明治時代と神葬祭

 今回は明治時代の神葬祭事情に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本固有の多神教宗教である神道の葬儀で有ります。神道に於いては 人は皆 神の子であり 神の計らいによって母の胎内に宿り この世に生まれ この世で役割を終えると 神々の世界へ帰り 子孫を見守る と考えられて居り、神葬祭は故人に家の守り神となって頂く為の儀式であります。

 

 明治維新によって出来た新政府は 徳川幕藩体制を否定する為 民衆把握の基本となっていた 寺請制度を廃止し その母体となっていた仏教を排斥し 神道を新たに国教と位置付けます。明治元年発令の 神仏分離令、明治4年の戸籍法により 寺請制度の法的根拠が廃絶し 庶民は仏教寺院の檀家である必要が無くなりました。更に 明治5年の自葬禁止の布告により 葬儀は僧侶又は神職により 執り行われなければならなく成り 神職は氏子の神葬祭を自由に執り行う事が可能と成ります。そして それまで寺院の墓地は有りましたが 神葬祭の墓地が存在しなかった事をふまえ 明治同年に 神葬祭用の墓地として 東京市営で 青山墓地、谷中墓地、染井墓地の三墓地が開設されました。尚 三墓地共に 後年には 神葬祭限定ではなくなります。

 

 その後 明治政府は 信教の自由を布告し 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に係わる事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県社以下の神職と規定し、この規定は 第二次世界大戦終戦まで続く事に成ります。この様に神道は政府レベルでの支援を受けましたが 神葬祭はそれ程の広がりを見せませんでした。それは 法的根拠は無くなりましたが 民俗と結びついた仏教葬と檀家制度は 根強い基盤を民衆の中に持ち続けた事によります。

 

 尚 神道に於いて 死は穢れである為 聖域である神社で神葬祭は執り行わないと言われます。但し 神道でいう穢れとは 不潔・不浄の意味ではありません。肉親、或いは極く身近な方が亡くなり その悲しみによって 溌剌とした生命力が衰退している状態を 気枯れ=けがれ として居ります。

 

   今回は以上です。   

近世の神道

 今回は近世(江戸時代以降)の神道について書かせて頂きました。

 

 1700年頃の完成した 吉田神道も徳川幕府の寺請制度 発布により難しい立場に立たされる事と成ります。

 

 吉田神道は 仏教からの独立を果たそうとして来ましたが、寺請制度は 神社にとって大きな問題でした。神社の神職といえども 壇那寺を持ち その檀家に成らなければならず 神葬祭を行う事は出来ず、仏教葬を強いられました。そこで神社の神職は 仏教を排撃し 仏教色を払拭し 宗教としての神道を確立すべく 神葬祭の施行を唱えました。しかしながら 神葬祭を施行するには 檀那寺の許可が必要であり 強行すれば 檀家である事を止めねばならず、自らの身分保障が喪失する事と成りました。徳川幕府は 寺請制度(檀家制度)を宗教問題としてではなく、民衆管理手法として立ち上げて居りましたので 神葬祭 施行の許可は容易に下りず、ようやく1785年に 吉田宗家より 葬祭免許状を得た 神職本人 及びその嫡子に限り 寺院の宗門を離れ 神葬祭を執り行う事が許されます。但し その家族は宗門に留まらねばならないと規定され、この状態が明治維新まで継続されます。又 寺壇制度は 僧侶の退廃を生み 幕末には それを批判する国学者たちによる 排仏論も高まり、社会的な影響を与える事と成ります。

 

1867年 王政復古の大号令が下り、1868年(明治元年)には 神仏分離令が発令され 排仏毀釈へと進みます。ここに 日本の国教が 仏教から 神道へと変わり、第二次世界大戦終了まで続く事と成ります。

尚 神道に於ける 伊勢神宮の役割は非常に大きく、伊勢神宮の神官による 神道の学問的研究は 鎌倉時代に始まり 徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至ります。江戸末期には お伊勢参りを流行させ 庶民の中に神道を定着させました。宗教としての神道が確立される過程で 日本の民衆は 古くはインドの仏教の影響を受け、近世では中国の儒教の影響を受ける中で 伊勢派の努力が大きく寄与したと言えます。

 

   今回は以上です。

神道

 今回は神道(しんとう、かんながらのみち)について書かせて頂きました。

 

 神道は 古代日本に起源をたどる、日本固有の宗教で、山や川などの自然現象を敬い、それらから八百万の神を見出す多神教の宗教です。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に 豪族層による政治体制と共に徐々に成立しました。その分類としては 神社神道、民俗神道、古神道、国家神道、皇室神道(宮中祭祀)、教派神道等が有ります。一般的には 神道とは 神社神道を指して居ります。

 

 神道には 明確な教義や教典はなく 古事記や日本書紀など 神典と言われる古典を規範とし、森羅万象に神が宿ると考え、祭祀を重視し、浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目として居ります。又 仏教は 主として個人の安心立命や、魂の救済を目的(時代によっては国家鎮護を含む)を目的として信仰されて来たのに対して、神道は 神話に登場する神々の様に 地縁・血縁で結ばれた共同体を守る為に信仰されました。

 

 神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、神道と言う宗教として体系化されるのは 鎌倉時代中期以降と成ります。この体系化に大きく貢献したのが 吉田兼倶(1434−1511)です。兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 体系や儀礼を作り上げ 神道は 儒教や仏教の宗主であり 万法の基であると理論ずけました。神仏習合により 神社内に作られた寺院は 仏教の民衆化と共に独立し始め それに比して神道の地位は低下し 神社も修験道の手に移って行きます。吉田神道はこうした 神社・神宮寺・別当寺を傘下に収め 唯一の神道として習合して 1700年頃のその完成を見ます。

 

  今回は以上ですが、次回は江戸時代以降の神道について書かせて頂きます。

 

 

寺請制度

 今回は寺請制度について書かせて頂きました。
 
 
 
 寺請制度とは 西欧列強のアジア進出手段の一つであったキリスト教布教を弾圧する為に 江戸幕府より発布された 宗教統制の制度で、キリシタンではない事を寺院に証明させる制度です。必然的に民衆は 寺院の寺請証文を得る為に 何れかの寺院の檀家と成らなければ成りませんでした。この制度により整備された 宗門人別改帳は住民調査台帳とも成りました。
 
 
 
 室町から江戸時代の初期にかけて 民衆の間で寺壇関係の強化が進み、葬祭・仏事の主体は仏教寺院へと移り、そして 1665年の 寺請制度 発令により 寺壇制度が法令により確立します。この制度により公認された寺院は 宗門人別改帳(宗旨人別帳)を調査・整備し、家単位で 全員の名前、年齢、続柄、家畜等が記載された台帳を、村の構成員全体に対して作成しその運用も司りました。以降 人々は 出産、結婚、旅行、転居、奉公、死亡などの際には 寺院が発行する 寺請証文、送り状、請け状、手形等が必要と成りました。この制度により 仏教寺院は戸籍事務を代行する事と成り、仏教は日本に於ける国教と成ります。尚 この人口調査は 当時としては世界最大の事業であったと言えます。
 
