大日如来

 今回は大日如来に付いて書かせて頂きました。

 

 13仏信仰に於ける 13周忌の審理は祇園王が司り、故人様が道を迷わぬ様 導かれます。祇園王の本地は 大日如来で 無相の法身(姿・形の無い永遠・不滅の真理)と言われる如来の一尊で 全一者であり 万物を生成化育することで 自己を現成し、如来の広大無辺な慈悲は万物に上に光被して止まないとされます。

 

 大日如来は 梵名を マハー・ヴァイローチャナとよび、虚空にあまねく存在するという 真言密教の教主であり、万物の慈母でもあります。大光明遍照とも呼ばれます。大日経の教主であり、金剛界曼荼羅五智如来の中心です。真言宗においては 修行者自身と一体化を目指す 最も重要な仏陀であります。平安時代に浸透した 密教に於いて 最高仏と位置付けられて 大日信仰が成立しました。

 

 日本では古来より山岳信仰が数多く有りましたが、平安時代末期に 駿河の国の 僧侶 末代(富士上人とも呼ばれる)が富士山の頂きに登り、大日如来を富士の本尊とする信仰を創始したとされます。その後 富士の大日如来は 富士の神であった浅間大神の本地仏として 浅間大菩薩とする信仰に発展しました。

 

 大日如来の像形は 宝冠など 豪華な装身具を身に付けて、菩薩のような姿の坐像として表現されます。これは古代インドの王様を模したものと考えられます。一般に 如来は装身具などを身に付けない薄衣の姿で表現されますが、大日如来の場合は 宇宙その物の存在を装身具のごとく身にまとった仏として、王者の姿で表わされます。

 

 著名な作例と致しましては 岐阜 横蔵寺、京都 東寺講堂、奈良 円成寺 唐招提寺、和歌山 金剛峰寺などが御座います。

 

   今回は以上です。 

 

阿如来(あしゅくにょらい)

 今回は阿如来に付いて書かせて頂きました。

 

 十三仏信仰に於ける 七周忌の審判は蓮華王により司られ 三回忌までの厳密な審理と言うよりは 成仏後の導きという意味合いが強くなります。蓮華王の本地は 阿如来で 密教に於ける 金剛界五仏の一尊で 金剛界曼荼羅では 大日如来の東方(右下)に位置します。

 

 十三仏信仰は 中陰の間の七王は インド仏教で説かれ、中国に渡って 百ヶ日・一周忌・三周忌の三王が加わり 十王信仰となり、日本に渡来した後 七回忌・十三回忌・三十三回忌の三王を加えて 十三仏(十三王)信仰となり 現在に至ります。

 

 阿如来は 梵名をアクショービアと呼ばれ ”揺るぎ無い” という意味を持ち、この如来の悟りの境地が 金剛(ダイアモンド)の様に堅固で揺るぎ無いもの で有る事を示します。阿仏国経によれば 昔 この娑婆世界から東方千仏の国を経て阿比羅堤という国があり、そこに大日如来が出現した際 無瞋の願を発して修行し、一切の淫欲を断滅し 成就完成して阿仏となり、今現在も仏国土で説法中であると説きます。インド仏教は イスラム教の台頭と共に衰退して行きます。その時期には 後期密教において 憤怒相の護法尊が信仰される様になり、五智如来の中心が大日如来から 阿金剛仏へと転換して行きました。

 

 日本に於ける阿如来の彫像は 五仏の一として作られたものがほとんどですが、単独の造像もわずかに御座います。阿如来の印相は 右手の指先を下げて 地に触れる ”触地印” を結びますが、これは 釈迦が悟りを求めて修行中に悪魔の誘いを受けたが、触地印により これを退けたとの伝説に由来します。煩悩に屈しない堅固な決意を示します。著名な作像としては 奈良 法隆寺大宝蔵殿南倉の木造坐像、和歌山 高野山親王院の銅像立像が御座います。

 

   今回は以上です。

阿弥陀如来

 今回は阿弥陀如来に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 三周忌の審理は五道転輪王が司り、判決に係わる最後の再審査を行います。五道転輪王の本地は 阿弥陀如来です。阿弥陀如来は 大乗仏教の如来の一尊で 無明の現世をあまねく照らす 光の仏にして 空間と時間の制約を受けず 西方に極楽浄土と言われる 仏国土を持ちます。尚 東方の浄土には 薬師如来が居られます。

 

 阿弥陀如来の 梵名は アミターバ、又は アミターユスと言われます、アミターバは 無限の光を持つ者、アミターユスは 無限の寿命を持つ者 を意味し、これを音写して阿弥陀となり、仏を加えて阿弥陀仏と成りました。又 漢訳すると 無量光仏、無量寿仏となります。

 

 阿弥陀仏信仰の起源は 必ずしも明確では有りませんが、浄土系教典や像の出現時期などから推測すると、北インドを中心として クシャーナ朝前記の西暦1−2世紀の間に発達したと考えられます。佛説無量寿経 によれば 一切の衆生救済のため王位を捨てて 世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り 修行し、衆生救済の為の 五刧思推し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための”四十八願”を発願したのち、改めて誓いを立てて修行し、それが成就して仏となった報身仏と説かれて居ります。特に浄土諸宗に於いては 四十八願のうちの 第十八願を重要視して居ります。

 

 阿弥陀如来は 鎌倉時代以降 浄土教の本尊として 日本各地に広がります。造形化される際は 装身具を着けない質素な服装の如来形で印を結ぶ姿が一般的です。真言宗では 紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれる 髪を高く結い上げて宝冠を戴き、体色が赤い如来像が、天台宗でも 宝冠を戴き装身具を身に付けた 如来像が御座います。


 日本に於ける作例と致しましては 岩手県 中尊寺、京都府 平等院、仁和寺、三千院、浄瑠璃寺 奈良県 法隆寺 兵庫県 浄土寺 そして 神奈川県 高徳院の鎌倉大仏 などが御座います。いずれも国宝に指定されて居ります。


   今回は以上です。 

勢至菩薩

 今回は勢至菩薩に付いて書かせて頂きました。

 

 十仏信仰に於ける 一周忌の審理は 都市王が司り 100ヶ日と同じく判決の再審査を行います。都市王の本地は 勢至菩薩で 仏教に於ける 菩薩の一尊です。仏の智門を司り、衆生の菩提心を目覚めさせ、智慧の光を持って一切を照らし 衆生が地獄や餓鬼界に堕ちぬ様 救う菩薩です。大勢至菩薩、得大勢至菩薩とも呼ばれます。

 

 勢至菩薩は 梵名をマハースターマプラープタと呼ばれ 阿弥陀三尊に於きまして 観音菩薩と共に阿弥陀如来の脇侍を務め、観音菩薩が左脇、勢至菩薩は右脇をかためます。観無量寿経の中では 知恵を持って遍く一切を照らし、火途・血途・刀途の三途 迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせるので、大勢至と名ずく と有ります。

 

 浄土宗に於きましては 中世より 源空上人(法然)は勢至菩薩の化身とする説が有りました。法然は幼名を勢至丸と言い、智慧第一の法然坊 と言われ 生前から智慧の化身と考えられて居りました。そして 法然上人没後 その弟子の親鸞は 大勢至菩薩和讃を詠み 大勢至菩薩は源空上人の御本地である と述べて居ります。更に 親鸞の妻女である 敬信尼が霊夢を見、光ばかりの御仏 を見ると共に あれは勢至菩薩で法然のことだ と言う声が聞こえたと言う話が伝わって居ります。

 

