横浜で葬儀、お葬式ならひかりの杜

ひかりの杜

ひかりの杜

0120-264-664

公衆電話・携帯電話
からもお問い合わせ頂けます

メールでのお問い合わせ

公衆電話・携帯電話からもお問い合わせ頂けます

メールでのお問い合わせ

火葬儀プラン 家族葬プラン 一般葬プラン 葬儀後について お寺紹介 墓地・お墓紹介

24時間365日対応

24時間365日対応

・葬儀前の準備

・お通夜の流れ

・葬儀の流れ

・失敗しない葬儀社の選び方

・ごあいさつ

・火葬儀

・家族葬

・一般葬プランLight

・一般葬

・生活保護受給者様

・ペット葬

ご連絡先はこちら

QRコード

ご葬儀関連新着情報

・港北区 葬儀

・青葉区 葬儀

・鶴見区 葬儀

・港南区 葬儀

・戸塚区 葬儀

・神奈川区 葬儀

・旭区 葬儀

・都筑区 葬儀

・中区 葬儀

・南区 葬儀

・西区 葬儀

・保土ケ谷区 葬儀

・磯子区 葬儀

・金沢区 葬儀

・緑区 葬儀

・瀬谷区 葬儀

・泉区 葬儀

・栄区 葬儀

ブログ一覧

不動明王

 今回は十王信仰に於いて最初の審理を行う不動明王に付いて書かせて頂きました。

 不動明王とは 初七日の審理を行う泰広王の本地であり、梵名をアチャラ・ナータと呼び 真言宗をはじめとして、天台宗、禅宗、日蓮宗などで 幅広く信仰されて居ります。アチャラは ”動かない”、ナータは ”守護者” を意味して ”揺るぎ無き守護者”を意味して居ります。

 不動明王は 密教の本尊である大日如来の化身、又は 大日如来の決意の一つを表したものと考えられて居ります。日本へは 空海(弘法大師)が密教を唐より伝えた際に不動明王の図像を持ち返ったとされて居ります。真言宗では 大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれて居ります。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊、あるいは お不動さんなどと呼ばれ 親しまれて居ります。

 不動明王の起源は ヒンドゥ-教の最高神シヴァ神にあるという説が有力であり、アチャラ・ナータはヒンドゥ-教でシヴァ神の別名とされて居ります。密教がヒンドゥ-教を取り込む為に シヴァ神を不動明王として 大日如来の眷属に取り込んだと考えられます。

 密教では三輪身といって ほとけは 自性輪身、正法輪身、教令輪身と言う三っの姿で現れるとされます。自性輪身(如来)は 宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、正法輪身(菩薩)は 宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指します。これに対し 教令輪身は 仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し、教え、諭し、 仏法に敵対する事を力ずくで抑え、外道に進もうとする者を内道に戻す等 極めて積極的な介入を行う姿を指します。不動明王は大日如来の教令輪身とされ、煩悩を抱える最っとも救い難い衆生をも 力ずくで救う為に 憤怒の姿をして居ります。 

 不動明王の像としては 京都 東寺御影堂の木造不動明王坐像や 和歌山 金剛峯寺の木造不動明王立像が有名です。又 関東三大不動として 東京 高幡山金剛寺、千葉 成田山新勝寺、神奈川 雨降山大山寺が賑って居ります。

   今回は以上です。

返礼品

 今回は返礼品に付いて書かせて頂きました。

 返礼品とは 葬儀(葬送儀礼)に於いて お手伝い頂いた方々や会葬の方々に振舞う品物の事を指します。これは 他者に布施をする事により仏に徳を積み、これを故人様に振り向ける為の供養の品で、供養品とも呼ばれます。返礼品には 通夜返礼品、会葬返礼品、香典返し、法要返礼品などが御座います。

 通夜や葬儀の際に 弔問客や会葬者に 食事や酒を振舞ったり、お菓子などを出したりするのは 故人様の滅罪を願って行われるお布施の一つです。又 葬列が出発する際に 目の粗い竹籠にお菓子や小銭の包みを入れて 振り回しながら 見送りの方々に振り撒く習慣が最近まで御座いましたが、これもお布施の一つでした。このお布施には 仏教葬儀特有の 故人様の供養と言う意味と、会葬頂いた方々への感謝の品という意味合いが込められて居ります。

 通夜返礼品は 通夜に弔問に訪れた方への返礼品です。しかしながら 近年では通夜の弔問客が増える傾向に有ります、又 葬儀・告別式には出られないので通夜に来られると言う方も多くなりました。返礼品の目的も 通夜振る舞いに出られな方へ、或いは通夜振る舞いは行わずに返礼品のみお渡しする形なども増えて参りました。そして 通夜返礼品と会葬返礼品は同じ品物をお渡しするのが一般的と成りました。

 会葬返礼品は 葬儀・告別式に会葬された方への返礼品です。本来は会葬に来られた全ての方へお渡しする品物で、ハンカチやはがきのセットなど 5百円前後の品物を粗供養品として用意致しました。近年 都市部を中心として 儀礼を簡素化する目的で 香典を供えて頂いた方へはその場で香典返しをお渡しする ”即返し” の習慣が増えて参りました。特に横浜では この即返しが一般的となつて居ります。

 香典返しは 香典をお供え頂いた方々へ 四十九日法要後の忌明けにお礼の書状を添付してお届けする品物です。品物は半返し(香典の半額)や 三分返し(香典の三分の一)の習慣に従い用意します。前記致しました 即返しの場合は 通夜・葬儀・告別式の席に三千円前後の品物を用意してお返しいたします。但し 高額の香典をお供え頂いた方には 別途 忌明けにお返しを用意します。そして 香典返しを行わない場合も御座います、お供え頂いた香典を 社会福祉の為に寄付したり、遺児の養育費に充てたりする場合です、この様なケースでは 故人様の忌明けにお礼状を出状して お礼と共に お供え頂いた香典の用途をご報告致します。

 法要返礼品は 四十九日、百ヶ日、一周忌、三周忌などの法要に参列頂いた方への引き物です。

   今回は以上です。

死亡広告

 今回は死亡広告に付いて書かせて頂きました。

 死亡広告とは ご遺族様のご希望に従い 故人様のご逝去を広く告知する為に、新聞等のメディアに依頼する有償の広告です。通常は黒枠で囲みますので 黒枠広告、あるいは お悔み欄 などとも呼ばれて居ります。その内容は 故人様の氏名、肩書、ご逝去の日時、葬儀・告別式の日時・場所を告知するのが 主たる目的です。記載する内容の標準的 形式は有りますが、決まったものでは有りません。又 最近の 無宗教葬などでは 黒枠は用いず、表現の仕方も自由な文章で広告するケースが増えて居ります。尚 日本に於いて最初に死亡広告が掲載されたのは 1873年(明治6年)1月14日発行の 日新真事誌における 外務少輔 上野景範 ご尊父の死亡広告とされて居ります。

 死亡広告は 全国紙、地方紙、ブロック紙等のなかから 故人様のお立場に合わせてお選び頂き広告します。広告の原稿は下記の様な点に注意して作成します。

1 葬儀式と告別式を分離して行う場合は 其々の時間を明記します。これは 葬儀式の時間だけの表示では 一般会葬者の方々が葬儀式の間 待機しなければならない事を避ける為です。

