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葬儀横浜 ご遺体の保全

 今回は葬儀横浜 ご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 人は 呼吸が止まり、心臓が停止して血液の循環が停止すると、生命活動を継続する事が困難となり、その肉体は腐敗を始めます。ご遺体を ご火葬 あるいは埋葬するまでの間、ご遺体が変貌しない様 保全する為には然るべき処置を施す必要が御座います。現代に於ける ご遺体の保全処置と致しましては 清拭、湯灌、ドライアイスの適用、エンバーミング、などの処置方法が御座います。古くは 塩漬け、氷漬けなどの方法も有りましたが、現代での適用例はほとんど無くなりました。

 清拭とは 医療・介護現場で使用される用語で 身体を拭き清める事ですが、葬儀に於いては ご遺体を拭き清める事を言います。ご遺体を 消毒用アルコール、又は 防腐性薬液などで拭き清め、目や口を閉じ、鼻・耳・口・肛門に脱脂綿を詰めて体液に漏出を防ぎ、髭を剃り、髪を整え、爪を切り、着衣を整えます。病院などでは エンジェルケアーとも呼ばれて居ります。

 湯灌とは 古くからある ご遺族がご遺体を湯で清める風習で、ご遺族が故人様のご遺体に直接触れて その死を確認する、大切な儀礼でもありました。古くは ご自宅の風呂、お寺の湯灌場、などを使用して行われて居りましたが、現代では ご自宅の風呂場にそれなりの広さが必要となる事、お寺に湯灌場が無くなった事、ご遺体の温度が上がる為 腐敗を促進させる危険性が有る事、などから 清拭を終えた後は 湯灌を営む事は少なく成りました。

 ドライアイスの適用とは ご遺体を低温度に維持して腐敗を遅らせる為に行います。低温度を維持し、昇華する際に水分を出しませんので、利用される様に成りました。通常は 10Kgが1回分で、24時間を目安に交換しますが、ご遺体の状況やその時の気温により、使用量は変化します。

 エンバーミングとは ご遺体の現状維持をより永い時間ご希望される場合に施す処置で、ご遺体を土葬する場合や 海外に移送しなければならない場合、に適用されます。その処置は 専門の施設内でご遺体の血液を抜き、血液の代りに防腐剤を注入する事により、ご遺体を長期間 保全する事が可能となります。この処置方法が開発された米国での費用は 3~4万円/1体ですが、日本では20万円~100万円(処置内容による)ほどの費用が必要と成ります。

   今回は以上です 

葬儀横浜 枕経

 今回は葬儀横浜 枕経に付いて書かせて頂きました。

 ご家族の方に 万一の事が起こった場合、まずはご遺体を安置しなければ成りません。仏式でのご葬儀を前提としますと、ご遺体は然るべきお部屋に北枕で安置し、神棚をお備えの場合は その前面を白紙で覆います。そして ご遺体の枕元 もしくは胸元に守り刀を置き、ご遺体の周りを屏風を逆さにして立てます。そして ご遺体の枕元に枕飾りを備えてご慰霊を弔いましたら、壇那寺のご住職にお願いして枕経を読経して頂きます。

 枕経とは 死に逝く人が不安にならぬ様、案内として枕元で死をみとりながらお経をあげる のが本来の姿でしたが、現代では 死後に最初に営む儀式となりました。死者に初めて経を聞かせる という考え方、仏壇の内仏 あるいは本尊に向かって読経する との考え方、宗派により考え方は異なります。現代に於きましては 多くのケースが病院で死をお迎えになります。病院内での読経は慎まなければ成りませんので、ご遺体がご自宅に帰宅された後に枕経を読む形となりました。但し 宗派によっては枕経を営まない場合も御座います。

 お身内の方が亡くなられましたら、なるべく早い機会に壇那寺にその旨を連絡し、僧侶に臨席を頂いて 枕飾りの前で読経して頂きます。檀那寺が遠方の場合は ご住職より紹介を頂いて、近くの僧侶にお願いすると良いでしょう。枕経をあげて頂く際の服装は 喪服である必要は無く、通常の服装を整えて臨席すれば良いとされます。

 枕経の後に 葬儀の次第 その他を僧侶と相談します。既に戒名(法名、法号)をいただいている場合は その旨を伝え、戒名を新たに頂く場合は 故人様の人柄などをお話して、参考として頂きます。尚 最近では 枕経を通夜の席であげて頂くケースも多くなりました。

   今回は以上です。  

葬儀横浜 ご遺体の安置Ⅱ

 今回は葬儀横浜 ご遺体の安置Ⅱに付いて書かせて頂きました。

 ご家族の方に 万一の事が起こった場合、まずはご遺体を安置しなければ成りません。仏式のご葬儀を前提としますと、ご遺体は然るべきお部屋に北枕で安置し、神棚をお備えの場合は その前面を白紙で覆います。そして ご遺体の枕元 もしくは胸元に守り刀を置き、ご遺体の周りを屏風を逆さにして立てます。そして ご遺体の枕元に枕飾りを備えてご慰霊を弔い、四華を供え、玄関に忌中札を掲げて、納棺 通夜式を待つのが本来の形となります。

 枕飾りは 通夜式までの間 故人様の霊を弔う為の仮祭壇ですが、ご遺体の枕元に白木の小机を備え、その上に三具足を備えます。香炉を中央に、ご遺体に向かって右側に燭台を、左側に花立てを、右前に鈴を配します。燭台には白の一本ローソクを立てて灯明を灯し、香炉には線香を立てます。花立てには 一本樒(しきみ)を立てるのが仕来りですが、樒を手当てするのが困難な場合は 代わりに白菊を一輪立てます。更に お供え物として 浄水、枕団子(三方に白紙を敷いて6個の団子をのせたもの)、枕飯(故人様愛用の茶碗に山盛りの飯を盛り、箸を一本立てた一膳飯)、故人様が生前好まれた食べ物などです。枕団子や枕飯などの食物をお供えするのは ご遺体から遊離した霊魂を 食事を呼び水として呼び戻して蘇生させる、魂呼びの為とも言われます。尚 浄土真宗では 枕団子や枕飯はお供えしせず、花立ても使用しないで、線香は立てずに横にねかして香を点てます。

灯明や線香の火は消してはならない とされますが、現代では火災予防の観点から、灯明の火は 線香に火を点ける時のみに灯す事をお薦めします。

 四華花とは 葬具の一つで、白紙を細長く切り、横に細かい刻み目を入れて、竹棒に巻き付けたものです。これは 釈迦が涅槃に入られた時 釈尊の入滅を悲しんだ 沙羅双樹の林が白変して、そのご遺体を覆ったとの故事に由来します。

 忌中札とは 死穢を他の人々に及ぼさぬ様 ご遺族が死の穢れに染まっている事を告知する為、忌中と書いた札を玄関に掲げたものです。忌中の間は掲げ続けます。

 現代の横浜では 四華花や忌中札が使用される事は少なく成りました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の見積書

 今回は葬儀横浜 葬儀の見積書に付いて書かせて頂きました。

 お身内の方が亡くなられた場合 時を置かずにご葬儀を営まなければ成りませんが、故人様の想い ご遺族想い そして 関連する必要な情報を葬儀社の担当者より入手し、その全てをを基ににして基本方針をお決め頂きましたら、その内容に従って 葬儀社に見積書の提出を依頼し、最終的な精査を行います。見積書の内訳には 葬儀社の作業項目だけでは無く、式場の費用、人数により変化する接待の費用、も含めて記載されているのがベストです。そして 宗教家への布施(謝礼)を加えたものが、葬儀の総費用となります。

