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出棺

 今回は出棺に付いて書かせて頂きました。

 告別式が終りますと、司会者より ”最後のお別れ の準備をさせて頂きます、皆様 別室でお待ち願います。”のアナウンスを受け 全員 式場より退出します。式場内では葬儀社の手で 柩を祭壇からおろし、頭を北に向けて安置し、その後 最後のお別れ、別れ花、遺品の奉納、釘打ち、喪主様挨拶 と続き 出棺となります。

 最後のお別れ の準備が整いましたら、ご遺族、近親者、親しい友人・知人の順に最後の対面をします。お別れに際しては 用意された生花のお花の部分で ご遺体の周りを飾ります。これが 別れ花 と呼ばれます。更に ご遺体と共に火葬する 故人様の愛用品、お好きだった食べ物・飲物などを 少量 柩の中に納めます。但し メガネなどのガラス製品や金属製品は 火葬の際にご遺骨を傷付ける事が御座いますので控えます。これらの品物はご収骨後にお骨壺の中にお納めします。故人様の姿を見るにはこれが最後と成りますので、周りを気にせず、存分にお別れを惜しんで下さい。最後のお別れが終りましたら、ご遺族・近親者の手で柩に蓋をし、釘打ちを行います。

 釘打ちの儀式は 故人様が無事に三途の川を渡り、浄土へたどり着く様に との願いを込めて行うものとされていますが、現在 横浜市内では火葬炉(電気炉)の事情から、釘打ちを必要としない挿し込み式の蓋が指定されて居り、釘打ちの儀式は行われなくなりました。

 蓋がきちんとされましたら、ご遺族・近親者・親しい友人・知人の中の男性の手を借りて、お柩を霊柩車まで運びます。ご遺体は足の方を先にして運ぶのが一般的しきたりです。ご自宅からのご出棺の場合は 故人様の霊が戻る事を防ぐ為に、通常の出入り口は使用せず、縁側などより出棺する風習も御座います。お柩の前には 喪主様がお位牌を持ち、次の方がご遺影を持って葬列を先導します。横浜市営の式場の場合は 火葬炉が隣接して居りますので 霊柩車を利用する必要は無く、式場内から式場入口まで男性の手でお柩を運び、入口で係員が操作する移動車に安置します。そして ご火葬に参加される方々は 喪主様を先頭に 移動車の後ろに従って火葬炉まで移動します。

 喪主様ご挨拶は お柩を霊柩車のお納めした後、又は 横浜市営式場の場合は 式場から出棺する前に 出棺のお見送りをして頂く会葬者の方々に対して行います。喪主様の代理の方がお位牌を持ち、それに次ぐご遺族がご遺影を持ち、ご遺族全員が会葬者に向かって並び、喪主様はお礼の挨拶を行います。挨拶は ご自分と故人様の関係、会葬の御礼、生前 故人様がお世話になった事に対する感謝の気持ち、これからの遺族への支援のお願い、などの言葉を伝えます。

   今回は以上です。

葬儀と告別式

 今回は葬儀と告別式に付いて書かせて頂きました。

 葬儀とは 古くから行われて来た宗教的儀式で、故人様を現世とは異なる世界にお送りする と共に残された人々が故人様の死を受け止める援助をする為の儀式でも有ります。従いまして その形式は 故人様とご葬家の死生観や宗教観が深く反映されたものでなければ成りません。告別式とは 葬儀の後、もしくは葬儀の代りに行われる式で、参列者が故人様にお別れを告げる と共に社会に故人様の逝去を告知する為の式でもあります。現代では葬儀と告別式が同時に行われる様になって参りましたが、本来は それぞれ異なる目的を持って行われるべき式であります。

 葬儀・告別式は 古くは自宅で出棺の儀礼を行った後に、葬列を組んで葬場に行き、葬場で葬儀式を行い、火葬 或いは土葬が行われました。しかしながら 現代では葬列は無くなり、自宅での儀礼と 葬場での儀礼が一体化した事により、私どもが行う葬儀・告別式の形態が出来上がっております。

 葬儀式は故人様をこの世からあの世へ送り出す宗教的儀礼であり、告別式は 参列者が 焼香や献花をして 故人様とお別れをし ご遺族へ慰めの言葉を寄せる儀礼で 故人様のお知り合いの方々が弔問する場を儀礼として作り上げた社会的儀礼です。

 そして 現代に於いては 各種の制約から葬儀・告別式を執り行う時間も1時間程度でとの要請を受けて、葬儀式と告別式を同時に進行させることが一般的となって居ります。横浜市営の斎場では 葬儀・告別式に加えて初七日法要も1時間の間で行うべく 推奨されて居ります。従いまして ご遺族は 葬儀式と初七日法要の焼香を2回行い、それと並行して参列者による告別式の焼香が行われる形となります。

   今回は以上です。 

遺体保全

 今回はご遺体の保全処置に付いて書かせて頂きました。

 人は 生命活動を停止しますと そのご遺体は腐敗が始まり、外形的にも変化して参ります。ご逝去されてから ご火葬に付すまでの間、ご遺体の腐敗を遅延させ、外形的変化を抑制する為に保全処置を施さねば成りません。その為に エンジェルケア、エンバーミング、ご遺体保全冷蔵庫、ドライアイス等により ご遺体の保全を図る事と成ります。

 エンジェルケアとは 看護業界の用語で、患者が亡くなられた後のご遺体処理を指し、ご遺体の清拭 着せ替え 綿詰め 顔剃り 化粧などが含まれます。近年では 多くの病院でエンジェルケアを行う様になって参りましたが、その内訳は 病院の方針により異なります。

 エンバーミングとは 北米で開発されたご遺体の防腐処置技術で 長期間ご遺体を保全する事が可能であり、又 事故などで損傷したご遺体の修復も可能となります。専門の設備で、専門の技師により、ご遺体の一部を切開して血液を抜き、代りに防腐剤を注入します。土葬を習慣とした国や、ご遺体を海外へ移送する際には 重要な技術となります。日本では火葬が一般的であり、ご火葬までの時間もそれほど長くは有りませんので、適用例はそれほど多くは有りません。

 ご遺体保全冷蔵庫とは ご遺体保全 専用の冷蔵庫で、腐敗の進捗が最小となる2度Cで管理されて居ります。当社でご遺体をお預かりする場合は この専用冷蔵庫内にご遺体を安置致して居ります。

 ドライアイスとは ご承知の通り 炭酸ガスの塊で、温度が低く 昇華するので 水分も出ず ご遺体の保冷に適した素材です。ご遺体は胃や腸の腐敗から始まり、腐敗ガスを発生させますので、側頭部から下腹部を中心に ドライアイスを当てて保冷します。一般的には 10Kgで24時間程度の保冷が可能ですが、夏の酷暑などの際には20-30Kgが必要とされる事もあります。

   今回は以上です。 

死装束

 今回は死装束(しにしょうぞく)に付いて書かせて頂きました。

 死に装束とは 古来 死を覚悟した者が着用する白を基調とした衣服を指しますが、現代の日本では 故人さまに対し施される衣裳を指します。仏式のお見送りに際し 故人様が仏の世界、浄土へ旅する為の装いとなります。但し 死出の旅を説かない 浄土真宗では死に装束を施しません。神道でも白い死に装束を纏う場合が有りますが、キリスト教では死に装束に相当する衣裳は有りません。