2 供花、供物、香典の扱いに付いて明記します。特に記載しない場合は 受け取る 事を意味します。

3 一般的に死亡広告の文章には句読点を用いません。

4 故人様の氏名の後に 〇〇〇〇儀として 儀の文字を付けますが、これは 手紙に於ける 私儀と同様の意味を持ちます。故人様の事柄は身内の事ゆえ 氏名の後ろに 殿や様をつけるわけには行きませんが、故人様を尊ぶ心理から儀の文字を付けたと考えられます。

   今回は以上です。 

十王信仰

 今回は十王信仰に付いて書かせて頂きました。

 十王信仰とは 人間などの衆生は 特別な善人かよほどの悪人で無い限りは、没後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日から七七日までのまでの7回と 百ヶ日、一周忌、三回忌の3回、合わせて十回、それぞれ決められた王の裁きを受けて、六道の何れかに輪廻するが、遺族の追善供養により地獄に堕ちる事を免れる とされる信仰です。日本では 恵心僧都源信により記された”往生要集”により紹介され、11世紀以降に全国に広まりました。一般には 閻魔に対する信仰と理解されて居りますが、正確には 閻魔の他 九王を加えた信仰です。

 十王信仰は 10世紀 中国に於いて、インドから伝来した仏教に道教の思想が加味されて作り上げられたと言われます。

 初七日には 秦広王(しんこうおう、本地;不動明王)(本地とはおおもとの仏を意味します)の審判を受け、判定の定まらない者は三途の川を渡ります。二七日には初江王(しょこうおう、本地;釈迦如来)の審判を受け、三七日には 宋帝王(そうていおう、本地;文珠菩薩)、四七日には 五官王(ごかんおう、本地;普賢菩薩)、五七日には 閻魔王(えんまおう、本地;地蔵菩薩)、六七日には 変成王(へんじょうおう、本地;弥勒菩薩)、七七日(四十九日)には 泰山王(たいざんおう、本地;薬師如来)の審判を受けます。この王の下で 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の 六道のいずれかが決定されますので、四十九日の追善供養は特に懇ろに行う必要がある と説かれます。ここでも判定が定まらない場合は 百ヶ日に平等王(びょうどうおう、本地;観世音菩薩)、ここでも定まらない場合は 一周忌に 都市王(としおう、本地;勢至菩薩)、そして 三回忌に 五道転輪王(ごどうてんりんおう、本地;阿弥陀如来)の判定を受けますが、これまでに十分な追善供養がされていれば ここで成仏できるとされます。

   今回は以上です。 

精進落とし

 今回は精進落としに付いて書かせて頂きました。

 精進落としとは 仏教に於ける葬送儀礼の一行事で、七×七(四十九日)の間はお食事は精進料理で過しますが、忌明けと共に 食事を精進料理から 通常の肉や魚を含む料理に戻します。これを精進落とし、お斎、精進明け、精進上げ、忌中払い 等と言います。

 現在では 葬儀・告別式やご火葬後に設ける宴席を 精進落としと呼ぶ様になって居ります。或いは 火葬場から戻った後に行う 初七日の法要の際に行う宴席も精進落としと呼ばれます。但し 浄土真宗では 精進落としとは言いません。又 関東では 通夜振る舞いや 精進落としを お清めと呼んで居ります。

 古くは 葬列を組む前に 故人様との食い別れの宴席を設けた事、葬儀後には お手伝い頂いた方々へ お礼の振る舞いをした事、この二つが合わさって現在の精進落としになったと考えられます。又 遠方より参加された方々を長く引き留めなくても良い様に ご火葬後に初七日法要と精進落としを繰り上げて行う様に成りました。地域によりましては 四十九日の法要や 百カ日の法要までも繰り上げて行う事が有ります。繰り上げられた法要を 取り越し法要とも言います。

横浜や川崎の市営斎場では 利用時間の関係から ご火葬中の一時間から一時間半の間に 精進落としを行って居ります。この宴席の意味は大きく分けて二つあります。

 1 僧侶などの宗教者とお手伝い頂いた方々への感謝を表す場。

 2 故人様を偲んで食事をし、話をし、交わる場。

    今回は以上です。

葬儀の習俗

 今回は葬儀の習俗に付いて書かせて頂きました。

 葬儀とは 仏教に於ける葬祭儀礼の略語ですが 日本に於ける葬祭儀礼は 仏教の儀礼と夫々の地域で育まれた習俗とが融合して出来上がってまいりました。

 ご自宅からご出棺する場合、古くからの習俗として 玄関からご出棺しては成らず、窓や縁側から戸外にお移しし、正門ではなく 裏門 又は仮門からご出棺すると言う事が有ります。特定の地域では お柩は安置した部屋の壁を開けてご出棺すると言う場合も御座います。その理由は 死霊に対する恐怖心から 死霊が家に戻る事の無い様にとの気持ちを表す為、或いは 死は非日常の事柄であり 従い 日常とは逆の事をしなければならず 通常の出入り口である玄関は使用してはいけない などの説明が有ります。

 ご出棺の前に 故人様が生前 使用されていた茶碗を割ると言う事も有ります。これも 死霊に対する恐怖心から 死霊が戻らぬ様に、故人様の霊が迷わず成仏出来る様に、あの世はこの世とは逆なので 故人様があの世で使える様に 等の説明が御座います。

 出立ちの善、立ちめし、別れのお神酒等は ご出棺の前に 故人様と最後の飲食を共にする事で 故人様との最後の交わりを行い お別れするものと考えられます。飲食は人間の交わりを象徴しているとも言われます。

又 飲食は死者の魂を鎮め、死の穢れに対抗して 払う力が有ると信じられて居りました。精進落とし、忌中払い、お斎などは これに当ります。尚 精進料理と言われ 動物や魚などの生き物を殺して食してはいけないとされていますが、お釈迦さまは むやみに生き物を殺してはいけない と諭されましたが、食してはいけないとは言われて居らず、親鸞上人は妻帯をし魚食、肉食をしていたと言われて居ります。

    今回は以上です。

遺体葬と骨葬

今回は遺体葬と骨葬について書かせて頂きました。

 遺体葬とは ご葬儀・告別式を執り行う際に ご遺体を中心にお見送りをする形であり、骨葬は ご火葬を終えたご遺骨を中心にお見送りを行う形で有ります。遺体葬の流れは お通夜-葬儀・告別式-出棺-ご火葬-埋葬となり、骨葬は お通夜-ご火葬-葬儀・告別式-埋葬の流れと成ります。

 日本に於ける葬儀では 古くは土葬が中心であり、通夜-葬儀・告別式-出棺-埋葬をもって 葬儀・告別式の終了として居りました。しかしながら 火葬設備の充実とともに 火葬率が高まり 埋葬の替りにご火葬-納骨と 変化して参りました。東京方式とも呼ばれて居ります。これに対し 関東北部以北の北海道 東北地方、甲信越地方 中国地方 九州地方の一部では ご葬儀・告別式に先立って ご火葬が行われて居ります。又 骨葬地域では 本通夜の前に ご火葬を行う習慣もお見受けしますが、一般的には お通夜を執り行い、翌日の午前中に 出棺をしてご火葬に付し、午後に葬儀・告別式を執り行い、その後 菩提寺 或いは墓地に行って納骨を致します。

