中陰

 今回は中陰に付いて書かせて頂きました。

 

 中陰(中有とも言います)とは 仏教におきまして 人が亡くなられてからの四十九日間を指し 死者があの世へ旅立つ期間であり、生から死 陽と陰の狭間に置かれているとの考えから 中陰と言います。但し 浄土真宗では 故人様はご逝去と共に成仏されるとの考えから 中陰期間は 故人様を追悼し、生と死を考え、謹慎して仏法を考える期間とされて居ります。

 

 仏教発祥の地である古代インドでは 人は輪廻転生すると考えられており、誕生の瞬間が生有、生きている間が本有、死の瞬間が死有、死んだ後 次の生を得る間の期間を中有 あるいは中陰と呼び、その期間は四十九日間であるとされました。ご臨終の日(命日)を含めて七日毎に法要を執り行い それを七週続けた四十九日目に 次の六道中の何れかの世界へ生まれ変わるかが決まると考えられて居りました。それが日本に伝わり、宗派により考え方が異なりますが 魂を清めて成仏する期間へと変化しました。尚 なぜ七日毎、七週なのかは 古代インドでは七進法が使われていたからです。

 

 この四十九日間は 死の穢れの最っとも強い期間であると考えられ、死の穢れを他に移さぬ様 ご遺族は謹慎して家に籠るものとされました。この期間を忌中と言い、四十九日の法要を終えると 忌明けとなり 日常生活に復帰します。又 その一方では 精神的な打撃を受けたご遺族が 日常の生活から離れて 心の痛みを癒す期間であり、七日毎の法要は 故人様を弔うと共に 周囲の人々がご遺族を思いやる時でも御座います。

 

 忌明け法要をもって精進落としとなり、中陰壇(後飾り)を片ずけ、白木の仮位牌を壇那寺へ返し、本位牌を仏壇にお納めします。

 

   今回は以上です。  

十王信仰

 今回は十王信仰に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰とは 中国の道教や仏教の教えで、十仏事を何故 営むのかの 前提となる信仰です。人間を始めとする衆生は 没後には中陰と言われる存在となり 節毎に十回 異なる王の審判を受けて六道の何れかに置かれ、最終的には 供養と徳を積んだ者は 極楽浄土へ、供養と徳の至らぬ者は地獄へ 行かねばならないと言う 冥界思想(他界思想)です。

 

 初七日には 秦広王(本地 不動明王)の審判を受け、行方の定まらない者は三途の川を渡ります。ふた七日には 初江王(本地 釈迦如来)の審判を受け ここでも定まらなければ、み七日には 宋帝王(本地 文殊菩薩)、よ七日には 五官王(本地 普賢菩薩)、いつ七日には 閻魔王(本地 地蔵菩薩)、む七日には 変成王(本地 弥勒菩薩)、なな七日(四十九日)には 泰山王(本地 薬師如来)の審判を受け この王の下で 六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何れかが決まるので 四十九日の追善供養は 特別懇ろに営まなければならないと説かれて居ります。これでも定まらない場合は 百ヶ日に 平等王(本地 観音菩薩)、ここでも定まらなければ 一周忌に 都市王(本地 勢至菩薩)、そして最後の審判は 三回忌の 五道輪転王(本地 阿弥陀如来)が行い 十分な供養がされて居れば 成仏出来るとされて居ります。

 

 以上の審判は 故人様の修功徳と、ご遺族様が執り行う 回向の功徳を判断して行うとされて居り、その比率は全体を七等分して 亡者に一分、生者に六分が割り振られると説かれて居ります。始めの七回で審理は決まりますが、その七回で決まらない場合は 追加の三回で決める事となります。俗には 閻魔王に対する信仰と 考えられる方が多く御座いますが、これは 閻魔王以外の各王の知名度が低かったせいでしょうか。

 

 この十王信仰は 中国より渡来し 平安末期に 仏教本来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透しました。又 日本に於いて 三途の川、賽の河原、奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)等が付け加えられ、江戸時代には 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加えられ 十三王と成りました。


   今回は以上です。

 

 

 

 

法要

 今回は法要に付いて書かせて頂きました。

 

 法要とは 仏教に於いて 釈迦の教えを 仏法と言いますが、その仏法の要点・肝要を知る事を指します。それが 時代の流れと共に変化し 仏教行事の中の 儀式祭礼(法事・仏事・法会など)全般を指すようになりました。更に 日本に於いては 追善供養 即ち 死者を弔う儀式を指す様に成りました。法事、仏事とも言います。尚 供養以外に、寺の創立記念、堂宇の完成記念、仏像の開眼などの慶事も含みます。


 日本民族は 法要(死者供養)を大切にして来た民族であると言えます。供養には まず 中陰の間に行う 七仏事(初七日、ふた七日、み七日、よつ七日、いつ七日、むつ七日、ひちひち日)が有り、これはインドを起源として居ります。七仏事が中国に伝わり 百ヶ日、一周忌、三回忌が加わり 十仏事と成りました。更に 日本に於いて 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり 近世に十七回忌、二十五回忌が加わって 十五仏事と成り 現在に至ります。そして 地域によりましては 二十三回忌や二十七回忌を営む場合も御座います。又 五十回忌、そして五十年毎に営まれる遠忌が有りますが これは 宗派の祖師等に限り営まれます。

 

 以上の他に 祥月命日(故人様の命日、年一回)、月忌(月命日、年十一回)が有り、その他 春・秋のお彼岸と お盆が御座います。この様に日本に於きましては 遺された方は 生ある限り 故人様との関係を維持して行こうと言う 文化が長い時間をかけて作られて参りました。

 

 日本では古くから 三十三年、あるいは五十年をもって 死者は個性を失い 祖霊(先祖)に成ると考えられて来ました。故人様の法要も三十三回忌をもって ”弔い上げ” となります。ご仏壇から 戒名を書いたご位牌を下げ、”〇〇家先祖の霊”のご位牌に霊をお移しします。

 

   今回は以上です。

 

 

精進落とし

 今回は精進落としに付いて書かせて頂きました。

 

 精進落としとは 仏教に於ける葬送儀礼の一行事で、七×七(四十九日)の間はお食事は精進料理で過しますが、忌明けと共に 食事を精進料理から 通常の肉や魚を含む料理に戻します。これを精進落とし、お斎、精進明け、精進上げ、忌中払い 等と言います。

 

 現在では 葬儀・告別式やご火葬後に設ける宴席を 精進落としと呼ぶ様になって居ります。或いは 火葬場から戻った後に行う 初七日の法要の際に行う宴席も精進落としと呼ばれます。但し 浄土真宗では 精進落としとは言いません。又 関東では 通夜振る舞いや 精進落としを お清めと呼んで居ります。

 

 古くは 葬列を組む前に 故人様との食い別れの宴席を設けた事、葬儀後には お手伝い頂いた方々へ お礼の振る舞いをした事、この二つが合わさって現在の精進落としになったと考えられます。又 遠方より参加された方々を長く引き留めなくても良い様に ご火葬後に初七日法要と精進落としを繰り上げて行う様に成りました。地域によりましては 四十九日の法要や 百カ日の法要までも繰り上げて行う事が有ります。繰り上げられた法要を 取り越し法要とも言います。