 現代の死に装束は 仏式の巡礼者や修行僧の衣裳を基本として居り、故人さまのご遺体を棺にお納めする際に装います。その内訳は 経帷子(きょうかたびら)・帯、三角頭巾、手甲、脚絆(きゃはん)、白足袋、草鞋(わらじ)、編笠(あみがさ)、木製の杖、頭陀袋(ずだぶくろ)・六文銭、数珠から成ります。

経帷子・帯は 白無地 木綿の帷子に真言や経文を記したもので、古くは 親族の女性の手により 引っぱり合いながら縫い 糸尻を止めてはいけないとされました。現代では 真言・経文などが記されていない 白無地の帷子を装うことが一般的です。帷子は左前でお着せします。

三角頭巾は 額に付ける三角形の布で、閻魔大王に拝喝する際の正装である烏帽子とする説など、幾つかの説が有ります。

手甲、脚絆、白足袋は左右逆、あるいは裏返しで装い 草鞋、編笠、杖、数珠を施して 死出の旅路への装いとします。

そして 三途の川の渡し賃である六文践を入れた頭陀袋を首に掛けて 装いを終えます。尚 頭陀袋は修行僧が托鉢の際に使用するものです。

 以上をご遺体にお着せするのが本来の姿ですが、死後硬直が進んでいたり、ドライアイスにより関節が硬直しいる場合には ご遺体を傷めぬ様 上から覆うことで済ませる事も少なく有りません。

   今回は以上です。 

喪中

 今回は喪中に付いて書かせて頂きました。

 喪中とは 喪の期間の中に身を置いている事を示します。古来の日本では 死は穢れの一種であるとして、死に関与した者は 一定の期間 穢れを他の者え移さぬ様 他者との接触を避け、慶事の外に身を置くこととしました。喪の期間内には 忌の期間(最長50日)と 服の期間(最長13ヶ月)がありますが、死者との縁故関係、宗派、地域により大きく異なります。喪の状態に身を置く事を 喪の服する、服喪などとも言い、喪中を 服喪期間、忌服期間などとも言います。死の穢れは別にしても 死別は悲しい事であり、嬉しい事をしている場合ではないと言う心情的な理由も御座います。

 本来の喪とは 近親者や心を寄せる人 あるいは尊ぶべき方などが亡くなり、それを悲しむ者が一定期間 過ごす、日常生活とは異なる 禁忌状態を指します。一般的には近親者を亡くされたご遺族が身を置く場合、最高為政者や最高権力者が死去した場合の強制的な服喪、社会的に崇敬を集めた人物の死去に対する自発的な服喪、大規模な災害やテロなどにより亡くなられた多数の死者に対する服喪などが有ります。

 喪中の期間は 忌と服に分けられます。忌の期間は 死の穢れがご遺族の身に付いている期間で、故人様の為に祈りに専念する期間でも有ります。服の期間は 故人様への哀悼の気持ちを示す期間であり、慶事を執り行う事や、慶事への参加を控える期間です。

 喪中の服装は 原則として葬儀の際に用いた喪服を着用しますが、一般的には 派手な服装は避けて、黒を基調とした控え目な服装であれば良いと考えられます。

   今回は以上です。

忌中

 今回は忌中(きちゅう)に付いて書かせて頂きました。

 忌中とは 日本では古くから ”死は穢れたもの” と考えられ、近親者が亡くなったとき、その穢れを 祝いの場などにに持ち込まない様 外出を控え、社交的な行動を避けて身を慎む期間とされます。又 この期間には殺生をしては成りませんので、魚や肉を食する事が出来ません。その期間は亡くなられてから四十九日(神道では五十日祭)の法要を終えるまでとされます。当然 キリスト教では 死を穢れとは捉えませんので 忌の概念は有りません。又 浄土真宗でも 死を穢れとは考えませんので、忌を考慮する事は有りません。そして 忌中には四華を飾り、玄関に忌中札を掲げます。

 四華とは 法華経が説かれる時、めでたい印として天から降ると言う 四種の蓮華花を指し、曼荼羅華(まんだらげ 白花)、摩訶曼荼羅華(まかまんだらげ 大白花)、曼珠沙華(まんじゅしゃげ 赤花)、摩訶曼珠沙華(まかまんじゅしゃげ 大赤花)の四種です。釈尊の死を悼んで 沙羅双樹林が白変し その遺体を覆ったとする 故事によるとされます。その作り方は 白紙を細長く切り、横に細かい刻み目を入れて、細い棒に螺旋状に巻き付け、4本を一つの台に挿して、2台を一組として飾ります。地域により作り方が異なる場合が御座います。

 忌中札とは 玄関に 忌中と書いた札を掲げるものですが、死穢を他に及ぼさぬ様 告知し、遺族は死の穢れに染まっているので 籠っている事をお知らせする お札です。様々な形式が有りますが、簾を裏に返して垂らし、そこに 忌中と書いた紙をはる事も有ります。最近は 昔の死穢観念の名残りであるとして用いない事も多く成りました。

   今回は以上です。

葬儀の打ち合わせ2

 今回は葬儀の打ち合わせ2に付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀をお手伝いさせて頂くに当たりましては まず基本方針をお決め頂く必要が御座います。そして その方針は故人さまの遺志に沿うかたちでお考え頂いては如何でしょうか。喪主様、葬儀の宗旨、会葬者への対応等 故人さまの生前のお言葉をひも解いて お決め頂いては如何でしょうか。

 ご葬儀施行の基本方針は以下の事をお決め頂かなければ成りません;

宗教

 故人さまのご信仰が最優先となりますが、場合に因りましてはご遺族のご意向を優先させるケース、又は特定の宗教によらない方式(無宗教葬)も御座います。壇那寺、信仰神社、所属教会が遠方である際は、連絡をして近隣の宗教者を紹介して頂くか、葬儀社に紹介を依頼することも可能です。何れの形にしろご遺族にお決め頂く必要が御座います。

方式

 ご火葬のみを行う直葬、お身内だけで行う密葬(家族葬)、知人・友人をお呼びする個人葬、社葬・団体葬、密葬の後に本葬 或いは偲ぶ会などを行うか お決め頂く必要が御座います。

式場

 葬儀の方式、会葬者の予測人数などを考慮して、ご自宅・集会所・市営斎場・私営斎場・寺院のなかからお選び頂きます。

日程

 ご遺族の都合、火葬場の都合、宗教家の都合、式場の都合を考慮して日取りをお決め頂きます。そして その日取りの中で日程表(時刻表)を作成します。

告知

 町内会への連絡、会社・団体への連絡、新聞への掲載有無をお決め頂きます。

接待

 通夜振舞い、火葬場での茶菓子、精進落とし、会葬礼状、香典返しなど 会葬者、参列者への接待方法 数量をお決め頂きます。

設営

 祭壇、式場設営、故人さまの写真などをお決め頂きます。想い出写真の閲覧、ビデオ放映、BGMの選曲などのご希望も合わせてお決め頂きます。

予算

 香典をお受けするかどうかを前提に ご予算の範囲をお決め頂きます。葬儀社には何にどれだけの費用が必要か問合せて下さい。アメリカなどでは 葬儀業者は内容の説明、料金の提示ををしなければならないが、どれにするかを勧めてはならない と法律で定めて居ります。