 
 
 又 江戸時代には ”宗門壇那請合之掟” という書物が書き起こされ 檀家とはいかなるものかが示されて居ります。概要は以下の通りです。
 

 1 以下の日には 必ず寺院に出向いて お参りする事。
    2月15日の涅槃会、4月8日の釈迦の降誕会、12月8日の成道会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日。
 2 説教や仏法を説く 寺院の集会に参加する事。
 3 寺院の建物の建立や修理に協力する事。
 4 葬儀は必ず寺院にお願いする事。 


葬儀は寺院に依頼するという 現在の常識は 当時は義務として理解されていた様です。

尚 本書は 当時 徳川家康の書として もてはやされた様ですが 偽書と言われています。




   今回は以上です。


一家一寺

 今回は一家一寺に付いて書かせて頂きました。

 

 一家一寺制とは 家の家族全員が 同じ壇那寺に属する形を言います、丸檀家とも呼ばれます。江戸幕府による宗教政策 寺請制度により確立されました。これに対し 家族の中で異なる壇那寺を持つ場合は 一家寺違制と言います、半檀家、複檀家とも呼ばれます。

 

 江戸時代になると 惣村制がより確立され、大百姓が没落し、平均的な本百姓の集まりにより惣村が運営される様になります。その為 大百姓の菩提寺であった 寺院や道場は 地域共同体の母体となる 惣村の村惣堂や惣道場へと変化して行きます。

 

 江戸時代初期には 一家の構成員全てが家を単位として 一つの寺院の檀家となる 一家一寺制にはなって居りませんでした。家の中で 夫と妻が夫々 異なる寺院の檀家となる事もまま有る、半檀家状態でした。これが 17世紀後半 幕府による寺請制度の推進と、自立した農家の広がりにより 一家一寺制が確立しました。これに伴い 庶民の間でも 家という概念が成立し 祖先崇拝という考えが出来て行きます。一家は菩提寺としての寺院の経済基盤を支え、葬祭、仏事を寺院へ委託していく事に成ります。

 

 それまで 庶民の間では 自前のお墓を持つ習慣は有りませんでしたが、寺院と檀家という関係が出来上がると、次第に自前の墓を建てるようになって行きます。これまでは 庶民の間では ご遺体は共同の葬地に置いたり、埋めたりして居りましたが、家と言う考えが確立して行くと共に 自家の墓を所有する様に成ります。これらの事から 近世の庶民の墓は 家の確立と深く関係し 家の象徴、根拠として建てられたもので有る事が解ります。祖先崇拝が象徴的なものではなく、家の先祖という具体的な対象を持つ事が出来る様になると言う事は それが出来るような 庶民(農民)の自立が出来たと言う事でも有ります。

 

   今回は以上です。

檀家制度

 今回は仏教に於ける檀家制度について書かせて頂きました。

 

 檀家制度とは 仏教に於ける寺院と門徒の関係を指して居り、檀家とは 壇越(だんおつ)の家と言う意味であります。壇越とは梵語のダーナバティの音写で、寺や僧侶を援助する庇護者を指します。

 

 飛鳥時代の仏教伝来以来 仏教の壇越は皇室や有力氏族でした。この有力氏族が その宗派を信仰し、寺院を建立し、庇護者になると共に 僧侶は 有力氏族の為に葬祭供養を行いました。これが檀家制度の源流となります。その後 時代を経るとともに 寺院は寺領を持つ様になり 荘園領主と同様の 権力と権威を持つ様になり 寺院の収入原は 壇越のお布施から 荘園経営の収入へと変化し、壇越のお布施に依存しない寺院経営が行われます。しかし これも 応仁の乱頃までで 荘園制度の崩壊と共に失われます。

 

 これ等の旧仏教勢力に対して 新興仏教勢力は 一般民衆を対象として布教を行い 惣村の発達と結びついて 勢力を拡大して行きます。この間 仏教は 惣村の家々と結び付いて 民衆を壇越とし 檀家と壇那寺の関係が作られ始め その中身も 座禅中心から 葬祭中心へと 比重が逆転して行きます。これが 応仁の乱以降から江戸時代に施行された寺請制度までの200年間の推移です。

 

 江戸時代には キリスト教弾圧を目的とした 寺請制度に端を発する 檀家制度により 寺院の権限は強力となり 寺院は 檀家に対して 常時の参拝、年忌・命日の法要施行、寺院の改築費、本山上納金などの経済的負担を強要するようになります。今日に於ける 彼岸の墓参りや 盆の法事は この時代の檀家制度により確立しました。この時代 寺院は 社会に於ける基盤を強力なものとしましたが、一方で世俗化 形骸化も進み 各種の批判も起きて 明治の廃仏棄却へと繋がって行きました。

 

   今回は以上です。

 

庶民の葬儀

 今回は庶民の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於いて庶民とは 長い間 農民で有りました。世界でも有数の農業国家であり、多くの農民により 日本は支え続けらてて来ました。その農民が ある時期から 村落(惣村)と言われる共同組織を作り始め、仏教はその村落と結びついて民衆化がより進められる事と成ります。庶民の葬儀も この村落の習俗と仏教を融合させた葬法として作られて行きました。

 

 鎌倉時代中期までの日本では 荘園公領制度が確立し その作業員である農民は 自らの作業地に居住し、広く散らばった状態で 生活・経済活動が行われて居りました。その後 鎌倉時代後期より 幕府に任命された地頭の進出により 荘園公領制は崩れ始め、農民 自らは 地域運営、水利配分、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などを契機として 地縁的結合を強め 住居も集合して 村落が形成されて行きます。この様な村落を 地域内に居住する惣て(すべて)の人が構成員となる事から 惣村(そうそん)と呼ばれました。

 

 惣村の成立と共に 経済力も強化され 寺院を支える事も可能と成りました。南北朝から室町の時代 浄土宗を中心として禅宗、真言宗(密教)、日蓮宗、天台宗、浄土真宗(一向宗)などは 葬祭を中心として民衆化を推し進め、惣村に寺院や道場が作られて行き 葬祭仏教化がいちだんと進む事となりました。

 

 庶民の葬儀に於きましては 仏教式の葬儀が庶民の中に入るという事だけでは無く、其々の土地に於ける習俗との融合も進みました。この事はその後の江戸時代以降でも同じで 仏教の葬儀では 宗派の違いによる相違と共に 地域による相違は この習俗との融合によるものです。

 

   今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀

 今回は前回に続けて鎌倉時代の葬儀に付いてもう少し書かせて頂きました。

 

 鎌倉、室町時代に葬儀は 山頭念誦と呼ばれる 火葬場に於ける仏事が中心となって居りました。その点 出棺前に儀礼を執り行う 現代の葬儀とは大きく異なって居ります。

 

 葬送当日は まず 素服という粗い布で作る 喪服を裁縫します。夜になると この素服を着て御仏供養を行い、出棺となります。柩は御車(牛車)に安置し、葬列を組んで火葬場へ運びます、出棺後の寝所は 竹の箒で掃き清め、使用した竹の箒や 集めた塵はまとめて 川や山野に捨て、枕火を消して終了します。

