導きました。

 

 時衆は 一遍上人亡き後 自然消滅しますが、門弟たちにより遊行と賦算は続けられました。そして 江戸幕府の意向により 色々な念仏勧進聖は 時宗という単一の宗派に統合されます。その中には12の流派があり、時宗12派と呼ばれ、主流が藤沢道場清浄光寺を本寺とする遊行派で有りました。

 

 時宗では 戒名は法名と呼び、当初は 男性には”阿弥陀仏”号、女性には”一房”号 あるいは”仏房”号が附されましたが、現在では 男性は”阿”号 女性には”弌(いち)”号を用います。但し 派により 号が異なる場合が御座います。

 

   今回は以上です。

 

鎌倉仏教 融通念仏宗

 今回は鎌倉仏教 融通念仏宗に付いて書かせて頂きました。

 

 融通念仏宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで、天台宗の僧侶であった 聖応大師良忍(1073−1132年)を宗祖とし、阿弥陀如来から速疾往生(誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文 ”一人一切人 一切人一人 一行一切行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満” を授かり開宗したとされます。大念仏宗とも言います。但し 良忍の時代には宗派として認められては居らず、天台宗から独立して 宗派として認められたのは 江戸時代の元禄年間です。阿弥陀如来をご本尊とし、総本山は大阪市平野区にある 大念仏寺です。

 

 良忍上人は 1073年 尾張国知多郡の領主の子として生まれ、比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、不断念仏を修めます。そして 23歳の頃から 京都大原に隠棲し念仏三昧の生活を送りますが、1117年 阿弥陀仏の示現を受け、”一人の念仏が万人の念仏に通じる”という 自他の念仏が相即融合し合う という立場から 融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれる と説きました。その後 良忍上人は 結縁した人々の名前を記入する名帳を持参して各地で勧進を行います。勧進の途上で参籠した 摂津国四天王寺で見た霊夢から 摂津国住吉郡平野庄の領主 坂上広野の邸宅内に建てられた修楽寺に日本最初の念仏道場を開きます。この念仏道場が後に融通念仏宗の総本山 大念仏寺となります。融通念仏とは元来は合唱の念仏であったと考えられます。又 良忍上人は 仏教音楽である声明の集大成者としても有名です。

 

 融通念仏の最大の特徴は 観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事で、融通念仏宗では 毎朝西方に向かって 良忍上人の説いた 十界一念・自他融通の浄土往生を期する 融通念仏を 十唱するする事を日課とします。

 

   今回は以上です。  

鎌倉仏教 浄土真宗

 今回は鎌倉仏教 浄土真宗に付いて書かせて頂きました。

 

 浄土真宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで 法然上人に師事した親鸞を宗祖とし、阿弥陀如来の本願によって与えられる名号 ”南無阿弥陀佛” を浄土門の真実の教え 浄土真宗(浄土を顕かにする真実の教え) であるとし、本願を信じ念仏申さば仏になる と示しました。親鸞自身は 法然上人に師事出来た事を 生涯の喜びとして 独立開宗をする事は有りませんでしたが、親鸞の滅後 弟子達により 浄土真宗として教団が設立されました。しかしながら 長い間 浄土真宗の呼称は世に認められず 一向宗、や門徒宗と通称されて居りました。宗旨名が 浄土真宗として世に認められたのは 明治時代に入ってからとなります。現在の浄土真宗は 真宗教団連合に加盟する真宗十派を中心として約22,000の寺院を運営し、仏教界 最大の信徒を擁して居ります。

 

 親鸞聖人(見真大師 1876年追贈)は 1173年に京都で生誕、9歳で出家し その後 比叡山の学僧となり厳しい修行を積みますが 自力修行の限界を感じて 29歳の時 叡山と訣別し京都に戻ります。そして 法然の教えに触れ入門を決意し 研鑚をつみますが、1207年 後鳥羽上皇の怒りに触れ 法然は土佐へ、親鸞は越後(現在の新潟県上越市)へと配流されます。5年後に順徳天皇により 勅免の宣旨が出され流罪は解かれますが 親鸞は京都には戻らず その後20年に渡り 東国で 浄土門の真実の教え を布教し続け、62歳(63歳?)で京都に戻り、1263年 89歳で入滅しました。親鸞の生涯は 寺院を持つ事は無く、各地の道場で浄土真宗を説くことに費やされました。

