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禅宗 臨済宗

 今回は禅宗の臨済宗(りんざいしゅう)に付いて書かせて頂きました。

 日本の臨済宗は 平安時代末 中国宋に学んだ栄西により日本に伝えられた 禅の宗派の一つで、悟りを開く事を目的とし、座禅 禅問答 詩 絵画 や建築などを通して、師から弟子へ悟りを伝えます。禅宗に於ける悟りとは ”生きるもの全てが本来もっている本性である仏性に気付く”、そして 仏性とは ”言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力”のこと と説かれます。 鎌倉・室町時代と  幕府の庇護を受けて大きく発展すると共に多くの派に分かれ臨済十四派と言われ、教義内容は同じですが 14の派が大本山をを持ちます。最大宗派は 栄西が建立した 京都 東山建仁禅寺を大本山とする 建仁寺派で ご本尊は釈迦如来です。神奈川県内には建長寺派と円覚寺派の 二つの大本山が鎌倉に建立されており それぞれ 巨福山 建長興国禅寺(ご本尊 地蔵菩薩)、瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ご本尊 宝冠釈迦如来)を中心として布教活動が行われて居ります。

 臨済宗は ゴータマ・シッダッタ(釈迦)の教え(悟り)を直接に受け継いだ マハーカ―シャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨 達磨大師)によりインドから中国へ伝えられ、それから起きた中国禅宗五家(臨済、蕩仰、曹洞、雲門、法眼)の一つで、日本には 栄西以降 中国から各時代に多くの僧により伝えられました。特に 江戸時代の白隠エイ鶴は有名です。

 栄西は 1141年備中国賀陽郡(岡山県加賀郡)に吉備津神社の禰宜の子として誕生し、1154年14歳で比叡山延暦寺にて出家得度します。以降 延暦寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学びますが、形骸化し貴族政争の道具と化した天台宗を立て直すべく、平氏の庇護を受けて1168年南宋に留学し、天台山万年寺などで修学します。その当時 南宋では禅宗が繁栄して居り、日本の仏教精神立て直しに活用すべく合わせて修行を受け、日本へ帰国します。1187年 再度入宋し 臨済宗で修行を重ね、1191年 臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受けて帰国します。帰国後は九州博多を中心に布教活動を始めますが、天台宗からの排斥を受けたり、既存勢力との摩擦も多く、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ます。1200年北条政子建立の寿福寺の住職に就き、1202年には源頼家の外護を得て 京都に建仁寺を建立し 禅宗の振興に努めます。1212年には 法印に叙任、1213年には 権僧正に栄進、そして 1215年7月5日 京都建仁寺で入滅しました。享年75歳でした。

   今回は以上です。

鎌倉仏教 時宗

 今回は鎌倉仏教 時宗について書かせて頂きました。

 時宗は 鎌倉仏教の一宗派で 一遍上人を開祖とし 浄土教を基にして 阿弥陀仏への信・不信に係わらず、念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できる と説き、仏の本願力は絶対であるが故 それが信じない者にも及ぶという解釈です。一遍上人は 日本全国を念仏勧進して回り、遊行上人 捨聖とも尊称されます。一遍上人の時代には 時衆と呼ばれて居りましたが、江戸時代に現在の時宗として正式な宗派と成りました。総本山は 神奈川県藤沢市の 藤沢山無量光院清浄光寺(通称 遊行寺)、ご本尊は阿弥陀如来坐像です。

 一遍上人は 1239年四国の伊予国(現在の愛媛県)に生まれ、10歳で出家し(天台宗) 13歳で大宰府に移り 法然の孫弟子にあたる 聖達の下で10年に亘り浄土宗西山義を学びます。その間に法名を智真(智は悟りの智慧、真は御仏が示す真)と改めます。1263年 25歳で父の後を継ぐ為 還俗して伊予に戻りますが、1271年32歳で再び出家し 信濃の善光寺、伊予の窪寺などで修行を重ね、窪寺で十一不二のを感得し、1274年から遊行を始め、摂津国 紀伊国などの各地を転々としながら修行を積み、同時に六字名号を記した念仏札を配り始めます。更に 紀伊の熊野本宮で 阿弥陀如来の変わり身とされる熊野権現から 衆生得度の為に”信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札を配るべし”との夢告を受けて、名を一遍と定め、念仏札の六字名号に 決定往生/六十万人 を加えて日本全国を念仏勧進します。勧進は 15年に亘り 南は鹿児島から北は奥州平泉と ほぼ全国を網羅ししました。有名な 踊り念仏は 1279年信濃の国を勧進した時から始まりました。そして1289年 一編は 過酷な遊行による過労と栄養失調から 摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没し、15年半に及ぶ遊行を終えました。享年は51歳でした。一遍は時衆を率いて遊行を続け、民衆を踊り念仏と賦算(ふさん 念仏札を配る事)により極楽浄土へと導きました。

 時衆は 一遍上人亡き後 自然消滅しますが、門弟たちにより遊行と賦算は続けられました。そして 江戸幕府の意向により 色々な念仏勧進聖は 時宗という単一の宗派に統合されます。その中には12の流派があり、時宗12派と呼ばれ、主流が藤沢道場清浄光寺を本寺とする遊行派で有りました。

 時宗では 戒名は法名と呼び、当初は 男性には”阿弥陀仏”号、女性には”一房”号 あるいは”仏房”号が附されましたが、現在では 男性は”阿”号 女性には”弌(いち)”号を用います。但し 派により 号が異なる場合が御座います。

   今回は以上です。

鎌倉仏教 融通念仏宗

 今回は鎌倉仏教 融通念仏宗に付いて書かせて頂きました。

 融通念仏宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで、天台宗の僧侶であった 聖応大師良忍(1073-1132年)を宗祖とし、阿弥陀如来から速疾往生(誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文 ”一人一切人 一切人一人 一行一切行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満” を授かり開宗したとされます。大念仏宗とも言います。但し 良忍の時代には宗派として認められては居らず、天台宗から独立して 宗派として認められたのは 江戸時代の元禄年間です。阿弥陀如来をご本尊とし、総本山は大阪市平野区にある 大念仏寺です。

 良忍上人は 1073年 尾張国知多郡の領主の子として生まれ、比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、不断念仏を修めます。そして 23歳の頃から 京都大原に隠棲し念仏三昧の生活を送りますが、1117年 阿弥陀仏の示現を受け、”一人の念仏が万人の念仏に通じる”という 自他の念仏が相即融合し合う という立場から 融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれる と説きました。その後 良忍上人は 結縁した人々の名前を記入する名帳を持参して各地で勧進を行います。勧進の途上で参籠した 摂津国四天王寺で見た霊夢から 摂津国住吉郡平野庄の領主 坂上広野の邸宅内に建てられた修楽寺に日本最初の念仏道場を開きます。この念仏道場が後に融通念仏宗の総本山 大念仏寺となります。融通念仏とは元来は合唱の念仏であったと考えられます。又 良忍上人は 仏教音楽である声明の集大成者としても有名です。

 融通念仏の最大の特徴は 観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事で、融通念仏宗では 毎朝西方に向かって 良忍上人の説いた 十界一念・自他融通の浄土往生を期する 融通念仏を 十唱するする事を日課とします。