 像容と致しましては 多くの像は 阿弥陀三尊の脇侍として作られて居り、観音菩薩が宝冠の前面に化仏を表すのに対して、勢至菩薩は水瓶を付ける事が多く見られます。又 観音菩薩が蓮台を捧げ持つ場合は 勢至菩薩は合掌する姿が見られます。

 

 著名は勢至菩薩像と致しましては 長野の善光寺如来像、京都 智恩院 勢至堂の御本尊などが御座います。又 四国八十八箇所霊場十三仏では 53番札所の須賀山圓明寺で、京都十三仏霊場では9番札所の大内山仁和寺で朱印がもらえます。

 

   今回は以上です。

観音菩薩

 今回は観音菩薩に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 100ヶ日の審理は平等王により司られ 七七日の泰山王により下された判決の再審査が行われます。平等王の本地は 観音菩薩は 仏教の菩薩の一尊であり 日本や中国に於いて 古代より広く信仰を集めている尊格です。観世音菩薩、観自在菩薩、救世菩薩などとも呼ばれて居ります。

 

 観音菩薩は 梵名を アヴァローキテ−シュヴァラといい 中央アジアで発見された古いサンスクリット語で書かれた法華経によれば アヴァローキテは観、シュヴァラは音と訳されて居り、現在では 観音菩薩は 観世音菩薩の略号であるという説一般的です。観音菩薩は 般若心経の冒頭に登場する菩薩であり、般若の智慧の象徴ともなって居ります。又 大慈大悲を本誓として 現世利益と結び付けられて 時代 地域を問わずに古くから 広く信仰されて居ります。観世音菩薩往生浄土本縁経 によれば 現世に於いては 早離(そうり)と呼ばれるバラモンの子で 速離(そくり)と呼ばれる兄弟が居り、早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死しますが、早離は 餓死する寸前に 生まれ変わったら自分たちの様に苦しんでいる人々を救いたい と誓願を立てた事により 観音菩薩になったと言われ、速離は のちに勢至菩薩に、兄弟の父 長邦(ちょうな)は未来に釈迦として生まれ変わったとされます。

 

 観音が世を救済する際には 衆生を救う為に 相手に応じて 33の姿に変身すると説かれます、これを観音の普門示現と言います。西国三十三所観音霊場、三十三間堂などの 33という数字はこれに由来します。又 普門示現の延長線上で 十一面観音、千手観音などの像も作られました。

 

 観音菩薩を祀る寺院は数多く有りますが、奈良 法隆寺、東大寺、唐招提寺、薬師寺 京都 三十三間堂、広隆寺、六波羅蜜寺、観音寺 そして 神奈川県内では 横浜 弘明寺、鎌倉 長谷寺などが著名です。

 

   今回は以上です。

薬師如来

 今回は薬師如来に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 七七日(四十九日目)の審理は 泰山王が司り 善因、悪縁を審査して判決を確定させます。泰山王の本地は 薬師如来です。薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも言う)の教主で 瑠璃光をもって衆生の病苦を救うとされ、無明の病を治す法薬を与える 医薬の仏として 現世利益信仰を集める如来です。

 

 薬師如来は 梵名 バイシャジャ・グルは 大乗仏教に於ける如来の一尊で、薬師瑠璃光如来 或いは 大医王仏とも称します。薬師如来は 菩薩の時に12の大願を発し、この世門に於ける衆生の疾病を治して寿命を延ばし、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、仏行を行じては 無上菩堤の妙果を証にすると誓って 仏と成ったと説かれて居ります。真言宗(東密)では 顕教系の如来として あまり重視はされて居りません。しかしながら 永く皇室との結びつきの強かった 天台宗(台密)では 薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主である事から 東の国の帝である天皇と結び付けて語られる事と成ります。又 釈迦如来・大日如来と一体ともされて居ります。ほとんどの国分寺は薬師如来を本尊として居ります。

 

 像容は 立像、坐像ともに有り 右手を施無畏印(せむいいん)、左手は与願印とし 左手に薬壺を持つのが通例です。ただし 古代の像では薬壷を持たない形も多く御座います。又 単独像として祀られる場合と、日光菩薩 月光菩薩を脇侍とした 薬師三尊像として祀られる場合が御座います。薬師如来の光背には 七体または六体の小さな像容、もしくは 同じ大きさの 七体の像容が有ります。これは 七仏薬師と呼ばれ 薬師如来とその化身仏とされて居ります。

 

 著名な薬師如来像としては 奈良 薬師寺、唐招提寺金堂、法隆寺 京都 仁和寺、醍醐寺などが御座います。

 

   今回は以上です。 

弥勒菩薩

 今回は弥勒菩薩に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 六七日(四十二日目)の審理は 変成王が司り、五官王の計りと 閻魔王の鏡を使い 生前の功徳を再審査します。変成王の本地は 弥勒菩薩であり 弥勒菩薩は仏陀の入滅後 次の仏陀になる事が約束された菩薩で 現在は 兜率天で修行をして居り、仏陀入滅後 56億7千万年の未来に 現世に現れ 多くの人々を救済するとされて居ります。

 

 弥勒菩薩は 梵名をマイトレ−ヤと言い 仏教の菩薩の一尊で 未来仏です、弥勒は音写で その語源は 慈しみ とされて居ります。弥勒菩薩の現世への下生は56億7千万年後とされる その算式は 弥勒の兜率天での寿命が4,000年であり、兜率天の一日は 現世の400年に匹敵するとの説から 下生までに 4,000×400×12×30=5億7600万年かかるとの計算に由来し、後世になり 5億7600万年が 56億7千万年に入れ替わったと考えられます。弥勒菩薩は 兜率天で修行の後 弥勒如来(あるいは 弥勒仏)として 現世へ下生するとされます。

 

 中国、朝鮮半島、日本に於いては 弥勒菩薩の兜率天に往生したいと願う 上生信仰が時として流行し、又 弥勒如来は 56億七千万年を待たずに 今 下生されるので それに備えなければならないと言う 下生信仰も有ります。下生信仰は 現世改革のための終末論、救世主待望論など利用され、反体制派の集団に利用される例も多く有ります。日本でも戦国時代に 弥勒仏がこの世に現れるという信仰が流行し、江戸時代の百姓一揆や世直し一揆の思想的な主柱とも成りました。

 

 弥勒菩薩の像容は 椅坐して左足を下ろし、右足を上げて 左膝の上に置き、右手で頬杖をついて、瞑想する姿が一般的です。著名な例としては 大阪 野中寺、京都 広隆寺 醍醐寺、奈良 東大寺等が御座います。

七福神の一人である布袋は 中国では 弥勒の化身とされ 弥勒如来として 仏堂の正面に祀られて居ります。

 

    今回は以上です。 

 

地蔵菩薩

 今回は地蔵菩薩に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 五七日(三十五日目)の審理は閻魔王が司り、水晶の鏡で生前の業績をつぶさに映し出し その業績により栽を申し渡します。閻魔王の本地は地蔵菩薩です。大地が全ての生を育む力を蔵する様に、苦悩になやむ人々を その大慈悲の心で包み込み 救済する所から地蔵菩薩と名ずけられたとされます。一般的に親しみを込めて お地蔵さん、お地蔵様とも呼ばれます。

 

 地蔵菩薩は 仏教の信仰対象である 菩薩の一尊で、サンスクリット語でクシティ・ガルバと呼ばれます。クシティは 大地、ガルバは胎内を意味し、それを意訳して地蔵としれたとされます。菩薩の居所は 通常 空居天ですが、地蔵菩薩は地居天に居り 釈迦仏に属して 毎朝禅定に入り、釈迦の入滅後 56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうので、その間 六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされます。中国に於いては 地蔵王菩薩とよばれ その聖地は 安徽省の九華山で、文珠菩薩の五台山、普賢菩薩の峨眉山、観音菩薩の晋陀山と共に 中国四大仏教名山(聖地)の一つとされて居ります。

