死亡診断書

 今回は死亡診断書に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡診断書は 死亡事由などに付いての検案について記した診断書の一つであり、死亡を証明する効力を持ちます。その発行は 診断をした医師、もしくは歯科医師のみが出来ます。記載用紙は 左が死亡届、右が死亡診断書の、組になったA3用紙です。

 

 戸籍法では 人が亡くなった場合 故人様のご親族 又は関係者は 死亡届をご逝去後、7日以内に死亡診断書 又は死体検案書を添付して届け出なければ成りません。

 

 通常の病死、あるいは老衰などの自然死の場合は、その診断、治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します。突然死や 長く医師に罹っていないで死亡した場合は 病死、或いは自然死であっても 医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この様な場合と 病死あるいは自然死以外の異状死体、又は犯罪の疑いのある死体の場合も警察の検視を経て、監察医又は警察の嘱託医による検案を受けて 死体検案書が発行されます。死体検案書も死亡診断書と同等の効力を持ちます。神奈川県警察本部の場合 検案には状況に応じて2万ー7万5千円の費用が発生します。又 検案所までの往復のご遺体移送費用もご遺族のご負担となります。


 警察による検視、監察医による検案が必要なケースは;

 1 病死、あるいは自然死であっても 生前に診察・治療の担当医師がいない場合。

 2 病死、あるいは自然死であるか不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの 非犯罪死の場合。


 死体解剖保存法では

  政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内に於ける伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体 その他死因の明らかでない死体に付いて、その死因を明らかにするため監察医を置き、これを検案させ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させる事が出来る。

とあり、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市には監察医が置かれ、その他の地区では 嘱託医が置かれております。現在の横浜市では検案所は2ヶ所御座います。


   今回は以上です。

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 

 臨終とは 人が生命活動をを終える間際の時期を言い、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語です。古くから 人が必ず迎えなければならない 臨終という 危機的な時期を巡って 人は死をどう受入れるべきか、人の死をどう看取るべきか 様々な習慣と文化が生み出されて来ました。

 

 死を迎える事の意味を説いた古い文献としては エジプトやチベットで作られた ”死者の書”が有名です。又 西ヨーロッパに於いては 中世末期に ”往生術”として 臨終を迎える人の為の心得を書いた文献が出され、その手引書では 死の身取り手は臨終者に対して 回復するかも知れないと言う幻想を与えてはならず、臨終者が死を自然に受け入れられる様 出来るだけの手助けをすべきであると解説しています。

 

 インドの仏教に於いては 祇園精舎の北西の一部に無常院を作り 病人や死を迎える人々を受入れたとあります。その後 中国 唐代の僧侶 道宣は 無常院の堂内では 仏の立像が西方に向いて安置され その像手に五色の布をかけ その布を後ろに垂らし 背後に横臥した死を迎える人々はこの布を持って往生を祈願した と説いています。又 看病人は ともに念仏を唱えて 往生を助けなければ成らないとも説いています。日本の仏教に於ける 臨終の作法、習慣は これらを基にして作り上げられました。

 

 ご臨終は ご本人にとっては勿論、近親者にとっても大切な時です、最後の看取りがきちんと行えるかは 近親者の後のお心にも影響を与えるからです。ご本人が安らかに最後の時がお迎え出来る様、ご家族の方は 医師とも十分なコミュニケーションを図り、ご本人が会って於きたい方々を手配して 安らかなご臨終をお看取りしたいものです。

 

   今回は以上です。

ご遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 人が生命活動を停止すると その身体は徐々に腐敗して行きます。この腐敗が ご遺体への恐怖であったり、穢れの考えを生み出す事に成ります。腐敗が どの様に進むのか、どの様にしてそれを止める事が出来るのかは以下の通りです。

 

 生命活動を止めた身体には 個人差や身体が置かれていた場所の環境により違いは有りますが 次の様な変化が起きます。

 1 身体の腐敗

   死後1時間ぐらいから腸内細菌が増殖を始め、腸内細菌の増殖と胃腸の融解により腐敗が進行し、腐敗ガスが発生します。

 2 死後硬直

   身体の筋肉が硬直し関節が動かなくなる現象です。死後2時間ぐらいから出始め、20時間後くらいに硬直は 最も強くなり、その後 腐敗の進行と共に硬直は解けて行きます。最初は顎関節に現れ、順次 全身に広がります。手足の硬直は6、7時間前後から始まります。

 3 死斑

   心臓が停止すると 体内の血液は循環を止めて 身体の下部の静脈に留まります。この血液の色が皮膚を通して見えるのが死斑です。死斑は 死後30分程度でご遺体下部に斑点が出始め、2−3時間で融合し、20時間で固定します。

 

 ご遺体とは ”霊魂が遊離し遺された体” という意味ですが、ご遺族にとりましては 恐れでも、穢れでもなく 大切にお見送りするお体です。このお体を腐敗させない方法は幾つか御座います。

 1 ドライアイスによる冷却

    1週間から10日間の間に有効です。腐敗は内臓より始まりますので、お腹、胸、両脇などのドライアイスを当てて腐敗を遅らせます。季節にもよりますが 10Kgのドライアイスで24時間程 有効です。

 2 冷蔵保存

    1ヶ月位 有効です。専用の保管庫を摂氏2度に保って腐敗を遅らせます。

 3 冷凍保存

    非常に長期間の保存が可能です。専用の冷凍庫でご遺体を凍らせます。米国では一般的ですが、日本では特別な場合を除いて行われて居りません。

 4 エンバ−ミング

    半永久的に保存が可能です。血液を薬品と置き換えて腐敗を防止します。日本国内では業界自主規制により 50日以上の保管目的でのエンバーミングは行わない事にして居ります。費用は10万円+α。

 

 以上の他に 過去には ミイラ、即身仏、アイスマン、桜蘭の美女、ロザリア・ロンバルド 等が有りました。

 

    今回は以上です。

密葬

 今回は密葬に付いて書かせて頂きました。

 

 密葬とは 故人様のご逝去を対外的に公表したくない場合、或いは何らかの理由で本葬儀を後日 時間を空けて行う場合に 故人様の家族、近親者、極く親しい友人のみで小規模に執り行う葬儀のことです。近親者でのご火葬を目的として居ります。一般的には 後日 対外的な本葬儀、あるいはお別れ会などを執り行うのが 本来の意味合いです。

 

 元来 密葬は 有力者や有名人などが亡くなった際、大規模なご葬儀を準備しなければならず、それなりの準備時間を必要とします。この様な場合 ご遺体を長時間 維持する事を避ける為、ご火葬を目的とした内輪の葬儀を執り行い、後日 お別れ会や 社葬などを執り行います。

著名人や芸能人 本人やご家族が亡くなった場合 その葬儀には 普段親交のある方だけでも大勢の方々が集まり、更にファンやマスコミも集まることで 混乱を招きかねません。その為 然るべき場所と時間を選び、きちんとした準備が必要と成ります。

