日蓮宗系

 今回は日蓮宗系に付いて書かせて頂きました。

 

 日蓮宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで日蓮上人を開祖とし、法華宗とも称されて居ります。日蓮上人の没後 多くの弟子達により布教が行われ、それに伴い 多くの派にも分かれて居りますので、日蓮宗系とさせて頂きました。日蓮上人は釈尊の教えの全ては法華経(妙法蓮華経)に凝縮されて居り、久遠の本仏として釈尊を諸仏の根源とすべきこと、滅後末法の世の衆生の救済は法華経の護持によりなされる、そして 南無妙法蓮華経(法華経に帰依する の意味)を題目として唱えよ と説きました。日蓮宗の総本山は 山梨県南巨摩郡身延町の 身延山久遠寺で ご本尊は三宝尊です。三宝尊とは 仏・法・僧の三宝をさし 仏の第一を釈迦如来、法の第一を法華経、僧の第一を日蓮大菩薩(後光厳天皇より、大正天皇よりは立正大師が贈られる)として祀られます。

 

 日蓮は 1222年安房国(千葉県鴨川市)の小湊で生まれ、11歳で地元の清澄寺の道善房に入門し、16歳で出家し是正房蓮長の名を与えられ、23歳の時 比叡山にのぼり就学し、その後 三井寺、薬師寺、高野山、天王寺、東寺などで遊学し、1253年 31歳で安房の清澄寺に帰山し 4月28日 朝 日の出に向かい 南無妙法蓮華経 と題目を唱えました(立教開宗の日)。そして 名を日蓮と改め、翌1254年 鎌倉に出て 辻説法を始めます。各地で辻説法を説き、1260年 立正安国論を著し、鎌倉幕府に建白しました。この建白により 日蓮は 幕府や他宗派より迫害を受けることとなります。1261年からは 伊豆国伊東へ、1271年からは佐渡へ流罪となりますが、その間にも 各地で辻説法を続け、”開目抄” ”観心本尊抄”などを著述し、法華曼荼羅を完成させました。1274年春 流罪赦免ののち 鎌倉で幕府に対し法華経 国教化の建白を行い、身延の地頭であった南部実長の招きを受けて、身延山に入山し、身延山を寄贈されて 身延山久遠寺を開山しました。1282年 病を得て 常陸国へ湯治に向かう途上 武蔵国の池上宗仲氏の邸宅近くに建立された一宇を開堂供養し 長栄山本門寺(通称池上本門寺)と命名。その一ヶ月後 10月13日 池上邸で逝去。享年は61歳でした。

 

 日蓮宗(法華宗)は 日蓮の死後 弟子たちにより各地で布教が行われましたが 法華教団は発展と共に分化されて行きます。多くに分かれた日蓮宗は1941年(昭和16年)政府の指導により 日蓮宗と法華宗の二つに統合されましたが、戦後は再び各宗派に分かれました。又 日蓮正宗は 日蓮の弟子 日興の流れをくむ派ですが 日蓮本仏の立場を取ります。

 

   今回は以上です。

鎌倉仏教 時宗

 今回は鎌倉仏教 時宗について書かせて頂きました。

 

 時宗は 鎌倉仏教の一宗派で 一遍上人を開祖とし 浄土教を基にして 阿弥陀仏への信・不信に係わらず、念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できる と説き、仏の本願力は絶対であるが故 それが信じない者にも及ぶという解釈です。一遍上人は 日本全国を念仏勧進して回り、遊行上人 捨聖とも尊称されます。一遍上人の時代には 時衆と呼ばれて居りましたが、江戸時代に現在の時宗として正式な宗派と成りました。総本山は 神奈川県藤沢市の 藤沢山無量光院清浄光寺(通称 遊行寺)、ご本尊は阿弥陀如来坐像です。

 

 一遍上人は 1239年四国の伊予国(現在の愛媛県)に生まれ、10歳で出家し(天台宗) 13歳で大宰府に移り 法然の孫弟子にあたる 聖達の下で10年に亘り浄土宗西山義を学びます。その間に法名を智真(智は悟りの智慧、真は御仏が示す真)と改めます。1263年 25歳で父の後を継ぐ為 還俗して伊予に戻りますが、1271年32歳で再び出家し 信濃の善光寺、伊予の窪寺などで修行を重ね、窪寺で十一不二のを感得し、1274年から遊行を始め、摂津国 紀伊国などの各地を転々としながら修行を積み、同時に六字名号を記した念仏札を配り始めます。更に 紀伊の熊野本宮で 阿弥陀如来の変わり身とされる熊野権現から 衆生得度の為に”信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札を配るべし”との夢告を受けて、名を一遍と定め、念仏札の六字名号に 決定往生/六十万人 を加えて日本全国を念仏勧進します。勧進は 15年に亘り 南は鹿児島から北は奥州平泉と ほぼ全国を網羅ししました。有名な 踊り念仏は 1279年信濃の国を勧進した時から始まりました。そして1289年 一編は 過酷な遊行による過労と栄養失調から 摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没し、15年半に及ぶ遊行を終えました。享年は51歳でした。一遍は時衆を率いて遊行を続け、民衆を踊り念仏と賦算(ふさん 念仏札を配る事)により極楽浄土へと導きました。

 

 時衆は 一遍上人亡き後 自然消滅しますが、門弟たちにより遊行と賦算は続けられました。そして 江戸幕府の意向により 色々な念仏勧進聖は 時宗という単一の宗派に統合されます。その中には12の流派があり、時宗12派と呼ばれ、主流が藤沢道場清浄光寺を本寺とする遊行派で有りました。

 

 時宗では 戒名は法名と呼び、当初は 男性には”阿弥陀仏”号、女性には”一房”号 あるいは”仏房”号が附されましたが、現在では 男性は”阿”号 女性には”弌(いち)”号を用います。但し 派により 号が異なる場合が御座います。

 

   今回は以上です。

 

鎌倉仏教 融通念仏宗

 今回は鎌倉仏教 融通念仏宗に付いて書かせて頂きました。

 

 融通念仏宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで、天台宗の僧侶であった 聖応大師良忍(1073−1132年)を宗祖とし、阿弥陀如来から速疾往生(誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文 ”一人一切人 一切人一人 一行一切行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満” を授かり開宗したとされます。大念仏宗とも言います。但し 良忍の時代には宗派として認められては居らず、天台宗から独立して 宗派として認められたのは 江戸時代の元禄年間です。阿弥陀如来をご本尊とし、総本山は大阪市平野区にある 大念仏寺です。

 

 良忍上人は 1073年 尾張国知多郡の領主の子として生まれ、比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、不断念仏を修めます。そして 23歳の頃から 京都大原に隠棲し念仏三昧の生活を送りますが、1117年 阿弥陀仏の示現を受け、”一人の念仏が万人の念仏に通じる”という 自他の念仏が相即融合し合う という立場から 融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれる と説きました。その後 良忍上人は 結縁した人々の名前を記入する名帳を持参して各地で勧進を行います。勧進の途上で参籠した 摂津国四天王寺で見た霊夢から 摂津国住吉郡平野庄の領主 坂上広野の邸宅内に建てられた修楽寺に日本最初の念仏道場を開きます。この念仏道場が後に融通念仏宗の総本山 大念仏寺となります。融通念仏とは元来は合唱の念仏であったと考えられます。又 良忍上人は 仏教音楽である声明の集大成者としても有名です。

 

 融通念仏の最大の特徴は 観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事で、融通念仏宗では 毎朝西方に向かって 良忍上人の説いた 十界一念・自他融通の浄土往生を期する 融通念仏を 十唱するする事を日課とします。

 

   今回は以上です。  

鎌倉仏教 浄土真宗

 今回は鎌倉仏教 浄土真宗に付いて書かせて頂きました。

 

 浄土真宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで 法然上人に師事した親鸞を宗祖とし、阿弥陀如来の本願によって与えられる名号 ”南無阿弥陀佛” を浄土門の真実の教え 浄土真宗(浄土を顕かにする真実の教え) であるとし、本願を信じ念仏申さば仏になる と示しました。親鸞自身は 法然上人に師事出来た事を 生涯の喜びとして 独立開宗をする事は有りませんでしたが、親鸞の滅後 弟子達により 浄土真宗として教団が設立されました。しかしながら 長い間 浄土真宗の呼称は世に認められず 一向宗、や門徒宗と通称されて居りました。宗旨名が 浄土真宗として世に認められたのは 明治時代に入ってからとなります。現在の浄土真宗は 真宗教団連合に加盟する真宗十派を中心として約22,000の寺院を運営し、仏教界 最大の信徒を擁して居ります。

 