横浜や川崎の市営斎場では 利用時間の関係から ご火葬中の一時間から一時間半の間に 精進落としを行って居ります。この宴席の意味は大きく分けて二つあります。

 1 僧侶などの宗教者とお手伝い頂いた方々への感謝を表す場。

 2 故人様を偲んで食事をし、話をし、交わる場。

 

    今回は以上です。

火葬

 ご火葬に付きましては以前 何度か書かせて頂きましたが 今回は別の観点で書かせて頂きました。

 

 ご火葬の流れは 火葬場到着−火葬炉前での読経・ご焼香−ご火葬中の待機−ご拾骨−ご自宅へのお帰りと成ります。

 

 霊柩車が火葬場に到着致しますと 火葬場担当者が操作する お柩台車が用意され お柩を台車にお乗せし、炉前へと運ばれます。横浜市営の斎場をご利用頂く場合は 式場と火葬炉は隣接して居り 霊柩車は必要有りません、式場入口より お柩台車で火葬炉前までお運びする事となります。

 

 火葬炉前では ご遺族による最後のお別れの後に お柩は火葬炉内に移され ご火葬が始まります。そして 炉前で 僧侶による読経、ご焼香と続きます。ご火葬は一時間前後の時間を必要と致しますので ご遺族は控室にお移り頂いて お待ち頂く事と成ります。ここでお帰りになる方と 拾骨を待つ方とに分かれる事も御座います。

 

 このご待機の時間では 茶菓でお持て成しするのが一般的です。尚 横浜市営斎場の場合はご火葬後の式場利用が許されていない為、ご葬儀・告別式の後に初七日法要も合わせて執り行い、このご待機の時間を利用して 初七日法要後のお斎の席を設ける事として居ります。

 

 荼毘が終了致しますとご拾骨となります。火葬場からの連絡に従い ご遺族は控室から拾骨室へ移動します。その後は火葬炉担当者の指示に従い 二人一組でご遺骨の一つを拾い お骨壺に納めます。ご遺族間で一通り 周りました後は 残ったご遺骨は担当者が全てお骨壺に納めてくれます。お骨壺は桐の箱に納められ、埋葬許可証と共にご遺族に戻されます。

 

 ご火葬場からの帰路は 往路と同じ道を通ってはいけないと言う習俗が御座います。これは 昔 ご遺体を墓地に埋葬した後 死霊が追いかけて来ても 迷って道がわからない様にする為 道を変えた名残と言われて居ります。

 

   今回は以上です。

葬儀の習俗

 今回は葬儀の習俗に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀とは 仏教に於ける葬祭儀礼の略語ですが 日本に於ける葬祭儀礼は 仏教の儀礼と夫々の地域で育まれた習俗とが融合して出来上がってまいりました。

 

 ご自宅からご出棺する場合、古くからの習俗として 玄関からご出棺しては成らず、窓や縁側から戸外にお移しし、正門ではなく 裏門 又は仮門からご出棺すると言う事が有ります。特定の地域では お柩は安置した部屋の壁を開けてご出棺すると言う場合も御座います。その理由は 死霊に対する恐怖心から 死霊が家に戻る事の無い様にとの気持ちを表す為、或いは 死は非日常の事柄であり 従い 日常とは逆の事をしなければならず 通常の出入り口である玄関は使用してはいけない などの説明が有ります。

 

 ご出棺の前に 故人様が生前 使用されていた茶碗を割ると言う事も有ります。これも 死霊に対する恐怖心から 死霊が戻らぬ様に、故人様の霊が迷わず成仏出来る様に、あの世はこの世とは逆なので 故人様があの世で使える様に 等の説明が御座います。

 

 出立ちの善、立ちめし、別れのお神酒等は ご出棺の前に 故人様と最後の飲食を共にする事で 故人様との最後の交わりを行い お別れするものと考えられます。飲食は人間の交わりを象徴しているとも言われます。

又 飲食は死者の魂を鎮め、死の穢れに対抗して 払う力が有ると信じられて居りました。精進落とし、忌中払い、お斎などは これに当ります。尚 精進料理と言われ 動物や魚などの生き物を殺して食してはいけないとされていますが、お釈迦さまは むやみに生き物を殺してはいけない と諭されましたが、食してはいけないとは言われて居らず、親鸞上人は妻帯をし魚食、肉食をしていたと言われて居ります。

 

    今回は以上です。

遺体葬と骨葬

 今回は遺体葬と骨葬について書かせて頂きました。

 

 遺体葬とは ご葬儀・告別式を執り行う際に ご遺体を中心にお見送りをする形であり、骨葬は ご火葬を終えたご遺骨を中心にお見送りを行う形で有ります。遺体葬の流れは お通夜−葬儀・告別式−出棺−ご火葬−埋葬となり、骨葬は お通夜−ご火葬−葬儀・告別式−埋葬の流れと成ります。

 

 日本に於ける葬儀では 古くは土葬が中心であり、通夜−葬儀・告別式−出棺−埋葬をもって 葬儀・告別式の終了として居りました。しかしながら 火葬設備の充実とともに 火葬率が高まり 埋葬の替りにご火葬−納骨と 変化して参りました。東京方式とも呼ばれて居ります。これに対し 関東北部以北の北海道 東北地方、甲信越地方 中国地方 九州地方の一部では ご葬儀・告別式に先立って ご火葬が行われて居ります。又 骨葬地域では 本通夜の前に ご火葬を行う習慣もお見受けしますが、一般的には お通夜を執り行い、翌日の午前中に 出棺をしてご火葬に付し、午後に葬儀・告別式を執り行い、その後 菩提寺 或いは墓地に行って納骨を致します。

 

 横浜市営斎場をご利用される場合には 遺体葬が基本となり お通夜は18;00、もしくは19;00から執りを行い 翌日10;00 もしくは11;00より葬儀・告別式、そしてご火葬となります。尚 横浜市営の斎場では一日葬のご利用は認めて居りません。

 

 全国的には 骨葬の地域に於いても 東京方式に変わりつつありますが、その反面 東京でも 骨葬が見直されつつ有り、故人様のご逝去直後はご家族だけで密葬してご火葬を済ませ、後日 改めて ご遺骨で 本葬・葬儀・告別式 或いはお別れ会を執り行うという方式です。

 

   今回は以上です。 

 

   

遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 ご遺体の保全に付きましては 短期的にはドライアイス、或いは冷蔵保管庫にによる保全方法と エンバーミングと呼ばれる 化学的・外科学的な処理をご遺体に行って 長期間 保全する方法とが有ります。日本に於きましては 仏教を前提としたご火葬が主流であり、火葬率は99%を超えて居りますので、ご遺体の保全も ご葬儀・ご火葬を待つまでの間が主目的となって居ります。

 

 現在 多くの方々が亡くなられる場所は病院となって居ります。病院では 患者様が亡くなられると ご遺体 移送の前に エンジェルケアーとと呼ばれる処置をご遺体に施してくれます。その内容は以下の通りです;

 1 湯又は水をしぼった布 又は消毒用アルコール あるいは防腐性薬品等でご遺体を拭き清めます。

 2 目や口を閉じます。 

 3 鼻、耳、口、肛門に脱脂綿を詰めて体液の漏出を防ぎます。

 4 傷口が有る場合はテープで留め、包帯で縛ります。

 5 頬がこけている場合は脱脂綿を口に含ませて 補正します。

 6 髭剃り、爪切り、髪を整え、化粧を施して 衣服を着せます。

この状態でご遺体は ご遺族に戻り ご自宅に移送して安置し ご葬儀・ご火葬までの間 ドライアイスにより ご遺体の腐敗進行を遅らせる事と成ります。この期間は季節にもよりますが一週間から10日程度が限度です。