 見積書を受領されましたら、まず その内容が喪主様(施主様)の考えた想い、基本方針に沿ったものであるかの確認します。明細の内容で不明な点が有れば、忌憚無く問い合せて、見積書の内容を明確に理解します。明細の説明は 必要に応じ 口頭での説明や 写真・絵などによる受け、通夜式・葬儀式のイメージを作り上げてきださい。尚 人数により変化する費用に付いては 通夜式、葬儀式・告別式、お斎の席への会葬・出席人数により変化しますので、その時点での費用額を理解して於き、最終金額の確定は 葬儀の全てが終了した後となります。

 見積書の内容確認項目を箇条書きすると;

1 葬儀全体がイメージ出来る事。

2 葬儀社の費用が セット方式であった場合は セットに含まれているものの明細を確認します。

3 セット以外の項目と その費用単価、合価を確認します。

4 見積内容の他に どの様な物品、サービスが提供出来るのか、その費用と共に確認して於きます。

5 現金で用意しておかなければ成らない費目と金額、必要日時を確認します。

以上に加えて 宗教家関連の費用を含めた総額概要がご予算の範囲内である事を確認して、見積書に対する 申込書を発行し葬儀社との契約が成立します。申込書の案は 葬儀社で用意してくれますが、申込書には 喪主様(施主様)の自筆による 住所・氏名の署名と捺印が必要と成ります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の基本方針

 今回は葬儀横浜 葬儀の基本方針に付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀を営むに当たりましては 喪主様(施主様)により 葬儀の基本方針をお決め頂かなければ成りません。近親の方を亡くされ、精神的にも厳しい状態の中での判断と成りますが、ご自分で全てをお考え頂く必要は無く、葬儀社の担当者に全ての情報を提供して貰い、その中で取捨選択頂くのが良い方法です。選択に当たりましては ご家族や近親者の方のご意見も参考にします。基本方針とは 宗教、方式、式場、日程、予算、告知、接待、設営、その他、をお決め頂く事です。

 葬儀をどの宗教で営むかは 故人様が信仰されていた宗教・宗派が最優先となりますが、特に無い場合は お家の檀那寺、或いは無宗教での葬儀も選択の一つとなります。一般的には檀那寺に葬儀の導師を依頼しますがするのが、壇那寺が遠方の場合には檀那寺より紹介を受けた僧侶に依頼します。宗教・宗派に心積りはあるが 依頼先の心当りが無い場合には 葬儀社に紹介を依頼して紹介して貰う事も可能です。

 葬儀の方式とは 個人葬か社葬・団体葬この選択ですが、会社や団体などとの関わりをどうするか、身内だけの密葬とするか、その後に 本葬や偲ぶ会を営むか等をお決め頂きます。

 式場は 連絡先の数を基にした会葬者の予想人数、葬儀の方式、ご事情、等を考慮して ご自宅、寺院(教会)、横浜市営斎場、私営斎場、などの中から選択頂きます。

 葬儀の日程は 宗教家の都合、ご家族の都合、火葬場の都合、式場の都合を合わせ検討してお決め頂く事に成りますが、宗教家(葬儀社に紹介依頼の場合は別)、ご家族の都合は喪主様が、火葬場・式場の都合は葬儀社担当者が、情報を収集して合わせた上で喪主様にお決め頂きます。社葬・団体葬の場合は 施主様(葬儀委員長)が関連情報を全て集めて 喪主様と相談のうえお決め頂きます。

 葬儀の予算は 宗教家の費用、人数により変動する接待の費用、式場の費用、葬儀社の費用、そして 香奠を受取るか如何か、を加味してお決め頂く事と成ります。

 その他としては 社会への告知の範囲と方法、通夜振舞い 火葬中の待ち時間に於ける接待 精進落とし 供養品 香奠返し など 会葬者への接待方法と数量、式場設営への希望、礼状の用意、受付・案内・接待の要員の依頼先、その他 葬儀全体への希望事項、などとなります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀への想い

今回は葬儀横浜 葬儀への想いに付いて書かせて頂きました。

 ご家族の方が亡くなられ、時を置かずして故人様のお見送りを段度らなければ成らない事は、容易な事では有りません。以前であれば 町内会の幹事や団地の管理組合など近隣の方々、或いは親族の中の然るべき方が その地域 もしくは一族古来の仕来りに従い段取りを決め、ご遺族はそれらの方の指示に従って葬儀に臨むのが一般的で有りましたが、現代の核家族化が進んだ都市社会に於いては 慣れないご遺族が その段取りを行わなければ成りません。ご遺族が然るべき葬儀社の担当者と段取りを造り上げるのが一般的となりました。

 その様な現代に於きましては 葬儀社の担当者にまず最初にお話頂く事は ご遺族様の故人様に対する想いであり、故人様をお見送りする葬儀に対する想いです。故人様がどの様な人となりの方であったのか、故人様はご家族をどの様に思っていたのか、葬儀に対して故人様が言い残した事は、故人様に対するご遺族様の想いはどうであるのか、などを忌憚無くお話ください。葬儀の担当者は その様なお話の中から、葬儀のプランを具体化させてゆく事が出来ます。又 想いを語ることにより、ご遺族様が故人様のご逝去から受けた精神的な衝撃や お心の傷を少なからず癒す事にも繋がります。

 ご葬儀の式次第すべては 喪主様(若しくは施主様)がお決め頂かなければ成りません。とは言え ご遺族様からすれば 葬儀の経験がそれ程無いのが一般的です。従いまして ご遺族様は 全ての想いを語り、忌憚の無い質疑の中から より多くの選択肢を葬儀担当者から提示して貰い、その一つ一つを選択して葬儀次第を作り上げて頂く事が、御心に副うお見送り、ご葬儀を営む事に繋がります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀社との打合せ

 今回は葬儀横浜 葬儀社との打合せに付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀を営むに当たりましては まずご葬儀の基本方針をお決め頂く必要が御座います。以前は 町内会や団地の管理組合に然るべき方が居られて、その方のお決め頂く基本方針に基ずいて、ご遺族・ご親族の方々はご葬儀を営む形が一般的でしたが、現代の日本に於きましては その様な連帯も希薄となり、ご遺族・近親の方々、場合によりましてはご遺族だけで次第をお決め頂く事もしばしばです。その様な際には 必要に応じて経験豊富な葬儀担当者にご希望を伝え、葬儀次第の提案を受けるのも一つ方法と成ります。葬儀社との面談には 御一人だけで対応する必要は無く、然るべき近親の方の同席や、僧侶 司祭(牧師) 神官などの宗教家に同席して貰い、葬儀をより良い形にお纏め頂くのも良いでしょう。又 面談の際には 葬送儀礼へのご希望を忌憚なくお話し頂き、疑問な点が有れば どの様な内容でも忌憚なく問い合せて 明らかにしておく事をお薦め致します。

 まず最初に 葬儀の喪主様をお決め頂く必要が御座います。一般に 喪主と施主は 葬儀を主宰する人として 同じように用いられますが、厳密には異なります。喪主は 葬儀全体の総責任者ですが、施主とは 布施をする人を語源として、葬儀の金銭面を負担し、運営の責任を司どる方を言います。古くは 戸主が亡くなり、跡継ぎとなる長男が幼少である場合、親族の長老が後見人として葬儀運営の責任を負いました。この様な場合 長男が喪主、長老の方が施主として葬儀を営み、喪主は名目的な責任者、施主が実質的な責任者となりました。現代でも 社葬などの場合 ご遺族が喪主となり、会社の社長が施主(葬儀委員長)となって葬儀が営まれて居ります。