 親鸞聖人(見真大師 1876年追贈)は 1173年に京都で生誕、9歳で出家し その後 比叡山の学僧となり厳しい修行を積みますが 自力修行の限界を感じて 29歳の時 叡山と訣別し京都に戻ります。そして 法然の教えに触れ入門を決意し 研鑚をつみますが、1207年 後鳥羽上皇の怒りに触れ 法然は土佐へ、親鸞は越後(現在の新潟県上越市)へと配流されます。5年後に順徳天皇により 勅免の宣旨が出され流罪は解かれますが 親鸞は京都には戻らず その後20年に渡り 東国で 浄土門の真実の教え を布教し続け、62歳(63歳?)で京都に戻り、1263年 89歳で入滅しました。親鸞の生涯は 寺院を持つ事は無く、各地の道場で浄土真宗を説くことに費やされました。

 

 浄土真宗が 他の仏教宗派と異なるてんは 僧侶の肉食妻帯が許され、無戒であるという事です。法然は 一般の僧侶という概念や 世間内で生活する仏教徒としての規範から はみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である と説き、その教えを親鸞は実践して 公式に妻帯した初めての僧侶と成り、子ももうけました。それにより 浄土真宗では 血縁関係による血脈と 師弟関係による法脈との二つの系譜が存在する事と成りました。又 与えられる名前も 戒名ではなく 法名と言われます。そして 浄土真宗は ただ如来の働きに任せ 全ての人は往生することが出来る との教えから 宗教儀式や習俗に捉われず、報恩謝徳の念仏と聞法を大切にし、加持祈祷をおこなわない などの特徴を持ちます。

 

   今回は以上です。

鎌倉仏教と浄土宗

 今回は鎌倉仏教と浄土宗に付いて書かせて頂きました。

 

 奈良時代に中国より日本に伝来した仏教は 天皇家や貴族階級の庇護を受けて奈良・平安時代と繁栄してきましたが、一般民衆に広がることは有りませんでした。そのカラを破ったのが 比叡山の学僧であった法然上人が起した浄土宗であり、それに続く親鸞の浄土真宗、良忍の融通念仏宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗などです。これらの宗教は 一般民衆を対象とした、日本人自身による独自の仏教であり、鎌倉時代の創設されました。これらの宗派と 同時期に 宋より 栄西が伝えた臨済宗、道元が伝えた曹洞宗を含めて 鎌倉仏教と言われて居ります。

 

 法然上人(法然房源空)は 1133年美作国久米(現在の岡山県久米郡)に生まれ、9歳で出家し、13歳で比叡山に登って学僧となります。しかしながら学僧に満足出来ず、学僧の道を捨てて 民衆の為の仏教の道を探り、源信の往生要集に影響を受けて、1175年 43歳で 専修念仏の浄土宗を開きました。法然は仏教を 厳しい修行を行い悟りを得る聖道門と、念仏を唱え極楽浄土に往生する浄土門との分け、衆生の凡夫でも行うことが可能な浄土門を選択して浄土宗を起こしました。法然の専修念仏は 古来の比叡山を含む仏教 各宗派より迫害を受け、法然自身は四国へ、弟子の親鸞は越後へ配流されますが、最期には京都に戻り、後に教本の一つとなった 一枚起請文 を起して1212年に満78歳で没します。

 

 法然上人の没後は 長老の信空が後継となりましたが、親鸞を含む多くの門人ごとに 親鸞の教義に対する解釈が少しずつ別れ 浄土四流など いくつもの教団が乱立する事に成ります。その後 徳川家康が江戸幕府を開くと共に 寺院諸法度の一還として 浄土宗法度が制定され 浄土宗は 京都の知恩院を門跡寺院・総本山、江戸の増上寺を大本山として 幕府より手厚い保護を受ける事となります。

明治時代に入り 廃仏棄却の混乱の中で 宗派の統合 近代化が図られ、現在は 鎮西派と西山派の二っの流れを中心にして布教活動が行われて居ります。

本尊は阿弥陀如来、脇侍は 左 観音菩薩、右 勢至菩薩となります。

 

   今回は以上です。

 

 

 

修験道

 今回は修験道に付いて書かせて頂きました。

 

 修験道とは 平安時代末期 日本古来の古神道を包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教・道教・陰陽道などの呪術的行法が融合された 神仏習合に宗教です。山に籠って厳しい修行を行い 即身成仏して 衆生の救済を目指す実践的な宗教です。創始は奈良時代の呪術者 役小角(えんのおずの)(尊称;役行者)によると言われ、江戸時代には 大和(奈良)金峰山を中心とした真言宗系の当山派と 熊野の聖護院を本山とする天台宗系の本山派に習合され 現在は 御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教、他が布教を行って居ります。

 

 修験道は 日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行う事によって 超自然的な能力(験力)を会得し、民衆の救済を目指す実践的な宗教でもあります。この修行者の事を ”修行をして迷妄を払い験徳を得る者” と言う事で 修験者、或いは 山に伏して修行を行う姿から 山伏と称しました。又 験徳を得る道を修験道と呼び ”修行をし己の心体を鍛え磨き追及し其之成果を験す 確かめ表わす道” と考えました。修行の場所となる霊山は 日本全国に存在しますが 中でも 日本古来の山岳信仰の対象であった 大峰山(奈良県)や白山(石川県)、そして 平安時代 天皇をはじめ多くの公家が参拝をした 熊野三山(本宮・新宮・那智の三宮)が著名です。


 修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏が共に祀られ、表現の形態としては 権現(神仏が仮の姿で現れた神)等の神格や 王子(参拝途上で儀礼を行う場所)があります。修験道と言うと 神道の側面が強そうに思えますが、実際には仏教としての側面が極めて強い宗派と考えられます。


 修験道独自に有名な神としては 蔵王権現(ざおうごんげん)、愛宕権現(あたごごんげん)、若一王子(にゃくいちおうじ)、九十九王子(くじゅうくおうじ)、前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)、一言主(ひとことぬし)、天狗(てんぐ)などが居られます。


 神奈川県内の霊山としては 大山、大雄山、箱根山がございます。


   今回は以上です。 

真言宗

 今回は真言宗に付いて書かせて頂きました。

 

 真言宗は 平安時代の9世紀初頭に空海(弘法大師)によって開かれた 日本の仏教の一宗派です。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称します。空海は804年に唐(中国)に渡り、長安の青龍寺で恵果より真言密教を学んで、その秘法を伝授され 日本へ帰国後 高野山金剛峰寺と 嵯峨天皇より勅賜された 平安京の教王護国寺 八幡山東寺を修行場として真言宗を開きました。法身仏(絶対者)である大日如来をご本尊とし、その教義は即身成仏と密厳国土のもと 身(しん)、口(く)、意(い)という人の三っの働き(三密)において 手に印を結び、口に真言を唱えて、心を静めて三昧(さんまい)の境地にはいれば即身成仏できると説きます。

 

 空海は835年 62歳で高野山で入定しましたが 入定に際し 住持していた寺院を弟子達に付属しました。そして これらの寺院は年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院は独立性を持つ事と成ります。まずは 東寺と金剛峰寺の主導権争いが起き、東寺長者が金剛峰寺の座主を兼ねることで結着します。その後 金剛峰寺は落雷により伽藍・講堂を焼失し、無人の状態にまでなりますが、菅原道長が高野山参拝をした事により、皇族・摂家・公家などの支援を受け復興します。そして 又 派閥争いが起こり 古儀真言宗と 新義真言宗に分かれて行きます。

江戸時代に入り 1615年 徳川家康は 真言宗諸法度を出し 真言宗全体を幕府の管理下に置くと共に、その後の寺壇制度により、本山・末寺は財政的な安定を得る事となりました。但し 一部に綱紀のゆるみも生む事と成ります。

そして 明治政府の神仏分離と それに伴う廃仏棄却など困難な時代を乗り越え、昭和14年の宗教団体法成立に伴い宗派は統合され真言宗として一本化されました。戦後は分派独立が相次ぎ、現在は約50の宗派が有りますが、その内 主要な16派 18総大本山は 各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的として 真言宗各派総大本山会を設立して融合を図って居ります。

 

   今回は以上です。

天台宗

 今回は天台宗に付いて書かせて頂きました。

 

 天台宗は 中国の智(ちぎ 538−597)が開創した 妙法蓮華経を根本経典とする 大乗仏教の一宗派で 浙河省天台山国清寺を本山とします。日本では 比叡山延暦寺で修行中の最澄が805年 唐に渡り 天台山にのぼって 天台数学(円)、密教、禅、律を伝授され、806年に帰国し、延暦寺に戻って天台法華円宗(天台法華宗)を開創します。天台宗は 平安時代 奈良仏教にあきたらない多くの学僧に受入れられ 日本仏教の母胎となり、その学僧の中から 平安末期から鎌倉時代にかけて新しい宗派を唱えた 融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などが輩出しました。又 伝教大師最澄は 866年7月に 清和天皇より”伝教”の大師号が贈られて居ります。