 

 更に長期間 ご遺体を保全したい場合には エンバーミングと呼ばれる処置方法が有ります。エンバーミングの歴史は 古代におけるミイラにまで遡りますが、急速な発展を遂げたのは 1860年代アメリカの南北戦争だと言われています。当時 兵士のご遺体を故郷に戻すには長い時間が必要とされ、遺体の保存技術が必要とされました。又 同じ理由により ベトナム戦争の際に 一層の技術発展が促進されました。エンバーミングの具体的処理は以下の通りです;

 1 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。

 2 遺体の顔、頭髪、手先、足先を整える。

 3 遺体の頸部等の動脈より 体内に防腐剤を注入、同時に静脈より血液を排出する。

 4 腹部に鋼管を刺し 胸腔・復腔部の体液や、消化器内の残存物を吸引・除去し、防腐剤を注入します。

 5 事故等で損傷した部分は修復を施し、切開した部分を縫合してテープ等を貼ります。

 6 最後に 再度 全身を洗浄して 頭髪、表情を整え、衣服を着せて終了となります。

以上の徹底した処理を行い、定期的に防腐剤の交換などを行えば 生前の姿のままで永久保存が可能と成ります。

ソ連のレーニン、スターリン ベトナムのホー・チ・ミン 中国の毛沢東 台湾の蒋介石 北朝鮮の金日成、金正日 その他の社会主義国 指導者の遺体はエンバーミング処理を施されて永久保存されて居ります。

 

   今回は以上です。

枕経

 今回は枕経に付いて書かせて頂きました。

 

 枕経(まくらきょう)とは 仏教の行儀で 本来は 死に際にある方が不安にならぬ様 本人の枕元で 死を看取りながらお経をあげる事です。現在では 病院で亡くなる事が多く ご逝去の後 ご遺体を自宅に安置した上で行う 死後の儀式と成りました。ご宗派により 枕経を行わない場合もあります。

 

 ご葬家が仏式の場合 ご遺体を自宅の仏間、あるいは座敷に敷いたお布団の上に安置し、ご遺体の枕元に枕飾りを設営します。その上で壇那寺に故人様のご逝去をお伝えし 僧侶に来て頂いて 読経をして頂きます。壇那寺が遠方の場合は 壇那寺より紹介を受けて 近隣の僧侶にお願いをする場合もあります。

 

 枕経は 故人様に対して読経を聞かせると言う考え方や ご仏壇の内仏やご本尊に向かって読経すると言う考え方など ご宗派により考え方が異なります。真言宗では ご遺体の前に枕飾りを設け、僧侶が故人様へ末期の水を行い、印を結び、読経します。その際 枕元には不動明王の掛け軸を掛ける慣わしとなって居ります。曹洞宗の場合は 枕元に置いた机の上に ロウソク、線香、四華花を お供えして読経します。浄土宗では枕経の間に剃髪、授戒を行います。浄土真宗では亡くなった方を御縁として御本尊に向けて読経されます。


 枕経を上げて頂くときの 衣裳は喪服である必要なく、通常の衣服を整えて出れば良いとされて居ります。枕経の後に 葬儀の次第、その他を僧侶とご相談されるのが良いでしょう。又 戒名をいただく為に 故人様の人柄やご希望も この機会にお話されるのが一般的です。


   今回は以上です。  

死の環境

 今回は現代の死の環境について書かせて頂きました。

 

 現代に於ける死の環境は 亡くなられる場所ですが 従来はご自宅が一般的でした。しかしながら最近は病院で亡くなるケースが一般的となりました。又 高齢者の方の死亡率が年々増加して居ります。

 

 昭和25年頃の死亡場所は 80%以上がご自宅であり、病院でのご臨終は20%以下で有りましたが、平成4年の厚生省統計によれば 病院;73.3%、自宅;20.1%、診療所;3.3%、その他;3.3%と成って居ります。又 70才以上の高齢者の方の在宅死亡率は地域格差が有り、高い所は 山形県、新潟県、長野県、和歌山県などで、40%を超えて居り、低い所は 北海道;10.8%、東京都;13.9%、大阪府;17.4%などの都市部と成って居ります。概して 人口が集中する都市部では 高齢者の方の在宅死亡率が低い 現状ですが、最期は自宅で の希望も高まりつつあり、この様なご希望に応えるべく 訪問医療を主とする法人も徐々に増えつつ有ります。

 

 死亡者数の推移としては 昭和25年(1950)で 総人口8,320万人、出生児;234万人、死亡者;90万人でしたが 平成22年(2010)では 総人口;12,805万人、出生児;140万人、死亡者;139万人となり 平成24年からは死亡者数が出生児数を上回る様に成りました。今後も死亡者数は 2035年頃までは増加を続け 2035年の予想死亡者数は180万人と想定されます。


 少子高齢化の進捗と共に 当然の事ながら死亡者の中に於ける高齢者の比率は高まり続け、死は 何時 誰に起こるかわからない と言う従来の無常観に変わって、死は高齢者のものという観念が強くなって参りました。


   今回は以上です。

死亡診断書

 今回は死亡診断書に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡診断書は 死亡事由などに付いての検案について記した診断書の一つであり、死亡を証明する効力を持ちます。その発行は 診断をした医師、もしくは歯科医師のみが出来ます。記載用紙は 左が死亡届、右が死亡診断書の、組になったA3用紙です。

 

 戸籍法では 人が亡くなった場合 故人様のご親族 又は関係者は 死亡届をご逝去後、7日以内に死亡診断書 又は死体検案書を添付して届け出なければ成りません。

 

 通常の病死、あるいは老衰などの自然死の場合は、その診断、治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します。突然死や 長く医師に罹っていないで死亡した場合は 病死、或いは自然死であっても 医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この様な場合と 病死あるいは自然死以外の異状死体、又は犯罪の疑いのある死体の場合も警察の検視を経て、監察医又は警察の嘱託医による検案を受けて 死体検案書が発行されます。死体検案書も死亡診断書と同等の効力を持ちます。神奈川県警察本部の場合 検案には状況に応じて2万ー7万5千円の費用が発生します。又 検案所までの往復のご遺体移送費用もご遺族のご負担となります。


 警察による検視、監察医による検案が必要なケースは;

 1 病死、あるいは自然死であっても 生前に診察・治療の担当医師がいない場合。

 2 病死、あるいは自然死であるか不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの 非犯罪死の場合。


 死体解剖保存法では

  政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内に於ける伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体 その他死因の明らかでない死体に付いて、その死因を明らかにするため監察医を置き、これを検案させ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させる事が出来る。

とあり、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市には監察医が置かれ、その他の地区では 嘱託医が置かれております。現在の横浜市では検案所は2ヶ所御座います。


   今回は以上です。

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 

 臨終とは 人が生命活動をを終える間際の時期を言い、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語です。古くから 人が必ず迎えなければならない 臨終という 危機的な時期を巡って 人は死をどう受入れるべきか、人の死をどう看取るべきか 様々な習慣と文化が生み出されて来ました。