又 大企業の経営者や大きな団体の責任者のような方の場合は 社員、関係会社、取引先、関連団体など ご本人やご家族との親交に係わり無く、葬儀に参列される方は多くなります。社葬、団体葬なども会葬の方々に失礼の無い様 十分な準備が必要と成ります。

 

 密葬は小規模な葬儀と言う点で 家族葬と混同されがちですが、密葬と家族葬は同義では有りません。

 

   今回は以上です。

斎場、斎苑

 今回は斎場、斎苑に付いて書かせて頂きました。

 

 斎場、斎苑は 主として地方自治体が火葬場を整備するに当たり、忌避感を持つ火葬場という名前を避ける為に使用されました。又 時代の要求に応えて葬儀式場を併設した総合施設として利用されて居ります。

 

 葬儀事情は 戦後 大きく変わりました。葬列を中心とした葬儀が姿を消し、葬儀の中心は告別式へと移ります。同時に 家族や関係者の地域拡散が進み、葬儀はお通夜 葬儀・告別式の2日間に集中 短縮する様になり、更に核家族化と共に葬儀式場は自宅から葬儀場の利用へと移行して行きました。この様な住民ニーズに応える為 都市部の自治体は式場・火葬場併設の斎場、斎苑を建設し 住民サービスの向上に努めて居ります。

 

 遠方よりの会葬者に便宜を図る為の 日程短縮は 葬儀式と告別式の同時進行、式の時間も一時間以内というのが一般化しました。横浜市営の斎場では お通夜は18時、もしくは19時より始まり 式は45分間 その後にお清めが続き 20時半でお開き 21時で退場と成ります。又 21時以降は火災予防の為 火気厳禁となりますので、宿泊は可能ですが灯明、線香を灯す事は出来ません。翌日は 葬儀・告別式と成りますが、約45分間の間で葬儀・告別式の同時進行と初七日法要も執り行うのが一般的です。初七日法要の後に最後のお別れとなります。そしてご火葬と続きます。初七日法要のお斎の席は ご火葬をお待ちの間に控室でお設けします。

最後にご収骨をされて終了となります。尚 市営斎場ではご火葬後に部屋を使用する事が許されず、ご火葬後の初七日法要を行う事は出来ません。

 

   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬場とは ご遺体を火葬に付す為の施設を言います。最近では 近代的施設として 無煙化、無臭化、緑地化を進め 近隣住民からの嫌悪感を無くす為 斎場や斎苑と呼ぶ様に成りました。現在の横浜では 横浜市営として葬儀式場を併設した斎場は3ヶ所(横浜市北部斎場、横浜市戸塚斎場、横浜市南部斎場)、火葬設備のみの斎場は1ヶ所(横浜市久保山斎場)の計4斎場が有ります。この他に私営の斎場として葬儀式場を併設した西寺尾会館が有り、合計5ヶ所の火葬場が運営されて居ります。

 

 日本に於ける火葬は 仏教による宗教的要請から発生しました。古くは常設の火葬場は無く、野焼きと呼ばれ 人里離れた場所に仮設の火床を設けて火葬が行われました。その後 墓地の傍らや、寺院の敷地内に常設の火床が設けられる様に成ります。とは言えまだ設備と呼べる様な状態では無く 火屋 とか 焼屍爐 などと呼ばれて居りました。本格的な火葬施設が出来たのは明治時代に入ってからです。欧米から輸入された 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した 大規模火葬場が作られました。又 この頃より ご遺体の火葬を行う施設を火葬場と呼ぶ様になって居ります。

ご火葬の使われた燃料は 野焼きの頃は もちろん 藁、木薪、木炭が使用されました。明治時代の作られた火葬炉でも 当初は 木薪や木炭が使われ、その後 大正に入り 石炭、コークス等が使われ始め、更に 重油が使われる様に成りますと 燃焼時間は飛躍的に短縮され 即日の収骨が可能となりました。その為 火葬場内に控室等も設備される様になります。現在では 高度に機械化されたコンピュウター制御による電気式火葬炉が一般的となって居ります。

 

 現在の日本に於ける 火葬率は99%を超え世界一の高水準となって居りますが、明治初期には必ずしも高くは無く、昭和15年に初めて過半数(55%)を超えるという状態でした。しかし 戦後 人口の都市集中、市街地での土葬禁止、土葬可能な広さの墓地は入手困難、地方自治体による火葬場の整備などが合いまって この高火葬率と成りました。

 

   今回は以上です。

祭壇

 今回は祭壇について書かせて頂きました。

 

 祭壇とは 神、精霊、や死者などに 犠牲や供物を捧げる為の壇で有ります。ヘブライ語聖書によれば 祭壇は目立つ場所に 土を盛り上げたり 石を置いたりして作るとされています。又 地面に獣の皮やコモを敷いたものなども有ります。更に 神殿の様な複雑な構造を持ち、入念に装飾された構造物へと発展しました。祭壇はその宗教により異なり、大小様々です。

 

 日本の葬儀に於いては95%以上が仏教の葬儀であり、その祭壇としては  古くは小さな壇の上に灯明立、香炉、供花、供物を供えたものでしたが、昭和時代に入り、葬儀の主体が葬列から告別式に変化すると 葬儀用の祭壇も大きく変化しました。従来の壇は前机となり、その後ろに2段、3段、あるいは5段の祭壇が飾られる様に成ります。又 ご遺影写真もこの頃から飾られる様に成りました。そして 戦後復興がなった照和28年以降 祭壇文化が花開く事に成ります。こうした祭壇文化もバブル崩壊、それに続く少子高齢化社会の到来と共に小さな葬儀が主流となり、大きく荘厳な白木の祭壇から 華やかな花祭壇へと変化しました。

 

 花祭壇も当初は白菊、白カ−ネ−ションを使用し厳かな祭壇を用意して居りましたが、最近は故人様やご遺族のご希望に合わせ お好きな花を交えるなどした華やかな祭壇も多くなりました。又 ご家族だけでの密葬などでは 祭壇は作らず お柩の周りを故人様の好みの花で囲んだ お見送りなども これから多くなるのではないでしょうか。

 

   今回は以上です。

霊柩車

 今回は霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 

 霊柩車とは ご遺体をお納めした柩を移送する目的で作られた自動車です。ご遺体のみを移送する目的では寝台車が使用されます。霊柩車には 宮型霊柩車、洋型霊柩車、バス型霊柩車等が有ります。

 

 明治時代 葬儀の中心は葬列でしたが、葬列の拡大化に比例して批判の声も大きく成り、モータリゼーションの発達を基に霊柩車が開発されました。日本最初の霊柩車には諸説ありますが、確認出来るものでは 大阪の有力な葬列提供業者であった 籠友の鈴木勇太郎氏が米国の葬儀事情を視察し、大正6年に米国よりパッカードの霊柩車を輸入して日本風に改造しサービス提供を始めました。又 大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より 導入しました。

 

