不動明王

 今回は十王信仰に於いて最初の審理を行う不動明王に付いて書かせて頂きました。

 

 不動明王とは 初七日の審理を行う泰広王の本地であり、梵名をアチャラ・ナータと呼び 真言宗をはじめとして、天台宗、禅宗、日蓮宗などで 幅広く信仰されて居ります。アチャラは ”動かない”、ナータは ”守護者” を意味して ”揺るぎ無き守護者”を意味して居ります。

 

 不動明王は 密教の本尊である大日如来の化身、又は 大日如来の決意の一つを表したものと考えられて居ります。日本へは 空海(弘法大師)が密教を唐より伝えた際に不動明王の図像を持ち返ったとされて居ります。真言宗では 大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれて居ります。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊、あるいは お不動さんなどと呼ばれ 親しまれて居ります。

 

 不動明王の起源は ヒンドゥ−教の最高神シヴァ神にあるという説が有力であり、アチャラ・ナータはヒンドゥ−教でシヴァ神の別名とされて居ります。密教がヒンドゥ−教を取り込む為に シヴァ神を不動明王として 大日如来の眷属に取り込んだと考えられます。


 密教では三輪身といって ほとけは 自性輪身、正法輪身、教令輪身と言う三っの姿で現れるとされます。自性輪身(如来)は 宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、正法輪身(菩薩)は 宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指します。これに対し 教令輪身は 仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し、教え、諭し、 仏法に敵対する事を力ずくで抑え、外道に進もうとする者を内道に戻す等 極めて積極的な介入を行う姿を指します。不動明王は大日如来の教令輪身とされ、煩悩を抱える最っとも救い難い衆生をも 力ずくで救う為に 憤怒の姿をして居ります。 


 不動明王の像としては 京都 東寺御影堂の木造不動明王坐像や 和歌山 金剛峯寺の木造不動明王立像が有名です。又 関東三大不動として 東京 高幡山金剛寺、千葉 成田山新勝寺、神奈川 雨降山大山寺が賑って居ります。


   今回は以上です。

返礼品

 今回は返礼品に付いて書かせて頂きました。

 

 返礼品とは 葬儀(葬送儀礼)に於いて お手伝い頂いた方々や会葬の方々に振舞う品物の事を指します。これは 他者に布施をする事により仏に徳を積み、これを故人様に振り向ける為の供養の品で、供養品とも呼ばれます。返礼品には 通夜返礼品、会葬返礼品、香典返し、法要返礼品などが御座います。

 

 通夜や葬儀の際に 弔問客や会葬者に 食事や酒を振舞ったり、お菓子などを出したりするのは 故人様の滅罪を願って行われるお布施の一つです。又 葬列が出発する際に 目の粗い竹籠にお菓子や小銭の包みを入れて 振り回しながら 見送りの方々に振り撒く習慣が最近まで御座いましたが、これもお布施の一つでした。このお布施には 仏教葬儀特有の 故人様の供養と言う意味と、会葬頂いた方々への感謝の品という意味合いが込められて居ります。

 

 通夜返礼品は 通夜に弔問に訪れた方への返礼品です。しかしながら 近年では通夜の弔問客が増える傾向に有ります、又 葬儀・告別式には出られないので通夜に来られると言う方も多くなりました。返礼品の目的も 通夜振る舞いに出られな方へ、或いは通夜振る舞いは行わずに返礼品のみお渡しする形なども増えて参りました。そして 通夜返礼品と会葬返礼品は同じ品物をお渡しするのが一般的と成りました。


 会葬返礼品は 葬儀・告別式に会葬された方への返礼品です。本来は会葬に来られた全ての方へお渡しする品物で、ハンカチやはがきのセットなど 5百円前後の品物を粗供養品として用意致しました。近年 都市部を中心として 儀礼を簡素化する目的で 香典を供えて頂いた方へはその場で香典返しをお渡しする ”即返し” の習慣が増えて参りました。特に横浜では この即返しが一般的となつて居ります。


 香典返しは 香典をお供え頂いた方々へ 四十九日法要後の忌明けにお礼の書状を添付してお届けする品物です。品物は半返し(香典の半額)や 三分返し(香典の三分の一)の習慣に従い用意します。前記致しました 即返しの場合は 通夜・葬儀・告別式の席に三千円前後の品物を用意してお返しいたします。但し 高額の香典をお供え頂いた方には 別途 忌明けにお返しを用意します。そして 香典返しを行わない場合も御座います、お供え頂いた香典を 社会福祉の為に寄付したり、遺児の養育費に充てたりする場合です、この様なケースでは 故人様の忌明けにお礼状を出状して お礼と共に お供え頂いた香典の用途をご報告致します。


 法要返礼品は 四十九日、百ヶ日、一周忌、三周忌などの法要に参列頂いた方への引き物です。


   今回は以上です。

香典

 今回は香典に付いて書かせて頂きました。

 

 香典とは 仏式のご葬儀で 故人様の霊前に供える金品を指します。古くは 香奠と書き、故人様の霊前に香を供えると言う意味でした。その後 香・線香に代えて金品をお供えする様に成りました。本来の香奠は 奠の文字が当用漢字より外されて以降、典を当て字として使用するように成って居ります。

 

 香典は金銭、あるいは品物を 霊前にお供えする訳ですが、古くは品物 特に米や食料が主としてお供えされました、これを食料香典と言います。金銭香典は貨幣経済の発展と共に都市部を中心に普及しました。室町時代後期には武士が金銭香典をお供えしたとの記録が有ります。

 

 食料香典の由来は 農村部の地域共同体では ご葬家は 故人様の成仏を願い、贖罪する為の お布施として 人々に食事を振舞う習慣が一般的でした。古い記録では 葬儀の期間 地域の共同体の人々は 子供を含めて 自宅で食事をする事無く 葬家の振る舞いで過した、などと有ります。従いまして ご葬家では 多量の食物が必要となり、故人様との交わりの濃さに合わせて、親族香典、村香典、等が 米・野菜・酒などで提供され 貧富に係わらず、共同体の相互扶助により葬儀を執り行う事が出来ました。又 葬儀を出した時の香典帳は 長く保管して 他家の葬儀の際は その香典帳を参照して 見合った香典を包む習慣にもなって居りました。


 現在の金銭香典の相場は 近隣の方;3千―5千円、勤務先関係・友人;5千―1万円、一般親族;1万―3万円、兄弟姉妹;3万ー5万円、父母;5万―10万円位となります。伝統的な禁忌としては 奇数は陽数であり、偶数は陰数として 金額や紙幣の枚数では偶数を避ける様にといわれて居ります。しかしながら 現在では 1万円の次が3万円では その差が大き過ぎると言う事で 2万円と言う金額も使用される様にも成って居ります。


 香典の上書きは 四十九日法要までは 御霊前、それ以降は 御仏前と 薄墨で書きます。但し 浄土真宗では 死去即成仏と成りますので 御霊前は使用しません。又 曹洞宗などの禅宗では 教義に浄土は有りませんので 成仏以前という考え方が無いので 御仏前とするのが一般的です。

尚 会葬者の立場から考えると 必ずしも ご葬家の宗教・宗派を理解した上で会葬するとは限りませんので、御自身の宗旨で上書きを選択しても良い考えます。


   今回は以上です。 

献花

 今回は献花に付いて書かせて頂きました。

 

 ご葬儀に於ける献花とは 故人様との告別を祈る作法として 仏教に於けるご焼香、神道に於ける玉串奉奠が御座いますが、無宗教、キリスト教、お別れ会、ホテルでの葬儀などの場合は これに変わる形として 参列者は 故人様にお花を供えて 告別をお祈りします。