 

 浄土真宗が 他の仏教宗派と異なるてんは 僧侶の肉食妻帯が許され、無戒であるという事です。法然は 一般の僧侶という概念や 世間内で生活する仏教徒としての規範から はみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である と説き、その教えを親鸞は実践して 公式に妻帯した初めての僧侶と成り、子ももうけました。それにより 浄土真宗では 血縁関係による血脈と 師弟関係による法脈との二つの系譜が存在する事と成りました。又 与えられる名前も 戒名ではなく 法名と言われます。そして 浄土真宗は ただ如来の働きに任せ 全ての人は往生することが出来る との教えから 宗教儀式や習俗に捉われず、報恩謝徳の念仏と聞法を大切にし、加持祈祷をおこなわない などの特徴を持ちます。

 

   今回は以上です。

鎌倉仏教と浄土宗

 今回は鎌倉仏教と浄土宗に付いて書かせて頂きました。

 

 奈良時代に中国より日本に伝来した仏教は 天皇家や貴族階級の庇護を受けて奈良・平安時代と繁栄してきましたが、一般民衆に広がることは有りませんでした。そのカラを破ったのが 比叡山の学僧であった法然上人が起した浄土宗であり、それに続く親鸞の浄土真宗、良忍の融通念仏宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗などです。これらの宗教は 一般民衆を対象とした、日本人自身による独自の仏教であり、鎌倉時代の創設されました。これらの宗派と 同時期に 宋より 栄西が伝えた臨済宗、道元が伝えた曹洞宗を含めて 鎌倉仏教と言われて居ります。

 

 法然上人(法然房源空)は 1133年美作国久米(現在の岡山県久米郡)に生まれ、9歳で出家し、13歳で比叡山に登って学僧となります。しかしながら学僧に満足出来ず、学僧の道を捨てて 民衆の為の仏教の道を探り、源信の往生要集に影響を受けて、1175年 43歳で 専修念仏の浄土宗を開きました。法然は仏教を 厳しい修行を行い悟りを得る聖道門と、念仏を唱え極楽浄土に往生する浄土門との分け、衆生の凡夫でも行うことが可能な浄土門を選択して浄土宗を起こしました。法然の専修念仏は 古来の比叡山を含む仏教 各宗派より迫害を受け、法然自身は四国へ、弟子の親鸞は越後へ配流されますが、最期には京都に戻り、後に教本の一つとなった 一枚起請文 を起して1212年に満78歳で没します。

 

 法然上人の没後は 長老の信空が後継となりましたが、親鸞を含む多くの門人ごとに 親鸞の教義に対する解釈が少しずつ別れ 浄土四流など いくつもの教団が乱立する事に成ります。その後 徳川家康が江戸幕府を開くと共に 寺院諸法度の一還として 浄土宗法度が制定され 浄土宗は 京都の知恩院を門跡寺院・総本山、江戸の増上寺を大本山として 幕府より手厚い保護を受ける事となります。

明治時代に入り 廃仏棄却の混乱の中で 宗派の統合 近代化が図られ、現在は 鎮西派と西山派の二っの流れを中心にして布教活動が行われて居ります。

本尊は阿弥陀如来、脇侍は 左 観音菩薩、右 勢至菩薩となります。

 

   今回は以上です。

 

 

 

修験道

 今回は修験道に付いて書かせて頂きました。

 

