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通夜の準備

 今回は通夜の準備に付いて書かせて頂きました。

 通夜とは 葬儀の前夜に夜を通して行う儀式で、生と死の境界線に在る故人様を ご遺族 ご親族が別れを惜しむ場で御座います。しかしながら 現代では 昼間に行われる葬儀・告別式には参列する事が難しい方々が、比較的 融通しやすい夜間の通夜に参列される様になり、告別式より通夜にほうが参列される方が多く見られる事が一般的と成りました。従いまして 葬儀・告別式よりも 通夜式の方がより多くの参列者に応対する前提で準備して頂く必要が御座います。

 通夜は急な知らせを受けて、駈け付ける場でも御座いますので、本来は喪礼服の着用は必要とされて居りませんでした。しかしながら 現代では 喪服を着用しての弔問が一般的となって居りますが、派手ではなく きちんとした服装であれば平服でも問題有りません。ただし 金具類(ネクタイピン、結婚指輪以外の指輪、靴の飾り等)は着用を避けなっければなりません。又 遺族・親族よりも格式が上の喪服を喪服を着てはならない という暗黙の決まりも有りますので、和装の礼服は避けた方が無難です。

 通夜式のお焼香が済みましたら、弔問の方々に通夜振舞いとして酒食を供しますが、人数はその場にならないと解りませんので 盛り合わせのお料理を用意するのが一般的です。又 地域に依りましては 色々な形の通夜振舞いがあります。酒食は供さずに 弔問客にお菓子をお持ち帰り頂くもの、食事券(寿司屋などの)をお持ち帰り頂く形、酒食では無くお茶だけを供する形、あるいは 酒 砂糖などの詰め合わせをお渡しして通夜振舞いに代える形なども御座います。

 何れにしろ ご遺族様のご希望を明確にして、葬儀社と良くご相談される事をお薦め致します。

   今回は以上です。 

葬儀の式場

 今回は葬儀の式場に付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀の式場に付きましては ご自宅で行う場合と、公営 或いは私営の式場をご利用頂く場合とが御座います。ご自宅で執り行われる場合は 式場に使用されるお部屋をお定め頂いた上で祭壇の形をお決め頂きます。更に張幕、テント、冷暖房、案内標識、駐車場等を検討頂く必要が御座います。外部の式場をご利用頂く場合には その式場の使用規則に従って執り行う形となりますので、ご検討頂く項目はかなり少なくなります。尚 その際には 故人様 及び ご遺族様のご希望は忌憚なくお話頂く事が大切です。

 ご自宅でご葬儀を行う場合は 式場とする部屋、飲食の接待をする部屋、宗教者の控室、近親者の控室、会葬者の待機する場所、受付の場所等を 葬儀社とご相談の上でお決め頂きます。又 場合によっては 近隣の方々の了解を取り付けます。

 現代では 車で来訪される会葬者の方も多くなりましたので、近隣の駐車スペースを用意したり、無い場合は 一時的な路上駐車スペースを用意し、近隣に了解を取ると共に 所轄警察に届け出を出して許可を取り付けます。

 地元に不案内な会葬の方を考慮して、最寄の駅やバス停などから自宅までの案内標識、玄関から待機場 そして 式場に至るに必要な案内標識も必要となります。勿論 式場を示す門標も必要です。

 更に 門前から玄関までの通路の足元が暗い場合は 夜間の弔問客に備えて照明を用意します。又 夏の暑い季節には 冷房器や扇風機、冬の寒い季節には 暖房機具、雨が予想される場合はテントや予備の傘も用意します。又 式中に停電などが起こらぬ様、最大使用電力量にも注意が必要です。

 以上は全て 葬儀社が手配致しますが、適時 ご葬家の指示を必要と致しますので、ご留意下さい。

   今回は以上です。

遺体の変化

 今回はご遺体の変化に付いて書かせて頂きました。

 人はご逝去されると 生活反応が失われ、修復性や回復性も喪失します。従いまして ご遺体の状態は急激に悪化して行きます。死斑が出、死後硬直が始まり、腐敗が始まります。ご遺体の保全に最も大切な事は ”ご遺体を悪化させないこと”につきます。ご遺体の悪化防止の為には 死亡直後の看護師による適切な処置と その後の低温保存が重要となります。尚 ご遺体は保存方法により進捗の度合いは異なりますが、悪化はしつずけますので 死亡直後のメイクはあまり効果は有りません。

 死斑とは 心臓が停止し血液の流れが止まると、血管内の血液は全て下に集中します。ご遺体の上の部分の皮膚は蒼白となり、下になった部分の静脈に全ての血液が溜ります。この血液が凝固して死斑となります。死斑は死後20~30分後位から始まり、20時間以上経過すると固定されます。尚 死後10時間くらいまでは固定されません。

 死後硬直は 体内の化学反応により筋肉や関節が硬直して動かなくなる現象です。死後硬直は死後2時間位から始まり、20時間位で硬直は最も強くなります。その後は腐敗が強まる為、硬直は徐々に解けて行きます。

 ご遺体は 体内を一定の状態に維持する為の 恒常性が消失した状態となります。恒常性は 終末期から徐々に失われて行き、死亡と同時に加速度的に消失して行きます。人が健康な際には 体内や体表面の人体に有害な細菌や問題のある細菌の増殖を抑制していますが、死により細菌の繁殖環境が大きく崩れ、抑制されていた問題細菌が爆発的に増殖を繰り返し、ご遺体の悪化を一気に進めます。しかし ご遺体には生命活動が存在しない為恒常性は無く、これを取り戻す術は有りません。この悪化をより遅らせる為にご遺体を低温で保存しなければ成りません。

   今回は以上です。

葬儀の打合せ

 今回は葬儀の打合せに付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀の打合せは 最愛の方を亡くされ 精神的にも厳しい状況の中で行わなければ成りません。多くの事をお決め頂かなければ成りませんが、何よりも先に ご葬儀に対する想いをお話し頂く事が重要です。故人様はどの様な方であったのか、故人様はご家族をどの様に思われていたのか、ご葬儀に対して言い残されて事は無いのか、そして 故人様に対するご遺族の想いはどの様なものであるかをお話し頂きます。このお話の中から ご遺族様はお心の傷を僅かでも癒して頂き、お手伝いをさせて頂く葬祭業者は 葬儀のご方針を想い描く事が出来ます。私ども葬祭業者は この想いに沿って各種のお決め頂く事を提案する事が可能となります。

 ご葬儀の打合せは 葬祭業者の情報開示と、ご葬家様のご決定が前提となります。一般的には ご葬儀の経験が豊富なご遺族様は居られません。私共 葬祭業者は ご遺族さまが 容易に選択・決定出来るべく、必要な情報を広く、公平に、正確にお伝えしなければ成りません。ご葬儀の打合せに当たり 大切な事は 物事を選択し決定するのは ご遺族様の権利だという事です。

 ご葬儀を考える際に 最も大切な事は ”故人中心”ということです。お送りする方々が 故人様への想いに集中することが 良い葬儀を実現する為のポイントとなります。故人様が生前に語っていた事、書き遺した事など、故人様が考えて居られた事を中心に進めた時が、より良い葬儀にも繋がるかと考えます。喪主様、葬儀の宗旨、会葬者の扱い方など、出来るだけ 亡くなった方本位 の方法でお考え頂くのが良いのではないでしょうか。