 

 死を迎える事の意味を説いた古い文献としては エジプトやチベットで作られた ”死者の書”が有名です。又 西ヨーロッパに於いては 中世末期に ”往生術”として 臨終を迎える人の為の心得を書いた文献が出され、その手引書では 死の身取り手は臨終者に対して 回復するかも知れないと言う幻想を与えてはならず、臨終者が死を自然に受け入れられる様 出来るだけの手助けをすべきであると解説しています。

 

 インドの仏教に於いては 祇園精舎の北西の一部に無常院を作り 病人や死を迎える人々を受入れたとあります。その後 中国 唐代の僧侶 道宣は 無常院の堂内では 仏の立像が西方に向いて安置され その像手に五色の布をかけ その布を後ろに垂らし 背後に横臥した死を迎える人々はこの布を持って往生を祈願した と説いています。又 看病人は ともに念仏を唱えて 往生を助けなければ成らないとも説いています。日本の仏教に於ける 臨終の作法、習慣は これらを基にして作り上げられました。

 

 ご臨終は ご本人にとっては勿論、近親者にとっても大切な時です、最後の看取りがきちんと行えるかは 近親者の後のお心にも影響を与えるからです。ご本人が安らかに最後の時がお迎え出来る様、ご家族の方は 医師とも十分なコミュニケーションを図り、ご本人が会って於きたい方々を手配して 安らかなご臨終をお看取りしたいものです。

 

   今回は以上です。

ご遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 人が生命活動を停止すると その身体は徐々に腐敗して行きます。この腐敗が ご遺体への恐怖であったり、穢れの考えを生み出す事に成ります。腐敗が どの様に進むのか、どの様にしてそれを止める事が出来るのかは以下の通りです。

 

 生命活動を止めた身体には 個人差や身体が置かれていた場所の環境により違いは有りますが 次の様な変化が起きます。

 1 身体の腐敗

   死後1時間ぐらいから腸内細菌が増殖を始め、腸内細菌の増殖と胃腸の融解により腐敗が進行し、腐敗ガスが発生します。

 2 死後硬直

   身体の筋肉が硬直し関節が動かなくなる現象です。死後2時間ぐらいから出始め、20時間後くらいに硬直は 最も強くなり、その後 腐敗の進行と共に硬直は解けて行きます。最初は顎関節に現れ、順次 全身に広がります。手足の硬直は6、7時間前後から始まります。

 3 死斑

   心臓が停止すると 体内の血液は循環を止めて 身体の下部の静脈に留まります。この血液の色が皮膚を通して見えるのが死斑です。死斑は 死後30分程度でご遺体下部に斑点が出始め、2−3時間で融合し、20時間で固定します。

 

 ご遺体とは ”霊魂が遊離し遺された体” という意味ですが、ご遺族にとりましては 恐れでも、穢れでもなく 大切にお見送りするお体です。このお体を腐敗させない方法は幾つか御座います。

 1 ドライアイスによる冷却

    1週間から10日間の間に有効です。腐敗は内臓より始まりますので、お腹、胸、両脇などのドライアイスを当てて腐敗を遅らせます。季節にもよりますが 10Kgのドライアイスで24時間程 有効です。

 2 冷蔵保存

    1ヶ月位 有効です。専用の保管庫を摂氏2度に保って腐敗を遅らせます。

 3 冷凍保存

    非常に長期間の保存が可能です。専用の冷凍庫でご遺体を凍らせます。米国では一般的ですが、日本では特別な場合を除いて行われて居りません。

 4 エンバ−ミング

    半永久的に保存が可能です。血液を薬品と置き換えて腐敗を防止します。日本国内では業界自主規制により 50日以上の保管目的でのエンバーミングは行わない事にして居ります。費用は10万円+α。

 

 以上の他に 過去には ミイラ、即身仏、アイスマン、桜蘭の美女、ロザリア・ロンバルド 等が有りました。

 

    今回は以上です。

密葬

 今回は密葬に付いて書かせて頂きました。

 

 密葬とは 故人様のご逝去を対外的に公表したくない場合、或いは何らかの理由で本葬儀を後日 時間を空けて行う場合に 故人様の家族、近親者、極く親しい友人のみで小規模に執り行う葬儀のことです。近親者でのご火葬を目的として居ります。一般的には 後日 対外的な本葬儀、あるいはお別れ会などを執り行うのが 本来の意味合いです。

 

 元来 密葬は 有力者や有名人などが亡くなった際、大規模なご葬儀を準備しなければならず、それなりの準備時間を必要とします。この様な場合 ご遺体を長時間 維持する事を避ける為、ご火葬を目的とした内輪の葬儀を執り行い、後日 お別れ会や 社葬などを執り行います。

著名人や芸能人 本人やご家族が亡くなった場合 その葬儀には 普段親交のある方だけでも大勢の方々が集まり、更にファンやマスコミも集まることで 混乱を招きかねません。その為 然るべき場所と時間を選び、きちんとした準備が必要と成ります。

又 大企業の経営者や大きな団体の責任者のような方の場合は 社員、関係会社、取引先、関連団体など ご本人やご家族との親交に係わり無く、葬儀に参列される方は多くなります。社葬、団体葬なども会葬の方々に失礼の無い様 十分な準備が必要と成ります。

 

 密葬は小規模な葬儀と言う点で 家族葬と混同されがちですが、密葬と家族葬は同義では有りません。

 

   今回は以上です。

斎場、斎苑

 今回は斎場、斎苑に付いて書かせて頂きました。

 

 斎場、斎苑は 主として地方自治体が火葬場を整備するに当たり、忌避感を持つ火葬場という名前を避ける為に使用されました。又 時代の要求に応えて葬儀式場を併設した総合施設として利用されて居ります。

 

 葬儀事情は 戦後 大きく変わりました。葬列を中心とした葬儀が姿を消し、葬儀の中心は告別式へと移ります。同時に 家族や関係者の地域拡散が進み、葬儀はお通夜 葬儀・告別式の2日間に集中 短縮する様になり、更に核家族化と共に葬儀式場は自宅から葬儀場の利用へと移行して行きました。この様な住民ニーズに応える為 都市部の自治体は式場・火葬場併設の斎場、斎苑を建設し 住民サービスの向上に努めて居ります。

 

 遠方よりの会葬者に便宜を図る為の 日程短縮は 葬儀式と告別式の同時進行、式の時間も一時間以内というのが一般化しました。横浜市営の斎場では お通夜は18時、もしくは19時より始まり 式は45分間 その後にお清めが続き 20時半でお開き 21時で退場と成ります。又 21時以降は火災予防の為 火気厳禁となりますので、宿泊は可能ですが灯明、線香を灯す事は出来ません。翌日は 葬儀・告別式と成りますが、約45分間の間で葬儀・告別式の同時進行と初七日法要も執り行うのが一般的です。初七日法要の後に最後のお別れとなります。そしてご火葬と続きます。初七日法要のお斎の席は ご火葬をお待ちの間に控室でお設けします。

最後にご収骨をされて終了となります。尚 市営斎場ではご火葬後に部屋を使用する事が許されず、ご火葬後の初七日法要を行う事は出来ません。

 