 喪主をどなたが受けるかが問題となる場合も御座いますが、一般的には ご家族の何方かが亡くなられた場合は戸主が、戸主が亡くなられた場合には 戸主が指名していた方(祭祀権承継者)、指名が無い場合は ご長男(ご長女) もしくは配偶者の方が喪主を務めます。尚 喪主は原則として1名ですが、現代では複数名で務めるケースも御座います。

   今回は以上です。  

葬儀横浜 葬儀社への連絡

 今回は葬儀横浜 葬儀社への連絡に付いて書かせて頂きました。

 ご家族の方がご臨終を迎えられたましたら その後を託す葬儀社にご連絡頂く必要が御座います。葬儀社をお決め頂いている場合はその葬儀社へ、突然の事で未定の場合は ネット検索等により葬儀社に問い合せて 然るべき葬儀社をお決め頂き、精神的な動揺の中では有りますが、以下のの内容を葬儀社の担当に伝えます。

 まずは 連絡している方のお名前、故人様との関係、連絡先(電話番号)を伝えます。連絡をされる方が ご家族である必要は御座いません。

 次に 故人様のお名前、年齢、性別を伝えます。お名前の漢字もお伝え下さい。

 そして 亡くなられた場所、ご遺体の現在の安置場所を伝えます。これは 亡くなられた場所と ご遺体の安置場所が同一でない事も御座いますので。

 更に 現在のご遺体の安置場所の住所と電話番号を伝えます。病院であれば その名称と住所、電話番号、病室か霊安室かなど、ご自宅の場合は 住所と電話番号です。ご遺体の搬送が 病院指定の業者により行われる場合には その旨を伝えます。

 ご遺体の搬送先が決まっている場合は その名前、住所、電話番号を伝えます。まだ決めていない場合には 葬儀担当者の来訪を待って、相談の上お決め頂いても構いません。

 必要であれば 亡くなった状況も伝えます。病死あるいは自然死か、事故死などか、死亡診断書 あるいは死体検案書が交付されて居るか、などです。

 ご遺体の状況も伝えます。解剖を行うかどうかなどです。これは ご遺体をそのままお運びするか、柩を用意してお運びするか、の判断をしなければ成らない為です。

尚 以上の多くの事が まだ 決められて居ない場合は 葬儀担当者の来訪を待って面談の後にお決め頂いても問題御座いません。

   今回は以上です。

葬儀横浜 ご遺体の安置

 今回は葬儀横浜 ご遺体の安置に付いて書かせて頂きました。

 ご家族の方に 万一の事が起こった場合、まずはご遺体を安置しなければ成りません。仏式のご葬儀を前提としますと、ご遺体は然るべきお部屋に北枕で安置し、神棚をお備えの場合は その前面を白紙で覆います。そして ご遺体の枕元 もしくは胸元に守り刀を置き、ご遺体の周りを屏風を逆さにして立てます。更に ご遺体の枕元に枕飾りを備え、四華を供え、玄関に忌中札を掲げて、納棺 通夜式を待つのが本来の形となります。

 神棚をお備えの御家庭では ご逝去された後、忌明けまでの間 神棚の前面を白紙で覆います。これは 神道は穢れを避ける事から 死穢(しえ)が神棚の中に及ばぬ様にする為です。この作業は 忌み(いみ)がかかっていない ご家族以外の 他人にお願いして行います。尚 仏壇は 扉を開けておくのが基本となります。

 ご遺体の枕元やご遺体の上に 守り刀 もしくは刃物を置く習慣が御座います。これは 魔除けや、死霊に対する鎮魂の為、故人様の霊が持ち去られる事を防ぐ為、死霊を封じ込める為、など その地域 宗派により言い伝えは異なります。又 古くは 武士のご遺体の枕元にその持刀を置いたことの名残りであるとも言われます。

 枕飾りとは ご遺体の枕元に備える仮祭壇の事を言います。白木の台 若しくは白布で覆った小机を用いてその上をお飾り(荘厳とも言う)します。祭壇には 三具足(香炉、灯明、花立て)と鈴を具えて、ご遺体が安置されている間の故人様の供養に供されます。

   今回は以上です。

葬儀横浜 ご遺体の清拭

 今回は葬儀横浜 ご遺体の清拭(せいしき)に付いて書かせて頂きました。

 近親の方がご臨終を迎えられましたら、立会われた全ての方の手により 故人様に”末期の水”を捧げます。その後 担当してくれた看護師の手で ご遺体を消毒し、体液のもれを防止する処置を行い、着衣を整え、女性であれば 簡単な化粧を施して、ご遺体を整えます。この行為を 清拭(せいしき)、或いはエンジェル・ケアーと呼ばれます。

 臨終の直後に死者の口に捧げる水を ”末期の水”(まつごのみず) あるいは ”死水”(しにみず)と言います。末期の水は 古くより日本に伝わる 民俗的儀礼で 元来は死者の蘇生を願って営む儀礼でした。現代では 故人様の臨終を見守った方々による 別れを告げる大切な儀式とも成りました。その作法は 地域により異なりますが、一般的には;

1 水を注いだ陶器の容器を用意し、割り箸の先に綿を巻き付け、その綿に水を含ませて、故人様の唇を潤します。

2 前記と同様ですが、割り箸の代りに、新し筆を使用して唇を潤します。

3 茶碗の水に 樒(しきみ)の葉や 鳥の羽 脱脂綿を浮かせ、それで故人様の唇を潤す。

などです。

 故人様が病院で亡くなられた場合 看護師の手により清拭(エンジェル・ケアー)が行われます。ご遺体の表面をアルコールで消毒し、鼻、尻などの部位に脱脂綿を詰めて体液が漏れない様に処置し、女性などの場合は簡単な化粧を施して、新しい浴衣などに着替えさせます。ご希望する着替えをお持ちの場合は 事前に用意して置いて、清拭の際に着替えさせて貰います。納棺の際に着替えをさせようとすると、死後硬直の為 困難となる場合も御座いますので。この 清拭は 病院により 有償、無償、処置しないなど様々ですので、ご確認頂く事をお薦め致します。ご自宅で ご臨終された場合でも、担当医師が死亡の判定をした後に 同行した看護師の手で処置してくれるケースも御座います。

   今回は以上です。

葬儀横浜 臨終後の手続き

 今回は葬儀横浜 臨終後の手続きについて書かせて頂きました。

 近親の方がご逝去された場合、そのご臨終の確定は 臨終に立会った担当医師による死亡診断書(事故の場合は死体検案書)の交付によって成されます。従いまして 死亡診断書が交付された後に ご遺体の移送につき手配をします。その後には 死亡診断書の左側にある死亡届に必要事項を記載・署名・捺印をして ご逝去後 7日以内に該当の市区町村役所に届け出ます。死亡届の提出と共に 死体火埋葬許可申請を提出し、死体火埋葬許可証を受領します。この許可証により ご遺体の火葬が可能となります。

 死亡届の提出に当たりましては;

1 死亡の届け出は 届け出義務者が死亡の事実を知った日より7日以内に行わなければ成りません。但し 国外で死亡された場合には 死亡の事実を知った日より3ヶ月以内と成ります。

2 死亡届の届け出義務者とは 順に ①同居の親族 ②その他の同居者 ③非同居の親族 ④家主。地主もしくは 家屋 土地の管理人 ⑤市区町村 となって居ります。

3 死亡の届け出は 故人の本籍地、届け出人の居住地、故人がご逝去した土地、の市区町村役所に行います。

4 死亡地が明らかで無い場合はご遺体が発見された地で、汽車その他の交通機関の中で亡くなられた場合はご遺体を交通機関から降ろした地で、航海日詩を備えない船舶の中で亡くなられた場合は船舶が最初に寄港した地で、届を出します。