 宮型霊柩車は キャデラックブレアム、リンカーンタウンカー、トヨタクラウン等の高級乗用車を改造して 宗教的装飾を加えた棺室を設置して居ります。棺室は白木造りのものと 漆塗りのものがあり、壁面や天井部分に極楽浄土や蓮の花等が描かれたり、彫られて居ります。

 

 洋型霊柩車は 高級ワゴン車をリムジン化して使用されています。宮型の様な装飾はせずに シンプルな黒塗りの車体となります。最近は パールホワイトやシルバーに塗られたものも出て来ました。宮型霊柩車は余りにも目立ち過ぎる事から 乗り入れを拒否する施設も出始め、洋型霊柩車に変わりつつあります。

 

 バス型霊柩車は 大型バスやマイクロバスを改造して作られおり、柩と共に ご遺族・僧侶・会葬者が同乗出来る様になって居ります。冬季の気候が厳しい北海道などで多く利用されて居ります。

 

 霊柩車にまつわる迷信として ”霊柩車が走っているのを見たら 親指を隠さないと 親の死に目に会えない” というものが有ります。

 

   今回は以上です。   

告別式

 今回は告別式に付いて書かせて頂きました。

 

 告別式とは 宗教的儀式を伴わない 故人様とのお別れの儀式が 本来の目的です。現在では仏式の葬儀に於いて、家族・親族によるお見送りを葬儀、知人・友人によるお見送りを告別式と定義して、葬儀・告別式は何時よりと 表現する事が一般的と成りました。日本で最初の告別式は 明治34年の中江兆民の葬儀と言われて居ります。

 

 明治時代に於ける葬儀は 葬列を中心とする儀式が主流でしたが、都市部においては 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げて良いのか” との批判や 明治17年に制定された ”墓地及び埋葬取扱い規則” により 火葬場や墓地の所在地が限定され 葬列を組む事が 徐々に難しくなって行きます。又 明治後半に導入された路面電車の発達が葬列廃止を加速させます。大正時代に入ると 葬儀の中心は別式へと 変化して行きます、又 ご遺体の移送は 葬列から霊柩車の使用へと変わって行きました。


 中江兆民の葬儀は 明治34年12月17日に 青山墓地式場で執り行われました。中江は無宗教であった為、無宗教式の告別式により見送られました。柩が式場正面に安置された後、葬儀係による挨拶が行われ、板垣退助による弔辞拝読、大石正巳の演説、門下生総代 永訣弔詞、弔歌・弔詞の拝読と続いた後、嗣子・親族 及び会葬者が柩前で告別をなしました。最後に 嗣子(十三才)と親戚代表が会葬者に挨拶をして終了しました。

仏式の葬儀と比較すると 僧侶の読経に代えて 弔辞・演説・弔歌・弔詞などの献読が行われ、焼香の代りに 棺前告別が行われた考えられます。この告別式以降 かなりの数の告別式が行われる様に成りましたが 主として大学関係者や法曹関係者が中心で 一般大衆に広まるのは昭和に入ってからとなります。


   今回は以上です。 

庶民の葬儀

 今回は庶民の葬儀、特に明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀の簡素化については 古くより 時の権力者により度々布告されて居ります。これは 葬儀の奢侈化が常に起こっていた事示して居ります。江戸時代には 士農工商の身分制度が確立され、夫々の身分ごとに 葬儀の基準が示されて居りました。明治に入り 身分制度が解放されると 力を持った商人を中心に 葬儀事情は大きく変化して行きます。 大きな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、粗供養の増大などです。


 まずその第一は 以前は 夜間にひっそりと 限られた人数で葬列が組まれて居りましたが、日中に葬儀が行はれる様に成り 商人たちは その財力を誇示して 大掛りな葬列を組む様に成ります。又 役目を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。


 第二には 寝棺と それを運ぶ輿の登場です。江戸時代には座棺が普通でしたが、富裕層では 葬列の肥大化と共に 寝棺が使われ始め、それを運ぶ為に 飾り付けられた白木の輿が作られました。現在も使われている白木の宮型霊柩車は この輿を原型として居ります。但し 一般庶民の間では 第二次世界大戦終戦まで 座棺が使われて居りました。


 第三は 色々な葬具の出現です。葬列を飾る為に 野道具と言われた葬具が見栄えの良いものに変わって行きます。金蓮、銀蓮、生花や造花を押した花車、鳩を放鳥する為に作られた放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿など 多彩な葬具が開発されて行きました。現代 葬具の始まりとも言えます。これ等の葬具を製作する為、専業化が進み葬具屋が出来てゆきます。


 第四としては 粗供養の大型化です。葬儀の際に地域の人々へ食事を振舞ったり、葬列 出発の際に 花籠に 菓子や小銭を入れ、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言った 供養は江戸時代でも行われて居りましたが、明治に入り 葬儀の大型化と共に 会葬者全てに対して 菓子包み、饅頭、弁当を配るという 今日の会葬返礼品の原型が出来てきます。そして 喪家側も不足しては恥と考え 大量に用意する様になり、費用の面でもかなりの比重を占めるように成りました。


   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を指します。現在では斎場とも言われます。古くは 天皇の御体を火葬する場所を 山作所、天皇家以外の火葬場は 三昧(さんまい) 三昧場 或いは 荼毘場 と呼んで居りました。又 近畿以西では 火屋や、三昧の呼称が定着し、関東以北では 焼き場や、竈場(かまば)の呼び名が定着した時代も有りました。


 日本国内に於ける火葬場の歴史は弥生時代後期から有すると想像されますが、確認出来る物は 日本書記に記載されている 700年以降であり 仏教の要請から発生して居ります。当時は 常設の火葬場は設けられて居らず、貴人の火葬に当っては 火床を設け その周りを幕や板塀で囲んだ 仮設の場所で行われました。その後 庶民の間でも 火葬を行う者が現れ 人里離れた野原に木薪を組み上げ その上にご遺体を乗せて焚焼しました。これを 野焼きと言います。野焼きは 特定の地域に於いて 昭和後期まで行われて居りました。

 

 鎌倉、室町時代に入ると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい場所に石等で火床を設けた 常設の火葬場所だ出来始めます。これらは 火屋、火家、三昧、荼毘場などとよばれ、京都、大阪、江戸の都市に広がって行きました。そして 火葬の際に出る 臭気や灰等の弊害から 郊外に統合化され 大規模火葬場が出来て行きます。その典型的な例が 小塚原刑場近くに作られた 現在の東京博善町屋斎場です。江戸時代中期には 硬質良土を敷き込んで整地した上に 火床を設け 屋根かけもされる様に成りましたが、まだ火葬炉と呼べる状態ではありませんでした。

 

 明治時代に入り 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した トンネル状炉室と煙突を備えた 火葬炉が築造される様になり、火葬率の高かった 近畿、北陸、中国地方の 個人所有や 集落所有の簡易な火葬場にも普及して行きます。この火葬炉は 少ない燃料(木薪や木炭)で、ご遺体の燃え残りも少なく、使用も簡単で、煙突効果により臭気・煤煙も低減出来る事と成りました。そして 昭和初期には 重油焚きの火葬炉が開発されます。現在では 更に進んで ほとんどの火葬場では 電気式の火葬炉使用と 排煙処理により、臭気・媒炎などを気にする必要は無くなりました。