   今回は以上です。

葬儀の喪主

 今回はご葬儀の喪主について書かせて頂きました。

 人の世には 色々な悲しい出来事が待ち受けて居りますが、家族の方のご逝去ほど悲しい出来事は有りません。この悲しみの中でもやらなければならないのがご葬儀です。このご葬儀を取り仕切るのが喪主様であり、まず最初にお決め頂かなければ成りません。喪主様は葬儀全般の主宰者であり、弔問を受ける葬家の代表者であり、ご葬儀の宗教的な主宰者であると共に、その後の行事の責任者でもあります。又 喪主様は故人様の生前の意とご希望に沿うべく努め、故人様の霊を護る役柄を努めねばなりません。

 喪主様を何方にするか時として問題になる事があります。戦前であれば 家の祭祀を主宰する方で、戸主あるいはその跡継ぎの男子でした。戦後に民法の改正が有り、家の祭祀権を継承する方と、遺産を相続する方とは分離され、家の祭祀者が祭祀権の継承者を指名すれば良い事となりました。この指名された継承者が喪主様を努めなければ成りません。もし指名がされて居ない場合は 御家族で協議をしお決め頂きます。一般的には 世帯主以外の方が亡くなられて場合は世帯主が、世帯主が亡くなられた場合は その配偶者 もしくはお子様が喪主を務められます。喪主様は通常は一人ですが まれに複数の方々(配偶者と長男、子供たち等)が共同で務める場合も御座います。

尚 地域の習俗として 子供が親より先立った場合は 逆縁として 親が喪主にならない習慣や、夫が逝去された場合は 喪主は配偶者ではなく長男が務める、などが御座いますので 日頃よりご確認頂く事をお薦め致します。

 施主様と呼ばれるお務めが御座います。一般的には 葬儀を主宰する人と言う意味で喪主様と同じ様に用いられますが、厳密には異なります。施主様とは 血縁に拘らず、布施費用を納める人と言う意味で、葬儀の施行主であります。個人葬の場合は喪主と施主を御一人で務めますが、社葬や団体葬などの場合 喪主はご家族が務め 施主は費用を負担する会社や団体の代表者が務める事と成ります。又 個人葬の場合でも 跡継ぎが未成年の場合 喪主を跡継ぎな務め、叔父様が施主を務める形なども御座います。

   今回は以上です。

葬儀の前に

 今回がご家族のどなたかに万一が予想される場合にお決め頂かねばならない事項に付いて書かせて頂きました。

 ご家族のどなたかが亡くなられた場合 まずは 葬儀社に連絡をし、その後 葬儀社と葬儀の次第をお決め頂かなければ成りませんが、精神的な動揺も大きい中での判断には難しい面も多々あります。大切な方との最後の時間をより良く、後悔の無い様お過ごし頂くためには 事前に以下の事をお決め頂いて置く様 お薦めします。

1 喪主はどなたがされるか?

2 お通夜までの ご遺体の安置場所は何処にするか。

3 葬儀の形式は 仏式(宗派、檀家寺)、キリスト教(所属教会)、他の宗教、無宗教。

4 葬儀のご予算。

5 ご遺影の原本。

6 ご希望の式場、火葬場 もし御座いましたら。

7 準備する情報

  故人様 氏名、現住所(含む世帯主) 本籍地(含む筆頭者)、生年月日 

  喪主様 氏名、現住所(含む世帯主) 本籍地(含む筆頭者)、生年月日

  死亡届出人 氏名、現住所(含む世帯主) 本籍地(含む筆頭者)、生年月日、故人様との続柄、連絡先

 故人様が病院で亡くなられた場合は ご遺体を搬出しなければ成りません。その場合の葬儀社への連絡内容は 連絡される本人様のお名前、故人様との関係、連絡先の電話番号、故人様の氏名・年齢・性別、病院の名称・住所・電話番号・病室、そしてご遺体の搬送先が必要となります。

   今回は以上です。 

末期の水 遺体の清拭

 今回は末期の水とご遺体の清拭に付いて書かせて頂きました。

 末期の水とは 死にゆく者に対して 御家族により その口許を水でうるおす作法を言います。あるいは 死に水をとる とも言います。本来は死者の命が蘇える事を願って行われたと伝わります。従いまして 臨終の間際に行われる作法でしたが、現在では息を引き取られた後に行う事が一般的となって居ります。ご遺体の清拭(せいしき)とは 死後感染を予防し、ご遺体の尊厳を守る為に行う、各種の手当を指します。

 末期の水の由来は 仏典”長阿含経”の中に記されて居ります。末期を悟られた仏陀は 口が渇いたので水を飲みたいと 弟子の阿難に命じました。しかしながら 近くの川は水が濁って汚れて居た為 差し上げる事が出来ません、その時 雪山に住む仏道に篤い鬼神が 鉢に浄水を汲み これを仏陀に捧げたとの事に由来します。死に水は 許されるならば病院で、許されないのであれば ご遺体がご自宅に帰り お布団の上に安置した後に行います。死に水をとる順序は 喪主様 そして血縁の近い順に行います。最初は配偶者、お子様、故人の両親、兄弟姉妹、子の配偶者、孫、そして臨終に立会った方々の順となります。使用する道具は 筆 又は 箸の先に脱脂綿を巻き付けものを使用し それに水をふくませて唇を湿らします。元来は死者の蘇生を願う民俗的儀礼であると共に、一人一人が故人様に別れを告げる大切な儀式でもあります。

 故人様がご自宅で亡くなられた場合 主治医が死亡の判定をした後に 看護師によりご遺体の清拭が行われます。ご遺体の表面をアルコールで消毒し、鼻や尻等の部位に脱脂綿を詰めて体液が漏れない様にし、新しい浴衣などに着せ替えを行い、女性の場合は簡単な化粧を施すなどをします。病院で亡くなられた場合も同様の手当が行われ 遺体安置室(霊安室)に運ばれて引き取りを待つ事と成ります。看護師による清拭は エンゼルケアとも呼ばれて居ります。現代では エンゼルケアが一般的に施される様になり、ご家族による湯灌を行う事は少なくなりました。

   今回は以上です。

死体火埋葬許可証

 今回は死体火埋葬許可証に付いて書かせて頂きました。

 死体火埋葬許可証とは ご遺体を埋葬(土葬)あるいは火葬を許可する証で、埋葬・火葬の前に取得して置かなければ成りません。許可証の発行は 死亡届を受理した市区町村役所が行います。死亡届と共に死体火埋葬許可申請書を役所に提出し、許可証を受取ります。申請書には 死亡者の本籍、住所、氏名、性別、出生年月日、死因(一般感染症かそうで無いか)、死亡年月日時、死亡場所、火葬場所あるいは埋葬場所、申請者の住所・氏名・続柄の情報と印鑑(シャチハタは不可)が必要と成ります。

 死体火埋葬許可証が無いと ご遺体を埋葬(土葬)、或いは火葬する事が出来ません。この許可証は 発行した市区町村だけでなく、全国共通で有効となります。尚 ご遺体は原則として ご逝去後24時間以内には埋葬・火葬を行う事が出来ません。但し 法定伝染病により亡くなられた場合はこの限りでは有りません。横浜市内では原則として土葬が認められて居りませんので、全て火葬となります。

 横浜市内には 市営火葬場として 横浜市北部斎場(緑区)、横浜市久保山斎場(西区)、横浜市戸塚斎場(戸塚区)、横浜市南部斎場(金沢区) 私営火葬場として 西寺尾斎場が御座います。其々の火葬炉ご利用費用は;

1 横浜市営; 横浜市民-12,000円、市外-50,000円。

2 西寺尾火葬場; 63,000円(市内、市外共に)。

 ご火葬が終り ご遺骨をお骨壺に納めた後、火葬証明書が発給されます。火葬証明書は ご遺骨を埋蔵(お墓に納める事)、収蔵(納骨堂に納める事)の際に 管理者に提出しなければならない重要な書類ですので、ご遺骨と共に大切に保管して下さい。尚 分骨をされる場合は 別途 分骨証明書が必要となりますので、ご火葬の前に 火葬場へ申請する必要が御座います。尚 分骨申請書の発行手数料は 横浜市営斎場の場合 300円となります。

