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横浜市民の葬儀・仏教の普及と民衆の葬儀
現代の日本に於ける葬送儀礼の原型は鎌倉・室町時代に出来上がったとされます。
そして葬送の営みは貴族、上級武士だけではなく一般民衆にも少しずつ浸透し始めました。
それまで民衆の遺体は川原や野原などに放置されて居りましたが
時にはそれが余りに酷い為 鎌倉幕府は遺体をむやみに放置せぬ様 通達を出しております。

1 仏教の民衆化と葬送の儀礼
鎌倉・室町時代、浄土宗開祖法然上人、浄土真宗開祖親鸞聖人は、
親孝行の実遷のひとつとして、その死にあたっては葬送の儀礼を営むよう推奨しました。
さらに葬儀の型式は何故か自己修養が主体である禅宗により整えられ、
その型式が各宗共通の型式となり全国へ普及していきます。
インド仏教の葬儀は簡単な儀礼のみでしたが、中国に伝わり道教の中で形が整えられ、
日本に伝来し禅宗の中により多くの知識が蓄積されてゆきました。
鎌倉、室町時代は兵農一体の時代であり、
織田信長の兵農分離まで農民は日々田畑を耕すとともに、領主の意向に応じて戦に出る生活でした。
従いまして一般民衆にとって、死は身近な存在でありました。
鎌倉幕府による遺体放置禁止令、また浄土宗・真言宗・浄土真宗・日蓮宗などの布教活動のもと、
ご遺体埋葬の習慣が少しずつ定着していきます。
もちろん費用の掛かる火葬などは出来ませんので、
墓地にて僧侶による簡単な葬礼の後土葬される様に変化して行きます。
日本古来の宗教である神道では死は忌むべきもので有りますが、身近な問題でもあり、
墓地は所有する土地の中の家から一番離れた場所、
例えば田畑の片隅もしくは惣村の共同墓地などに埋葬される様になります。
葬礼型式も各宗派ごとに決まりは有りますが、
地域の文化と融合し地域独特の葬礼型式が出来始めるのはこの時代からです。

2 仏教の民衆化と葬送の儀礼
鎌倉時代も後半になると、力を付けた農民達による自治組織・惣村(そうそん)が出始めました。
惣村が形成される事により自立した農民達は経済的な余裕も出来始め寺院を支える事が可能と成ります。
この状況を背景に仏教の各宗派は各地に進出して、寺や道場が造成され、仏教の民衆化が進捗します。
惣村を中心とする庶民に葬祭の営みを強く推し進めたのが浄土宗でした。
又、曹洞宗、真言宗、日蓮宗、浄土真宗(一向宗)などの各宗派も葬祭を中心として信徒の拡大に努めました。
そこから、民衆の間での葬祭仏教化が顕著となって行きます。

3 檀家制度
檀家制度は日本独特の制度であり、寺院は檀家の葬祭供養を独占的に執り行い、
それに対し檀家は寺院へ布施を施し経済支援を行うという、寺院と檀家の関係を指します。
この制度は応仁の乱以降、荘園制の崩壊と共に惣村が生まれ、家という概念が出来始めて進捗し、
江戸時代の寺請制度により確立しました。
檀家とは、壇越(だんおつ)の家という意味ですが、
壇越とは梵語のダーマパティの音写で、寺院や僧侶を援助する庇護者を意味します。
仏教伝来の後、有力な氏族は壇越となって寺院を建立し仏教諸宗派を保護しました。
例えば蘇我氏は飛鳥寺を、秦氏は広隆寺を建立して居ります。
この壇越が檀家の源流となります。
伝来当初は有力者の信仰対象であった仏教は、その後広く世に浸透し、仏教の庇護者は有力氏族から惣村へ、
更には家単位へと広がって行きました。
そして、キリシタン禁制を目的とした寺請制度により、檀家制度が始まりました。
寺請制度とはキリスト教徒ではない証として、武士・農民・町民を問わず全ての国民は家単位で
特定の寺院に所属し、寺院の住職は檀家である証明として寺請証文を発行するという制度です。
又、キリシタン改めの責任も壇那寺に委ねられ、それと共に壇那寺に権限も与えられる様に成ります。

檀家の義務として以下の様な事項が定められました;
1 4月8日の釈迦 降誕会、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りすること。
2 説教や 仏法を説く寺院の集会に参加すること。
3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。
4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。
お盆や彼岸の墓参はこの時代に定められた様です。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教の在家信者葬法
現代の仏教葬の原型は鎌倉時代に作り上げられたという説が一般的ですが、
その原型と成る作法を記した文献として”禅苑清規(ぜんねんしんぎ)が御座います。
そのなかでは龕堂(がんどう、ご遺体の安置所)、と火葬場で営まれる仏亊の次第が記されて居ります。

1 禅苑清規
禅苑清規とは、禅苑は禅寺を指し、清規とは規範を現します、中国・宋の時代に作成され
全10巻から成る禅宗の規範を定めたもので、禅僧の行履の諸職や日常の行法などを記したものです。
現在の仏教葬儀の原型は鎌倉時代に禅苑清規の中に書かれている、
禅僧に対する葬送儀礼を元に出来上がったと言われて居ります。

鎌倉時代は貴族階級が没落し、武士が興隆して、民衆は厄災苦難に悩まされた時代でもありました。
この様な背景のもとに浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場します。
禅宗の葬儀では、出家である僧侶の葬儀作法を定めた尊宿喪儀法と
修行の途上で亡くなった僧に対する葬儀作法を定めた亡僧喪儀法との2っに分かれておりました。
尊宿喪儀法は逝去された僧侶とその弟子達に弔意を表す事が中心で、
亡僧喪儀法は修行途中で逝去した僧侶の心中を察っして仏法の真理を伝授しようとする願いが中心となりました。
この亡僧喪儀法に浄土教や密教の念仏や往生祈願が取り入れられて発展し、
武士や庶民の在家の葬法(壇信徒喪儀法)と成りました。
在家信者の葬儀作法は亡僧喪儀法から発展して制度化されたものですから、
死者にお経を読んで仏の悟りを得させ、僧にさせる印として剃髪し、戒名を授け、
そして、引導を渡して成仏させます。
これを死後に僧侶にする事から”没後作僧”とよばれます。
現在の仏教葬儀に於ける作法の原型はここにあります。

2 仏教在家信者の仏亊作法
鎌倉時代に作り上げられたという仏教の葬儀作法では、龕堂と火葬場の二ヶ所で仏事が営まれました。
禅宗の葬儀として湯灌・剃髪・三具足の祭壇・焼香・読経が成され、須弥壇の上に肖像画が飾られ、
ご遺体を移動させたり、ご遺体に対して所作を行う毎に仏事を重ねました。
龕(がん)とは柩又は柩を納める容器の事で、龕堂とは柩を安置しておく堂を指します。
お寺や自宅、或いは火葬を行う火屋に向かい合せて龕前堂が建てられました。
この龕堂で行う仏事が現在の葬儀式に発展したと考えられます。
横浜市営の斎場は龕堂と火葬場が対となった構造になって居ります。(横浜市久保山斎場は火葬炉のみ)