役割

 受付、案内、接待、その他の役割をお決め頂きます。

その他

 ご遺族、ご親族の間でのご希望や心配ごとを確認します。

   今回は以上です。

死因

 今回は死因に付いて書かせて頂きました。

 私共 葬祭業者がご遺体を取り扱えるのは 法律上 故人様の死が確定した後となります。即ち 医師により 死亡診断書 または死体検案書が発行された後となります。死亡診断書 または死体検案書には必ず死因が記入されます。

 厚生労働省の”人口動態総覧”によれば 平成21年(西暦2009年)の死亡者総数は1,141,035人で、約28秒に一人の方亡くなって居ります。そして その死因は以下の通りです。

 1 悪性新生物(ガン)    30.1%

 2 心疾患(心臓病)     15.8%

 3 腦血管疾患        10.7%

 4 肺炎              9.8%

 5 老衰              3.4%

 6 不慮の事故         3.3%

 7 自殺             2.7%

 8 腎不全           2.0%

 9 肝疾患           1.4%

 10慢性閉塞性肺疾患   1.3%

 又 東京都監察医務院の平成23年度版事業概要によれば 平成22年の23区内死亡者数は72,060人、内 検案総数は14,396人、解剖総数は2,035人でした。その内訳は以下の通りです。

 1 病死         69.4%

 2 自殺         14.1%

 3 災害          8.7%

    交通事故、転倒・転落、溺死、窒息、焼死、中毒、その他

 4 犯罪          1.6%

 5 その他         1.5%

 6 不詳の死       4.7%

 尚 横浜市内での実体は 公開されて居りませんので明細は不明ですが 平成24年の解剖総数は1,707件でした。

   今回は以上です。

行政解剖、司法解剖

 今回は行政解剖、司法解剖に付いて書かせて頂きました。

 人が亡くなられて場合は 亡くなられた場所、又は届け出人の居住する市区町村役所に死亡届を提出しなければ成りません。死亡届には故人様の死因が明記されます。通常は掛り付けの医師により、死因が確定されますが、各種の事情で掛り付けの医師がいない場合 又は死因の判明しない犯罪性のない異常死体に対して、死因の究明を目的として 監察医 若しくは警察の指定する医師により行われる解剖を 行政解剖と言います。そして 犯罪性のある死体 又はその疑いのある死体の死因を究明する為に行う解剖を司法解剖と言います。

 死体解剖保存法第8条に於いて

”政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域における伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体その他死因の明らかでない死体について、その死因を明らかにするため監察医を置き、これに検案をさせ、又は検案によっても死因の判明しない場合には解剖させることができる。”

と定められ、東京23区、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市の5地区には 監察医が置かれ、その他の地区では警察により委嘱された嘱託医が検案・解剖を担当します。

 横浜市に於いては 伝染病、中毒、災害により死亡した疑いのある死体、又は死因の明確でない死体に対して まず監察医による検案(外見的調査により死因を特定、検死とも呼ばれます)が行われます。検案では死因が特定出来ない場合、行政解剖を行います。犯罪死のおそれがある場合は 全て司法解剖を行う事と成ります。又 行政解剖の途中でも 犯罪死が疑われる状況が出てきた場合には 司法解剖に移行されます。

 行政解剖、司法解剖 何れの場合もご遺族の同意は必要とされません。

   今回は以上です。   

死亡診断書、死体検案書

 今回は死亡診断書、死体検案書に付いて書かせて頂きました。

 人が亡くなった場合は 御家族、或いは身近な方は 死亡診断書、又は死体検案書を添付して、七日以内に死亡届を市区町村役所に届けなければ成りません。死亡診断書は 死亡事由や死亡日時などを証明する診断書で、故人様の診断・治療を担当していた医師、又は歯科医師により発行されます。死体検案書は 犯罪に関係したご遺体、若しくは診断・治療を担当した医師がいない場合のご遺体は 警察の検死を受け、監察医 もしくは警察の嘱託医が検案の後 発行します。

 戸籍法では 死亡届には やむおえない事由を除き、死亡診断書または死体検案書を添付するよう義務ずけられて居り、用紙はA3用紙の左半分が 死亡届、右半分が死亡診断書(死体検案書)の形式となって居ります。

 通常の病死あるいは老衰死等の自然死である事が明らかな場合は 診察・加療にあたっていた医師、又は歯科医師が死亡診断書を発行します。

 通常の病死、或いは自然死であっても 診察・加療に当る医師がいない場合、病死・自然死以外の異常死体、或いは 犯罪の疑いのある死体の場合は 警察に連絡し、その検死を受けて、監察医 又は警察の嘱託医による検案の上、死体検案書が発行されます。検案が必要なケースをまとめると;

 1 病死あるいは自然死であっても、生前に診察・加療を担当した医師がいない場合。

 2 病死あるいは自然死であるか 不明の場合。

 3 伝染病死、中毒死などの場合。

 4 溺死、事故死、災害死、自殺などの非犯罪死の場合。

 5 犯罪関連死の場合。

となります。尚 横浜市内の場合 検案の費用はご遺族の負担となり、状況に応じて 二万五千円から七万五千円の間で検案料が必要と成ります。

   今回は以上です。

脳死

 今回は脳死に付いて書かせて頂きました。

 脳死とは 人の脳幹を含む脳の 全ての機能が不可逆的に回復不可能な状態まで低下し、回復不能と認められた状態を指します。その判定は 臓器を含む移植に関係しない、脳死判定の経験を持つ2名以上の医師により行います。判定は6時間の間を置いて2回行い、2回目の判定の決果に基ずいて、脳死が確定します。2回目の判定が終了した時間をもって死亡時間とされます。尚 脳死の判定基準は国毎に異なり、脳幹のみの機能低下を基準とする脳幹死を採用する場合と、大脳と脳幹の機能低下を基準とした全脳死を採用する場合とがあります。日本の場合は全脳死を前提として居ります。日本の法律では脳死を”個体死”とする旨の明記は有りません。

 人の死は 古来 心停止を前提として居り、医学的に厳密な定義を必要とするものでは有りませんでした。その後 法律上での定義として ”死の三徴候”が定められ 今日に至って居ります。人は 肺機能の停止、心臓機能の停止、脳機能の停止の過程を辿って死に至りますが 今日 医療技術の発達と共に 人工呼吸器、人工心臓等が開発され 自発呼吸が不可逆的に停止しても 人工呼吸器によって呼吸と心臓の拍動が維持できる様に成りました。これにより出て来たのが脳死の概念です。人工呼吸器の使用により 呼吸と心拍の停止よりも先に 腦の全ての機能が不可逆的に停止する状態が発生する事となります。これが脳死の状態です。脳死に陥ると 現在の医学では生命が蘇生される事は無いと考えられます。従来 脳死の後には数日から一週間で心臓が止まると言われて来ましたが、最近の症例では 脳死の状態で1年以上 心臓が動き続けた例がいくつか報告されて居り、最長例としては4歳の男子が脳死と判定された後 21年間心臓が動き続け、身長も伸びたとの 論文発表が有りました。