 以上の手続は ご依頼頂ければ葬儀社が代行してくれます。

   今回は以上です。  

監察医

 今回は監察医に付いて書かせて頂きました。

 監察医とは 死体解剖保存法の規定に基ずき、都道府県知事が任命する 行政解剖を行う医師を指します。日本に於ける監察医制度は 飢餓、栄養失調、伝染病などによる死亡者が続出していた第二次世界大戦終戦直後に 死亡者の死因が適切に把握されず その対策にも科学性が欠けて居た為、その状況を憂慮した連合軍総司令部(GHQ)が 公衆衛生の向上を目的として 日本政府に創設を命令した制度で、1947年(昭和22年)に創設されました。

 監察医制度の目的は 死因不明の死体を検庵 又は解剖して死因を明らかにする事により、公衆衛生の向上に資する事に有ります(犯罪捜査を目的とした制度では有りません)。監察医の業務内容は 死因の明らかでない死体に付いて ①死体の検案を行う事、②検案によっても死因が判明しない場合は解剖を行う事(ご遺族の同意は不要)です。その対象となるご遺体は 伝染病、中毒、又は災害により死亡した疑いのある死体 及びその死因が明らかでない死体です。監察医制度は 昭和22年 当時の人口上位7都市(東京23区、大阪市、京都市、名古屋市、横浜市、神戸市、福岡市)で運用が開始されました。監察医は常勤 或いは非常勤の形で監察医務院と呼ばれる組織に所属して死因の解明に当ります。現在 監察医務院が運用されて居るのは 上記から京都市、福岡市を除いた5都市です。それ以外の地域では 委嘱を受けた 大学の法医学教室が その任務を代行して居ります。

 監察医や警察の嘱託医が行う、死因を特定する為の解剖を”行政解剖”と言います。これに対して 犯罪死の惧れがある場合に行う解剖を”司法解剖”と言います。行政解剖の途中で犯罪死の疑いが出た為、司法解剖に移行することもあります。行政解剖と司法解剖は ご遺族の同意を必要とは致しません。一般的医療機関で行う病理解剖はご遺族の同意が必要です。

   今回は以上です。

死亡診断書(死体検案書)

 今回は死亡診断書(死体検案書)に付いて書かせて頂きました。

 死亡診断書(死体検案書)は 人の死亡に関する厳粛な医学的・法律的証明であり、死亡者本人の死亡に至るまでの過程を詳細に論理的に表わされた書類で死亡届提出の根拠となります。又 死亡証明書(死体検案書)は 日本国の死因統計作成の為の資料ともなって居ります。死亡診断書は 死亡の原因となった傷病の診察に携わった医師 又は歯科医師により発行されます。死体検案書は 死亡の原因となった傷病の診療に携わる医師が居ない場合、又は 死体に異常があるとと認められた場合に都道府県知事が指定した医師(監察医等)が遺体を検案の上で発行します。

 通常の病死あるいは老衰死などの自然死が明白な場合は その診察・治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します(医師法)。突然死や永らく医師の診察・治療をうけて居ないで死亡した場合は 病死や自然死であっても医師・歯科医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この場合は 死亡地の所轄警察署による検視を経て、監察医 又は警察の嘱託医が検案を行い死体検案書が発行されます。これは 自然死以外の可能性が無いかどうかを調べる為です。病死 あるいは自然死以外の異常死体、犯罪の疑いのある死体の場合は 所轄警察に届けて、その検死を受け、監察医 又は警察の嘱託医が 検案の上で死体検案書を発行します。警察による検視、監察医などによる検案が必要なケースは以下の通りです;

1 病死あるいは自然死であっても診察・治療に携わる医師が居ない場合。

2 病死あるいは自然死であるかどうか不明の場合。

3 伝染病死、中毒死などの場合。

4 溺死、事故死、災害死、自殺などの非犯罪死の場合。

5 殺人、過失致死などの犯罪死あるいはその危惧がある場合。

尚 横浜市には ”監察医を置くべき地域を定める政令”により監察医が置かれております。

   今回は以上です。

現代の墓地事情

 今回は現代の墓地事情に付いて書かせて頂きました。

 お墓は 親から子へ、子から孫へと承継されて行くものと考えられて居りました。しかし 昭和時代後半からの 人口都市集中化や核家族化の進展により、”家”の概念が変化し、又 菩提寺と檀家の関係も希薄に成り、”家墓を護る”形が困難な時代と成りました。墓地は先祖より承継するものではなく、ご自分で墓地を取得する場合も 少子化の中で誰を承継者とするか 良く考慮しなければならない時代と成りました。

 1965年(昭和40年)頃より高まった 人口の大都市集中の流れは 核家族化を進めると共に、大都市圏での墓地需要を増大させました。その需要に応えて 公営霊園や民間の霊園開発が盛んに推し進められました。そして 地方の寺院墓地は過疎化の影響を受ける事となり、少子化の進捗とともに 墓地の無縁化を招き 承継の問題が生じて居ります。墓地の承継は 男子承継を原則として居りましたが、現在はこの様な運営規則も改められつつ有ります。墓地の永代使用権を購入する場合は 承継者を誰にするか決めた上で購入するのが基本でしたが、現代では 永代供養墓や樹木葬墓など 承継者が居られる方は勿論、承継者が居られなくとも安心して死後を託す事が出来る墓地を利用する時代と成りました。

 現代の墓地のトレンドと致しましては ”住墓近接” ”小規模・小区画” ”ガーデニング”等が人気です。墓参の容易さを考慮して ご自宅に近く 交通の便の良い場所で、それ程 高額でない 1㎡以下の狭小区画をご利用される方が多くなりました。又 芝生墓地やガーデニング墓地など 花や緑に包まれた モダン造りの霊園も好まれる様です。

   今回は以上です。

斎場と葬儀

 今回は斎場と葬儀に付いて書かせて頂きました。

 現在 横浜市が運営する火葬場は4ヶ所有り、緑区の北部斎場、西区の久保山斎場、戸塚区の戸塚斎場、金沢区の南部斎場です。それぞれ斎場と呼ばれて居りますが、斎場とは本来は神道の用語で、祭祀や儀式を行う場所を意味します。現代の日本に於いては 神道に拘らず、葬儀が行える施設を指す様に成りました。特に 公営の葬儀を行う施設には 斎場や聖苑の名称が用いられる様になって居ります。

 現在では葬儀の環境は従来に比較して、大きく変化しました。その中でも最大のものは 式場の場所です。 以前 葬儀は自宅で行う事が一般的でしたが、戦後の家の構造変化や車社会の発達などを基に、葬儀式場環境の快適化を求めて、自宅以外での葬儀施行の要望が高まり、多くの葬儀式場が建設される様になります。一つは葬儀社が経営する葬儀会館やホールであり、又 大都市に於ける寺院が経営する寺院会館です。更に 火葬場に葬儀式場を付設する要望も高まり、久保山斎場を除く3ヶ所の斎場では 葬儀式場が併設されて居ります。又 横浜市営斎場では 故人様が横浜市民であれば利用料は通夜・葬儀の2日間で5万円(北部斎場のみ8万円)と 非常に廉価で利用する事が可能です。但し 廉価がゆえに 斎場の予約が埋まり易く、葬儀を執り行えるまで数日待たなければならない場合も御座います。尚 神奈川区内の私営火葬場である 西寺尾火葬場にも 西寺尾斎場が併設されて居ります。