 火葬場には 火葬の為の小屋を建て その周りを荒垣で囲い、鳥居を建てます。火葬場に 御車が到着すると 御車の前で 導師、呪願の僧侶による儀礼が執り行われ、柩を小屋の中に運んで 火葬が行われます。ご火葬の間は 僧侶と近親者により 真言が誦されます。ご火葬が終ると 火は湯で消し、灰は水で流します。そして 収骨となりますが、火葬場から骨壺となるカメまでの間 焼骨を箸で挟んで次の人へ渡し、カメに納めました。

 収骨された骨壺は 白の革袋に包まれ 召使の首に掛けて運び 三昧堂に納められました。そして 帰宅する前に わらで作った人形で 手祓いをします。

 又 室町時代の文献によれば 武士の間では すでに 金銭による香奠のやり取りの記録も有ります。又 火葬場の荒垣に白絹の布を張ったともあり、位牌を持つ者は家督であるとも書かれて居ります。

 火葬場では 奠湯・奠茶が行われ、読経がされ、精進落とし等も行われていた様です。


   今回は以上です。

吉事次第

 今回は吉事次第について書かせて頂きました。

 

 鎌倉時代に書かれた文献に ”吉事次第” があります。これには 当時の天皇・貴族の間で行われた 葬儀の概略が書かれて居ります。この時代には 蔡事 或いは凶事という言葉が忌み嫌われ 葬儀のことを 吉事  或いは勝事とよんで居りました。

 

 鎌倉時代には 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が興されました。貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、民衆は厄災に悩まされる事に成ります。日本に於ける 武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。その基になるのは 中国で編纂された禅宗の葬法で、本来は僧侶の為の葬法ですが それに手を加えて 武家や民衆の葬法と変化して行きました。

 

 吉事次第には 以下のように書かれて居ります。まず人が死ぬと 北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。香は燈火の火を点けて焚く。夏は酢を容器に入れて 死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。

棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。納棺は 褥のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。そして 頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて 葬儀に時まで北枕で安置する。葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで 貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り 荼毘に付す。収骨は 焼骨をカメに納めて土砂を加えて 蓋をし 白の皮袋に包む。そのご遺骨は三昧堂に納める。葬儀・火葬が終れば 貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。

この当時は葬儀の後 魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。七七日と一周忌の法要は以前から有りましたが、この時代から 三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。

 

   今回は以上です。

葬儀の仏教化

 今回は葬儀の仏教化に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀の仏教化は 平安時代中期以降 聖による 浄土宗・浄土真宗の一般民衆への布教が大きく広がり、その教えである 極楽往生の思想は 葬儀施行の基本概念として確立して行きます。

 

 986年 比叡山に於いて 25名の僧侶が集まり 二十五三昧会と呼ぶ念仏結社が結成されました。その趣旨は 月の15日ごとに衆僧25名は集結して念仏を誦し、極楽往生を願い、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する事を約しました。その中心となったのが 慶慈保胤(よししげやすたね)と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)でした。その起請には 毎月15日に念仏三昧を修する事、光明真言を誦して 土砂加持を修する事、阿弥陀如来を奉安した往生院を建て 病んだ結衆はそこの移す、病んだ結衆が往生院に移された場合は 二人一組で昼夜なく付添い 一人は看病 一人は念仏を担当する、ひたすら西方極楽浄土を念じ 極楽往生を念ずる、などが決まりとして述べられて居ります。

 

 二十五三昧会が結成される前年の985年に 恵心僧都源信は 極楽往生に関する重要な文章を集めた 仏教書 ”往生要集”を著わしました。その内容は十の章から成り、第一章に 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説き、第二章に 極楽浄土を説き、第三章に 極楽往生の証拠を書き、第四章以降に 浄土往生の道 念仏の功徳 念仏修行の方法 なによりも優れているものが念仏である などが説かれて居ります。

 

 往来要集は その後の日本文学思想などにも大きな影響を与えると共に 本書は 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台山国清寺に持ち返られ 唐末五代の混乱によって散逸した教法を 中国国内で復活させる機縁となったとされて居ります。  

 

   今回は以上です。

仏教の布教と葬儀

 今回は仏教の布教拡大とその葬儀について書かせて頂きました。

 

 仏教の伝来以来 当初は天皇家、貴族、豪族を中心に布教活動が行われて居りましたが、奈良、平安と時代が進むに連れて、一般民衆へも広がり始め、死者に対する儀礼としての葬儀も 共に形を整え始めました。

 

 奈良時代 僧侶になり出家する為には 官度と言い 官の許可が必要でした。私度と言い 官の許可なく出家する事は禁じられ、民衆に対する布教は禁じられたり、制限されたして居りました。しかし 私度僧が多く現れ始め、寺院に定住せず 諸国を回遊しながら 布教を進め 民衆から ”聖”と呼ばれて慕われ始めると 朝廷も 民間仏教を認めざるを得なくなりました。奈良時代 民間仏教の指導者としてその頂点に立つのが 東大寺の大仏建立に協賛し その後 大僧正となった行基です。行基集団は ”死魂を妖祇す”と言われ、死者の弔いに従事していたと考えられています。行基の弟子集団である志阿彌が火葬の技術を伝え、諸国の三昧聖になったとの伝承もあります。

 

 平安時代中期には 末法思想が広まり 阿弥陀仏の名を唱えて滅罪を願う 浄土信仰が民衆の間に普及し、その僧を念仏聖と呼んで敬いました。平安中期の有名な聖として 市聖と呼ばれた 空也がおります。この空也の集団も火葬に従事していたと考えられて居ります。こうした 民間仏教の拡大は 仏教の民衆化を押し進めると共に 民衆の葬儀の仏教化も進める事と成りました。尚 親鸞も念仏聖であり 聖人と呼ばれました。

 

平安時代の葬儀(念仏)

 今回は平安時代の葬儀に使われたお念仏に付いて書かせて頂きました。

 

 平安時代の葬儀の中では 光明真言、呪願、阿弥陀護摩などが行われて居りました。

 

 光明真言とは 密教の真言(真実の言葉、仏の言葉、呪文)で 願いを仏に直接働きかける事が出来る呪文とされて居ります。その言葉は神秘性を保つ為に 梵字を翻訳せずに 梵音を読誦します。葬儀に於いては 光明真言を108回唱える事により 死者の滅罪を願い、極楽に往生出来る様 仏に願うものです。その梵音と意味する所は;

オン アボキャ ペイロシャノウ

オーム(聖音) 不空なる御方よ 大日如来よ

マカボダラ マニ ハンドマ

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ

ジンバラ ハラバリタヤ ウン

光明を 放ち給え フーン(聖音)

アボキャは不空成就如来を、ペイロシャノウは大日如来を、マカボダラは阿閣如来を、マニは宝生如来を、ハンドマは阿弥陀如来を指しており、金剛界五仏に対して光明を放つように祈願している真言です。そして その功徳は