 

   今回は以上です。

 

 

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史について書かせて頂きました。

 

 火葬とは 葬送の手段の一つとして ご遺体を焼却する事です。火葬の習慣は釈尊の故事にちなんで 仏教の伝来と共に日本に伝わったと言われて居り、公衆衛生の面からも 土葬と比較して 衛生的であり、又 埋葬場所も小さくて済むメリットが有ります。尚 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼びます。

 

 日本で最初に火葬された人は 700年の僧道昭であり、最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇であると言うのが定説でした。しかし 近年の研究によれば 九州の古墳で 590年前後の火葬の痕跡が確認され、又 今月始めには 長崎県大村市で弥生時代後期(2世紀ごろ)の竹松遺跡に於いて 火葬されたと見られる人骨だ発見されたとの発表が有りました。検証の上でこれが認められれば 日本に於ける火葬の歴史が より古くから有った事になります。  

 

 中世の火葬は 常設の火葬場は無く 逝去した後 火葬の為の家屋を作り そこで火葬されました。当然の事ながら費用も掛り、庶民の間に普及する事は有りませんでした。江戸時代になり 寺請制度により 仏教が国教待遇となり 仏教が推奨する火葬は 仏教寺院に火屋と呼ばれる火葬施設が作られた事などから 大きく普及するかと考えられますが 費用等の面から 大きく広がる事は有りませんでした。当時の火葬率に関するデータは有りませんが 20%程度でないかと推測されます。火葬率に関するデータとして現存する物では 明治29年のデータで 全国での火葬率26.8%とあります。もちろん 階級や地域の格差は大きかった様で 東京や京都の大都市と 火葬を推奨する浄土真宗の勢力が強い 北陸地方では火葬率が高かったようです。大正14年の統計によれば 火葬率が65%を超える都道府県は 北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の八つです。そして 明治時代初期に 市街地での土葬を禁止した 京都市では 明治39年時点で 火葬率 80%の高率を示していました。何れにしろ明治以降 火葬率は高まり続け、現在では 火葬率 99%以上となって居ります。

 

   今回は以上です。

明治時代と神葬祭

 今回は明治時代の神葬祭事情に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本固有の多神教宗教である神道の葬儀で有ります。神道に於いては 人は皆 神の子であり 神の計らいによって母の胎内に宿り この世に生まれ この世で役割を終えると 神々の世界へ帰り 子孫を見守る と考えられて居り、神葬祭は故人に家の守り神となって頂く為の儀式であります。

 

 明治維新によって出来た新政府は 徳川幕藩体制を否定する為 民衆把握の基本となっていた 寺請制度を廃止し その母体となっていた仏教を排斥し 神道を新たに国教と位置付けます。明治元年発令の 神仏分離令、明治4年の戸籍法により 寺請制度の法的根拠が廃絶し 庶民は仏教寺院の檀家である必要が無くなりました。更に 明治5年の自葬禁止の布告により 葬儀は僧侶又は神職により 執り行われなければならなく成り 神職は氏子の神葬祭を自由に執り行う事が可能と成ります。そして それまで寺院の墓地は有りましたが 神葬祭の墓地が存在しなかった事をふまえ 明治同年に 神葬祭用の墓地として 東京市営で 青山墓地、谷中墓地、染井墓地の三墓地が開設されました。尚 三墓地共に 後年には 神葬祭限定ではなくなります。

 

 その後 明治政府は 信教の自由を布告し 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に係わる事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県社以下の神職と規定し、この規定は 第二次世界大戦終戦まで続く事に成ります。この様に神道は政府レベルでの支援を受けましたが 神葬祭はそれ程の広がりを見せませんでした。それは 法的根拠は無くなりましたが 民俗と結びついた仏教葬と檀家制度は 根強い基盤を民衆の中に持ち続けた事によります。

 

 尚 神道に於いて 死は穢れである為 聖域である神社で神葬祭は執り行わないと言われます。但し 神道でいう穢れとは 不潔・不浄の意味ではありません。肉親、或いは極く身近な方が亡くなり その悲しみによって 溌剌とした生命力が衰退している状態を 気枯れ=けがれ として居ります。

 

   今回は以上です。   

近世の神道

 今回は近世(江戸時代以降)の神道について書かせて頂きました。

 

 1700年頃の完成した 吉田神道も徳川幕府の寺請制度 発布により難しい立場に立たされる事と成ります。

 

 吉田神道は 仏教からの独立を果たそうとして来ましたが、寺請制度は 神社にとって大きな問題でした。神社の神職といえども 壇那寺を持ち その檀家に成らなければならず 神葬祭を行う事は出来ず、仏教葬を強いられました。そこで神社の神職は 仏教を排撃し 仏教色を払拭し 宗教としての神道を確立すべく 神葬祭の施行を唱えました。しかしながら 神葬祭を施行するには 檀那寺の許可が必要であり 強行すれば 檀家である事を止めねばならず、自らの身分保障が喪失する事と成りました。徳川幕府は 寺請制度(檀家制度)を宗教問題としてではなく、民衆管理手法として立ち上げて居りましたので 神葬祭 施行の許可は容易に下りず、ようやく1785年に 吉田宗家より 葬祭免許状を得た 神職本人 及びその嫡子に限り 寺院の宗門を離れ 神葬祭を執り行う事が許されます。但し その家族は宗門に留まらねばならないと規定され、この状態が明治維新まで継続されます。又 寺壇制度は 僧侶の退廃を生み 幕末には それを批判する国学者たちによる 排仏論も高まり、社会的な影響を与える事と成ります。

 

1867年 王政復古の大号令が下り、1868年(明治元年)には 神仏分離令が発令され 排仏毀釈へと進みます。ここに 日本の国教が 仏教から 神道へと変わり、第二次世界大戦終了まで続く事と成ります。

尚 神道に於ける 伊勢神宮の役割は非常に大きく、伊勢神宮の神官による 神道の学問的研究は 鎌倉時代に始まり 徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至ります。江戸末期には お伊勢参りを流行させ 庶民の中に神道を定着させました。宗教としての神道が確立される過程で 日本の民衆は 古くはインドの仏教の影響を受け、近世では中国の儒教の影響を受ける中で 伊勢派の努力が大きく寄与したと言えます。

 

   今回は以上です。

神道

 今回は神道(しんとう、かんながらのみち)について書かせて頂きました。

 

 神道は 古代日本に起源をたどる、日本固有の宗教で、山や川などの自然現象を敬い、それらから八百万の神を見出す多神教の宗教です。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に 豪族層による政治体制と共に徐々に成立しました。その分類としては 神社神道、民俗神道、古神道、国家神道、皇室神道(宮中祭祀)、教派神道等が有ります。一般的には 神道とは 神社神道を指して居ります。