 尚 斎場には 葬儀式場だけでは無く、駐車設備、遺族控室、僧侶控室、会食室、仮眠設備なども整えられております。

   今回は以上です。

戦後の葬儀

 今回は第二次世界大戦終了後の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 昭和20年8月15日 第二次世界大戦は日本の降伏により終結します。その後の日本国内は 物資の不足とインフレにより社会生活は混乱の時期に入ります。葬儀を行う事も困難な時期が続きますが、昭和25年に始まった朝鮮戦争の特需により、日本の経済と社会は回復期に入ります。経済の回復と共に葬儀に対する関心も 以前の状態に戻り、各種の祭壇や葬具が整備され、各種の葬儀様式が生まれ、宮型霊柩車が全国的に普及し、そして ご火葬の普及率が急速に高まりました。

 葬儀に於ける戦後の大きな変化は 祭壇、棺、葬具などの標準化があります。多くの葬具が開発されると共に、その製品は全国的な標準化が図られてゆきます。それまでは各地域で その地域特有の葬具が利用されて居りましたが次第に姿を消してゆきました。それまでは大都市だけで使用されていた 複数壇飾りの祭壇も全国に普及して行き、祭壇を飾る道具も多数 開発されて葬儀=祭壇の図式が出来上がります。

 大正から戦前にかけて 大都市で使用されていた霊柩車が、戦後には全国に普及して行きます。霊柩車の普及とともに、各地で行われていた葬列は姿を消して行きます。更に その後の高度経済成長の波に乗り、宮型霊柩車がご遺体移送の手段として一般化して行きます。

 又 戦後に大きく変化した事柄としては 火葬率の変化があります。戦前の昭和15年に初めて50%(55.7%)を超えた火葬率は 戦後 各地方自治体による 火葬設備の新設、統廃合、改善・整備が進められ、急速に向上して行きました。昭和35年には63.1%、昭和40年 71.8%、昭和45年 79.2%、昭和50年 86.5%と火葬率は増え続け、現在では 特別な場合を除いてほぼ100%のご遺体が火葬される様になって居ります。

   今回は以上です。 

昭和時代の葬儀

 今回は昭和時代の葬儀、特に戦前の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 昭和時代に入ると ご遺体移送の手段としての霊柩車、特に宮型霊柩車が昭和2年には出来上がりました。又 告別式の登場と共に、従来は小机の上に具足を供えた程度の祭壇が、一壇から二壇、二壇から三壇と、徐々に増えて行き、最終的には 現在 使われている5壇の祭壇が生まれました。満州事変から第二次世界大戦へと進む中で、戦局の悪化とともに葬儀や告別式を行う事も出来なくなり終戦直前では 死者が出ても 納棺をして火葬場へ行くだけの葬儀となりました。

 昭和時代の初期に 現在の葬儀式場の原型が出来上がります。特に 東京、大阪、名古屋などの大都市に出現した告別式では 使用される祭壇が大きく変化しました。それまでの祭壇は 現在の枕飾り程度の祭壇と、その左右に生花、造花、供物などを配した簡素なものでしたが、この部分を前机として その後ろに複数の壇を配し、最終的には白木で5っの壇を組み上げた現在の祭壇の形が使用される様に成りました。又 当初はそれぞれの壇を白布で覆う単純な形でしたが、その内 高欄をつけた祭壇等も使用される様になります。そして 祭壇を飾る為の 六道などの新しい燭台や葬具が誕生しました。遺影写真が祭壇に飾られる様になったのも昭和初期からです。

 昭和10年前後までは 葬列を組む事も 細々と残って居りましたが、戦時体制に入るとこれも消えました。葬具の製造なども統制される様になり、葬儀・告別式の規模もより小さくなってゆきます。更に戦局が厳しくなると 霊柩車の燃料も不足する様になり、ご遺体の移送は人でによる事となります。戦争の最終局面では 葬儀の飾り付けも出来なくなり、故人様のご遺体は 納棺して火葬場にお送りするだけとして、ご葬儀を執り行う機会は消滅しました。

   今回は以上です。

大正時代の葬儀

 今回は大正時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 明治時代の葬儀の中心は 葬列に有りましたが、大正時代に入ると 市街地での埋葬や火葬が制限され始め、又 明治36年より走り始めた路面電車の走行に支障をきたす事などからも、徐々に葬列廃止の方向に進み、それに代わって告別式が登場して来ます。葬列が廃止されると共に、お柩の移送には霊柩車が使用される様に変化しました。

 大正時代に入ると 都市部で行われていた 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げるのは良くない”などの批判が出始め、新聞などのマスコミにも 都市部では葬列を廃する などの論調が顕著と成り始め、葬列廃止の方向が急激に進み始めます。そして 葬列に代わる葬儀の儀式として、告別式が 葬儀の中止となって行きました。日本で最初に告別式が行われたのは 明治34年に行われた 中江兆民の葬儀であったと言われて居ります。中江兆民自身が無宗教であった事から、教え子たちにより 宗教儀礼を行わず、告別式によるお見送りを執り行いました。この時代 地方では 葬儀の中心は ”野辺の送り”と言われた葬列でしたが、東京、大阪、名古屋などの大都市では 葬列に代わって霊柩車が使用され、儀式のメインは告別式と成りました。

 霊柩車が始めて使用された時期は諸説ありますが、明確な記録としては 大正6年に 大阪で葬列の要員派遣を生業としていた大手業者の 籠友が米国より輸入した霊柩車があります。大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より輸入して居ります。当時の米国の霊柩車は 彫刻がほどこされ、破風の付けられた派手な形の車でしたが、従来の輿にも似た形態から採用されたものと考えられます。大正10年前後には これらの輸入車に日本独自の装飾を施し、後部を輿仕立てにし、和風の唐草模様を施した 宮型霊柩車が登場しました。この形態が現在まで継承されて居ります。

   今回は以上です。

明治時代の葬儀Ⅱ

 今回は前回に続き明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 明治時代に入って変化した葬儀の形態としては 大掛りな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、に加えて 粗供養の大型化と葬列を演出する人夫の出現があります。

 葬儀の際に 近隣の人々や参列した方々に食事を振舞うという習慣は 江戸時代から全国的に普及して居りました、又 葬列が出発する際に 粗い目の花籠に駄菓子や小銭をいれ これを振って葬列を見送る子供達に振舞い 供養をする事なども行われ、これらの事を起源として、粗供養が行われる様に成ります。明治時代に入り 葬儀が大型化すると共に、会葬の方々に 菓子包み、饅頭、あるいは御弁当などを配る、今日の粗供養の原型が出来て来ました。この粗供養を目的に関係の無い人でも葬儀に参加したり、何回も並んだりなどが有り、葬家側も不足すると恥ずかしいと言う事から、大量に用意する様になり、粗供養の費用が 全体費用の中でも大きな比重を占める様に成りました。

 大掛りな葬列を組む為には その演出をする為の各種葬具が必要となり、葬具を運ぶ為の人夫も必要と成りました。これらの人夫は 数十人でのお手伝いから、大きな葬列では数千人の人夫を動員する事も有った様です。更に衣裳を揃えて人夫に着せる様にも成りました。