 

 日本に於きましては 浄土信仰の普及と共に 極楽浄土に成仏が叶わない衆生は 地獄に堕ちるという信仰が強まり、地獄に於ける責め苦からの救済を地蔵菩薩に求めるなりました。賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという 民間信仰も有ります。又 六地蔵と呼ばれる 仏教の六道輪廻の思想にもとずき、六道のそれぞれを六種の地蔵が守るとの考えから 地蔵菩薩を六体ならべ祀る像も各地にあり、特に 奥州平泉の中尊寺金色堂は著名です。そして 地蔵信仰は道祖神信仰とも結びついて 町外れや辻に 町の結界の守護神 としても建てられました。

 

 像容は 一般的には剃髪した僧侶の姿で 袈裟を身にまとい、左手に如意宝珠 右手に錫杖を持つ姿、或いは 左手に如意宝珠 右手は与願印の印相をとる像が多く見られます。著名な地蔵菩薩としては 奈良 法隆寺、神奈川県内では 鎌倉 建長寺の本尊、同じく鎌倉 宝戒寺の像等が御座います。更に 横浜中華街には 地蔵王廟(中華義荘)も建立されて居ります。

 

   今回は以上です。

普賢菩薩

 今回は普賢菩薩に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 四七日(二十八日目)の審理は 五官王が司り、秤を用いて罪の重さを計ります。五官王の本地は 普賢菩薩であり 大乗仏教に於ける 菩薩の一尊です。

 

 普賢菩薩は梵名をサマンタ・バドラと呼ばれ その意味する所は ”普く賢い者”であり、普賢菩薩は世界のどこへでも現れ 仏の慈悲と理知をあらわして人々を救う賢者であるとされて居ります。法華経の中に登場し、法華経では女人成仏を説く事から、女性の信者の信仰を多く集めました。又 密教では 菩提心(真理を究めて悟りを求める心)の象徴とされ、同様の性格を持つ金剛薩すい(土返に垂)と同一視され、金剛手菩薩とも呼ばれます。中国・四川省の峨眉山が普賢菩薩の霊場とされて居り、文珠菩薩と共に釈迦如来の脇侍を務めるのが一般的です。

 

 普賢菩薩の像形としては 六牙の白像の背に蓮華座を乗せ、蓮華座で結跏趺坐して合掌する姿が一般的です。密教では 左手で宝剣を立てた蓮茎を持つ姿や、金剛薩すいと同じ 左手に五鈷鈴 右手に五鈷枡を持つ姿、あるいは 如意・蓮華・教典などを持つ作例も御座います。又 普賢延命菩薩と呼ばれる尊格を持ち、二十二手を持つ尊としての作例も多く御座います。

 

 著名な作例としては 東京 ホテルオークラ正面前の大倉集古館に収蔵されて居ります木像、絵画として 東京国立博物館の普賢菩薩騎象 像、奈良国立博物館の本、鳥取県 豊乗寺(ぶじょうじ)の本などが御座います。

 

  今回は以上です。 

 

文殊菩薩

 今回は文殊菩薩に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける 三七日(二十一目)の審理は宋帝王が司り、邪淫の業について審理します。宋帝王の本地は文殊菩薩で 知慧を司る仏とされて居ります。梵名はマンジュシェリー 正式には 文殊師利菩薩と言われ、妙吉祥菩薩とも言われます。

 

 文殊菩薩は 舎衛国のバラモンの家に生まれたとされます。文珠菩薩が智慧の菩薩とされる逸話は 維摩居士という学者が居り 維摩居士と問答をしてかなう者が居りませんでしたが、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等の問答を交わす事が出来たとの記載によります。文殊菩薩が実在したと言う事実は有りませんが、観音菩薩とは異なり、モデルとなる人物が存在したと考えられて居り、仏教教団の内部で生まれた菩薩と考えられて居ります。又 法華経では 過去世に日月燈明仏が涅槃の後に その弟子であった妙光菩薩の再誕が文殊菩薩であると説いて居ります。

 

 文殊菩薩は 三世の仏母 と唱えられ、華厳経では 善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役割で書かれています。文殊菩薩の徳性は 悟りに到る重要な要素 般若 即ち 智慧です。悟りに到る為には智慧が必要とされますが、智慧は 一般的な知恵(豊富な知識と頭の良さ)の象徴であります。 ”三人寄れば文殊の智恵” ということわざは これから生まれました。

 

 文殊菩薩像は ほぼ一定しており、獅子の背の蓮華座に結跏趺座して、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)を持ち、左手に教典を乗せた青蓮華を持ちます。

密教では 清浄な精神を表す童子姿となり 髪を結います。髪の数は像により 一、五、六、八の四種類があります。一は増益、五は敬愛、六は調伏、八は息災の本尊とされて居ります。

又 禅宗においては 修行僧の完全な姿を現す 聖僧として 剃髪して座禅を組む僧形となります。

日本に於ける有名な作例と致しましては 奈良の 興福寺東金堂の坐像、安部文殊院の五尊像 高知の 竹林寺の五尊像などが御座います。

 

   今回は以上です。

釈迦如来

 今回は釈迦如来に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰に於ける初七日の審理は 泰広王(本地 不動明王)が書類審査により司りましたが、二七日(十四日目)の審理は 初江王(本地 釈迦如来)により 三途の川のほとり で司られます。釈迦如来は 仏教の開祖である釈迦を 仏、或いは仏陀として敬う呼び方です。又 釈迦牟尼仏とも呼ばれます。


 小乗仏教(上座部仏教)では 釈迦如来(釈迦牟尼仏)は 現世に於ける唯一の仏とされて居ります。そして 最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(あらかん)と呼ばれ、仏である釈迦の説法によって解脱した聖者と位置付けられています。


 大乗仏教では 釈迦如来は 十方(東西南北と その中間である四隅を足した八方と 上下を加えて 十方)と 三世(過去、未来、現在)の中に位置する諸仏の一仏であり、現在の娑婆(堪忍世界)の仏であるとされます。又 三身説では 仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされます。


 大乗仏教の中の 特定宗派では 釈迦牟尼仏は 古代インドで活躍し、肉体を持った ゴータマ・シッダルタ(釈迦)を指すのではなく、インドで生誕する前の悠久の昔から存在し、入寂の後も 遙か未来まで存在して行くという 信仰上の 釈迦牟尼世尊である と説きます。


 釈迦如来は インドを始めとして 仏教が布教された各地で 造像されて居りますが、日本では 誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像などが御座いますが、釈迦が法を説く姿である 説法像が一般的です。著名な作例としては 奈良の法隆寺金堂、室生寺金堂 京都の清凉寺、蟹満寺、大報恩寺などの釈迦如来像が御座います。


   今回は以上です。  

不動明王

 今回は十王信仰に於いて最初の審理を行う不動明王に付いて書かせて頂きました。

 

 不動明王とは 初七日の審理を行う泰広王の本地であり、梵名をアチャラ・ナータと呼び 真言宗をはじめとして、天台宗、禅宗、日蓮宗などで 幅広く信仰されて居ります。アチャラは ”動かない”、ナータは ”守護者” を意味して ”揺るぎ無き守護者”を意味して居ります。

 

 不動明王は 密教の本尊である大日如来の化身、又は 大日如来の決意の一つを表したものと考えられて居ります。日本へは 空海(弘法大師)が密教を唐より伝えた際に不動明王の図像を持ち返ったとされて居ります。真言宗では 大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれて居ります。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊、あるいは お不動さんなどと呼ばれ 親しまれて居ります。