 

 神道には 明確な教義や教典はなく 古事記や日本書紀など 神典と言われる古典を規範とし、森羅万象に神が宿ると考え、祭祀を重視し、浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目として居ります。又 仏教は 主として個人の安心立命や、魂の救済を目的(時代によっては国家鎮護を含む)を目的として信仰されて来たのに対して、神道は 神話に登場する神々の様に 地縁・血縁で結ばれた共同体を守る為に信仰されました。

 

 神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、神道と言う宗教として体系化されるのは 鎌倉時代中期以降と成ります。この体系化に大きく貢献したのが 吉田兼倶(1434−1511)です。兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 体系や儀礼を作り上げ 神道は 儒教や仏教の宗主であり 万法の基であると理論ずけました。神仏習合により 神社内に作られた寺院は 仏教の民衆化と共に独立し始め それに比して神道の地位は低下し 神社も修験道の手に移って行きます。吉田神道はこうした 神社・神宮寺・別当寺を傘下に収め 唯一の神道として習合して 1700年頃のその完成を見ます。

 

  今回は以上ですが、次回は江戸時代以降の神道について書かせて頂きます。

 

 

寺請制度

 今回は寺請制度について書かせて頂きました。
 
 
 
 寺請制度とは 西欧列強のアジア進出手段の一つであったキリスト教布教を弾圧する為に 江戸幕府より発布された 宗教統制の制度で、キリシタンではない事を寺院に証明させる制度です。必然的に民衆は 寺院の寺請証文を得る為に 何れかの寺院の檀家と成らなければ成りませんでした。この制度により整備された 宗門人別改帳は住民調査台帳とも成りました。
 
 
 
 室町から江戸時代の初期にかけて 民衆の間で寺壇関係の強化が進み、葬祭・仏事の主体は仏教寺院へと移り、そして 1665年の 寺請制度 発令により 寺壇制度が法令により確立します。この制度により公認された寺院は 宗門人別改帳(宗旨人別帳)を調査・整備し、家単位で 全員の名前、年齢、続柄、家畜等が記載された台帳を、村の構成員全体に対して作成しその運用も司りました。以降 人々は 出産、結婚、旅行、転居、奉公、死亡などの際には 寺院が発行する 寺請証文、送り状、請け状、手形等が必要と成りました。この制度により 仏教寺院は戸籍事務を代行する事と成り、仏教は日本に於ける国教と成ります。尚 この人口調査は 当時としては世界最大の事業であったと言えます。
 
 
 
 又 江戸時代には ”宗門壇那請合之掟” という書物が書き起こされ 檀家とはいかなるものかが示されて居ります。概要は以下の通りです。
 

 1 以下の日には 必ず寺院に出向いて お参りする事。
    2月15日の涅槃会、4月8日の釈迦の降誕会、12月8日の成道会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日。
 2 説教や仏法を説く 寺院の集会に参加する事。
 3 寺院の建物の建立や修理に協力する事。
 4 葬儀は必ず寺院にお願いする事。 


葬儀は寺院に依頼するという 現在の常識は 当時は義務として理解されていた様です。

尚 本書は 当時 徳川家康の書として もてはやされた様ですが 偽書と言われています。




   今回は以上です。


一家一寺

 今回は一家一寺に付いて書かせて頂きました。

 

 一家一寺制とは 家の家族全員が 同じ壇那寺に属する形を言います、丸檀家とも呼ばれます。江戸幕府による宗教政策 寺請制度により確立されました。これに対し 家族の中で異なる壇那寺を持つ場合は 一家寺違制と言います、半檀家、複檀家とも呼ばれます。

 

 江戸時代になると 惣村制がより確立され、大百姓が没落し、平均的な本百姓の集まりにより惣村が運営される様になります。その為 大百姓の菩提寺であった 寺院や道場は 地域共同体の母体となる 惣村の村惣堂や惣道場へと変化して行きます。

 

 江戸時代初期には 一家の構成員全てが家を単位として 一つの寺院の檀家となる 一家一寺制にはなって居りませんでした。家の中で 夫と妻が夫々 異なる寺院の檀家となる事もまま有る、半檀家状態でした。これが 17世紀後半 幕府による寺請制度の推進と、自立した農家の広がりにより 一家一寺制が確立しました。これに伴い 庶民の間でも 家という概念が成立し 祖先崇拝という考えが出来て行きます。一家は菩提寺としての寺院の経済基盤を支え、葬祭、仏事を寺院へ委託していく事に成ります。

 

 それまで 庶民の間では 自前のお墓を持つ習慣は有りませんでしたが、寺院と檀家という関係が出来上がると、次第に自前の墓を建てるようになって行きます。これまでは 庶民の間では ご遺体は共同の葬地に置いたり、埋めたりして居りましたが、家と言う考えが確立して行くと共に 自家の墓を所有する様に成ります。これらの事から 近世の庶民の墓は 家の確立と深く関係し 家の象徴、根拠として建てられたもので有る事が解ります。祖先崇拝が象徴的なものではなく、家の先祖という具体的な対象を持つ事が出来る様になると言う事は それが出来るような 庶民(農民)の自立が出来たと言う事でも有ります。

 

   今回は以上です。

檀家制度

 今回は仏教に於ける檀家制度について書かせて頂きました。

 

 檀家制度とは 仏教に於ける寺院と門徒の関係を指して居り、檀家とは 壇越(だんおつ)の家と言う意味であります。壇越とは梵語のダーナバティの音写で、寺や僧侶を援助する庇護者を指します。

 

 飛鳥時代の仏教伝来以来 仏教の壇越は皇室や有力氏族でした。この有力氏族が その宗派を信仰し、寺院を建立し、庇護者になると共に 僧侶は 有力氏族の為に葬祭供養を行いました。これが檀家制度の源流となります。その後 時代を経るとともに 寺院は寺領を持つ様になり 荘園領主と同様の 権力と権威を持つ様になり 寺院の収入原は 壇越のお布施から 荘園経営の収入へと変化し、壇越のお布施に依存しない寺院経営が行われます。しかし これも 応仁の乱頃までで 荘園制度の崩壊と共に失われます。

 

 これ等の旧仏教勢力に対して 新興仏教勢力は 一般民衆を対象として布教を行い 惣村の発達と結びついて 勢力を拡大して行きます。この間 仏教は 惣村の家々と結び付いて 民衆を壇越とし 檀家と壇那寺の関係が作られ始め その中身も 座禅中心から 葬祭中心へと 比重が逆転して行きます。これが 応仁の乱以降から江戸時代に施行された寺請制度までの200年間の推移です。

 

 江戸時代には キリスト教弾圧を目的とした 寺請制度に端を発する 檀家制度により 寺院の権限は強力となり 寺院は 檀家に対して 常時の参拝、年忌・命日の法要施行、寺院の改築費、本山上納金などの経済的負担を強要するようになります。今日に於ける 彼岸の墓参りや 盆の法事は この時代の檀家制度により確立しました。この時代 寺院は 社会に於ける基盤を強力なものとしましたが、一方で世俗化 形骸化も進み 各種の批判も起きて 明治の廃仏棄却へと繋がって行きました。