 横浜市営斎場をご利用される場合には 遺体葬が基本となり お通夜は18;00、もしくは19;00から執りを行い 翌日10;00 もしくは11;00より葬儀・告別式、そしてご火葬となります。尚 横浜市営の斎場では一日葬のご利用は認めて居りません。

 全国的には 骨葬の地域に於いても 東京方式に変わりつつありますが、その反面 東京でも 骨葬が見直されつつ有り、故人様のご逝去直後はご家族だけで密葬してご火葬を済ませ、後日 改めて ご遺骨で 本葬・葬儀・告別式 或いはお別れ会を執り行うという方式です。

   今回は以上です。 

遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 ご遺体の保全に付きましては 短期的にはドライアイス、或いは冷蔵保管庫にによる保全方法と エンバーミングと呼ばれる 化学的・外科学的な処理をご遺体に行って 長期間 保全する方法とが有ります。日本に於きましては 仏教を前提としたご火葬が主流であり、火葬率は99%を超えて居りますので、ご遺体の保全も ご葬儀・ご火葬を待つまでの間が主目的となって居ります。

 現在 多くの方々が亡くなられる場所は病院となって居ります。病院では 患者様が亡くなられると ご遺体 移送の前に エンジェルケアーとと呼ばれる処置をご遺体に施してくれます。その内容は以下の通りです;

 1 湯又は水をしぼった布 又は消毒用アルコール あるいは防腐性薬品等でご遺体を拭き清めます。

 2 目や口を閉じます。 

 3 鼻、耳、口、肛門に脱脂綿を詰めて体液の漏出を防ぎます。

 4 傷口が有る場合はテープで留め、包帯で縛ります。

 5 頬がこけている場合は脱脂綿を口に含ませて 補正します。

 6 髭剃り、爪切り、髪を整え、化粧を施して 衣服を着せます。

この状態でご遺体は ご遺族に戻り ご自宅に移送して安置し ご葬儀・ご火葬までの間 ドライアイスにより ご遺体の腐敗進行を遅らせる事と成ります。この期間は季節にもよりますが一週間から10日程度が限度です。

 更に長期間 ご遺体を保全したい場合には エンバーミングと呼ばれる処置方法が有ります。エンバーミングの歴史は 古代におけるミイラにまで遡りますが、急速な発展を遂げたのは 1860年代アメリカの南北戦争だと言われています。当時 兵士のご遺体を故郷に戻すには長い時間が必要とされ、遺体の保存技術が必要とされました。又 同じ理由により ベトナム戦争の際に 一層の技術発展が促進されました。エンバーミングの具体的処理は以下の通りです;

 1 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。

 2 遺体の顔、頭髪、手先、足先を整える。

 3 遺体の頸部等の動脈より 体内に防腐剤を注入、同時に静脈より血液を排出する。

 4 腹部に鋼管を刺し 胸腔・復腔部の体液や、消化器内の残存物を吸引・除去し、防腐剤を注入します。

 5 事故等で損傷した部分は修復を施し、切開した部分を縫合してテープ等を貼ります。

 6 最後に 再度 全身を洗浄して 頭髪、表情を整え、衣服を着せて終了となります。

以上の徹底した処理を行い、定期的に防腐剤の交換などを行えば 生前の姿のままで永久保存が可能と成ります。

ソ連のレーニン、スターリン ベトナムのホー・チ・ミン 中国の毛沢東 台湾の蒋介石 北朝鮮の金日成、金正日 その他の社会主義国 指導者の遺体はエンバーミング処理を施されて永久保存されて居ります。

   今回は以上です。

枕経

 今回は枕経に付いて書かせて頂きました。

 枕経とは 仏教の臨終行儀のひとつで、亡くなり逝く方を仏弟子にして 心穏やかに往生して頂く為に、臨終間際の方の枕元で上げるお経のことです。現代では病院でご逝去される事がほとんどのケースで、病院内でお経を上げる事が難しい事から ご自宅にご遺体を安置した後に読経して頂くのが一般的となって居ります。ご遺体をご自宅に安置するのが困難な場合は 通夜式の中に含めて執り行われる場合も御座います。神道ではご臨終の後に帰幽報告の儀、神棚封じ、枕直しの儀を行います。そして キリスト教の場合は 危篤、臨終のときから神父、あるいは牧師が立会うことが原則となって居ります。

 枕経の起源は 平安時代中期に浄土教の僧侶が 死の間際にある本人と共に誦経(ずきょう)・念仏した臨終行儀にあると言われます。枕経はご臨終の方が居られるお部屋を清らかにし、臨終の方のお心が乱れぬ様物音などにも気を配り、来迎仏などの掛け軸か屏風を枕元に飾って行います。僧侶により 剃刀で頭髪を剃り、仏 法 僧に帰依させて頂きます。共に その証として戒名を授与して頂きます。看取る人 全員で念仏を唱え、ご臨終間際の方に 念仏を唱える力が出る様 祈念します。そして 臨終の瞬間が来そうな時には清らかな水を用意して、綿 又は筆で本人の唇を潤してあげます。これが末期の水です。死に水とも言われ お釈迦様が最期に水を求めた との言い伝えに依ります。末期の水は 本人に蘇って欲しいという願いと 死後 喉の渇きに苦しまぬ様との願いを込めて注されます。

 神道では 枕経はありませんが、末期の水は仏式と同様に行います。その後に 帰幽報告の儀、神棚封じ 枕直しの儀 を執り行います。

帰幽報告の儀は 神棚に向かって ”〇〇が帰幽致しました”と 家族の死を報告する儀式です。その後に 神棚の扉を閉め白い半紙を張り付けて封じます。これは 死と言うけがれが神棚の中に紛れ込まない様にする為です。そして ご遺体の枕元に枕飾りを設けて 灯明を灯し ご遺族・ご親族が礼拝します。この時の礼拝は二礼拝二拍手二礼拝を”忍び手”で行います。この礼拝を”枕直しの儀”といい 仏式の枕経にあたるものです。

   今回は以上です。

死の環境

 今回は現代の死の環境について書かせて頂きました。

 現代に於ける死の環境は 亡くなられる場所ですが 従来はご自宅が一般的でした。しかしながら最近は病院で亡くなるケースが一般的となりました。又 高齢者の方の死亡率が年々増加して居ります。

 昭和25年頃の死亡場所は 80%以上がご自宅であり、病院でのご臨終は20%以下で有りましたが、平成4年の厚生省統計によれば 病院;73.3%、自宅;20.1%、診療所;3.3%、その他;3.3%と成って居ります。又 70才以上の高齢者の方の在宅死亡率は地域格差が有り、高い所は 山形県、新潟県、長野県、和歌山県などで、40%を超えて居り、低い所は 北海道;10.8%、東京都;13.9%、大阪府;17.4%などの都市部と成って居ります。概して 人口が集中する都市部では 高齢者の方の在宅死亡率が低い 現状ですが、最期は自宅で の希望も高まりつつあり、この様なご希望に応えるべく 訪問医療を主とする法人も徐々に増えつつ有ります。

 死亡者数の推移としては 昭和25年(1950)で 総人口8,320万人、出生児;234万人、死亡者;90万人でしたが 平成22年(2010)では 総人口;12,805万人、出生児;140万人、死亡者;139万人となり 平成24年からは死亡者数が出生児数を上回る様に成りました。今後も死亡者数は 2035年頃までは増加を続け 2035年の予想死亡者数は180万人と想定されます。