 この脳死を前提として臓器移植、尊厳死に関する諸問題が提起されて居ります。

   今回は以上です。

死の判定

 今回は死の判定に付いて書かせて頂きました。

 人の死は 法律上は 医師によって死亡診断書、或いは 検死医師によって死体検案書が発行される事によって確定します。従いまして 市区町村役所に死亡届を提出するに当たりましては 死亡診断書 又は死体検案書の添付が必須条件となります。死亡診断書 又は死体検案書は特別な場合を除いて、A3用紙の右側に診断書・検案書、左側が死亡届の書式となって居ります。尚 死亡届の提出先は 死亡場所、若しくは 届け出人が居住する市区町村役所となります。

 医師による 人の死亡の判定は 伝統的には ①呼吸停止、②心拍停止、③瞳孔散大・対光反射消失の 死の三徴候を根拠としてなされます。医師は この3点の不可逆的停止を確認する事により死の判定を行います。一般的には 呼吸が停止した時刻、あるいは心拍(脈拍)が停止した時刻をもって死亡時刻とする、との事です。 これが 心停止 と言われる死の判定法で、法律上でも確立して居ります。但し 心停止により 法律上は死が確定しても、その人の臓器や細胞は生きて居り、その後 緩やかに死へと向かう事と成ります。

 不可逆的停止とされる意味は 自発的呼吸が停止しても 直後に人口呼吸を施す事により 自発的呼吸が再開されたり、強心剤や電気的ショックにより 停止していた心臓が動き出す事もあり、一時的な機能停止は 必ずしも絶対的なものではないからです。墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)に於いても これらに考慮し 死亡判定後24時間以内には 火葬や埋葬する事を禁じて居ります。古くより有り得た 生存埋葬を避ける為です。但し 法定伝染病患者の死に関しては この限りでは無く、即刻の火葬が可能です。

   今回は以上です。

現代の葬儀

 今回は現代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 戦後 霊柩車の普及とともに葬列を組む事はほとんど姿を消し、葬儀・告別式を中心とする儀式に変化しました。更に核家族化から 親族が一堂に会す事も困難となり 通夜・葬儀・告別式・初七日の集中化が進みます、そして少子高齢化により儀式の小型化と個性化も顕著となって参りました。

 現代では 御家族や知人・友人の地域拡散が進み、お別れの儀式を短期間に集中して行う事が一般的となってまいりました。通夜と葬儀・告別式・ご火葬を2日間で行う事は当然の事で、初七日法要や精進落としもこの2日間の間に終えて、各地に帰る関係者の方々に迷惑をかけぬ様、便宜を図る事となります。当然の事ながらそれぞれの儀式も短縮された時間で執り行われます。例えば 横浜市営の式場をご利用された場合、通夜・お清めの席に利用出来る時間は 1時間半から2時間半の間であり、葬儀・告別式・お別れの時間は1時間となって居ります。更に ご火葬後の式場利用が出来ない為、初七日の法要も1時間の間で行う事を推奨して居ります。従いまして 1時間の中で 葬儀・告別式・初七日法要・お別れ・喪主ご挨拶を執り行い、ご火葬の間(1時間前後)にお斎の席を設ける形となります。

 また 会葬の方々は 会社を休んで参列しなければならない日中の告別式より、就業後に参列出来る通夜への参加が多くなりました。本来は近親者の方々による故人様との最後のお別れの場であった通夜の席は 現在 一般の方々の弔問の場ともなって居ります。従いまして お清めの席も 弔問の方の為のお清めと、近親者の為のお清めを分けて行う様に成りました。

 会葬者だけではなく、御家族もお忙しい この現代では ご葬儀の簡略化がより進められる 昨今の葬儀事情で御座います。

   今回は以上です。

大正・昭和初期の葬儀

 今回は大正・昭和初期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 明治の後半から大正時代にかけて、都市部では大型葬列に対する批判が高まります。私事の為に公道を妨げて良いのか 等の論調の批判がマスコミに登場するようになります。又 明治17年に制定された 墓地及び埋葬取締規則により 許可される区域が限られて 市街地での火葬や埋葬が制限され始め、更に明治36年には路面電車が走り始めた事により 葬列廃止は加速されました。大正時代に入り 大型葬列に代わり 登場したのが告別式です。告別式の最初は 明治34年に行われた 中江兆民氏の葬儀と言われて居りますが、この場合は葬列の代りに告別式ではなく、同氏は無宗教であったため、宗教儀礼は行わずに、お別れ会として 告別式が行われました。しかしながら これを機に大型葬列に代わり、大型の告別式が行われる様になります。そして 葬列に代わり霊柩車が登場します。

 日本型霊柩車は 大正11年の 大隈重信の国民葬で、トラックの後部荷台に白木の輿を載せて、ご遺体を移送した事にヒントを得たと言われて居ります。海外の大型車を輸入し、後部に和風の唐草模様などを装飾した、宮型霊柩車が登場します。日本で最初の宮型霊柩車は大阪で登場しました。

 告別式の大型化に伴い 大きく変化したのが祭壇でした。葬儀の祭壇は 現在の枕飾りと同様で 前机の上に三具足を供え、その横に御供花やお供物を供えたものでしたが、それが 二段、三段、そして五段へと大型化し、更に高欄を備えたものえと変化しました。それに伴い 六道などの新しい燭台や、祭壇を装飾する為の各種仏具が開発されました。遺影写真も昭和初期には登場しました。とはいえ 昭和初期の大恐慌なども有り、祭壇文化が本格的になるのは 世界大戦後の昭和28年以降となります。昭和15年には戦時下となり 葬列を組む事も困難になり、燃料不足により霊柩車も動かせず、祭壇の装飾にも困る様に成り、死者が出ても ご納棺して 火葬場へ行くだけという状態が 第二次世界大戦終戦後の一時期まで続きます。

   今回は以上です。 

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 江戸時代には 士農工商という身分制度の下で、身分に合わせた葬儀が営まれて居りましたが、明治時代に入り、この身分制度が廃止されると 大都市を中心に葬儀の在り方が大きく変化して行きました。まずは ひそかに夜間行われていた葬列が、昼間 大掛りに行われる様に成ります。又 使用される棺が 棺桶を使用した座棺から、寝棺へと変化します。更に 寝棺を乗せる為の 白木の輿が組まれ、その輿を彩る為の葬具が出現しました。

 江戸時代の葬列は 夜間に少人数でひそやかに組まれるのが普通でしたが、明治時代に入ると 台頭してきた商人層を中心にして 社会に誇示する為 日中に大掛りな葬列を組む様に成ります。葬列の要員としては 明治と共に役割を終えた大名行列の奴が動員されました。