 

 故人様との告別の儀式としてお花を供える習慣は 日本独自のものと言えます。しかしながら 故人様の逝去を悼み お花を手向ける習慣は世界中で古くから有りました。例えば 紀元前20万年から二万数千年まで ヨーロッパを中心に分布していたとされるネアンデルタール人の遺跡では イラク北部のシャニダール洞窟で 屈葬の形で遺体が埋葬され、その化石と共に ノコギリソウやヤグルマギクなどの花粉が大量に発見されて居ります。ネアンデルタール人には 死者を悼む心が有り、副葬品として花を遺体に添えて埋葬する習慣があったと考えられて居ります。又 日本国内の古墳でも 花粉や花の種の化石が発見されて居ります。

 

 日本に於ける最初に行われた 無宗教葬儀(告別式)は明治34年に死去した中江兆民の告別式です。中江兆民は無神主義者で 生前より葬儀の施行を拒否して居りました。その後 著名人の間で無宗教の告別式がはやりと成り、告別のお祈りをする際 神道の玉串に変えて生花を供える様に成りました。キリスト教の場合、本来 献花の習慣は有りませんが、日本に於いてのみ 無宗教告別式と同様に献花をする様に成りました。ホテルでの葬儀の場合 仏教の葬儀であっても 会場側の都合により 焼香が出来ない為、焼香に変えて献花を行います。

 

 告別の為の献花は日本特有と言われるのに なぜ米国のアーリントン墓地で献花をするのか と聞かれます。

アーリントン墓地は戦没者墓地として有名ですが、それ以外に 二十年以上軍籍にあった死者も 宗教に係わらず埋葬する事が出来ます。そして 第一時世界大戦以降の無名戦士のお墓が御座います。同様の墓地は イギリスとフランスにも存在します。関係国要人が献花するのは この無名戦士の墓のみです。

 

    今回は以上です。

 

 

玉串奉奠

 今回は神葬祭に於ける玉串奉奠(たまぐしほうてん)に付いて書かせて頂きました。

 

 玉串奉奠とは 神式のご葬儀に於いて 故人様を告別する為の玉串拝礼を指し、仏教の葬儀に於ける ご焼香に該当します。真榊の小枝に紙垂(しで)をつけたもの(玉串)を神前に捧げ 故人様が神の下に戻り 無事にご葬家の守護神になられる事を祈念致します。

 

 神社本庁編の ”神社祭式同行事作法解説” によれば 玉串を捧げる事(玉串拝礼)を 玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受ける為に祈念をこめて捧げるものである と説明されて居ります。

 

 玉串の由来は 天照大御神の天の岩戸隠れの際に 神々が行った祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだ との古事記の神話によります。その語源には 幾つかの説が有り、神前に手向ける為の手向串であるという本居宣長説、本来は木や竹の串に玉を着けたものであったので 玉串と称したと言う 平田篤胤説、真榊は神霊の宿る料であり 本来は 霊串(たまぐし)であると言う 六人部是香(むとべよしか)説等です。玉串は神霊を迎える依代であり 祀られる神と祀る人の霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であると言われます。

 

 玉串奉奠の作法は以下の通りです。

1 神職より玉串を受取ります。

   右手のひらを下に向けて玉串の下部を持ち、左手のひらを上に向けて上部を支えます。玉串は胸の高さに持ちます。神職は玉串を渡した後 小損(軽いお辞儀)をしますが、答礼の必要は有りません。

2 神前に立つ前に作法を行います。

   玉串を時計回りに回して 玉串を立てます。左手を右手と同じ位置まで下げ、玉串を手前に引いて 祈念を込めます。そして玉串を体から離して 右手を玉串に中ほどまで上げ 右手を手前に、左手を向こう側に動かして時計回りに回します。玉串の根元を神前に向け 左右の両手で持ちます。左足から一歩進み 玉串を玉串案(机)の上にお供えします。右足から一歩退き 神前で二拝、二拍手、一拝します。尚 二拍手は 両手を打つ寸前で止める しのび手により行います。

 

以上ですが 要点は 玉串は時計回りに回す事、玉串は一旦 立てて祈念を込める事の二点です。

 

   今回は以上です。

 

 

焼香

 今回は焼香に付いて書かせて頂きました。

 

 焼香とは 仏教に於いて 仏や故人様に対して 香を焚いて拝む事を言います。焼香には 線香焼香と抹香焼香が有りますが、一般的には 抹香焼香をさし 通夜・葬儀・法要などでの 故人様との告別に使用されます。心身の穢れを取り除き、清浄な心でお参りする際の作法とされます。左手に数珠をかけ、右手の 親指、人指し指、中指の三本で 香をつまみ 香炉にくべます。

 

 焼香の作法は ご宗派により異なりますが 主としては以下の通りです。

 

天台宗; 焼香回数に付いて特に定めは有りません。

真言宗; 焼香三回、線香も三本立てます。身、口、意の三業を清めるとされます。

臨済宗; 回数に拘りません。

曹洞宗; 焼香二回、線香は一本。初回は香をつまみ額に押し戴いてから焚きます。二回目は押し戴かずに炊きます。初回を主香、二回目を従香と言います。

浄土宗; 特に定めは有りませんが一回から三回までの間で焼香します。線香も一から三本立てます。

日蓮宗; 焼香は三回、線香は一本立てます。

    以上の宗派では焼香の前に 香を額に押し戴きます。

真宗大谷派; 焼香は二回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

浄土真宗本願寺派; 焼香は一回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

 

 以上の様に焼香の作法は宗派により異なります。ご葬家の宗派と ご会葬の方の宗派が異なる場合 以前はご葬家に合わせると言う考え方が有りましたが、信教の自由の観点から 会葬者の方のお気持ちを尊重するのが良いのではないでしょうか。特に 他の宗教の場合は 焼香を禁じている場合も御座います。又 会葬の方々が多数の場合は宗派に係わらず、焼香を一回に制限させて頂く場合も御座います。

 

   今回は以上です。

死亡広告

 今回は死亡広告に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡広告とは 故人様のご逝去を広く社会に伝える為の広告で 主として日刊新聞を利用します。その費用は 依頼する大きさ(スペース)と 依頼先の新聞社により異なります。又 死亡記事が御座いますが これは 新聞社が独自の判断で 著名人の物故を記事として掲載するもので 費用は発生致しません。

 

 死亡広告は ご遺族、或いは施主様のご希望により ご逝去の事実と 葬儀・告別式の 日時・場所を広く告知する事が目的です。通常は新聞の紙面にて 黒枠で囲まれますので 黒枠広告 とも言われます。広告内容に於ける 決まりは特に有りませんが 物故者の肩書、氏名、享年、葬儀・告別式の日程、場所、喪主、葬儀委員長(施主)などを記載します。供物・献花・香典を辞退する場合は それを明記します、何も書かない場合は お受けする前提となります。又 葬儀と告別式を別に行う場合は それも明記する方が良いでしょう。

 

 死亡広告は 各新聞社ともに 特別扱いとしており 希望掲載日の間際の申込みでも 極力 調整して掲載の努力をしてくれますが、あまりに急な場合は 紙面の確保が出来ない場合も御座いますので、なるべく早めの手配が必要です。

 

 死亡記事に付きましては 各新聞社とも 特定の 死亡記事書式を用意しており どなたでも新聞社に送る事が出来ます。記載するかどうかは新聞社の判断となります。掲載が決定すると 新聞社より内容確認の電話が入ります。

 