 少子高齢化の進捗と共に 当然の事ながら死亡者の中に於ける高齢者の比率は高まり続け、死は 何時 誰に起こるかわからない と言う従来の無常観に変わって、死は高齢者のものという観念が強くなって参りました。

   今回は以上です。

死亡診断書

 今回は死亡診断書に付いて書かせて頂きました。

 死亡診断書は 死亡事由などに付いての検案について記した診断書の一つであり、死亡を証明する効力を持ちます。その発行は 診断をした医師、もしくは歯科医師のみが出来ます。記載用紙は 左が死亡届、右が死亡診断書の、組になったA3用紙です。

 戸籍法では 人が亡くなった場合 故人様のご親族 又は関係者は 死亡届をご逝去後、7日以内に死亡診断書 又は死体検案書を添付して届け出なければ成りません。

 通常の病死、あるいは老衰などの自然死の場合は、その診断、治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します。突然死や 長く医師に罹っていないで死亡した場合は 病死、或いは自然死であっても 医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この様な場合と 病死あるいは自然死以外の異状死体、又は犯罪の疑いのある死体の場合も警察の検視を経て、監察医又は警察の嘱託医による検案を受けて 死体検案書が発行されます。死体検案書も死亡診断書と同等の効力を持ちます。神奈川県警察本部の場合 検案には状況に応じて2万ー7万5千円の費用が発生します。又 検案所までの往復のご遺体移送費用もご遺族のご負担となります。

 警察による検視、監察医による検案が必要なケースは;

 1 病死、あるいは自然死であっても 生前に診察・治療の担当医師がいない場合。

 2 病死、あるいは自然死であるか不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの 非犯罪死の場合。

 死体解剖保存法では

  政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内に於ける伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体 その他死因の明らかでない死体に付いて、その死因を明らかにするため監察医を置き、これを検案させ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させる事が出来る。

とあり、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市には監察医が置かれ、その他の地区では 嘱託医が置かれております。現在の横浜市では検案所は2ヶ所御座います。

   今回は以上です。

臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 臨終とは 臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語で、厳密には死を迎える直前の時期を指します。この時期は 本人にとっても、近親者にとっても危機的 かつ大切な時期で、古来より 死の受入れと死の看取りに関する様々な習慣と文化が生み出されて居りました。エジプトやチべットの”死者の書”、中世ヨーロッパに書かれた”往生術”、インド仏教に於ける祇園精舎の無常院、日本では 平安時代中期に書かれた”往生要集”等です。

 現代では 事故等による突然死を除くと、臨終される場所は75%が病院、20%がご自宅となって居ります。そして ご臨終の場所に係わらず 看護は延命を目的に治療を続けることよりは ご本人とその近親者の方々が 最後の時をどの様に迎えるかを大切に考える様に変わって来ました。ご本人と近親者がより良い別れの時をどう持つかが重視される様になったと言えます。

 ご臨終の時は 本人は勿論、御家族にとっても大切な時間です。最期の看取りを行い、きちんとお別れが出来るか如何かは 御家族の後々のお心に 大きな影響を与えるからです。ご本人が安らかに最期を迎える事が出来る様 御家族は医師とのコミニケーションを密にし、ご本人が希望されていた方や近親の方々に的確な連絡を行い、面会に来て貰う様 手配するのが良いでしょう。最期に立会えず、良いお別れが出来ないときは、後々まで近親者の心の傷として残る事が有ります。離れて住む近親者の方への配慮も必要と成ります。

 そして ご本人が深い信仰をお持ちの場合は ご本人が信頼する宗教者をご臨終の床にお呼びするのも 大切な事です。

   今回は以上です。 

密葬

今回は密葬に付いて書かせて頂きました。

 密葬とは 故人様のご逝去を対外的に公表したくない場合、或いは何らかの理由で本葬儀を後日 時間を空けて行う場合に 故人様の家族、近親者、極く親しい友人のみで小規模に執り行う葬儀のことです。近親者でのご火葬を目的として居ります。一般的には 後日 対外的な本葬儀、あるいはお別れ会などを執り行うのが 本来の意味合いです。

 元来 密葬は 有力者や有名人などが亡くなった際、大規模なご葬儀を準備しなければならず、それなりの準備時間を必要とします。この様な場合 ご遺体を長時間 維持する事を避ける為、ご火葬を目的とした内輪の葬儀を執り行い、後日 お別れ会や 社葬などを執り行います。

著名人や芸能人 本人やご家族が亡くなった場合 その葬儀には 普段親交のある方だけでも大勢の方々が集まり、更にファンやマスコミも集まることで 混乱を招きかねません。その為 然るべき場所と時間を選び、きちんとした準備が必要と成ります。

又 大企業の経営者や大きな団体の責任者のような方の場合は 社員、関係会社、取引先、関連団体など ご本人やご家族との親交に係わり無く、葬儀に参列される方は多くなります。社葬、団体葬なども会葬の方々に失礼の無い様 十分な準備が必要と成ります。

 密葬は小規模な葬儀と言う点で 家族葬と混同されがちですが、密葬と家族葬は同義では有りません。

   今回は以上です。

斎場、斎苑

 今回は斎場、斎苑に付いて書かせて頂きました。

 斎場、斎苑は 主として地方自治体が火葬場を整備するに当たり、忌避感を持つ火葬場という名前を避ける為に使用されました。又 時代の要求に応えて葬儀式場を併設した総合施設として利用されて居ります。

 葬儀事情は 戦後 大きく変わりました。葬列を中心とした葬儀が姿を消し、葬儀の中心は告別式へと移ります。同時に 家族や関係者の地域拡散が進み、葬儀はお通夜 葬儀・告別式の2日間に集中 短縮する様になり、更に核家族化と共に葬儀式場は自宅から葬儀場の利用へと移行して行きました。この様な住民ニーズに応える為 都市部の自治体は式場・火葬場併設の斎場、斎苑を建設し 住民サービスの向上に努めて居ります。

 遠方よりの会葬者に便宜を図る為の 日程短縮は 葬儀式と告別式の同時進行、式の時間も一時間以内というのが一般化しました。横浜市営の斎場では お通夜は18時、もしくは19時より始まり 式は45分間 その後にお清めが続き 20時半でお開き 21時で退場と成ります。又 21時以降は火災予防の為 火気厳禁となりますので、宿泊は可能ですが灯明、線香を灯す事は出来ません。翌日は 葬儀・告別式と成りますが、約45分間の間で葬儀・告別式の同時進行と初七日法要も執り行うのが一般的です。初七日法要の後に最後のお別れとなります。そしてご火葬と続きます。初七日法要のお斎の席は ご火葬をお待ちの間に控室でお設けします。

最後にご収骨をされて終了となります。尚 市営斎場ではご火葬後に部屋を使用する事が許されず、ご火葬後の初七日法要を行う事は出来ません。

   今回は以上です。

霊柩車

 今回は霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは 貨物自動車運送事業法に定められた ”遺体の搬送を行う自動車”で、ご遺体を葬儀式場から火葬場へ移動させる際などに使用される 特殊用途自動車です。ご遺体の搬送は 国土交通省管轄の許可事業で 許可を得ていない自動車でのご遺体の搬送は出来ません(特別な場合を除き)。従いまして霊柩車のナンバープレートは青色となり、形式として 宮型、洋型、バン型、バス型の4種類が御座います。尚 俗言として ”霊柩車を見たら 親の死に目に会えなくなるので 親指を隠せ” と言われました。