 

 不動明王の起源は ヒンドゥ−教の最高神シヴァ神にあるという説が有力であり、アチャラ・ナータはヒンドゥ−教でシヴァ神の別名とされて居ります。密教がヒンドゥ−教を取り込む為に シヴァ神を不動明王として 大日如来の眷属に取り込んだと考えられます。


 密教では三輪身といって ほとけは 自性輪身、正法輪身、教令輪身と言う三っの姿で現れるとされます。自性輪身(如来)は 宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、正法輪身(菩薩)は 宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指します。これに対し 教令輪身は 仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し、教え、諭し、 仏法に敵対する事を力ずくで抑え、外道に進もうとする者を内道に戻す等 極めて積極的な介入を行う姿を指します。不動明王は大日如来の教令輪身とされ、煩悩を抱える最っとも救い難い衆生をも 力ずくで救う為に 憤怒の姿をして居ります。 


 不動明王の像としては 京都 東寺御影堂の木造不動明王坐像や 和歌山 金剛峯寺の木造不動明王立像が有名です。又 関東三大不動として 東京 高幡山金剛寺、千葉 成田山新勝寺、神奈川 雨降山大山寺が賑って居ります。


   今回は以上です。

返礼品

 今回は返礼品に付いて書かせて頂きました。

 

 返礼品とは 葬儀(葬送儀礼)に於いて お手伝い頂いた方々や会葬の方々に振舞う品物の事を指します。これは 他者に布施をする事により仏に徳を積み、これを故人様に振り向ける為の供養の品で、供養品とも呼ばれます。返礼品には 通夜返礼品、会葬返礼品、香典返し、法要返礼品などが御座います。

 

 通夜や葬儀の際に 弔問客や会葬者に 食事や酒を振舞ったり、お菓子などを出したりするのは 故人様の滅罪を願って行われるお布施の一つです。又 葬列が出発する際に 目の粗い竹籠にお菓子や小銭の包みを入れて 振り回しながら 見送りの方々に振り撒く習慣が最近まで御座いましたが、これもお布施の一つでした。このお布施には 仏教葬儀特有の 故人様の供養と言う意味と、会葬頂いた方々への感謝の品という意味合いが込められて居ります。

 

 通夜返礼品は 通夜に弔問に訪れた方への返礼品です。しかしながら 近年では通夜の弔問客が増える傾向に有ります、又 葬儀・告別式には出られないので通夜に来られると言う方も多くなりました。返礼品の目的も 通夜振る舞いに出られな方へ、或いは通夜振る舞いは行わずに返礼品のみお渡しする形なども増えて参りました。そして 通夜返礼品と会葬返礼品は同じ品物をお渡しするのが一般的と成りました。


 会葬返礼品は 葬儀・告別式に会葬された方への返礼品です。本来は会葬に来られた全ての方へお渡しする品物で、ハンカチやはがきのセットなど 5百円前後の品物を粗供養品として用意致しました。近年 都市部を中心として 儀礼を簡素化する目的で 香典を供えて頂いた方へはその場で香典返しをお渡しする ”即返し” の習慣が増えて参りました。特に横浜では この即返しが一般的となつて居ります。


 香典返しは 香典をお供え頂いた方々へ 四十九日法要後の忌明けにお礼の書状を添付してお届けする品物です。品物は半返し(香典の半額)や 三分返し(香典の三分の一)の習慣に従い用意します。前記致しました 即返しの場合は 通夜・葬儀・告別式の席に三千円前後の品物を用意してお返しいたします。但し 高額の香典をお供え頂いた方には 別途 忌明けにお返しを用意します。そして 香典返しを行わない場合も御座います、お供え頂いた香典を 社会福祉の為に寄付したり、遺児の養育費に充てたりする場合です、この様なケースでは 故人様の忌明けにお礼状を出状して お礼と共に お供え頂いた香典の用途をご報告致します。


 法要返礼品は 四十九日、百ヶ日、一周忌、三周忌などの法要に参列頂いた方への引き物です。


   今回は以上です。

香典

 今回は香典に付いて書かせて頂きました。

 

 香典とは 仏式のご葬儀で 故人様の霊前に供える金品を指します。古くは 香奠と書き、故人様の霊前に香を供えると言う意味でした。その後 香・線香に代えて金品をお供えする様に成りました。本来の香奠は 奠の文字が当用漢字より外されて以降、典を当て字として使用するように成って居ります。

 

 香典は金銭、あるいは品物を 霊前にお供えする訳ですが、古くは品物 特に米や食料が主としてお供えされました、これを食料香典と言います。金銭香典は貨幣経済の発展と共に都市部を中心に普及しました。室町時代後期には武士が金銭香典をお供えしたとの記録が有ります。

 

 食料香典の由来は 農村部の地域共同体では ご葬家は 故人様の成仏を願い、贖罪する為の お布施として 人々に食事を振舞う習慣が一般的でした。古い記録では 葬儀の期間 地域の共同体の人々は 子供を含めて 自宅で食事をする事無く 葬家の振る舞いで過した、などと有ります。従いまして ご葬家では 多量の食物が必要となり、故人様との交わりの濃さに合わせて、親族香典、村香典、等が 米・野菜・酒などで提供され 貧富に係わらず、共同体の相互扶助により葬儀を執り行う事が出来ました。又 葬儀を出した時の香典帳は 長く保管して 他家の葬儀の際は その香典帳を参照して 見合った香典を包む習慣にもなって居りました。


 現在の金銭香典の相場は 近隣の方;3千―5千円、勤務先関係・友人;5千―1万円、一般親族;1万―3万円、兄弟姉妹;3万ー5万円、父母;5万―10万円位となります。伝統的な禁忌としては 奇数は陽数であり、偶数は陰数として 金額や紙幣の枚数では偶数を避ける様にといわれて居ります。しかしながら 現在では 1万円の次が3万円では その差が大き過ぎると言う事で 2万円と言う金額も使用される様にも成って居ります。


 香典の上書きは 四十九日法要までは 御霊前、それ以降は 御仏前と 薄墨で書きます。但し 浄土真宗では 死去即成仏と成りますので 御霊前は使用しません。又 曹洞宗などの禅宗では 教義に浄土は有りませんので 成仏以前という考え方が無いので 御仏前とするのが一般的です。

尚 会葬者の立場から考えると 必ずしも ご葬家の宗教・宗派を理解した上で会葬するとは限りませんので、御自身の宗旨で上書きを選択しても良い考えます。


   今回は以上です。 

献花

 今回は献花に付いて書かせて頂きました。

 

 ご葬儀に於ける献花とは 故人様との告別を祈る作法として 仏教に於けるご焼香、神道に於ける玉串奉奠が御座いますが、無宗教、キリスト教、お別れ会、ホテルでの葬儀などの場合は これに変わる形として 参列者は 故人様にお花を供えて 告別をお祈りします。

 

 故人様との告別の儀式としてお花を供える習慣は 日本独自のものと言えます。しかしながら 故人様の逝去を悼み お花を手向ける習慣は世界中で古くから有りました。例えば 紀元前20万年から二万数千年まで ヨーロッパを中心に分布していたとされるネアンデルタール人の遺跡では イラク北部のシャニダール洞窟で 屈葬の形で遺体が埋葬され、その化石と共に ノコギリソウやヤグルマギクなどの花粉が大量に発見されて居ります。ネアンデルタール人には 死者を悼む心が有り、副葬品として花を遺体に添えて埋葬する習慣があったと考えられて居ります。又 日本国内の古墳でも 花粉や花の種の化石が発見されて居ります。

 