   今回は以上です。  

鎌倉仏教 浄土真宗

 今回は鎌倉仏教 浄土真宗に付いて書かせて頂きました。

 浄土真宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで 法然上人に師事した親鸞を宗祖とし、阿弥陀如来の本願によって与えられる名号 ”南無阿弥陀佛” を浄土門の真実の教え 浄土真宗(浄土を顕かにする真実の教え) であるとし、本願を信じ念仏申さば仏になる と示しました。親鸞自身は 法然上人に師事出来た事を 生涯の喜びとして 独立開宗をする事は有りませんでしたが、親鸞の滅後 弟子達により 浄土真宗として教団が設立されました。しかしながら 長い間 浄土真宗の呼称は世に認められず 一向宗、や門徒宗と通称されて居りました。宗旨名が 浄土真宗として世に認められたのは 明治時代に入ってからとなります。現在の浄土真宗は 真宗教団連合に加盟する真宗十派を中心として約22,000の寺院を運営し、仏教界 最大の信徒を擁して居ります。

 親鸞聖人(見真大師 1876年追贈)は 1173年に京都で生誕、9歳で出家し その後 比叡山の学僧となり厳しい修行を積みますが 自力修行の限界を感じて 29歳の時 叡山と訣別し京都に戻ります。そして 法然の教えに触れ入門を決意し 研鑚をつみますが、1207年 後鳥羽上皇の怒りに触れ 法然は土佐へ、親鸞は越後(現在の新潟県上越市)へと配流されます。5年後に順徳天皇により 勅免の宣旨が出され流罪は解かれますが 親鸞は京都には戻らず その後20年に渡り 東国で 浄土門の真実の教え を布教し続け、62歳(63歳?)で京都に戻り、1263年 89歳で入滅しました。親鸞の生涯は 寺院を持つ事は無く、各地の道場で浄土真宗を説くことに費やされました。

 浄土真宗が 他の仏教宗派と異なるてんは 僧侶の肉食妻帯が許され、無戒であるという事です。法然は 一般の僧侶という概念や 世間内で生活する仏教徒としての規範から はみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である と説き、その教えを親鸞は実践して 公式に妻帯した初めての僧侶と成り、子ももうけました。それにより 浄土真宗では 血縁関係による血脈と 師弟関係による法脈との二つの系譜が存在する事と成りました。又 与えられる名前も 戒名ではなく 法名と言われます。そして 浄土真宗は ただ如来の働きに任せ 全ての人は往生することが出来る との教えから 宗教儀式や習俗に捉われず、報恩謝徳の念仏と聞法を大切にし、加持祈祷をおこなわない などの特徴を持ちます。

   今回は以上です。

鎌倉仏教と浄土宗

 今回は鎌倉仏教と浄土宗に付いて書かせて頂きました。

 奈良時代に中国より日本に伝来した仏教は 天皇家や貴族階級の庇護を受けて奈良・平安時代と繁栄してきましたが、一般民衆に広がることは有りませんでした。そのカラを破ったのが 比叡山の学僧であった法然上人が起した浄土宗であり、それに続く親鸞の浄土真宗、良忍の融通念仏宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗などです。これらの宗教は 一般民衆を対象とした、日本人自身による独自の仏教であり、鎌倉時代の創設されました。これらの宗派と 同時期に 宋より 栄西が伝えた臨済宗、道元が伝えた曹洞宗を含めて 鎌倉仏教と言われて居ります。

 法然上人(法然房源空)は 1133年美作国久米(現在の岡山県久米郡)に生まれ、9歳で出家し、13歳で比叡山に登って学僧となります。しかしながら学僧に満足出来ず、学僧の道を捨てて 民衆の為の仏教の道を探り、源信の往生要集に影響を受けて、1175年 43歳で 専修念仏の浄土宗を開きました。法然は仏教を 厳しい修行を行い悟りを得る聖道門と、念仏を唱え極楽浄土に往生する浄土門との分け、衆生の凡夫でも行うことが可能な浄土門を選択して浄土宗を起こしました。法然の専修念仏は 古来の比叡山を含む仏教 各宗派より迫害を受け、法然自身は四国へ、弟子の親鸞は越後へ配流されますが、最期には京都に戻り、後に教本の一つとなった 一枚起請文 を起して1212年に満78歳で没します。

 法然上人の没後は 長老の信空が後継となりましたが、親鸞を含む多くの門人ごとに 親鸞の教義に対する解釈が少しずつ別れ 浄土四流など いくつもの教団が乱立する事に成ります。その後 徳川家康が江戸幕府を開くと共に 寺院諸法度の一還として 浄土宗法度が制定され 浄土宗は 京都の知恩院を門跡寺院・総本山、江戸の増上寺を大本山として 幕府より手厚い保護を受ける事となります。

明治時代に入り 廃仏棄却の混乱の中で 宗派の統合 近代化が図られ、現在は 鎮西派と西山派の二っの流れを中心にして布教活動が行われて居ります。

本尊は阿弥陀如来、脇侍は 左 観音菩薩、右 勢至菩薩となります。

   今回は以上です。

神道の参拝

 今回は神道に於ける参拝に付いて書かせて頂きました。

 神道は日本古来の宗教で、民俗信仰や自然信仰を基にし、天地に存在する自然や自然現象 神話に残る祖霊 怨念を残して死んだ者 などの中に神を見出した 八百万の神を持つ多神教です。その神と人や社会を取り結ぶ作法は祭祀であり、その祭祀を行う神聖な場所が神社です。それぞれの神社には神社固有の神が祀られて居り、神を参拝する日は 毎月 一日と十五日が良いとされて居ります。尚 神道に於いて 死は穢れである事から ご葬儀は 原則として 聖域である神社内で執り行う事が出来ません。但し 社殿前に幕で結界を張り 穢れが聖域に入らぬ様にして 執り行う事は可能です。

 参拝の心得と その流れは以下の通りですが、神社により作法が異なる場合が御座いますので、作法の表示をご確認願います。

1 神は穢れを嫌うとされて居りますので、参拝の前に 心身を清める 禊が必要です。現代であれば 参拝の前に 入浴やシャワーで身体を清潔にする事が望ましいとされます。

2 神社に到着しましたら 鳥居をくぐる前に 服装を正し、一礼をしてくぐります。

3 鳥居をくぐりましたら 参道の端を通り 手水舎に向かい 手水の作法を行います。これは 手と口を洗い清める事ですが、拍手を行う手と 祝詞を行う口と そして 心を清める 禊の意味合いを持ちます。

4 手水の作法は;

 -まず 柄杓を右手で持ち 水を汲んで その水を少し左手にかけて清めます。

 -次に 柄杓を左手に持ち替え 右手にかけて清めます。

 -柄杓を 再度 右手に持ち替え 再度すくった水を左手に受け留め その水で口を清めます。口を清めるさい 柄杓に口が触れないようにしなければ成りません。

 -以上の後 次の人の為に 使用した柄杓を洗い清めます、柄杓に水を入れ 柄杓を立てて 柄に水が掛る様にして清めます。

 -清め終わった柄杓は元の位置に伏せて戻します。

 -以上を 一連の動作で行います。

5 この後 神前へ進みます。最前と同様に 参道の中心を避けて歩きます。参道の中心は正中と呼ばれ 神の通る道とされて居ります。

6 神前では 神へのお供物として賽銭を奉納し、鈴鐘を鳴らします。これは 清らかな音色で神を呼び寄せる、神霊の発動を願う、邪気を払う、参拝者を敬虔な気持ちにさせる などの意味合いがあるとされます。

7 その後 拝礼を行います。拝礼の基本的な作法は 二拝二拍手一拝(二礼二拍手一拝)となります。

 -拝(身体を90度折り曲げる礼)を二度行う。礼(身体を45度折り曲げる礼)