   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬場とは ご遺体を火葬に付す為の施設を言います。最近では 近代的施設として 無煙化、無臭化、緑地化を進め 近隣住民からの嫌悪感を無くす為 斎場や斎苑と呼ぶ様に成りました。現在の横浜では 横浜市営として葬儀式場を併設した斎場は3ヶ所(横浜市北部斎場、横浜市戸塚斎場、横浜市南部斎場)、火葬設備のみの斎場は1ヶ所(横浜市久保山斎場)の計4斎場が有ります。この他に私営の斎場として葬儀式場を併設した西寺尾会館が有り、合計5ヶ所の火葬場が運営されて居ります。

 

 日本に於ける火葬は 仏教による宗教的要請から発生しました。古くは常設の火葬場は無く、野焼きと呼ばれ 人里離れた場所に仮設の火床を設けて火葬が行われました。その後 墓地の傍らや、寺院の敷地内に常設の火床が設けられる様に成ります。とは言えまだ設備と呼べる様な状態では無く 火屋 とか 焼屍爐 などと呼ばれて居りました。本格的な火葬施設が出来たのは明治時代に入ってからです。欧米から輸入された 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した 大規模火葬場が作られました。又 この頃より ご遺体の火葬を行う施設を火葬場と呼ぶ様になって居ります。

ご火葬の使われた燃料は 野焼きの頃は もちろん 藁、木薪、木炭が使用されました。明治時代の作られた火葬炉でも 当初は 木薪や木炭が使われ、その後 大正に入り 石炭、コークス等が使われ始め、更に 重油が使われる様に成りますと 燃焼時間は飛躍的に短縮され 即日の収骨が可能となりました。その為 火葬場内に控室等も設備される様になります。現在では 高度に機械化されたコンピュウター制御による電気式火葬炉が一般的となって居ります。

 

 現在の日本に於ける 火葬率は99%を超え世界一の高水準となって居りますが、明治初期には必ずしも高くは無く、昭和15年に初めて過半数(55%)を超えるという状態でした。しかし 戦後 人口の都市集中、市街地での土葬禁止、土葬可能な広さの墓地は入手困難、地方自治体による火葬場の整備などが合いまって この高火葬率と成りました。

 

   今回は以上です。

祭壇

 今回は祭壇について書かせて頂きました。

 

 祭壇とは 神、精霊、や死者などに 犠牲や供物を捧げる為の壇で有ります。ヘブライ語聖書によれば 祭壇は目立つ場所に 土を盛り上げたり 石を置いたりして作るとされています。又 地面に獣の皮やコモを敷いたものなども有ります。更に 神殿の様な複雑な構造を持ち、入念に装飾された構造物へと発展しました。祭壇はその宗教により異なり、大小様々です。

 

 日本の葬儀に於いては95%以上が仏教の葬儀であり、その祭壇としては  古くは小さな壇の上に灯明立、香炉、供花、供物を供えたものでしたが、昭和時代に入り、葬儀の主体が葬列から告別式に変化すると 葬儀用の祭壇も大きく変化しました。従来の壇は前机となり、その後ろに2段、3段、あるいは5段の祭壇が飾られる様に成ります。又 ご遺影写真もこの頃から飾られる様に成りました。そして 戦後復興がなった照和28年以降 祭壇文化が花開く事に成ります。こうした祭壇文化もバブル崩壊、それに続く少子高齢化社会の到来と共に小さな葬儀が主流となり、大きく荘厳な白木の祭壇から 華やかな花祭壇へと変化しました。

 

 花祭壇も当初は白菊、白カ−ネ−ションを使用し厳かな祭壇を用意して居りましたが、最近は故人様やご遺族のご希望に合わせ お好きな花を交えるなどした華やかな祭壇も多くなりました。又 ご家族だけでの密葬などでは 祭壇は作らず お柩の周りを故人様の好みの花で囲んだ お見送りなども これから多くなるのではないでしょうか。

 

   今回は以上です。

霊柩車

 今回は霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 

 霊柩車とは ご遺体をお納めした柩を移送する目的で作られた自動車です。ご遺体のみを移送する目的では寝台車が使用されます。霊柩車には 宮型霊柩車、洋型霊柩車、バス型霊柩車等が有ります。

 

 明治時代 葬儀の中心は葬列でしたが、葬列の拡大化に比例して批判の声も大きく成り、モータリゼーションの発達を基に霊柩車が開発されました。日本最初の霊柩車には諸説ありますが、確認出来るものでは 大阪の有力な葬列提供業者であった 籠友の鈴木勇太郎氏が米国の葬儀事情を視察し、大正6年に米国よりパッカードの霊柩車を輸入して日本風に改造しサービス提供を始めました。又 大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より 導入しました。

 

 宮型霊柩車は キャデラックブレアム、リンカーンタウンカー、トヨタクラウン等の高級乗用車を改造して 宗教的装飾を加えた棺室を設置して居ります。棺室は白木造りのものと 漆塗りのものがあり、壁面や天井部分に極楽浄土や蓮の花等が描かれたり、彫られて居ります。

 

 洋型霊柩車は 高級ワゴン車をリムジン化して使用されています。宮型の様な装飾はせずに シンプルな黒塗りの車体となります。最近は パールホワイトやシルバーに塗られたものも出て来ました。宮型霊柩車は余りにも目立ち過ぎる事から 乗り入れを拒否する施設も出始め、洋型霊柩車に変わりつつあります。

 

 バス型霊柩車は 大型バスやマイクロバスを改造して作られおり、柩と共に ご遺族・僧侶・会葬者が同乗出来る様になって居ります。冬季の気候が厳しい北海道などで多く利用されて居ります。

 

 霊柩車にまつわる迷信として ”霊柩車が走っているのを見たら 親指を隠さないと 親の死に目に会えない” というものが有ります。

 

   今回は以上です。   

告別式

 今回は告別式に付いて書かせて頂きました。

 

 告別式とは 宗教的儀式を伴わない 故人様とのお別れの儀式が 本来の目的です。現在では仏式の葬儀に於いて、家族・親族によるお見送りを葬儀、知人・友人によるお見送りを告別式と定義して、葬儀・告別式は何時よりと 表現する事が一般的と成りました。日本で最初の告別式は 明治34年の中江兆民の葬儀と言われて居ります。

 

 明治時代に於ける葬儀は 葬列を中心とする儀式が主流でしたが、都市部においては 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げて良いのか” との批判や 明治17年に制定された ”墓地及び埋葬取扱い規則” により 火葬場や墓地の所在地が限定され 葬列を組む事が 徐々に難しくなって行きます。又 明治後半に導入された路面電車の発達が葬列廃止を加速させます。大正時代に入ると 葬儀の中心は別式へと 変化して行きます、又 ご遺体の移送は 葬列から霊柩車の使用へと変わって行きました。


 中江兆民の葬儀は 明治34年12月17日に 青山墓地式場で執り行われました。中江は無宗教であった為、無宗教式の告別式により見送られました。柩が式場正面に安置された後、葬儀係による挨拶が行われ、板垣退助による弔辞拝読、大石正巳の演説、門下生総代 永訣弔詞、弔歌・弔詞の拝読と続いた後、嗣子・親族 及び会葬者が柩前で告別をなしました。最後に 嗣子(十三才)と親戚代表が会葬者に挨拶をして終了しました。