禅宗の葬儀の次第ではご遺体を湯灌し、剃髪し、清浄な新しい衣服に着替えさせ、
龕に納めて袈裟などで覆います。
龕前に卓を置き、白打敷で覆い、その上に花・香炉・燭台の三具足をならべ、更に故人愛用の道具をならべます。
龕前の準備が整ったところで、一同が集まり仏事が行われます。
導師は法語を唱え、焼香し、茶湯を献じ、読経・回向と続きます。
龕を覆う袈裟は現在の柩覆いであり、龕前の卓は現在の枕飾りと考えられます。
龕堂の設営に関して、龕を安置した部屋の周囲に白幕を張り巡らしました。
そして、龕を閉じた後に掛真(かしん)の儀式が行われます、
これは須弥壇の上に故人の肖像画を飾る儀式ですが、現在の遺影写真に繋がるものです。
火葬の当日には出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、葬列を組んで火屋(火葬場)へ向かいます。
火屋では仏事を行った後に荼毘に付し、
翌朝、火屋で拾骨をし、ご遺骨を寺又は自宅に安置して安位法事を営みました。
禅宗では、本来龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋とご遺体を動かしたり ご遺体への所作を行う毎に
仏事を重ねる事になって居りますが、
次第に簡略化され、自宅と火屋での仏事のみとなって行きました。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教の葬送・納骨・位牌
現代横浜で営まれる仏式葬送儀礼は鎌倉時代に宋代の中国より渡来した
禅宗の僧侶に対する儀礼を基本として居ります。
その中の一つとして、納骨、位牌がそれぞれ御座います。

1 納骨(のうこつ)
お墓にご遺骨を納めることを納骨と言いますが、その時期に決まりは有りません。
しかしながら一般的に、仏教では四十九日法要に合わせてご遺骨を墓地にお納めします。
但しまだ墓地をお持ちでない場合は一周忌を目途に墓地を用意し納骨します。
遅くとも三回忌までには納骨をすませます。
ご葬儀の後の法要、納骨に付きましては葬儀のご指導頂いた僧侶に良く相談してお決め頂く事をお薦めします。

仏教では四十九日の法要を営むことにより忌明けとなり、そのまま納骨をされるケースを多く拝見します。
墓地が寺院の場合は本堂で法要を執り行い、そののち墓地で納骨となります。
霊苑に墓地をお持ちの場合は霊苑内の式場で法要を行い、続いて納骨となります。
納骨に当りましては墓石の納骨室を開ける必要が御座います、
又、墓石或いは墓誌に彫刻を依頼する必要が有りますので
寺院指定の石材店、霊苑管理事務所に事前相談が必要です。
納骨の際には僧侶にお願いして納骨式を行います。
納骨式は、あまり大袈裟ににはせず故人様と極親しかった近親者と友人・知人をお招きして営みます。
尚、浄土真宗以外では納骨式当日施主様や参列者が供養のために卒塔婆(そとうば)を建てる習慣が御座います。
事前に卒塔婆供養をする方のお名前を確認して僧侶へご連絡をし準備をお願いします。
卒塔婆料は寺院により規定が御座いますので確認しておきます。
納骨式の後には僧侶と参列者を会食にお招きします。
場所は ご自宅、寺院、レストラン、料亭等を使用します。
会食の席では施主様(喪主様)は参列に対するお礼の挨拶をし、お帰りの際は引き物を用意します。
四十九日法要・納骨式に持参する物は、ご遺骨、ご遺影、白木位牌、本位牌、埋葬許可証、そして認め印です。
尚、当日の服装は、ご遺族の場合喪服を着用します。

2 位牌(いはい)
ご位牌は霊牌とも呼ばれておりますが故人さまの霊の依代(よりしろ)であります。
木の板を使用し表に戒名を裏面に俗名、死亡年月日、死亡時年齢(数え年)を書いて
故人さまの葬礼の際に使われます。
位牌という名前の由来ですが
中国の後漢時代から儒教の葬礼では神主(しんしゅ)と呼ばれる霊牌が使われて居りました。
神主には官位と姓名が書かれており、その官位の位を取り位牌になったと言われております。
この位牌は鎌倉時代に禅宗と共に伝来し一般的に使用される様になるのは江戸時代からです。

位牌には使われ方により 内位牌、野位牌、本位牌、寺位牌の四種類があります。
ー内位牌は御臨終後すぐに製作し枕飾り壇・葬儀祭壇・後飾り壇に安置されます。
白木の簡素な位牌であるゆえ白木位牌とも呼ばれております。
内位牌は四十九日の納骨式まで後飾りで使用され、故人様の霊位を本位牌にお移しした後焚き上げます。
土葬の場合は喪明けまで墓地に飾り喪明けと共に土葬もしくは焚き上げます。
ー野位牌は墓石に故人さまの名前が刻まれるまでの間、お墓に置いておく白木の位牌です。
ー本位牌は四十九日の喪明け以降仏壇内に安置する位牌です。
漆塗りやカシュー塗装を施した塗位牌、黒檀や紫檀に透明の塗装を施した唐木位牌に金文字を入れたものが一般的です。
また、本位牌には札位牌と繰り出し位牌とがあります。
札位牌は一枚の板に戒名を書いたものです。
繰り出し位牌は、多数の薄い板を重ねて収納出来る様にした箱型の位牌で
過去何代にも渡り戒名を納める事が出来ます。
ー寺位牌は菩提寺へ供養のお布施と共に納める位牌です。
尚、浄土真宗では位牌を使用致しません。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教の葬送・葬列・火葬
仏教に於いて埋葬前のご遺体の処置は火葬を原則として居ります。
これは教祖釈迦のご遺体は火葬された事に始まります。
釈迦は入滅(にゅうめつ、逝去)の後に弟子達が組む葬列により火葬場に送られ、荼毘(火葬)に付されました。

1 葬列
日本におきましても古くより、貴人のご遺体を移送する際には葬列を組む事があるべき姿でした。
そして、庶民の間でも葬列を組む習慣が定着する様になります。
江戸時代まではご遺体の移送は夜間にひっそりと葬列を組むのが習慣でしたが、
明治に入ると、台頭してきた商人層を中心に家を誇示する為の大きな葬列を、日中に組む様に成ります。
なかには、その役割を終えた大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。

葬列の大規模化と共に、従来使用されていた座棺は寝棺へと変化し、
寝棺を運ぶ為の白木の輿が出来、多くの人で運ぶ様に成ります。
更には白木の輿には色々な装飾がされました。
現代の宮型霊柩車はこの装飾された白木の輿を原型として居ります。
大きな葬列を飾る為の野道具(葬具)もきらびやかな形に成りました。
金連、銀蓮、生花や造花を挿した花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥籠、
位牌を運ぶ位牌輿、輿も寝棺用、座棺用、遺骨用などが作られました。
近代的な葬具の始まりと言えます。
そして、粗供養が大型化します。
葬儀に於いて地域の人々に食事を振舞うという習慣は江戸時代でも行われて居りました。
又、葬列の出発に当たり花籠に菓子や小銭を入れて、これを振って近隣の人々へ振舞うと言う様な事が
粗供養の起源と考えられますが、明治に入り大型化しました。
これらの習慣は現代のご葬儀に於いても断片的に見ることが出来ます。

2 火葬
現代の日本に於きまして、ご遺体の火葬はごく一般的な葬法で、
特別な事例を除いてほぼ100%の故人様が焼骨となって埋葬されて居ります。
日本で火葬が始まった時期ははっきりしませんが、
日本国内各地の縄文時代の遺跡からも、時々火葬骨が出土される事から、
古くより特定の人に限り火葬が行われていた事が伺われます。
とは言え、ご遺体の火葬が葬法の一つとして確立されるのは仏教の伝来によるとされるのが通説となって居ります。
仏教は西暦538年(552年説もあります)百済の聖王により日本に伝えられました。
仏教に於いては、教祖である釈尊(お釈迦様)のご遺体が荼毘に付された事から
仏教の葬法の基本は火葬として居ります。
人工的にご遺体を焼却する葬法である火葬は、
”白骨化は成仏の徴(しるし)”とする仏教による火葬の意味付けをもとにして、
日本人の社会に浸透して行く事と成りました。