 -祈念を込めて柏手を二度打ちます。

 -最期に一拝します。

 *祈願を行う場合は 二拍手と一拝の間、若しくは 一拝の後に 居住地、氏名 そして願い事を(声を出して、又は心の中で)陳べるのが一般的です。

 8 そして 正中を避けて退出し 最後に 鳥居を出た後 社殿に向かって一礼し 辞去します。

 尚 葬儀の際は 拍手は忍び手と言い 音を立てずに柏手を打ちます。又 身内に不幸があった方は 50日間を過ぎるまでは 神社参拝を控える必要が有ります。 

   今回は以上です。   

葬儀の習俗その2

 今回も葬儀の習俗に付いて書かせて頂きました。

 日本に於ける 葬儀の習俗の中で 死装束、喪服、お清めの席、拾骨についてです。

 死装束は 埋葬 或いは火葬をされる前に 故人様にお着せする衣服を指しますが、仏教では 仏弟子と成られた故人様が 修行を行う為の修行着であると共に、西方の極楽浄土へ旅する為の旅行服でもあります。従いまして 修行僧の旅姿を模した形となります。そして 着衣の色は白を基本と致します。

 日本に於ける喪服は元来は白でした。古くは 葬儀にあたり ご遺族は白を着用し、一般の参列者は然るべき晴れ着を着用して居りました。今日の様に仏事用に黒礼服を着用する習慣は 西欧列強にごする為 明治政府が推進した 欧化政策に中で 明治30年 皇室の葬儀の際 参列者に黒の礼服を着用させた事が始まりと成りました。

 仏事の中では 通夜の後の お清めの席、葬儀の後の 出立の膳、仏事の後の お斎の席 等 食事をする機会が多く有ります。これは 参列者への感謝や、故人様を偲んでの食い別れ、と共に 飲食には穢れを清める力があるとされ 参列者に死穢が伝染しない為のものでも有りました。昔は 柩を担いだ人、墓穴を掘った人、湯灌をした人には 死の穢れに染まらぬ様 食事を沢山させ、お酒を沢山飲ませたとあります。

 ご火葬の後 故人様の焼骨を拾い 骨壺の納めることを 拾骨(収骨) 或いは骨上げと言われますが、焼骨を上げる際には 二人一組で箸を使い骨をはさみます。従いまして ”箸渡し(はしわたし)” と言われますが、これは 三途の川の橋渡し に絡めて 橋を箸に絡めたものです。又 地域によっては 男女が対になり 箸を一本ずつ持って骨上げを行う場合も御座います。

   今回は以上です。

数珠

 今回は数珠(じゅず)について書かせて頂きました。

 数珠とは 108個の珠(たま)の中心に穴をあけ、この穴に糸の束を通して 輪にしたもので、仏教では法具と呼ばれます。一般的には 仏事や法要の際に、仏・菩薩・故人様の霊位などに礼拝をする時、合掌した手の親指と人指し指の間にかけます。合掌時以外は 房を下にして左手に持つか、左の手首に下げます。数珠は法具ですので 大切に取扱います、携帯の際には数珠袋や 専用の袱紗(ふくさ)に入れ、一時的に置かなければならない場合は 畳の上や 机の上に直に置かず、袱紗などの上に置く様にします。又 数珠は 個人の身代わり(お守り)となる法具で、数珠を持つ事により その人に功徳が与えられると言われ、一人一人が自分専用の数珠を持つべきとされます。尚 数珠の持ち方や、使用の作法は 宗旨により異なりますので、ご利用の前に 僧侶に確認されると良いでしょう。

 数珠は 古代インドのバラモン教で用いられた道具が原型で、釈迦により用いられ、日本へは仏教の伝来と共に伝わったとされます。その後 鎌倉時代 浄土教の称名念仏の流行とともに 数珠の使用も一般化したとされます。数珠は梵語では アクシャ・マーラーと呼ばれ、アクシャは 物をまっすぐ貫くもの、マーラーは 物を糸で繋いで重ねた物を意味し、ヒンドゥ-教では 50珠を連ねた数珠が使われます。

 仏教の数珠は 108珠を重ねたものが基本とされ、当初は 念仏の回数を数える事に使われました。その後 54珠、42珠、27珠、21珠、18珠、14珠のものが説かれて居ります。これは百八煩悩、金剛界百八尊、五十四位、四十二位、十八学人、二十七聖賢、二十一位、観音十四無畏などを象徴するものとされます。珠の形状は 丸珠、みかん珠、平珠(ろばん珠)が一般的で、素材としては ヒスイ、象牙、水晶、サンゴ、オニキス、沈香、黒檀、白檀、柘植、檜、菩提樹等が有ります。

 数珠は 仏を念ずる時に用いる珠 との意味から 念珠(ねんじゅ)とも呼ばれ、字の前後を入れ替えて 珠数と書く場合もあります。 

 数珠の形状もご宗派により異なりますので、御購入される前に 菩提寺や所属宗派の本山に 確認されることをお薦め致します。

   今回は以上です。  

戒名

 今回は戒名に付いて書かせて頂きました。

 戒名とは 仏教教団に入門し その戒律を守る事を誓った者に与えられる名前です。本来は 戒を授けられ 出家した僧侶にのみ与えられるものでした。その後 出家しない在家の檀信徒でも 授戒会の参加して戒を受ける事により、仏法に帰依した者として戒名が与えられる様になりました。更に 日本に於いては 死生観の変化により 死後に成仏するという思想の下、死後に戒名を授ける風習が生まれました(没後作僧と呼ばれます)。尚 インド仏教では戒名は無く、中国に伝わった後に生まれたと言われ、没後作僧は日本でのみ行われる習慣です。又 戒名は 浄土真宗では法名、日蓮宗では法号が正式な名称と成ります。

 江戸時代以降 寺壇制度が確立する中で、亡くなった方に授戒して戒名を与える事が一般的となります。本来 戒名は 生前に入信して授かる名前ですが、死者の場合でも 生きている者として扱い、出来るだけ早く授戒させる為 通夜式で授戒が行われます。この没後作僧は 亡くなった方を仏の弟子として浄土へ送る事を意味し、現在では 授戒は引導と共に 葬送儀礼の中心に位置付けられて居ります。没後作僧は 生前 入信に際して授かるのが本来であるが その縁が無かった者も 死後と言えども切り捨てる事無く 仏の大慈悲が存在する、と説かれます。

 戒名は 本来 寺院への貢献度、社会への貢献度、信仰の深浅、人徳 等を僧侶が判断してつけるものされて居ります。又 身分制度が有る時代に発達しましたので 院号、院殿号など 戒名に身分を表わす事も見られます。

 浄土真宗は 在家道で 教義にも戒律や授戒は無く、聞法者(もんぽうしゃ)よいう意味を込めて ”法名”と呼ばれます。

 日蓮宗は 法華経に帰依することが授戒にまさる と説かれ、法華経を受け持つことが戒をもつこと という考えから 葬儀式に授戒の作法は有りません。信仰に入った証 として法号が与えられます。

   今回は以上です。 

告別の方法(その2)

 今回も告別の方法に付いて書かせて頂きました。

 通夜、葬儀、告別式で 故人様と最後のお別れをする際、仏式であればご焼香、キリスト教や無宗教葬であれば生花の献花、神道であれば玉串拝礼が一般的です。今回は 生花の献花 及び 玉串拝礼の作法に付いて書かせて頂きます。

 生花の献花は 無宗教葬のお別れ会、キリスト教葬で焼香の代りとして(日本特有、欧米では墓地での献花)、又 仏式であっても ホテル等の公共施設で葬儀を行う場合 規則により焼香がでない為、お別れの際に利用されて居ります。

献花には 特に決められた作法が有る訳では有りませんが、通常は 献花台の横に立つ奉仕の方から 花を一輪受取り、茎を先にし 花を手前に来るようにして 献花台に置き、ご遺影に拝礼してお別れをします。又 ご遺族が居られるのであれば 献花の前と後にはご遺族に挨拶される方が良いでしょう。特に決められた作法が有る訳では有りませんので、最初に献花をされた方に従うという方法も有ります。又 献花台ではなく、オアシスを用意したケースでは そこに花を挿すかたちとなります。使用される花は 白の菊やカーネーションが一般的ですが、決まって居る訳では有りません。