仏式の葬儀と比較すると 僧侶の読経に代えて 弔辞・演説・弔歌・弔詞などの献読が行われ、焼香の代りに 棺前告別が行われた考えられます。この告別式以降 かなりの数の告別式が行われる様に成りましたが 主として大学関係者や法曹関係者が中心で 一般大衆に広まるのは昭和に入ってからとなります。


   今回は以上です。 

庶民の葬儀

 今回は庶民の葬儀、特に明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀の簡素化については 古くより 時の権力者により度々布告されて居ります。これは 葬儀の奢侈化が常に起こっていた事示して居ります。江戸時代には 士農工商の身分制度が確立され、夫々の身分ごとに 葬儀の基準が示されて居りました。明治に入り 身分制度が解放されると 力を持った商人を中心に 葬儀事情は大きく変化して行きます。 大きな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、粗供養の増大などです。


 まずその第一は 以前は 夜間にひっそりと 限られた人数で葬列が組まれて居りましたが、日中に葬儀が行はれる様に成り 商人たちは その財力を誇示して 大掛りな葬列を組む様に成ります。又 役目を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。


 第二には 寝棺と それを運ぶ輿の登場です。江戸時代には座棺が普通でしたが、富裕層では 葬列の肥大化と共に 寝棺が使われ始め、それを運ぶ為に 飾り付けられた白木の輿が作られました。現在も使われている白木の宮型霊柩車は この輿を原型として居ります。但し 一般庶民の間では 第二次世界大戦終戦まで 座棺が使われて居りました。


 第三は 色々な葬具の出現です。葬列を飾る為に 野道具と言われた葬具が見栄えの良いものに変わって行きます。金蓮、銀蓮、生花や造花を押した花車、鳩を放鳥する為に作られた放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿など 多彩な葬具が開発されて行きました。現代 葬具の始まりとも言えます。これ等の葬具を製作する為、専業化が進み葬具屋が出来てゆきます。


 第四としては 粗供養の大型化です。葬儀の際に地域の人々へ食事を振舞ったり、葬列 出発の際に 花籠に 菓子や小銭を入れ、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言った 供養は江戸時代でも行われて居りましたが、明治に入り 葬儀の大型化と共に 会葬者全てに対して 菓子包み、饅頭、弁当を配るという 今日の会葬返礼品の原型が出来てきます。そして 喪家側も不足しては恥と考え 大量に用意する様になり、費用の面でもかなりの比重を占めるように成りました。


   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を指します。現在では斎場とも言われます。古くは 天皇の御体を火葬する場所を 山作所、天皇家以外の火葬場は 三昧(さんまい) 三昧場 或いは 荼毘場 と呼んで居りました。又 近畿以西では 火屋や、三昧の呼称が定着し、関東以北では 焼き場や、竈場(かまば)の呼び名が定着した時代も有りました。


 日本国内に於ける火葬場の歴史は弥生時代後期から有すると想像されますが、確認出来る物は 日本書記に記載されている 700年以降であり 仏教の要請から発生して居ります。当時は 常設の火葬場は設けられて居らず、貴人の火葬に当っては 火床を設け その周りを幕や板塀で囲んだ 仮設の場所で行われました。その後 庶民の間でも 火葬を行う者が現れ 人里離れた野原に木薪を組み上げ その上にご遺体を乗せて焚焼しました。これを 野焼きと言います。野焼きは 特定の地域に於いて 昭和後期まで行われて居りました。

 

 鎌倉、室町時代に入ると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい場所に石等で火床を設けた 常設の火葬場所だ出来始めます。これらは 火屋、火家、三昧、荼毘場などとよばれ、京都、大阪、江戸の都市に広がって行きました。そして 火葬の際に出る 臭気や灰等の弊害から 郊外に統合化され 大規模火葬場が出来て行きます。その典型的な例が 小塚原刑場近くに作られた 現在の東京博善町屋斎場です。江戸時代中期には 硬質良土を敷き込んで整地した上に 火床を設け 屋根かけもされる様に成りましたが、まだ火葬炉と呼べる状態ではありませんでした。

 

 明治時代に入り 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した トンネル状炉室と煙突を備えた 火葬炉が築造される様になり、火葬率の高かった 近畿、北陸、中国地方の 個人所有や 集落所有の簡易な火葬場にも普及して行きます。この火葬炉は 少ない燃料(木薪や木炭)で、ご遺体の燃え残りも少なく、使用も簡単で、煙突効果により臭気・煤煙も低減出来る事と成りました。そして 昭和初期には 重油焚きの火葬炉が開発されます。現在では 更に進んで ほとんどの火葬場では 電気式の火葬炉使用と 排煙処理により、臭気・媒炎などを気にする必要は無くなりました。

 

   今回は以上です。

 

 

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史について書かせて頂きました。

 

 火葬とは 葬送の手段の一つとして ご遺体を焼却する事です。火葬の習慣は釈尊の故事にちなんで 仏教の伝来と共に日本に伝わったと言われて居り、公衆衛生の面からも 土葬と比較して 衛生的であり、又 埋葬場所も小さくて済むメリットが有ります。尚 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼びます。

 

 日本で最初に火葬された人は 700年の僧道昭であり、最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇であると言うのが定説でした。しかし 近年の研究によれば 九州の古墳で 590年前後の火葬の痕跡が確認され、又 今月始めには 長崎県大村市で弥生時代後期(2世紀ごろ)の竹松遺跡に於いて 火葬されたと見られる人骨だ発見されたとの発表が有りました。検証の上でこれが認められれば 日本に於ける火葬の歴史が より古くから有った事になります。  

 

 中世の火葬は 常設の火葬場は無く 逝去した後 火葬の為の家屋を作り そこで火葬されました。当然の事ながら費用も掛り、庶民の間に普及する事は有りませんでした。江戸時代になり 寺請制度により 仏教が国教待遇となり 仏教が推奨する火葬は 仏教寺院に火屋と呼ばれる火葬施設が作られた事などから 大きく普及するかと考えられますが 費用等の面から 大きく広がる事は有りませんでした。当時の火葬率に関するデータは有りませんが 20%程度でないかと推測されます。火葬率に関するデータとして現存する物では 明治29年のデータで 全国での火葬率26.8%とあります。もちろん 階級や地域の格差は大きかった様で 東京や京都の大都市と 火葬を推奨する浄土真宗の勢力が強い 北陸地方では火葬率が高かったようです。大正14年の統計によれば 火葬率が65%を超える都道府県は 北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の八つです。そして 明治時代初期に 市街地での土葬を禁止した 京都市では 明治39年時点で 火葬率 80%の高率を示していました。何れにしろ明治以降 火葬率は高まり続け、現在では 火葬率 99%以上となって居ります。

 

   今回は以上です。

明治時代と神葬祭

 今回は明治時代の神葬祭事情に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本固有の多神教宗教である神道の葬儀で有ります。神道に於いては 人は皆 神の子であり 神の計らいによって母の胎内に宿り この世に生まれ この世で役割を終えると 神々の世界へ帰り 子孫を見守る と考えられて居り、神葬祭は故人に家の守り神となって頂く為の儀式であります。

 