 尚 日本に於ける 最初の死亡広告は 1873年1月14日の 日新真事誌に掲載された 明治政府 外務少輔 上野景範氏 ご尊父の死亡広告とされて居ります。

 

   今回は以上です。

法事

 今回は前回とは異なる観点で法事(法要)に付いて書かせて頂きました。

 

 法事(法要)とは 十王信仰や十五王信仰を元にして営む 追善供養を指しており、その他に月命日、お彼岸、お盆の法要などが含まれます。

 

 まずは 中陰の間に営む 初七日から七七日まで の七回の法要が御座います。故人様がご逝去された日を一日目として 七日毎に営む法要ですが、現在では 初七日はご葬儀・ご火葬の後 同日に営むのが一般的と成りました。特に横浜市営の斎場をご利用頂く際は ご葬儀・告別式と合わせて ご火葬の前に初七日法要を営ませて頂いて居ります。これは ご参加頂く方が何度も足を運んで頂かなくとも良い様、又 斎場をより多くの方にご利用して頂く為で御座います。更に ふた七日から む七日までの 5回の法要はご家族だけで営み、僧侶 関係者をお呼びして営む事も少なく成りました。七七日(四十九日)は忌明けの法要と共に納骨 そして精進落とし を営まれるのが一般的です。法要の日取りは早めに 僧侶とご相談され ご出席頂く方々に ご案内状を出状して ご連絡されるのが良いでしょう。法要の日取りは ないがしろにしない と言う事で 正しい日取りより早い日に営む事が許されます。ご出席の方々のご都合を考え、早い日の日曜・祭日を選ぶのが良いでしょう。

 

 以降 百ヶ日、一周忌、三回忌と続きますが 日取りは七七日法要と同様に選び 営みます。尚 現在では 百ヶ日法要を営む事は無くなりました。

 

 ご法要に招待する方々の範囲に決まりは有りませんが 故人様との関係、ご家庭の事情を慎重に検討してお決め頂く事が良いでしょう。法要の会場は ご自宅、寺院、墓地霊苑の会場、料理屋、ホテル等 ご都合の良い会場をお選び頂けます。

 

   今回は以上です。

中陰

 今回は中陰に付いて書かせて頂きました。

 

 中陰(中有とも言います)とは 仏教におきまして 人が亡くなられてからの四十九日間を指し 死者があの世へ旅立つ期間であり、生から死 陽と陰の狭間に置かれているとの考えから 中陰と言います。但し 浄土真宗では 故人様はご逝去と共に成仏されるとの考えから 中陰期間は 故人様を追悼し、生と死を考え、謹慎して仏法を考える期間とされて居ります。

 

 仏教発祥の地である古代インドでは 人は輪廻転生すると考えられており、誕生の瞬間が生有、生きている間が本有、死の瞬間が死有、死んだ後 次の生を得る間の期間を中有 あるいは中陰と呼び、その期間は四十九日間であるとされました。ご臨終の日(命日)を含めて七日毎に法要を執り行い それを七週続けた四十九日目に 次の六道中の何れかの世界へ生まれ変わるかが決まると考えられて居りました。それが日本に伝わり、宗派により考え方が異なりますが 魂を清めて成仏する期間へと変化しました。尚 なぜ七日毎、七週なのかは 古代インドでは七進法が使われていたからです。

 

 この四十九日間は 死の穢れの最っとも強い期間であると考えられ、死の穢れを他に移さぬ様 ご遺族は謹慎して家に籠るものとされました。この期間を忌中と言い、四十九日の法要を終えると 忌明けとなり 日常生活に復帰します。又 その一方では 精神的な打撃を受けたご遺族が 日常の生活から離れて 心の痛みを癒す期間であり、七日毎の法要は 故人様を弔うと共に 周囲の人々がご遺族を思いやる時でも御座います。

 

 忌明け法要をもって精進落としとなり、中陰壇(後飾り)を片ずけ、白木の仮位牌を壇那寺へ返し、本位牌を仏壇にお納めします。

 

   今回は以上です。  

十王信仰

 今回は十王信仰に付いて書かせて頂きました。

 

 十王信仰とは 中国の道教や仏教の教えで、十仏事を何故 営むのかの 前提となる信仰です。人間を始めとする衆生は 没後には中陰と言われる存在となり 節毎に十回 異なる王の審判を受けて六道の何れかに置かれ、最終的には 供養と徳を積んだ者は 極楽浄土へ、供養と徳の至らぬ者は地獄へ 行かねばならないと言う 冥界思想(他界思想)です。

 

 初七日には 秦広王(本地 不動明王)の審判を受け、行方の定まらない者は三途の川を渡ります。ふた七日には 初江王(本地 釈迦如来)の審判を受け ここでも定まらなければ、み七日には 宋帝王(本地 文殊菩薩)、よ七日には 五官王(本地 普賢菩薩)、いつ七日には 閻魔王(本地 地蔵菩薩)、む七日には 変成王(本地 弥勒菩薩)、なな七日(四十九日)には 泰山王(本地 薬師如来)の審判を受け この王の下で 六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何れかが決まるので 四十九日の追善供養は 特別懇ろに営まなければならないと説かれて居ります。これでも定まらない場合は 百ヶ日に 平等王(本地 観音菩薩)、ここでも定まらなければ 一周忌に 都市王(本地 勢至菩薩)、そして最後の審判は 三回忌の 五道輪転王(本地 阿弥陀如来)が行い 十分な供養がされて居れば 成仏出来るとされて居ります。

 

 以上の審判は 故人様の修功徳と、ご遺族様が執り行う 回向の功徳を判断して行うとされて居り、その比率は全体を七等分して 亡者に一分、生者に六分が割り振られると説かれて居ります。始めの七回で審理は決まりますが、その七回で決まらない場合は 追加の三回で決める事となります。俗には 閻魔王に対する信仰と 考えられる方が多く御座いますが、これは 閻魔王以外の各王の知名度が低かったせいでしょうか。

 

 この十王信仰は 中国より渡来し 平安末期に 仏教本来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透しました。又 日本に於いて 三途の川、賽の河原、奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)等が付け加えられ、江戸時代には 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加えられ 十三王と成りました。


   今回は以上です。

 

 

 

 

法要

 今回は法要に付いて書かせて頂きました。

 

 法要とは 仏教に於いて 釈迦の教えを 仏法と言いますが、その仏法の要点・肝要を知る事を指します。それが 時代の流れと共に変化し 仏教行事の中の 儀式祭礼(法事・仏事・法会など)全般を指すようになりました。更に 日本に於いては 追善供養 即ち 死者を弔う儀式を指す様に成りました。法事、仏事とも言います。尚 供養以外に、寺の創立記念、堂宇の完成記念、仏像の開眼などの慶事も含みます。


 日本民族は 法要(死者供養)を大切にして来た民族であると言えます。供養には まず 中陰の間に行う 七仏事(初七日、ふた七日、み七日、よつ七日、いつ七日、むつ七日、ひちひち日)が有り、これはインドを起源として居ります。七仏事が中国に伝わり 百ヶ日、一周忌、三回忌が加わり 十仏事と成りました。更に 日本に於いて 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり 近世に十七回忌、二十五回忌が加わって 十五仏事と成り 現在に至ります。そして 地域によりましては 二十三回忌や二十七回忌を営む場合も御座います。又 五十回忌、そして五十年毎に営まれる遠忌が有りますが これは 宗派の祖師等に限り営まれます。

 