 伝教大師最澄は 全ての衆生は成仏出来るという 法華一乗の立場を説き、当時は認められていなかった 大乗戒壇を設立して、大乗戒を受戒した者は天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間 比叡山に籠山して 学問・修行を修めるという革新的な構想を立ち上げ、当時 奈良仏教に飽きていた朝廷は この考えを受入れて、天台宗は平安時代の新しい仏教として認められる事と成りました。


 天台宗の修行は 法華経の観心に重きを置き、その修行は 朝題目・夕念仏という言葉で集約されます。すなわち 午前中は 題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法)を行います。この作法が発展して 後の ”念仏” という新たな仏教展開の萌芽と成りました。


 天台宗に於ける密教は ”台密”と呼ばれ、真言宗の密教を ”東密”とよびます。又 天台宗は 座禅に関する造詣が深く、日本の禅宗に座禅の教科書として強い影響を与えました。架空の人物である 達磨大師は 実は天台大師ではなかったか という 天台大師達磨大師説が唱えられても居ります。


   今回は以上です。


 


 

奈良仏教

 今回は奈良仏教に付いて書かせて頂きました。

 

 西暦538年(552年ともいわれる)に日本に伝来した仏教は 聖徳太子の庇護の下、鎮護国家の経説・儀礼として飛躍的発展を遂げます。この奈良時代に 平城京を中心として栄えた仏教の宗派を総称して奈良仏教と呼び、主なる宗派が六つ有った事から 南都六宗とも呼ばれます。その宗派は 法相宗(ほうそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう、法相宗の付宗)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)の六派です。

 

 中国より伝来した仏教は 律令国家 創立の為の理論として重きが置かれ、その業は 教理の研究が中心と成りました。従い 研究・勉学の場である 寺院が特定宗派を奉じる事はほとんど有りませんでした。又 当初 これらの宗派は 法相衆 や華厳衆と呼ばれて居りましたが、東大寺の大仏が完成した 748年頃から 宗の字が充てられる様になったと言われて居ります。奈良時代 仏教の学僧は 仏教の研究が主たるもので 宗教上の実践行為は 鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行うだけで、平安・鎌倉時代の様な民衆の救済活動に重きを置いた活動は行われませんでした。唐に渡り法相宗を学んだ道昭は この様な状態に飽き足らず、帰国後 日本各地に赴き 民衆と共に橋を掛けたり、井戸を掘ったりしながら、民衆への教宣活動を行ったとされます。民衆への教下活動で有名な 行基は道昭の弟子です。

 

 奈良仏教の主なる宗派と寺院は以下の通りです;

法相宗 開祖 道昭、大本山薬師寺・興福寺

倶舎宗 開祖 道昭、大本山興福寺 総本山東大寺

三論宗 開祖 恵灌、東大寺南院

成実宗 開祖 道蔵、元興寺(飛鳥寺) 大安寺  

華厳宗 開祖 良弁・審祥、総本山東大寺

律宗  開祖 鑑真、総本山唐招提寺

聖徳宗 開祖 聖徳太子、総本山法隆寺

真言律宗 開祖 叡尊、総本山西大寺

 

   今回は以上です。

仏教

 今回は仏教に付いて書かせて頂きました。

 

 仏教は 紀元前500年頃 インド北部のガンジス川中流域で釈迦(ガウタマ・シッダ−ルタ)を開祖として起こった宗教で、キリスト教・イスラム教を合わせて世界三大宗教の一つとされます。但し 現在 信徒の数としては ヒンズ−教の次の第四位に位置します。その教えは 仏教誕生の地である ネパールの世界観 輪廻と解脱の考えに基ずき 人の一生は苦であり 輪廻の中で苦しみ続けなければならないが 修行により解脱を目指し 解脱出来れば苦しみから抜け出す事が出来る とされました。又 釈迦の思想の中には 偶像崇拝の概念は有りませんでした。

 

 仏教では 生前の業 や臨終の心の状態により 次の転生先に輪廻するとされます。転生先は 六道であれば 天・人・餓鬼・畜生・地獄・修羅 があるとされます。生前に良い行いを続け 功徳を積めば 次の輪廻では良い境遇に生まれ変わり、悪業を積めば厳しい境遇に生まれ変わる とされます。仏教に於ける信仰とは 他の宗教と異なり 帰依と表現され 仏教に帰依する事で、信仰対象に対する絶対服従とか 神や仏陀との契約という様な考え方は存在しません。この考え方に基ずくものが 初期仏教 或いは原始仏教と呼ばれるものです。

 

 これらの教えは 釈迦の入滅後 弟子たちの口伝により 広くひろまりますが、徐々に解釈が異なる様になり、上座部仏教と大衆部仏教に大きく分かれる事となります。上座部仏教の一部は スリランカに伝わり その後 ビルマ・タイなどの東南アジアに伝播して 南伝仏教とも言われました。又 紀元前後には 自身の輪廻と解脱だけではなく、積極的に一切の衆生を済度する教え 大乗仏教が起こり、この考え方が広まり アフガニスタンからシルクロード(中央アジア)を経由して中国 韓国 日本へと伝来しました。中国へは紀元後一世紀、朝鮮半島へは4世紀、日本へは538年に伝来したとされます。

 

   今回は以上です。 

 

 

神道の参拝

 今回は神道に於ける参拝に付いて書かせて頂きました。

 

 神道は日本古来の宗教で、民俗信仰や自然信仰を基にし、天地に存在する自然や自然現象 神話に残る祖霊 怨念を残して死んだ者 などの中に神を見出した 八百万の神を持つ多神教です。その神と人や社会を取り結ぶ作法は祭祀であり、その祭祀を行う神聖な場所が神社です。それぞれの神社には神社固有の神が祀られて居り、神を参拝する日は 毎月 一日と十五日が良いとされて居ります。尚 神道に於いて 死は穢れである事から ご葬儀は 原則として 聖域である神社内で執り行う事が出来ません。但し 社殿前に幕で結界を張り 穢れが聖域に入らぬ様にして 執り行う事は可能です。

 

 参拝の心得と その流れは以下の通りですが、神社により作法が異なる場合が御座いますので、作法の表示をご確認願います。

1 神は穢れを嫌うとされて居りますので、参拝の前に 心身を清める 禊が必要です。現代であれば 参拝の前に 入浴やシャワーで身体を清潔にする事が望ましいとされます。

2 神社に到着しましたら 鳥居をくぐる前に 服装を正し、一礼をしてくぐります。

3 鳥居をくぐりましたら 参道の端を通り 手水舎に向かい 手水の作法を行います。これは 手と口を洗い清める事ですが、拍手を行う手と 祝詞を行う口と そして 心を清める 禊の意味合いを持ちます。

4 手水の作法は;

 −まず 柄杓を右手で持ち 水を汲んで その水を少し左手にかけて清めます。

 −次に 柄杓を左手に持ち替え 右手にかけて清めます。

 −柄杓を 再度 右手に持ち替え 再度すくった水を左手に受け留め その水で口を清めます。口を清めるさい 柄杓に口が触れないようにしなければ成りません。

 −以上の後 次の人の為に 使用した柄杓を洗い清めます、柄杓に水を入れ 柄杓を立てて 柄に水が掛る様にして清めます。

 −清め終わった柄杓は元の位置に伏せて戻します。

 −以上を 一連の動作で行います。

5 この後 神前へ進みます。最前と同様に 参道の中心を避けて歩きます。参道の中心は正中と呼ばれ 神の通る道とされて居ります。

6 神前では 神へのお供物として賽銭を奉納し、鈴鐘を鳴らします。これは 清らかな音色で神を呼び寄せる、神霊の発動を願う、邪気を払う、参拝者を敬虔な気持ちにさせる などの意味合いがあるとされます。

7 その後 拝礼を行います。拝礼の基本的な作法は 二拝二拍手一拝(二礼二拍手一拝)となります。

 −拝(身体を90度折り曲げる礼)を二度行う。礼(身体を45度折り曲げる礼)

 −祈念を込めて柏手を二度打ちます。

 −最期に一拝します。

 *祈願を行う場合は 二拍手と一拝の間、若しくは 一拝の後に 居住地、氏名 そして願い事を(声を出して、又は心の中で)陳べるのが一般的です。

 8 そして 正中を避けて退出し 最後に 鳥居を出た後 社殿に向かって一礼し 辞去します。

 

 尚 葬儀の際は 拍手は忍び手と言い 音を立てずに柏手を打ちます。又 身内に不幸があった方は 50日間を過ぎるまでは 神社参拝を控える必要が有ります。    

 

 

 

 

 