死亡届の提出は代行する事が出来ますが、その場合には届け出人の印鑑を持参する必要が有ります。尚 死亡届の受付は24時間行われて居ります。

 死亡届を市区町村役所に提出し 受理された後に、火葬 埋葬の許可申請を行います。死亡届を受理した役所では申請に対し 許可証を発行します。この許可証により 日本全国 何れの火葬場でも ご遺体の火葬が可能となります。但し 伝染病の患者を除いて、死後24時間以内には火葬、埋葬する事は出来ません。そして 火葬が終了した後に 火葬場より埋葬許可証が発行されます。埋葬許可証は 納骨の際に必要となる大切な書類ですので、お骨壺と共に保管して置くと良いでしょう。

   今回は以上です。

葬儀横浜 ご遺体の取扱い

 今回は葬儀横浜 ご遺体の取扱いに付いて書かせて頂きました。

 ご家族が亡くなられ ご遺体を取り扱う際には 敬意を持って接するのは勿論ですが、公衆衛生上の観点もご注意頂く必要が御座います。ご遺族には 担当医師よりご逝去の死因と感染症の有無及び可能性が伝えられますので、ご遺体に接する際には 担当医師の指示に従って対応しなければ成りません。又 死後のお別れをされる方々にも同様の注意を伝える必要が御座います。

 ご遺体に接する際に注意すべき事は ご遺体からの病気の感染です。ご遺体からの感染の可能性に付いては 個人情報の守秘義務から、ご遺族の方にのみ担当医師から伝えられます。ご遺族の方は その内容を ご遺体に接する方々の伝えなければ成りません。但し 感染症ではあっても ご遺体からは伝染しないものも有り、それは以下の感染症です;

 肺炎、ハンセン氏病、髄膜炎菌感染症、破傷風、菌血症、敗血症、A型肝炎、成人性T細胞白血病、狂犬病、クラミジア感染症、梅毒、ウイル病、真菌感染症。

 ご遺体に接する際に注意を要する感染症としては;

 MRSA、C型肝炎、リケッチア感染症、結核、B型肝炎、エイズ、クロイトフェルト・ヤコブ病、その他があります。

 感染症のご遺体に接する場合には;

ー接する際に 使い捨てのマスクと、使い捨てのゴム手袋を着用します。

ー手など露出した部分に傷が有る場合には 接する事を控えます。

ーご遺体とお別れした後には うがいをし、流水で良く手を洗い、消毒アルコールで消毒します。

法定伝染病などの危険なご遺体の場合には 担当医師のご指示に従ってご遺体に接し、故人様が使用していた着衣、その他の物も、指示の通りに処分しなければ成りません。

   今回は以上です。  

葬儀横浜 死体検案書

 今回は葬儀横浜 死体検案書に付いて書かせて頂きました。

 死体検案書とは 死者の死因が継続的に担当医師により診療中の病気を原因としていない場合に 監察医 若しくは警察が指定する医師により発行される、死亡を証明する為の書類です。掛り付けの医師を持たない場合の自然死、各種の事故死の場合は 死者のご遺体は警察官の検視を受け、その上で警察署が指定する医師の検案、必要に応じて 司法解剖・行政解剖が行われ、死因を特定し、その上で 担当医師により 死体検案書が発行されます。ただし 死亡診断書と異なり歯科医師は死体検案書を発行する事は出来ません。

 ご家族が亡くなられた場合 病死あるいは自然死以外の異常遺体、あるいは犯罪の疑いのあるご遺体の場合には 警察に届け出て、警察官の検視を受け、監察医若しくは警察が指定する嘱託医の検案を受けて、死体検案書の発行を待ちます。警察による検死、監察医による検案が必要となるケースは以下の通りです;

1 病死あるいは自然死であっても、生前に診療・治療をしていた医師がいない場合。

2 病死あるいは自然死であるかどうか不明な場合。

3 伝染病死、中毒死などの場合。

4 溺死、事故死、災害死、自殺などの非犯罪死の場合。

5 殺人、過失致死などの犯罪死 あるいはその危惧が有る場合。

 監察医とは 死体解剖保存法の規定にもとずき、その地域の県知事が任命する、ご遺体の死因を特定する為に 検案や行政解剖を行う医師の事です。監察医制度が導入されている都市は現在 東京23区、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市の5都市です。横浜市内では 中区と金沢区の2ヶ所に監察医が常駐して居り、市内 各警察署の依頼に基ずいて、検案 解剖を行って居ります。尚 横浜市内で 検案・解剖を受けなけなければ成らない場合は 状況に応じて 2万円から8万円の範囲でご遺族が費用を負担する必要が御座います。加えて ご遺体の搬送費用も必要と成ります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 死亡診断書

 今回は葬儀横浜 死亡診断書に付いて書かせて頂きました。

 死亡診断書とは 継続的に診療を担当していた患者が診療中の原因により死亡した場合に 担当医師により発行される診断書です。死亡診断書は 加療を担当していた医師、歯科医師のみが発行可能となります。死亡診断書には 氏名、性別、生年月日、死亡したとき、死亡したところ、死亡の原因、その他、の内容が記載されます。そして 診断書の発行年月日と医師の住所が記載され 署名・捺印がされます。尚 全て医師の自書で記載された場合には捺印は不要となります。

 死亡診断書の様式は A3サイズの用紙の右側に死亡診断書、左側に死亡届を記載する形となって居ります。これは 戸籍法の指定により 死亡届には やむお得ない事由を除き、死亡診断書を添付しなければならないと義務付けられて居るからです。

 通常の病死 あるいは老衰死などの自然死である事が明らかな場合には 診療・治療を担当していた医師が死亡診断書を発行します。突然の自然死や 永らく医師にかかっていないで死亡した場合には 病死 あるいは自然死であっても、医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この様な場合には 警察に通報し 警察官の検視を受けだ上で、警察が指定する監察医 もしくは嘱託医による検案を受けなければ成りません。これは 仮に自然死であっても、診察・治療を担当していない医師には死因が明確に判断出来ない事、そして 自然死以外の可能性がないかを調べる為です。

   今回は以上です。

葬儀横浜 脳死

 今回は葬儀横浜 脳死に付いて書かせて頂きました。

 脳死とは 人の脳幹を含めた脳すべての機能が不可逆的に回復不可能な段階まで低下して回復不能と認められた状態のことをですが、国により 脳死の定義と、脳死を個体死とするか如何かは 判断が異なります。日本では 脳死を個体死とする旨の明記は法律上はされて居りません。死の三徴候の内 瞳孔は開いているが、呼吸と心拍は停止していない状態をさします。

 20世紀始めより死の判定は ”死の三徴候”を基に成されて居りましたが、その後 医療技術の発展に伴い 人口呼吸器が開発され、自発呼吸が不可逆的に停止しても、人工的に 呼吸と心臓の拍動が維持出来る様に成りました。その結果 創出されたのが ”脳死”の概念です。人口呼吸器の使用により、呼吸と心拍の停止より先に 脳の全ての機能が不可逆的に停止する状態が発生する様になりましたが、これを脳死の状態と呼びます。脳死に陥ると生命は蘇生する事は無く、脳死状態が何時までの固定化される事はありません。脳死後 1日から1週間の間で心停止に至るとされます。