 以上の他に 祥月命日(故人様の命日、年一回)、月忌(月命日、年十一回)が有り、その他 春・秋のお彼岸と お盆が御座います。この様に日本に於きましては 遺された方は 生ある限り 故人様との関係を維持して行こうと言う 文化が長い時間をかけて作られて参りました。

 

 日本では古くから 三十三年、あるいは五十年をもって 死者は個性を失い 祖霊(先祖)に成ると考えられて来ました。故人様の法要も三十三回忌をもって ”弔い上げ” となります。ご仏壇から 戒名を書いたご位牌を下げ、”〇〇家先祖の霊”のご位牌に霊をお移しします。

 

   今回は以上です。

 

 

精進落とし

 今回は精進落としに付いて書かせて頂きました。

 

 精進落としとは 仏教に於ける葬送儀礼の一行事で、七×七(四十九日)の間はお食事は精進料理で過しますが、忌明けと共に 食事を精進料理から 通常の肉や魚を含む料理に戻します。これを精進落とし、お斎、精進明け、精進上げ、忌中払い 等と言います。

 

 現在では 葬儀・告別式やご火葬後に設ける宴席を 精進落としと呼ぶ様になって居ります。或いは 火葬場から戻った後に行う 初七日の法要の際に行う宴席も精進落としと呼ばれます。但し 浄土真宗では 精進落としとは言いません。又 関東では 通夜振る舞いや 精進落としを お清めと呼んで居ります。

 

 古くは 葬列を組む前に 故人様との食い別れの宴席を設けた事、葬儀後には お手伝い頂いた方々へ お礼の振る舞いをした事、この二つが合わさって現在の精進落としになったと考えられます。又 遠方より参加された方々を長く引き留めなくても良い様に ご火葬後に初七日法要と精進落としを繰り上げて行う様に成りました。地域によりましては 四十九日の法要や 百カ日の法要までも繰り上げて行う事が有ります。繰り上げられた法要を 取り越し法要とも言います。

横浜や川崎の市営斎場では 利用時間の関係から ご火葬中の一時間から一時間半の間に 精進落としを行って居ります。この宴席の意味は大きく分けて二つあります。

 1 僧侶などの宗教者とお手伝い頂いた方々への感謝を表す場。

 2 故人様を偲んで食事をし、話をし、交わる場。

 

    今回は以上です。

火葬

 ご火葬に付きましては以前 何度か書かせて頂きましたが 今回は別の観点で書かせて頂きました。

 

 ご火葬の流れは 火葬場到着−火葬炉前での読経・ご焼香−ご火葬中の待機−ご拾骨−ご自宅へのお帰りと成ります。

 

 霊柩車が火葬場に到着致しますと 火葬場担当者が操作する お柩台車が用意され お柩を台車にお乗せし、炉前へと運ばれます。横浜市営の斎場をご利用頂く場合は 式場と火葬炉は隣接して居り 霊柩車は必要有りません、式場入口より お柩台車で火葬炉前までお運びする事となります。

 

 火葬炉前では ご遺族による最後のお別れの後に お柩は火葬炉内に移され ご火葬が始まります。そして 炉前で 僧侶による読経、ご焼香と続きます。ご火葬は一時間前後の時間を必要と致しますので ご遺族は控室にお移り頂いて お待ち頂く事と成ります。ここでお帰りになる方と 拾骨を待つ方とに分かれる事も御座います。

 

 このご待機の時間では 茶菓でお持て成しするのが一般的です。尚 横浜市営斎場の場合はご火葬後の式場利用が許されていない為、ご葬儀・告別式の後に初七日法要も合わせて執り行い、このご待機の時間を利用して 初七日法要後のお斎の席を設ける事として居ります。

 

 荼毘が終了致しますとご拾骨となります。火葬場からの連絡に従い ご遺族は控室から拾骨室へ移動します。その後は火葬炉担当者の指示に従い 二人一組でご遺骨の一つを拾い お骨壺に納めます。ご遺族間で一通り 周りました後は 残ったご遺骨は担当者が全てお骨壺に納めてくれます。お骨壺は桐の箱に納められ、埋葬許可証と共にご遺族に戻されます。

 

 ご火葬場からの帰路は 往路と同じ道を通ってはいけないと言う習俗が御座います。これは 昔 ご遺体を墓地に埋葬した後 死霊が追いかけて来ても 迷って道がわからない様にする為 道を変えた名残と言われて居ります。

 

   今回は以上です。

葬儀の習俗

 今回は葬儀の習俗に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀とは 仏教に於ける葬祭儀礼の略語ですが 日本に於ける葬祭儀礼は 仏教の儀礼と夫々の地域で育まれた習俗とが融合して出来上がってまいりました。

 

 ご自宅からご出棺する場合、古くからの習俗として 玄関からご出棺しては成らず、窓や縁側から戸外にお移しし、正門ではなく 裏門 又は仮門からご出棺すると言う事が有ります。特定の地域では お柩は安置した部屋の壁を開けてご出棺すると言う場合も御座います。その理由は 死霊に対する恐怖心から 死霊が家に戻る事の無い様にとの気持ちを表す為、或いは 死は非日常の事柄であり 従い 日常とは逆の事をしなければならず 通常の出入り口である玄関は使用してはいけない などの説明が有ります。

 

 ご出棺の前に 故人様が生前 使用されていた茶碗を割ると言う事も有ります。これも 死霊に対する恐怖心から 死霊が戻らぬ様に、故人様の霊が迷わず成仏出来る様に、あの世はこの世とは逆なので 故人様があの世で使える様に 等の説明が御座います。

 

 出立ちの善、立ちめし、別れのお神酒等は ご出棺の前に 故人様と最後の飲食を共にする事で 故人様との最後の交わりを行い お別れするものと考えられます。飲食は人間の交わりを象徴しているとも言われます。

又 飲食は死者の魂を鎮め、死の穢れに対抗して 払う力が有ると信じられて居りました。精進落とし、忌中払い、お斎などは これに当ります。尚 精進料理と言われ 動物や魚などの生き物を殺して食してはいけないとされていますが、お釈迦さまは むやみに生き物を殺してはいけない と諭されましたが、食してはいけないとは言われて居らず、親鸞上人は妻帯をし魚食、肉食をしていたと言われて居ります。

 

    今回は以上です。

遺体葬と骨葬

 今回は遺体葬と骨葬について書かせて頂きました。

 

 遺体葬とは ご葬儀・告別式を執り行う際に ご遺体を中心にお見送りをする形であり、骨葬は ご火葬を終えたご遺骨を中心にお見送りを行う形で有ります。遺体葬の流れは お通夜−葬儀・告別式−出棺−ご火葬−埋葬となり、骨葬は お通夜−ご火葬−葬儀・告別式−埋葬の流れと成ります。

 

 日本に於ける葬儀では 古くは土葬が中心であり、通夜−葬儀・告別式−出棺−埋葬をもって 葬儀・告別式の終了として居りました。しかしながら 火葬設備の充実とともに 火葬率が高まり 埋葬の替りにご火葬−納骨と 変化して参りました。東京方式とも呼ばれて居ります。これに対し 関東北部以北の北海道 東北地方、甲信越地方 中国地方 九州地方の一部では ご葬儀・告別式に先立って ご火葬が行われて居ります。又 骨葬地域では 本通夜の前に ご火葬を行う習慣もお見受けしますが、一般的には お通夜を執り行い、翌日の午前中に 出棺をしてご火葬に付し、午後に葬儀・告別式を執り行い、その後 菩提寺 或いは墓地に行って納骨を致します。

 