  • 過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除減する。
  • 十悪五逆四重諸罪によって 地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対して、光明を及ぼし諸罪を除き、西方極楽浄土に行かせる。
  • 先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する。

光明真言は平安時代に始まり、その後 庶民の間にも広まり現在に至って居ります。

 

 呪願とは 法会や食事の時に 施主の願意を述べて、幸福を祈る事ですが、葬儀では 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、極楽浄土に往生する様 祈願する事となります。呪願を執り行う僧侶を呪願師と言います。

 

 阿弥陀護摩は 密教に於いて 阿弥陀如来を本尊とし 無病息災・延命を祈って焚く護摩ですが、死者の減罪にも力が有ると信じられて居りました。

 

   今回は以上です。 

平安時代の葬儀

 今回は平安時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於ける 仏式の葬儀の形式は 平安時代に出来あがったと考えられて居ります。その典型例として 第66代 一条天皇のご葬儀が語られます。一条天皇は わずか7歳で即位して後 1011年 32歳で崩御されるまで 25年間 在位し 平安王朝文化を花咲かせた天皇です。源氏物語の作者と言われる 紫式部は 一条天皇の中宮であった 彰子(しょうし)の女房として宮中に仕えて居りました。

 

 6月22日 譲位して上皇と成られた天皇は危篤状態となり 正午ごろに崩御。6月25日 宮中に陰陽師が召されて 葬送の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占わせる。同日 沐浴をさせ 深夜に入棺。入棺作業には 慶円僧正他数名の僧侶と 公卿数名が奉仕し 皇后・宮さま方により 棺に形代が入れられました。7月8日 葬送 参列の人々は 素服を裁縫して着用、慶円僧正が呪願を行い、院源僧都が導師を務める。出棺には 柩を輿の上に安置し葬列を組んで、通常の出入り口とは異なる 築垣を崩して 道に出 御竈所(火葬場)へ向かい、僧侶立会いの下に荼毘に付されました。7月9日 早朝 荼毘が終了し 会葬者により お骨が拾われ 白壺に納められました。骨壺は円成寺に移され仮安置され、その後 建てられた三昧堂に 7月20日 奉納されました。8月2日と11日に七七の法事を執り行い、翌年の6月22日に一周忌の法事を行い 葬送の行事が終了しました。

 

 以上の中で 危篤状態での念仏による臨終作法、納棺に先立つ沐浴、僧侶も奉仕した納棺作業、近親者による形代の奉納、輿を使用した葬列、荼毘への立会い、収骨、帰宅前の浄め、七七の法事、一周忌の法事等、日本の葬送習俗の原型がこの頃に出来あがったと考えられて居ります。

 

  今回は以上です。

三昧

 今回は三昧(さんまい)に付いて書かせて頂きました。

 

 三昧とは インドに於ける ”サマーディ” が中国を経て日本に伝来する際に変化した仏教用語です。その意味する処は 仏教に於ける 禅定、ヒンドゥー教に於ける瞑想の中で 精神集中が深まり切った状態をさします。日本の仏教の中では 法華三昧や常行三昧が 重要な要素となって居ります。

 

 法華三昧は 天台宗の宗祖最澄により 日本に紹介されました。最澄は 812年 比叡山に 法華三昧堂を建立してその教えを広めました。法華三昧は 比叡山に於ける 朝題目、夕念仏 と言われる日常修行の一つで、法華経を読経する事によって 身を清め、罪障(極楽往生の妨げになるもの)を消滅させることが出来るとの教えによります。これが 民衆に広まる際 法華経を唱えると 死者の霊を清め、減罪し、地獄に落ちる事が無いとの信仰となり、葬儀の中で重んじられる事に成りました。法華三昧堂は 三昧堂、法華堂とも呼ばれます。

 

 常行三昧は 同じく天台宗の修行の一つで 阿弥陀仏の名を唱える(念仏)事により 極楽往生を願うもので有ります。法華三昧の減罪と 常行三昧の成仏が 対となって 信仰を広めたと言われて居ります。常行三昧の修行を行う所は常行三昧堂、阿弥陀堂と呼ばれました。東北今泉の中尊寺金色堂は 常行三昧堂の様式に従って建立されたと言われて居ります。

 

 法華三昧、常行三昧の流行により それを庇護する 天皇家や貴族は法華堂や三昧堂を建立し、死後は そこに納骨をする様になります。その広がりと共に 寺院への納骨が一般化して行ったと考えられます。

 

  今回は以上です。

天皇家の葬儀

 今回は天皇家の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 天皇家の葬儀は本来 神式で執り行い土葬とされて居りましたが、2013年11月14日に宮内庁より 今上天皇陛下の崩御の際は 陛下のご希望により ご火葬とする との発表がされ 巷では色々とコメントが出されました。

 

 火葬は仏教の葬法と言われ 仏教の伝来と共に 日本に伝わったと言われ居ります。これは釈尊が火葬された事にちなみます。天皇家は仏教伝来 以前から存在し そのご遺体は土葬にされて居りました。仏教伝来後 天皇家にも仏教に寄衣する方が出始め ご遺体をご火葬する様に成りました。最初にご火葬された天皇は 仏教の信仰に篤かった 第41代の持統天皇で 702年にご火葬とされました。以降 第120代の仁考天皇まで ご火葬が基本となって居りました。そして 幕末に崩御された第121代の孝明天皇以降 土葬に戻されて 現在に至ります。尚 第108代の後水尾天皇から120代の仁考天皇までは 色々な事情から 表向きは伝統の火葬をした事にして 実際には土葬がされました。従いまして 最後にご火葬された天皇陛下は 1617年に崩御された 第107代の後陽成天皇です。

 

 天皇家の葬儀の例として 第56代の清和天皇の葬儀が有ります。平安時代前期の 880年12月4日に崩御されました。天皇は既に出家の身でありましたので 西方に向かい、仏教式に結座し、両手を組み合わせて 崩御されたとあります。その身はそのまま念珠を手にかけて納棺し 即日 火葬にされました。死後 4日目の12月7日に ご遺骨は埋葬され、7日目の12月10日に初七日、翌日より円覚寺にて 四十九日までの間 昼は法華経、夜は光明真言が 延べ50名の僧侶により誦経されました。そして 1月22日に 円覚寺にて 七七日の設斎が執り行われました。

 

   今回は以上です。 

御霊信仰

 今回は御霊信仰について書かせて頂きました。

 

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 奈良時代に始まる 日本の信仰の一つで 人は死ぬと その魂は霊となり肉体から離れると考えられて居り、恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の霊は 怨霊となって 特定の人を脅かしたり、天災や疫病をさせると考えられました。この怨霊を鎮めて 御霊とする事により 祟りを免れ、平穏を繁栄を祈念する信仰であります。

 

 史実にもとずく御霊信仰の歴史は ある意味では政争の歴史でもあります。その例で古いものは 775年に 井上内親王が その子供と共に憤死させられ、その祟りにより 夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされた為 777年に 内親王の墓を改葬し 御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊を鎮めたとあります。又 平安京への遷都も 皇太子の座を廃され憤死した 早良(さがら)親王の怨霊により 新皇太子が病に侵されたとの 陰陽師の占いによる とされて居ります。