 神道の神葬祭では 玉串拝礼を行います。まず 玉串は神職より受取ります。

1 玉串は胸の高さに 左手で手の平を上に向け葉の部分を下から支え、右手で手の平を下に向け榊の根元を上から持ち、左手を少し高目に肘をはって持ちます。

2 神前の玉串案の前に進み 深く頭をさげます。

3 玉串を時計方向に90度回し、左手を手前に引いて根元を持ち、祈念を込めます。

  そして 右手で玉串の中ほどを下から支え、更に90度回して、左手をはなし、右手の下に添えます。

4 一歩前に進んで、そのまま 玉串案に奉奠します。

5 拝礼をします。拝礼は 二拝、二拍手、一拝ですが、二拍手は しのび手と言い、両手を打つ寸前で止めて 音を立てない拍手で行います。

   今回は以上です。 

告別の方法

 今回は告別の方法に付いて書かせて頂きました。

 通夜、葬儀、告別式で故人様とお別れをする際、仏式であればご焼香、神式であれば玉串拝礼、キリスト教や無宗教式であれば献花が一般的でありますが、必ずしも固定概念に捉われる必要は有りません。キリスト教でも カトリック教会やルーテル教会では焼香も認められて居り、無宗教葬でご焼香をされる場合も御座います。尚 仏式では ご宗派によりご焼香の仕方が異なりますが、会葬の方々が多い場合などは時間の都合により ご宗派に係わらず ご焼香1回でお願いする場合も御座います。

 仏式のご焼香は宗派により仕方が異なりますが、その内容は以下の通りです;

天台宗

 回数は特に定めない。

真言宗

 ご焼香は3回、仏・法・僧に供養すること、戒香・定香・解脱香によって 自ら戒律を保ち、心の静寂を求めます。

浄土宗

 回数は特に定めないが 通常は ”真心を込めて一心に”1回、”身を静め、心を清める”1回、”過去 現在 未来の衆生に回向”1回の3回となります。

臨済宗

 回数に拘らない。

曹洞宗

 回数に拘らない。

日蓮宗

 ご焼香は3回、仏・法・僧の三宝供養。

浄土真宗

 本願寺派では1回、大谷派では2回、但し香を額に戴くことは致しません。

ご焼香については ご導師の宗派に合わせる考え方と、会葬者の宗派に合わせる考え方とが有りますが、これは 故人様のご宗派を尊重するか 会葬者の方の信ずる宗派を尊重するか というになります、何れが良いかは ご会葬の方の信教の自由を損なはない為に ご会葬の方の判断にお任せすべきかと考えます。

   今回は以上です。

出棺

 今回は出棺に付いて書かせて頂きました。

 告別式が終りますと、司会者より ”最後のお別れ の準備をさせて頂きます、皆様 別室でお待ち願います。”のアナウンスを受け 全員 式場より退出します。式場内では葬儀社の手で 柩を祭壇からおろし、頭を北に向けて安置し、その後 最後のお別れ、別れ花、遺品の奉納、釘打ち、喪主様挨拶 と続き 出棺となります。

 最後のお別れ の準備が整いましたら、ご遺族、近親者、親しい友人・知人の順に最後の対面をします。お別れに際しては 用意された生花のお花の部分で ご遺体の周りを飾ります。これが 別れ花 と呼ばれます。更に ご遺体と共に火葬する 故人様の愛用品、お好きだった食べ物・飲物などを 少量 柩の中に納めます。但し メガネなどのガラス製品や金属製品は 火葬の際にご遺骨を傷付ける事が御座いますので控えます。これらの品物はご収骨後にお骨壺の中にお納めします。故人様の姿を見るにはこれが最後と成りますので、周りを気にせず、存分にお別れを惜しんで下さい。最後のお別れが終りましたら、ご遺族・近親者の手で柩に蓋をし、釘打ちを行います。

 釘打ちの儀式は 故人様が無事に三途の川を渡り、浄土へたどり着く様に との願いを込めて行うものとされていますが、現在 横浜市内では火葬炉(電気炉)の事情から、釘打ちを必要としない挿し込み式の蓋が指定されて居り、釘打ちの儀式は行われなくなりました。

 蓋がきちんとされましたら、ご遺族・近親者・親しい友人・知人の中の男性の手を借りて、お柩を霊柩車まで運びます。ご遺体は足の方を先にして運ぶのが一般的しきたりです。ご自宅からのご出棺の場合は 故人様の霊が戻る事を防ぐ為に、通常の出入り口は使用せず、縁側などより出棺する風習も御座います。お柩の前には 喪主様がお位牌を持ち、次の方がご遺影を持って葬列を先導します。横浜市営の式場の場合は 火葬炉が隣接して居りますので 霊柩車を利用する必要は無く、式場内から式場入口まで男性の手でお柩を運び、入口で係員が操作する移動車に安置します。そして ご火葬に参加される方々は 喪主様を先頭に 移動車の後ろに従って火葬炉まで移動します。

 喪主様ご挨拶は お柩を霊柩車のお納めした後、又は 横浜市営式場の場合は 式場から出棺する前に 出棺のお見送りをして頂く会葬者の方々に対して行います。喪主様の代理の方がお位牌を持ち、それに次ぐご遺族がご遺影を持ち、ご遺族全員が会葬者に向かって並び、喪主様はお礼の挨拶を行います。挨拶は ご自分と故人様の関係、会葬の御礼、生前 故人様がお世話になった事に対する感謝の気持ち、これからの遺族への支援のお願い、などの言葉を伝えます。

   今回は以上です。

葬儀と告別式

 今回は葬儀と告別式に付いて書かせて頂きました。

 葬儀とは 古くから行われて来た宗教的儀式で、故人様を現世とは異なる世界にお送りする と共に残された人々が故人様の死を受け止める援助をする為の儀式でも有ります。従いまして その形式は 故人様とご葬家の死生観や宗教観が深く反映されたものでなければ成りません。告別式とは 葬儀の後、もしくは葬儀の代りに行われる式で、参列者が故人様にお別れを告げる と共に社会に故人様の逝去を告知する為の式でもあります。現代では葬儀と告別式が同時に行われる様になって参りましたが、本来は それぞれ異なる目的を持って行われるべき式であります。

 葬儀・告別式は 古くは自宅で出棺の儀礼を行った後に、葬列を組んで葬場に行き、葬場で葬儀式を行い、火葬 或いは土葬が行われました。しかしながら 現代では葬列は無くなり、自宅での儀礼と 葬場での儀礼が一体化した事により、私どもが行う葬儀・告別式の形態が出来上がっております。

 葬儀式は故人様をこの世からあの世へ送り出す宗教的儀礼であり、告別式は 参列者が 焼香や献花をして 故人様とお別れをし ご遺族へ慰めの言葉を寄せる儀礼で 故人様のお知り合いの方々が弔問する場を儀礼として作り上げた社会的儀礼です。

 そして 現代に於いては 各種の制約から葬儀・告別式を執り行う時間も1時間程度でとの要請を受けて、葬儀式と告別式を同時に進行させることが一般的となって居ります。横浜市営の斎場では 葬儀・告別式に加えて初七日法要も1時間の間で行うべく 推奨されて居ります。従いまして ご遺族は 葬儀式と初七日法要の焼香を2回行い、それと並行して参列者による告別式の焼香が行われる形となります。