神道

 今回は神道(しんとう)に付いて書かせて頂きました。

 

 神道は 古代日本に起源をたどる事が出来る日本独特の宗教で、日本各地の民俗信仰や自然信仰を基にし、中央・地方の政治体制とも関連しながら、自然に生まれた神観念で、時代とともに徐々に形成されてきた、八百万(やおよろず)の神をもつ多神教で、祖霊崇拝性をも 強く持つ宗教です。その神々は身近におり、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える 守護神でもあります。神道では キリストや釈迦のような開祖は存在せず、聖書や教典も存在しません、浄明正直 (浄く、明るく、正しく、直く) を徳目とし、具体的な教義は 神社と 神社が執り行う祭から学ぶ事が出来ます。

 

 神道は 日本の風土や 日本人の生活習慣を基に 自然、自然現象、人物を 神とした宗教で、縄文時代を始まりとして 弥生時代から古墳時代に原型が形成されたと考えられて居ります。日本で神道 という言葉が初めて出て来るのは 日本書記の中の 用明天皇紀で、”天皇 仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまう” とあります。日本国内で独自の進化を進めていた神道は 奈良時代の 仏教伝来と共に 神仏習合がされて江戸時代末までこの状態が続きますが その間 伊勢神道を始めとして 吉田神道などの各派が 複雑な教理を作り上げて行きました。そして 神道各派の教理が 尊王攘夷思想として広まり、討幕の理論根拠となって行きました。従いまして 明治政府は神道国教化を前提として成立し、五箇条の御誓文も 国家神道の影響を受けて作られ居ります。明治政府は神仏分離を行うと共に 神道国教化を図りますが、欧米列強に対抗する為の 近代化政策上 信教の自由 を認めざるを得ませんでした。しかしながら 明治時代 西欧の近代的な宗教概念が日本に輸入され、宗教学が本格化すると 学問上 ”神道” の語が確立し、世の中に定着して行きました。


 神道の神々をお祀りする社を 神社と呼びますが、全国の神社の大部分は 神社本庁(宗教法人)が統括して居ります。文化庁の宗教年鑑によれば 日本国内で8万5千の神社が登録され、信者数は1億600万人とされて居ります。この信者数は 神社側からの自己申告ですので、地域住民を全て氏子として申告したり、参拝者 全てを氏子と計算するなどの例によるものと考えられます。


   今回は以上です。

 

 

 

 

葬儀の習俗その2

 今回も葬儀の習俗に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於ける 葬儀の習俗の中で 死装束、喪服、お清めの席、拾骨についてです。

 

 死装束は 埋葬 或いは火葬をされる前に 故人様にお着せする衣服を指しますが、仏教では 仏弟子と成られた故人様が 修行を行う為の修行着であると共に、西方の極楽浄土へ旅する為の旅行服でもあります。従いまして 修行僧の旅姿を模した形となります。そして 着衣の色は白を基本と致します。

 

 日本に於ける喪服は元来は白でした。古くは 葬儀にあたり ご遺族は白を着用し、一般の参列者は然るべき晴れ着を着用して居りました。今日の様に仏事用に黒礼服を着用する習慣は 西欧列強にごする為 明治政府が推進した 欧化政策に中で 明治30年 皇室の葬儀の際 参列者に黒の礼服を着用させた事が始まりと成りました。

 

 仏事の中では 通夜の後の お清めの席、葬儀の後の 出立の膳、仏事の後の お斎の席 等 食事をする機会が多く有ります。これは 参列者への感謝や、故人様を偲んでの食い別れ、と共に 飲食には穢れを清める力があるとされ 参列者に死穢が伝染しない為のものでも有りました。昔は 柩を担いだ人、墓穴を掘った人、湯灌をした人には 死の穢れに染まらぬ様 食事を沢山させ、お酒を沢山飲ませたとあります。

 

 ご火葬の後 故人様の焼骨を拾い 骨壺の納めることを 拾骨(収骨) 或いは骨上げと言われますが、焼骨を上げる際には 二人一組で箸を使い骨をはさみます。従いまして ”箸渡し(はしわたし)” と言われますが、これは 三途の川の橋渡し に絡めて 橋を箸に絡めたものです。又 地域によっては 男女が対になり 箸を一本ずつ持って骨上げを行う場合も御座います。

 

   今回は以上です。

葬儀に付いて

 今回は葬儀に付いてつれずれに書かせて頂きました。

 

 葬儀の施行では 大きく分けて二つの目的を果たさねばならないと思います。一つはご遺族による故人様との最期のお別れであり、もう一つは一般の方々による故人様との告別です。通夜までが前者であり、葬儀・告別式が後者を目的にして居ります。その意味では 一般の方々は 御自身のご都合は別として 通夜への参列は避け、葬儀・告別式に会葬されるべきではないでしょうか。

 

 以前の日本に於ける 葬儀当日の流れは以下の様な形でした;

@ 内葬礼、A 庭葬礼、B 葬列、C 寺内葬礼、D 埋葬(火葬)

内葬礼は ご自宅での葬儀式で 最後に家族で食膳を囲みました(別れの膳、出立の膳)。

庭葬礼は 葬列を組む前に 庭で庭葬礼を行い皆さま方のお別れを受けました。ある意味では この庭葬礼が 現代の告別式の原型とも言えます。

葬列は 故人様のご遺族と関係者が それぞれの役割をになって列を組み ご遺体をお寺に移送しました。

寺内葬礼は お寺の本堂内でお経をあげて頂く最後の葬礼です。この祭礼の後に 埋葬 或いは火葬と成りました。

 今では 内葬礼と寺内葬礼がどちらか一つに収束し、庭葬礼と葬列が告別式へと変化致しました。告別用の装飾壇は お柩を運ぶ輿を原型として居り、装飾壇の前に 寺内葬礼で使用する前机を置いて、現在の宮型祭壇となりました。花祭壇は宮型の装飾壇を置き換えた祭壇となります。

 

 出棺前の儀礼としては 茶碗割り や 釘打ちが有ります。茶碗割りは 故人様が愛用していた茶碗を割る儀式で 故人様の死霊が戻らぬように と言う意味と、故人様はもう戻らないとご遺族が自覚する 意味を持ちます。釘打ちは 石で柩の蓋に釘を打ち止める 事で、石には死霊を封じ込める力があると信じられて居りました。又 釘のない平安時代などでは 柩を荒縄で巻いていたようです。

 

   今回は以上です。 

散骨

 今回は散骨に付いて書かせて頂きました。

 

 散骨とは 故人様のご遺体をご火葬し その焼骨を粉末状にして 海、空、山中、宇宙 等え 撒く葬送方法です。日本に於いては ”墓地 埋葬に関する法律(墓埋法)” により ご遺体やご遺骨の埋葬に関し その方法が定められて居りますが、散骨に関しては 直接の規定は無く、”節度を持って行われる限りは 違法性は無い” とされて居ります。海外では国により規定が有る場合が有りますので 注意が必要です、例えば ハワイでは散骨方法の法律が有り、規定に従はない場合は処罰の対象となります。又 ブータンでは 宗教上の理由から 伝統的に墓は作らず 散骨が基本となって居ります。

 

 散骨を 陸地で行う場合、まず 他人の私有地では 所有者の許可を得ずに行う事は出来ません。公有地に於いては 管理機関による特別な規定がなければ可能と考えられます。但し 東京都西多摩郡で起きた問題の様に 生活用水の水源地周辺での散骨は避けるべきでしょう。又 自己の私有地では可能ですが、近隣の住民からクレームが付く場合が有ると共に、散骨された不動産は売買が困難になる場合が有ります。北海道長沼町では2005年に”散骨を規制するための条例”が制定され、一定の規制がかけられました。散骨をされる前に 該当市区町村の規定を確認する必要があります。

 

 海で行う場合は 港湾、漁場、養殖場のある場所を避け、更に湾岸より5Km以上離れれば問題は起きません。

 

 空では 焼骨を きちんと粉末状にして行えば 問題は起きません。

 

 又 現代では 宇宙葬の予約が始まって居ります。これは 焼骨の一部を粉末状にし、容器に格納して宇宙に運び、散布するものです。

 

 散骨の例と致しましては 皇室では 淳和天皇は840年に崩御し 遺勅により 京都大原野西院にて散骨されました。又 墓地が信奉者たちにより聖地化される事を防止する為 極東国際軍事裁判での死刑判決者の遺骨はGHQにより東京湾に遺棄されました。ナチスドイツの死刑判決者の遺骨も同様です。同様の理由で 中華人民共和国の指導者も 毛沢東を除き原則として散骨されて居ります。 

 