”続日本記”によれば、日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧道紹であります。
また最初に火葬された天皇家は、
大宝2年(西暦702年)に崩御され、殯(もがり)の儀礼を終え、大宝3年に荼毘に付された持統天皇でした。
又、兵士の火葬も法律によって定められており、大宝元年編纂の『大宝律令』には、
”行軍中の兵士が死んだ場合は焼いてその場に埋める”ように記述されておりました。
東国の防人が死んだ際も、柩を給付して焼くようにという記事もあります。
天皇が火葬される以前から兵士の火葬は規定されていることです。
持統天皇の火葬以降、倣って上級の役人、公家、武士の間にも火葬による葬法が広まってゆきました。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教での葬送・納棺・位牌
現代横浜で営まれるご葬儀のほとんどは仏教を基に執り行われて居りますが、
仏式葬儀の式次第の多くは鎌倉時代に渡来した禅宗の葬送儀礼を踏襲して営まれて居ります。

1 納棺
ご納棺とは、ご遺体をお浄めし、装(よそおい)いを整えてお柩にお納めする事です。
入棺とも言われます。
ご自宅でご葬儀を執り行う場合はお通夜の支度を整える前に、
外部の式場で執り行う場合はご自宅から出棺する前に営みます。
湯灌などのご遺体処置を行い、死に装束で身支度をし、ご遺体を柩の中にお納めし、
副葬品でご遺体の周りを飾ります。
故人様の”死”を受け止める大切な儀式ですので、
ご遺族様・御親戚・極親しいご友人の手を煩わせて行う事をお薦めします。

ご納棺はご遺族の手で行うのが基本ではありますが、
ご葬家のご希望に合わせてひかりの杜のスタッフにより行う事も可能ですし、
納棺師と呼ばれる特別なスタッフをご利用頂く事も可能です。
ご遺体をお納めするに当たり、死に装束で身支度を整えた後にお柩にお納めすべきではありますが、
ご遺体の死後硬直の状態によりましては、
ご遺体をお納めした後に死に装束でご遺体を覆うかたちの場合も御座います。
又、指輪や装身具ははずした上でご納棺致します。
尚、ご遺体と共に柩にお納めする副葬品は火葬の際に問題が起きぬ様;
-爆発の怖れのあるもの。
-燃えないもの。
-ご遺骨を傷つける怖れのあるもの。
-ご遺骨を着色する怖れのあるもの。
は避けて頂きます。
具体的には、ペースメーカー、ガスライターなど爆発の恐れの有るもの
体内に埋め込まれたペースメーカーは病院で除去して貰います。
メガネや酒のビンなどのガラス製品、金属やカーボンで作られた釣竿やゴルフクラブなどです。
又、ゴルフボールは火葬炉の中で回ってご遺骨を傷つける怖れがあり、
果物は燃えにくくご遺骨に着色する可能性があり、書籍は燃えにくいのでお納めする際に注意が必要です。

2 位牌
位牌とは仏教の祭祀で故人さまの霊を祀るために使われる木製の碑で、故人さまの戒名などが書かれて居ります。
元々は中国の後漢時代に儒教の葬礼に用いられた霊碑を起源として居り、
霊碑には死者の官位・姓名が書かれていた事から、”位”牌と呼ばれました。
又、死者の霊が宿る依代(よりしろ)という古来の習俗と仏教の卒塔婆が組み合わされた物とも言われて居ります。
日本へは鎌倉時代に禅宗と共に伝来し、江戸時代に一般化しました。
表には戒名が書かれ、裏には俗名と死亡時の年齢、死亡年月日が書かれます。

位牌には、内位牌、野位牌、本位牌、寺位牌などが有ります。
内位牌(仮位牌);ご臨終後、僧侶より戒名を頂き作られる白木の簡素な位牌です。
枕飾り、通夜、葬儀、後飾り(中陰壇)に祀られます。
四十九日の法要で御霊を内位牌から本位牌にお移しした後、お寺さまで焚き上げられます。
野位牌; 内位牌と同じ白木の位牌で、墓石に文字が刻み込まれるまでの間、お墓に安置します。
本位牌; 四十九日の法要により忌明けとなり、ご仏壇の二段目に安置する位牌です。
殆んどは木製で、漆塗りやカシュ―塗装に金箔・沈金・蒔絵が施された塗り位牌、
黒檀・紫檀などに透明或いは半透明の塗装をした唐木位牌、
近年多くなりました家具調位牌などが有ります。
文字は地色と違う色で書いたものや彫ったものなどが選べます。
又、一枚の板に御一人、或いは複数の戒名を記した札位牌(板位牌)、
多数の薄い札が納められる様に作られた繰り出し位牌等が御座います。
寺位牌; 本位牌とは別に菩提寺に納める位牌です。
お寺さまでは本堂内や位牌堂に安置され、朝夕の勤行の際に供養されます。
尚、浄土真宗の場合は原則として位牌は用いません、代りに法名軸、或いは過去帳を用います。
しかしながら近年ではお寺様の了解を得てお位牌を作られるご遺族さまも多く成りました。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・日本仏教の葬儀式次第
日本仏教に於ける葬儀の式次第は鎌倉時代に創り上げられたとされます。
鎌倉時代には浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの宗派が興されました。
貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、天変地異が相次いで厄災に悩まされる時代でもありました。
日本に於ける武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。
その基になるのは中国で編纂された禅宗の葬法で、
本来は僧侶の為の葬法ですが、それに手を加えて武家や民衆の葬法と変化して行きました。

1 吉事次第(きちじしだい)
鎌倉時代に書かれたと想定される文献として”吉事次第”があります。
この文献には、当時の天皇・貴族の間で行われた葬儀の概略が書かれて居ります。
何故、葬送に付いて記述された本の表題が吉事かと疑問に思いますが、
この時代には、蔡事或いは凶事という言葉が忌み嫌われ、葬儀のことを”吉事”或いは”勝事”とよんで居りました。

吉事次第には、以下の事が書き記されて居ります。
ーまず人が死ぬと、北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、
枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。
ー香は燈火の火を点けて焚く。
ー暑い夏には酢を容器に入れて 死臭を弱める。
ー人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。
ー棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。
ー棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、
ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。
ーご遺体の納棺は、褥(しとね)のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。
ーそして、頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて葬儀に時まで北枕で安置する。
ー葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り荼毘に付す。
ー拾骨は、焼骨をカメに納めて土砂を加えて、蓋をし、白の皮袋に包む。
ーそのご遺骨は三昧堂に納める。
ー葬儀・火葬が終れば、貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。
この当時は葬儀の後、魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。
七七日(四十九日)と一周忌の法要は以前から有りましたが、
この時代から 三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。

2 ご遺体の火葬
”続日本記”によれば、日本で最初に火葬された人は文武天皇4年(700年)に火葬された僧道紹であります。
また最初に火葬された天皇家は、大宝2年(西暦702年)に崩御され、
殯(もがり)の儀礼を終え、大宝3年に荼毘に付された持統天皇でした。
又、兵士の火葬も法律によって定められており、大宝元年編纂の『大宝律令』には、
”行軍中の兵士が死んだ場合は焼いてその場に埋める”ように記述されておりました。
東国の防人が死んだ際も、柩を給付して焼くようにという記事もあります。
天皇が火葬される以前から兵士の火葬は規定されて居りました。
持統天皇の火葬以降、倣(なら)って上級の役人、公家、武士の間にも火葬による葬法が広まってゆき、
処々の事情・歴史を経て現代の日本の火葬率は99%を超える事となって居ります。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教浄土思想の始まり
インドに始まる仏教は日本に渡来以降、日本の政治・社会形成に大きな影響を与え続けて居りましたが、
平安時代に入り仏教は二十五三味会(にじゅうござんまいえ)により創造された浄土思想により
日本特有の考え方と共に死後の世界、葬送の儀礼が語られ、民衆の中に広く浸透して行く事と成ります。

1 二十五三昧会
平安時代に入り仏教界では、二十五三昧会を中心として、
死後に極楽往生するには念仏の行をあげる以外に無い、という浄土教(浄土思想)が生まれ、
信徒の層は民衆へと大きく広がりを見せました。
又、浄土思想を基に葬送儀礼の形態も現代に近い形態とその意味つけがこの時代に成されました。
その基本とされた考えが、天台宗の僧侶恵心僧都源信によって記された”往生要集”です。
源信の教えは法然上人の浄土宗、親鸞聖人の浄土真宗へと受け継がれます。