 日本に於ける最初に行われた 無宗教葬儀(告別式)は明治34年に死去した中江兆民の告別式です。中江兆民は無神主義者で 生前より葬儀の施行を拒否して居りました。その後 著名人の間で無宗教の告別式がはやりと成り、告別のお祈りをする際 神道の玉串に変えて生花を供える様に成りました。キリスト教の場合、本来 献花の習慣は有りませんが、日本に於いてのみ 無宗教告別式と同様に献花をする様に成りました。ホテルでの葬儀の場合 仏教の葬儀であっても 会場側の都合により 焼香が出来ない為、焼香に変えて献花を行います。

 

 告別の為の献花は日本特有と言われるのに なぜ米国のアーリントン墓地で献花をするのか と聞かれます。

アーリントン墓地は戦没者墓地として有名ですが、それ以外に 二十年以上軍籍にあった死者も 宗教に係わらず埋葬する事が出来ます。そして 第一時世界大戦以降の無名戦士のお墓が御座います。同様の墓地は イギリスとフランスにも存在します。関係国要人が献花するのは この無名戦士の墓のみです。

 

    今回は以上です。

 

 

玉串奉奠

 今回は神葬祭に於ける玉串奉奠(たまぐしほうてん)に付いて書かせて頂きました。

 

 玉串奉奠とは 神式のご葬儀に於いて 故人様を告別する為の玉串拝礼を指し、仏教の葬儀に於ける ご焼香に該当します。真榊の小枝に紙垂(しで)をつけたもの(玉串)を神前に捧げ 故人様が神の下に戻り 無事にご葬家の守護神になられる事を祈念致します。

 

 神社本庁編の ”神社祭式同行事作法解説” によれば 玉串を捧げる事(玉串拝礼)を 玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受ける為に祈念をこめて捧げるものである と説明されて居ります。

 

 玉串の由来は 天照大御神の天の岩戸隠れの際に 神々が行った祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだ との古事記の神話によります。その語源には 幾つかの説が有り、神前に手向ける為の手向串であるという本居宣長説、本来は木や竹の串に玉を着けたものであったので 玉串と称したと言う 平田篤胤説、真榊は神霊の宿る料であり 本来は 霊串(たまぐし)であると言う 六人部是香(むとべよしか)説等です。玉串は神霊を迎える依代であり 祀られる神と祀る人の霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であると言われます。

 

 玉串奉奠の作法は以下の通りです。

1 神職より玉串を受取ります。

   右手のひらを下に向けて玉串の下部を持ち、左手のひらを上に向けて上部を支えます。玉串は胸の高さに持ちます。神職は玉串を渡した後 小損(軽いお辞儀)をしますが、答礼の必要は有りません。

2 神前に立つ前に作法を行います。

   玉串を時計回りに回して 玉串を立てます。左手を右手と同じ位置まで下げ、玉串を手前に引いて 祈念を込めます。そして玉串を体から離して 右手を玉串に中ほどまで上げ 右手を手前に、左手を向こう側に動かして時計回りに回します。玉串の根元を神前に向け 左右の両手で持ちます。左足から一歩進み 玉串を玉串案(机)の上にお供えします。右足から一歩退き 神前で二拝、二拍手、一拝します。尚 二拍手は 両手を打つ寸前で止める しのび手により行います。

 

以上ですが 要点は 玉串は時計回りに回す事、玉串は一旦 立てて祈念を込める事の二点です。

 

   今回は以上です。

 

 

焼香

 今回は焼香に付いて書かせて頂きました。

 

 焼香とは 仏教に於いて 仏や故人様に対して 香を焚いて拝む事を言います。焼香には 線香焼香と抹香焼香が有りますが、一般的には 抹香焼香をさし 通夜・葬儀・法要などでの 故人様との告別に使用されます。心身の穢れを取り除き、清浄な心でお参りする際の作法とされます。左手に数珠をかけ、右手の 親指、人指し指、中指の三本で 香をつまみ 香炉にくべます。

 

 焼香の作法は ご宗派により異なりますが 主としては以下の通りです。

 

天台宗; 焼香回数に付いて特に定めは有りません。

真言宗; 焼香三回、線香も三本立てます。身、口、意の三業を清めるとされます。

臨済宗; 回数に拘りません。

曹洞宗; 焼香二回、線香は一本。初回は香をつまみ額に押し戴いてから焚きます。二回目は押し戴かずに炊きます。初回を主香、二回目を従香と言います。

浄土宗; 特に定めは有りませんが一回から三回までの間で焼香します。線香も一から三本立てます。

日蓮宗; 焼香は三回、線香は一本立てます。

    以上の宗派では焼香の前に 香を額に押し戴きます。

真宗大谷派; 焼香は二回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

浄土真宗本願寺派; 焼香は一回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

 

 以上の様に焼香の作法は宗派により異なります。ご葬家の宗派と ご会葬の方の宗派が異なる場合 以前はご葬家に合わせると言う考え方が有りましたが、信教の自由の観点から 会葬者の方のお気持ちを尊重するのが良いのではないでしょうか。特に 他の宗教の場合は 焼香を禁じている場合も御座います。又 会葬の方々が多数の場合は宗派に係わらず、焼香を一回に制限させて頂く場合も御座います。

 

   今回は以上です。

死亡広告

 今回は死亡広告に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡広告とは 故人様のご逝去を広く社会に伝える為の広告で 主として日刊新聞を利用します。その費用は 依頼する大きさ(スペース)と 依頼先の新聞社により異なります。又 死亡記事が御座いますが これは 新聞社が独自の判断で 著名人の物故を記事として掲載するもので 費用は発生致しません。

 

 死亡広告は ご遺族、或いは施主様のご希望により ご逝去の事実と 葬儀・告別式の 日時・場所を広く告知する事が目的です。通常は新聞の紙面にて 黒枠で囲まれますので 黒枠広告 とも言われます。広告内容に於ける 決まりは特に有りませんが 物故者の肩書、氏名、享年、葬儀・告別式の日程、場所、喪主、葬儀委員長(施主)などを記載します。供物・献花・香典を辞退する場合は それを明記します、何も書かない場合は お受けする前提となります。又 葬儀と告別式を別に行う場合は それも明記する方が良いでしょう。

 

 死亡広告は 各新聞社ともに 特別扱いとしており 希望掲載日の間際の申込みでも 極力 調整して掲載の努力をしてくれますが、あまりに急な場合は 紙面の確保が出来ない場合も御座いますので、なるべく早めの手配が必要です。

 

 死亡記事に付きましては 各新聞社とも 特定の 死亡記事書式を用意しており どなたでも新聞社に送る事が出来ます。記載するかどうかは新聞社の判断となります。掲載が決定すると 新聞社より内容確認の電話が入ります。

 

 尚 日本に於ける 最初の死亡広告は 1873年1月14日の 日新真事誌に掲載された 明治政府 外務少輔 上野景範氏 ご尊父の死亡広告とされて居ります。

 

   今回は以上です。

法事

 今回は前回とは異なる観点で法事(法要)に付いて書かせて頂きました。

 

 法事(法要)とは 十王信仰や十五王信仰を元にして営む 追善供養を指しており、その他に月命日、お彼岸、お盆の法要などが含まれます。

 