 この脳死状態に臓器移植の問題がからむことにより、脳死をもって 人の死とするか、あくまでも 心停止をもって人の死とするか、の議論が提起されました。昔は 息を引取り、体温が低下し、身体が硬直し、という死のプロセスを判断して死を受入れて来ましたが、近代に入り 死の三徴候が死の判定基準となり、更には 脳死の概念が出来、脳死状態を前提とした臓器移植の是非が議論される事となりました。そして 現代では 本人 及び家族の同意を前提として、脳死状態での臓器提供が可能な状況と成りました。

   今回は以上です。 

葬儀横浜 死の判定

 今回は葬儀横浜 死の判定に付いて書かせて頂きました。

 死とは 生命体がその生命活動を停止した事を指しますが、人間の死の定義に関しては 古くより様々な判定基準が存在しました。その判定基準は それぞれの地域の文化や習慣に根ざして居り、呼吸が停止した時は一般的ですが、爪や髪の伸びが止まった時、ご遺体の腐敗が始まった時、などもありました。現代の日本に於きましては 医師による三徴候の確認を基にして発行された死亡診断書の発行と、死亡届の受理により確定します。

 日本に於ける人の死は 法律上 医師により死亡診断書(死体検案書)の発行により確定し、市区町村役所への死亡届提出、受理により公的な身分が消滅します。医師による死亡の判定は ”死の三徴候”の確認により行いますが、それは 自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔の拡散、の三点です。医師は この三点の不可逆的停止を確認して死の判定を行います。そして 一般には呼吸が停止した時刻、あるいは 心拍が停止した時刻をもって死亡時刻とし、その時刻が死亡診断書に書き入れられ 正式な死亡時刻となります。

 以上が ”心停止”と言われる死の判定法で、法律上も確定しているものです。しかし 法律上の死である 心停止以降も 特定の臓器や細胞は生きている状態を継続させ、全体として その死は緩やかに進捗します。死の基準の中に 不可逆的停止とあるのは いったん自発呼吸が停止しても 直後の人口呼吸などにより呼吸が再開されたり、強心剤の投与により停止した心臓が動き出したりする事もあり、一時的な機能停止は必ずしも絶対的ではないからです。しかしながら 心臓が停止すると身体の各臓器への血液供給が不可能となり、これが一定時間以上続くと蘇生の可能性は無くなります。 

 尚 日本に於ける 墓地、埋葬に関する法律(墓埋法)では 伝染病患者の死を除いては 死後24時間以内の火葬や埋葬を禁じて居り、これは 万一にも生者埋葬を避ける為の規則です。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の檀家制度

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の檀家制度に付いて書かせて頂きました。

 葬儀の儀礼は 信仰されている宗教の下で営まれるのが基本であり、日本に於きましては 江戸時代を頂点として仏式で営まれるのが一般的でありました。現代に於きましても 日本で営まれる葬儀の90%は仏式です。しかしながら ご葬家と寺院との関係は従来とは異なり大きく変化して居り、それに伴うお墓の事情も過去とは異なる事となって参りました。

 第二次世界大戦終了後に於ける民法の改正により、日本の家制度は大きく変わりましたが、更に70年を経て 核家族化と少子高齢化は その影響をより大きなものとしました。寺院と信徒をつなぐ檀家制度は 非常に弱い結び付きとなり、仏教葬の割合が90%を超えてるのも係わらず 人々の寺院離れは進み、特に 横浜などの大都市部では 葬儀の儀式だけの為に仏教寺院に頼る形となりました。又 ご遺族が必ずしも仏教に帰依していない事から 戒名やそれに伴う戒名料への批判も出始めて居ります。近年では 宗教に拘らない 無宗教葬、お別れの会、故人様を偲ぶ会、更には 儀礼は営まずにご火葬のみを行う直葬などがみられる様になりました。こうした変化の中で 寺院側もご葬家の意向に合わせた改革が行なわれ始めました。

 又 お墓の事情も変化の最中に有ります。昭和35年(1960年)以降 人口の大都市集中、核家族化が始まりました。それに伴い 大都市部でのお墓の需要が増大し、公営墓地だけでは無く 民間の霊苑開発も盛んに行われる様になります。そして 地方の寺院墓地は 過疎化の影響を受ける様に成り、大都市と地方の霊苑事情は対照的な事情となり、現在に至りました。明治時代末期の”家墓”形態は 核家族化、少子化が進捗する中で、寺院墓地での無縁化を招き、新たな墓地承継の問題が生じました。男子承継を原則とした 墓地運用規則も見直さなければ成りませんでした。特に都市部では 結婚した子女が承継した場合の”両家墓”、家名の代りに文字を刻んだ墓石、承継を前提としない永代供養墓、有期限墓地、集合墓、などご葬家の多様な事情に合せて霊苑、墓地、墓石が登場して居ります。更には 環境を考慮した樹木葬、納骨堂、散骨など 少子高齢化が進捗する中で 墓地の事情も変化を続けて居ります。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の葬儀事情

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の葬儀事情に付いて書かせて頂きました。

 現代では 葬儀という言葉に対する忌避感がほとんど無くなりました。以前では 自身の事ですら 葬儀を語る言葉は禁句と考えられて居りましたが、人口の核家族化と高齢化とが進捗する中で、葬儀を営む母体は 地域共同体から個人へと変化し、ご自分自身が ご自分の葬儀をどの様に営んで欲しいのか、何方にに喪主・施主をお願いするのか、決めねばならない時代と成りました。ご自身の死はどの様に迎えたいのか、檀家制度も弱体化した中で葬儀を宗教葬で営むのか、無宗教葬とするのかも考えなければ成りますん。

 時代が昭和から平成に入ると、従来の定形化した葬儀から 個人の希望をより多く取り入れた葬儀の個性化と呼ばれる考えが世の中に広がります。マスコミによる葬儀に関する報道や葬儀社の広告が増え、社会の葬儀に対するタブー意識が急速に薄れ、葬儀業者への事前相談や各種終活セミナーなどへの参加も一般的な事と成りました。又 従来の地域共同体意識が希薄となり、葬儀運営の主体が経験値の高い地域共同体主導から 未経験が一般的な各御家庭主体へと変化する中で、経験値を持つ葬儀業者のアドバイスと御家庭の希望を合わせた形で、現代の葬儀は営まれる様に成りました。

 昨今では 死の自己決定権 が議論される様に成りました。日本人にとり過去の永い歴史と文化から 死を語る事はタブーとされて居りました。特に第二次世界大戦を身近に経験した人々には 死は悲惨な経験でもありました。その後 時代の進捗と共にタブー観が薄れ、人々の死は自宅ではなく 医療施設で迎える様に成ります。そして 医療技術の発展と共に 過度な延命処置、治療に対し、各種の意見が述べられる様になり、”死に方”は 医師に決定権があるのではなく 患者本人に決定権があるべきである、とする 死の自己決定権 が主張される様になります。その結果 現代では 医療情報の本人への開示、医療方法の本人同意(インフォームド・コンセント)が当たり前の状態となり、緩和ケア―を含めた 尊厳死の在り方も 患者の意思を尊重する医療へと変化しました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の火葬

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の火葬に付いて書かせて頂きました。

 日本に於いて火葬が始まった時期が何時かは 必ずしも明確では有りません。現状では 長崎県大村市の 竹松遺跡(弥生時代後期 2世紀頃)で発掘された、火葬による埋葬とみられる人骨が最古ですが、その前にも火葬が行われていたかもしれません。しかしながら 日本に於いて 火葬が普及したのは 仏教の伝来以降であり、これは 仏教の開祖である釈迦のご遺体は火葬された事に因みます。