 ちなみに 明治18年2月7日に逝去した 三菱の創始者 岩崎弥太郎氏は 13日 神葬祭で葬儀が執り行われ、その葬列は 下谷茅町の岩崎邸から北豊島郡染井村まで組まれましたが、巡査、騎馬を先頭にして、雅楽の奏者、弔旗を持つ者、牡丹・芍薬・杜若等の造花と白梅・桃の花等の生花が300余、霊柩、喪主、親戚、社員一同が続いたと言われます。この日の会葬者は3万人。又 染井村の墓地の前面には仮小屋が設けられ、墓地の周囲6千坪の畑一面にむしろを二重に敷いて、会葬者に貴賤を問わず、西洋料理、日本料理を立食でもてなしたとあります。このとき 用意された料理・菓子は七万人分、葬儀の当日に雇った人員は7万人と言われます。

 この様な葬列の肥大化は 明治20年から30年頃までをピークとして、その後 葬儀の奢侈化が非難を浴びる様になって行きます。

   今回は以上です。

近世の火葬

 今回は前回に引き続き近世の火葬に付いて書かせて頂きました。

 明治時代に入ると 火葬は仏教の葬法であり 廃止すべきであるとの意見や、市街地に隣接する火葬場での臭気や煤煙の問題などにより、明治6年 火葬禁止令が発令されて土葬用墓地が準備されます。しかしながら その土葬用墓地は十分に用意する事が出来ず、都市部ではまもなく墓地用地が枯渇し始めます。並行して 火葬の利点を説いた”火葬便益論”や仏教徒からの建白書も相次ぎ、明治8年には禁止令は廃止されます。その後は 火葬率は急速に高まり、現代では 特別な例を除いてほぼ100%の火葬率となって居ります。

 明治8年 政府は火葬禁止令を徹回すると共に、火葬場の設立許可条件を定めました。これによると、場所は市街地から離れる事、煤煙が人の健康を害さない様 煙突を高くする事、火葬場と墓地は分離する事等が示されて居ります。これを受けて、京都市は 市街地にある寺院墓地での土葬を禁止します。又 東京市でも 明治24年には市街地での土葬が禁止されました。

 当時の火葬場の運営規則によれば 火葬は夜の8時から10時まで、拾骨は翌日の午前8時から午後3時までと定められて居りました。現在の様に昼間に火葬をして同日拾骨となるのは 昭和2年に東京の町屋火葬場が重油の火葬炉を導入して以降の事と成ります。

 火葬が大きく推進されたのは 明治30年の伝染病予防法制定以降です。同法では法定伝染病の患者のご遺体は原則火葬と定められました。以後 埋葬が容易で大きく土地を必要としない事からも火葬率は高まり、昭和15年には火葬率が55.7%と過半数をこえる様に成ります。

 日本に於いて 中世の火葬場は常設の設備では無く、毎回 設備を設営する事から始めなければならず、火葬場での荼毘は貴族や上級武士階級だけが行える、高額な葬法でした。庶民は通常 土葬でしたが、火葬の場合は野焼きにて行われました。江戸時代に入ると 寺院内に炉が設けられて火葬設備が常設される様になりますが、薪を使用した火葬の為 火力が弱く、ご火葬時間もそれなりに掛りました。又 火葬炉は露出しており、火葬時の煙や臭いは 周囲住民を苦しませたことと考えられます。明治時代に入り 公衆衛生の理由から 火葬場は厳しく管理される様になり、施設の近代化が進めます。日本で最初に造られた、火葬炉を建物の中に納めた近代的火葬場は 浄土真宗の東・西本願寺により建設された”両本願寺火葬場(明治11年、現在の京都市中央斎場)です。

   今回は以上です。

神葬祭と墓地

 今回は明治時代に入り推奨された神葬祭と墓地に付いて書かせて頂きました。

 明治時代に入り維新政府は 国家神道を前提として、その葬儀も神葬祭により行う事を推奨します。その為 神葬祭の為の墓地を東京市内に設けました。しかしながら 官弊や国弊の神社の宮司が葬祭に携わることは禁じた為、神葬祭は必ずしも大きな広がりを見せる事は有りませんでした。寺請制度と言う法的な根拠は失われましたが、地域の習俗と一体化した檀家制度は根強く民衆の中に生き続け、仏式の葬儀は現代に至るまで民衆の支持を受け続けました。

 明治5年(1872年)には自葬禁止が布告されます。自葬とは僧侶や神職によらず、自身で行う葬儀ですが、この布告により、葬儀を行うに当たっては 一切 神職・僧侶に依頼しなければならなくなります。これまでは 神職は葬祭儀礼に携わらない事が建前でしたが、以降 神職は自由に氏子の葬儀を営む事が出来る様になり、神葬祭を営む庶民が増えて行きました。しかしながら 当時の墓地は 寺院に属したものが基本であり、神葬祭の墓地は有りませんでした。その為 神葬祭の為の墓地として、東京市営の墓地が開設されました。青山墓地、谷中墓地、染井墓地がそれにあたります。明治6年には キリシタン禁制の高札が撤去され、明治8年には ”信教の自由”が布告されてキリスト教も公認されました。共に市営墓地の使用も神葬祭に限定されなくなります。

 その後 神葬祭の営みにも変化が起きます、明治政府は神社は宗教ではないとの国家神道の考えから、明治15年 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に関与する事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県管理下の神社の宮司のみと限定しました。神葬祭は明治・大正・昭和前期と政府の推奨を受けますが、同時に政府の家制度 強化政策の下で、仏教寺院の檀家制度も強い基盤を維持する事なりました。

   今回は以上です。

神仏分離

 今回は神仏分離令に付いて書かせて頂きました。

 明治元年(1868年) 明治維新政府は神仏判然令(神仏分離令)を布告します。これは 江戸幕府が事実上の国教としていた仏教に代わって、神道を国教とするものでした。明治維新は 江戸時代後期以降の儒教や国学を その活動の精神的支柱として居り、復古神道に伴うものであったからです。明治政府の神仏分離政策は 必ずしも仏教を排斥するものでは有りませんでしたが、結果としては廃仏棄却運動がおこされてしまう事と成りました。

 神仏分離とは 神仏習合の習慣を止める事で、神道と仏教、神と仏、神社と寺院をはっきりと区別させる事で、明治政府が布告した具体的内容は 神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神道の神に仏具を供えることや御神体に仏像を使用する事を禁じ、神社に奉仕していた僧侶には還俗(げんぞく)を命じました。これは 維新政府に影響を及ぼした 平田派国学者が 神道国教化の為には神仏習合を禁止する必要があるとした為でした。この布告を基に 地方の神職や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持っていた民衆は廃仏棄却に走る事と成ります。中世後期以降 民衆宗教として定着し、江戸幕府の下 寺請制度により 事実上の国教として優遇されて来た仏教は、革命的 政治体制の変革により、大迫害を受ける事と成りました。

 神仏分離令が布告されると共に、神職の家族にも神葬祭を行うことが許可されます。更には 明治3年以降 続々と神葬祭を申請する動きが始まり、神職家族のみならず、一般民衆にも許可される様に成りました。神道の神葬祭を行うと言うことは 寺院の檀家を止める事でもあり、その様な情勢の中で、明治4年には 戸籍法が制定され、正式に寺請制度の法的根拠が廃絶される事と成りました。

  今回は以上です。  

日本古来の宗教 神道

 今回は日本古来の宗教である神道に付いて書かせて頂きました。

 神道は古代日本に起源をたどる事ができる宗教で、日本の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤として、確定した教祖や創始者は居らず、森羅万象に神が宿ると考えて、祭祀を重んじ、浄明正直(浄く、明るく、正しく、直く)を徳目として居ります。神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、それが神道として体系化されたのは鎌倉時代中期以降であり、神道の体系や儀礼を作り上げる事に大きく貢献したのは 吉田兼倶(1434-1511年)で、以降 吉田神道は理論化を進め、1700年頃(江戸時代)に完成したと言われて居ります。