 まずは 中陰の間に営む 初七日から七七日まで の七回の法要が御座います。故人様がご逝去された日を一日目として 七日毎に営む法要ですが、現在では 初七日はご葬儀・ご火葬の後 同日に営むのが一般的と成りました。特に横浜市営の斎場をご利用頂く際は ご葬儀・告別式と合わせて ご火葬の前に初七日法要を営ませて頂いて居ります。これは ご参加頂く方が何度も足を運んで頂かなくとも良い様、又 斎場をより多くの方にご利用して頂く為で御座います。更に ふた七日から む七日までの 5回の法要はご家族だけで営み、僧侶 関係者をお呼びして営む事も少なく成りました。七七日(四十九日)は忌明けの法要と共に納骨 そして精進落とし を営まれるのが一般的です。法要の日取りは早めに 僧侶とご相談され ご出席頂く方々に ご案内状を出状して ご連絡されるのが良いでしょう。法要の日取りは ないがしろにしない と言う事で 正しい日取りより早い日に営む事が許されます。ご出席の方々のご都合を考え、早い日の日曜・祭日を選ぶのが良いでしょう。

 

 以降 百ヶ日、一周忌、三回忌と続きますが 日取りは七七日法要と同様に選び 営みます。尚 現在では 百ヶ日法要を営む事は無くなりました。

 

 ご法要に招待する方々の範囲に決まりは有りませんが 故人様との関係、ご家庭の事情を慎重に検討してお決め頂く事が良いでしょう。法要の会場は ご自宅、寺院、墓地霊苑の会場、料理屋、ホテル等 ご都合の良い会場をお選び頂けます。

 

   今回は以上です。

中陰

 今回は中陰に付いて書かせて頂きました。

 

 中陰(中有とも言います)とは 仏教におきまして 人が亡くなられてからの四十九日間を指し 死者があの世へ旅立つ期間であり、生から死 陽と陰の狭間に置かれているとの考えから 中陰と言います。但し 浄土真宗では 故人様はご逝去と共に成仏されるとの考えから 中陰期間は 故人様を追悼し、生と死を考え、謹慎して仏法を考える期間とされて居ります。

 

 仏教発祥の地である古代インドでは 人は輪廻転生すると考えられており、誕生の瞬間が生有、生きている間が本有、死の瞬間が死有、死んだ後 次の生を得る間の期間を中有 あるいは中陰と呼び、その期間は四十九日間であるとされました。ご臨終の日(命日)を含めて七日毎に法要を執り行い それを七週続けた四十九日目に 次の六道中の何れかの世界へ生まれ変わるかが決まると考えられて居りました。それが日本に伝わり、宗派により考え方が異なりますが 魂を清めて成仏する期間へと変化しました。尚 なぜ七日毎、七週なのかは 古代インドでは七進法が使われていたからです。

 

 この四十九日間は 死の穢れの最っとも強い期間であると考えられ、死の穢れを他に移さぬ様 ご遺族は謹慎して家に籠るものとされました。この期間を忌中と言い、四十九日の法要を終えると 忌明けとなり 日常生活に復帰します。又 その一方では 精神的な打撃を受けたご遺族が 日常の生活から離れて 心の痛みを癒す期間であり、七日毎の法要は 故人様を弔うと共に 周囲の人々がご遺族を思いやる時でも御座います。

 

 忌明け法要をもって精進落としとなり、中陰壇(後飾り)を片ずけ、白木の仮位牌を壇那寺へ返し、本位牌を仏壇にお納めします。

 

   今回は以上です。  

十王信仰

 今回は十王信仰に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰とは 中国の道教や仏教の教えで、十仏事を何故 営むのかの 前提となる信仰です。人間を始めとする衆生は 没後には中陰と言われる存在となり 節毎に十回 異なる王の審判を受けて六道の何れかに置かれ、最終的には 供養と徳を積んだ者は 極楽浄土へ、供養と徳の至らぬ者は地獄へ 行かねばならないと言う 冥界思想(他界思想)です。

 

 初七日には 秦広王(本地 不動明王)の審判を受け、行方の定まらない者は三途の川を渡ります。ふた七日には 初江王(本地 釈迦如来)の審判を受け ここでも定まらなければ、み七日には 宋帝王(本地 文殊菩薩)、よ七日には 五官王(本地 普賢菩薩)、いつ七日には 閻魔王(本地 地蔵菩薩)、む七日には 変成王(本地 弥勒菩薩)、なな七日(四十九日)には 泰山王(本地 薬師如来)の審判を受け この王の下で 六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何れかが決まるので 四十九日の追善供養は 特別懇ろに営まなければならないと説かれて居ります。これでも定まらない場合は 百ヶ日に 平等王(本地 観音菩薩)、ここでも定まらなければ 一周忌に 都市王(本地 勢至菩薩)、そして最後の審判は 三回忌の 五道輪転王(本地 阿弥陀如来)が行い 十分な供養がされて居れば 成仏出来るとされて居ります。

 

 以上の審判は 故人様の修功徳と、ご遺族様が執り行う 回向の功徳を判断して行うとされて居り、その比率は全体を七等分して 亡者に一分、生者に六分が割り振られると説かれて居ります。始めの七回で審理は決まりますが、その七回で決まらない場合は 追加の三回で決める事となります。俗には 閻魔王に対する信仰と 考えられる方が多く御座いますが、これは 閻魔王以外の各王の知名度が低かったせいでしょうか。

 

 この十王信仰は 中国より渡来し 平安末期に 仏教本来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透しました。又 日本に於いて 三途の川、賽の河原、奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)等が付け加えられ、江戸時代には 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加えられ 十三王と成りました。


   今回は以上です。

 

 

 

 

法要

 今回は法要に付いて書かせて頂きました。

 

 法要とは 仏教に於いて 釈迦の教えを 仏法と言いますが、その仏法の要点・肝要を知る事を指します。それが 時代の流れと共に変化し 仏教行事の中の 儀式祭礼(法事・仏事・法会など)全般を指すようになりました。更に 日本に於いては 追善供養 即ち 死者を弔う儀式を指す様に成りました。法事、仏事とも言います。尚 供養以外に、寺の創立記念、堂宇の完成記念、仏像の開眼などの慶事も含みます。


 日本民族は 法要(死者供養)を大切にして来た民族であると言えます。供養には まず 中陰の間に行う 七仏事(初七日、ふた七日、み七日、よつ七日、いつ七日、むつ七日、ひちひち日)が有り、これはインドを起源として居ります。七仏事が中国に伝わり 百ヶ日、一周忌、三回忌が加わり 十仏事と成りました。更に 日本に於いて 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり 近世に十七回忌、二十五回忌が加わって 十五仏事と成り 現在に至ります。そして 地域によりましては 二十三回忌や二十七回忌を営む場合も御座います。又 五十回忌、そして五十年毎に営まれる遠忌が有りますが これは 宗派の祖師等に限り営まれます。

 

 以上の他に 祥月命日(故人様の命日、年一回)、月忌(月命日、年十一回)が有り、その他 春・秋のお彼岸と お盆が御座います。この様に日本に於きましては 遺された方は 生ある限り 故人様との関係を維持して行こうと言う 文化が長い時間をかけて作られて参りました。

 

 日本では古くから 三十三年、あるいは五十年をもって 死者は個性を失い 祖霊(先祖)に成ると考えられて来ました。故人様の法要も三十三回忌をもって ”弔い上げ” となります。ご仏壇から 戒名を書いたご位牌を下げ、”〇〇家先祖の霊”のご位牌に霊をお移しします。

 

   今回は以上です。

 

 

精進落とし

 今回は精進落としに付いて書かせて頂きました。

 

 精進落としとは 仏教に於ける葬送儀礼の一行事で、七×七(四十九日)の間はお食事は精進料理で過しますが、忌明けと共に 食事を精進料理から 通常の肉や魚を含む料理に戻します。これを精進落とし、お斎、精進明け、精進上げ、忌中払い 等と言います。

 