 日本に於いて 古くは柩は人間により担がれて運ばれていましたが、明治時代に入り 大八車に乗せて運ぶ様になり、その後自動車が日本で作られる様になると トラックの荷台に宗教的な装飾を施して その上に柩を乗せて運ぶ様になり、昭和時代初期には 米国より パッカ-ドを改造した霊柩車が輸入されました。

 現在 宮型霊柩車は 後部に輿の様な形のデザインを施し、主としてご遺体を火葬場に搬送する為に用いられます。 

 洋型霊柩車は 欧米式の霊柩車の架装を施した形のもので、普通の車と変わらず 宮型よりもスマートで近代的と言われ 良く使用される様に成りました。宮型と同じく ご遺体を火葬場に搬送する際に用いられます。

 バン型霊柩車は 特別な外装を施さない霊柩車で 通常は病院からご自宅への搬送に用いられますが、遠隔地への搬送や ご遺族のご希望で目立たぬ様に移送する際などに用いられる、多目的のご遺体移送車です。

 バス型霊柩車は 大型のバスを使用し 柩を収めると共に 火葬場への同行者も同乗できる霊柩車です。

霊柩車の運賃体系は 運賃+緒料金+実費 の合計金額となります。

   今回は以上です。

告別式

 告別式とは 故人様に別れを告げると共に、社会 そして参列者に故人様のご逝去をご挨拶する式です。葬儀式は僧侶が主導する宗教儀礼ですが、告別式は喪主様 もしくは施主様(葬儀委員長)が主導する社会儀礼です。一般的には葬儀式の後に続けて行われますが、参列者が多数見込まれる場合は後日 改めて執り行う事も御座います。又 無宗教の場合は 葬儀式は行わずに告別式のみを行うケースも御座います。告別式の代わりにお別れ会と告知される事も御座います。最初に告別式が執り行われたのは 明治34年の中江兆民の葬送だと言われて居り、現在の葬儀式の後に続けて行われ形は 昭和時代に入ってから定着しました。

 日本で初めて告別式が行われた 中江兆民は明治時代の思想家で フランスの思想家 ジャン・ジャック・ルソーを日本に紹介し、自由民権運動の理論的指導者として名を知られ、東洋のルソーとも評されました。本名は中江篤介(とくすけ)、1847年に土佐藩高知城下で生誕し、第一回衆議院議員総選挙の当選者の一人でも有ります。中江兆民は無宗教葬に対するこだわりを強く持って居り、生前より”自分が死んだら直ぐに火葬場に送って荼毘に付せ”と遺言して居りました。しかしながら その死を悼んだ弟子達により青山葬会場に於いて、宗教儀礼によらない無宗教葬として、日本で初めての告別式が執り行われました。

 現在の告別式は 葬儀式の後、出棺の前に行われるのが一般的となって居りますが、東北地方や九州地方など特定の地域では火葬を先に行うケースもあります。告別式の流れと致しましては 施主(葬儀委員長)による式辞、参列代表者の弔辞、弔歌の奉読、弔電の披露、参列者による故人様への告別(焼香、献花など)が行われます。参列者は喪服、若しくは喪服に準じる服装(学生の場合は制服)を着用するのが慣例とされ、華美な服装や派手な美粧はタブーとされます。喪服ではなく ”平服でおいで下さい”とお断りする場合も御座います。

   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を指します。現在では斎場とも言われます。古くは 天皇の御体を火葬する場所を 山作所、天皇家以外の火葬場は 三昧(さんまい) 三昧場 或いは 荼毘場 と呼んで居りました。又 近畿以西では 火屋や、三昧の呼称が定着し、関東以北では 焼き場や、竈場(かまば)の呼び名が定着した時代も有りました。

 日本国内に於ける火葬場の歴史は弥生時代後期から有すると想像されますが、確認出来る物は 日本書記に記載されている 700年以降であり 仏教の要請から発生して居ります。当時は 常設の火葬場は設けられて居らず、貴人の火葬に当っては 火床を設け その周りを幕や板塀で囲んだ 仮設の場所で行われました。その後 庶民の間でも 火葬を行う者が現れ 人里離れた野原に木薪を組み上げ その上にご遺体を乗せて焚焼しました。これを 野焼きと言います。野焼きは 特定の地域に於いて 昭和後期まで行われて居りました。

 鎌倉、室町時代に入ると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい場所に石等で火床を設けた 常設の火葬場所だ出来始めます。これらは 火屋、火家、三昧、荼毘場などとよばれ、京都、大阪、江戸の都市に広がって行きました。そして 火葬の際に出る 臭気や灰等の弊害から 郊外に統合化され 大規模火葬場が出来て行きます。その典型的な例が 小塚原刑場近くに作られた 現在の東京博善町屋斎場です。江戸時代中期には 硬質良土を敷き込んで整地した上に 火床を設け 屋根かけもされる様に成りましたが、まだ火葬炉と呼べる状態ではありませんでした。

 明治時代に入り 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した トンネル状炉室と煙突を備えた 火葬炉が築造される様になり、火葬率の高かった 近畿、北陸、中国地方の 個人所有や 集落所有の簡易な火葬場にも普及して行きます。この火葬炉は 少ない燃料(木薪や木炭)で、ご遺体の燃え残りも少なく、使用も簡単で、煙突効果により臭気・煤煙も低減出来る事と成りました。そして 昭和初期には 重油焚きの火葬炉が開発されます。現在では 更に進んで ほとんどの火葬場では 電気式の火葬炉使用と 排煙処理により、臭気・媒炎などを気にする必要は無くなりました。

   今回は以上です。

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史に付いて書かせて頂きました。

 日本に於ける火葬の歴史は古く、弥生時代後期(2世紀頃)と想定される、長崎県大村市で発屈された竹松遺跡に於いて火葬後に埋葬されたと見られる人骨が発見されて居ります。又 文献に残る火葬の記述としては ”続日本紀”に記された僧道昭の記録が最古のものとされます。更に 日本で最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇と言われております。火葬の技術は仏教の伝来と共に伝わったとするのが一般的な理解ですが、それ以前にも国内で火葬が行われて考えられます。

 火葬は 葬送の一手段としてご遺体を焼却する事ですが、ご遺体の焼却を伴う葬儀全体を指す場合もあります。又 ご遺体の焼却は ご遺体の減容量化と安定化の為の処理とも言えます。仏教では ご火葬を 荼毘(だび)に付す とも言います。荼毘とは 火葬を意味するインドのバーリ語に由来し、仏教用語の一つで、釈尊が死後 火葬されたことにちなみます。特に浄土真宗では火葬を強く推奨しております。