 

   今回は以上です。

 

庶民の葬儀

 今回は庶民の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於いて庶民とは 長い間 農民で有りました。世界でも有数の農業国家であり、多くの農民により 日本は支え続けらてて来ました。その農民が ある時期から 村落(惣村)と言われる共同組織を作り始め、仏教はその村落と結びついて民衆化がより進められる事と成ります。庶民の葬儀も この村落の習俗と仏教を融合させた葬法として作られて行きました。

 

 鎌倉時代中期までの日本では 荘園公領制度が確立し その作業員である農民は 自らの作業地に居住し、広く散らばった状態で 生活・経済活動が行われて居りました。その後 鎌倉時代後期より 幕府に任命された地頭の進出により 荘園公領制は崩れ始め、農民 自らは 地域運営、水利配分、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などを契機として 地縁的結合を強め 住居も集合して 村落が形成されて行きます。この様な村落を 地域内に居住する惣て(すべて)の人が構成員となる事から 惣村(そうそん)と呼ばれました。

 

 惣村の成立と共に 経済力も強化され 寺院を支える事も可能と成りました。南北朝から室町の時代 浄土宗を中心として禅宗、真言宗(密教)、日蓮宗、天台宗、浄土真宗(一向宗)などは 葬祭を中心として民衆化を推し進め、惣村に寺院や道場が作られて行き 葬祭仏教化がいちだんと進む事となりました。

 

 庶民の葬儀に於きましては 仏教式の葬儀が庶民の中に入るという事だけでは無く、其々の土地に於ける習俗との融合も進みました。この事はその後の江戸時代以降でも同じで 仏教の葬儀では 宗派の違いによる相違と共に 地域による相違は この習俗との融合によるものです。

 

   今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀

 今回は前回に続けて鎌倉時代の葬儀に付いてもう少し書かせて頂きました。

 

 鎌倉、室町時代に葬儀は 山頭念誦と呼ばれる 火葬場に於ける仏事が中心となって居りました。その点 出棺前に儀礼を執り行う 現代の葬儀とは大きく異なって居ります。

 

 葬送当日は まず 素服という粗い布で作る 喪服を裁縫します。夜になると この素服を着て御仏供養を行い、出棺となります。柩は御車(牛車)に安置し、葬列を組んで火葬場へ運びます、出棺後の寝所は 竹の箒で掃き清め、使用した竹の箒や 集めた塵はまとめて 川や山野に捨て、枕火を消して終了します。

 火葬場には 火葬の為の小屋を建て その周りを荒垣で囲い、鳥居を建てます。火葬場に 御車が到着すると 御車の前で 導師、呪願の僧侶による儀礼が執り行われ、柩を小屋の中に運んで 火葬が行われます。ご火葬の間は 僧侶と近親者により 真言が誦されます。ご火葬が終ると 火は湯で消し、灰は水で流します。そして 収骨となりますが、火葬場から骨壺となるカメまでの間 焼骨を箸で挟んで次の人へ渡し、カメに納めました。

 収骨された骨壺は 白の革袋に包まれ 召使の首に掛けて運び 三昧堂に納められました。そして 帰宅する前に わらで作った人形で 手祓いをします。

 又 室町時代の文献によれば 武士の間では すでに 金銭による香奠のやり取りの記録も有ります。又 火葬場の荒垣に白絹の布を張ったともあり、位牌を持つ者は家督であるとも書かれて居ります。

 火葬場では 奠湯・奠茶が行われ、読経がされ、精進落とし等も行われていた様です。


   今回は以上です。

吉事次第

 今回は吉事次第について書かせて頂きました。

 

 鎌倉時代に書かれた文献に ”吉事次第” があります。これには 当時の天皇・貴族の間で行われた 葬儀の概略が書かれて居ります。この時代には 蔡事 或いは凶事という言葉が忌み嫌われ 葬儀のことを 吉事  或いは勝事とよんで居りました。

 

 鎌倉時代には 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が興されました。貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、民衆は厄災に悩まされる事に成ります。日本に於ける 武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。その基になるのは 中国で編纂された禅宗の葬法で、本来は僧侶の為の葬法ですが それに手を加えて 武家や民衆の葬法と変化して行きました。

 

 吉事次第には 以下のように書かれて居ります。まず人が死ぬと 北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。香は燈火の火を点けて焚く。夏は酢を容器に入れて 死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。

棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。納棺は 褥のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。そして 頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて 葬儀に時まで北枕で安置する。葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで 貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り 荼毘に付す。収骨は 焼骨をカメに納めて土砂を加えて 蓋をし 白の皮袋に包む。そのご遺骨は三昧堂に納める。葬儀・火葬が終れば 貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。

この当時は葬儀の後 魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。七七日と一周忌の法要は以前から有りましたが、この時代から 三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。

 

   今回は以上です。

葬儀の仏教化

 今回は葬儀の仏教化に付いて書かせて頂きました。

 

 葬儀の仏教化は 平安時代中期以降 聖による 浄土宗・浄土真宗の一般民衆への布教が大きく広がり、その教えである 極楽往生の思想は 葬儀施行の基本概念として確立して行きます。

 

 986年 比叡山に於いて 25名の僧侶が集まり 二十五三昧会と呼ぶ念仏結社が結成されました。その趣旨は 月の15日ごとに衆僧25名は集結して念仏を誦し、極楽往生を願い、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する事を約しました。その中心となったのが 慶慈保胤(よししげやすたね)と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)でした。その起請には 毎月15日に念仏三昧を修する事、光明真言を誦して 土砂加持を修する事、阿弥陀如来を奉安した往生院を建て 病んだ結衆はそこの移す、病んだ結衆が往生院に移された場合は 二人一組で昼夜なく付添い 一人は看病 一人は念仏を担当する、ひたすら西方極楽浄土を念じ 極楽往生を念ずる、などが決まりとして述べられて居ります。

 

 二十五三昧会が結成される前年の985年に 恵心僧都源信は 極楽往生に関する重要な文章を集めた 仏教書 ”往生要集”を著わしました。その内容は十の章から成り、第一章に 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説き、第二章に 極楽浄土を説き、第三章に 極楽往生の証拠を書き、第四章以降に 浄土往生の道 念仏の功徳 念仏修行の方法 なによりも優れているものが念仏である などが説かれて居ります。

 

 往来要集は その後の日本文学思想などにも大きな影響を与えると共に 本書は 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台山国清寺に持ち返られ 唐末五代の混乱によって散逸した教法を 中国国内で復活させる機縁となったとされて居ります。  

 

   今回は以上です。

仏教の布教と葬儀

 今回は仏教の布教拡大とその葬儀について書かせて頂きました。

 

 仏教の伝来以来 当初は天皇家、貴族、豪族を中心に布教活動が行われて居りましたが、奈良、平安と時代が進むに連れて、一般民衆へも広がり始め、死者に対する儀礼としての葬儀も 共に形を整え始めました。