 

 平安時代に入ると貴族階級の中で 陰陽師による 怨霊鎮魂が盛んとなりました。何か事有る度に 怨霊鎮魂の為の 御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。又 大宰府に左遷され 非業の死を遂げた 菅原道真の怨霊により 親王や天皇が崩御したとの占いから 御霊会を営むと共に 道真公の霊を北野天満宮にお祀りして 霊の鎮魂を図りました。

 

 その後 都市住民の間でも 怨霊への信仰が広まり 大規模な災害や疫病などは 怨霊によるものと考えられて 怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になり、御霊神社も建立されるように成りました。 

疫病を防ぐ為の御霊信仰で有名な祭としては 毎年 7月1日から30日間 営まれる 京都 八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)が御座います。

 

   今回は以上です。

御霊信仰

 今回は御霊信仰について書かせて頂きました。

 

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 奈良時代に始まる 日本の信仰の一つで 人は死ぬと その魂は霊となり肉体から離れると考えられて居り、恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の霊は 怨霊となって 特定の人を脅かしたり、天災や疫病をさせると考えられました。この怨霊を鎮めて 御霊とする事により 祟りを免れ、平穏を繁栄を祈念する信仰であります。

 

 史実にもとずく御霊信仰の歴史は ある意味では政争の歴史でもあります。その例で古いものは 775年に 井上内親王が その子供と共に憤死させられ、その祟りにより 夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされた為 777年に 内親王の墓を改葬し 御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊を鎮めたとあります。又 平安京への遷都も 皇太子の座を廃され憤死した 早良(さがら)親王の怨霊により 新皇太子が病に侵されたとの 陰陽師の占いによる とされて居ります。

 

 平安時代に入ると貴族階級の中で 陰陽師による 怨霊鎮魂が盛んとなりました。何か事有る度に 怨霊鎮魂の為の 御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。又 大宰府に左遷され 非業の死を遂げた 菅原道真の怨霊により 親王や天皇が崩御したとの占いから 御霊会を営むと共に 道真公の霊を北野天満宮にお祀りして 霊の鎮魂を図りました。

 

 その後 都市住民の間でも 怨霊への信仰が広まり 大規模な災害や疫病などは 怨霊によるものと考えられて 怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になり、御霊神社も建立されるように成りました。 

疫病を防ぐ為の御霊信仰で有名な祭としては 毎年 7月1日から30日間 営まれる 京都 八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)が御座います。

 

   今回は以上です。

埋葬

 今回は埋葬に付いて書かせて頂きました。

 

 埋葬とは ご遺体を土の中に埋める事を言いますが、必ずしも土中に限らず 地下室や地上の施設に葬る場合も埋葬と表現します。現在の横浜では 100% ご火葬後の埋葬と成っておりますので、ご遺骨を埋葬する事となります。

 

 埋葬の歴史は古く 10万年ほど前のネアンデルタール人の時代には 埋葬が行われていたと考えられて居ります。又 その前の猿人・原人の段階では埋葬は行われていなかったと推定されて居ります。これは 人類が考える力を持ち始め 人の死や死霊などを特別な意識で見始めてから 埋葬と言う行為が始まったと推定されます。そして 埋葬の場所として 墓域が設けられて居たとも推測されます。その後 文明の発展と共に 強力な権力者が誕生し 埋葬行為は権力の象徴へと変化して行きます。

 

 日本に於ける 埋葬では 旧石器時代に属する 北海道の湯の里遺跡で お墓と思われる遺構が発見されて居り、旧石器時代には既に埋葬が行われていたと考えられます。それに続く縄文式時代以降には多くの遺跡で 埋葬行為が確認されて居ります。集落内や貝塚などに墓域が設けられ、土器棺、石棺に納められて 土葬により埋葬されて居ります。埋葬には手足を折り曲げた屈葬と 手足を伸ばした伸展葬が有りますが、この時代は屈葬が一般的でした。又 再葬と呼ばれる埋葬方法も見られます。再葬は 一度 ご遺体を埋葬し 白骨化した後に 改めて骨壺に納めて埋葬し直す方法です。そして 埋葬の形態は 弥生時代、古墳時代と進むにつれ より大掛りなものへ変化して行きます。

 

   今回は以上です。 

もがりの儀式

 今回は”もがりの儀式”に付いて書かせて頂きました。

 

 もがりの儀式とは 日本の古代に貴人が逝去された際に行われた儀礼で、本葬までの間、もがりの為の屋家を建て、ご遺体を棺に納め その屋家に仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を敬い、かつ慰め、死者の復活を願う儀式です。そして 同時に ご遺体の腐敗や白骨化などを確認して、最終的な死の確認をする為の期間でも有りましたので、もがりの期間はかなり長い期間であったと考えられます。中国 隋の書物によれば 倭国・高句麗ではもがりの期間は3年間であったと記録されて居ります。もがりの後にご遺体は埋葬されますが、長いもがりの期間は 大規模な墳墓を整備する為に必要だったとも考えられます。又 この仮屋家は もがりの宮、あるいは喪屋と呼ばれて居りました。 

 

 古事記(712年)によれば もがりの宮の中には 旗持ち役、掃除役、死者に食事を供する役、お米を突く役、泣き役の者達が控え、歌舞により死者の霊を慰めたとあります。このもがりの儀式は 大化の改新以降に発令された薄葬令によって 葬儀の簡素化、墳墓の小型化が進められると共に 仏教の伝来により急速に衰退しました。

 

 もがりの宮は現代でも生きて居り 天皇陛下が崩御された際に仮設される ご遺体安置所をもがりの宮と呼び、皇后・皇太后のご遺体安置所は ひんきゅうと呼ばれます。昭和天皇 崩御の際も 崩御後13日目に ご遺体を納めた柩は御所から皇居内の もがりの宮に移御され、崩御後45日目に行われた 大喪の礼までの間 もがりの宮拝礼の儀などの儀式が行われました。

 

 現代 行われているお通夜は もがりの期間を1日に短縮したものとの説もあります。又 沖縄や台湾で行われている 風葬や洗骨の風習は もがりの儀式の一形態と考えられます。

 

   今回は以上です。

葬儀の起源

 今回も葬儀、特に仏式葬儀の起源に付いて書かせて頂きました。

 

 仏式葬儀に於ける作法はお釈迦さまの葬儀を基本にしているとされて居ります。

ご遺体を洗う湯灌の行事に付きましては原始仏教の時代より ご遺体を棺にお納めする前に 香水で洗浴する事が行われて居りました。又 釈尊は ご遺体に触れた者は体と衣服を洗い、触れなかった者は手足を洗うだけで良いと 教えました。

 

 末期の水とは ご臨終を迎えた人に与える水を指します。筆先、あるいは 新しい綿に水を含ませ唇を湿らせます。これは 釈尊が臨終を迎えた時 水を所望し 従弟であり十大弟子の一人であった 阿難尊者が川の水を汲んで 釈尊に差し上げた事に由来します。釈尊はおいしいと言って水を飲み、この水が釈尊の最後の飲物と成りました。