往生要集は985年に浄土思想の観点から、多くの仏教の経典や論書などを基に、
極楽往生に関する重要部分を抜粋した仏教書で、一部三巻からなります。
その中では六道が説かれ、特に地獄道は醜く示されて居り、
三悪趣(地獄道、餓鬼道、畜生道)に堕ちる事を避け、極楽浄土に往生すべき事を説きます。
そして、極楽浄土への往生の方法を説き、念仏の必要性と念仏修行の方法を説きます。
更に、念仏の功徳、その包容性、最後に何よりも勝れているのが念仏であると説きます。
この書に記された精神は貴族階級だけではなく、庶民階級にも広く普及し、
後の文学思想にも大きな影響を与えました。
特筆すべきは、本書が中国天台宗国清寺に渡り、中国の僧侶多数の尊信を受け、
会昌の廃仏以来唐末五代の混乱によって散逸した教法を復活させる機縁となった事です。
日本の仏教では、死後人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔を始めとする十王により7回の裁きを受け、
最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされるとされ、
その救済のため四十九日まで7回の法要を営みます。
これらの儀礼も平安時代に意味ずけられ、習慣化されたと考えられます。

2 恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)
平安時代中期の天台宗の僧源信は恵心僧都と尊称され、二十五三昧会立ち上げの中心人物になると共に、
往生要集を著わして浄土教の基礎を創り上げました。
往生要集には地獄・極楽の観念や、厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)の精神が示され、
貴族・庶民に広く普及し、後の法然上人や親鸞聖人だけではなく、後の文学思想などのも大きな影響を与えました。
特筆すべきは、本書は中国の天台山国清寺に伝えられ、
唐末五代の混乱によって散逸した教法を中国の地で復活させる機縁ともなりました。
恵心僧都源信(942年-1017年)は大和国(奈良県)北葛城郡当麻に生まれ、
950年9歳で比叡山天台宗の慈恵大師良源に入門し、955年14歳で得度します。
15歳で村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれます。
その後、名利の道を捨てて比叡山延暦寺横川兜率谷の恵心院に隠棲して、念仏三昧の求道の道に入ります。
985年3月往生要集を脱稿します。
そして、1017年76歳で示寂、
臨終の際には阿弥陀如来像の右手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したとされます。

3 往生要集
往生要集は、浄土教の観点から多くの仏教の経典や論書などを基に、
極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で一部三巻からなります。
死後に極楽往生するには一心に仏を想い念仏をあげる以外に方法はないと説かれます。
その内容は;
-巻上
-大文第一 厭離穢土 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・・人間・天人の六道を説く。
-大文第二 欣求浄土 極楽浄土に生まれる十楽を説く。
-大文第三 極楽証拠 極楽往生の証拠を書く。
-大文第四 正修念仏 浄土往生の道を明らかにする。
-巻中
-大文第五 助念方法 念仏修行の方法論。
-大文第六 別時念仏 臨終の念仏を説く。
-巻下
-大文第七 念仏利益 念仏を唱えることによる功徳。
-大文第八 念仏証拠 念仏を唱えることによる善業。
-大文第九 往生諸行 念仏の包容性。
-大文第十 問答料簡 何よりも勝れているにが念仏であると説く。
念仏による浄土信仰に関する百科全書とも言えます。
平安時代に浄土教は地方へ、庶民へと入って行き、庶民の葬祭は浄土宗の手により行われる様になって行きます。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教の民間への広がり
日本に於ける仏教は6世紀半ば百済国(くだらこく、朝鮮半島西部の国家)より渡来(とらい)して以来
国家運営の柱として天皇家を中心に貴族・豪族の間で信仰・発展を続けてゆきましたが、
奈良時代より徐々に民間へも広がり始めます。
その流れに合わせて民間でも葬儀が営まれる様になります。

1 奈良時代に始まる民間仏教
本来、仏教の僧侶になる為には教団の承認を得て、
得度と呼ばれる出家の儀式を受ければ、誰でも僧侶となれるのが基本ですが、
奈良時代には僧侶の人数を制限する為、得度は国家の許可制となって居りました(官度)。
国の許可を得ずに出家することは私度として禁じられて居り、民間への布教も大きく制限されて居りました。
しかし、行基や空也などの私度僧が多く現れ、民間仏教が盛んになって行くと、
それらの宗教指導者は、”菩薩(ぼさつ)”あるいは”聖(ひじり)”と呼ばれて民衆から慕われる様になります。
こうした民間仏教の広まりは仏教の民衆化を押し進めると共に、
民衆の葬儀の仏教化を進めることにもなりました。
仏教の僧侶になる為には教団の10名の先達の承認を受けて、戒律を護る事を誓えば誰でもなれるものでしたが、
中国や日本では労働、納税、兵役が免除されていた為、僧侶になる者が続出し、
国の存立を犯しかねない事態を憂慮して、年度や地域ごとに僧侶の人数を制限する為
得度を国の許可制としました。

2 行基上人
奈良時代に民間仏教の先達として頂点に立つのが 行基(668年-749年)です。
行基は河内国大鳥郡(大阪府堺市)に生まれ、法相宗の僧侶となり、
朝廷が禁じた民衆への仏教布教の禁を破り、民衆や豪族など階層を問わずに仏法の教えを説き、
朝廷からの弾圧を受けながらも逆境を跳ね返し、多くの社会活動を成し遂げて民衆の圧倒的支持を受けました。
その後には朝廷も認めて日本で最初の大僧正となります。
続日本紀には行基集団が ”死魂を妖祇す” と記されて居り、死者の弔いに従事していた事を窺わせます。
又、行基の弟子集団である志阿弥(行基の法弟、架空の人物)は火葬を行い、
墓地を開創したと言われ、後に葬送の俗聖である三昧聖として諸国に伝承したと伝えられます。

3 空也上人
民間仏教の広がりは奈良時代の行基上人を始めととして、
平安時代の空也上人(903年-972年)とその弟子達による口称念仏により民間に普及して行きました。
阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと尊称され
”南無阿弥陀仏”の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造る社会事業に奉仕し、
貴賤を問わず幅広い帰依者を得ました。
口称念仏の祖、民間に於ける浄土教の先駆者として評価されて居ります。

空也は平安時代中期の僧ですが、複数の宗派と関わりを持って超宗派的立場を保ち、
若い頃から在俗の修行者として諸国を回り、南無阿弥陀仏を口称すれば
阿弥陀仏の絶大な力を働かせる事が出来る、と口称の念仏を説きました。
この事は民間念仏として死者儀礼や農耕儀礼と結びついて仏教の民衆化を推し進めました。
念仏も呪力として死者の減罪に力を持つと信じられました。
空也は948年に比叡山で天台座主・延昌のもと授戒し、
光勝の法号を受けて居りますが、生涯超宗派的立場を守り続けました。
又、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれて居ります。
そして、その弟子たちは高野聖など以降に広まった民間浄土教行者”念仏聖”の先駆者となり、
鎌倉時代の仏教界に多大な影響を与えました。
空也は風葬されたと思われる野原の遺骸(いがい、遺され捨てられた死骸)を集めて、
火葬して供養をしたと伝えられます。
空也の弟子達も火葬の技術を伝承したと考えられます。
こうした民間仏教の広がりは、仏教を民衆の中に定着させ、民衆の葬儀も仏教で行われる様になって参ります。
尚、空也上人は972年京都東山西光寺(現在は東山区 六波羅蜜寺)において、70歳で示寂されました。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・平安時代の葬儀と念仏
お見送り儀礼の歴史は死者を畏怖してのささやかなお見送り儀礼から、
富の集中と伴により大掛かりなお見送り儀礼へと変化してゆき、
そして庶民の間でもお見送り儀礼を営む時代への変化して行きました。
現代の横浜で営まれるお見送り儀礼の原型は平安時代に形成されたといわれて居ります。