 江戸時代の棺と言えば 棺桶 すなわち座棺が中心でしたが、明治に入ると 富裕層を中心とした 葬列の肥大化に伴い長方形の寝棺が使用され始め、この寝棺を運び為の白木の輿をあつらえて、より多くの人により柩を運ぶ事で、その財力を社会に示しました。但し 一般庶民の柩は棺桶が中心で、この柩を 駕籠や御輿型に飾られた人力車などで運びました。この状態は第二次世界大戦終了まで続きました。

 又 この葬列を彩る為の 野道具と言われる葬具も立派な物が作られ始めます。金連、銀蓮、生花や造花を挿して作った花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿などです。現代の葬具の原型となるものです、そして これらの葬具を作成する専業の葬具屋がこの時代から出現しました。

   今回は以上です。 

廃仏毀釈

 今回は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に付いて書かせて頂きました。

 廃仏毀釈とは 仏を廃し 釈迦の教えを毀(壊)す 事を意味し、仏教寺院・仏像・教典を破毀し 僧尼や寺院が受けていた特権を廃する事です。その最たるものは 明治維新後の廃仏毀釈運動ですが、これは 徳川幕府が仏教を国教としたのに対し 新政府は神道を国教に変更する為、発令された 神仏分離令等を民衆が拡大解釈して 引き起こされました。

 廃仏毀釈運動は 仏教の特定宗派に対する反対運動として、或いは キリシタン大名が支配した領地等で小規模には発生して居りましたが、明治時代初期の運動は全国に波及した大規模な運動となりました。徳川幕府の時代には寺請制度により 仏教は国教としての位置付けにあり、神道は寺院の一部として機能して居りました。明治政府は この体制を壊す為、まずは神道と仏教の分離を目的として各種の布告を発令しました。神仏習合の廃止、仏像を神体として使用する事の禁止、神社から仏教的要素を払拭する事、各神社での祭神決定、僧職から神職への転向等と共に 仏像・仏具の破壊や 仏事の禁止という過激な発令も一時的には出されました。この運動により古くからあった多くの寺院や仏像が毀損され、貴重な文化遺産を失う事と成りました。

 寺請制度を基にした寺院の特権は 汚職の温床ともなり、それに対する民衆の反発が、より大きな運動に発展させたと考えられます。この仏教の危機は 仏教界の反省を促し、以後 近代化へと結び付いて行きます。

   今回は以上です。 

葬祭の民衆化

 今回は葬祭の民衆化に付いて書かせて頂きました。

 鎌倉時代中期 それまでの荘園公領制は変質し始め、弱小農民層は 水利配分や水路・道路の修築、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などの為に地縁的な結合を深め、耕地から住居を分離して 住居を集合させた村落が出来始めます、これを惣村と呼びました。惣村は畿内を中心に始まり全国へと広がって行きます。この惣村に葬祭を中心とした仏教が布教され 受入れられて行きました。

 惣村は地域共同体の自治組織であり、連帯を守る為の罰則・検察・裁判機能を有し、領主の増税に対する闘争組織であり、そして 余剰生産物の保管組織でも有りました。惣村の成立により 自立した農民達は寺院を支える事も可能となり、仏教各宗派は広く地方へも進出し、各地で寺院・道場が作られ、仏教の民衆化が広く進みます。庶民に広く葬祭を推し進めたのは浄土宗でしたが、禅宗(特に曹洞宗)・真言宗(密教)・日蓮宗・天台宗・浄土真宗(一向宗)なども 布教に当っては 葬祭を中心とする事が多く、葬祭仏教化が一段と進みました。

又 この時代 仏教界は その布教の為に その土地の民俗とも融合して行きます。現在 同じ宗派でも 地域により葬儀の次第が相違するのは 仏教と民俗との融合によるものです。

 日本に於ける 仏教寺院と信徒の関係は 壇那寺(旦那寺)-檀家(信徒)として結ばれて居り、これを 寺壇関係とも言います。中世までの寺院は 貴族や武士により支えられて居りましたが、惣村の出現により 農民も寺院の支え手に加わる事と成ります。農民は葬祭・仏事を寺院に委託する代わりに、寺院の維持費を負担する様に成りました。尚 檀家とは 古代インド語のダーナパティの音写である 壇越 が変化した言葉で、寺や僧侶を供養する施主を意味します。

   今回は以上です。

葬儀作法の原型

 今回は葬儀作法(葬法)の原型に付いて書かせて頂きました。

 現代の仏教葬の原型は鎌倉時代に作り上げられたという説が一般的ですが、当時は龕堂と火葬場の二ヶ所で仏事が行われ、禅宗の葬儀として 湯灌・剃髪・三具足の祭壇・焼香・読経が成され、須弥壇の上に肖像画が飾られ、ご遺体を移動させたり ご遺体に対して所作を行う毎に仏事を重ねました。

 龕(がん)とは 柩 又は柩を納める容器の事で、龕堂とは柩を安置しておく堂を指します。お寺や自宅、或いは火葬を行う火屋に向かい合せて龕前堂が建てられました。この龕前堂で行う仏事が 現在の葬儀式に発展したと考えられます。横浜市営の斎場は久保山斎場を除き、龕堂と火葬場が対となった構造になって居ります。

 禅宗の葬儀の次第では ご遺体を湯灌し、剃髪し、清浄な新しい衣服に着替えさせ、龕に納めて 袈裟などで覆います。龕前に卓を置き 白打敷で覆い その上に花・香炉・燭台の三具足をならべ、更に故人愛用の道具をならべます。龕前の準備が整ったところで、一同が集まり仏事が行われます。導師は法語を唱え、焼香し、茶湯を献じ、読経 回向と続きます。龕を覆う袈裟は 現在の柩覆いであり、龕前の卓は 現在の枕飾りと考えられます。

 龕堂の設営に関して 龕を安置した部屋の周囲に白幕を張り巡らしました。そして 龕を閉じた後に 掛真(かしん)の儀式が行われます、これは須弥壇の上に 故人の肖像画を飾る儀式ですが、現在の遺影写真に繋がるものです。

 火葬の当日には出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、葬列を組んで火屋(火葬場)へ向かいます。火屋では 仏事を行った後に荼毘に付し、翌朝 火屋で拾骨をし、ご遺骨を寺 又は自宅に安置して 安位法事を行いました。禅宗では 本来 龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と ご遺体を動かしたり ご遺体への所作を行う毎に 仏事を重ねる事になって居りますが、次第に簡略化され、自宅と火屋での仏事のみとなって行きました。

    今回は以上です。

禅苑清規

 今回は禅苑清規に付いて書かせて頂きました。

 禅苑清規とは 禅苑は禅寺を指し、清規とは規範を現します、宋の時代に作成され 全10巻から成る禅宗 の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や 日常の行法などを記したものです。現在の仏教葬儀の原型は 鎌倉時代に 禅苑清規の中に書かれている、禅僧に対する葬送儀礼を元に出来上がったと言われて居ります。

 鎌倉時代は 貴族階級が没落し、武士が興隆して、民衆は厄災苦難に悩まされた時代でもありました。この様な背景のもとに 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場します。

禅宗の葬儀では 出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と 修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っに分かれておりました。尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心で、亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。この亡僧喪儀法に 浄土教や密教の念仏や往生祈願が取り入れられて発展し、武士や在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。