 吉田兼倶は 密教や陰陽道(おにようどう)を取り込み 神道の体系化を行い、日本の神道は儒教や仏教の宗主であり、万法の根底である、と理論付けました。

惣村に於ける寺壇関係の進捗により、地方においては 仏教の影響力が強まり、神道の地位は低下して行きます。又 室町時代後期に入ると 神仏融合によって建立された、神社内の真言宗や天台宗の寺院である神宮寺や別当寺は宗派を離れ、修験道の手に移って行きました。吉田神道は こうした神社、神宮寺、別当寺などを支配下に置き、神道を宗教として完成させます。

 江戸時代に入り 幕府の民衆支配の方策として採用された寺請制度(檀家制度)が始まると、神職と言えども 壇那寺に所属しなければならず、神道は埋没しますが、幕府や主要大藩の行政に儒教家が係わる様になると、民衆からの寺院に対する寄進や布施は 行政府に納める税と対立する事となり、儒教家は仏教批判を強め、水戸藩や土佐藩では仏式ではなく、儒教式の葬儀が行われる様に成ります。同時に 神社側も 神葬祭が行える様 幕府に働きかけます。長い働きかけの決果、1785年になり 神職当人、及びその嫡男に限り、仏門を離れて、神葬祭を行う事が許されました。とは言え 江戸時代は 準国教である仏教の下で、神道は祈り続けられる事と成ります。

 明治に入り 新政府は 江戸幕府の考えを全て廃除する為、準国教であった仏教を否定して、神道を国教として、皇室神道を作り上げました。

   今回は以上です。

江戸時代の葬儀(寺請制度)

 今回は江戸時代の葬儀(寺請制度)に付いて書かせて頂きました。

 室町時代から江戸時代初期にかけて、民衆の間では寺壇関係の確立が進み、葬祭・仏事は仏式で行われる事が主流となって来ましたが、1665年 江戸幕府が各藩に発令した寺請制度により、全ての人が何れかの寺院の檀家とならればならず、日本に於ける葬祭は全て仏式で行われる事と成りました。又 寺請制度下では個人単位での登録は許されず、家単位での入信が必要となりました。寺請制度の発令により、仏教は日本の準国教と成りました。

 寺請制度は 江戸幕府が宗教統制の一手段として設けた制度で、寺請証文を受ける事を民衆に義務付け、キリシタンでないこと寺院に証明させる制度です。この寺請制度を前提として地域毎に定められた寺院に対し 宗旨人別帳(宗門改帳)の作成を法令化しました。

 宗旨人別帳とは 壇家毎に 全員の名前、年齢、続柄、家畜、持ち高などを記された人別帳で、キリシタンでない事を 壇那寺が証明するもので、村の構成員全員に課せられました。寺が 檀家単位で邪宗(キリスト教他)の信徒でない事を証明するので 寺請制度と呼ばれました。この制度により 従来 自然発生的に生まれた 寺壇制度が法的に制度化される事と成り、全ての国民が 家単位で何れかの寺院の檀家と成らなければならなく成りました。

 この寺請制度により 当時としては 世界最大規模(約3000万人)の人口調査が可能となり、民衆は特定の寺院の檀家となる事により 戸籍を持つ事にも成りました。以降 庶民は 結婚、旅行、移転、奉公に際しては 村役人の発行する 送り状、請け状、手形の他に 寺院が発行する 送り状、請け状、手形も必要と成りました。出生、死亡の際も壇那寺への届け出が必要でした。

 江戸時代に記された ”宗門檀那請合之掟”によれば 檀家の義務は以下の通りです。

1 4月8日の釈迦の降誕会(こうたんえ)、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会(ねはんえ)、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りする事。

2 説教や仏法を説く寺院の集会に参加すること。

3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。

4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。

 以上の事からも この時代に 葬祭仏教化が強く推進されました。

   今回は以上です。

江戸時代の葬儀

 今回は江戸時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 江戸時代の葬儀の大きな特徴は 17世紀後半に制定された寺請制度に有ります。寺請制度は キリシタン禁制を目的とすると共に、庶民の戸籍事務を寺院に取り扱わせた制度で、全ての人が何れかの寺院に登録しなければならず、寺壇制度の確立に寄与する事となりました。死者が出た場合、旦那寺の僧侶は 檀家であった者の死相を見届け、引導を渡し、然るべき役所に届け出なければ成りませんでした。従いまして 全ての日本人は仏式で葬儀を行うこととなります。

 江戸時代 人が亡くなりましたら ご遺体をむしろの上に移し、逆さ屏風を立て、枕元に小机を置き、樒(しきみ)と香を供えて、旦那寺に死亡の知らせ告げます。死の知らせを受けた寺院は検僧を派遣して死者が変死でない事を確認した上で葬儀の手配りを行いました。変死の疑いがある場合は その筋の証書が無ければ葬儀を行う事が出来ませんでした。故人様の死が確認された後に枕経があげられ、ご遺体を沐浴・剃髪させ、白衣を着せて納棺しました。棺は 裕福な家では寝棺が使用されましたが、一般的には早桶と呼ばれる桶が使用されました。棺の中には 故人様の衣服・調度・六文銭などが納められました。葬儀は 故人様が亡くなって後 一昼夜が過ぎてから行われ、出棺に当っては 門火を燃やし葬列を見送りました。

 江戸時代 葬列の規模は 武家の場合、格式身分により定められて居りましたが、通常の行列よりも一壇上位の列を組む事が出来ました。従い 通常は 徒・率馬・対箱・先道具などを用いる事が出来ない身分でも、葬儀の場合に限り、徒をたて、馬をひかせ、対箱を持たせ、棺前に槍を立たせる事も出来ました。但し 高張提灯は 武士のみ使用が許され、庶民が使用する事は許されませんでした。

 武家の葬列では 喪主・会葬者の侍は麻の裃(かみしも)を着用し、棺かき・中間・小者などの者は 白丁(白布で作られた法披のようなもの)を着用し、槍・刀の鞘・率馬・長柄傘などには白い布をかけて寺院に向かいました。武家の婦人の葬列では 柩の脇に白小袖に白い布を被った婦人が付添いました。

 町人・百姓の葬列では 位牌・香炉持ちと 喪主・会葬者は羽織袴を着用し一刀を帯びました。喪主は編笠をかぶり、喪主・会葬者で刀を帯びる者は 刀の柄を白紙で包み、これを紙縒りで結んで留めました。

 寺院での葬礼が終りますと ご遺体は埋葬されました。この時代 浄土真宗では火葬を推奨して居りましたが、それ以外の宗派では土葬が一般的でした。当時 江戸には 北の小塚原、南の鈴が森、東の中川の 三カ所に 火葬場が在りました。

   今回は以上です。

中世の葬儀

 今回は室町、安土桃山、江戸時代初期の葬儀事情に付いて書かせて頂きました。

 室町時代 天皇家の葬儀は鎌倉時代に続いて火葬により行われ、ご遺骨は寺院に納め、陵墓には卒塔婆を立て、樹木を植えて墓標としました。後光厳天皇(1374年崩御)は崩御された後に 京都市東山区の東山泉涌寺(とうざん せんにゅうじ)に埋葬され、以降 同寺は江戸時代末まで皇室の菩提寺として歴代の天皇が埋葬されました。一方 庶民の遺体は惣村により決められた墓地に埋葬、或いは置かれるのが一般的でした。しかし 江戸時代に入ると、大百姓は没落し民衆は本百姓として自立して行きます。本百姓には一家と言う考え方が生まれ始め、一家一寺の関係が生まれ、祖先崇拝が強まり、一家の墓が建てられる様になります。