 横浜市営斎場をご利用される場合には 遺体葬が基本となり お通夜は18;00、もしくは19;00から執りを行い 翌日10;00 もしくは11;00より葬儀・告別式、そしてご火葬となります。尚 横浜市営の斎場では一日葬のご利用は認めて居りません。

 

 全国的には 骨葬の地域に於いても 東京方式に変わりつつありますが、その反面 東京でも 骨葬が見直されつつ有り、故人様のご逝去直後はご家族だけで密葬してご火葬を済ませ、後日 改めて ご遺骨で 本葬・葬儀・告別式 或いはお別れ会を執り行うという方式です。

 

   今回は以上です。 

 

   

遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 ご遺体の保全に付きましては 短期的にはドライアイス、或いは冷蔵保管庫にによる保全方法と エンバーミングと呼ばれる 化学的・外科学的な処理をご遺体に行って 長期間 保全する方法とが有ります。日本に於きましては 仏教を前提としたご火葬が主流であり、火葬率は99%を超えて居りますので、ご遺体の保全も ご葬儀・ご火葬を待つまでの間が主目的となって居ります。

 

 現在 多くの方々が亡くなられる場所は病院となって居ります。病院では 患者様が亡くなられると ご遺体 移送の前に エンジェルケアーとと呼ばれる処置をご遺体に施してくれます。その内容は以下の通りです;

 1 湯又は水をしぼった布 又は消毒用アルコール あるいは防腐性薬品等でご遺体を拭き清めます。

 2 目や口を閉じます。 

 3 鼻、耳、口、肛門に脱脂綿を詰めて体液の漏出を防ぎます。

 4 傷口が有る場合はテープで留め、包帯で縛ります。

 5 頬がこけている場合は脱脂綿を口に含ませて 補正します。

 6 髭剃り、爪切り、髪を整え、化粧を施して 衣服を着せます。

この状態でご遺体は ご遺族に戻り ご自宅に移送して安置し ご葬儀・ご火葬までの間 ドライアイスにより ご遺体の腐敗進行を遅らせる事と成ります。この期間は季節にもよりますが一週間から10日程度が限度です。

 

 更に長期間 ご遺体を保全したい場合には エンバーミングと呼ばれる処置方法が有ります。エンバーミングの歴史は 古代におけるミイラにまで遡りますが、急速な発展を遂げたのは 1860年代アメリカの南北戦争だと言われています。当時 兵士のご遺体を故郷に戻すには長い時間が必要とされ、遺体の保存技術が必要とされました。又 同じ理由により ベトナム戦争の際に 一層の技術発展が促進されました。エンバーミングの具体的処理は以下の通りです;

 1 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。

 2 遺体の顔、頭髪、手先、足先を整える。

 3 遺体の頸部等の動脈より 体内に防腐剤を注入、同時に静脈より血液を排出する。

 4 腹部に鋼管を刺し 胸腔・復腔部の体液や、消化器内の残存物を吸引・除去し、防腐剤を注入します。

 5 事故等で損傷した部分は修復を施し、切開した部分を縫合してテープ等を貼ります。

 6 最後に 再度 全身を洗浄して 頭髪、表情を整え、衣服を着せて終了となります。

以上の徹底した処理を行い、定期的に防腐剤の交換などを行えば 生前の姿のままで永久保存が可能と成ります。

ソ連のレーニン、スターリン ベトナムのホー・チ・ミン 中国の毛沢東 台湾の蒋介石 北朝鮮の金日成、金正日 その他の社会主義国 指導者の遺体はエンバーミング処理を施されて永久保存されて居ります。

 

   今回は以上です。

枕経

 今回は枕経に付いて書かせて頂きました。

 

 枕経(まくらきょう)とは 仏教の行儀で 本来は 死に際にある方が不安にならぬ様 本人の枕元で 死を看取りながらお経をあげる事です。現在では 病院で亡くなる事が多く ご逝去の後 ご遺体を自宅に安置した上で行う 死後の儀式と成りました。ご宗派により 枕経を行わない場合もあります。

 

 ご葬家が仏式の場合 ご遺体を自宅の仏間、あるいは座敷に敷いたお布団の上に安置し、ご遺体の枕元に枕飾りを設営します。その上で壇那寺に故人様のご逝去をお伝えし 僧侶に来て頂いて 読経をして頂きます。壇那寺が遠方の場合は 壇那寺より紹介を受けて 近隣の僧侶にお願いをする場合もあります。

 

 枕経は 故人様に対して読経を聞かせると言う考え方や ご仏壇の内仏やご本尊に向かって読経すると言う考え方など ご宗派により考え方が異なります。真言宗では ご遺体の前に枕飾りを設け、僧侶が故人様へ末期の水を行い、印を結び、読経します。その際 枕元には不動明王の掛け軸を掛ける慣わしとなって居ります。曹洞宗の場合は 枕元に置いた机の上に ロウソク、線香、四華花を お供えして読経します。浄土宗では枕経の間に剃髪、授戒を行います。浄土真宗では亡くなった方を御縁として御本尊に向けて読経されます。


 枕経を上げて頂くときの 衣裳は喪服である必要なく、通常の衣服を整えて出れば良いとされて居ります。枕経の後に 葬儀の次第、その他を僧侶とご相談されるのが良いでしょう。又 戒名をいただく為に 故人様の人柄やご希望も この機会にお話されるのが一般的です。


   今回は以上です。  

死の環境

 今回は現代の死の環境について書かせて頂きました。

 

 現代に於ける死の環境は 亡くなられる場所ですが 従来はご自宅が一般的でした。しかしながら最近は病院で亡くなるケースが一般的となりました。又 高齢者の方の死亡率が年々増加して居ります。

 

 昭和25年頃の死亡場所は 80%以上がご自宅であり、病院でのご臨終は20%以下で有りましたが、平成4年の厚生省統計によれば 病院;73.3%、自宅;20.1%、診療所;3.3%、その他;3.3%と成って居ります。又 70才以上の高齢者の方の在宅死亡率は地域格差が有り、高い所は 山形県、新潟県、長野県、和歌山県などで、40%を超えて居り、低い所は 北海道;10.8%、東京都;13.9%、大阪府;17.4%などの都市部と成って居ります。概して 人口が集中する都市部では 高齢者の方の在宅死亡率が低い 現状ですが、最期は自宅で の希望も高まりつつあり、この様なご希望に応えるべく 訪問医療を主とする法人も徐々に増えつつ有ります。

 

 死亡者数の推移としては 昭和25年(1950)で 総人口8,320万人、出生児;234万人、死亡者;90万人でしたが 平成22年(2010)では 総人口;12,805万人、出生児;140万人、死亡者;139万人となり 平成24年からは死亡者数が出生児数を上回る様に成りました。今後も死亡者数は 2035年頃までは増加を続け 2035年の予想死亡者数は180万人と想定されます。


 少子高齢化の進捗と共に 当然の事ながら死亡者の中に於ける高齢者の比率は高まり続け、死は 何時 誰に起こるかわからない と言う従来の無常観に変わって、死は高齢者のものという観念が強くなって参りました。


   今回は以上です。

死亡診断書

 今回は死亡診断書に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡診断書は 死亡事由などに付いての検案について記した診断書の一つであり、死亡を証明する効力を持ちます。その発行は 診断をした医師、もしくは歯科医師のみが出来ます。記載用紙は 左が死亡届、右が死亡診断書の、組になったA3用紙です。

 

 戸籍法では 人が亡くなった場合 故人様のご親族 又は関係者は 死亡届をご逝去後、7日以内に死亡診断書 又は死体検案書を添付して届け出なければ成りません。

 