1 平安時代の葬儀
日本では平安時代に入ると、それまで度々出されていた薄葬令が定着しはじめ
従来の山陵を造成して葬る厚葬から、葬儀を地味に行う薄葬へと変化してゆきました。
又、この時代に天台宗と真言宗が誕生し大きな影響を与える事となります。
現代の日本の葬儀の原型はこの時代に作られたと言っても過言では有りません。

平安時代半ばの天皇家葬送儀礼では;
危篤状態では臨終作法として念仏が唱えられ、
納棺に先立ち沐浴(現代の湯灌に通じる)を行い、
ご遺体を棺に納める際には僧侶も加わって納棺し、
納棺に際しては近親者が形代(かたしろ)をご遺体に供えました。
お柩は輿に載せられて運ばれ、出棺の際には儀礼が営まれ、
出棺は通常出入りする門以外で行われ、
火葬場に至るまで葬列が組まれ、
荼毘の前にも儀礼を営み、
然るべき方々は荼毘に立会い、
最後にご拾骨が営まれました。
そして、人々は帰宅前にお清めを行い、七七日法要(四十九日)、一周忌法要、もこの時代には営まれました。
これらの事から日本に於ける葬送習俗の原型は平安時代に作られたと考えられます。
尚、ご遺体を安置する際には北枕に変える事も、この時代には行われました。

2 平安時代のお見送り儀礼・次第
平安時代の葬儀の中では光明真言、呪願、阿弥陀護摩などが営まれて居りました。
光明真言とは密教の真言(真実の言葉、仏の言葉、呪文)で、
願いを仏に直接働きかける事が出来る呪文とされて居ります。
その言葉は神秘性を保つ為に梵字を翻訳せずに梵音のまま読誦します。
葬儀に於いては光明真言を108回唱える事により
死者の滅罪を願い、極楽に往生出来る様仏に願うものです。
その梵音と意味する所は;
ーオン アボキャ ペイロシャノウ
オーム(聖音)不空なる御方よ、大日如来よ
ーマカボダラ マニ ハンドマ
偉大なる印を有する御方よ、宝珠よ、蓮華よ
ージンバラ ハラバリタヤ ウン
光明を放ち給えフーン(聖音)
アボキャは不空成就如来を、ペイロシャノウは大日如来を、マカボダラは阿閣如来を、マニは宝生如来を、
ハンドマは阿弥陀如来を指しており、
金剛界五仏に対して光明を放つように祈願している真言です。

そして、その功徳は;
- 過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除減する。
- 十悪五逆四重諸罪によって 地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対して、光明を及ぼし諸罪を除き、西方極楽浄土に行かせる。
- 先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する。
光明真言は平安時代に始まり、その後 庶民の間にも広まり現在に至って居ります。
呪願(じゅがん)とは、法会や食事の時に施主の願意を述べて、幸福を祈る事ですが、
葬儀では、悪魔を祓い、死者の霊を慰め、極楽浄土に往生する様祈願する事となります。
呪願を執り行う僧侶を呪願師と言います。
阿弥陀護摩は、密教に於いて阿弥陀如来を本尊とし、無病息災・延命を祈って焚く護摩ですが、
死者の減罪(めつざい)にも力が有ると信じられて居りました。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・現代葬儀の原型
現代の横浜で営まれております葬儀の多くは仏教徒の為の仏式のご葬儀です。
日本に於ける仏式の葬儀の原型は平安時代に出来あがったと考えられて居ります。
その典型例として、第66代一条天皇のご葬儀が有名です。

1 平安時代の天皇家葬送儀礼
一条天皇はわずか7歳で即位して後、1011年32歳で崩御されるまで、
25年間在位し、平安王朝文化を花咲かせた天皇陛下です。
6月22日譲位して上皇と成られた天皇は危篤状態となり正午ごろに崩御。
6月25日宮中に陰陽師が召されて葬送の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占わせる。
同日、沐浴をさせ深夜に入棺。
入棺作業には天台座主慶円僧正他数名の僧侶と公卿数名が奉仕し、
皇后・宮さま方により棺に形代が納めれられました。
7月8日葬送、参列の人々は素服を裁縫して着用、慶円僧正が呪願を行い、天台宗院源僧都が導師を務める。
出棺には柩を輿の上に安置し葬列を組んで、
通常の出入り口とは異なる築垣を崩して道に出、御竈所(火葬場)へ向かい、
僧侶立会いの下に荼毘に付されました。
7月9日早朝、荼毘が終了し会葬者によりお骨が拾われ白壺に納められました。
お骨壺は円成寺に移されて仮安置され、その後建てられた三昧堂に7月20日 奉納されました。
8月2日と11日に七七(四十九日)の法事を執り行い、
そして、翌年の6月22日に一周忌の法事を行い葬送の儀礼が終了しました。

2 一条天皇陛下の葬送式次第
日本国第66代天皇、一条天皇陛下のご葬儀は以下の通りでした。(新谷尚紀著”日本人の葬儀”より)
臨終と納棺
6月22日、危篤状態の中で時々念仏を唱えていたが、正午頃に崩御。
6月25日、陰陽師を召して、葬送に日時、入棺の日時、墓所の方角、などを占わせ、深夜に入棺。
入棺作業には天台座主慶円僧正をはじめ数名の僧侶、諸卿数名が奉仕。
皇后や宮たちが形代を柩に納める。
葬送の次第
7月8日、葬送、素服を裁縫し、人々は着用。
慶円僧正が呪願を行い、院源僧都が導師を務める。
出棺に際して、御輿の前を2人が松明を持って先導、築垣を壊して道路に出る。
葬列には松明を持った近習が10名、香炉を首にかけて従う役、黄幡を持つ役などが続いた。
火葬場である御竈所(もかまどころ)で出棺の時と同様に導師、呪願が行われ、僧も立ち会って荼毘を行う。
拾骨と納骨の次第
7月9日、前日より夜を通して営まれた荼毘は朝6時におわる。
御骨を皆で拾い、4升程の白磁の壺に納めて、天台座主慶円僧正が光明真言を念誦(ねんじゅ)する。
骨壺は京都の円成寺に移動。
その後、入れ替わり御骸骨所(みがいごつどころ)に人々が伺候(しこう、側に付いて奉仕する事)し、
阿弥陀護摩(」あみだごま)も行われる。
7月20日、御骨を奉納する三昧堂のような小堂を円成寺に造り、奉納。
法要の次第
8月2日、七七日(四十九日)の法要。
8月11日、七七の正日にも法要を行う。
9月12日、月例の御念仏を初めて行う。
翌年5月27日、京都円教寺にて一周忌の法要を繰り上げて行う。
6月22日、一周忌の正日、法要を行う。
これで葬送の行事は全て終了しました。

3 現代横浜での仏式葬儀
一条天皇の葬送儀礼は現代の葬送儀礼にも多く通じるものが有ります。
先ず第一には危篤状態で念仏を臨終作法として行った事、現代でも宗派、地域によっては営まれて居ります。
納棺に先立って沐浴を行った事(現代の湯灌に通じる)。
納棺に際して近親者が形代(霊が依り憑く為の人形など)を収めた事。
出棺に先立ち儀礼が行われ、柩は輿に乗せて運ばれ、出棺には通常の出入口以外が使用され、葬列が組まれた事。
荼毘の前に儀礼が営まれ、荼毘に立会い、拾骨が行われた事。
又 帰宅する前には浄めが行われました。
七七日の法要、一周忌の法要を営むなど、日本の葬送儀礼の習俗はこの時代に原型が整えられたと考えられます。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・仏教でのご葬儀
現代の横浜に於きまして多くの方々は旅立ちの儀式は仏式を選択されております。
仏式に於ける旅立ちの儀式は“葬送儀礼”と呼ばれますが、一般的にはそれを略して葬儀と呼ばれます。
本来の仏教では葬送儀礼は重視される儀式では有りませんでした。
釈尊(釈迦の敬称)は弟子に死後の遺骸の処置を問われた時に
“僧侶は遺骸の供養などは考えず、真理の追求に専念すべき、供養は在家の信者がしてくれる。”
と答えたと伝えられます。
この考えの一部は現在でも継承されて居り、僧侶は ご遺体 ご遺骨 墓石には触れないものとされます。