 在家の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として 剃髪し 戒名を授け、そして 引導を渡して成仏させます。これを 死後に僧侶にする事から ”没後作僧” とよばれます。現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。

   今回は以上です。

往生要集

 今回は往生要集に付いて書かせて頂きました。

 往生要集は 比叡山中 横川に隠遁していた 恵心僧都源信によって985年に書かれた、一部三巻からなる仏教書です。源信は 浄土教の観点から 多くの仏教経典や論書から、極楽往生に関する重要な文章を集めて、この書を起こしました。この書は 後の法然や親鸞に多くの影響を与え、浄土真宗各派では 正依の聖教とされて居り、葬祭はこの書を基に執り行われることとなります。

 その内容は;

巻上

 第一章 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説く。

 第二章 極楽浄土に生まれる十楽を説く。

 第三章 極楽往生の証拠を書く。

 第四章 浄土往生の道を明らかにする。

巻中

 第五章 念仏修行の方法論。

 第六章 臨終の念仏を説く。

巻下

 第七章 念仏を唱えることによる功徳。

 第八章 念仏を唱えることによる善業。

 第九章 念仏の包容性。

 第十章 何よりも優れているのが念仏であると説く。

であり、六道の苦しみを述べ、極楽浄土の素晴らしさを語り、死後に六道の苦しみから逃れ、極楽浄土で往生するには 一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はない と説きます。

念仏も 浄土宗では観想念仏から 専修念仏へ変化し そして 浄土真宗では 称仏念仏となります。この変化と共に その精神は 広く民衆にも普及し、庶民の葬祭は浄土宗の手にある様になります。

 尚 本書は撰述された直後に 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台宗国清寺に運ばれ、僧俗多数の尊信を受けました。又 唐末五代の混乱により散失した教法を復活させるための基とも成りました。

   今回は以上です。

二十五三昧会

 今回は二十五三昧会(にじゅうご ざんまいえ)について書かせて頂きました。

 二十五三昧会は 平安時代 986年に比叡山に於いて慶慈保胤(よししげ たねやす)や恵心僧都源信を中心とした25名の浄土教僧侶により結成され、毎月十五日に集まり 念仏三昧を行い、極楽往生を希求する念仏結社です。この結社で行われた作法は 臨終行儀として 現在の枕経の原型になったとされて居ります。

 二十五三昧会の起請文は;

1 毎月十五日に念仏三昧を修すること。

2 光明真言を誦して、土砂加持を修すること。

3 結衆は規律を厳守し、叛いた者は脱退させて、代りの者を補充すること。

4 別所に阿弥陀如来を奉安した往生院を建立し、病んだ結衆はそこに移すこと。

5 病んだ結衆を往生院に移したのちは、二人一組となり昼夜の別なく従い、一人は看病、他の一人は念仏を担当すること。

6 花台廟と名ずけた結衆の墓地を定めて、春秋二回、集まって念仏会を修すること。

7 ひたすら西方極楽浄土を念じ、極楽往生を念ずること。

8 結衆に欠員が出ても、残された結衆は修善によって、先に往生した結衆との縁を保たなければならないこと。

と決まりが述べられて居ります。

 毎月十五日に集まって念仏を唱え、同志に病人が出ると皆で看病をし、病が重くなると往生院へ移し、皆で励ましあって重篤な僧の心をやすめ、死去後にはご遺体に光明真言をもって 土砂加持をし、3日の内に墓所に卒塔婆を建てて葬りました。そして 同志の葬儀には必ず出席し、七七日(四十九日)までは七日ごとに集まって念仏を修し、春秋二回同志で集まり念仏を修し、過去帳に名前を記し、祥月命日にも供養するとあります。

 臨終に際しては 西方を向いた阿弥陀仏の前に病者を寝かせ、仏の右手に五色の糸を付け、病者の左手にその糸を結んで念仏を唱えながら寝入るように息を引き取ると極楽往生まちがえなし と言われました。こうした臨終の作法(臨終行儀)から 葬祭に於ける阿弥陀仏信仰が浸透して行くことになります。

   今回は以上です。

葬儀と聖

 今回は葬儀と聖(ひじり)について書かせて頂きました。

 日本に於ける聖とは 寺院を離れ 日本国内を回遊した仏教僧を指し、仏教を庶民の信仰とさせる原動力と成りました。その中で 葬儀を司り、火葬の技術も世に広めて行く事と成ります。その後 学徳の高い僧を聖と呼ぶ様に成り、親鸞は念仏聖であり、聖人(しょうにん)とも呼ばれました。又 鎌倉時代中期の一遍は諸国を遊行しながら念仏を広め 捨聖(すてひじり)と呼ばれました。

 奈良時代 僧侶になり出家する為には官度と呼ばれる、官の許可が必要でした。官の許可を得ず出家する事を私度と呼び、官は厳しく禁じて居りました。しかし後期に入ると 私度僧が多く現れ 庶民の間にも仏教が広まって行きます。その指導者を 菩薩や 聖と呼んで民衆から慕われます。この時代に聖集団の頂点に立ち 近畿を中心に数々の社会事業を成し遂げた 民間仏教の指導者が行基です。行基は 当初 朝廷より弾圧を受けますが、広く仏法の教えを説くと共に、治水の為のため池・堀工事、架橋、困窮者の為の布施屋 設立等の社会活動が民衆の圧倒的支持を得て、朝廷もこれを認め、奈良の大仏 建立の実質的責任者として招聘され、大僧正(最高位の位、行基は日本で最初の大僧正)の位が与えられます。

 行基集団は 死者の弔いにも従事し、火葬や墓地の開創にも力をつくしました。火葬の技術を開創したのは 行基の法弟であった 志阿弥法師と言われて居りますが、志阿弥は架空の人物です。行基集団は 後に三昧聖として諸国を回遊しました。

 尚 仏教伝来以前の 民間信仰の司祭者をヒジリ(日知り)と呼び 太陽の司祭者を指していたと言われて居ります。

   今回は以上です。

葬儀の次第

 今回は葬儀の次第に付いて書かせて頂きました。

 ご葬儀を執り行うに当たりましては ご葬家様にて ご葬儀の基本方針をお決め頂かなければなりません。主な項目と致しましては 如何なる宗教・宗派で行うか、式の方式は、式の会場(会葬者の予測人数)、日程、接待の方法、式場の設営、ご予算、特別なご希望等です。

宗教;

ご葬儀を執り行うに当たり最っとも大切な事項です。基本的には 故人様が信仰されていた宗教が最優先となり、帰依されていた檀那寺、或いは所属されていた教会にお願いして執り行います。あるいは 特定宗教をお持ちにならない場合は 無宗教でのお別れ会を催す事となります。故人様は特定宗教に帰依していなくとも、家として檀那寺をお持ちの場合は そちらにお願いする場合も御座います。又 檀那寺が遠方の場合は お願いをすれば近所のお寺を紹介して頂けます。尚 ひかりの杜では ご希望の宗教の宗教家をご紹介させて頂いて居ります。

方式;