 通常の病死、あるいは老衰などの自然死の場合は、その診断、治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します。突然死や 長く医師に罹っていないで死亡した場合は 病死、或いは自然死であっても 医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この様な場合と 病死あるいは自然死以外の異状死体、又は犯罪の疑いのある死体の場合も警察の検視を経て、監察医又は警察の嘱託医による検案を受けて 死体検案書が発行されます。死体検案書も死亡診断書と同等の効力を持ちます。神奈川県警察本部の場合 検案には状況に応じて2万ー7万5千円の費用が発生します。又 検案所までの往復のご遺体移送費用もご遺族のご負担となります。


 警察による検視、監察医による検案が必要なケースは;

 1 病死、あるいは自然死であっても 生前に診察・治療の担当医師がいない場合。

 2 病死、あるいは自然死であるか不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの 非犯罪死の場合。


 死体解剖保存法では

  政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内に於ける伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体 その他死因の明らかでない死体に付いて、その死因を明らかにするため監察医を置き、これを検案させ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させる事が出来る。

とあり、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市には監察医が置かれ、その他の地区では 嘱託医が置かれております。現在の横浜市では検案所は2ヶ所御座います。


   今回は以上です。

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 

 臨終とは 人が生命活動をを終える間際の時期を言い、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語です。古くから 人が必ず迎えなければならない 臨終という 危機的な時期を巡って 人は死をどう受入れるべきか、人の死をどう看取るべきか 様々な習慣と文化が生み出されて来ました。

 

 死を迎える事の意味を説いた古い文献としては エジプトやチベットで作られた ”死者の書”が有名です。又 西ヨーロッパに於いては 中世末期に ”往生術”として 臨終を迎える人の為の心得を書いた文献が出され、その手引書では 死の身取り手は臨終者に対して 回復するかも知れないと言う幻想を与えてはならず、臨終者が死を自然に受け入れられる様 出来るだけの手助けをすべきであると解説しています。

 

 インドの仏教に於いては 祇園精舎の北西の一部に無常院を作り 病人や死を迎える人々を受入れたとあります。その後 中国 唐代の僧侶 道宣は 無常院の堂内では 仏の立像が西方に向いて安置され その像手に五色の布をかけ その布を後ろに垂らし 背後に横臥した死を迎える人々はこの布を持って往生を祈願した と説いています。又 看病人は ともに念仏を唱えて 往生を助けなければ成らないとも説いています。日本の仏教に於ける 臨終の作法、習慣は これらを基にして作り上げられました。

 

 ご臨終は ご本人にとっては勿論、近親者にとっても大切な時です、最後の看取りがきちんと行えるかは 近親者の後のお心にも影響を与えるからです。ご本人が安らかに最後の時がお迎え出来る様、ご家族の方は 医師とも十分なコミュニケーションを図り、ご本人が会って於きたい方々を手配して 安らかなご臨終をお看取りしたいものです。

 

   今回は以上です。

ご遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 人が生命活動を停止すると その身体は徐々に腐敗して行きます。この腐敗が ご遺体への恐怖であったり、穢れの考えを生み出す事に成ります。腐敗が どの様に進むのか、どの様にしてそれを止める事が出来るのかは以下の通りです。

 

 生命活動を止めた身体には 個人差や身体が置かれていた場所の環境により違いは有りますが 次の様な変化が起きます。

 1 身体の腐敗

   死後1時間ぐらいから腸内細菌が増殖を始め、腸内細菌の増殖と胃腸の融解により腐敗が進行し、腐敗ガスが発生します。

 2 死後硬直

   身体の筋肉が硬直し関節が動かなくなる現象です。死後2時間ぐらいから出始め、20時間後くらいに硬直は 最も強くなり、その後 腐敗の進行と共に硬直は解けて行きます。最初は顎関節に現れ、順次 全身に広がります。手足の硬直は6、7時間前後から始まります。

 3 死斑

   心臓が停止すると 体内の血液は循環を止めて 身体の下部の静脈に留まります。この血液の色が皮膚を通して見えるのが死斑です。死斑は 死後30分程度でご遺体下部に斑点が出始め、2−3時間で融合し、20時間で固定します。

 

 ご遺体とは ”霊魂が遊離し遺された体” という意味ですが、ご遺族にとりましては 恐れでも、穢れでもなく 大切にお見送りするお体です。このお体を腐敗させない方法は幾つか御座います。

 1 ドライアイスによる冷却

    1週間から10日間の間に有効です。腐敗は内臓より始まりますので、お腹、胸、両脇などのドライアイスを当てて腐敗を遅らせます。季節にもよりますが 10Kgのドライアイスで24時間程 有効です。

 2 冷蔵保存

    1ヶ月位 有効です。専用の保管庫を摂氏2度に保って腐敗を遅らせます。

 3 冷凍保存

    非常に長期間の保存が可能です。専用の冷凍庫でご遺体を凍らせます。米国では一般的ですが、日本では特別な場合を除いて行われて居りません。

 4 エンバ−ミング

    半永久的に保存が可能です。血液を薬品と置き換えて腐敗を防止します。日本国内では業界自主規制により 50日以上の保管目的でのエンバーミングは行わない事にして居ります。費用は10万円+α。

 

 以上の他に 過去には ミイラ、即身仏、アイスマン、桜蘭の美女、ロザリア・ロンバルド 等が有りました。

 

    今回は以上です。

密葬

 今回は密葬に付いて書かせて頂きました。

 

 密葬とは 故人様のご逝去を対外的に公表したくない場合、或いは何らかの理由で本葬儀を後日 時間を空けて行う場合に 故人様の家族、近親者、極く親しい友人のみで小規模に執り行う葬儀のことです。近親者でのご火葬を目的として居ります。一般的には 後日 対外的な本葬儀、あるいはお別れ会などを執り行うのが 本来の意味合いです。

 

 元来 密葬は 有力者や有名人などが亡くなった際、大規模なご葬儀を準備しなければならず、それなりの準備時間を必要とします。この様な場合 ご遺体を長時間 維持する事を避ける為、ご火葬を目的とした内輪の葬儀を執り行い、後日 お別れ会や 社葬などを執り行います。

著名人や芸能人 本人やご家族が亡くなった場合 その葬儀には 普段親交のある方だけでも大勢の方々が集まり、更にファンやマスコミも集まることで 混乱を招きかねません。その為 然るべき場所と時間を選び、きちんとした準備が必要と成ります。

又 大企業の経営者や大きな団体の責任者のような方の場合は 社員、関係会社、取引先、関連団体など ご本人やご家族との親交に係わり無く、葬儀に参列される方は多くなります。社葬、団体葬なども会葬の方々に失礼の無い様 十分な準備が必要と成ります。

 

 密葬は小規模な葬儀と言う点で 家族葬と混同されがちですが、密葬と家族葬は同義では有りません。

 

   今回は以上です。

斎場、斎苑

 今回は斎場、斎苑に付いて書かせて頂きました。

 

 斎場、斎苑は 主として地方自治体が火葬場を整備するに当たり、忌避感を持つ火葬場という名前を避ける為に使用されました。又 時代の要求に応えて葬儀式場を併設した総合施設として利用されて居ります。

 

 葬儀事情は 戦後 大きく変わりました。葬列を中心とした葬儀が姿を消し、葬儀の中心は告別式へと移ります。同時に 家族や関係者の地域拡散が進み、葬儀はお通夜 葬儀・告別式の2日間に集中 短縮する様になり、更に核家族化と共に葬儀式場は自宅から葬儀場の利用へと移行して行きました。この様な住民ニーズに応える為 都市部の自治体は式場・火葬場併設の斎場、斎苑を建設し 住民サービスの向上に努めて居ります。