 

 仏式に於ける死装束は 白の経帷子ですが、これは 巡礼をする際の装束で、巡礼の途上で亡くなられた場合は そのまま火葬、あるいは埋葬された事に由来します。釈尊の場合は 支援者より 金色の衣裳が贈られ、これが死装束と成りました。東南アジアで見られる寝釈迦像が金色で飾られているのは この死装束に由来します。

 

 釈尊は 旅の最後に沙羅双樹の林の中で入滅されました。入滅された時 沙羅双樹の木は白い花を咲かせて供養をしたと言われて居ります。日本の葬儀で良く見られる 紙華花は 沙羅双樹の白い花に由来していると言われて居ります。 

 

 人が亡くなられると 布団を敷き直し 頭を北に向けて安置します。これは 釈尊が沙羅双樹の林の中で入滅された時 頭は北、足は南、顔を西に向けていた事に由来します。これを頭北面西と言い、右脇を下にする寝方を獅子臥の法と言います。

 

 法事の際の食事を”お斎(おとき)”と言いますが、インドでは 僧侶が食事をして良い時間を時食、食事をしてはいけない時間を非時食と言います。この時食が日本に伝わり斎(とき)に変化したと言われて居ります。

 

  今回は以上です。 

葬儀の起源

 今回は葬儀の起源に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀の起源は 非常に古く 4万年以上前のネアンデルタール人の時代と言われて居ります。人類は有史以来 人が亡くなると葬儀を行って来たと言えます。フランスの歴史学者で 死に付いての学問を本格的に開いたと言われる フィリップ・アリエス(1914−1984)は その著書の中で以下の様に書いています。

” 古くより信じられて来た様に、人間は自らが死にゆく事を理解している唯一の動物である、と言う事は、実は確実では有りません。その代り 確かな事は、人間は死者を埋葬する唯一の動物だと言う事です。”

 

 現代の日本では ご葬儀の90%以上が仏式で執り行われて居ります。そういう意味では 仏式の葬儀の起源が 日本の葬儀の起源とも言えます。仏教は釈迦(釈尊)の教えで有りますので、葬儀の作法は 釈尊が係わった葬儀や 釈尊自身の葬儀を基にして作られたと考えられます。釈尊は長い伝道生活の後、自分の死期を悟り、南方のマガダ国から数百人の弟子を連れて北方に向かい最後の旅に出ました。そして 半年後に クシナガラで 80年の生を終えたと言われて居ります。

 

 釈尊の尊父は カビラ城の浄飯王で、病の知らせを受けただちに駈け付け、到着の7日後に崩御されました。

葬儀の準備は釈尊と重臣たちにより行われ、まず たくさんの香料を溶かした汁で王の体を洗い、きれいにふき取ったあと、絹の布で全身を覆い棺に納めました。ご遺体の周りを7つの宝石で荘厳し、棺を台座の上に安置して、香をたいて死者を供養しました。棺を火葬場へ送る際は 尊父の恩義に報いる為、釈尊、弟、子供、従弟の四人で棺を担ぎました。血縁の濃い者が柩を担ぐ習慣は これに由来していると言われて居ります。

 

  今回は以上ですが、次回に釈尊 自らの葬儀に付いて書かせて頂きます。

 

 

葬儀の意味

 今回は葬儀の意味について書かせて頂きました。

 

 葬儀は 故人さまの逝去を弔うために執り行う祭儀ですが、それと共に 残された方々のために執り行う意味合いも強く有ります。残された方々が 故人さまの逝去を どの様に心の中で受け留め、位置付け、そして処理するかを手助けするする為の儀式でも有ります。日本では 宗教が文明の中で作られる前の 旧石器時代には すでに行われていた宗教的儀式とも言えます。


 現代の葬儀では 宗教的係わりが大きな要素となって居ります。葬儀の主体は あくまでも故人さまですが、葬儀の責任は故人さまを見送るご遺族さまであり、執行は僧侶、神職、神父、牧師等の宗教者であり、さらに参列される方々により構成されます。 そして 日本の葬儀では 悲しみの場である事が一般的ですが、他国では死者の新たな門出の祝いとして 明るく見送るケースが多く見られます。


 現在 よく葬儀の形骸化という事が語られますが、葬儀が大切な営みである事に変わりは無く、人の生と死は それぞれ固有の価値を持つものであり、そのご葬儀は 故人さまとご家族にとって固有の大切な営みで御座います。従いまして ご葬儀は如何に在るべきかと言うよりは 故人様・ご遺族が如何に在りたいかを大切にすべきと考えます。形骸化が世の流れであるとすれば それはそれで良しとし、私ども葬儀コーディネーターは 執り行わさせて頂くご葬儀の中に 故人様・ご遺族のご希望を折り込むべく 心せねば成らないと考えて居ります。


 現在の横浜では 核家族化が進み、地域の人々の協力も得難い状態となって参りました、その中で ご葬儀と言う あまりご経験の無い事を執り行うには相談相手として 私ども 葬儀コーディネーターが居ります。私共も 既成の概念に捉われず、ご遺族さまのご要望を勉強させて頂き その実現に向けて努力したいと熱望致して居ります。


   今回は以上です。





 

葬儀と文化

 今回は葬儀と文化に付いて書かせて頂きました。

 

 有史以来 人が亡くなられると葬儀が営まれて参りました。そして その葬儀は 地域、民族、宗教などに根ざした文化と死生観を基に営まれ それぞれの時代の生活文化、精神文化を反映したもので有りました。その意味では 葬儀は 人の生死に係わる総合文化とも言えます。

 

 葬儀文化は その地域で長い歴史を通して人々が培って来たもので有り、多くの人々の知恵によって出来上がって居ります。そこに含まれている意味合いを良く理解し、その精神を大切にする事が必要です。勿論 文化はその時々の時代を反映して出来て居りますので、中には現代にそぐわない儀礼等も含まれますが、古い物と 単純に切り捨てるのでは無く、その儀礼(文化)が なぜ、どの様にして形成されたのかを学ぶ事により 過去の人々が どの様な 習慣、儀礼、文化を大切にし、どの様な価値を生み出したかを知る事が大切ではないでしょうか。

 

 横浜は 古くは小さな漁村と宿場町を擁する地域であり 特別な文化を持つ地方では有りませんでしたが、百数十年前の開港から 多くの人々が集まり現在に至って居ります。その文化は各国、各地域の文化が集合、混在して出来て居ります。又 高齢化、核家族化が大きく進む中では 多様な文化と死生観を持つ人々の都市となり、葬儀文化もより個人化された形に成りつつ有ります。私ども葬儀社も既成概念に捉われず、ご遺族さまの死生観に合わせたご葬儀を企画しなければ成らないと愚考する昨今で御座います。

 

   今回は以上です。 

生命の大切さに見合う葬祭儀礼

 今回は人の命の大切さに見合った葬祭儀礼(葬儀)とはを考えてみました。

 