   今回は以上です。 

遺体保全

 今回はご遺体の保全処置に付いて書かせて頂きました。

 人は 生命活動を停止しますと そのご遺体は腐敗が始まり、外形的にも変化して参ります。ご逝去されてから ご火葬に付すまでの間、ご遺体の腐敗を遅延させ、外形的変化を抑制する為に保全処置を施さねば成りません。その為に エンジェルケア、エンバーミング、ご遺体保全冷蔵庫、ドライアイス等により ご遺体の保全を図る事と成ります。

 エンジェルケアとは 看護業界の用語で、患者が亡くなられた後のご遺体処理を指し、ご遺体の清拭 着せ替え 綿詰め 顔剃り 化粧などが含まれます。近年では 多くの病院でエンジェルケアを行う様になって参りましたが、その内訳は 病院の方針により異なります。

 エンバーミングとは 北米で開発されたご遺体の防腐処置技術で 長期間ご遺体を保全する事が可能であり、又 事故などで損傷したご遺体の修復も可能となります。専門の設備で、専門の技師により、ご遺体の一部を切開して血液を抜き、代りに防腐剤を注入します。土葬を習慣とした国や、ご遺体を海外へ移送する際には 重要な技術となります。日本では火葬が一般的であり、ご火葬までの時間もそれほど長くは有りませんので、適用例はそれほど多くは有りません。

 ご遺体保全冷蔵庫とは ご遺体保全 専用の冷蔵庫で、腐敗の進捗が最小となる2度Cで管理されて居ります。当社でご遺体をお預かりする場合は この専用冷蔵庫内にご遺体を安置致して居ります。

 ドライアイスとは ご承知の通り 炭酸ガスの塊で、温度が低く 昇華するので 水分も出ず ご遺体の保冷に適した素材です。ご遺体は胃や腸の腐敗から始まり、腐敗ガスを発生させますので、側頭部から下腹部を中心に ドライアイスを当てて保冷します。一般的には 10Kgで24時間程度の保冷が可能ですが、夏の酷暑などの際には20-30Kgが必要とされる事もあります。

   今回は以上です。 

死装束

 今回は死装束(しにしょうぞく)に付いて書かせて頂きました。

 死に装束とは 古来 死を覚悟した者が着用する白を基調とした衣服を指しますが、現代の日本では 故人さまに対し施される衣裳を指します。仏式のお見送りに際し 故人様が仏の世界、浄土へ旅する為の装いとなります。但し 死出の旅を説かない 浄土真宗では死に装束を施しません。神道でも白い死に装束を纏う場合が有りますが、キリスト教では死に装束に相当する衣裳は有りません。

 現代の死に装束は 仏式の巡礼者や修行僧の衣裳を基本として居り、故人さまのご遺体を棺にお納めする際に装います。その内訳は 経帷子(きょうかたびら)・帯、三角頭巾、手甲、脚絆(きゃはん)、白足袋、草鞋(わらじ)、編笠(あみがさ)、木製の杖、頭陀袋(ずだぶくろ)・六文銭、数珠から成ります。

経帷子・帯は 白無地 木綿の帷子に真言や経文を記したもので、古くは 親族の女性の手により 引っぱり合いながら縫い 糸尻を止めてはいけないとされました。現代では 真言・経文などが記されていない 白無地の帷子を装うことが一般的です。帷子は左前でお着せします。

三角頭巾は 額に付ける三角形の布で、閻魔大王に拝喝する際の正装である烏帽子とする説など、幾つかの説が有ります。

手甲、脚絆、白足袋は左右逆、あるいは裏返しで装い 草鞋、編笠、杖、数珠を施して 死出の旅路への装いとします。

そして 三途の川の渡し賃である六文践を入れた頭陀袋を首に掛けて 装いを終えます。尚 頭陀袋は修行僧が托鉢の際に使用するものです。

 以上をご遺体にお着せするのが本来の姿ですが、死後硬直が進んでいたり、ドライアイスにより関節が硬直しいる場合には ご遺体を傷めぬ様 上から覆うことで済ませる事も少なく有りません。

   今回は以上です。 

喪中

 今回は喪中に付いて書かせて頂きました。

 喪中とは 喪の期間の中に身を置いている事を示します。古来の日本では 死は穢れの一種であるとして、死に関与した者は 一定の期間 穢れを他の者え移さぬ様 他者との接触を避け、慶事の外に身を置くこととしました。喪の期間内には 忌の期間(最長50日)と 服の期間(最長13ヶ月)がありますが、死者との縁故関係、宗派、地域により大きく異なります。喪の状態に身を置く事を 喪の服する、服喪などとも言い、喪中を 服喪期間、忌服期間などとも言います。死の穢れは別にしても 死別は悲しい事であり、嬉しい事をしている場合ではないと言う心情的な理由も御座います。

 本来の喪とは 近親者や心を寄せる人 あるいは尊ぶべき方などが亡くなり、それを悲しむ者が一定期間 過ごす、日常生活とは異なる 禁忌状態を指します。一般的には近親者を亡くされたご遺族が身を置く場合、最高為政者や最高権力者が死去した場合の強制的な服喪、社会的に崇敬を集めた人物の死去に対する自発的な服喪、大規模な災害やテロなどにより亡くなられた多数の死者に対する服喪などが有ります。

 喪中の期間は 忌と服に分けられます。忌の期間は 死の穢れがご遺族の身に付いている期間で、故人様の為に祈りに専念する期間でも有ります。服の期間は 故人様への哀悼の気持ちを示す期間であり、慶事を執り行う事や、慶事への参加を控える期間です。

 喪中の服装は 原則として葬儀の際に用いた喪服を着用しますが、一般的には 派手な服装は避けて、黒を基調とした控え目な服装であれば良いと考えられます。

   今回は以上です。

忌中

 今回は忌中(きちゅう)に付いて書かせて頂きました。

 忌中とは 日本では古くから ”死は穢れたもの” と考えられ、近親者が亡くなったとき、その穢れを 祝いの場などにに持ち込まない様 外出を控え、社交的な行動を避けて身を慎む期間とされます。又 この期間には殺生をしては成りませんので、魚や肉を食する事が出来ません。その期間は亡くなられてから四十九日(神道では五十日祭)の法要を終えるまでとされます。当然 キリスト教では 死を穢れとは捉えませんので 忌の概念は有りません。又 浄土真宗でも 死を穢れとは考えませんので、忌を考慮する事は有りません。そして 忌中には四華を飾り、玄関に忌中札を掲げます。

 四華とは 法華経が説かれる時、めでたい印として天から降ると言う 四種の蓮華花を指し、曼荼羅華(まんだらげ 白花)、摩訶曼荼羅華(まかまんだらげ 大白花)、曼珠沙華(まんじゅしゃげ 赤花)、摩訶曼珠沙華(まかまんじゅしゃげ 大赤花)の四種です。釈尊の死を悼んで 沙羅双樹林が白変し その遺体を覆ったとする 故事によるとされます。その作り方は 白紙を細長く切り、横に細かい刻み目を入れて、細い棒に螺旋状に巻き付け、4本を一つの台に挿して、2台を一組として飾ります。地域により作り方が異なる場合が御座います。

 忌中札とは 玄関に 忌中と書いた札を掲げるものですが、死穢を他に及ぼさぬ様 告知し、遺族は死の穢れに染まっているので 籠っている事をお知らせする お札です。様々な形式が有りますが、簾を裏に返して垂らし、そこに 忌中と書いた紙をはる事も有ります。最近は 昔の死穢観念の名残りであるとして用いない事も多く成りました。

   今回は以上です。

葬儀の打ち合わせ2

 今回は葬儀の打ち合わせ2に付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀をお手伝いさせて頂くに当たりましては まず基本方針をお決め頂く必要が御座います。そして その方針は故人さまの遺志に沿うかたちでお考え頂いては如何でしょうか。喪主様、葬儀の宗旨、会葬者への対応等 故人さまの生前のお言葉をひも解いて お決め頂いては如何でしょうか。