個人葬か社葬・団体葬か、会社 団体 町内会などとの係わりを如何するか、身内だけで行う密葬とするか、その場合 後日に本葬 あるいは偲ぶ会などを行うか、などをお決め頂きます。

式場;

会葬者の予測人数、葬儀の方式などを考慮して ご自宅で行うか、火葬場が隣接する横浜市営斎場で行うか、団地の集会所で行うか、寺院で行うか、民間斎場で行うかをお決め頂きます。

日程;

火葬場の都合、宗教家の都合、式場の都合、御家族の都合等を考慮してお決め頂きます。

接待;

通夜振舞い、火葬場での茶菓子、精進落とし、会葬返礼品、香典返しなど 参列者 会葬者への接待方法、数量を概算 お決め頂きます。

設営;

祭壇、式場設営などに付いてお決め頂きます。ひかりの杜では生花祭壇を基本にお薦め致して居りますので お飾りするお花のご希望などもお受け致して居ります。他に 式場内で流す音楽、写真を用いた思い出コーナー、ビデオ放映なども可能です。

予算;

相互扶助の意味合いを持つ お香典を受けるか お決め頂いた上で ご予算の範囲をお決め頂きます。

その他;

特別なご希望や心配事が御座いましたら 忌憚なくお手伝いする葬儀社にお話頂きます。

   今回は以上です。 

真言律宗

 今回は先日 葬儀のお手伝いをさせて頂きました、真言律宗に付いて書かせて頂きました。

 真言律宗は 空海を高祖と仰ぎ、奈良西大寺の興正菩薩叡尊(えいそん)を中興の祖とし、真言密教の宗義に基ずいて根本仏教の出家戒と金剛乗の修学を目的とする宗派です。総本山は西大寺(奈良市)、大本山として宝山寺(奈良県生駒市)があり、横浜市内には 別格本山として称名寺(金沢区)、鎌倉市には 由緒寺として 極楽寺などが有ります。

 鎌倉時代 叡尊は荒廃した既存仏教を批判し、律宗の覚盛とともに それまで国が定めた手続きでしか認められなかった出家戒の授戒を自らの手で独自に行いました(自誓授戒)。その後 西大寺、法華寺、般若寺などの再興を手掛け 朝廷の許可を得ずに独自の戒壇を設けました。そして 弟子の忍性により 民衆への布教が勧められ、一時は禅宗・浄土宗などと勢力をわける様になり、日蓮から 律国賊 との非難を受ける程に成りました。鎌倉幕府による 日蓮への処刑は 幕府への影響力を持つ忍性からの申し出によるものとされます。

当初は 真言宗 西大寺派 や律宗の新派とされて居りましたが、江戸時代前期に 浄厳により 真言律宗の名乗りを上げました。1872年(明治5年) 明治政府は 仏教諸宗派の整理を行い、真言律宗は真言宗に組み入れられました。その後 西大寺の努力により、明治25年真言宗からの独立が許され、真言律宗として再度独立しました。

 称名寺は 山号を金沢山(きんたくさん)と号し、真言律宗の別格本山として 金沢区金沢町に位置します。金沢山称名寺は 金沢北条氏の祖 北条実時が開基したとされ、1258年 実時が 居館内に建てた阿弥陀堂が その起源とされます。その後 鎌倉極楽寺の忍性の推薦により 下野薬師寺の僧 審海を招いて開山し、真言律宗の寺院と成りました。又 同じ居館内には 実時が収集した 政治・歴史・文学・仏教などに関わる書籍を収蔵した文庫が造られ、金澤文庫と呼ばれて居ります。現在は 神奈川県立の博物館兼図書館として中世の文化を表わす、貴重な役割を果たして居ります。

   今回は以上です。 

法華堂と三昧堂

 今回は法華堂と三昧堂に付いて書かせて頂きました。

 天台宗には 法華三昧や常行三昧と呼ばれる行があり、法華三昧を行う為に法華三昧堂が、常行三昧を行う為に常行三昧堂が建立されました。それが 後には 法華堂や三昧堂と呼ばれる様に変化し、法華堂には 明治維新以前の皇族や貴族の墓所として建てられた堂をさしたり、三昧堂は 墓所や葬場を意味する言葉として使われる様に変化しました。

 法華三昧は 天台宗の開祖最澄により日本に紹介されました。法華三昧は 法華懺法とも言われ、法華経を読経する事により、この身が清められ、罪障(極楽往生を妨げとなるもの)が消滅する と説かれています。尚 三昧は 心を一つの事に集中して余念を無くす事を意味します。法華三昧は 比叡山に於ける 天台宗の日常修行(朝題目、夕念仏)の一つですが、後に 三昧聖に法華経を唱えさせると死者の霊は清められ、贖罪がされ、地獄に堕ちる事は無い という信仰が広まり、葬儀で重んじられ、故人様の供養や菩提の為に用いられる様になります。

 常行三昧は 同じく天台宗の行の一つで 阿弥陀仏の名を唱えながら 仏の教えを悟り、往生を願うもので、法華三昧による贖罪と対になって信仰を集めました。又 常行三昧は 後の浄土教に道を開くものでもありました。この修行を行う所を 常行三昧堂、あるいは 阿弥陀仏堂とも呼ばれ、奥州平泉の中尊寺金色堂は この様式に従うものと言われて居ります。

 法華三昧、常行三昧の流行により 天皇家や貴族のご遺骨は 法華堂や三昧堂に収められる事が多くなり、寺院への納骨が一般化して行く事と成りました。

   今回は以上です。

火葬と仏教

 今回は火葬と仏教に付いて書かせて頂きました。

 火葬とは 葬送の一手段として ご遺体を焼却する事ですが、従来は 白骨化は成仏の徴(しるし)とする 仏教の伝来と共に日本に伝わったとされて居りました。しかしながら 近年 長崎県大村市の竹松遺跡に於いて 火葬による埋葬と見られる人骨が発見され 2世紀には既に火葬が行われていたと推定されます。又 六世紀後半には火葬が行われていた事が九州で確認されて居ります。

 続日本紀によれば 日本で最初に火葬された人は 700年に火葬された 僧道昭であるとされます、又 最初にご火葬された天皇は 702年に火葬された持統天皇であり、その後は 天皇に倣って 公卿、上級役人、武士の間でも火葬が広まって行きました。天皇家、公家社会では明治維新まで 仏教葬、ご火葬が定着して居りました。

 持統天皇は 第41代の天皇で、実際に治世を遂行した女帝です。大宝2年12月22日(703年1月13日)に崩御され、その葬儀は仏教を意識して執り行われ、ご遺体は火葬されました。天皇家の葬儀では 素服(白の喪服を着用) と挙哀(ああ 悲しいかな と礼拝する事) が前提とされて居りましたが 天皇は 葬儀を大袈裟にせぬ様 遣詔(いしょう 遺言)を出され 葬儀は倹約をこととし、素服と挙哀は禁止されました。 25日には 朝廷の祈願所である四大寺で法会(設斎)が行われ、29日には西殿にもがりが設けられ、一月五日には初七日の設斎、二月十七日には 七七日(四十九日)として 四大寺を含む33寺院で設斎、四月二日には 御在所に 百ヶ日の斎が設けられ、一年間のもがり の後 ご火葬されて 夫君の天武天皇の陵墓に合葬されました。