 江戸時代初頭 それまで惣村を支配していた大百姓が没落すると、村は 平均的な本百姓により構成される様になります。そして 大百姓の庇護の下にあった寺院や道場は その保護者を地域共同体に変化させて、村惣堂や惣道場へと転換しました。

 江戸時代初期(17世紀前半)は 一家の構成員全員が家を単位として寺の檀家となる 一家一寺の状態では無く、夫と妻がそれぞれ 別の寺院に属する事もしばしばでした。これが 17世紀後半に入りますと 幕府による寺請制度の推進と、自立した農民が多数 形成された事により、一家一寺の制度が確立します。一家は 菩提寺の経済基盤を支えると共に、葬祭 仏事を寺院に委託する関係が出来上がって行きます。

 それまで 庶民が自前の墓を持つ事は有りませんでしたが、寺院と檀家の関係が確立して来ると、次第に 石碑を備えた自分達の墓を持つ様になって行きます。その墓は 家の確立と深く関係し、家の根拠であり、又 象徴として建てられることと成りました。それに伴い それまでの抽象的な祖先崇拝は 具体的な 家の先祖崇拝へと変化して行きました。

   今回は以上です。

室町時代の葬儀Ⅲ

 今回は室町時代の農村に於ける葬儀事情に付いて書かせて頂きました。

 日本の社会は 成立以来 農業を中心として営まれて居りました。この農業社会は平安時代 荘園公領制を基に営まれて居り、荘園・公領内の農民は荘官や領主の下で 各々の農地に隣接して居住しており、その住居は散在して居りました。それが室町時代に入ると変質し始め、農民は 水利配分、水路・道路の補修、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛等を目的として地縁的な結合を深めて行き、住居は耕地から離れて 住宅が集合する村落が形成されて行きます。この様な村落を その範囲内に住む惣て(すべて)の人により構成された事から、惣 あるいは惣村(そうそん)と呼ばれました。この惣村が大きくなり、財政的にも豊かになると、寺院を支えてゆく事が可能となり、その寺院が惣村の葬祭を司る様になります。こうして 惣村の農民(檀家)により寺院(壇那寺)が維持され、寺院は農民の葬祭 仏事を司る、寺壇関係が成立して行きました。

 惣村の発展と仏教各宗派の地方進出が合まって、日本各地に寺や道場が作られて行き、仏教の民衆化が図られて行きます。庶民に葬祭を広く推し進めたには浄土宗でしたが、他にも 禅宗(特に曹洞宗)、真言宗(密教)、日蓮宗、浄土真宗(一向宗)、天台宗などが民衆に布教を勧め、その際には葬祭を中心とする事が多く、葬祭仏教化がこの時代に一段と進みます。

 民衆の葬祭が仏教を中心として進められると共に、それぞれの土地が持っていた民俗とも融合して行きました。同じ仏教の葬儀であっても、その作法は 宗派の違いだけでは無く、地域によっても相違することとなりました。

 室町時代以降 仏式の葬儀が主流となり、貴族や武士階級では葬法として火葬が進みましたが、民衆の葬法としたは土葬が中心でした。これは 火葬の設備が多くはなく、又 費用も高額となる為と考えられます。従いまして 近世に至るまで 浄土真宗を除いては火葬が推進される事は有りませんでした。

   今回は以上です。

室町時代の葬儀Ⅱ

 今回も前回に引き続き室町時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 この時代の仏式の葬儀は 禅宗の規範を基に行われ始めました。以前の葬儀は火葬場での儀式が主要なものでしたが、この時代になると寺院、自宅や火葬場の前などに お柩を安置するお堂が建てられる様になり、そのお堂に於いても儀式が行われる様に成ります。このお堂を龕(棺そのもの、あるいは 柩を納める容器を示す)のお堂として、龕堂 あるいは龕前堂と呼ばれました。この龕堂で行われる儀式が その後 発展して、現在の葬儀式になったと考えられて居ります。

 当時の禅宗の葬儀では まず ご遺体を湯灌し、剃髪をして、清浄な着物に着換えさせ、棺(龕)に納めて、柩の上を袈裟で覆いました。そして 柩の前に小卓を置き、それに白打敷をかけて、卓上に花、香炉、燭台の三具足を並べ、更に故人様が愛用した道具などを並べました。これが 現在の枕飾りであり、葬儀式場祭壇の原型となりました。柩(龕)前の用意が整いますと、一同が集まり仏事が行われました。僧侶が法語を唱え、焼香をし、茶湯を献じ、読経、回向と続きました。尚 龕堂の周り、あるいは 柩を安置した部屋の周りには 白幕が張り巡らされました。又 柩の蓋を閉じた後に 掛真(かしん)の儀式が行われました。これは 故人様の肖像画をお堂内の須弥壇に飾る事で、現在の遺影写真を思い起させます。

 火葬の当日には まず出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、その後 葬列を組んで火葬場に向かいます。そして 仏事を行い荼毘に付します。ご遺族は翌朝 火葬場に赴き拾骨して、ご遺骨を自宅あるいは寺院に安置して 安位仏事を行いました。禅宗では 本来 龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と ご遺体に対して所作を行ったり、ご遺体を移動させたりする毎に仏事が行われましたが、その後 次第に簡略化されて、現在では 自宅と火屋(火葬場)での仏事のみと成りました。

   今回は以上です。

室町時代の葬儀

 今回は室町時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 現代の仏式の葬儀は 浄土真宗系を除いて 故人様に戒律を授ける授戒や引導を中心として行われます。この儀礼の原型は禅宗(曹洞宗)より始まったと言われ、鎌倉・室町時代に作り上げられました。インドを起源とする仏教の葬儀は 当初 火葬の際に”無常経”を上げる程度の簡単なお見送りでしたが、その後中国に伝わり、儒教の影響を受けて葬送儀礼が整えられ、そおいう中で12世紀初頭に禅宗の慈覚大師により”禅苑清規”として規範にまとめあげられました。

 禅宗の葬儀は 出家である僧侶の葬儀の作法を定めた”尊宿喪儀法”と、修行の途中で亡くなった僧の葬儀の作法を定めた”亡僧喪儀法”の二つに分かれます。尊宿喪儀法は 亡くなった僧と その弟子たちに弔意を表すことが中心で、亡僧喪儀法は 志 半ばで死に臨む僧侶の心を思い計り 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心であったとされます。この亡僧喪儀法に 浄土教や密教の影響を受けて念仏や往生祈願などを加えられ、更に発展して武士や在家の葬法 壇信徒喪儀法となりました。

 在家の葬法は 亡僧喪儀法を基にして 発展・制度化したものですから、その内容は 故人様にお経を読んで仏の悟り得させ、僧になる証の剃髪を行い、戒名を授けます。そして 引導を渡して成仏させるのです。これを 死後の僧侶とすることから 没後作僧 と呼ばれます。現在の仏式葬儀の原型は鎌倉・室町時代に ここから生まれたと言えます。

   今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀Ⅱ

 今回は前回に続き鎌倉時代の葬儀Ⅱ(ご火葬以降)に付いて書かせて頂きました。

 現代の葬儀の作法は禅宗の葬儀作法を基にしているとされます。禅宗の作法全般を著わした書物としては 1103年に中国で編集された”禅苑清規”があります。この中には僧侶の葬儀作法も示されて居り、この葬法を基に日本の文化を融合して現在の葬儀作法が創られました。又 この当時は 葬儀の後に 魚・鳥などを放して故人様の冥福を祈る習慣がありました。同様の習慣はヒンズー教の中でもみられます。尚 三回忌や十三回忌の法要はこの時代から営まれる様になりました。