 ご葬儀施行の基本方針は以下の事をお決め頂かなければ成りません;

宗教

 故人さまのご信仰が最優先となりますが、場合に因りましてはご遺族のご意向を優先させるケース、又は特定の宗教によらない方式(無宗教葬)も御座います。壇那寺、信仰神社、所属教会が遠方である際は、連絡をして近隣の宗教者を紹介して頂くか、葬儀社に紹介を依頼することも可能です。何れの形にしろご遺族にお決め頂く必要が御座います。

方式

 ご火葬のみを行う直葬、お身内だけで行う密葬(家族葬)、知人・友人をお呼びする個人葬、社葬・団体葬、密葬の後に本葬 或いは偲ぶ会などを行うか お決め頂く必要が御座います。

式場

 葬儀の方式、会葬者の予測人数などを考慮して、ご自宅・集会所・市営斎場・私営斎場・寺院のなかからお選び頂きます。

日程

 ご遺族の都合、火葬場の都合、宗教家の都合、式場の都合を考慮して日取りをお決め頂きます。そして その日取りの中で日程表(時刻表)を作成します。

告知

 町内会への連絡、会社・団体への連絡、新聞への掲載有無をお決め頂きます。

接待

 通夜振舞い、火葬場での茶菓子、精進落とし、会葬礼状、香典返しなど 会葬者、参列者への接待方法 数量をお決め頂きます。

設営

 祭壇、式場設営、故人さまの写真などをお決め頂きます。想い出写真の閲覧、ビデオ放映、BGMの選曲などのご希望も合わせてお決め頂きます。

予算

 香典をお受けするかどうかを前提に ご予算の範囲をお決め頂きます。葬儀社には何にどれだけの費用が必要か問合せて下さい。アメリカなどでは 葬儀業者は内容の説明、料金の提示ををしなければならないが、どれにするかを勧めてはならない と法律で定めて居ります。

役割

 受付、案内、接待、その他の役割をお決め頂きます。

その他

 ご遺族、ご親族の間でのご希望や心配ごとを確認します。

   今回は以上です。

死因

 今回は死因に付いて書かせて頂きました。

 私共 葬祭業者がご遺体を取り扱えるのは 法律上 故人様の死が確定した後となります。即ち 医師により 死亡診断書 または死体検案書が発行された後となります。死亡診断書 または死体検案書には必ず死因が記入されます。

 厚生労働省の”人口動態総覧”によれば 平成21年(西暦2009年)の死亡者総数は1,141,035人で、約28秒に一人の方亡くなって居ります。そして その死因は以下の通りです。

 1 悪性新生物(ガン)    30.1%

 2 心疾患(心臓病)     15.8%

 3 腦血管疾患        10.7%

 4 肺炎              9.8%

 5 老衰              3.4%

 6 不慮の事故         3.3%

 7 自殺             2.7%

 8 腎不全           2.0%

 9 肝疾患           1.4%

 10慢性閉塞性肺疾患   1.3%

 又 東京都監察医務院の平成23年度版事業概要によれば 平成22年の23区内死亡者数は72,060人、内 検案総数は14,396人、解剖総数は2,035人でした。その内訳は以下の通りです。

 1 病死         69.4%

 2 自殺         14.1%

 3 災害          8.7%

    交通事故、転倒・転落、溺死、窒息、焼死、中毒、その他

 4 犯罪          1.6%

 5 その他         1.5%

 6 不詳の死       4.7%

 尚 横浜市内での実体は 公開されて居りませんので明細は不明ですが 平成24年の解剖総数は1,707件でした。

   今回は以上です。

行政解剖、司法解剖

 今回は行政解剖、司法解剖に付いて書かせて頂きました。

 人が亡くなられて場合は 亡くなられた場所、又は届け出人の居住する市区町村役所に死亡届を提出しなければ成りません。死亡届には故人様の死因が明記されます。通常は掛り付けの医師により、死因が確定されますが、各種の事情で掛り付けの医師がいない場合 又は死因の判明しない犯罪性のない異常死体に対して、死因の究明を目的として 監察医 若しくは警察の指定する医師により行われる解剖を 行政解剖と言います。そして 犯罪性のある死体 又はその疑いのある死体の死因を究明する為に行う解剖を司法解剖と言います。

 死体解剖保存法第8条に於いて

”政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域における伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体その他死因の明らかでない死体について、その死因を明らかにするため監察医を置き、これに検案をさせ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させることができる。”

と定められ、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市の5地区には 監察医が置かれ、その他の地区では警察により委嘱された嘱託医が検案・解剖を担当します。

 横浜市に於いては 伝染病、中毒、災害により死亡した疑いのある死体、又は死因の明確でない死体に対して まず監察医による検案(外見的調査により死因を特定、検死とも呼ばれます)が行われます。検案では死因が特定出来ない場合、行政解剖を行います。犯罪死のおそれがある場合は 全て司法解剖を行う事と成ります。又 行政解剖の途中でも 犯罪死が疑われる状況が出てきた場合には 司法解剖に移行されます。

 行政解剖、司法解剖 何れの場合もご遺族の同意は必要とされません。

   今回は以上です。   

死亡診断書、死体検案書

 今回は死亡診断書、死体検案書に付いて書かせて頂きました。

 人が亡くなった場合は 御家族、或いは身近な方は 死亡診断書、又は死体検案書を添付して、七日以内に死亡届を市区町村役所に届けなければ成りません。死亡診断書は 死亡事由や死亡日時などを証明する診断書で、故人様の診断・治療を担当していた医師、又は歯科医師により発行されます。死体検案書は 犯罪に関係したご遺体、若しくは診断・治療を担当した医師がいない場合のご遺体は 警察の検死を受け、監察医 もしくは警察の嘱託医が検案の後 発行します。

 戸籍法では 死亡届には やむおえない事由を除き、死亡診断書または死体検案書を添付するよう義務ずけられて居り、用紙はA3用紙の左半分が 死亡届、右半分が死亡診断書(死体検案書)の形式となって居ります。

 通常の病死あるいは老衰死等の自然死である事が明らかな場合は 診察・加療にあたっていた医師、又は歯科医師が死亡診断書を発行します。

 通常の病死、或いは自然死であっても 診察・加療に当る医師がいない場合、病死・自然死以外の異常死体、或いは 犯罪の疑いのある死体の場合は 警察に連絡し、その検死を受けて、監察医 又は警察の嘱託医による検案の上、死体検案書が発行されます。検案が必要なケースをまとめると;

 1 病死あるいは自然死であっても、生前に診察・加療を担当した医師がいない場合。

 2 病死あるいは自然死であるか 不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの非犯罪死の場合。

 5 犯罪関連死の場合。

となります。尚 横浜市内の場合 検案の費用はご遺族の負担となり、状況に応じて 二万五千円から七万五千円の間で検案料が必要と成ります。

   今回は以上です。

脳死

 今回は脳死に付いて書かせて頂きました。

 脳死とは 人の脳幹を含む脳の 全ての機能が不可逆的に回復不可能な状態まで低下し、回復不能と認められた状態を指します。その判定は 臓器を含む移植に関係しない、脳死判定の経験を持つ2名以上の医師により行います。判定は6時間の間を置いて2回行い、2回目の判定の決果に基ずいて、脳死が確定します。2回目の判定が終了した時間をもって死亡時間とされます。尚 脳死の判定基準は国毎に異なり、脳幹のみの機能低下を基準とする脳幹死を採用する場合と、大脳と脳幹の機能低下を基準とした全脳死を採用する場合とがあります。日本の場合は全脳死を前提として居ります。日本の法律では脳死を”個体死”とする旨の明記は有りません。