 人が亡くなるという事は 大切な生命が喪われることです。人の死は 多かれ少なかれ、社会の中で 又周囲の方々のお心の中に危機状況を作り出します。そこで 命に見合う受け留め方が要請されます。葬儀(葬祭儀礼)は 時代や民族や地域の文化にを基に様々な行われ方が有り、又 その文化が持つ死生観によっても 大きく異なります。しかしながら 共通している事は 葬儀は 危機状況を乗り越える為には 手厚い儀礼が必要であると人々に理解され、日常的でない 非日常の特別な事として営まれて来ました。これを制度化、慣習化したものが 弔いの儀礼、葬祭儀礼です。

 故人さまの死を悼んで 人々が集まり 執り行われる葬儀は 集まった人々に 悲しみと人の命の大切さ、生ある人は必ず死ぬべき存在であることを知らしめます。人々は葬儀に接し 故人さまの死の事実に直面し、その事実の大きさから 生の大切さを知り、又 死が終りや無を来すだけのものではないという事を学び取ります。

 葬儀を執り行うと言う事は 人の生と死は 非常に重く、大切なもので有ると言う事を意味します。ご葬儀では 故人さまの生き様に思いをし、ご遺体を大切にし、故人さまに寄せる家族の心、その痛みを思い遣り、そして 会葬に訪れる方々のお心と思い遣りを大切にしなければ成らないと考えます。

 

   今回は以上です。 

悲嘆へのケアー

 今回は前回に続いて悲嘆へのケアーについてもう少し書かせて頂きました。

 

 身近な方が亡くなられ 受ける悲しみの体験は人それぞれに千差万別です。家族分散や核家族化が進み、同じ家族であっても 同じ程度の悲しみを体験するとは限りません、ある方々は 故人さまの死を納得し、それ程 悲しみを感じない一方で、少数の特定の家族だけが深い悲しみに陥る事がよく有ります。どなたが どの様な悲しみを体験しているか 周りの方は良く理解をして差し上げる事は大切です。

 最近では長い看護の末に亡くなるケースも多く見られる様に成りました。この様な場合 ご家族は 医師より早い段階で 死の告知を受け まだ入院中の生ある状態であるにも関わらず、死別の悲嘆に襲われる事も見られる様に成りました。更に 老人ホーム、老人病院、或いは その他の医療機関で長期の療養の末に亡くなられるケースでは ご家族だけではなく、付添いの方や看護師さんにも悲嘆の体験が現れる事が有ります。その他 ご家族より親しいお付き合いをされていたご友人等に 悲嘆現象が出る場合も有ります。ご葬儀・中陰の間は ご家族だけではなく こうした悲しみを体験している方々のお心にも ご配慮が必要ではないでしょうか。

 悲嘆のケアーをされる方が ご家族の死に出会った経験をお持ちであれば、その体験を思い起し、その気持ちを大切にして接する事により 共感を得て 悲しみを和らげる事が出来ます。又 そうした経験が無くとも ご自分を相手の立場に置いて 接する事は非常に良い事ではないでしょうか。

 

   今回は以上です。

死別の悲嘆へのケア―

 今回は死別の悲嘆へのケアーに付いて書かせて頂きました。

 

 故人さまと死別をされ深い悲嘆に暮れて居る方へのケアーにマニアルは有りません。それぞれ個別の状況により大きな違いが御座います。この事を理解した上で 以下の事に注意する必要が御座います。

 

1 ”忘れよう”、”頑張れ”、”しっかりしよう”の言葉はタブーです。

  悲しみの中に居られる方に 悲しい事実を忘れさせるさせる様仕向ける事は 一般的にマイナス効果となります。むしろ悲しい事実を見つめる事が大切です。頑張れやしっかりしようの言葉は 励ましのつもりであっても、悲しみの中の方にとっては大きな負担と成りかねません。むしろ 悲しみの状態を理解し 静かに見守ってあげる事が必要です。

 

2 話を聞いてあげる。

  悲しみの中に居られる方に大切な事は 説教をしたり、助言をしたりする事では無く 同じ目線で その方の想いを聞いてあげる事です。但し 無理に話させる事は 逆効果になる事が有ります。その方が話したい時に、その方の想いを吐き出させ 怒りに対しても遮る事なく その怒りを発散して頂くことが必要です。

 

3 一人にしない。

  悲しみの中では 孤独感が強くなり、周囲へ反感を持つ場合が有ります、そんな状態の時 大切な事は 気を付けて側に居てあげる事です。監視するのではなく、静かに寄り添ってあげる事が必要です。

 

4 悲しみを避けない。

  突然の子供さんの死、不慮の事故による親御様の死などでは 可哀想だから、残酷過ぎるから等の配慮で その死がら遠ざける事も有りますが、これは時として逆効果になり 死の現実をなかなか受け入れられない決果になる事が有ります。辛い現実では有りましても 現実に対面する事は大切です。その決果 不安・悲しみなどが様々な形で現れ 情緒が不安定になったり 落ち着きを失ったり、暴力的になったりしても、周囲の方々は 注意して見守りながら、悲しみを表現させる努力が必要です。

 

5 笑いや休息は不謹慎ではない。

  悲しみにある方が お通夜や葬儀の席で他人の冗談に笑っても、疲れて休息しても 非難してはなりません。悲しみと言うストレスには 笑い、ユーモア、休息は良薬である事を理解すべきです。

 

  今回は以上です。

 

香典と返礼品

 今回は香典と返礼品について書かせて頂きました。

 

 香典とは仏式の葬儀に於いて故人さまの霊前にお供えする金品の事を言い、返礼品とはそれに対するお返し、通夜 参列への御礼、葬儀・告別式への会葬御礼等の品物を指します。

 

 香典は かっては香奠と書き、香を供えると言う意味でした。これが その後 変化して 香を買う代金である 香典になったと言われて居ります。古くは室町時代の武士階級で金銭香典を出した記録が見られます。しかしながら 一般の人々の間では 米や野菜などの食物を香奠として持ち寄る事でした。これは  喪家では故人さまの成仏を願い、贖罪する為のお布施として 人々に食事を振舞いますが、この食材の用意を手助けする為のものでありました。その後 貨幣制度の変化と共に 明治以降 金銭香典が一般的となって参りました。従いまして 香典は 故人さまへのお供えと、喪家への相互扶助という二つの目的を持って居ります。極く最近まで ご自分の家で葬儀を出した際は 香典帳を保存しておき、他家の葬儀のさいは 頂いた香典と同額をおくると言う事が行われて居りました。

 

 返礼品とは 供養品とも言い 他者に布施をする事により 仏様に徳を積み これを故人さまへ振り向ける事です。古くは 葬列などで 籠に菓子や小銭など入れて 見送りの人々へ撒いたりもしました。現在の返礼品としましては 通夜返礼品・会葬返礼品・香典返し・法事返礼品が有ります。

 通夜返礼品; 通夜に弔問頂いた方で 通夜振る舞いに出ないで帰る方への返礼品です。しかしながら 最近では全ての弔問客へお渡しする事が多くなりました。500円前後のハンカチ等が一般的です。