 明治維新によって出来た新政府は 徳川幕藩体制を否定する為 民衆把握の基本となっていた 寺請制度を廃止し その母体となっていた仏教を排斥し 神道を新たに国教と位置付けます。明治元年発令の 神仏分離令、明治4年の戸籍法により 寺請制度の法的根拠が廃絶し 庶民は仏教寺院の檀家である必要が無くなりました。更に 明治5年の自葬禁止の布告により 葬儀は僧侶又は神職により 執り行われなければならなく成り 神職は氏子の神葬祭を自由に執り行う事が可能と成ります。そして それまで寺院の墓地は有りましたが 神葬祭の墓地が存在しなかった事をふまえ 明治同年に 神葬祭用の墓地として 東京市営で 青山墓地、谷中墓地、染井墓地の三墓地が開設されました。尚 三墓地共に 後年には 神葬祭限定ではなくなります。

 

 その後 明治政府は 信教の自由を布告し 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に係わる事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県社以下の神職と規定し、この規定は 第二次世界大戦終戦まで続く事に成ります。この様に神道は政府レベルでの支援を受けましたが 神葬祭はそれ程の広がりを見せませんでした。それは 法的根拠は無くなりましたが 民俗と結びついた仏教葬と檀家制度は 根強い基盤を民衆の中に持ち続けた事によります。

 

 尚 神道に於いて 死は穢れである為 聖域である神社で神葬祭は執り行わないと言われます。但し 神道でいう穢れとは 不潔・不浄の意味ではありません。肉親、或いは極く身近な方が亡くなり その悲しみによって 溌剌とした生命力が衰退している状態を 気枯れ=けがれ として居ります。

 

   今回は以上です。   

近世の神道

 今回は近世(江戸時代以降)の神道について書かせて頂きました。

 

 1700年頃の完成した 吉田神道も徳川幕府の寺請制度 発布により難しい立場に立たされる事と成ります。

 

 吉田神道は 仏教からの独立を果たそうとして来ましたが、寺請制度は 神社にとって大きな問題でした。神社の神職といえども 壇那寺を持ち その檀家に成らなければならず 神葬祭を行う事は出来ず、仏教葬を強いられました。そこで神社の神職は 仏教を排撃し 仏教色を払拭し 宗教としての神道を確立すべく 神葬祭の施行を唱えました。しかしながら 神葬祭を施行するには 檀那寺の許可が必要であり 強行すれば 檀家である事を止めねばならず、自らの身分保障が喪失する事と成りました。徳川幕府は 寺請制度(檀家制度)を宗教問題としてではなく、民衆管理手法として立ち上げて居りましたので 神葬祭 施行の許可は容易に下りず、ようやく1785年に 吉田宗家より 葬祭免許状を得た 神職本人 及びその嫡子に限り 寺院の宗門を離れ 神葬祭を執り行う事が許されます。但し その家族は宗門に留まらねばならないと規定され、この状態が明治維新まで継続されます。又 寺壇制度は 僧侶の退廃を生み 幕末には それを批判する国学者たちによる 排仏論も高まり、社会的な影響を与える事と成ります。

 

1867年 王政復古の大号令が下り、1868年(明治元年)には 神仏分離令が発令され 排仏毀釈へと進みます。ここに 日本の国教が 仏教から 神道へと変わり、第二次世界大戦終了まで続く事と成ります。

尚 神道に於ける 伊勢神宮の役割は非常に大きく、伊勢神宮の神官による 神道の学問的研究は 鎌倉時代に始まり 徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至ります。江戸末期には お伊勢参りを流行させ 庶民の中に神道を定着させました。宗教としての神道が確立される過程で 日本の民衆は 古くはインドの仏教の影響を受け、近世では中国の儒教の影響を受ける中で 伊勢派の努力が大きく寄与したと言えます。

 

   今回は以上です。

神道

 今回は神道(しんとう、かんながらのみち)について書かせて頂きました。

 

 神道は 古代日本に起源をたどる、日本固有の宗教で、山や川などの自然現象を敬い、それらから八百万の神を見出す多神教の宗教です。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に 豪族層による政治体制と共に徐々に成立しました。その分類としては 神社神道、民俗神道、古神道、国家神道、皇室神道(宮中祭祀)、教派神道等が有ります。一般的には 神道とは 神社神道を指して居ります。

 

 神道には 明確な教義や教典はなく 古事記や日本書紀など 神典と言われる古典を規範とし、森羅万象に神が宿ると考え、祭祀を重視し、浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目として居ります。又 仏教は 主として個人の安心立命や、魂の救済を目的(時代によっては国家鎮護を含む)を目的として信仰されて来たのに対して、神道は 神話に登場する神々の様に 地縁・血縁で結ばれた共同体を守る為に信仰されました。

 

 神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、神道と言う宗教として体系化されるのは 鎌倉時代中期以降と成ります。この体系化に大きく貢献したのが 吉田兼倶(1434−1511)です。兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 体系や儀礼を作り上げ 神道は 儒教や仏教の宗主であり 万法の基であると理論ずけました。神仏習合により 神社内に作られた寺院は 仏教の民衆化と共に独立し始め それに比して神道の地位は低下し 神社も修験道の手に移って行きます。吉田神道はこうした 神社・神宮寺・別当寺を傘下に収め 唯一の神道として習合して 1700年頃のその完成を見ます。

 

  今回は以上ですが、次回は江戸時代以降の神道について書かせて頂きます。

 

 

寺請制度

 今回は寺請制度について書かせて頂きました。
 
 
 
 寺請制度とは 西欧列強のアジア進出手段の一つであったキリスト教布教を弾圧する為に 江戸幕府より発布された 宗教統制の制度で、キリシタンではない事を寺院に証明させる制度です。必然的に民衆は 寺院の寺請証文を得る為に 何れかの寺院の檀家と成らなければ成りませんでした。この制度により整備された 宗門人別改帳は住民調査台帳とも成りました。
 
 
 
 室町から江戸時代の初期にかけて 民衆の間で寺壇関係の強化が進み、葬祭・仏事の主体は仏教寺院へと移り、そして 1665年の 寺請制度 発令により 寺壇制度が法令により確立します。この制度により公認された寺院は 宗門人別改帳(宗旨人別帳)を調査・整備し、家単位で 全員の名前、年齢、続柄、家畜等が記載された台帳を、村の構成員全体に対して作成しその運用も司りました。以降 人々は 出産、結婚、旅行、転居、奉公、死亡などの際には 寺院が発行する 寺請証文、送り状、請け状、手形等が必要と成りました。この制度により 仏教寺院は戸籍事務を代行する事と成り、仏教は日本に於ける国教と成ります。尚 この人口調査は 当時としては世界最大の事業であったと言えます。
 
 
 
 又 江戸時代には ”宗門壇那請合之掟” という書物が書き起こされ 檀家とはいかなるものかが示されて居ります。概要は以下の通りです。
 

 1 以下の日には 必ず寺院に出向いて お参りする事。
    2月15日の涅槃会、4月8日の釈迦の降誕会、12月8日の成道会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日。
 2 説教や仏法を説く 寺院の集会に参加する事。
 3 寺院の建物の建立や修理に協力する事。
 4 葬儀は必ず寺院にお願いする事。 


葬儀は寺院に依頼するという 現在の常識は 当時は義務として理解されていた様です。

尚 本書は 当時 徳川家康の書として もてはやされた様ですが 偽書と言われています。




   今回は以上です。


一家一寺

 今回は一家一寺に付いて書かせて頂きました。

 