   今回は以上です。

葬儀の習俗

 今回は葬儀に関連した習俗に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於いて 葬送儀礼を行う事が一般庶民の間で定着し始めてから約300年が経とうとして居ります。この間では いくつもの習俗が造られ 施行されて参りました。野辺の送り、湯灌、魂呼び、食い別れ、耳塞ぎ、歳違え、犬弾き などが有り、地域によっては 現在でも執り行われて居ります。

 

 野辺の送りは 墓地や火葬場へ故人様のご遺体をお送りする際には列を組んでお送りすることを言います。葬列とも言いますが、大正・昭和時代に告別式が行われる様に成るまでは 葬送儀礼の中心となって居りました。野辺の送りには 宗派や地域により様々な様式が有りますが、一般的には 松明・提灯・六道を先頭にして、銘旗・花籠・香炉・四華・禅・位牌・遺影写真・天蓋・柩と続きます。葬列での役割は故人様との関係によって決められますが、ご位牌は喪主様、ご遺影写真は次に親しい方となります、地域によっては 枕飯は喪主様のご妻女が持つとされるところも有ります。又 野辺の送りの際は 死霊が家に戻らぬ様にと、道の辻では柩を回し、往路と帰路は道を変える、埋葬に使用した道具は捨ててくるなどの風習も有りました。

 

 湯灌は ご遺体を納棺する前に 逆さ水(普段とは反対に 水に湯を加えて作るぬるま湯)でご遺体を洗い清める習俗です。ご親族がご遺体に触れる最期の機会でもあります。現在では 病院に於けるエンゼルケアーにより ご遺体は看護師の手で清められて居りますので、湯灌をする事は少なくなりました。

 

 魂呼びは 故人様の枕元、自宅の屋根の上、井戸の中に向かって、海に向かって、故人様の名前を大声で呼ぶ習俗です。身体から遊離してゆく霊魂を呼び戻し 死者の蘇生を願うと共に、その御逝去を確認して 故人様を愛惜する儀式と考えられます。

 

 食い別れは 飲食は人同士の交わりを象徴するもので有り、故人様と食事を共にする事は 故人様と最後の交わりを持ち お別れを行うと考えられます。葬儀に於いては 通夜振る舞い、出棺に際しての 出立ちの膳(現在では行われていない)、精進落としなど 飲食をする機会が多く有ります、参列頂いた方や お手伝い頂いた方々への御礼と共に 故人様との 食い別れという性格を持つものでもあります。飲食には 故人様の魂を鎮め、死の穢れに対抗し、これを祓う力が有るともされます。

 

 耳塞ぎや歳違えは 近隣の方が亡くなられた時、死者と同年齢である方は死の穢れに染まり易いので、これを回避する習俗です。餅などで耳をふさぎ、死の知らせを聞かないようにします。又 豆を食べて 年を取り越し、死者との年齢を違えてしまいます。

 

   今回は以上です。

六曜

 今回は六曜(ろくよう)に付いて書かせて頂きました。

 

 六曜とは 先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六種類の曜日繰り返す歴注であり、七曜である 火、水、木、金、土、日、月 と共に 今日の日本に於いて影響力を持ち、特に 結婚式は大安の日、葬式は友引を避けるなど、冠婚葬祭の儀式に結び付けて使用されて居ります。七曜との混同を避ける為、六輝(ろっき)とか 宿曜(すくよう)とも言われます。

 

 六曜は中国で唐の時代に創られたと言われますが、確証は無く その真偽は不明です。何れにしろ 鎌倉・室町時代に中国から伝来し、時代の経過と共に 名称・解釈・順序などが徐々に変化し19世紀初めに現在の形が出来上がり、幕末には 民衆の間に定着しました。各六曜には 固有の吉凶や運勢が定められて居り、勝負事に関する内容が多く、縁起を担ぐことから、元来は勝負師や賭け事の遊び人の間で創られ、用いられたのではないかと考えられております。六曜の中には 仏滅、友引など 仏事と関連が有る様に見えますが、仏教とは一切関係有りません。仏教では占いを否定して居り、仏教に於いては本質的に因果関係によって物事が決まります。従い 六曜が直接原因として物事を左右する事は有りません。

先勝(せんしょう、さきがち)

 先んずれば即ち勝つ の意味で 万事に急ぐ事が良いとされます。午前中は吉、午後2時より6時までは凶とされます。

友引(ともびき)

 凶事に友を引く の意味で 以前は勝負なき日と知るべし と言われ 勝負事で何事も引き分けになる日とされました。朝は吉、昼は凶、夕は大吉。ただし葬式を忌む と言われます。

先負(せんぶ、さきまけ)

 先んずれば即ち負ける の意味で、万事に平静であることが良い とされ、勝負事や急用は避けるべきとされます。午前中は凶、午後は吉。

仏滅(ぶつめつ)

 仏も滅ぼすような大凶日 の意味で 物滅が近年になって仏の字に当てられました。六曜の中で最も凶の日とされ、婚礼等の祝儀を忌む習慣があります。

大安(たいあん)

 大いに安し の意味で、六曜の中で最も吉の日とされます。何事においても吉 成功しない事はない日とされ、婚礼はこの日が選ばれます。

赤口(しゃっこう)

 万事に用いない悪日 とされ、陰陽道の ”赤舌日”という凶日に由来します。午の刻(午前11時から午後1時頃まで)のみ吉で、それ以外は凶とされます。

 

   今回は以上です。

 

 

 

友引

 今回は友引(ともびき)に付いて書かせて頂きました。

 

 友引とは 現代の日本で使用されている歴注の一つ 六曜(ろくよう)の中の一日で、葬儀は避ける日として 定着して居ります。六曜は 先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口で構成されます。横浜市内の火葬場も友引の日は原則 業務を休止して居ります。但し 横浜市営火葬場は4ヶ所御座いますが、特別な事情を考慮し 一ヶ所は友引の日でも業務を行って居ります。

 

 六曜は 14世紀 鎌倉・室町時代に中国より伝来し、一ヶ月(30日)を五等分して、6日を一つの周期とした暦です。六曜は中国で生まれたとされますが、何時の時代に暦として確立されたかは不詳です。俗説としては 孔明六曜星が有名で、諸葛亮孔明が発案し、六曜を用いて軍略を立てたとされますが、三国時代に六曜があったとは考え難く、後世の人がこじつけたとするのが定説となって居ります。六曜には 固有の吉凶・運勢が定められて居り、江戸時代には 勝負事の縁起を担ぐ占いのもととして定着し、明治政府からは 吉凶付きの歴注は迷信であるとして禁止されましたが、第二次世界大戦終了とともに解禁となり、現代の日本に定着しました。六曜は 仏滅や友引など 仏事と関係が有る様に思われていますが、仏教とは一切 関係は有りません。仏教では占いを否定して居り、特に 浄土真宗では親鸞上人が ”日の吉凶をえらぶ事は良くない” と和讃で説いて居り、迷信・俗信一切を否定して居ります。

 

 六曜は 先勝―友引−先負−仏滅−大安−赤口の順で繰り返し、旧暦の毎月一日が下記の様に固定されて居ります; 1月・7月 先勝、2月・8月 友引、3月・9月 先負、4月・10月 仏滅、5月・11月 大安、6月・12月 赤口。 従いまして 新暦のカレンダーでは 規則正しく循環していたものが ある日突然途切れたり、年によって・月によって六曜が異なる事と成ります。

 

 友引は 凶事に友を引く を意味し、勝負なき日としるべし と言われ、勝負事で何事も引き分けになる日 とされます。 朝は吉、昼は凶、夕は大吉。但し葬式を忌む と言われます。

又 慶事の際には 幸せのお裾分け として 結婚式の引き出物は 友引の日に発送する習慣も有りました。


   今回は以上です。

 

 

墓石

 今回は墓石に付いて書かせて頂きました。

 

 墓石とは お墓のしるしに建てる石材製品で、現在では墓石の土台部にご遺骨が納骨できる構造となって居り墓碑とも呼ばれます。石材としては 花崗岩(御影石)、大理石、石灰岩、砂岩、野石などが使われます。又 石ではなく、鉄、白銅、木、植物等を素材とした墓碑も御座います。形状としては 和風、洋型、デザイン墓などに分けられます。

 

 日本には 仏教の伝来とともに 石工の技術も伝来し、供養塔や墓碑として 五輪塔 宝塔 層塔などが支配階級により造られました。その後 鎌倉・室町時代に 禅宗と共に戒名と位牌が中国より伝来し、それをもとにした角型の墓石が造られ、現在の墓石の原型と成りました。更に 江戸時代に檀家制度が確立し、仏事が生活の中に定着すると、庶民の間でも墓石を建立する習慣が定着しました。そして 明治時代中期に家制度が確立すると それまでは個人名や夫婦名で建てられていた墓石は 家単位の墓へと変化し 正面には 〇〇家先祖代々の墓 と刻み、側面に建立者名と建立日、背面に故人名 命日 行年を刻む 現在の形態が出来上がりました。第二次世界大戦後には 洋型の墓碑も登場し、現在のデザイン墓へと変化して行きました。