 

 奈良時代 僧侶になり出家する為には 官度と言い 官の許可が必要でした。私度と言い 官の許可なく出家する事は禁じられ、民衆に対する布教は禁じられたり、制限されたして居りました。しかし 私度僧が多く現れ始め、寺院に定住せず 諸国を回遊しながら 布教を進め 民衆から ”聖”と呼ばれて慕われ始めると 朝廷も 民間仏教を認めざるを得なくなりました。奈良時代 民間仏教の指導者としてその頂点に立つのが 東大寺の大仏建立に協賛し その後 大僧正となった行基です。行基集団は ”死魂を妖祇す”と言われ、死者の弔いに従事していたと考えられています。行基の弟子集団である志阿彌が火葬の技術を伝え、諸国の三昧聖になったとの伝承もあります。

 

 平安時代中期には 末法思想が広まり 阿弥陀仏の名を唱えて滅罪を願う 浄土信仰が民衆の間に普及し、その僧を念仏聖と呼んで敬いました。平安中期の有名な聖として 市聖と呼ばれた 空也がおります。この空也の集団も火葬に従事していたと考えられて居ります。こうした 民間仏教の拡大は 仏教の民衆化を押し進めると共に 民衆の葬儀の仏教化も進める事と成りました。尚 親鸞も念仏聖であり 聖人と呼ばれました。

 

平安時代の葬儀(念仏)

 今回は平安時代の葬儀に使われたお念仏に付いて書かせて頂きました。

 

 平安時代の葬儀の中では 光明真言、呪願、阿弥陀護摩などが行われて居りました。

 

 光明真言とは 密教の真言(真実の言葉、仏の言葉、呪文)で 願いを仏に直接働きかける事が出来る呪文とされて居ります。その言葉は神秘性を保つ為に 梵字を翻訳せずに 梵音を読誦します。葬儀に於いては 光明真言を108回唱える事により 死者の滅罪を願い、極楽に往生出来る様 仏に願うものです。その梵音と意味する所は;

オン アボキャ ペイロシャノウ

オーム(聖音) 不空なる御方よ 大日如来よ

マカボダラ マニ ハンドマ

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ

ジンバラ ハラバリタヤ ウン

光明を 放ち給え フーン(聖音)

アボキャは不空成就如来を、ペイロシャノウは大日如来を、マカボダラは阿閣如来を、マニは宝生如来を、ハンドマは阿弥陀如来を指しており、金剛界五仏に対して光明を放つように祈願している真言です。そして その功徳は

  • 過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除減する。
  • 十悪五逆四重諸罪によって 地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対して、光明を及ぼし諸罪を除き、西方極楽浄土に行かせる。
  • 先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する。

光明真言は平安時代に始まり、その後 庶民の間にも広まり現在に至って居ります。

 

 呪願とは 法会や食事の時に 施主の願意を述べて、幸福を祈る事ですが、葬儀では 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、極楽浄土に往生する様 祈願する事となります。呪願を執り行う僧侶を呪願師と言います。

 

 阿弥陀護摩は 密教に於いて 阿弥陀如来を本尊とし 無病息災・延命を祈って焚く護摩ですが、死者の減罪にも力が有ると信じられて居りました。

 

   今回は以上です。 

平安時代の葬儀

 今回は平安時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於ける 仏式の葬儀の形式は 平安時代に出来あがったと考えられて居ります。その典型例として 第66代 一条天皇のご葬儀が語られます。一条天皇は わずか7歳で即位して後 1011年 32歳で崩御されるまで 25年間 在位し 平安王朝文化を花咲かせた天皇です。源氏物語の作者と言われる 紫式部は 一条天皇の中宮であった 彰子(しょうし)の女房として宮中に仕えて居りました。

 

 6月22日 譲位して上皇と成られた天皇は危篤状態となり 正午ごろに崩御。6月25日 宮中に陰陽師が召されて 葬送の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占わせる。同日 沐浴をさせ 深夜に入棺。入棺作業には 慶円僧正他数名の僧侶と 公卿数名が奉仕し 皇后・宮さま方により 棺に形代が入れられました。7月8日 葬送 参列の人々は 素服を裁縫して着用、慶円僧正が呪願を行い、院源僧都が導師を務める。出棺には 柩を輿の上に安置し葬列を組んで、通常の出入り口とは異なる 築垣を崩して 道に出 御竈所(火葬場)へ向かい、僧侶立会いの下に荼毘に付されました。7月9日 早朝 荼毘が終了し 会葬者により お骨が拾われ 白壺に納められました。骨壺は円成寺に移され仮安置され、その後 建てられた三昧堂に 7月20日 奉納されました。8月2日と11日に七七の法事を執り行い、翌年の6月22日に一周忌の法事を行い 葬送の行事が終了しました。

 

 以上の中で 危篤状態での念仏による臨終作法、納棺に先立つ沐浴、僧侶も奉仕した納棺作業、近親者による形代の奉納、輿を使用した葬列、荼毘への立会い、収骨、帰宅前の浄め、七七の法事、一周忌の法事等、日本の葬送習俗の原型がこの頃に出来あがったと考えられて居ります。

 

  今回は以上です。

三昧

 今回は三昧(さんまい)に付いて書かせて頂きました。

 

 三昧とは インドに於ける ”サマーディ” が中国を経て日本に伝来する際に変化した仏教用語です。その意味する処は 仏教に於ける 禅定、ヒンドゥー教に於ける瞑想の中で 精神集中が深まり切った状態をさします。日本の仏教の中では 法華三昧や常行三昧が 重要な要素となって居ります。

 

 法華三昧は 天台宗の宗祖最澄により 日本に紹介されました。最澄は 812年 比叡山に 法華三昧堂を建立してその教えを広めました。法華三昧は 比叡山に於ける 朝題目、夕念仏 と言われる日常修行の一つで、法華経を読経する事によって 身を清め、罪障(極楽往生の妨げになるもの)を消滅させることが出来るとの教えによります。これが 民衆に広まる際 法華経を唱えると 死者の霊を清め、減罪し、地獄に落ちる事が無いとの信仰となり、葬儀の中で重んじられる事に成りました。法華三昧堂は 三昧堂、法華堂とも呼ばれます。

 

 常行三昧は 同じく天台宗の修行の一つで 阿弥陀仏の名を唱える(念仏)事により 極楽往生を願うもので有ります。法華三昧の減罪と 常行三昧の成仏が 対となって 信仰を広めたと言われて居ります。常行三昧の修行を行う所は常行三昧堂、阿弥陀堂と呼ばれました。東北今泉の中尊寺金色堂は 常行三昧堂の様式に従って建立されたと言われて居ります。

 

 法華三昧、常行三昧の流行により それを庇護する 天皇家や貴族は法華堂や三昧堂を建立し、死後は そこに納骨をする様になります。その広がりと共に 寺院への納骨が一般化して行ったと考えられます。

 