 修験道とは 平安時代末期 日本古来の古神道を包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教・道教・陰陽道などの呪術的行法が融合された 神仏習合に宗教です。山に籠って厳しい修行を行い 即身成仏して 衆生の救済を目指す実践的な宗教です。創始は奈良時代の呪術者 役小角(えんのおずの)(尊称;役行者)によると言われ、江戸時代には 大和(奈良)金峰山を中心とした真言宗系の当山派と 熊野の聖護院を本山とする天台宗系の本山派に習合され 現在は 御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教、他が布教を行って居ります。

 

 修験道は 日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行う事によって 超自然的な能力(験力)を会得し、民衆の救済を目指す実践的な宗教でもあります。この修行者の事を ”修行をして迷妄を払い験徳を得る者” と言う事で 修験者、或いは 山に伏して修行を行う姿から 山伏と称しました。又 験徳を得る道を修験道と呼び ”修行をし己の心体を鍛え磨き追及し其之成果を験す 確かめ表わす道” と考えました。修行の場所となる霊山は 日本全国に存在しますが 中でも 日本古来の山岳信仰の対象であった 大峰山(奈良県)や白山(石川県)、そして 平安時代 天皇をはじめ多くの公家が参拝をした 熊野三山(本宮・新宮・那智の三宮)が著名です。


 修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏が共に祀られ、表現の形態としては 権現(神仏が仮の姿で現れた神)等の神格や 王子(参拝途上で儀礼を行う場所)があります。修験道と言うと 神道の側面が強そうに思えますが、実際には仏教としての側面が極めて強い宗派と考えられます。


 修験道独自に有名な神としては 蔵王権現(ざおうごんげん)、愛宕権現(あたごごんげん)、若一王子(にゃくいちおうじ)、九十九王子(くじゅうくおうじ)、前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)、一言主(ひとことぬし)、天狗(てんぐ)などが居られます。


 神奈川県内の霊山としては 大山、大雄山、箱根山がございます。


   今回は以上です。 

真言宗

 今回は真言宗に付いて書かせて頂きました。

 

 真言宗は 平安時代の9世紀初頭に空海(弘法大師)によって開かれた 日本の仏教の一宗派です。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称します。空海は804年に唐(中国)に渡り、長安の青龍寺で恵果より真言密教を学んで、その秘法を伝授され 日本へ帰国後 高野山金剛峰寺と 嵯峨天皇より勅賜された 平安京の教王護国寺 八幡山東寺を修行場として真言宗を開きました。法身仏(絶対者)である大日如来をご本尊とし、その教義は即身成仏と密厳国土のもと 身(しん)、口(く)、意(い)という人の三っの働き(三密)において 手に印を結び、口に真言を唱えて、心を静めて三昧(さんまい)の境地にはいれば即身成仏できると説きます。

 

 空海は835年 62歳で高野山で入定しましたが 入定に際し 住持していた寺院を弟子達に付属しました。そして これらの寺院は年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院は独立性を持つ事と成ります。まずは 東寺と金剛峰寺の主導権争いが起き、東寺長者が金剛峰寺の座主を兼ねることで結着します。その後 金剛峰寺は落雷により伽藍・講堂を焼失し、無人の状態にまでなりますが、菅原道長が高野山参拝をした事により、皇族・摂家・公家などの支援を受け復興します。そして 又 派閥争いが起こり 古儀真言宗と 新義真言宗に分かれて行きます。

江戸時代に入り 1615年 徳川家康は 真言宗諸法度を出し 真言宗全体を幕府の管理下に置くと共に、その後の寺壇制度により、本山・末寺は財政的な安定を得る事となりました。但し 一部に綱紀のゆるみも生む事と成ります。

そして 明治政府の神仏分離と それに伴う廃仏棄却など困難な時代を乗り越え、昭和14年の宗教団体法成立に伴い宗派は統合され真言宗として一本化されました。戦後は分派独立が相次ぎ、現在は約50の宗派が有りますが、その内 主要な16派 18総大本山は 各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的として 真言宗各派総大本山会を設立して融合を図って居ります。

 

   今回は以上です。

天台宗

 今回は天台宗に付いて書かせて頂きました。

 