 

 墓石の素材としては 硬性の高い花崗岩(御影石)が一般的ですが、本御影石 白御影石 黒御影石 等幾つもの種類が有ります。大理石や石灰石は硬度が低く、加工はし易いのですが、酸に弱い為 酸性雨を長期間浴びると 比較的早めに 碑文が溶解する可能性が有ります。野石は 墓を作る風習が始まった頃には使われましたが、現在では使われません。砂岩は日本では使用されません。

 

 墓石の形状は 和型、洋型、デザイン墓に大別されます。

和型は二段の台石の上に細長い石を乗せた三段墓で 背の高い形状となります。仏式の和型三段墓は 上から 竿石、上台石、中台石、下台石の四枚の石で構成され、天地人になぞって 竿石を天の石、上台石を人の石、中台石を地の石と呼ばれてもおります。神式の墓石も基本は仏式の三段墓とほぼ同じですが、神式のお墓は奥津城と呼ばれます。

洋型は 台石の上に横長の石が乗る形となり、横の長く背の低い形状となります。ストレート型とオルガン型が日本では一般的です。

デザイン墓は 既成の概念に捉われず故人様への想いを反映させた多種にわたるお墓です。生前に故人様がデザインしたものも少なく有りません。使用される素材も 御影石だけに限らず、金属 アートグラスなど多岐に渡ります。

 

   今回は以上です。 

お墓

 今回はお墓に付いて書かせて頂きました。

 

 お墓とは 故人様のご遺体、もしくはご遺骨を葬り、故人様を弔う場所を言い、墳墓(ふんぼ) 墳塋(ふんえい)などとも言います。お墓を設ける区域を墓地と言い、全て ”墓地、埋葬等に関する法律”(墓埋法)により規定されて居ります。又 ご遺体 もしくは ご遺骨を葬る場合には 市区町村役所が発行する 埋葬許可証を提示しなければ成りません。

 

 墓埋法によれば 墳墓とは ”死体を埋葬し、又は 焼骨を埋蔵する施設” と規定されて居り、土葬墓 火葬墓を総称して墳墓と規定されます。尚 現在の日本では99%が火葬墓ですが、土葬墓も法律的に禁止されている訳ではなく、高知県や山梨県では現在でも10%前後は土葬墓に葬られて居ります。

 

 墓地は ”墳墓を設けるために、墓地として都道府県知事の許可を受けた区域” と規定されて居り、勝手に設ける事は出来ません。そして 墓地経営は 事実上 自治体による公営か、宗教法人、財団法人のいずれかでないと認められません。又 許可に当っては 通常 ”焼骨の埋蔵に限る” との条件が付加されて居り、一部の地域や信仰上の問題など 特別な事情がある場合を除いては 土葬は困難な状態となって居ります。


 墓地は 経営形態により 村落共有墓地、寺院境内墓地、公営墓地、民営墓地などが有ります。

1 村落共有墓地

   古くから村落が共有して保持していた墓地を追認したもので、新しく認められる事はないと考えられます。

2 寺院境内墓地

   寺院の檀信徒の為に設けられた墓地で、檀信徒は寺院の維持 その他に義務を負います。

3 公営墓地

   自治体の条例 その他で使用条件が定められた墓地です。

4 民営墓地

   管理者と使用者が 対等な契約に基ずいて使用権を取得できる墓地です。名前は宗教法人が運営する墓地でも、実質的には 民営墓地と変わらない墓地も多数 御座います。


   今回は以上です。

ご神体

 今回は御神体に付いて書かせて頂きました。

 

 御神体とは 神道に於きまして 神が宿るとされる場所や物を指し、礼拝の対象となります。神道では 森羅万象 八百万の神が存在しますので 巨石、樹木、山、森、その他 注連縄で飾られた物など 多岐にわたります。神社神道では 神社創立の起源となった物体や 注連縄で囲まれた場所などが御神体とされ、皇室神道では 三種の神器(鏡、玉、剣)の鏡が御神体とされています。又 御神体は 神が宿る場所や物を指して 御霊代(みたましろ)、あるいは 依り代(よりしろ)とも言われます。

 

 御神体は 長期に渡り受け継がれて来た物、定期的に更新される物など多岐に渡りますが、受け継がれて来た御神体としては 海・川・滝・山・森・木・岩などで 景色の中で際立つ場所が 現世(うつしよ)と常世(とこよ)の境界と考え、神の国への入り口、あるいは 神のいる場所とされました。日本各地での ご神木や夫婦岩、霊峰としての富士山、福岡県宗像市の沖ノ島などが これに当ります。定期的に更新される物としては 儀式で使用される御幣、榊、祭に使用される神輿・山車、更に 諏訪大社の御柱 出雲大社の神殿等があります。

 

 神社の社には 御神体の証として 注連縄で飾られて居ります。神社神道の神社は 本来 神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)(神がいる場所)に建てられるのが一般的でしたが、本殿がなく山や丘や神木が御神体であるケース(諏訪神社、大神神社など)、子孫繁栄の象徴として男根を御神体とした神社なども御座います。

 

 又 大相撲の本来は 神に奉納される神事で、力士の最高位は大関であり、大関の中で特別に選ばれた者だけが神の神体となり、生き神である証として 注連縄である横綱を張ることが許されるとされました。


   今回は以上です。

ご神体

 今回は御神体に付いて書かせて頂きました。

 

 御神体とは 神道に於きまして 神が宿るとされる場所や物を指し、礼拝の対象となります。神道では 森羅万象 八百万の神が存在しますので 巨石、樹木、山、森、その他 注連縄で飾られた物など 多岐にわたります。神社神道では 神社創立の起源となった物体や 注連縄で囲まれた場所などが御神体とされ、皇室神道では 三種の神器(鏡、玉、剣)の鏡が御神体とされています。又 御神体は 神が宿る場所や物を指して 御霊代(みたましろ)、あるいは 依り代(よりしろ)とも言われます。

 

 御神体は 長期に渡り受け継がれて来た物、定期的に更新される物など多岐に渡りますが、受け継がれて来た御神体としては 海・川・滝・山・森・木・岩などで 景色の中で際立つ場所が 現世(うつしよ)と常世(とこよ)の境界と考え、神の国への入り口、あるいは 神のいる場所とされました。日本各地での ご神木や夫婦岩、霊峰としての富士山、福岡県宗像市の沖ノ島などが これに当ります。定期的に更新される物としては 儀式で使用される御幣、榊、祭に使用される神輿・山車、更に 諏訪大社の御柱 出雲大社の神殿等があります。

 

 神社の社には 御神体の証として 注連縄で飾られて居ります。神社神道の神社は 本来 神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)(神がいる場所)に建てられるのが一般的でしたが、本殿がなく山や丘や神木が御神体であるケース(諏訪神社、大神神社など)、子孫繁栄の象徴として男根を御神体とした神社なども御座います。

 

 又 大相撲の本来は 神に奉納される神事で、力士の最高位は大関であり、大関の中で特別に選ばれた者だけが神の神体となり、生き神である証として 注連縄である横綱を張ることが許されるとされました。


   今回は以上です。

本尊

 今回は本尊(ほんぞん)に付いて書かせて頂きました。

 

 本尊とは 日常生活に於いては 物事の張本人や端倪すべからざる人物、大切にすべき物などのことを指しますが、仏教の世界では 寺院や仏壇などで 最も大切な信仰の対象として安置された 仏や菩薩などの 彫刻・絵画・曼荼羅(まんだら)・名号などの事を言います。ご本尊は寺院毎により異なりますが、日本の主要な宗派に於ける大本山の本尊は以下の通りです;

奈良仏教系

 華厳宗 華厳宗大本山東大寺 ご本尊 盧舎那仏(るしゃなぶつ)(奈良の大仏)

 法相宗 法相宗大本山興福寺 ご本尊 薬師如来像

 津宗  律宗大本山唐招提寺 ご本尊 盧舎那仏

平安仏教系

 天台宗 比叡山延暦寺 東塔 ご本尊 薬師如来像

 真言宗 高野山金剛峰寺 金堂 ご本尊 薬師如来像

法華系

 日蓮宗 身延山久遠寺 ご本尊 三宝尊、日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊の木造 9体

                       釈迦如来像、多宝如来像、四菩薩像、不動明王像、愛染明王像、四天王像、普賢菩薩像、ご本尊 文珠菩薩像、日蓮大聖人坐像

浄土系

 浄土宗 華頂山知恩院 ご本尊 法然上人像、阿弥陀如来像

 浄土真宗 龍谷山本願寺(西本願寺) ご本尊 阿弥陀如来像 親鸞上人像

        真宗本廟(東本願寺) ご本尊 阿弥陀如来像 親鸞上人坐像

 融通念仏宗 諸仏護念院大源山大念仏寺 ご本尊 十一尊天得如来(絵像)(阿弥陀如来と十菩薩)