 人の死は 古来 心停止を前提として居り、医学的に厳密な定義を必要とするものでは有りませんでした。その後 法律上での定義として ”死の三徴候”が定められ 今日に至って居ります。人は 肺機能の停止、心臓機能の停止、脳機能の停止の過程を辿って死に至りますが 今日 医療技術の発達と共に 人工呼吸器、人工心臓等が開発され 自発呼吸が不可逆的に停止しても 人工呼吸器によって呼吸と心臓の拍動が維持できる様に成りました。これにより出て来たのが脳死の概念です。人工呼吸器の使用により 呼吸と心拍の停止よりも先に 腦の全ての機能が不可逆的に停止する状態が発生する事となります。これが脳死の状態です。脳死に陥ると 現在の医学では生命が蘇生される事は無いと考えられます。従来 脳死の後には数日から一週間で心臓が止まると言われて来ましたが、最近の症例では 脳死の状態で1年以上 心臓が動き続けた例がいくつか報告されて居り、最長例としては4歳の男子が脳死と判定された後 21年間心臓が動き続け、身長も伸びたとの 論文発表が有りました。

 この脳死を前提として臓器移植、尊厳死に関する諸問題が提起されて居ります。

   今回は以上です。

死の判定

 今回は死の判定に付いて書かせて頂きました。

 人の死は 法律上は 医師によって死亡診断書、或いは 検死医師によって死体検案書が発行される事によって確定します。従いまして 市区町村役所に死亡届を提出するに当たりましては 死亡診断書 又は死体検案書の添付が必須条件となります。死亡診断書 又は死体検案書は特別な場合を除いて、A3用紙の右側に診断書・検案書、左側が死亡届の書式となって居ります。尚 死亡届の提出先は 死亡場所、若しくは 届け出人が居住する市区町村役所となります。

 医師による 人の死亡の判定は 伝統的には ①呼吸停止、②心拍停止、③瞳孔散大・対光反射消失の 死の三徴候を根拠としてなされます。医師は この3点の不可逆的停止を確認する事により死の判定を行います。一般的には 呼吸が停止した時刻、あるいは心拍(脈拍)が停止した時刻をもって死亡時刻とする、との事です。 これが 心停止 と言われる死の判定法で、法律上でも確立して居ります。但し 心停止により 法律上は死が確定しても、その人の臓器や細胞は生きて居り、その後 緩やかに死へと向かう事と成ります。

 不可逆的停止とされる意味は 自発的呼吸が停止しても 直後に人口呼吸を施す事により 自発的呼吸が再開されたり、強心剤や電気的ショックにより 停止していた心臓が動き出す事もあり、一時的な機能停止は 必ずしも絶対的なものではないからです。墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)に於いても これらに考慮し 死亡判定後24時間以内には 火葬や埋葬する事を禁じて居ります。古くより有り得た 生存埋葬を避ける為です。但し 法定伝染病患者の死に関しては この限りでは無く、即刻の火葬が可能です。

   今回は以上です。

現代の葬儀

 今回は現代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 戦後 霊柩車の普及とともに葬列を組む事はほとんど姿を消し、葬儀・告別式を中心とする儀式に変化しました。更に核家族化から 親族が一堂に会す事も困難となり 通夜・葬儀・告別式・初七日の集中化が進みます、そして少子高齢化により儀式の小型化と個性化も顕著となって参りました。

 現代では 御家族や知人・友人の地域拡散が進み、お別れの儀式を短期間に集中して行う事が一般的となってまいりました。通夜と葬儀・告別式・ご火葬を2日間で行う事は当然の事で、初七日法要や精進落としもこの2日間の間に終えて、各地に帰る関係者の方々に迷惑をかけぬ様、便宜を図る事となります。当然の事ながらそれぞれの儀式も短縮された時間で執り行われます。例えば 横浜市営の式場をご利用された場合、通夜・お清めの席に利用出来る時間は 1時間半から2時間半の間であり、葬儀・告別式・お別れの時間は1時間となって居ります。更に ご火葬後の式場利用が出来ない為、初七日の法要も1時間の間で行う事を推奨して居ります。従いまして 1時間の中で 葬儀・告別式・初七日法要・お別れ・喪主ご挨拶を執り行い、ご火葬の間(1時間前後)にお斎の席を設ける形となります。

 また 会葬の方々は 会社を休んで参列しなければならない日中の告別式より、就業後に参列出来る通夜への参加が多くなりました。本来は近親者の方々による故人様との最後のお別れの場であった通夜の席は 現在 一般の方々の弔問の場ともなって居ります。従いまして お清めの席も 弔問の方の為のお清めと、近親者の為のお清めを分けて行う様に成りました。

 会葬者だけではなく、御家族もお忙しい この現代では ご葬儀の簡略化がより進められる 昨今の葬儀事情で御座います。

   今回は以上です。

大正・昭和初期の葬儀

 今回は大正・昭和初期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 明治の後半から大正時代にかけて、都市部では大型葬列に対する批判が高まります。私事の為に公道を妨げて良いのか 等の論調の批判がマスコミに登場するようになります。又 明治17年に制定された 墓地及び埋葬取締規則により 許可される区域が限られて 市街地での火葬や埋葬が制限され始め、更に明治36年には路面電車が走り始めた事により 葬列廃止は加速されました。大正時代に入り 大型葬列に代わり 登場したのが告別式です。告別式の最初は 明治34年に行われた 中江兆民氏の葬儀と言われて居りますが、この場合は葬列の代りに告別式ではなく、同氏は無宗教であったため、宗教儀礼は行わずに、お別れ会として 告別式が行われました。しかしながら これを機に大型葬列に代わり、大型の告別式が行われる様になります。そして 葬列に代わり霊柩車が登場します。

 日本型霊柩車は 大正11年の 大隈重信の国民葬で、トラックの後部荷台に白木の輿を載せて、ご遺体を移送した事にヒントを得たと言われて居ります。海外の大型車を輸入し、後部に和風の唐草模様などを装飾した、宮型霊柩車が登場します。日本で最初の宮型霊柩車は大阪で登場しました。

 告別式の大型化に伴い 大きく変化したのが祭壇でした。葬儀の祭壇は 現在の枕飾りと同様で 前机の上に三具足を供え、その横に御供花やお供物を供えたものでしたが、それが 二段、三段、そして五段へと大型化し、更に高欄を備えたものえと変化しました。それに伴い 六道などの新しい燭台や、祭壇を装飾する為の各種仏具が開発されました。遺影写真も昭和初期には登場しました。とはいえ 昭和初期の大恐慌なども有り、祭壇文化が本格的になるのは 世界大戦後の昭和28年以降となります。昭和15年には戦時下となり 葬列を組む事も困難になり、燃料不足により霊柩車も動かせず、祭壇の装飾にも困る様に成り、死者が出ても ご納棺して 火葬場へ行くだけという状態が 第二次世界大戦終戦後の一時期まで続きます。

   今回は以上です。 

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商という身分制度の下で、身分に合わせた葬儀が営まれて居りましたが、明治時代に入り、この身分制度が廃止されると 大都市を中心に葬儀の在り方が大きく変化して行きました。まずは ひそかに夜間行われていた葬列が、昼間 大掛りに行われる様に成ります。又 使用される棺が 棺桶を使用した座棺から、寝棺へと変化します。更に 寝棺を乗せる為の 白木の輿が組まれ、その輿を彩る為の葬具が出現しました。