 一家一寺制とは 家の家族全員が 同じ壇那寺に属する形を言います、丸檀家とも呼ばれます。江戸幕府による宗教政策 寺請制度により確立されました。これに対し 家族の中で異なる壇那寺を持つ場合は 一家寺違制と言います、半檀家、複檀家とも呼ばれます。

 

 江戸時代になると 惣村制がより確立され、大百姓が没落し、平均的な本百姓の集まりにより惣村が運営される様になります。その為 大百姓の菩提寺であった 寺院や道場は 地域共同体の母体となる 惣村の村惣堂や惣道場へと変化して行きます。

 

 江戸時代初期には 一家の構成員全てが家を単位として 一つの寺院の檀家となる 一家一寺制にはなって居りませんでした。家の中で 夫と妻が夫々 異なる寺院の檀家となる事もまま有る、半檀家状態でした。これが 17世紀後半 幕府による寺請制度の推進と、自立した農家の広がりにより 一家一寺制が確立しました。これに伴い 庶民の間でも 家という概念が成立し 祖先崇拝という考えが出来て行きます。一家は菩提寺としての寺院の経済基盤を支え、葬祭、仏事を寺院へ委託していく事に成ります。

 

 それまで 庶民の間では 自前のお墓を持つ習慣は有りませんでしたが、寺院と檀家という関係が出来上がると、次第に自前の墓を建てるようになって行きます。これまでは 庶民の間では ご遺体は共同の葬地に置いたり、埋めたりして居りましたが、家と言う考えが確立して行くと共に 自家の墓を所有する様に成ります。これらの事から 近世の庶民の墓は 家の確立と深く関係し 家の象徴、根拠として建てられたもので有る事が解ります。祖先崇拝が象徴的なものではなく、家の先祖という具体的な対象を持つ事が出来る様になると言う事は それが出来るような 庶民(農民)の自立が出来たと言う事でも有ります。

 

   今回は以上です。

檀家制度

 今回は仏教に於ける檀家制度について書かせて頂きました。

 

 檀家制度とは 仏教に於ける寺院と門徒の関係を指して居り、檀家とは 壇越(だんおつ)の家と言う意味であります。壇越とは梵語のダーナバティの音写で、寺や僧侶を援助する庇護者を指します。

 

 飛鳥時代の仏教伝来以来 仏教の壇越は皇室や有力氏族でした。この有力氏族が その宗派を信仰し、寺院を建立し、庇護者になると共に 僧侶は 有力氏族の為に葬祭供養を行いました。これが檀家制度の源流となります。その後 時代を経るとともに 寺院は寺領を持つ様になり 荘園領主と同様の 権力と権威を持つ様になり 寺院の収入原は 壇越のお布施から 荘園経営の収入へと変化し、壇越のお布施に依存しない寺院経営が行われます。しかし これも 応仁の乱頃までで 荘園制度の崩壊と共に失われます。

 

 これ等の旧仏教勢力に対して 新興仏教勢力は 一般民衆を対象として布教を行い 惣村の発達と結びついて 勢力を拡大して行きます。この間 仏教は 惣村の家々と結び付いて 民衆を壇越とし 檀家と壇那寺の関係が作られ始め その中身も 座禅中心から 葬祭中心へと 比重が逆転して行きます。これが 応仁の乱以降から江戸時代に施行された寺請制度までの200年間の推移です。

 

 江戸時代には キリスト教弾圧を目的とした 寺請制度に端を発する 檀家制度により 寺院の権限は強力となり 寺院は 檀家に対して 常時の参拝、年忌・命日の法要施行、寺院の改築費、本山上納金などの経済的負担を強要するようになります。今日に於ける 彼岸の墓参りや 盆の法事は この時代の檀家制度により確立しました。この時代 寺院は 社会に於ける基盤を強力なものとしましたが、一方で世俗化 形骸化も進み 各種の批判も起きて 明治の廃仏棄却へと繋がって行きました。

 

   今回は以上です。

 

庶民の葬儀

 今回は庶民の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於いて庶民とは 長い間 農民で有りました。世界でも有数の農業国家であり、多くの農民により 日本は支え続けらてて来ました。その農民が ある時期から 村落(惣村)と言われる共同組織を作り始め、仏教はその村落と結びついて民衆化がより進められる事と成ります。庶民の葬儀も この村落の習俗と仏教を融合させた葬法として作られて行きました。

 

 鎌倉時代中期までの日本では 荘園公領制度が確立し その作業員である農民は 自らの作業地に居住し、広く散らばった状態で 生活・経済活動が行われて居りました。その後 鎌倉時代後期より 幕府に任命された地頭の進出により 荘園公領制は崩れ始め、農民 自らは 地域運営、水利配分、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などを契機として 地縁的結合を強め 住居も集合して 村落が形成されて行きます。この様な村落を 地域内に居住する惣て(すべて)の人が構成員となる事から 惣村(そうそん)と呼ばれました。

 

 惣村の成立と共に 経済力も強化され 寺院を支える事も可能と成りました。南北朝から室町の時代 浄土宗を中心として禅宗、真言宗(密教)、日蓮宗、天台宗、浄土真宗(一向宗)などは 葬祭を中心として民衆化を推し進め、惣村に寺院や道場が作られて行き 葬祭仏教化がいちだんと進む事となりました。

 

 庶民の葬儀に於きましては 仏教式の葬儀が庶民の中に入るという事だけでは無く、其々の土地に於ける習俗との融合も進みました。この事はその後の江戸時代以降でも同じで 仏教の葬儀では 宗派の違いによる相違と共に 地域による相違は この習俗との融合によるものです。

 

   今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀

 今回は前回に続けて鎌倉時代の葬儀に付いてもう少し書かせて頂きました。

 

 鎌倉、室町時代に葬儀は 山頭念誦と呼ばれる 火葬場に於ける仏事が中心となって居りました。その点 出棺前に儀礼を執り行う 現代の葬儀とは大きく異なって居ります。

 

 葬送当日は まず 素服という粗い布で作る 喪服を裁縫します。夜になると この素服を着て御仏供養を行い、出棺となります。柩は御車(牛車)に安置し、葬列を組んで火葬場へ運びます、出棺後の寝所は 竹の箒で掃き清め、使用した竹の箒や 集めた塵はまとめて 川や山野に捨て、枕火を消して終了します。

 火葬場には 火葬の為の小屋を建て その周りを荒垣で囲い、鳥居を建てます。火葬場に 御車が到着すると 御車の前で 導師、呪願の僧侶による儀礼が執り行われ、柩を小屋の中に運んで 火葬が行われます。ご火葬の間は 僧侶と近親者により 真言が誦されます。ご火葬が終ると 火は湯で消し、灰は水で流します。そして 収骨となりますが、火葬場から骨壺となるカメまでの間 焼骨を箸で挟んで次の人へ渡し、カメに納めました。

 収骨された骨壺は 白の革袋に包まれ 召使の首に掛けて運び 三昧堂に納められました。そして 帰宅する前に わらで作った人形で 手祓いをします。

 又 室町時代の文献によれば 武士の間では すでに 金銭による香奠のやり取りの記録も有ります。又 火葬場の荒垣に白絹の布を張ったともあり、位牌を持つ者は家督であるとも書かれて居ります。

 火葬場では 奠湯・奠茶が行われ、読経がされ、精進落とし等も行われていた様です。


   今回は以上です。

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