 時宗 藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺) ご本尊 釈迦如来坐像

禅宗系

 曹洞宗 吉祥山永平寺 ご本尊 釈迦如来像、弥勒仏像、阿弥陀如来像

       諸嶽山総持寺 ご本尊 釈迦如来像

 臨済宗 東山建仁寺 ご本尊 釈迦如来像

 黄檗宗(おうばくしゅう) 黄檗山萬福寺 ご本尊 釈迦如来像

 

   今回は以上です。 

花立(花瓶)

 今回は花立(花瓶)に付いて書かせて頂きました。

 

 花立(はなだて)とは 仏教に於いて 祭祀の際に使用される重要な仏具 三具足(みつぐそく)の構成要素で、常花(蓮の花を模った造花、仏具)や生花をお供えする際に使用する花器を指します。材質は真鍮製やアルミ製の物が一般的ですが、漆塗りの物、錆び難いステンレス製、純金製、純銀製の物なども有ります。尚 浄土真宗では 花瓶(かひん) 或いは 華瓶(けびょう)と呼びます。

 

 仏教に於いて お花はお供えする事は 先祖や故人様を偲んで 供養の心を表わす 大切な供養具で、花供養とも呼ばれ 日本の御家庭では大切な朝の行事とされて来ました。お供えするお花としては 特別な意味を持つ花として 蓮の花が有ります、泥の中に根を張り 美しい花を咲かせるその姿は、泥の様な欲望の渦巻く 厳しい現世の中で 清らかに輝く 仏の智慧を現すものとして、又 極楽浄土そのものとして崇拝されて来ました。生花としては 多菊を供えるのが一般的ですが、その菊にも意味が込められて居り、菊は古来より邪気を払う花として 珍重され、公式の行事でも多々使われて参りました。そして 他の花に比べて長持ちする事も ご仏壇や墓石にお供えする際に 選ばれる理由の一つとなります。

 

 ご仏壇に祀るお花を選ぶ際には 菊を中心として 香りのきついもの、花弁がパラパラ落ちる花、バラやアザミ等トゲの有る花は避けるのが一般的です。しかしながら 仏花は お供えする方のお気持ちが大切ですので、余り 拘らずに 故人様の好まれたお花を選ぶなど、お気持ちを表すお花をお供えする事が より大切ではないでしょうか。選ぶのに悩まれる様な場合は 仏花用として売られている生花セットをお薦め致します。仏花用の生花は 3本、5本、7本など奇数の本数で 全体の形がひし形に整えられ、季節の花も添えられて居ります。

 

   今回は以上です。  

灯明(燈明)

 今回は灯明(とうみょう、燈明とも書きます)に付いて書かせて頂きました。

 

 灯明とは 神仏にお供えする灯火をいい、仏教 神道 キリスト教 何れの宗教でも 祭儀の際に重要な役割を担います。仏教では 闇(無明)を照らす智慧の光とされ、大切な供養の一つです。寺院や神社で灯す 灯明の淡い光は 仏の慈悲によって人の心を明るくするものとも、ご先祖が子孫(灯明を灯した人)へ 生きるための光を導き出す ある種の道標であるとも 言われます。

 

 灯明は 古くは 油皿に油を注ぎ それに灯心を添えて 灯りをともして居りましたが、ある時期から ロウソクに変わり、現在では電球によるものが多く成りました。ロウソクの歴史は大変古く、紀元前3世紀の頃には 中国でも エトルリア(現在のイタリアの一部)でも 既に使われていた事が証明されて居ります。ヨーロッパでは キリスト教の典礼に必ず使用される事から 修道院では古くからミツバチを飼い、蜜ローソクを生産する事が重要な作業でも有りました。又 19世紀のアメリカ合衆国では マッコウクジラの腦油を原料とするローソクが高級品とされ、盛んに捕鯨が行われました。日本で最初にロウソクが登場したのは奈良時代で、仏教の伝来と共に 蜜ローソクが中国から伝わったと考えられます。その後 日本では 松脂を使用したローソクが開発され、更に 木蝋の原料となるハゼノキが琉球から伝わり、和ローソクが完成しました。ローソクは 長時間 炎が一定の明るさを保つ事から、長い間 夜間の灯火として重要な役割を担いました。

 

 日本の仏事に於いて ローソクは欠かす事の出来ない道具となって居り、三具足や五具足の重要な構成要素です。仏事に於いて ローソクの色は 朱(赤)、金、銀、白の四種類を使い分けます、朱は法事(年忌法要)、祥月命日、お盆、春秋のお彼岸の時に灯します、金は結婚式や落慶法要などのお祝の時に灯します、銀は通夜、葬儀、中陰の時に灯します、朱・金・銀が用意出来ない場合のみ代用品として白を使用しても良いとされました。現在では 代用品である白を使用する事が一般的となって居ります。そして 東北地方には 花蝋燭よ呼ばれる花を表面に描いたローソクが御座いますが、これは 冬の雪深い中では 仏事の祭壇にお花を供える事が出来ない為、代りにロウソクにお花を描いて灯した とされます。

 

 キリスト教の祭儀では ミサの祭壇には ローソクを灯すことが義務付けられて居り、又 死者の為の祈祷や 復活祭の祈祷では 灯りをともしたローソクを手に持って礼拝に参加します。

 

   今回は以上です。 

 今回は香に付いて書かせて頂きました。

 

 香とは 伽羅(きゃら)、沈香、白檀(びゃくだん)等の自然香木の香りをさしますが、そこから 線香 抹香 塗香 香水などが作り出されました。仏教 発祥の地である インドは 多くの 香木を産し、また 酷暑の気候による悪臭を防ぐために、香は重要な役割を果たして居りました。この様な背景のもと、仏教では 香を焚くことにより、不浄を祓い、心識を清浄にするとされます。又 焚いた香の煙は仏の食べ物とも言われます。

香の香りをかぐことで、脳内にアルファ波が生成され、癒しの効果があるとされます。

 

 香の歴史は古く 紀元前3000年前のメソポタミア文明(現在のイラク北部)にまで遡ります。香の種類としては 白檀 丁香などの樹木の皮・葉・根などの粉末、乳香 安息香などの樹脂、麝香 竜涎香などの動物性のものがあり、香木と練香に分けられます。又 使用法としては 焚いて使用する香(焼香) と焚かずに体に塗る香(塗香)に大別されます。更に 焼香もその形状により 棒状 コイル状 渦巻き状 粉末状(抹香)に別けられますが 種類は多種にのぼります。

 

 線香は 古代インドが発祥の地とされ、香りを出す材料を細かく砕き、それを練り合わせて、細い棒状や渦巻き状に成形し、乾燥させて作ります、それに火をつけることにより、芳香のある煙を出します。香りを楽しんだり、医療目的に使用されて居りました。日本では 堺で線香の形状が開発され、江戸時代以降に一般化されたと言われて居ります。線香は燃焼が安定している事から時計代わりにも使われ、禅寺では 線香が1本燃え尽きる時間(40分)を 一柱(いちちゅう)と言い、座禅を行う時間の単位としました。最近では 仏壇による火災を予防するため、電気線香なども販売されて居ります。

 

 抹香は 粉末状の香で、かっては 沈香や栴檀(せんだん)などを材料として居りましたが、現在は 樒(しきみ)の樹皮と葉を乾燥させて 粉末にしたものが一般的です。

 

 日本では 線香は 仏壇やお墓にお供えして燻らせ、抹香は焼香用に使用されるのが一般的です。

 

   今回は以上です。

 

 

仏具

 今回は仏具に付いて書かせて頂きました。

 

 仏具とは 仏教の儀式で使用される特有の道具、及び 僧侶や聖職者が使用する装飾品を指します。法具や法器とも言います。

 

 仏教では 本来 僧侶は最低限の衣服と食器(三衣一鉢)以外の金品を所有する事は戒律で禁じられて居りましたが、釈迦の死後数百年が過ぎると 信者から寄付された最低限の金銭や日用品を持つ事が許されるようになります。紀元を過ぎると 仏教はインド以外の各地へと伝播して行き、僧侶は人々へ 祈祷や葬儀などの儀式を司る様になり、それに伴い儀式で使用される道具や装飾品が開発されて行きます。更に中国やチべットなどでは特殊な仏具が使用される様に成りました。そして 中国で成立した浄土信仰が民衆の間に普及すると、信者自身が直接 仏へ信仰する様になり、仏画、数珠などの仏具を信者が自身の家庭で使用するようになりました。