 天台宗は 中国の智(ちぎ 538−597)が開創した 妙法蓮華経を根本経典とする 大乗仏教の一宗派で 浙河省天台山国清寺を本山とします。日本では 比叡山延暦寺で修行中の最澄が805年 唐に渡り 天台山にのぼって 天台数学(円)、密教、禅、律を伝授され、806年に帰国し、延暦寺に戻って天台法華円宗(天台法華宗)を開創します。天台宗は 平安時代 奈良仏教にあきたらない多くの学僧に受入れられ 日本仏教の母胎となり、その学僧の中から 平安末期から鎌倉時代にかけて新しい宗派を唱えた 融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などが輩出しました。又 伝教大師最澄は 866年7月に 清和天皇より”伝教”の大師号が贈られて居ります。


 伝教大師最澄は 全ての衆生は成仏出来るという 法華一乗の立場を説き、当時は認められていなかった 大乗戒壇を設立して、大乗戒を受戒した者は天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間 比叡山に籠山して 学問・修行を修めるという革新的な構想を立ち上げ、当時 奈良仏教に飽きていた朝廷は この考えを受入れて、天台宗は平安時代の新しい仏教として認められる事と成りました。


 天台宗の修行は 法華経の観心に重きを置き、その修行は 朝題目・夕念仏という言葉で集約されます。すなわち 午前中は 題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法)を行います。この作法が発展して 後の ”念仏” という新たな仏教展開の萌芽と成りました。


 天台宗に於ける密教は ”台密”と呼ばれ、真言宗の密教を ”東密”とよびます。又 天台宗は 座禅に関する造詣が深く、日本の禅宗に座禅の教科書として強い影響を与えました。架空の人物である 達磨大師は 実は天台大師ではなかったか という 天台大師達磨大師説が唱えられても居ります。


   今回は以上です。


 


 

奈良仏教

 今回は奈良仏教に付いて書かせて頂きました。

 

 西暦538年(552年ともいわれる)に日本に伝来した仏教は 聖徳太子の庇護の下、鎮護国家の経説・儀礼として飛躍的発展を遂げます。この奈良時代に 平城京を中心として栄えた仏教の宗派を総称して奈良仏教と呼び、主なる宗派が六つ有った事から 南都六宗とも呼ばれます。その宗派は 法相宗(ほうそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう、法相宗の付宗)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)の六派です。

 

 中国より伝来した仏教は 律令国家 創立の為の理論として重きが置かれ、その業は 教理の研究が中心と成りました。従い 研究・勉学の場である 寺院が特定宗派を奉じる事はほとんど有りませんでした。又 当初 これらの宗派は 法相衆 や華厳衆と呼ばれて居りましたが、東大寺の大仏が完成した 748年頃から 宗の字が充てられる様になったと言われて居ります。奈良時代 仏教の学僧は 仏教の研究が主たるもので 宗教上の実践行為は 鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行うだけで、平安・鎌倉時代の様な民衆の救済活動に重きを置いた活動は行われませんでした。唐に渡り法相宗を学んだ道昭は この様な状態に飽き足らず、帰国後 日本各地に赴き 民衆と共に橋を掛けたり、井戸を掘ったりしながら、民衆への教宣活動を行ったとされます。民衆への教下活動で有名な 行基は道昭の弟子です。

 

 奈良仏教の主なる宗派と寺院は以下の通りです;

法相宗 開祖 道昭、大本山薬師寺・興福寺

倶舎宗 開祖 道昭、大本山興福寺 総本山東大寺

三論宗 開祖 恵灌、東大寺南院

成実宗 開祖 道蔵、元興寺(飛鳥寺) 大安寺  

華厳宗 開祖 良弁・審祥、総本山東大寺

律宗  開祖 鑑真、総本山唐招提寺

聖徳宗 開祖 聖徳太子、総本山法隆寺

真言律宗 開祖 叡尊、総本山西大寺

 

   今回は以上です。

仏教

 今回は仏教に付いて書かせて頂きました。

 