 

 遠方よりの会葬者に便宜を図る為の 日程短縮は 葬儀式と告別式の同時進行、式の時間も一時間以内というのが一般化しました。横浜市営の斎場では お通夜は18時、もしくは19時より始まり 式は45分間 その後にお清めが続き 20時半でお開き 21時で退場と成ります。又 21時以降は火災予防の為 火気厳禁となりますので、宿泊は可能ですが灯明、線香を灯す事は出来ません。翌日は 葬儀・告別式と成りますが、約45分間の間で葬儀・告別式の同時進行と初七日法要も執り行うのが一般的です。初七日法要の後に最後のお別れとなります。そしてご火葬と続きます。初七日法要のお斎の席は ご火葬をお待ちの間に控室でお設けします。

最後にご収骨をされて終了となります。尚 市営斎場ではご火葬後に部屋を使用する事が許されず、ご火葬後の初七日法要を行う事は出来ません。

 

   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬場とは ご遺体を火葬に付す為の施設を言います。最近では 近代的施設として 無煙化、無臭化、緑地化を進め 近隣住民からの嫌悪感を無くす為 斎場や斎苑と呼ぶ様に成りました。現在の横浜では 横浜市営として葬儀式場を併設した斎場は3ヶ所(横浜市北部斎場、横浜市戸塚斎場、横浜市南部斎場)、火葬設備のみの斎場は1ヶ所(横浜市久保山斎場)の計4斎場が有ります。この他に私営の斎場として葬儀式場を併設した西寺尾会館が有り、合計5ヶ所の火葬場が運営されて居ります。

 

 日本に於ける火葬は 仏教による宗教的要請から発生しました。古くは常設の火葬場は無く、野焼きと呼ばれ 人里離れた場所に仮設の火床を設けて火葬が行われました。その後 墓地の傍らや、寺院の敷地内に常設の火床が設けられる様に成ります。とは言えまだ設備と呼べる様な状態では無く 火屋 とか 焼屍爐 などと呼ばれて居りました。本格的な火葬施設が出来たのは明治時代に入ってからです。欧米から輸入された 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した 大規模火葬場が作られました。又 この頃より ご遺体の火葬を行う施設を火葬場と呼ぶ様になって居ります。

ご火葬の使われた燃料は 野焼きの頃は もちろん 藁、木薪、木炭が使用されました。明治時代の作られた火葬炉でも 当初は 木薪や木炭が使われ、その後 大正に入り 石炭、コークス等が使われ始め、更に 重油が使われる様に成りますと 燃焼時間は飛躍的に短縮され 即日の収骨が可能となりました。その為 火葬場内に控室等も設備される様になります。現在では 高度に機械化されたコンピュウター制御による電気式火葬炉が一般的となって居ります。

 

 現在の日本に於ける 火葬率は99%を超え世界一の高水準となって居りますが、明治初期には必ずしも高くは無く、昭和15年に初めて過半数(55%)を超えるという状態でした。しかし 戦後 人口の都市集中、市街地での土葬禁止、土葬可能な広さの墓地は入手困難、地方自治体による火葬場の整備などが合いまって この高火葬率と成りました。

 

   今回は以上です。

祭壇

 今回は祭壇について書かせて頂きました。

 

 祭壇とは 神、精霊、や死者などに 犠牲や供物を捧げる為の壇で有ります。ヘブライ語聖書によれば 祭壇は目立つ場所に 土を盛り上げたり 石を置いたりして作るとされています。又 地面に獣の皮やコモを敷いたものなども有ります。更に 神殿の様な複雑な構造を持ち、入念に装飾された構造物へと発展しました。祭壇はその宗教により異なり、大小様々です。

 

 日本の葬儀に於いては95%以上が仏教の葬儀であり、その祭壇としては  古くは小さな壇の上に灯明立、香炉、供花、供物を供えたものでしたが、昭和時代に入り、葬儀の主体が葬列から告別式に変化すると 葬儀用の祭壇も大きく変化しました。従来の壇は前机となり、その後ろに2段、3段、あるいは5段の祭壇が飾られる様に成ります。又 ご遺影写真もこの頃から飾られる様に成りました。そして 戦後復興がなった照和28年以降 祭壇文化が花開く事に成ります。こうした祭壇文化もバブル崩壊、それに続く少子高齢化社会の到来と共に小さな葬儀が主流となり、大きく荘厳な白木の祭壇から 華やかな花祭壇へと変化しました。

 

 花祭壇も当初は白菊、白カ−ネ−ションを使用し厳かな祭壇を用意して居りましたが、最近は故人様やご遺族のご希望に合わせ お好きな花を交えるなどした華やかな祭壇も多くなりました。又 ご家族だけでの密葬などでは 祭壇は作らず お柩の周りを故人様の好みの花で囲んだ お見送りなども これから多くなるのではないでしょうか。

 

   今回は以上です。

霊柩車

 今回は霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 

 霊柩車とは ご遺体をお納めした柩を移送する目的で作られた自動車です。ご遺体のみを移送する目的では寝台車が使用されます。霊柩車には 宮型霊柩車、洋型霊柩車、バス型霊柩車等が有ります。

 

 明治時代 葬儀の中心は葬列でしたが、葬列の拡大化に比例して批判の声も大きく成り、モータリゼーションの発達を基に霊柩車が開発されました。日本最初の霊柩車には諸説ありますが、確認出来るものでは 大阪の有力な葬列提供業者であった 籠友の鈴木勇太郎氏が米国の葬儀事情を視察し、大正6年に米国よりパッカードの霊柩車を輸入して日本風に改造しサービス提供を始めました。又 大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より 導入しました。

 

 宮型霊柩車は キャデラックブレアム、リンカーンタウンカー、トヨタクラウン等の高級乗用車を改造して 宗教的装飾を加えた棺室を設置して居ります。棺室は白木造りのものと 漆塗りのものがあり、壁面や天井部分に極楽浄土や蓮の花等が描かれたり、彫られて居ります。

 

 洋型霊柩車は 高級ワゴン車をリムジン化して使用されています。宮型の様な装飾はせずに シンプルな黒塗りの車体となります。最近は パールホワイトやシルバーに塗られたものも出て来ました。宮型霊柩車は余りにも目立ち過ぎる事から 乗り入れを拒否する施設も出始め、洋型霊柩車に変わりつつあります。

 

 バス型霊柩車は 大型バスやマイクロバスを改造して作られおり、柩と共に ご遺族・僧侶・会葬者が同乗出来る様になって居ります。冬季の気候が厳しい北海道などで多く利用されて居ります。

 

 霊柩車にまつわる迷信として ”霊柩車が走っているのを見たら 親指を隠さないと 親の死に目に会えない” というものが有ります。

 

   今回は以上です。   

告別式

 今回は告別式に付いて書かせて頂きました。

 

 告別式とは 宗教的儀式を伴わない 故人様とのお別れの儀式が 本来の目的です。現在では仏式の葬儀に於いて、家族・親族によるお見送りを葬儀、知人・友人によるお見送りを告別式と定義して、葬儀・告別式は何時よりと 表現する事が一般的と成りました。日本で最初の告別式は 明治34年の中江兆民の葬儀と言われて居ります。

 