主な仏具は以下のものです;

1 三具足と五具足

   基本の仏具で 香炉、火立て(燭台)、花立て(花瓶)で構成されます。三具足では 中央に香炉、右に火立て、左に花立てを配置します。五具足は中央に香炉、その両側に火立て、さらに その外側に花立てを配置します、火立て;1対、花立;1対、そして香炉の五具足となります。一般には三具足で、正式な行事では五具足を用います。

2 香炉

   線香や抹香を焚く為の道具です。三つ足の場合は 一本の足が手前に来るように置きます。

3 線香差し

   線香を入れておく為の容器を言います。

4 花立て

   仏壇に供える花を生ける花瓶です。華瓶(けびょう)とも言います。

5 燭台(火立て)

   灯明、ロウソクを立てる道具です。

6 打敷(うちしき)

   仏前の前卓を飾る敷物です。一般的には長方形ですが、浄土真宗では三角形となります。

7 仏飯器(ぶっぱんき)

   ご飯を盛る器で、仏器とも言います。

8 茶陶器(ちゃとうき)

   お茶を供える為の道具です。

9 高坏(たかつき)

   菓子や果物などを供える為の器です。菓子や果物は半紙を敷いた上に供えます。

10 霊供膳(りょうくぜん)

   仏壇に供える小型の本膳です。浄土真宗にはありません。

11 燈籠(とうろう)

   仏壇の中を明るく照らす道具です。

12 鈴(りん)

   勤行のときに打つ道具です。打ち方は宗派ごとに定められて居ります。

13 香盒(こうごう)

   抹香を入れる器です。

 

   今回は以上です。

 

 

 

 

 

 

数珠

 今回は数珠(じゅず)について書かせて頂きました。

 

 数珠とは 108個の珠(たま)の中心に穴をあけ、この穴に糸の束を通して 輪にしたもので、仏教では法具と呼ばれます。一般的には 仏事や法要の際に、仏・菩薩・故人様の霊位などに礼拝をする時、合掌した手の親指と人指し指の間にかけます。合掌時以外は 房を下にして左手に持つか、左の手首に下げます。数珠は法具ですので 大切に取扱います、携帯の際には数珠袋や 専用の袱紗(ふくさ)に入れ、一時的に置かなければならない場合は 畳の上や 机の上に直に置かず、袱紗などの上に置く様にします。又 数珠は 個人の身代わり(お守り)となる法具で、数珠を持つ事により その人に功徳が与えられると言われ、一人一人が自分専用の数珠を持つべきとされます。尚 数珠の持ち方や、使用の作法は 宗旨により異なりますので、ご利用の前に 僧侶に確認されると良いでしょう。

 

 数珠は 古代インドのバラモン教で用いられた道具が原型で、釈迦により用いられ、日本へは仏教の伝来と共に伝わったとされます。その後 鎌倉時代 浄土教の称名念仏の流行とともに 数珠の使用も一般化したとされます。数珠は梵語では アクシャ・マーラーと呼ばれ、アクシャは 物をまっすぐ貫くもの、マーラーは 物を糸で繋いで重ねた物を意味し、ヒンドゥ−教では 50珠を連ねた数珠が使われます。

 仏教の数珠は 108珠を重ねたものが基本とされ、当初は 念仏の回数を数える事に使われました。その後 54珠、42珠、27珠、21珠、18珠、14珠のものが説かれて居ります。これは百八煩悩、金剛界百八尊、五十四位、四十二位、十八学人、二十七聖賢、二十一位、観音十四無畏などを象徴するものとされます。珠の形状は 丸珠、みかん珠、平珠(ろばん珠)が一般的で、素材としては ヒスイ、象牙、水晶、サンゴ、オニキス、沈香、黒檀、白檀、柘植、檜、菩提樹等が有ります。

 

 数珠は 仏を念ずる時に用いる珠 との意味から 念珠(ねんじゅ)とも呼ばれ、字の前後を入れ替えて 珠数と書く場合もあります。 

 

 数珠の形状もご宗派により異なりますので、御購入される前に 菩提寺や所属宗派の本山に 確認されることをお薦め致します。

 

   今回は以上です。  

 

 

仏壇

 今回は仏壇に付いて書かせて頂きました。

 

 仏壇とは 日本独特のもので 一般家屋に常設される 仏教の礼拝施設で、その家の先祖をお祀りする場であると共に 弔い上げ前(三十三回忌や五十回忌前)の 故人様を供養する場でも有ります。仏壇を新規に購入されましたら 僧侶に依頼をし 仏壇・本尊・位牌に対する開眼供養を行います。開眼供養により 本尊や位牌が礼拝の対象となります。開眼供養は 四十九日や一周忌の法要の際に合わせて行うのが一般的です。

 

 古代インドでは 土を積み上げて壇を作り、そこを神聖な場所として神を祀りました。更に雨風を防ぎ為に 土壇に屋根が設けられ、回りを囲む壁が設けられ、現在の寺院の原型が出来上がります。日本に仏教が伝来した当初は 寺院内の仏像を祀る場所を仏壇と呼んで居りましたが、その後 仏教の宇宙観では 巨大な山 須弥山(しゅみさん)が宇宙の中心をなし そこに仏(帝釈天)が所在するとされ、仏像は須弥山を模った須弥壇に安置されるべき として 仏壇は須弥壇と呼ばれる様に変わります。同時期の平安時代後期 貴族などの上流階級では 個人で持仏堂を持つ者も現れ始めました。そして持仏堂を持てない人々は仏間を持つ様になり、又 鎌倉時代に入ると 禅宗の伝来とともに 位牌が流行し、自宅内に本尊や位牌を安置する壇を仏壇よ呼ぶ様に成ります。仏壇が庶民の間に普及するのは 江戸時代中期以降の寺壇制度確立の後からです。

仏壇は 大きく分類すると 金仏壇、唐木仏壇、家具調仏壇に分けられ、30−50万円の価格のものが一般的ですが、最近では 20万円以下のシンプルでモダンな仏壇も多く見られる様に成りました。

 

 近年は グリーフワークの観点で 葬儀後の悲嘆にくれるご遺族が 仏壇内に安置されたご位牌を通して故人様と対話することにより 悲しみを癒して行く効果が期待できるとも言われて居ります。

 

   今回は以上です。

 

布施

 今回はお布施(ふせ)に付いて書かせて頂きました。

 

 お布施とは 仏教に於いて 菩薩(悟りを求めて修行する人)が行うべき六っの実践徳目(六波羅蜜)の一つで、他人に与える事を指します。施す人も 施される人も 施す物品も 本来的に空であり、執着心から離れて成されるべきものとされます。お布施には 財施、法施、無畏施の一般的なものの他に 和顔施、言辞施などがあります。

 

 布施は 梵語で ダーナといい 壇那と書かれ、他人に与える事を指します。布施をする人をダナパティといい、施主、壇越(だんおつ、だんえつ)、檀徒(だんと)などと書かれます。菩提寺にお布施をする家を 檀家と呼びますが、これは 壇那・壇越から来たものと考えられます。お布施には以下のものが有ります;

1 財施(ざいせ)

   出家修行者、仏教教団、貧窮者などへ 財物や衣食などを与えること。

2 法施(ほうせ)

   仏の教えを説き、精神的な安心を与えること。僧侶の務めでもあります。

3 無畏施(むいせ)

   困っている人に親切を与えること、災難などに遇った人を慰め、その恐怖心を除くこと。

4 和顔施(わがんせ)

   笑顔を人に見せ、それを見る人に幸福感を与えること。

5 言辞施(げんじせ)

   相手にとって快い言葉を語り、幸福感を与えること。

 

 葬儀に於きましては 僧侶は通夜式・葬儀式の法要を営むことによって 法施を施し、ご遺族はこれに感謝して財施を施す という関係にあります。僧侶が法要を営むことは ビジネスでは無く 法施であり、ご遺族のお布施は 法要執行への対価ではなく あくまでも 財施として行うのが本来の考え方です。従いまして お経料や戒名料の表現は 対価としての料金という考えにもとずくものであり 相応しくないと考えられます。ご遺族には お礼という気持ちがあると思いますが、それを超えた意味合いが有ることを理解して頂き お布施と上書き頂くのが正しいとされます。尚 お布施の金額に付きましては 世間一般に理解される金額が御座いますが、経済的な事情をお持ちの場合は 素直に寺院にご相談される事をお薦めします。

 

 他の宗教でも その考え方は基本的には仏教と同じです。神道では 神職へのお礼は 玉串料 或いは 御祭祀料などと上書きします。キリスト教の場合は 教会への献金と、司祭 あるいは牧師への謝礼からなります。オルガニストへの謝礼も忘れない様にします。

 

   今回は以上です。  

 

 

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