 会葬返礼品; 葬儀・告別式に会葬頂いた方への返礼品です。通夜返礼品と同じく 500円前後の品物が一般的です。

 香典返し;  頂いた香典の50−30%程度の品物をお返しします。香典返しには 即返しと 忌明け返しが御座いますが、横浜では 即返しが一般的です。3000円前後の品物を用意し 香典を頂いた方へ式場受付でお渡しします。

 法事返礼品; 四十九日や一周忌の法要の際 引き物として用意します。

 

  今回は以上です。    

献花

 今回は献花について書かせて頂きました。

 

 献花とは 無宗教葬のお別れ会、キリスト教葬、香を使用出来ないホテルでの葬儀等で 故人さまをお見送りする際に捧げるお花を指します。ご遺体にお花を捧げる習慣は非常に古くから有り、イラク北部で発見された シャニダール遺跡で ネアンデルタール人のご遺骸の周りで 洞窟内では咲くはずの無い 花の花粉が見つかり 数万年前の亜人類にも 死者を葬る習慣があり、葬られたご遺体に お花を捧げたのではないかと 推測されております。

 

 キリスト教葬における献花は 白のカーネーションで行われるのが一般的ですが、これは日本だけの習慣で、仏教葬の焼香の変わる行為と言われて居ります。海外では お柩にお花を捧げる習慣は有りますが、ご葬儀でお花を捧げる習慣は有りません。ご献花を捧げる作法として決められた形は有りません、 その教会により異なりますが、参列者は各自一輪の花を持ち、一人ずつ式場の前に進み、お柩やご遺影の前に置かれたテーブルの上にお花を置いて、故人さまに拝礼をして席に戻ります。お花の置き方は お花をお棺に向けて置く場合と、茎の部分をお棺に向けて置く場合とが御座いますが、前の方と同じ方法で置かれるのが良いでしょう。又 お花は教会の入り口で会場に入る際に渡される場合と、献花の前に介添いの方より渡される場合が有ります。

 

 無宗教葬の場合や、仏教葬でもホテルで執り行う場合は焼香が出来ない為、献花を行います。献花に使用する花は @ 一輪咲き、A 茎がしっかりしてる、B 持ちやすい長さがある、C 白色の品種がある の条件を満たす花であれば良いのですが、トゲを持つ花は避けます。但し 今後は世の変化と共に変わって行くかもしれません。お花の置き方に付きましては 特に決められた作法は御座いませんので、前の方に従うのが良いと思われます。

 

   今回は以上です。 

 

焼香

 今回は焼香について書かせて頂きました。

 

 ご葬儀等に於きまして 故人さまとの告別をされる際に 仏教葬儀ではご焼香が、キリスト教でが献花が、神葬祭では玉串奉納が一般的です。そして 仏教葬儀でも ご宗派によりご焼香の仕方が異なります。又 キリスト教でも カソリック教会やルーテル教会では焼香を行う場合が御座います。

 

 焼香には 線香焼香と抹香焼香が有ります。線香焼香は日常のお参りに用いられ、通常は”線香を上げる”と言はれます。抹香焼香は香(抹香)を香炉に落として焚くもので、通夜・葬儀・法要などで用いられます。一般的には この抹香焼香のことを焼香と呼んで居ります。焼香は 心と身体の穢れを取り除き、清浄な心でお参りする際の作法とされ、左手に数珠をかけ、右手の親指・人指し指・中指の三指で香をつまみ香炉に落としますが、その作法は宗派により異なります。

 真言宗; 焼香3回、線香も3本立てます。仏・法・僧の三宝に捧げ、身・口・意の三業を清め、三毒の煩悩(貧り・いかり・愚痴)をなくして 心の静寂を求めることができる功徳が有るとされて居ります。

 曹洞宗; 焼香2回、線香は1本を立てます。(線香を3本 横に並べて立てる場合も有ります、立てる順は右・左・中央とします) 焼香は まず右手で抹香を取り 軽く額に押し戴いて 香炉に焚きます、次に 抹香を押し戴かずに香炉に焚きます。初めに焚く香を主香、次に焚く香を従香と言います。

 浄土真宗本願寺派; 焼香1回、線香は立てずに寝かせます。焼香では香を押し戴きません。

 真宗大谷派; 焼香2回、線香は立てずに寝かせます。焼香では香を押し戴きません。

 浄土宗; 焼香1−3回、線香1−3本を立てる、回数は特に拘らない。

 日蓮宗; 焼香3回、線香は1本を立てます。

 天台宗; 回数について特に定めは有りません。

 臨済宗; 回数に拘りません。

 

ご焼香の際に 葬儀の宗派に合わせるべきかとの問合せをお受けする事が御座いますが 信教の自由と言う観点から考えますと、ご会葬者の方のお気持ちに従って頂くの良いのではないかと考えます。

 

   今回は以上です。 

火葬

 今回はご火葬に付いて書かせて頂きました。

 

 ご火葬とは 葬送の手段の一つとして ご遺体を焼却する事です。ご火葬後の焼骨は 骨壺に収骨し ご納骨されます。ご火葬の事を 仏教の用語では 荼毘(だび)に付す と言います。荼毘とは火葬を意味する梵語で お釈迦さまが 入滅後 火葬に付された事に由来します。

 

 横浜市営の斎場は原則 式場と火葬場は併設されて居り、式場でのお別れが終りますと お柩は台車にお乗せして 火葬炉前にお運びします。ご火葬の前に 小机の上に ご遺影と白木のご位牌を飾り、ご僧侶による読経と参列の方々による焼香を行い、ご火葬となります。又 故人さまとの最後のお別れも可能です。ご火葬には一時間から一時間半が必要と成ります。 ご火葬の間 参列者の方々は控室でお休み頂く事に成りますが、昨今では葬儀の際に初七日も合わせて執り行う事が多くなりましたので、その場合は 控室に お斎の席を設ける事も出来ます。


 ご遺体の火葬が終りましたら 収骨(骨上げ)となります。ご遺族によるご収骨は 日本独特の儀礼で 欧米では焼骨が粉に成るまで火葬しますが、日本では焼骨がきれいに残る様 火葬する事が大切とされて居ります。収骨は 古くは 一人の人がご遺骨を 竹又は木の箸で持ち、順に次の人に渡して 骨壺に入れる形でしたが、現在では 二人一組で ご遺骨を拾い、骨壺にお納めします。地域により 使う箸の種類、焼骨を拾う順番、収骨の部位等 色々な作法が御座いますが、横浜では 火葬場の担当者の指示に従い二人一組でのご収骨が一般的です。


 箸渡しは 箸と橋の音読みが同じ事から 故人様をこの世から あの世へ三途の川の橋渡しをお手伝いするとの思いから来ていると言われて居ります。何れにしろ 皆で送って上げようとの 気持ちの表れかと思います。

尚 分骨をされる場合は 事前に申し出て 容器を用意して置く必要が御座います。


   今回は以上です。

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