 仏教は 紀元前500年頃 インド北部のガンジス川中流域で釈迦(ガウタマ・シッダ−ルタ)を開祖として起こった宗教で、キリスト教・イスラム教を合わせて世界三大宗教の一つとされます。但し 現在 信徒の数としては ヒンズ−教の次の第四位に位置します。その教えは 仏教誕生の地である ネパールの世界観 輪廻と解脱の考えに基ずき 人の一生は苦であり 輪廻の中で苦しみ続けなければならないが 修行により解脱を目指し 解脱出来れば苦しみから抜け出す事が出来る とされました。又 釈迦の思想の中には 偶像崇拝の概念は有りませんでした。

 

 仏教では 生前の業 や臨終の心の状態により 次の転生先に輪廻するとされます。転生先は 六道であれば 天・人・餓鬼・畜生・地獄・修羅 があるとされます。生前に良い行いを続け 功徳を積めば 次の輪廻では良い境遇に生まれ変わり、悪業を積めば厳しい境遇に生まれ変わる とされます。仏教に於ける信仰とは 他の宗教と異なり 帰依と表現され 仏教に帰依する事で、信仰対象に対する絶対服従とか 神や仏陀との契約という様な考え方は存在しません。この考え方に基ずくものが 初期仏教 或いは原始仏教と呼ばれるものです。

 

 これらの教えは 釈迦の入滅後 弟子たちの口伝により 広くひろまりますが、徐々に解釈が異なる様になり、上座部仏教と大衆部仏教に大きく分かれる事となります。上座部仏教の一部は スリランカに伝わり その後 ビルマ・タイなどの東南アジアに伝播して 南伝仏教とも言われました。又 紀元前後には 自身の輪廻と解脱だけではなく、積極的に一切の衆生を済度する教え 大乗仏教が起こり、この考え方が広まり アフガニスタンからシルクロード(中央アジア)を経由して中国 韓国 日本へと伝来しました。中国へは紀元後一世紀、朝鮮半島へは4世紀、日本へは538年に伝来したとされます。

 

   今回は以上です。 

 

 

神道の参拝

 今回は神道に於ける参拝に付いて書かせて頂きました。

 

 神道は日本古来の宗教で、民俗信仰や自然信仰を基にし、天地に存在する自然や自然現象 神話に残る祖霊 怨念を残して死んだ者 などの中に神を見出した 八百万の神を持つ多神教です。その神と人や社会を取り結ぶ作法は祭祀であり、その祭祀を行う神聖な場所が神社です。それぞれの神社には神社固有の神が祀られて居り、神を参拝する日は 毎月 一日と十五日が良いとされて居ります。尚 神道に於いて 死は穢れである事から ご葬儀は 原則として 聖域である神社内で執り行う事が出来ません。但し 社殿前に幕で結界を張り 穢れが聖域に入らぬ様にして 執り行う事は可能です。

 

 参拝の心得と その流れは以下の通りですが、神社により作法が異なる場合が御座いますので、作法の表示をご確認願います。

1 神は穢れを嫌うとされて居りますので、参拝の前に 心身を清める 禊が必要です。現代であれば 参拝の前に 入浴やシャワーで身体を清潔にする事が望ましいとされます。

2 神社に到着しましたら 鳥居をくぐる前に 服装を正し、一礼をしてくぐります。

3 鳥居をくぐりましたら 参道の端を通り 手水舎に向かい 手水の作法を行います。これは 手と口を洗い清める事ですが、拍手を行う手と 祝詞を行う口と そして 心を清める 禊の意味合いを持ちます。

4 手水の作法は;