1 仏教儀式としての葬送儀礼
現代の横浜で営まれる仏教徒のご葬儀は、
インド仏教を起源として、中国の儒教、日本古来の文化・精神が融合して現代の形式と成りました。
仏教がインドから中国へ伝播すると、中国・漢民族が信奉してきた道教や儒教の先祖供養の民間信仰と習合し、
葬送儀礼も仏教に於ける儀式の一つとなって行きました。
その中国仏教は飛鳥時代に日本に伝来し、皇室や豪族の信仰の対象となって日本国内に浸透して行きます。
更に、鎌倉時代には庶民の間にも広がりを見せ、庶民の間でも葬送儀礼が営まれ始めます。
そして、江戸時代・寺檀制度を基とした檀家制度が全国に定着すると、
葬送儀礼は仏教に於ける重要な儀式となりました。

2 仏教の葬儀と火葬
仏教の葬儀に於いてはご遺体の処理は火葬を前提として居ります。
それは釈尊のご遺体は火葬された故事にもとずきます。
日本の考古学上では5世紀頃の遺跡から焼骨が発見されている事から、
日本国内では仏教伝来以前にも火葬が行われていたと推定されますが、
人工的にご遺体を焼却する葬法である火葬が日本人に受入られたのは仏教の伝来が大きかったと考えられます。
記録に現れる最初の仏式火葬は700年に僧道昭に対して営まれたご火葬です。
又、天皇家に於ける最初の火葬は持統天皇の葬儀で行われました。
以後、天皇家に於ける葬儀は仏教葬を前提として居りました。
天皇家の葬儀が神式となるのは明治天皇以降です。

仏教は日本伝来と共に天皇家を始めとして多くの貴族・豪族の間に浸透して行きました。
そうした中で天皇家のご葬儀も仏式で営まれるようになります。
天皇家の葬儀に仏教が深く係わったのは持統天皇の葬儀が最初であろうと推定されます。
持統天皇は703年12月22日に崩御され、その玉体はご火葬がされました。
天皇はご遺詔(いしょう、遺言)をのこされ、
葬儀は倹約をこととし、素服(そふく)と挙哀(きょあい)を禁止しました。
素服とは質素な白服で喪服として裁縫し、喪の期間に着用しました。
挙哀は”ああ悲しいかな”と唱えて礼拝することをさします。
いずれも仏教葬が始まる以前の葬儀の基本となるものでした。
これらを止める事により葬儀が大袈裟になる事を戒めました。
以後、天皇、貴族階級に於いては仏教葬、火葬が定着してゆきます。

3 火葬
火葬とはご遺体を焼却する事ですが、
仏式では、火葬前の読経・焼香から焼骨を骨壺に納める収骨までも葬儀式の一部であると言う考え方も有ります。
又、ご遺体の安定化、減容化処理の手段の一つとも言えます。
世界的には火葬は必ずしも主流とは言えませんが、
日本に於いてはほぼ100%でご火葬の上、納骨或いは埋葬されて居ります。
日本に於ける火葬の歴史は古く、確認された火葬としては6世紀後半のものが有り、
現在検証中の遺跡としては長崎県大村市の竹松遺跡(弥生時代後期、2世紀ころ)などが有ります。
しかしながら、火葬は仏教の伝来と共に伝わったとされる説が有力で、
最初に火葬された人物は僧道昭(700年)であり、最初の天皇は持統天皇(702年)とされます。
その後、火葬の習慣は上級役人、公家、そして武士社会へと広がって行きます。
とは言え儒教の教えでは体を傷付ける事は大罪であり、火葬もその一つと考えられ、
又、火葬の為の燃料代も高額であったことから火葬率はそれ程高くは有りませんでした。
仏教が準国教とされた江戸時代でも2割前後の火葬率と想定されます、棺桶を使った土葬が主流でした。
明治時代に入り国教が神道に変わり、天皇家をひっとうに土葬へと変化しますが、
都市部では土葬の為の土地確保の困難さ、火葬技術の進歩、衛生管理上の問題などから、
徐々に火葬率は上昇し、現在ではほぼ100%となって居ります。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・霊への信仰
人の死後にも、その人の魂(霊)が存在するとする信仰は世界共通の思想として育まれてまいりました。
その思想は地域の文化、信仰の文化として伝えられてまいりました。
日本に於きましては御霊信仰(ごりょうしんこう)と呼ばれる思想が創られ、
現代でも日本各地の文化として脈々と根付いて居ります。

1 御霊信仰
御霊信仰(ごりょうしんこう)とは奈良時代に始まる日本の信仰の一つで
人は死ぬと、その魂は霊となり肉体から離れると考えられ、
恨(うら)みを持って死んだり、非業(ひごう)の死を遂げた人の霊は怨霊(おんりょう)となって
特定の人を脅かしたり、天災や疫病を発生させると考えられました。
この怨霊を鎮(しず)めて御霊とする事により、
祟(たた)りを免れ、平穏な社会が営まれ、人々を繁栄させることが出来る、とする信仰であります。

史実にもとずく御霊信仰の歴史はある意味では政争の歴史でもあります。
その例で古いものは、775年に井上内親王がその子供と共に憤死(ふんし)させられ、
その祟りにより夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされた為
777年に内親王の墓を改葬し御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊(おんりょう)を鎮めたとあります。
又、平安京への遷都も皇太子の座を廃され憤死した早良(さがら)親王の怨霊により
新皇太子が病に侵されたとの陰陽師の占いによるとされて居ります。
平安時代に入ると貴族階級の中で陰陽師による怨霊鎮魂が盛んとなりました。
何か事有る度に怨霊鎮魂の為の御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。
大宰府に左遷され非業の死を遂げた菅原道真の怨霊により親王や天皇が崩御したとの占いから
御霊会を営むと共に道真公の霊を北野天満宮にお祀りして霊の鎮魂(ちんこん)を図りました。
その後、都市住民の間でも怨霊への信仰が広まり、大規模な災害や疫病などは怨霊によるものと考えられて
怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になり、御霊神社も建立されるように成りました。

1 怨霊鎮魂(おんりょうちんこん)
平安時代に入ると貴族階級の間で陰陽師(おんみょうし)による怨霊鎮魂がしばしば営まれる様になります。
何か事有る度に”怨霊鎮魂”の為の御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。
その後、都市住民の間でも怨霊への信仰が広まり大規模な災害や疫病などは怨霊によるものと考えられて
怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になりました。
御霊神社も各地に建立されるように成ります。
疫病を防ぐ為の御霊信仰で有名な祭としては
毎年7月1日から30日間営まれる、京都八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)が有名です。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・ご遺体埋葬の歴史
埋葬とは ご遺体を土の中に埋める事を言いますが、
必ずしも土中に限らず、地下室や地上の施設に葬る場合も埋葬と表現します。
現在の横浜では、特定の宗教信者を除きほぼ100%の故人様がご火葬後の埋葬と成っておりますので、
ご遺骨を埋葬する事となります。