 現在では 葬儀・告別式やご火葬後に設ける宴席を 精進落としと呼ぶ様になって居ります。或いは 火葬場から戻った後に行う 初七日の法要の際に行う宴席も精進落としと呼ばれます。但し 浄土真宗では 精進落としとは言いません。又 関東では 通夜振る舞いや 精進落としを お清めと呼んで居ります。

 

 古くは 葬列を組む前に 故人様との食い別れの宴席を設けた事、葬儀後には お手伝い頂いた方々へ お礼の振る舞いをした事、この二つが合わさって現在の精進落としになったと考えられます。又 遠方より参加された方々を長く引き留めなくても良い様に ご火葬後に初七日法要と精進落としを繰り上げて行う様に成りました。地域によりましては 四十九日の法要や 百カ日の法要までも繰り上げて行う事が有ります。繰り上げられた法要を 取り越し法要とも言います。

横浜や川崎の市営斎場では 利用時間の関係から ご火葬中の一時間から一時間半の間に 精進落としを行って居ります。この宴席の意味は大きく分けて二つあります。

 1 僧侶などの宗教者とお手伝い頂いた方々への感謝を表す場。

 2 故人様を偲んで食事をし、話をし、交わる場。

 

    今回は以上です。

火葬

 ご火葬に付きましては以前 何度か書かせて頂きましたが 今回は別の観点で書かせて頂きました。

 

 ご火葬の流れは 火葬場到着−火葬炉前での読経・ご焼香−ご火葬中の待機−ご拾骨−ご自宅へのお帰りと成ります。

 

 霊柩車が火葬場に到着致しますと 火葬場担当者が操作する お柩台車が用意され お柩を台車にお乗せし、炉前へと運ばれます。横浜市営の斎場をご利用頂く場合は 式場と火葬炉は隣接して居り 霊柩車は必要有りません、式場入口より お柩台車で火葬炉前までお運びする事となります。

 

 火葬炉前では ご遺族による最後のお別れの後に お柩は火葬炉内に移され ご火葬が始まります。そして 炉前で 僧侶による読経、ご焼香と続きます。ご火葬は一時間前後の時間を必要と致しますので ご遺族は控室にお移り頂いて お待ち頂く事と成ります。ここでお帰りになる方と 拾骨を待つ方とに分かれる事も御座います。

 

 このご待機の時間では 茶菓でお持て成しするのが一般的です。尚 横浜市営斎場の場合はご火葬後の式場利用が許されていない為、ご葬儀・告別式の後に初七日法要も合わせて執り行い、このご待機の時間を利用して 初七日法要後のお斎の席を設ける事として居ります。

 

 荼毘が終了致しますとご拾骨となります。火葬場からの連絡に従い ご遺族は控室から拾骨室へ移動します。その後は火葬炉担当者の指示に従い 二人一組でご遺骨の一つを拾い お骨壺に納めます。ご遺族間で一通り 周りました後は 残ったご遺骨は担当者が全てお骨壺に納めてくれます。お骨壺は桐の箱に納められ、埋葬許可証と共にご遺族に戻されます。

 

 ご火葬場からの帰路は 往路と同じ道を通ってはいけないと言う習俗が御座います。これは 昔 ご遺体を墓地に埋葬した後 死霊が追いかけて来ても 迷って道がわからない様にする為 道を変えた名残と言われて居ります。

 

   今回は以上です。

葬儀の習俗

 今回は葬儀の習俗に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀とは 仏教に於ける葬祭儀礼の略語ですが 日本に於ける葬祭儀礼は 仏教の儀礼と夫々の地域で育まれた習俗とが融合して出来上がってまいりました。

 

 ご自宅からご出棺する場合、古くからの習俗として 玄関からご出棺しては成らず、窓や縁側から戸外にお移しし、正門ではなく 裏門 又は仮門からご出棺すると言う事が有ります。特定の地域では お柩は安置した部屋の壁を開けてご出棺すると言う場合も御座います。その理由は 死霊に対する恐怖心から 死霊が家に戻る事の無い様にとの気持ちを表す為、或いは 死は非日常の事柄であり 従い 日常とは逆の事をしなければならず 通常の出入り口である玄関は使用してはいけない などの説明が有ります。

 

 ご出棺の前に 故人様が生前 使用されていた茶碗を割ると言う事も有ります。これも 死霊に対する恐怖心から 死霊が戻らぬ様に、故人様の霊が迷わず成仏出来る様に、あの世はこの世とは逆なので 故人様があの世で使える様に 等の説明が御座います。

 

 出立ちの善、立ちめし、別れのお神酒等は ご出棺の前に 故人様と最後の飲食を共にする事で 故人様との最後の交わりを行い お別れするものと考えられます。飲食は人間の交わりを象徴しているとも言われます。

又 飲食は死者の魂を鎮め、死の穢れに対抗して 払う力が有ると信じられて居りました。精進落とし、忌中払い、お斎などは これに当ります。尚 精進料理と言われ 動物や魚などの生き物を殺して食してはいけないとされていますが、お釈迦さまは むやみに生き物を殺してはいけない と諭されましたが、食してはいけないとは言われて居らず、親鸞上人は妻帯をし魚食、肉食をしていたと言われて居ります。

 

    今回は以上です。

遺体葬と骨葬

 今回は遺体葬と骨葬について書かせて頂きました。

 

 遺体葬とは ご葬儀・告別式を執り行う際に ご遺体を中心にお見送りをする形であり、骨葬は ご火葬を終えたご遺骨を中心にお見送りを行う形で有ります。遺体葬の流れは お通夜−葬儀・告別式−出棺−ご火葬−埋葬となり、骨葬は お通夜−ご火葬−葬儀・告別式−埋葬の流れと成ります。

 

 日本に於ける葬儀では 古くは土葬が中心であり、通夜−葬儀・告別式−出棺−埋葬をもって 葬儀・告別式の終了として居りました。しかしながら 火葬設備の充実とともに 火葬率が高まり 埋葬の替りにご火葬−納骨と 変化して参りました。東京方式とも呼ばれて居ります。これに対し 関東北部以北の北海道 東北地方、甲信越地方 中国地方 九州地方の一部では ご葬儀・告別式に先立って ご火葬が行われて居ります。又 骨葬地域では 本通夜の前に ご火葬を行う習慣もお見受けしますが、一般的には お通夜を執り行い、翌日の午前中に 出棺をしてご火葬に付し、午後に葬儀・告別式を執り行い、その後 菩提寺 或いは墓地に行って納骨を致します。

 

 横浜市営斎場をご利用される場合には 遺体葬が基本となり お通夜は18;00、もしくは19;00から執りを行い 翌日10;00 もしくは11;00より葬儀・告別式、そしてご火葬となります。尚 横浜市営の斎場では一日葬のご利用は認めて居りません。

 

 全国的には 骨葬の地域に於いても 東京方式に変わりつつありますが、その反面 東京でも 骨葬が見直されつつ有り、故人様のご逝去直後はご家族だけで密葬してご火葬を済ませ、後日 改めて ご遺骨で 本葬・葬儀・告別式 或いはお別れ会を執り行うという方式です。

 

   今回は以上です。 

 

   

遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 ご遺体の保全に付きましては 短期的にはドライアイス、或いは冷蔵保管庫にによる保全方法と エンバーミングと呼ばれる 化学的・外科学的な処理をご遺体に行って 長期間 保全する方法とが有ります。日本に於きましては 仏教を前提としたご火葬が主流であり、火葬率は99%を超えて居りますので、ご遺体の保全も ご葬儀・ご火葬を待つまでの間が主目的となって居ります。

 