   今回は以上です。 

薄葬令

 今回は薄葬令に付いて書かせて頂きました。

 薄葬令とは 大化の改新の中で646年(大化2年)に発令された勅令で、身分に応じて墳墓の規模などを制限したものです。薄葬令は 地方豪族の権力の象徴であった巨大古墳の築造を制限するものであり、大和朝廷が地方豪族を管理下に従え、中央集権国家に変貌した象徴と解釈されます。それに従い 前方後円墳の築造を象徴とした厚葬の時代 古墳時代が終焉を迎え、墳陵は小型簡素化された飛鳥時代へと入って行きます。

 薄葬令は 中国の故事にならい、民衆の犠牲を軽減するために 権力者の葬送に多くの財や労力を費やしてはならない との考えから生まれたと共に、身分ごとの葬制秩序の確立という側面も備えて居りました。その内容は;

1 必要以上に大きな墳墓を造る事は 民衆の貧窮を招くと警告し。

2 死者の身分により墳墓を造る夫役の延べ人数の上限を定め(天皇の陵にかける日数は7日以内)。

3 一般階級の遺体は 一定の墓地に集めて埋葬することとし。

4 殯(もがり)や、人馬の殉死 殉葬、そして 宝物を副葬することを禁じました。

これらの事により 旧来の習俗を否定しました。薄葬政策は その後もしばしば発令されます。

703年に崩御された女性天皇である持統天皇は 倹約・簡素な葬儀を遺詔(天皇による遺言)され、火葬された初めての天皇となり、ご遺骨は 独自の墳陵を持たずに夫君であった天武天皇の陵に合葬される薄葬でした。この様な事から 巨大墳墓や殯などの習俗が姿を消して行きます。しかし 地域によっては 民俗として殯や泣き女などが生き続けておりました。

   今回は以上です。

もがり

 今回は”もがり”に付いて書かせて頂きました。

 もがりとは 日本の古代、仏教の伝来前に行われていた葬儀儀礼の一部で、死者を埋葬するまでの一定期間ご遺体を安置し、死者との別れを惜しみ、その霊魂を祀り 慰め、死者の復活を願う、と共に遺体の腐敗 白骨化などを確認して死者の死を確定する為の期間を”もがりの期間”と呼んで居りました。その期間は数ヶ月から3年の間で死者の地位により異なりました。現代の通夜は もがりの期間が一夜に短縮されたとの説も有ります。

 もがりに関しましては 古事記、日本書紀、そして万葉集などに記録が散見されますが、古事記(712年)の中に 天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の様子が記述されて居ります。

 すなわちそこに喪屋を作りて、河雁(かわがり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺を掃持(ほほきもち)とし、翆鳥(そにどり)を御食人(みけびと)とし、雀を碓女(うずめ)とし、雉を哭女(なきめ)とし、かく行いを定めて、日八日夜八夜を遊びき。

遺体を安置する為の小屋(喪屋)を作り、遺体安置後、八昼夜 死者を慰める為に歌ったり踊ったりしたと書かれて居ります。この中で 岐佐理持は旗持ち役、掃持は喪屋を掃除する箒を持つ役、御食人は死者に食事を出す役、碓女は死者の膳に出す米をつく役、哭女は悲嘆を表現して泣く役、遊ぶは歌舞を意味します。

 もがりの儀式は 大化の改新以降に発令された 薄葬令や、仏教と共に伝来した火葬の普及により 衰退しましたが、もがりの宮(喪屋)の習慣は現在の皇室典範の中に生きて居ります。もがりの宮は 皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されて居り、天皇 崩御後 13日目にご遺体を収めた柩は 御所から宮殿内に仮設された もがりの宮に移御され、崩御後 45日を目途に行われる大喪の礼までの間、もがりの宮拝礼の儀を始めとする 諸儀式がもがりの宮内で執り行われます。

   今回は以上です。  

葬儀文化

 今回は葬儀文化に付いて書かせて頂きました。

 葬儀は 6万年前のネアンデルタール人の時代から 人が亡くなられると 営まれて来たと考えられます。そして 地域、民族、宗教により創り出された文化と その死生観が融合して、葬儀文化が出来上がりました。又 葬儀文化は それぞれの死生観を現すだけでなく、生活文化、精神文化をも反映した、人の生死に係わる総合文化とも言えます。

 葬儀文化は 長い歴史を通して 地域の人々が培って来たものであり、その中には多くの優れた知恵が含まれて居ります。葬儀文化に含まれるものを、過去の物と切り捨てる前に、そこに含まれる意味を学んだ上で取捨選択をし、込められた精神文化を大切にする事も必要かと考えます。文化は長い過去の歴史の上に作られ、時代や環境に合わせて変化してゆきます、葬儀文化の中でも現在に合わない物や、今の御遺族に合わない物があれば、そのまま継承する必要は有りませんが、その文化がどの様に作られ、どの様な目的を持っていたかを学び、長く続いた習慣、儀礼、文化を思い起す事も大切ではないでしょうか。

 私ども自身も 葬儀が形骸化してしまわぬ様、葬儀の意味を再確認して、この時代とそのご遺族に合った、適切な葬儀をお手伝い出来るべく努めねばなりません。地域社会の変容、核家族化、高度高齢化社会などを迎え、死生観も多様化する中で、故人さまとご遺族さまの葬儀文化に合わせたご葬儀をお手伝いさせて頂くべく、努める所存でございます。

   今回は以上です。

葬儀から学ぶ

 今回は葬儀から学ぶ事に付いて書かせて頂きました。

 葬儀を執り行う中で 学べる事が幾つか有ります。それは 身近な方の死から生の大切さを知る事、どんな命も重いと言う事、自らも何れは死すべき者と言う事です。

 故人さまの死を悼んで 人々が集まり営まれる葬儀は 生ある者は必ず死を迎えると言う現実を知らしめ、人の死が 周囲の多くの人々に悲嘆をもたらす程 大きな事実であることに直面させられ、集まる人々に人の命の大切さを体験的に教えてくれます。又 葬儀の場で 人々は死の事実に直面し、その事実の大きさから生の大切さを知ります。そして 故人さまの軌跡に思いをするとき 人の死は けっして終わりや、無に帰するものではないと言う事を学びとります。

 人の生と死は 重く、大切なものです。葬儀で 故人さまの生き様に思いを致し、ご遺体を大切にし、故人さまに寄せる ご遺族の痛みを思い遣り、会葬者の方々の心に思いをする時、どの様な命も重いものと知らしめられます。人の死は 軽いものでは有りません、それは その人の生、命が重いからです。

 葬儀を執り行い 故人さまを悼み、故人さまと別れ、故人さまを送り出すとき、参列された方々も いずれ死すべき者である と言う事に思いを致すでしょう。死と言う事に関しては 死者と 残された者との違いは 先に逝く者と、後から逝く者との違いでしか有りません。

私たちも 何れ死を迎えなければならない者であります。

   今回は以上です。

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