 日本に於いて 仏教の伝来以降 火葬する習慣が普及したと言われますが、具体的な火葬率は 室町時代以降明治30年前後に至るまで30%前後で推移したと考えられます。その火葬率は 徐々に高まり、昭和15年で55.7%と過半数を超え、更に 第二次世界大戦終戦以降は 昭和40年71.8%、昭和50年86.5%、昭和60年94.5%、と増え続け、現代では 外国人と特定宗教を信仰している方を除くと、火葬率は100% 世界一の高水準となって居ります。

 古くは 火葬を営む費用の高さや、発生する煙 臭気などが障害となって居りましたが、現代では 火葬場らしくない 近代的施設として、無煙化 無臭化 緑地化が図られ、地域住民の嫌悪感を忌避する為に 名称を斎場や斎苑と変える所が多くなりました。又 火葬場の運営母体は 東京、沖縄、横浜などを除いて地方自治体が主となりました。

 葬儀の流れの中で火葬がどの位置を占めるかは その地域により異なります。東京、横浜、関西、その他の地域では 葬儀・告別式の後に火葬を営むのが一般的ですが、北海道の一部(函館、根室)、東北地方全域、茨城、千葉北部、栃木の一部、新潟の一部、長野 山梨の一部、静岡北部、鳥取の一部、沖縄の一部、その他の地域では ご遺体を火葬した後に 葬儀・告別式を営みます。これは 古くからの習慣と言うよりは、火葬を導入するに当たり 土葬の代りに火葬を行うと考えた地域と、葬儀の最大イベントが墓地への納骨にあると考えた地域の違いではないかと考えます。

 ご火葬終了後の拾骨の方法は 日本列島を静岡県中部と能登半島を結ぶ線で東部と西部に分けると、東部では全骨拾骨、西部では部分骨拾骨が一般的です。当然の事ながらお骨壺の大きさも異なる事と成ります。尚 広島や山口の一部地域、四国や九州の一部地域では全骨拾骨を行っております。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 第二次世界大戦が終戦を迎え、その後の混乱期を乗り越えると、葬儀も落ち着いて営まれる様に成りました。その葬儀からは 葬列が組まれることがほとんど無くなり、通夜 葬儀式 告別式を2日間で営む形が一般的となり、更には 核家族に伴い 家族・親戚が度々集まる事の困難さから初七日(神式では十日蔡)もこの2日間の間で営み、そして 次の主要な儀礼は四十九日法要(神式では五十日蔡)が現代の主流となりました。

 戦後 全国的に葬列を組む葬儀は姿を消す様に成り、告別式を中心とする葬儀に移行して行きます。それと同時に 核家族化の進捗に伴う 家族 親戚 や関係者の地域拡散も進み、葬儀に参列する関係者の便宜を考え、必要とされる式典(通夜、葬儀、告別)を2日以内に納められる様、葬儀式 告別式の同時進行、総時間 1時間以内などが共通認識と成る様になります。更には 初七日法要も ご火葬の後に営む形態となります。日程の短縮により 葬儀式と告別式の同時進行型葬儀が増え、その日の内に初七日法要、精進落としを終えて、各地のご自宅にお帰り頂ける様、会葬者に負担頂く迷惑を最小限に抑える形が一般化しました。

 又 多忙な社会生活をおくる現代の人々は 通夜と告別式の両方に参列する事が難しくなり、どちらか 一方に参列する形態が理解を得る様になりました。会葬者は 昼間 会社を休んで参列する告別式を避けて、通夜に参列する形態が現代の葬儀となって居ります。本来 通夜は家族、親族が故人様との最後お別れをする場でしたが、現代の通夜では一般の弔問客も多く参列される事から、通夜式でも 祭壇を設けて 葬儀・告別式と同様の形で式を営み、弔問客への応接も必要となって居ります。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・昭和中期後期の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・昭和中期後期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 昭和20年(1945年)8月15日 第二次世界大戦は日本の降伏により終結します。その後の日本国内は 物資の不足とインフレにより社会生活は混乱の極みとなります。葬儀を行う事も困難な時期が続きますが、昭和25年に始まった朝鮮戦争(昭和28年に休戦協定、現在に至)の特需により、日本の経済と社会は回復期に入り、経済の回復と共に葬儀に対する関心も 以前の状態に戻り、各種の祭壇や葬具が整備され、現代の葬儀様式が生まれ、宮型霊柩車が全国的に普及し、そして ご火葬の普及率が急速に高まりました。

 葬儀に於ける戦後の大きな変化は 祭壇、棺、葬具などの標準化があります。多くの葬具が開発されると共に、その製品は全国的に標準化が図られてゆきます。それまでは各地域で その地域特有の葬具が利用されて居りましたが次第に姿を消してゆきました。それまでは大都市だけで使用されていた 複数壇飾りの祭壇も全国に普及して行き、祭壇を飾る道具も多数 開発されて葬儀=祭壇の図式が出来上がります。

 大正から昭和初期(戦時下前まで)までにかけて 大都市で使用されていた霊柩車が、戦後には全国に普及して行きます。霊柩車の普及とともに、各地で行われていた葬列は姿を消して行きます。更に その後の高度経済成長の波に乗り、宮型霊柩車がご遺体移送の手段として一般化して行きます。

 又 戦後に大きく変化した事柄としては 火葬率の変化があります。戦前の昭和15年に初めて50%(55.7%)を超えた火葬率は 戦後 各地方自治体による 火葬設備の新設、統廃合、改善・整備が進められると共に、伝染病対策、墓地面積の不足、などが合いまって 急速に向上して行きました。昭和35年には63.1%、昭和40年 71.8%、昭和45年 79.2%、昭和50年 86.5%と火葬率は増え続け、現在では 特別な場合を除いてほぼ100%のご遺体が火葬される様になって居ります。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・祭壇

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・祭壇に付いて書かせて頂きました。

 祭壇とは 神 精霊 死者などに供え物や犠牲を捧げる為の檀を言います。日本に於いて葬儀に於ける祭壇は 仏教伝来以降 葬儀の仏式化が進むと共に、ご遺体(柩)の前に小机を備え、その上に祭祀の為の葬具と故人様への供物をお供えする形が一般的と成りました。そして 大正時代 葬儀の主体が葬列から告別式へと変化すると、小机に加えて 柩の周囲を装飾する大型の祭壇が登場して来ます。この形態が現代の葬儀式場の装飾へと受け継がれました。

 大都市に於いて 告別式が登場した事により、葬儀式場内で大きく変化したのが祭壇でした。それまで 葬送の為の祭壇といえば 現代の枕飾り程度のもので、仏具を備えた小机を置き、その左右に生花、造花、供物を配しただけの単純なものでした。告別式では 従来の祭壇は前机となり、その後ろに二段、三段、更には五段ともなる段を複数備えた祭壇が生まれ、その中心にお柩が安置されました。

始めは 段を組み合わせ、その上を白布で覆った形の単純な形態でしたが、その内 高欄を付けたような複雑な祭壇も登場する様になりました。

この時期に 六道(本来は葬列の為の道具)などの新しい燈台 その他、現在の祭壇道具の原型となるものが作られました。それらの葬具を製作する為の専門職人が生まれ、製作所も誕生します。昭和の初期には遺影写真が祭壇に飾れる様になります。

 昭和時代に入ってもこの状態が継続されましたが 昭和10年頃よりは戦時体制が始まりはじめ、昭和15年(1940年)には戦時下となります。昭和17年には 葬儀も国家統制の対象となり、戦局の悪化と共に ガソリンが不足し霊柩車も運用出来なく成り、各種葬具の製作も困難となり、更に 空襲下では 葬儀式や告別式を営むどころではなくなり、死者が出ても 火葬場にご遺体を運ぶだけで精一杯の状態が終戦まで続きます。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・霊柩車