 明治時代に於ける葬儀は 葬列を中心とする儀式が主流でしたが、都市部においては 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げて良いのか” との批判や 明治17年に制定された ”墓地及び埋葬取扱い規則” により 火葬場や墓地の所在地が限定され 葬列を組む事が 徐々に難しくなって行きます。又 明治後半に導入された路面電車の発達が葬列廃止を加速させます。大正時代に入ると 葬儀の中心は別式へと 変化して行きます、又 ご遺体の移送は 葬列から霊柩車の使用へと変わって行きました。


 中江兆民の葬儀は 明治34年12月17日に 青山墓地式場で執り行われました。中江は無宗教であった為、無宗教式の告別式により見送られました。柩が式場正面に安置された後、葬儀係による挨拶が行われ、板垣退助による弔辞拝読、大石正巳の演説、門下生総代 永訣弔詞、弔歌・弔詞の拝読と続いた後、嗣子・親族 及び会葬者が柩前で告別をなしました。最後に 嗣子(十三才)と親戚代表が会葬者に挨拶をして終了しました。

仏式の葬儀と比較すると 僧侶の読経に代えて 弔辞・演説・弔歌・弔詞などの献読が行われ、焼香の代りに 棺前告別が行われた考えられます。この告別式以降 かなりの数の告別式が行われる様に成りましたが 主として大学関係者や法曹関係者が中心で 一般大衆に広まるのは昭和に入ってからとなります。


   今回は以上です。 

庶民の葬儀

 今回は庶民の葬儀、特に明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀の簡素化については 古くより 時の権力者により度々布告されて居ります。これは 葬儀の奢侈化が常に起こっていた事示して居ります。江戸時代には 士農工商の身分制度が確立され、夫々の身分ごとに 葬儀の基準が示されて居りました。明治に入り 身分制度が解放されると 力を持った商人を中心に 葬儀事情は大きく変化して行きます。 大きな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、粗供養の増大などです。


 まずその第一は 以前は 夜間にひっそりと 限られた人数で葬列が組まれて居りましたが、日中に葬儀が行はれる様に成り 商人たちは その財力を誇示して 大掛りな葬列を組む様に成ります。又 役目を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。


 第二には 寝棺と それを運ぶ輿の登場です。江戸時代には座棺が普通でしたが、富裕層では 葬列の肥大化と共に 寝棺が使われ始め、それを運ぶ為に 飾り付けられた白木の輿が作られました。現在も使われている白木の宮型霊柩車は この輿を原型として居ります。但し 一般庶民の間では 第二次世界大戦終戦まで 座棺が使われて居りました。


 第三は 色々な葬具の出現です。葬列を飾る為に 野道具と言われた葬具が見栄えの良いものに変わって行きます。金蓮、銀蓮、生花や造花を押した花車、鳩を放鳥する為に作られた放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿など 多彩な葬具が開発されて行きました。現代 葬具の始まりとも言えます。これ等の葬具を製作する為、専業化が進み葬具屋が出来てゆきます。


 第四としては 粗供養の大型化です。葬儀の際に地域の人々へ食事を振舞ったり、葬列 出発の際に 花籠に 菓子や小銭を入れ、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言った 供養は江戸時代でも行われて居りましたが、明治に入り 葬儀の大型化と共に 会葬者全てに対して 菓子包み、饅頭、弁当を配るという 今日の会葬返礼品の原型が出来てきます。そして 喪家側も不足しては恥と考え 大量に用意する様になり、費用の面でもかなりの比重を占めるように成りました。


   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を指します。現在では斎場とも言われます。古くは 天皇の御体を火葬する場所を 山作所、天皇家以外の火葬場は 三昧(さんまい) 三昧場 或いは 荼毘場 と呼んで居りました。又 近畿以西では 火屋や、三昧の呼称が定着し、関東以北では 焼き場や、竈場(かまば)の呼び名が定着した時代も有りました。


 日本国内に於ける火葬場の歴史は弥生時代後期から有すると想像されますが、確認出来る物は 日本書記に記載されている 700年以降であり 仏教の要請から発生して居ります。当時は 常設の火葬場は設けられて居らず、貴人の火葬に当っては 火床を設け その周りを幕や板塀で囲んだ 仮設の場所で行われました。その後 庶民の間でも 火葬を行う者が現れ 人里離れた野原に木薪を組み上げ その上にご遺体を乗せて焚焼しました。これを 野焼きと言います。野焼きは 特定の地域に於いて 昭和後期まで行われて居りました。

 

 鎌倉、室町時代に入ると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい場所に石等で火床を設けた 常設の火葬場所だ出来始めます。これらは 火屋、火家、三昧、荼毘場などとよばれ、京都、大阪、江戸の都市に広がって行きました。そして 火葬の際に出る 臭気や灰等の弊害から 郊外に統合化され 大規模火葬場が出来て行きます。その典型的な例が 小塚原刑場近くに作られた 現在の東京博善町屋斎場です。江戸時代中期には 硬質良土を敷き込んで整地した上に 火床を設け 屋根かけもされる様に成りましたが、まだ火葬炉と呼べる状態ではありませんでした。

 

 明治時代に入り 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した トンネル状炉室と煙突を備えた 火葬炉が築造される様になり、火葬率の高かった 近畿、北陸、中国地方の 個人所有や 集落所有の簡易な火葬場にも普及して行きます。この火葬炉は 少ない燃料(木薪や木炭)で、ご遺体の燃え残りも少なく、使用も簡単で、煙突効果により臭気・煤煙も低減出来る事と成りました。そして 昭和初期には 重油焚きの火葬炉が開発されます。現在では 更に進んで ほとんどの火葬場では 電気式の火葬炉使用と 排煙処理により、臭気・媒炎などを気にする必要は無くなりました。

 

   今回は以上です。

 

 

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史について書かせて頂きました。

 

 火葬とは 葬送の手段の一つとして ご遺体を焼却する事です。火葬の習慣は釈尊の故事にちなんで 仏教の伝来と共に日本に伝わったと言われて居り、公衆衛生の面からも 土葬と比較して 衛生的であり、又 埋葬場所も小さくて済むメリットが有ります。尚 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼びます。

 

 日本で最初に火葬された人は 700年の僧道昭であり、最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇であると言うのが定説でした。しかし 近年の研究によれば 九州の古墳で 590年前後の火葬の痕跡が確認され、又 今月始めには 長崎県大村市で弥生時代後期(2世紀ごろ)の竹松遺跡に於いて 火葬されたと見られる人骨だ発見されたとの発表が有りました。検証の上でこれが認められれば 日本に於ける火葬の歴史が より古くから有った事になります。  

 

 中世の火葬は 常設の火葬場は無く 逝去した後 火葬の為の家屋を作り そこで火葬されました。当然の事ながら費用も掛り、庶民の間に普及する事は有りませんでした。江戸時代になり 寺請制度により 仏教が国教待遇となり 仏教が推奨する火葬は 仏教寺院に火屋と呼ばれる火葬施設が作られた事などから 大きく普及するかと考えられますが 費用等の面から 大きく広がる事は有りませんでした。当時の火葬率に関するデータは有りませんが 20%程度でないかと推測されます。火葬率に関するデータとして現存する物では 明治29年のデータで 全国での火葬率26.8%とあります。もちろん 階級や地域の格差は大きかった様で 東京や京都の大都市と 火葬を推奨する浄土真宗の勢力が強い 北陸地方では火葬率が高かったようです。大正14年の統計によれば 火葬率が65%を超える都道府県は 北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の八つです。そして 明治時代初期に 市街地での土葬を禁止した 京都市では 明治39年時点で 火葬率 80%の高率を示していました。何れにしろ明治以降 火葬率は高まり続け、現在では 火葬率 99%以上となって居ります。

 

   今回は以上です。

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