 日本では平安時代以降 皇族、貴族、僧侶等の間では火葬が広まりましたが、一般庶民の間では必ずしも広がりませんでした。それは ご遺体を焼骨に変える為には強い火力が必要とされ、生活の為の貴重な薪を大量に使わなければならず、又 効率良く焼却する為には高度な技術を必要とした為、ご火葬は費用のかかる葬送でありました。浄土真宗ではご火葬を強く推奨して居りましたが、江戸時代の火葬化率は全国平均で2割程度と推定されます。一般庶民の埋葬は永く土葬が常識で、場所を広くとらぬ様、ご遺体を屈して縦長の桶に納めて埋葬するのが一般的でした。この様な状態が明治維新以降 大きく変化して行きます。それに付きましては次回に書かせて頂きます。

   今回は以上です。

明治時代と神葬祭

 今回は明治時代の神葬祭事情に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本固有の多神教宗教である神道の葬儀で有ります。神道に於いては 人は皆 神の子であり 神の計らいによって母の胎内に宿り この世に生まれ この世で役割を終えると 神々の世界へ帰り 子孫を見守る と考えられて居り、神葬祭は故人に家の守り神となって頂く為の儀式であります。

 明治維新によって出来た新政府は 徳川幕藩体制を否定する為 民衆把握の基本となっていた 寺請制度を廃止し その母体となっていた仏教を排斥し 神道を新たに国教と位置付けます。明治元年発令の 神仏分離令、明治4年の戸籍法により 寺請制度の法的根拠が廃絶し 庶民は仏教寺院の檀家である必要が無くなりました。更に 明治5年の自葬禁止の布告により 葬儀は僧侶又は神職により 執り行われなければならなく成り 神職は氏子の神葬祭を自由に執り行う事が可能と成ります。そして それまで寺院の墓地は有りましたが 神葬祭の墓地が存在しなかった事をふまえ 明治同年に 神葬祭用の墓地として 東京市営で 青山墓地、谷中墓地、染井墓地の三墓地が開設されました。尚 三墓地共に 後年には 神葬祭限定ではなくなります。

 その後 明治政府は 信教の自由を布告し 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に係わる事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県社以下の神職と規定し、この規定は 第二次世界大戦終戦まで続く事に成ります。この様に神道は政府レベルでの支援を受けましたが 神葬祭はそれ程の広がりを見せませんでした。それは 法的根拠は無くなりましたが 民俗と結びついた仏教葬と檀家制度は 根強い基盤を民衆の中に持ち続けた事によります。

 尚 神道に於いて 死は穢れである為 聖域である神社で神葬祭は執り行わないと言われます。但し 神道でいう穢れとは 不潔・不浄の意味ではありません。肉親、或いは極く身近な方が亡くなり その悲しみによって 溌剌とした生命力が衰退している状態を 気枯れ=けがれ として居ります。

   今回は以上です。   

神道

 今回は神道(しんとう、かんながらのみち)について書かせて頂きました。

 神道は 古代日本に起源をたどる、日本固有の宗教で、山や川などの自然現象を敬い、それらから八百万の神を見出す多神教の宗教です。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に 豪族層による政治体制と共に徐々に成立しました。その分類としては 神社神道、民俗神道、古神道、国家神道、皇室神道(宮中祭祀)、教派神道等が有ります。一般的には 神道とは 神社神道を指して居ります。

 神道には 明確な教義や教典はなく 古事記や日本書紀など 神典と言われる古典を規範とし、森羅万象に神が宿ると考え、祭祀を重視し、浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目として居ります。又 仏教は 主として個人の安心立命や、魂の救済を目的(時代によっては国家鎮護を含む)を目的として信仰されて来たのに対して、神道は 神話に登場する神々の様に 地縁・血縁で結ばれた共同体を守る為に信仰されました。

 神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、神道と言う宗教として体系化されるのは 鎌倉時代中期以降と成ります。この体系化に大きく貢献したのが 吉田兼倶(1434-1511)です。兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 体系や儀礼を作り上げ 神道は 儒教や仏教の宗主であり 万法の基であると理論ずけました。神仏習合により 神社内に作られた寺院は 仏教の民衆化と共に独立し始め それに比して神道の地位は低下し 神社も修験道の手に移って行きます。吉田神道はこうした 神社・神宮寺・別当寺を傘下に収め 唯一の神道として習合して 1700年頃のその完成を見ます。

  今回は以上ですが、次回は江戸時代以降の神道について書かせて頂きます。

寺請制度

 今回は寺請制度に付いて書かせて頂きました。

 寺請制度とは 1961年からの寛文年間に江戸幕府より発冷された キリシタン禁制、及び住民調査を目的とした宗教統制の制度です。武士・農民・町人に係わらず、全ての人々に仏教寺院より寺請証文を受ける事を義務付け、寺院にその人々がキリシタンではない事を証明させる制度です。必然的に 人々は家を単位として寺院の檀家とならねば成らず、檀家制度を確立させる基とも成りました。

 寺請制度は 仏教の壇信徒で有る事の証明書を寺院から請ける制度で、旅行や住居の移動の際には寺請証文の提示が必要とされました。従い 民衆は幕府又は大名家に認められた仏教寺院の檀家と成らねばなりませんでした。又 寺院側へは 現在の戸籍に当る宗門人別帳の作成、年一回の更新、キリシタンの発見 及びその家族・親族の監視などが義務付けられ、仏教寺院は 幕府の出先機関として民衆管理を行うと共に大きな権限を与えられる事と成ります。そして この権限が汚職の温床となり、宗教活動をおろそかにし、明治時代初期の廃仏棄却へと繋がってゆきます。

 とは言え、この制度により 当時としては世界一の人口調査が可能となり、人々は寺院の檀家となる事で戸籍を得る事になり、以降は 出生・結婚・旅行・移転・奉公・逝去等の際には 村役人の発行する送り状・請け状・手形と共に 寺院が発行する 送り状・請け状・手形も必要とする様になります。

 又 江戸時代も進むと 世の中は平和になり 民衆は自分の死後の葬儀や供養の事を考えて菩提寺を望む様になり、寺請制度は受入れ易い環境とも成りました。そして 仏教は 幕府や藩の行政権威を補う役割を担い、事実上の国教と成りました。現在 私共が接する 寺院と信徒の関係(檀家制度)や 葬儀・法要の基本は寺請制度を基にして作られと言っても過言では有りません。

   今回は以上です。

一家一寺

 今回は一家一寺について書かせて頂きました。

 昭和の時代には 一家一寺 即ち檀家制度が一般的でした。この一家一寺制は17世紀後半の江戸時代に制度化された”寺請制度”と共に確立されました。江戸時代 農民の自立化が促進され、そこで家という考え方出来、祖先崇拝も強まり、家の菩提寺として その寺の経済基盤を支えると共に、葬祭や仏事を寺院に委託して行く事と成ります。

 室町・安土桃山の時代には 村は大百姓により支配され、村の寺院や道場は大百姓の菩提寺としての性格が強く有りました。それが 江戸時代に入ると 徐々に大百姓が没落して行き、村は平均的な本百姓により構成される様に成ります、そして 地域共同体としての村を 精神的な結びつきにより強化する為 村惣堂や惣道場と呼ばれる寺院が出来始めます。

 江戸時代初期には それ程 一家という概念は確立されて居らず、同時に妻と夫が別々の寺院に属する等、一家の構成員全員が一つの寺院に所属する檀家制度はまだ確立されて居りませんでした。それが 17世紀後半に幕府より公布された寺請制度により一家一寺が強力に推進されました。同時に家系の考え方も庶民に間に広がる事と成ります。