 現在 多くの方々が亡くなられる場所は病院となって居ります。病院では 患者様が亡くなられると ご遺体 移送の前に エンジェルケアーとと呼ばれる処置をご遺体に施してくれます。その内容は以下の通りです;

 1 湯又は水をしぼった布 又は消毒用アルコール あるいは防腐性薬品等でご遺体を拭き清めます。

 2 目や口を閉じます。 

 3 鼻、耳、口、肛門に脱脂綿を詰めて体液の漏出を防ぎます。

 4 傷口が有る場合はテープで留め、包帯で縛ります。

 5 頬がこけている場合は脱脂綿を口に含ませて 補正します。

 6 髭剃り、爪切り、髪を整え、化粧を施して 衣服を着せます。

この状態でご遺体は ご遺族に戻り ご自宅に移送して安置し ご葬儀・ご火葬までの間 ドライアイスにより ご遺体の腐敗進行を遅らせる事と成ります。この期間は季節にもよりますが一週間から10日程度が限度です。

 

 更に長期間 ご遺体を保全したい場合には エンバーミングと呼ばれる処置方法が有ります。エンバーミングの歴史は 古代におけるミイラにまで遡りますが、急速な発展を遂げたのは 1860年代アメリカの南北戦争だと言われています。当時 兵士のご遺体を故郷に戻すには長い時間が必要とされ、遺体の保存技術が必要とされました。又 同じ理由により ベトナム戦争の際に 一層の技術発展が促進されました。エンバーミングの具体的処理は以下の通りです;

 1 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。

 2 遺体の顔、頭髪、手先、足先を整える。

 3 遺体の頸部等の動脈より 体内に防腐剤を注入、同時に静脈より血液を排出する。

 4 腹部に鋼管を刺し 胸腔・復腔部の体液や、消化器内の残存物を吸引・除去し、防腐剤を注入します。

 5 事故等で損傷した部分は修復を施し、切開した部分を縫合してテープ等を貼ります。

 6 最後に 再度 全身を洗浄して 頭髪、表情を整え、衣服を着せて終了となります。

以上の徹底した処理を行い、定期的に防腐剤の交換などを行えば 生前の姿のままで永久保存が可能と成ります。

ソ連のレーニン、スターリン ベトナムのホー・チ・ミン 中国の毛沢東 台湾の蒋介石 北朝鮮の金日成、金正日 その他の社会主義国 指導者の遺体はエンバーミング処理を施されて永久保存されて居ります。

 

   今回は以上です。

枕経

 今回は枕経に付いて書かせて頂きました。

 

 枕経(まくらきょう)とは 仏教の行儀で 本来は 死に際にある方が不安にならぬ様 本人の枕元で 死を看取りながらお経をあげる事です。現在では 病院で亡くなる事が多く ご逝去の後 ご遺体を自宅に安置した上で行う 死後の儀式と成りました。ご宗派により 枕経を行わない場合もあります。

 

 ご葬家が仏式の場合 ご遺体を自宅の仏間、あるいは座敷に敷いたお布団の上に安置し、ご遺体の枕元に枕飾りを設営します。その上で壇那寺に故人様のご逝去をお伝えし 僧侶に来て頂いて 読経をして頂きます。壇那寺が遠方の場合は 壇那寺より紹介を受けて 近隣の僧侶にお願いをする場合もあります。

 

 枕経は 故人様に対して読経を聞かせると言う考え方や ご仏壇の内仏やご本尊に向かって読経すると言う考え方など ご宗派により考え方が異なります。真言宗では ご遺体の前に枕飾りを設け、僧侶が故人様へ末期の水を行い、印を結び、読経します。その際 枕元には不動明王の掛け軸を掛ける慣わしとなって居ります。曹洞宗の場合は 枕元に置いた机の上に ロウソク、線香、四華花を お供えして読経します。浄土宗では枕経の間に剃髪、授戒を行います。浄土真宗では亡くなった方を御縁として御本尊に向けて読経されます。


 枕経を上げて頂くときの 衣裳は喪服である必要なく、通常の衣服を整えて出れば良いとされて居ります。枕経の後に 葬儀の次第、その他を僧侶とご相談されるのが良いでしょう。又 戒名をいただく為に 故人様の人柄やご希望も この機会にお話されるのが一般的です。


   今回は以上です。  

死の環境

 今回は現代の死の環境について書かせて頂きました。

 

 現代に於ける死の環境は 亡くなられる場所ですが 従来はご自宅が一般的でした。しかしながら最近は病院で亡くなるケースが一般的となりました。又 高齢者の方の死亡率が年々増加して居ります。

 

 昭和25年頃の死亡場所は 80%以上がご自宅であり、病院でのご臨終は20%以下で有りましたが、平成4年の厚生省統計によれば 病院;73.3%、自宅;20.1%、診療所;3.3%、その他;3.3%と成って居ります。又 70才以上の高齢者の方の在宅死亡率は地域格差が有り、高い所は 山形県、新潟県、長野県、和歌山県などで、40%を超えて居り、低い所は 北海道;10.8%、東京都;13.9%、大阪府;17.4%などの都市部と成って居ります。概して 人口が集中する都市部では 高齢者の方の在宅死亡率が低い 現状ですが、最期は自宅で の希望も高まりつつあり、この様なご希望に応えるべく 訪問医療を主とする法人も徐々に増えつつ有ります。

 

 死亡者数の推移としては 昭和25年(1950)で 総人口8,320万人、出生児;234万人、死亡者;90万人でしたが 平成22年(2010)では 総人口;12,805万人、出生児;140万人、死亡者;139万人となり 平成24年からは死亡者数が出生児数を上回る様に成りました。今後も死亡者数は 2035年頃までは増加を続け 2035年の予想死亡者数は180万人と想定されます。


 少子高齢化の進捗と共に 当然の事ながら死亡者の中に於ける高齢者の比率は高まり続け、死は 何時 誰に起こるかわからない と言う従来の無常観に変わって、死は高齢者のものという観念が強くなって参りました。


   今回は以上です。

死亡診断書

 今回は死亡診断書に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡診断書は 死亡事由などに付いての検案について記した診断書の一つであり、死亡を証明する効力を持ちます。その発行は 診断をした医師、もしくは歯科医師のみが出来ます。記載用紙は 左が死亡届、右が死亡診断書の、組になったA3用紙です。

 

 戸籍法では 人が亡くなった場合 故人様のご親族 又は関係者は 死亡届をご逝去後、7日以内に死亡診断書 又は死体検案書を添付して届け出なければ成りません。

 

 通常の病死、あるいは老衰などの自然死の場合は、その診断、治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します。突然死や 長く医師に罹っていないで死亡した場合は 病死、或いは自然死であっても 医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この様な場合と 病死あるいは自然死以外の異状死体、又は犯罪の疑いのある死体の場合も警察の検視を経て、監察医又は警察の嘱託医による検案を受けて 死体検案書が発行されます。死体検案書も死亡診断書と同等の効力を持ちます。神奈川県警察本部の場合 検案には状況に応じて2万ー7万5千円の費用が発生します。又 検案所までの往復のご遺体移送費用もご遺族のご負担となります。


 警察による検視、監察医による検案が必要なケースは;

 1 病死、あるいは自然死であっても 生前に診察・治療の担当医師がいない場合。

 2 病死、あるいは自然死であるか不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの 非犯罪死の場合。


 死体解剖保存法では

  政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内に於ける伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体 その他死因の明らかでない死体に付いて、その死因を明らかにするため監察医を置き、これを検案させ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させる事が出来る。

とあり、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市には監察医が置かれ、その他の地区では 嘱託医が置かれております。現在の横浜市では検案所は2ヶ所御座います。


   今回は以上です。

▲このページのトップに戻る