 火葬場に定められた場所には 荒垣をめぐらし、入口に鳥居をたて、中に小屋を建てて、その中で火葬を行いました。柩は御車に載せられて運ばれ、火葬場に到着すると 導師の下 儀礼が行われ、その後に柩は小屋に移されて火葬が始められます。ご火葬中は近親者や僧侶により真言が誦されました。火葬が終ると 湯をかけて火を消し、灰を水で流します。そして お骨を拾いますが、近親者が箸で骨をはさんで次々と渡して行き、最後の人が瓶に入れます。全てのお骨を瓶に入れ終ると その上に土砂を加えて 蓋をし、白の革袋で包みました。

 ご遺骨は 召使が首にかけて運び、決められた三昧堂に納められます。御堂の仏壇の下に穴を掘り、その中に納骨して上を石で覆い、それを石灰で塗り固めました。そして 参列者は 帰宅する前に藁で作った人形で手祓いをします。

 現代の葬儀は出棺前の儀礼が中心となって居りますが、この時代は 山頭念誦と呼ばれる 火葬場での仏事が中心でした。火葬場で奠湯(てんとう)・奠茶(てんちゃ)が行われ、読経もされました。

又 金銭による香奠はこの時代の武士階級により始まったとされ、家督相続者が位牌を持つ習慣もこの時代からと言われます。

   今回は以上です。 

恵心僧都源信

 今回は恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)に付いて書かせて頂きました。

 平安時代中期の天台宗の僧 源信は 恵心僧都と尊称され、二十五三昧会立ち上げの中心人物になると共に、往生要集を著わして、浄土教の基礎を創り上げました。往生要集には 地獄・極楽の観念や、厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)の精神が示され、貴族・庶民に広く普及し、後の法然上人や親鸞聖人だけではなく、後の文学思想などのも大きな影響を与えました。又 本書は 中国の天台山国清寺に伝えられ、唐末五代の混乱によって散逸した教法を 中国の地で復活させる機縁ともなりました。

 恵心僧都源信(942年-1017年)は 大和国(奈良県)北葛城郡当麻に生まれ、950年9歳で 比叡山天台宗の慈恵大師良源に入門し、955年14歳で得度します。15歳で村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれます。その後 名利の道を捨てて、比叡山延暦寺横川兜率谷の恵心院に隠棲して、念仏三昧の求道の道に入ります。985年3月 往生要集を脱稿します。そして 1017年 76歳で示寂、臨終の際には 阿弥陀如来像の右手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したとされます。

 往生要集は 浄土教の観点から、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、一部三巻からなります。死後に極楽往生するには 一心に仏を想い念仏をあげる以外に方法はない と説かれます。その内容は;

-巻上

  -大文第一 厭離穢土 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・・人間・天人の六道を説く。

  -大文第二 欣求浄土 極楽浄土に生まれる十楽を説く。

  -大文第三 極楽証拠 極楽往生の証拠を書く。

  -大文第四 正修念仏 浄土往生の道を明らかにする。

-巻中

  -大文第五 助念方法 念仏修行の方法論。

  -大文第六 別時念仏 臨終の念仏を説く。

-巻下

  -大文第七 念仏利益 念仏を唱えることによる功徳。

  -大文第八 念仏証拠 念仏を唱えることによる善業。

  -大文第九 往生諸行 念仏の包容性。

  -大文第十 問答料簡 何よりも勝れているにが念仏であると説く。

念仏による浄土信仰に関する百科全書とも言えます。

 平安時代には 浄土教は 地方へ、庶民へと入って行き、庶民の葬祭は浄土宗の手により行われる様になって行きます。

   今回は以上です。 

浄土教

 今回は浄土教に付いて書かせて頂きました。

 浄土教とは 阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し成仏する事を説く思想で、宗旨・宗派を超越した信仰で浄土信仰、あるいは阿弥陀信仰とも呼ばれ、日本では平安時代中期より 民間信仰的思想として大きく広がりました。

 浄土教の思想は紀元100年頃にインドで編纂された”無量寿経”と”阿弥陀経”をもとにして成立した思想で、特に宗派として成立したわけでは有りません。その後2世紀後半に中国に伝えられ、838年に遣唐使の一員として渡海した円仁が中国五台山で法照流の五会念仏を学び、帰国後 比叡山に常行三昧堂を建立し、天台浄土教を発祥しました。

 986年には 慶滋保胤(よししげ やすたね)と 恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)が中心となって、比叡山の僧25名による ”二十五三昧会”なる集団が結成されます。毎月十五日には皆で集まって念仏三昧をし、臨終にある仲間には皆で助けて念仏させ、極楽往生できるようとする、浄土教の結社でした。同志に病人が出ると皆で看病し、病が重くなると往生院という建物に移し、励まし合って死に臨んでいる者の心が乱れないよにし、滅するとご遺体に光明真言をもって土砂加持を行い、三日の内に墓所に塔婆一基を建てて葬る。同志の葬式には必ず出席し、四十九日までは七日ごとに集まって念仏を修する、とあります。この臨終行事としての念仏が現在の枕経の原型であると言われます。

又 臨終に際しては 西方を向いた阿弥陀仏の前に病人を寝かせ、仏の右手に五色の糸をつけ、その糸の反対側を病人の左手に結んで 念仏を数十遍唱えながら寝入る様に滅すると極楽往生まちがえなし、と言われました。この臨終の作法が現在の臨終作法と言われます。この臨終作法が定着する事により、阿弥陀仏への帰依が重要となり、葬送儀礼に於ける阿弥陀仏信仰が決定的なものとなりました。

   今回は以上です。

民間仏教と葬儀

 今回は平安時代に於ける仏教の民間への広がりと葬儀に付いて書かせて頂きました。

 本来 仏教の僧侶になる為には 教団の承認を得て、得度と呼ばれる出家の儀式を受ければ、誰でも僧侶となれるのが基本ですが、奈良時代には僧侶の人数を制限する為、得度は国家の許可制となって居りました(官度)。国の許可を得ずに出家することは 私度として禁じられて居り、民間への布教も大きく制限されて居りました。しかし 行基や空也などの 私度僧が多く現れ、民間仏教が盛んになって行くと、その宗教指導者は 菩薩 あるいは 聖(ひじり)と呼ばれて民衆から慕われる様になります。こうした 民間仏教の広まりは 仏教の民衆化を押し進めると共に、民衆の葬儀の仏教化を進めることにもなりました。

 仏教の僧侶になる為には 教団の10名の先達の承認を受けて、戒律を護る事を誓えば誰でもなれるものでしたが、中国や日本では 労働、納税、兵役が免除されていた為、僧侶になる者が続出し、国の存立を犯しかねない事態を憂慮して、年度や地域ごとに僧侶の人数を制限する為 得度を国の許可制としました。

 奈良時代に 民間仏教の先達として頂点に立つのが 行基(668年-749年)です。行基は 河内国大鳥郡(大阪府堺市)に生まれ、法相宗の僧侶となり、朝廷が禁じた民衆への仏教布教の禁を破り 民衆や豪族など階層を問わずに仏法の教えを説き、朝廷からの弾圧を受けながらも 逆境を跳ね返し 多くの社会活動を成し遂げて 民衆の圧倒的支持を受けました。その後には 朝廷も認めて 日本で最初の大僧正となります。続日本紀 には 行基集団が ”死魂を妖祇す” と記されて居り、死者の弔いに従事していた事を窺わせます。又 行基の弟子集団である志阿弥(行基の法弟、架空の人物)は 火葬を行い、墓地を開創したと言われ、後に 葬送の俗聖である三昧聖として諸国に伝承したと伝えられます。

   今回は以上です。

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