 檀家制度が確立されると、それまで庶民が石碑を備えた墓を持つことは有りませんでした、家族が亡くなると 共同墓地に埋葬したり、山間に置いて来たりしていましたが、家の確立と共に 家の墓地を持ち、家の墓石を建てる様に成り、先祖崇拝も庶民の間に根付いてゆきました。

 現代のお墓は 農民(庶民)の自立を前提とした、家の確立により、家の象徴 或いは根拠として建てられ始めたと考えられます。又 お墓は 抽象的な祖先崇拝ではなく、家の先祖という具体的な対象を崇拝する形を取る事とも成りました。

   今回は以上です。 

檀家制度

 今回は檀家制度について書かせて頂きました。

 檀家制度は 日本独特の制度であり、寺院は檀家の葬祭供養を独占的に執り行い、それに対し檀家は寺院へ布施を施し 経済支援を行うという、寺院と檀家の関係を指します。この制度は 応仁の乱以降 荘園制の崩壊と共に惣村が生まれ、家という概念が出来始めて進捗し、江戸時代の寺請制度により確立しました。

 檀家とは 壇越(だんおつ)の家という意味ですが、壇越とは 梵語のダーマパティの音写で、寺院や僧侶を援助する庇護者を意味します。仏教伝来の後 有力な氏族は壇越となって、寺院を建立し仏教諸宗派を保護しました。例えば蘇我氏は飛鳥寺を、秦氏は広隆寺を建立して居ります。この壇越が檀家の源流となります。伝来当初は 有力者の信仰対象であった仏教は その後 広く世に浸透し、仏教の庇護者は有力氏族から惣村へ、更には 家単位へと広がって行きました。そして キリシタン禁制を目的とした寺請制度により、檀家制度が始まりました。寺請制度とは キリスト教徒ではない証として、武士・農民・町民を問わず 全ての国民は家単位で 特定の寺院に所属し、寺院の住職は 檀家である証明として寺請証文を発行する という制度です。又 キリシタン改めの責任も壇那寺に委ねられ、それと共に壇那寺に権限も与えられる様に成ります。

檀家の義務として以下の様な事項が定められました;

1 4月8日の釈迦 降誕会、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りすること。

2 説教や 仏法を説く寺院の集会に参加すること。

3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。

4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。

お盆や彼岸の墓参はこの時代に定められた様です。

   今回は以上です。

庶民の葬儀

今回は庶民の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 日本に於いて庶民とは 長い間 農民で有りました。世界でも有数の農業国家であり、多くの農民により 日本は支え続けらてて来ました。その農民が ある時期から 村落(惣村)と言われる共同組織を作り始め、仏教はその村落と結びついて民衆化がより進められる事と成ります。庶民の葬儀も この村落の習俗と仏教を融合させた葬法として作られて行きました。

 鎌倉時代中期までの日本では 荘園公領制度が確立し その作業員である農民は 自らの作業地に居住し、広く散らばった状態で 生活・経済活動が行われて居りました。その後 鎌倉時代後期より 幕府に任命された地頭の進出により 荘園公領制は崩れ始め、農民 自らは 地域運営、水利配分、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などを契機として 地縁的結合を強め 住居も集合して 村落が形成されて行きます。この様な村落を 地域内に居住する惣て(すべて)の人が構成員となる事から 惣村(そうそん)と呼ばれました。

 惣村の成立と共に 経済力も強化され 寺院を支える事も可能と成りました。南北朝から室町の時代 浄土宗を中心として禅宗、真言宗(密教)、日蓮宗、天台宗、浄土真宗(一向宗)などは 葬祭を中心として民衆化を推し進め、惣村に寺院や道場が作られて行き 葬祭仏教化がいちだんと進む事となりました。

 庶民の葬儀に於きましては 仏教式の葬儀が庶民の中に入るという事だけでは無く、其々の土地に於ける習俗との融合も進みました。この事はその後の江戸時代以降でも同じで 仏教の葬儀では 宗派の違いによる相違と共に 地域による相違は この習俗との融合によるものです。

   今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀

 今回は鎌倉時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 鎌倉時代には 貴族階級が没落し、代わって武士が政治を司る事になります。又 宗教としては 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場して来ます。この時代に 栄西が中国から伝えた臨済宗は幕府や主要武士階級の帰依を受け、道元が開いた曹洞宗は地方武士の間で禅宗の宗派として広まりました。日本に於ける葬儀の作法としては この時代に伝えられた禅宗の僧侶の葬法が基本となり、その後 手が加えられて、武士や庶民の葬法として定着しました。

 鎌倉時代の貴族や武士の葬儀の次第を記した資料として ”吉事次第”が有ります。当時は 蔡事という言葉は 忌み嫌われ、吉事 あるいは勝事と言われました。この吉事次第によれば;

人が亡くなると 御座直しが行われます。ご遺体を北枕にして筵(むしろ)の上に寝かし直し、衣でご遺体を覆い、屏風を逆さにしてご遺体の周りに立てめぐらし、枕元に灯明を一本灯して葬儀が終るまで消えない様に守ります。香をたき、夏は死臭を消す為に酢を容器に入れておきます。人々は屏風の外で待機し、僧侶は真言を唱えます。

入棺は まず棺の中に香と土器の粉を敷き詰めます、これは 死臭を防ぎ ご遺体が動くことを防ぎ ご遺体から漏れる体液を吸収するためです。納棺は筵ごとご遺体を棺の中に移し、ご遺体には梵字を描いた布で覆い、頭・胸・足の三ヶ所に土砂加持の砂をかけます。そして 蓋をして、布で縛って、北枕で安置しておきます。

葬儀の日は 早朝に山作所(さんさくしょ)と呼ばれる墓を作ります。同日 素服と呼ばれる白無地の粗い布を素地とする喪服を裁縫し、この素服を着用して 同日夜に御仏供養を行い、出棺となりました。出棺の後は 寝所を竹の箒で掃き、集めた塵と箒を川に流すか、山野に捨てて、灯明を消します。

  今回は以上です。

吉事次第

 今回は吉事次第について書かせて頂きました。

 鎌倉時代に書かれた文献に ”吉事次第” があります。これには 当時の天皇・貴族の間で行われた 葬儀の概略が書かれて居ります。この時代には 蔡事 或いは凶事という言葉が忌み嫌われ 葬儀のことを 吉事  或いは勝事とよんで居りました。

 鎌倉時代には 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が興されました。貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、民衆は厄災に悩まされる事に成ります。日本に於ける 武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。その基になるのは 中国で編纂された禅宗の葬法で、本来は僧侶の為の葬法ですが それに手を加えて 武家や民衆の葬法と変化して行きました。

 吉事次第には 以下のように書かれて居ります。まず人が死ぬと 北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。香は燈火の火を点けて焚く。夏は酢を容器に入れて 死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。

棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。納棺は 褥のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。そして 頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて 葬儀に時まで北枕で安置する。葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで 貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り 荼毘に付す。収骨は 焼骨をカメに納めて土砂を加えて 蓋をし 白の皮袋に包む。そのご遺骨は三昧堂に納める。葬儀・火葬が終れば 貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。

この当時は葬儀の後 魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。七七日と一周忌の法要は以前から有りましたが、この時代から 三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。