1 埋葬の歴史
ご遺体埋葬の歴史は古く、
10万年ほど前のネアンデルタール人の時代には、すでに埋葬が行われていたと考えられて居ります。
その前の猿人・原人の段階では埋葬は行われていなかったと推定されて居ります。
これは、人類が考える力を持ち始め、人の死や死霊などを特別な意識で見始めてから
遺体埋葬と言う行為が始まったと推定されます。
そして、埋葬の場所として墓域が設けられて居たとも推測されます。
その後、文明の発展と共に強力な権力者が誕生し、埋葬行為は権力の象徴へと変化して行きます。

2 日本での埋葬の歴史
日本に於ける埋葬としては、旧石器時代に属する北海道の湯の里遺跡で
お墓と思われる遺構が発見されて居り、旧石器時代には既に埋葬が行われていたと考えられます。
それに続く縄文式時代以降には多くの遺跡で埋葬行為が確認されて居ります。
集落内や貝塚などに墓域が設けられ、土器棺、石棺に納められて埋葬されて居ります。
埋葬には手足を折り曲げた屈葬と、手足を伸ばした伸展葬が有りますが、この時代は屈葬が一般的でした。
又、再葬と呼ばれる埋葬方法も見られます。
再葬は、一度ご遺体を埋葬し、白骨化した後に改めて骨壺に納めて埋葬し直す方法です。
そして、埋葬の形態は弥生時代、古墳時代と進むにつれより大掛りなものへ変化して行きます。
何れにしろ、仏教が伝来する前の古代から中世にかけては
日本古来の神道を基にした”死は穢れ”との思想が強く、貴人の墓地であっても、その管理は疎かでありました。
江戸時代初期に入るまではご遺体を埋葬する墓地は然るべき権力を持つ貴人の為の場所であり、
庶民の多くは山林や河原などに打ち捨てられるのが一般的で、
その後徐々に集落の共同墓地に埋葬される様になります。
そして、江戸時代に入り寺院の檀家制度が定着し、寺院墓地に人々が埋葬される事となり、
現代の埋葬形態の原型が創り上げられました。

3 現代横浜での埋葬
埋葬とは故人様のご遺体を土の中に埋める事(土葬)を指しますが、
広義にはご火葬後のご遺骨を墓地や納骨堂等にお納めする事も含めて居ります。
現在の日本に於いては多くの場合火葬が前提となって居り、ご遺体を埋葬する事はほとんど無くなりました。
特に横浜等の大都市では衛生上の観点からも土葬が禁止されて居ります。
ご遺骨を埋葬する時期と致しましては、
仏教であれば四十九日法要後の忌明けに、
神道であれば忌明けの五十日祭に合わせて、
キリスト教では1ヶ月後追悼ミサに合わせて埋葬(納骨)するのが一般的です。
ご遺骨は、御骨壺に納められている場合、ご遺骨はほとんど風化しませんが、
そのまま土壌に埋葬されたご遺骨は年と共に風化し、土に還ると言われます。
土壌の種類によって差異がありますが、大体30年でご遺骨は土に還るとされて居ります。
尚、日本では墓地埋葬法により墓地以外の場所、例えば自宅の庭などに埋葬する事は出来ません。
違反をすると死体遺棄罪として罰せられる事が有ります。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・日本古代の葬儀
日本古代に於いては人の生と死の判断基準は必ずしも明確では無く、
人の死を確定するにはそれなりの時間が必要とされました。
その間は死者を生者と同様に扱うと共に、
原始の時代の死生観から生まれた霊魂を畏れ・敬う為に葬送の儀礼が行われてきたと考えられます。
又、霊魂は死霊にもつながり、恐怖の元ともなりました。
この死霊を蘇らせない為に、ご遺体をほおむる際に、
屈葬(くつそう)や抱石葬(ほうせきそう)で埋葬されたと考えられて居ります。

1 死の判定
現代では死の判定は医師によって行われ、特定された時間にその人の生が死へと変わります。
しかしながら原始の時代には、生と死の判別にはそれなりの時間が必要とされ、
その間に現れるご遺体の腐敗は荒ぶるものであり、恐怖でもありました。
その様ななかから原始宗教が生まれ、霊魂の考えが生まれたと考えられます。
古代の葬送礼法の一つである殯(もがり)は、人が死んだと認められても
すぐにご遺体を処理してしまう事なく白骨化を待ち、その間の死者には生きている者と同じ様に
食事を与え、霊魂を慰める為に音曲をもようしました。

2 日本古代の葬儀観
死者の霊を慰める為に歌舞が行われましたが、死霊は荒ぶるもので、
生きている者へ厄災を及ぼしかねないと考えられており、その霊を慰める必要があったからです。
古事記のなかには死後の世界である”黄泉の国”について記述があり、
腐乱した死体に蛆が群がる汚い世界として描かれています。
つまり、死は穢れており、
死霊は生きている者を死の世界へ引きずり込もうとする恐ろしいものと考えられて居りました。
古代の葬儀観では、死者を大切に扱うという考え方と、
死は穢れていて恐ろしいものという考え方が共存して居りました。

3 古代の埋葬
日本に於いて死や死霊に対する恐怖心は原始の時代からあったと考えられます。
石器時代や縄文時代の墳墓の多くではご遺体の埋葬は手足を折り曲げてほおむる屈葬が一般的です。
屈葬を行う理由としては、死者の霊が生者に災いを及ぼすのを防ぐ為、
胎児の姿を真似る事により再生しない事を祈念する、休息の姿勢、などの説があります。
又、ご遺体の上に石を置いた抱石葬はご遺体の外に死霊が出ぬ様にと考えられます。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・葬儀の起源
人類は有史以来、宗教が創始される以前から死者の霊を弔う儀礼が営まれて参りました。

1 死に関する学問
死に付いての学問を始めて切りひらい学者はフランスの歴史家である
フィリップ・アリエス(1914年-1984年)といわれ、
その著書”死の文化史”の冒頭には、
”かねてより信じられて来た様に、人間は自ら死にゆく事を知っている唯一の動物だ、
ということは実は確実ではありません。
”その代り確かな事は、人間は死者を埋葬する唯一の動物だということです”と書きました。
アリエスはネアンデルタール人が5万年以上前に死者を埋葬した共同墓地としての
イラク北部のクルディスタン地方で発見された考古遺跡・シャニダール遺跡を紹介して居ります。

2 シャニダール考古遺跡
シャニダール遺跡とは、イラク北西部のトルコとの国境に近いクルディスターンにある石灰岩の洞窟遺跡です。
この遺跡内は4世代の地層が重ねられて居り、その最下層から9体のネアンデルタール人の骨が発掘されました。
この内の4体は約5万年以上前の旧人の骨で、丁寧に埋葬された墓ではないかと推定され、
また、その土の中から多くの花粉や花弁が確認された事から、
当時の旧人は、死者を悼み・遺体に献花をしたり・花を副葬品として用いたのではないかと推測されます。
人間は有史以来、人が死ぬと葬儀を行って来たと言えるのではないでしょうか。

3 日本での葬送の始まり
日本に於ける葬送に付いては
”古事記”や”日本書紀”の中に、貴人を”殯(もがり)”にしたと言う記述が記録されて居ります。
殯とは日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬(埋葬)するまでの期間、
棺にご遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ・慰め、そして死者の復活を願いながら、
ご遺体の腐敗や白骨化などの物理的変化を確認する事により死者の死を確認する為の儀礼でした。
従いまして、その期間はかなり長いものであり、場合によっては一年を越えるケースもありました。
殯の期間に遺体を安置した建物を殯宮(もがりのみや)といいます。
万葉集の中では”あらきのみや”と詠まれております。
そして、現在の通夜は殯を原型としていると言われて居ります。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・ひかりの杜葬祭ディレクター
現代の横浜では世帯当たりの人数は2.2人と、核家族化・少子高齢化社会を顕著に示す状態となって居ります。
又、町内会・団地内組合などの活動は希薄化する中で、
個人の自由は謳歌できますが、何か有った時の相互扶助を受ける事は困難な社会と成りました。
お身内の方に不幸が起きた際にはご自分で全ての次第をお決め頂かなければならず、
葬儀担当者(葬祭ディレクター)がお手伝いできる事柄もより多く成りました。