  今回は以上です。

天皇家の葬儀

 今回は天皇家の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 天皇家の葬儀は本来 神式で執り行い土葬とされて居りましたが、2013年11月14日に宮内庁より 今上天皇陛下の崩御の際は 陛下のご希望により ご火葬とする との発表がされ 巷では色々とコメントが出されました。

 

 火葬は仏教の葬法と言われ 仏教の伝来と共に 日本に伝わったと言われ居ります。これは釈尊が火葬された事にちなみます。天皇家は仏教伝来 以前から存在し そのご遺体は土葬にされて居りました。仏教伝来後 天皇家にも仏教に寄衣する方が出始め ご遺体をご火葬する様に成りました。最初にご火葬された天皇は 仏教の信仰に篤かった 第41代の持統天皇で 702年にご火葬とされました。以降 第120代の仁考天皇まで ご火葬が基本となって居りました。そして 幕末に崩御された第121代の孝明天皇以降 土葬に戻されて 現在に至ります。尚 第108代の後水尾天皇から120代の仁考天皇までは 色々な事情から 表向きは伝統の火葬をした事にして 実際には土葬がされました。従いまして 最後にご火葬された天皇陛下は 1617年に崩御された 第107代の後陽成天皇です。

 

 天皇家の葬儀の例として 第56代の清和天皇の葬儀が有ります。平安時代前期の 880年12月4日に崩御されました。天皇は既に出家の身でありましたので 西方に向かい、仏教式に結座し、両手を組み合わせて 崩御されたとあります。その身はそのまま念珠を手にかけて納棺し 即日 火葬にされました。死後 4日目の12月7日に ご遺骨は埋葬され、7日目の12月10日に初七日、翌日より円覚寺にて 四十九日までの間 昼は法華経、夜は光明真言が 延べ50名の僧侶により誦経されました。そして 1月22日に 円覚寺にて 七七日の設斎が執り行われました。

 

   今回は以上です。 

御霊信仰

 今回は御霊信仰について書かせて頂きました。

 

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 奈良時代に始まる 日本の信仰の一つで 人は死ぬと その魂は霊となり肉体から離れると考えられて居り、恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の霊は 怨霊となって 特定の人を脅かしたり、天災や疫病をさせると考えられました。この怨霊を鎮めて 御霊とする事により 祟りを免れ、平穏を繁栄を祈念する信仰であります。

 

 史実にもとずく御霊信仰の歴史は ある意味では政争の歴史でもあります。その例で古いものは 775年に 井上内親王が その子供と共に憤死させられ、その祟りにより 夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされた為 777年に 内親王の墓を改葬し 御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊を鎮めたとあります。又 平安京への遷都も 皇太子の座を廃され憤死した 早良(さがら)親王の怨霊により 新皇太子が病に侵されたとの 陰陽師の占いによる とされて居ります。

 

 平安時代に入ると貴族階級の中で 陰陽師による 怨霊鎮魂が盛んとなりました。何か事有る度に 怨霊鎮魂の為の 御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。又 大宰府に左遷され 非業の死を遂げた 菅原道真の怨霊により 親王や天皇が崩御したとの占いから 御霊会を営むと共に 道真公の霊を北野天満宮にお祀りして 霊の鎮魂を図りました。

 

 その後 都市住民の間でも 怨霊への信仰が広まり 大規模な災害や疫病などは 怨霊によるものと考えられて 怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になり、御霊神社も建立されるように成りました。 

疫病を防ぐ為の御霊信仰で有名な祭としては 毎年 7月1日から30日間 営まれる 京都 八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)が御座います。

 

   今回は以上です。

御霊信仰

 今回は御霊信仰について書かせて頂きました。

 

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 奈良時代に始まる 日本の信仰の一つで 人は死ぬと その魂は霊となり肉体から離れると考えられて居り、恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の霊は 怨霊となって 特定の人を脅かしたり、天災や疫病をさせると考えられました。この怨霊を鎮めて 御霊とする事により 祟りを免れ、平穏を繁栄を祈念する信仰であります。

 

 史実にもとずく御霊信仰の歴史は ある意味では政争の歴史でもあります。その例で古いものは 775年に 井上内親王が その子供と共に憤死させられ、その祟りにより 夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされた為 777年に 内親王の墓を改葬し 御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊を鎮めたとあります。又 平安京への遷都も 皇太子の座を廃され憤死した 早良(さがら)親王の怨霊により 新皇太子が病に侵されたとの 陰陽師の占いによる とされて居ります。

 

 平安時代に入ると貴族階級の中で 陰陽師による 怨霊鎮魂が盛んとなりました。何か事有る度に 怨霊鎮魂の為の 御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。又 大宰府に左遷され 非業の死を遂げた 菅原道真の怨霊により 親王や天皇が崩御したとの占いから 御霊会を営むと共に 道真公の霊を北野天満宮にお祀りして 霊の鎮魂を図りました。

 

 その後 都市住民の間でも 怨霊への信仰が広まり 大規模な災害や疫病などは 怨霊によるものと考えられて 怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になり、御霊神社も建立されるように成りました。 

疫病を防ぐ為の御霊信仰で有名な祭としては 毎年 7月1日から30日間 営まれる 京都 八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)が御座います。

 

   今回は以上です。

埋葬

 今回は埋葬に付いて書かせて頂きました。

 

 埋葬とは ご遺体を土の中に埋める事を言いますが、必ずしも土中に限らず 地下室や地上の施設に葬る場合も埋葬と表現します。現在の横浜では 100% ご火葬後の埋葬と成っておりますので、ご遺骨を埋葬する事となります。

 

 埋葬の歴史は古く 10万年ほど前のネアンデルタール人の時代には 埋葬が行われていたと考えられて居ります。又 その前の猿人・原人の段階では埋葬は行われていなかったと推定されて居ります。これは 人類が考える力を持ち始め 人の死や死霊などを特別な意識で見始めてから 埋葬と言う行為が始まったと推定されます。そして 埋葬の場所として 墓域が設けられて居たとも推測されます。その後 文明の発展と共に 強力な権力者が誕生し 埋葬行為は権力の象徴へと変化して行きます。

 

 日本に於ける 埋葬では 旧石器時代に属する 北海道の湯の里遺跡で お墓と思われる遺構が発見されて居り、旧石器時代には既に埋葬が行われていたと考えられます。それに続く縄文式時代以降には多くの遺跡で 埋葬行為が確認されて居ります。集落内や貝塚などに墓域が設けられ、土器棺、石棺に納められて 土葬により埋葬されて居ります。埋葬には手足を折り曲げた屈葬と 手足を伸ばした伸展葬が有りますが、この時代は屈葬が一般的でした。又 再葬と呼ばれる埋葬方法も見られます。再葬は 一度 ご遺体を埋葬し 白骨化した後に 改めて骨壺に納めて埋葬し直す方法です。そして 埋葬の形態は 弥生時代、古墳時代と進むにつれ より大掛りなものへ変化して行きます。

 

   今回は以上です。 

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