   今回は以上です。

葬儀の仏教化

今回は葬儀の仏教化に付いて書かせて頂きました。

 葬儀の仏教化は 平安時代中期以降 聖による 浄土宗・浄土真宗の一般民衆への布教が大きく広がり、その教えである 極楽往生の思想は 葬儀施行の基本概念として確立して行きます。

 986年 比叡山に於いて 25名の僧侶が集まり 二十五三昧会と呼ぶ念仏結社が結成されました。その趣旨は 月の15日ごとに衆僧25名は集結して念仏を誦し、極楽往生を願い、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する事を約しました。その中心となったのが 慶慈保胤(よししげやすたね)と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)でした。その起請には 毎月15日に念仏三昧を修する事、光明真言を誦して 土砂加持を修する事、阿弥陀如来を奉安した往生院を建て 病んだ結衆はそこの移す、病んだ結衆が往生院に移された場合は 二人一組で昼夜なく付添い 一人は看病 一人は念仏を担当する、ひたすら西方極楽浄土を念じ 極楽往生を念ずる、などが決まりとして述べられて居ります。

 二十五三昧会が結成される前年の985年に 恵心僧都源信は 極楽往生に関する重要な文章を集めた 仏教書 ”往生要集”を著わしました。その内容は十の章から成り、第一章に 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説き、第二章に 極楽浄土を説き、第三章に 極楽往生の証拠を書き、第四章以降に 浄土往生の道 念仏の功徳 念仏修行の方法 なによりも優れているものが念仏である などが説かれて居ります。

 往来要集は その後の日本文学思想などにも大きな影響を与えると共に 本書は 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台山国清寺に持ち返られ 唐末五代の混乱によって散逸した教法を 中国国内で復活させる機縁となったとされて居ります。  

   今回は以上です。

仏教の布教と葬儀

 今回は仏教の布教拡大とその葬儀について書かせて頂きました。

 仏教の伝来以来 当初は天皇家、貴族、豪族を中心に布教活動が行われて居りましたが、奈良、平安と時代が進むに連れて、一般民衆へも広がり始め、死者に対する儀礼としての葬儀も 共に形を整え始めました。

 奈良時代 僧侶になり出家する為には 官度と言い 官の許可が必要でした。私度と言い 官の許可なく出家する事は禁じられ、民衆に対する布教は禁じられたり、制限されたして居りました。しかし 私度僧が多く現れ始め、寺院に定住せず 諸国を回遊しながら 布教を進め 民衆から ”聖”と呼ばれて慕われ始めると 朝廷も 民間仏教を認めざるを得なくなりました。奈良時代 民間仏教の指導者としてその頂点に立つのが 東大寺の大仏建立に協賛し その後 大僧正となった行基です。行基集団は ”死魂を妖祇す”と言われ、死者の弔いに従事していたと考えられています。行基の弟子集団である志阿彌が火葬の技術を伝え、諸国の三昧聖になったとの伝承もあります。

 平安時代中期には 末法思想が広まり 阿弥陀仏の名を唱えて滅罪を願う 浄土信仰が民衆の間に普及し、その僧を念仏聖と呼んで敬いました。平安中期の有名な聖として 市聖と呼ばれた 空也がおります。この空也の集団も火葬に従事していたと考えられて居ります。こうした 民間仏教の拡大は 仏教の民衆化を押し進めると共に 民衆の葬儀の仏教化も進める事と成りました。尚 親鸞も念仏聖であり 聖人と呼ばれました。

 今回は以上です。

平安時代の葬儀(念仏)

 今回は平安時代の葬儀に使われたお念仏に付いて書かせて頂きました。

 平安時代の葬儀の中では 光明真言、呪願、阿弥陀護摩などが行われて居りました。

 光明真言とは 密教の真言(真実の言葉、仏の言葉、呪文)で 願いを仏に直接働きかける事が出来る呪文とされて居ります。その言葉は神秘性を保つ為に 梵字を翻訳せずに 梵音を読誦します。葬儀に於いては 光明真言を108回唱える事により 死者の滅罪を願い、極楽に往生出来る様 仏に願うものです。その梵音と意味する所は;

オン アボキャ ペイロシャノウ

オーム(聖音) 不空なる御方よ 大日如来よ

マカボダラ マニ ハンドマ

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ

ジンバラ ハラバリタヤ ウン

光明を 放ち給え フーン(聖音)

アボキャは不空成就如来を、ペイロシャノウは大日如来を、マカボダラは阿閣如来を、マニは宝生如来を、ハンドマは阿弥陀如来を指しており、金剛界五仏に対して光明を放つように祈願している真言です。そして その功徳は

光明真言は平安時代に始まり、その後 庶民の間にも広まり現在に至って居ります。

 呪願とは 法会や食事の時に 施主の願意を述べて、幸福を祈る事ですが、葬儀では 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、極楽浄土に往生する様 祈願する事となります。呪願を執り行う僧侶を呪願師と言います。

 阿弥陀護摩は 密教に於いて 阿弥陀如来を本尊とし 無病息災・延命を祈って焚く護摩ですが、死者の減罪にも力が有ると信じられて居りました。

   今回は以上です。 

平安時代の葬儀

 今回は平安時代中期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 平安時代に入ると それまで度々出されていた 薄葬令が定着しはじめ 従来の山陵を造成して葬る厚葬から、葬儀を地味に行う薄葬へと変化しました。又 この時代に天台宗と真言宗が誕生し、大きな影響を与えます。現代の日本の葬儀の原型はこの時代に作られたと言っても過言では有りません。

 平安時代中期に崩御された一条天皇(1011年6月22日)の葬儀の次第は 新谷尚紀著”日本人の葬儀”によれば;

6月22日一条天皇は危篤状態の中で時々念仏を唱えていたが、正午頃に崩御。

25日に 陰陽師を召して、葬儀の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占なわせる。同日 御体を沐浴の上、深夜に御納棺。御納棺の作業には 天台宗権僧正慶円(後に大僧正、天台座主)を中心に 数名の僧侶と、公卿数名が奉仕し、皇后や宮たちが棺に形代(人の霊を宿す為の人形等)を入れました。

7月8日葬送。素服を裁縫して人々は着用、慶円権僧正が呪願(じゅがん)を行い、院源僧都が導師を務めます。出棺には 御輿の前を2名が松明を持って先導、築垣を壊して道路に出て 御竈所(みかまどどころ、火葬場)に向かいました。葬列には 松明を持った近習が10名、香炉を首にかけて従う役、黄幡(きはた)を持つ役などが従いました。そして御竈所では呪願の後に 僧侶も立会いの下に荼毘を行いました。

7月9日終夜を通して行われた荼毘は早朝に終了し、御骨を皆で拾い白壺に御納めし、慶円権僧正により光明真言が念誦された上で、お骨壺を円成寺にお運びして安置しました。その後 人々は御骸骨所(みがいこつどころ)に祗候(側について奉仕)し、又 阿弥陀護摩も行われました。

7月20日 円成寺内に三昧堂が完成し、御骨を奉納しました。

8月2日 七七日の法要、8月11日 七七の正日の法要、9月12日 初めての月例法要が行われました。

翌年5月27日 円教寺で一周忌の繰り上げ法要が行われ、6月22日に一周忌の正日法要が行われて、葬送儀礼の全てが終了しました。  

   今回は以上です。

▲このページのトップに戻る