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは 葬儀に於いて ご遺体を移送する為に用いる自動車を言います。日本の法令に於いては霊柩自動車と表現されます。その起源は 英国の霊柩馬車にあるとされます。大正時代 社会環境の変化と共に 大掛りな葬列が減少し、それに代わるご遺体移送の手段として霊柩自動車が出現しました。

 日本に於いて 古くはご遺体を納めた柩は 輿に載せ、人々が肩に担いでお運びしましたが、その後 柩は駕籠、人力車、大八車などで運ばれる様になります。明治時代の大八車には 二方破風の屋根が付けられ、側面には 花鳥などの彫刻が施され、形状や装飾は その後の宮型霊柩車に近いものでした。更には トラックの荷台に輿を載せて運ぶようになり、そして ご遺体移送専用の宮型霊柩車が出現します。日本では大正6年(1917年) 大阪の葬祭業者が米国より霊柩車を輸入し、その車に日本式の装飾を加えて使用したものが 最初の霊柩車であるとされます。

 大正時代に入り、葬列の廃止は 葬列を組む為に多くの要員を提供していた 葬祭業者にとり多大な打撃となります。そうした中で、その状況を打開する為、大阪で多くの奴(やっこ)を葬列に提供して活躍していた”籠友”の経営者 鈴木勇太郎は 米国の霊柩車を輸入し、その車の周囲に宮型の装飾を加えて、日本型の霊柩車が誕生しました。この時代は モータリゼーションの拡大期でもあり、宮型霊柩車は東京へも広がり、その利用は急激に増加して行きました。

 大正時代 昭和初期と 大都市では葬列が無くなり、それに代わって、告別式と霊柩車が登場して来ましたが、それが 全国に広がるのは 第二次世界大戦後のこととなります。大都市と地方に於ける 交通事情や社会生活の違いによるものと考えられます。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅳ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅳに付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商の身分制度の下で庶民の葬儀は簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。そして明治時代にも葬儀が奢侈化して行き非難を浴びる様に成ります。

 明治時代の葬儀は葬列が大掛りになると共に、粗供養も大掛りとなり、必要とされる費用は増大して行きました。粗供養とは江戸時代に一般的と成る習慣で、葬儀の後に食事を供する習慣です。現代のお清めの席にも当ります。又 葬列の出発の際に 花籠にバラ菓子や小銭を入れ、これを振って近隣の人々に振る舞い、供養としました。明治時代に入り葬儀が大型化すると、会葬者全てに対して菓子包み、饅頭、弁当を配るという、現代の粗供養(会葬返礼品)の原型が出来上がります。配られる粗供養を目当てに関係の無い人でも葬儀に加わったり、粗供養の列に何回も並ぶ人が出る事も有りました。喪家側も不足すると失礼に当ると考え、大量に準備しなければ成らず、費用の面でかなりの比重を占める事となりました。

 更には 葬列を演出する為の人夫の費用も増大しました。大きな葬列を組み、演出する為には 多くの葬具運搬人や参列者が必要となります。数十人から数百人、中には数千人の人夫を動員した記録も残されて居ります。このため 東京、大阪、名古屋などの大都市では 人夫を動員する為の組織が生まれ、この組織が後に葬祭業者と呼ばれる様に成ります。この組織は 人夫の動員だけでは無く、葬具の貸出し、葬列の為の衣装の貸出しなども担いました。

 葬列、葬具が大きく、立派になる葬儀の形態は 都市に於いて富裕層から 一般庶民にも影響を及ぼして行きます。葬列の肥大化は 明治20年から30年の間がピークと成りました。明治30年頃からは 葬儀の奢侈化に対する非難の声が社会の中で高まり始めます。この時代 葬儀に於ける貧富の格差が大都市で顕著に成り始めると共に、地方に於いては 地域共同体を主体とする民俗型葬儀が従来と同じ形で営まれて居りました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅲ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅲに付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商の身分制度の下で庶民の葬儀は簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。

 明治時代の半ばに入ると 富裕層の葬儀では大きな葬列が組まれる様に成ります。その葬列に使用される柩は江戸時代に使用された座棺(棺桶)ではなく 寝棺となり、寝棺を運ぶ為の白木の輿が出現します。更に 白木の輿には装飾が施され、大人数で運ぶ様になり、葬列の大きさが財力の象徴とも成りました。現在 使用されている宮型霊柩車の原型は この白木の輿にあります。尚 庶民の間では 変わらず座棺が使用され、これを 駕籠や神輿型の金色に塗られた人力車などで運んでいました。この状況は第二次境大戦が終了するまで続きます。

 葬列の肥大化と共に 葬列を彩る為の 各種の葬具が出現しました。野道具と呼ばれます。金蓮、銀蓮、生花や造花を挿して車仕立てにした花車、鳩を運ぶ放鳥輿(鳩の放鳥はこの時代に始まりました)、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿、などです。又 柩を運ぶ輿も 寝棺用、座棺用、遺骨用、と多彩な輿が作られました。現代も使用されている 近代的葬具の始まりとも言えます。これらの葬具は 従来の葬儀の仕来りであった、地域共同体の者による手作りと言う訳にはいかず、専門の葬具作成業者がこの時代から出現しました。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅱ

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀Ⅱに付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商の身分制度の下で庶民の葬儀は簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。

 明治時代初期には 葬儀に関する多くの布告が出されて居りました。明治5年 自葬の禁止、神官による葬儀執行の認可、神葬祭の為の青山墓地、明治6年 火葬の昼間施行禁止、更には火葬の禁止、明治8年 火葬禁止の廃止、明治10年 死亡届には医師の死亡診断書が必要となる、明治13年 火葬場取締規則の交付、明治15年 神官が葬儀に係わる事の禁止、明治17年 墓地および埋葬取締規則の公布(死後24時間居ないの火葬・埋葬の禁止)などです。

 そして 明治も中期に入ると それまで夜間に少人数で密やかに営まれていた葬儀が日中に営まれる様になり、地位や財力を誇示した大掛りな葬列が組まれる始めます。中には 時代と共に役割を終えた大名行列の奴(やっこ)を動員した葬列なども出現しました。

 明治18年に営まれた 三菱会社 岩崎弥太郎社長の葬儀は 2月13日 下谷茅町の自宅に於いて 神葬式で執り行われ、葬儀の後に 北豊島郡染井村の新設墓地まで葬列が組まれました。その葬列は 巡査、騎馬により先導され、雅楽の奏者が続き、”従五位勲四等岩崎弥太郎之棺”と記された旗を持つ者、生花・造花が300余り続き、そして 霊柩が進みました。柩の周りには三菱の要人24名が護衛し、次に喪主、親戚、社員一同と続きました。この日の会葬者は3万人と言われて居ります。葬列に供えられた生花は 白梅 桃の花、造花は 牡丹 芍薬(しゃくやく) かきつばた でした。

尚 埋葬式では 墓地の前面に仮小屋が構えられ、周囲の畑一面に筵が敷き詰められ、会葬者には貴賤を問わず、直会の料理が立食で振舞われました。料理は6万人分が用意され、早い時間に8割方が食されたと言われます。又 当日の葬儀に雇った人員は7万人といわれます。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 葬儀を営むに当たり、葬儀の簡略化が度々奨励されて居り、行政当局が 奢侈化する葬儀を抑える為 努力していた事を窺わせます。そして 明治時代に入ると、初期の混乱の後、大きな葬列を日中に組む習慣が生まれ、従来の座棺が寝棺へと変化し白木の輿で運ばれる様に成ります。更に葬列や輿を装飾する為の葬具も数多く出現しました。