 江戸時代の葬列は 夜間に少人数でひそやかに組まれるのが普通でしたが、明治時代に入ると 台頭してきた商人層を中心にして 社会に誇示する為 日中に大掛りな葬列を組む様に成ります。葬列の要員としては 明治と共に役割を終えた大名行列の奴が動員されました。

 江戸時代の棺と言えば 棺桶 すなわち座棺が中心でしたが、明治に入ると 富裕層を中心とした 葬列の肥大化に伴い長方形の寝棺が使用され始め、この寝棺を運び為の白木の輿をあつらえて、より多くの人により柩を運ぶ事で、その財力を社会に示しました。但し 一般庶民の柩は棺桶が中心で、この柩を 駕籠や御輿型に飾られた人力車などで運びました。この状態は第二次世界大戦終了まで続きました。

 又 この葬列を彩る為の 野道具と言われる葬具も立派な物が作られ始めます。金連、銀蓮、生花や造花を挿して作った花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿などです。現代の葬具の原型となるものです、そして これらの葬具を作成する専業の葬具屋がこの時代から出現しました。

   今回は以上です。 

廃仏毀釈

 今回は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に付いて書かせて頂きました。

 廃仏毀釈とは 仏を廃し 釈迦の教えを毀(壊)す 事を意味し、仏教寺院・仏像・教典を破毀し 僧尼や寺院が受けていた特権を廃する事です。その最たるものは 明治維新後の廃仏毀釈運動ですが、これは 徳川幕府が仏教を国教としたのに対し 新政府は神道を国教に変更する為、発令された 神仏分離令等を民衆が拡大解釈して 引き起こされました。

 廃仏毀釈運動は 仏教の特定宗派に対する反対運動として、或いは キリシタン大名が支配した領地等で小規模には発生して居りましたが、明治時代初期の運動は全国に波及した大規模な運動となりました。徳川幕府の時代には寺請制度により 仏教は国教としての位置付けにあり、神道は寺院の一部として機能して居りました。明治政府は この体制を壊す為、まずは神道と仏教の分離を目的として各種の布告を発令しました。神仏習合の廃止、仏像を神体として使用する事の禁止、神社から仏教的要素を払拭する事、各神社での祭神決定、僧職から神職への転向等と共に 仏像・仏具の破壊や 仏事の禁止という過激な発令も一時的には出されました。この運動により古くからあった多くの寺院や仏像が毀損され、貴重な文化遺産を失う事と成りました。

 寺請制度を基にした寺院の特権は 汚職の温床ともなり、それに対する民衆の反発が、より大きな運動に発展させたと考えられます。この仏教の危機は 仏教界の反省を促し、以後 近代化へと結び付いて行きます。

   今回は以上です。 

葬祭の民衆化

 今回は葬祭の民衆化に付いて書かせて頂きました。

 鎌倉時代中期 それまでの荘園公領制は変質し始め、弱小農民層は 水利配分や水路・道路の修築、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などの為に地縁的な結合を深め、耕地から住居を分離して 住居を集合させた村落が出来始めます、これを惣村と呼びました。惣村は畿内を中心に始まり全国へと広がって行きます。この惣村に葬祭を中心とした仏教が布教され 受入れられて行きました。

 惣村は地域共同体の自治組織であり、連帯を守る為の罰則・検察・裁判機能を有し、領主の増税に対する闘争組織であり、そして 余剰生産物の保管組織でも有りました。惣村の成立により 自立した農民達は寺院を支える事も可能となり、仏教各宗派は広く地方へも進出し、各地で寺院・道場が作られ、仏教の民衆化が広く進みます。庶民に広く葬祭を推し進めたのは浄土宗でしたが、禅宗(特に曹洞宗)・真言宗(密教)・日蓮宗・天台宗・浄土真宗(一向宗)なども 布教に当っては 葬祭を中心とする事が多く、葬祭仏教化が一段と進みました。

又 この時代 仏教界は その布教の為に その土地の民俗とも融合して行きます。現在 同じ宗派でも 地域により葬儀の次第が相違するのは 仏教と民俗との融合によるものです。

 日本に於ける 仏教寺院と信徒の関係は 壇那寺(旦那寺)-檀家(信徒)として結ばれて居り、これを 寺壇関係とも言います。中世までの寺院は 貴族や武士により支えられて居りましたが、惣村の出現により 農民も寺院の支え手に加わる事と成ります。農民は葬祭・仏事を寺院に委託する代わりに、寺院の維持費を負担する様に成りました。尚 檀家とは 古代インド語のダーナパティの音写である 壇越 が変化した言葉で、寺や僧侶を供養する施主を意味します。

   今回は以上です。

葬儀作法の原型

 今回は葬儀作法(葬法)の原型に付いて書かせて頂きました。

 現代の仏教葬の原型は鎌倉時代に作り上げられたという説が一般的ですが、当時は龕堂と火葬場の二ヶ所で仏事が行われ、禅宗の葬儀として 湯灌・剃髪・三具足の祭壇・焼香・読経が成され、須弥壇の上に肖像画が飾られ、ご遺体を移動させたり ご遺体に対して所作を行う毎に仏事を重ねました。

 龕(がん)とは 柩 又は柩を納める容器の事で、龕堂とは柩を安置しておく堂を指します。お寺や自宅、或いは火葬を行う火屋に向かい合せて龕前堂が建てられました。この龕前堂で行う仏事が 現在の葬儀式に発展したと考えられます。横浜市営の斎場は久保山斎場を除き、龕堂と火葬場が対となった構造になって居ります。

 禅宗の葬儀の次第では ご遺体を湯灌し、剃髪し、清浄な新しい衣服に着替えさせ、龕に納めて 袈裟などで覆います。龕前に卓を置き 白打敷で覆い その上に花・香炉・燭台の三具足をならべ、更に故人愛用の道具をならべます。龕前の準備が整ったところで、一同が集まり仏事が行われます。導師は法語を唱え、焼香し、茶湯を献じ、読経 回向と続きます。龕を覆う袈裟は 現在の柩覆いであり、龕前の卓は 現在の枕飾りと考えられます。

 龕堂の設営に関して 龕を安置した部屋の周囲に白幕を張り巡らしました。そして 龕を閉じた後に 掛真(かしん)の儀式が行われます、これは須弥壇の上に 故人の肖像画を飾る儀式ですが、現在の遺影写真に繋がるものです。

 火葬の当日には出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、葬列を組んで火屋(火葬場)へ向かいます。火屋では 仏事を行った後に荼毘に付し、翌朝 火屋で拾骨をし、ご遺骨を寺 又は自宅に安置して 安位法事を行いました。禅宗では 本来 龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と ご遺体を動かしたり ご遺体への所作を行う毎に 仏事を重ねる事になって居りますが、次第に簡略化され、自宅と火屋での仏事のみとなって行きました。

    今回は以上です。

禅苑清規

 今回は禅苑清規に付いて書かせて頂きました。

 禅苑清規とは 禅苑は禅寺を指し、清規とは規範を現します、宋の時代に作成され 全10巻から成る禅宗 の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や 日常の行法などを記したものです。現在の仏教葬儀の原型は 鎌倉時代に 禅苑清規の中に書かれている、禅僧に対する葬送儀礼を元に出来上がったと言われて居ります。

 鎌倉時代は 貴族階級が没落し、武士が興隆して、民衆は厄災苦難に悩まされた時代でもありました。この様な背景のもとに 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場します。

禅宗の葬儀では 出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と 修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っに分かれておりました。尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心で、亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。この亡僧喪儀法に 浄土教や密教の念仏や往生祈願が取り入れられて発展し、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。

 在家の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として 剃髪し 戒名を授け、そして 引導を渡して成仏させます。これを 死後に僧侶にする事から ”没後作僧” とよばれます。現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。

   今回は以上です。

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