 −まず 柄杓を右手で持ち 水を汲んで その水を少し左手にかけて清めます。

 −次に 柄杓を左手に持ち替え 右手にかけて清めます。

 −柄杓を 再度 右手に持ち替え 再度すくった水を左手に受け留め その水で口を清めます。口を清めるさい 柄杓に口が触れないようにしなければ成りません。

 −以上の後 次の人の為に 使用した柄杓を洗い清めます、柄杓に水を入れ 柄杓を立てて 柄に水が掛る様にして清めます。

 −清め終わった柄杓は元の位置に伏せて戻します。

 −以上を 一連の動作で行います。

5 この後 神前へ進みます。最前と同様に 参道の中心を避けて歩きます。参道の中心は正中と呼ばれ 神の通る道とされて居ります。

6 神前では 神へのお供物として賽銭を奉納し、鈴鐘を鳴らします。これは 清らかな音色で神を呼び寄せる、神霊の発動を願う、邪気を払う、参拝者を敬虔な気持ちにさせる などの意味合いがあるとされます。

7 その後 拝礼を行います。拝礼の基本的な作法は 二拝二拍手一拝(二礼二拍手一拝)となります。

 −拝(身体を90度折り曲げる礼)を二度行う。礼(身体を45度折り曲げる礼)

 −祈念を込めて柏手を二度打ちます。

 −最期に一拝します。

 *祈願を行う場合は 二拍手と一拝の間、若しくは 一拝の後に 居住地、氏名 そして願い事を(声を出して、又は心の中で)陳べるのが一般的です。

 8 そして 正中を避けて退出し 最後に 鳥居を出た後 社殿に向かって一礼し 辞去します。

 

 尚 葬儀の際は 拍手は忍び手と言い 音を立てずに柏手を打ちます。又 身内に不幸があった方は 50日間を過ぎるまでは 神社参拝を控える必要が有ります。    

 

 

 

 

 

神道

 今回は神道(しんとう)に付いて書かせて頂きました。

 

 神道は 古代日本に起源をたどる事が出来る日本独特の宗教で、日本各地の民俗信仰や自然信仰を基にし、中央・地方の政治体制とも関連しながら、自然に生まれた神観念で、時代とともに徐々に形成されてきた、八百万(やおよろず)の神をもつ多神教で、祖霊崇拝性をも 強く持つ宗教です。その神々は身近におり、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える 守護神でもあります。神道では キリストや釈迦のような開祖は存在せず、聖書や教典も存在しません、浄明正直 (浄く、明るく、正しく、直く) を徳目とし、具体的な教義は 神社と 神社が執り行う祭から学ぶ事が出来ます。

 

 神道は 日本の風土や 日本人の生活習慣を基に 自然、自然現象、人物を 神とした宗教で、縄文時代を始まりとして 弥生時代から古墳時代に原型が形成されたと考えられて居ります。日本で神道 という言葉が初めて出て来るのは 日本書記の中の 用明天皇紀で、”天皇 仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまう” とあります。日本国内で独自の進化を進めていた神道は 奈良時代の 仏教伝来と共に 神仏習合がされて江戸時代末までこの状態が続きますが その間 伊勢神道を始めとして 吉田神道などの各派が 複雑な教理を作り上げて行きました。そして 神道各派の教理が 尊王攘夷思想として広まり、討幕の理論根拠となって行きました。従いまして 明治政府は神道国教化を前提として成立し、五箇条の御誓文も 国家神道の影響を受けて作られ居ります。明治政府は神仏分離を行うと共に 神道国教化を図りますが、欧米列強に対抗する為の 近代化政策上 信教の自由 を認めざるを得ませんでした。しかしながら 明治時代 西欧の近代的な宗教概念が日本に輸入され、宗教学が本格化すると 学問上 ”神道” の語が確立し、世の中に定着して行きました。


 神道の神々をお祀りする社を 神社と呼びますが、全国の神社の大部分は 神社本庁(宗教法人)が統括して居ります。文化庁の宗教年鑑によれば 日本国内で8万5千の神社が登録され、信者数は1億600万人とされて居ります。この信者数は 神社側からの自己申告ですので、地域住民を全て氏子として申告したり、参拝者 全てを氏子と計算するなどの例によるものと考えられます。


   今回は以上です。

 

 

 

 

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