 江戸時代末期の葬儀も模様を表わすものとして、慶応元年(1865年)の日本を訪問していた ドイツの考古学者シュリーマンが立会った 幕府高官の葬儀の模様しめす記述があります;

故人の遺体には職務を司る際に着用していた衣服が着せられ、帯に日本の刀と扇子を差し、頭には漆塗りの竹製の黒い帽子をのせ、‥‥婦人の帽子の箱に似た柩に納められた。死者の足と腕は折り畳まれ、座ってちょうど生まれる前の胎児の格好になった。(中略)次に柩の蓋は釘で打ちつけられ、百合の花飾りのある白い覆いがかけられた。そして その寺院(善福寺)の大きな祭壇の前にある高座に安置された。白の喪服によって礼装した王国政府の300名すべての役人が、その柩の周りで、手指を組むのではなく、掌を合わせて跪いていた。僧侶が祭壇の上のすべての蝋燭に火を灯し、香を焚き、鐘を鳴らして祈祷を行う間、両側に並んだ他の40名ばかりの僧侶たちが、サンスクリット語で葬送の賦を唱え始めた。葬儀執行者と僧侶たちは白の喪服を纏っていた。宗教儀式が終了すると、一人の僧侶が寺院の階段のところまで進んで、その手にしていた鳥籠をあけ、中に入れられていた一羽の白い鳩を放った。この象徴的な儀式の後、木棺は竹の網で取り巻かれた。そして柩は竹竿に通され、それぞれの端を二人の日本人が、その寺院の傍らにある墓地へ駈足で運んでいった。(藤川徹訳)

 江戸幕府による葬儀簡素化の方針は 明治時代に入り 士農工商の身分制度が取り除かれると大きく変化して行きます。特に都市部が顕著でした。

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葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬場の変遷

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・火葬場の変遷に付いて書かせて頂きました。

 人がご逝去された際 そのご遺体をどの様な形で埋葬するかは 信仰する宗教的要請による所がだいです。世界四大文明の一つであるインダス文明より生まれたヒンズー教では ご遺体を火葬して聖なる川に流す葬送方法を基本として居り、その延長線で生まれた仏教でも ご遺体の葬送は火葬を前提としました。日本に於いても 仏教の伝来と共に火葬の技術も伝来し、その布教拡大に伴い火葬が普及して行きました。

 古代に於いては 天皇家を中心とする貴族階級で 火葬が行われておりました。その火葬炉は 常設ではなく、占いを基に火葬の場所を定め、その場所の周囲に幕や板塀を巡らし、その中に火床を設けて火葬が営まれました。天皇の火葬を営む場所は 山作所と呼ばれ、火葬の後は火葬塚が築かれました。

 中世になると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい程度の浅い溝を掘って、周囲を石や土器で覆った恒久的な火床が設けられる様になり、そこで火葬が営まれました。この時代に 皇族や貴族の他にも 僧侶や浄土真宗の門徒の間で火葬を営む者が増えて行きました。尚 浄土真宗の門徒以外の庶民の間では ご遺体を墓地や山林に放置する 風葬が一般的でした。

 近世となり 江戸時代に入ると多くの寺院や墓地で火葬場が設けられる様になりますが、火葬の臭煙が問題となり、火葬場を設ける場所が限定され、昼間の火葬は禁止されます。この時代 火葬を行う為には 多くの焚き木を必要とする為、それなりの費用が必要であり、火葬を営む事が出来る庶民には限りがありました。但し 浄土真宗では 信徒間の協力により火葬を営み続けました。

 そして 明治時代に入ると西欧より伝来した技術を基にして 燃焼室に炉扉と煙突を備えた 現代の火葬炉の原型となる火葬場が建設される事と成りました。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の火葬場

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・現代の火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を言いますが、現代では火葬場とは呼ばずに 斎場と称されるケースが多くなりました。本来 斎場とは 葬送儀礼を営む為の施設全般を指す呼称ですが、横浜市内には4カ所の公営の火葬場が有り 全て斎場の名称で運営されて居ります。尚 私営の火葬場も運営されて居り、こちらは 西寺尾火葬場の名称で運営されて居ります。横浜市内5ヶ所の火葬場は いずれも公害を最小とする為、火葬炉は電気式を採用して居ります。

 江戸時代 日本に於けるご遺体の火葬率は30%前後でしたが、現在では 99.986%となって居り ダントツで世界一の割合となりました。この火葬率の向上は 明治30年の 伝染病予防法制定により始まります。この法律により 法定伝染病の患者のご遺体は 原則として火葬しなければ成らないと定められました。現在 火葬場及び墓地は ”墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)”のより管理されて居り、厚生労働省の管轄となります。明治以降 墓地や火葬は公衆衛生の観点で行政に理解されて居りました。江戸時代の火葬場は 仏教寺院が運営する 火屋(ひや)と呼ばれる火葬施設でしたが、伝染病予防法の制定後は 火葬場の統廃合、改修、新設が進み、自治体もその経営に参加する様に成ります。

 現在 横浜市内では 火葬場に葬儀式場を併設した横浜市営の斎場が3ヶ所(横浜北部斎場、横浜南部斎場、横浜戸塚斎場)、火葬場のみの横浜市久保山斎場、私営の西寺尾火葬場が横浜市民のご不幸に対するお手伝いを致して居ります。何れの火葬場も 高度に機械化されてコンピュータが燃焼制御する火葬炉を備えて居ります。

   今回は以上です。

葬儀横浜 葬儀の歴史・近世の火葬場

 今回は葬儀横浜 葬儀の歴史・近世の火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を言いますが、現代では火葬場とは呼ばずに 斎場と称されるケースが多くなりました。本来 斎場とは 葬送儀礼を営む為の施設全般を指す呼称ですが、横浜市営の火葬場も全て斎場の名称で運営されて居ります。日本に於ける火葬場の歴史は古く、古代の時代から火葬は行われて居りました。古代から近世に至るまで火葬は 野天に火床を造り、木薪を組み上げて、その上にご遺体を載せて梵焼(ぼんしょう)する野焼きが一般的で、常設の火葬場が出来るのは江戸時代となってからです。江戸時代には 屋根付きの火葬場も見られる様になります。そして 明治11年には 建物内に火葬炉を設けた火葬場が、浄土真宗大本山である東・西本願寺により京都市内に建設されました。

 神道を国教とする明治政府は 明治6年に火葬を推奨する仏教を憂慮し、火葬禁止令を布告します。しかしながら 2年後には 火葬禁止令の行き過ぎを認めて、おこれを徹回しました。更に同年 火葬場建設の許可条件が内務省より示されます。その内容は ①市街地から離れている事、②ご遺体を焼く際の臭いや煤煙が住民の健康を損なわぬ様 煙突を高く設ける事、③火葬場と墓地を分離する事、などを条件としました。これを受けて 京都市は市街地にある寺院墓地での土葬を禁止します。東京市では 遅れて 明治24年に市街地での土葬を禁止します。

 当時の火葬場の運営規則を見ると、ご遺体の火葬は夜の8時から10時までに間で始め(すなわち ご火葬は深夜に行い)、拾骨は 翌日の午前8時から午後3時までの間で行う様 定められて居ります。昼間に火葬と拾骨が行える様になるのは 昭和2年 東京の町屋火葬場(現在の東京都荒川区 私営町屋斎場)が重油火葬炉を導入して後の事と成ります。又 明治17年には 墓地及び埋葬取締規則が制定されました。

   今回は以上です。

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