1 葬祭ディレクター
葬儀は故人様、そしてご遺族様にとって大切な営みで御座います。
従いまして、私ども葬儀のお手伝いをさせて頂く者はその葬儀を習慣的な営みとして行うのではなく、
故人様の生と死が固有の価値を持つ個別の営みである事を良く自覚してお手伝いしなければ成りません。
ひとつの葬儀はふたつとない葬儀であり、
ご遺族様のお気持ちを大切にして、その悲しみを思い計り、意味の有る葬儀を実現する為、
奉仕・お手伝いをさせて頂かねばなりません。

2 ひかりの杜のお手伝い
現代の日本に於ける社会・環境は大きく変化し、
ご葬儀を営むに当たり地域の方々の協力を得る事が困難な状況であり、
ご家族、ご親戚間の関係が大きく変化して参りました現在では、
葬儀の施行に当たりご遺族様の私どもへの期待はより大きいものが御座います。
私どもひかりの杜では、
営まれるご葬儀がご遺族にとって意味のあるものであり、心に残る葬儀であるべく、心して居ります。
その為には、葬儀に対して正しく、明確なポリシーを持つと共に、
ご遺族様のお気持ちをそんたくした、葬儀の施行に心掛けて居ります
又、こうしたご葬儀のお手伝いの中から多くの事を学ばせて頂きます。
ご葬儀を過去の文化としてはならず、学ばせて頂いた事を基に新たな意味の有る葬儀を実践したいと考えます。

3 ひかりの杜ご葬儀施行ポリシー
ご葬儀の主体はあくまでも故人様であり、
ご葬儀施行の責任はご遺族さまであり、
ご葬儀の執行は僧侶・神職・司祭・牧師などの宗教者であり、
そして、参列して頂く方々により構成されます。
この祭祀空間の場を設営し、ご遺族様をお手伝いする責任を負うのが私どもひかりの杜です。
私ども葬祭ディレクターは、
ご遺族様や宗教者の方から学び、その御意向を支援する立場でご葬祭の儀礼を実現する責任を負う事となります。
ご遺族様より、”有難う 良かったよ” の一言を頂ける様、精進させて頂きます。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・葬儀文化の継承
死者を送るお見送りの儀礼・葬儀は有史以来綿々と営まれ続けて参りました。
その葬儀は宗教・民族・地域などを基にして様々な文化を生み出しました。
生み出された葬儀文化は、死者の死生観を反映するだけでなく、
精神文化・生活文化を反映した文化となって居ります。

1 葬儀文化
葬儀文化は、地域の人々が永い歴史の中で培ってきた文化であり、その中の精神は尊重されなければ成りません。
葬儀で営まれる其々の次第には先人たちの知恵の粋(すい)が含まれております。
ご葬儀を営むに当たりましては、そこに込められた意味を良く理解して執り行うべきでしょう。
文化は過去の歴史を基にして、その時代を反映したものですから、時代の変化と共に変化して行くべきものですが、
その過程で大切な事は、それぞれの持つ意味を理解した上で取捨選択し、変化させなければ成りません。
日本の葬儀文化が、なぜ・どの様にして創り上げられてきたか、に思いをはせるとき、
続けられてきた習慣・儀礼・文化から私共の先人達が何を大切にしてきたか学ぶ事が出来ます。
ご葬儀に臨み、営まれる次第の意味合いをお考え頂けるならば、
今までとは異なるお気持ちでご葬儀に参列頂けるのではないでしょうか。

2 葬儀文化の継承
日乃本の先人達のご苦労により創り上げられた日本の葬儀文化は継承されてゆかねばなりません。
しかしながら、核家族化・少子高齢化・地域社会の変容・そして家族の様々な問題など、
社会は大きな変貌を遂げて居り、死生観も多様化するなかでは、葬儀文化も変貌しなければなりません。
無自覚な形だけの継承ではなく、意味を理解した上での取捨選択を行い、
新しい葬儀文化として継承されなければ成りません。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・葬儀から学ぶ
死者を弔うお見送りの儀礼は人類発詳と共に面々と営まれて参りました。
身近な方の死を弔う葬送の儀礼から私共は、
生・生きる事の大切さ、
命の重さ、
そして、自分自身もいずれは死を迎えねばならない事、
を学びます。
地球上の生物はすべからく、生を受けた後に何れは必ず死を迎えねばなりません。

1 故人様のご逝去から生きる事の大切さを知る
人の死を悼んで集まり営まれる葬儀は、
集まった人々に人の生の大切さを知らしめ、生を受けたら必ず死を迎えなければならない事を知らされます。
故人様の死が周りの人々に大きな悲嘆を与える事を体験して、生きている事の大切さを実感させられます。
葬儀の営みの中では、死という事実の大きさ、生きている事の大切さを知らされると共に、
人の死は終わりではなく、無に帰する事でもない事を学ぶ事と成ります。

2 命の重み
故人様のご葬儀は、故人様の生き様に想いし、ご遺体を大切にし、ご遺族の心の痛みに想いし、
会葬の方々のお心に想いして営まれます。
それは、人の死は軽いものではなく、人の生・命が重いものだからです。
そして、人の生が千差万別であるごとく、人の死も千差万別であり、すべからく重いもので有ります。

3 生を受けた者は必ず死を迎えなければならない
故人様を悼み、故人様とのお別れを営むご葬儀では
生きている者もいずれは寿命(じみょう)をまっとうする事に思いをはせます。
死という事に関しては、死者と残された者との違いは
先に逝(い)く者と、後から逝く者との違いでしかありません。
残された方々は、いずれは寿命を迎えなければならない事を理解して生をまっとうしなければ成りません。
今回は以上です。
横浜市民の葬儀・葬儀を営む目的
現在の日本では死者お見送りで営む儀礼全般を葬儀とよんでおります。
葬儀とは、本来は仏教の用語である”葬送儀礼”を略して使用される言葉でありましたが、
現代ではどの宗教であるかに関わらず、お見送り儀礼を指す普通名詞として使用されて居ります。

1 葬儀とは
葬儀とは、狭い意味では通夜式・葬儀式(葬式)を想像しますが、広い意味では葬送儀礼全般の略でもあります。
葬儀は、人の臨終からその後の喪までを含めた故人様を葬り、悼むための一連の儀礼を表わします。
その様式はそれを行う人々の死生観や宗教観が深く反映されたものであり、
葬儀は宗教が文明のなかで発生する以前の旧石器時代から行われてきた人間自身の宗教的行為であるとも言えます。
そして葬儀は、故人様のためであると共に、
故人様の死を悼む残された方々の心を癒す手助けとなる儀礼でもあります。
日本に於ける葬儀は仏式が主流となって居りますが、具体的には、
インドから中国を経て伝来した仏教の儀式に
中国儒教の教えや日本古来の神道の習慣等日本で培われた文化が加味されて、
現在の葬送の儀礼が出来上がりました。。
通夜は、日本で古代に行われていた”もがり”に発すると言われて居り、
故人様との最後のお別れをすると共に、
魔除けの意味も込めて、夜明けまで灯明や線香の火を絶やさぬようにします。
葬儀の終了後に”振り塩”と呼ばれる、塩で清める習慣は神道由来の習慣であります。
孔子を始祖とする儒教は5世紀頃に宋(中国)より日本に伝来し、永く日本文化の進捗に寄与しましたが、
その教えの中で、親の葬儀を盛大に営む事が何より大切な事とされます。
その死生観では、人は死ぬと魂(こん)と魄(はく)という二つたましいに別れ、
魂は精神を・魄は肉体を司るたましいであるとされます。
魂は天に昇って神となり、魄は地にかえる、とされます。
残された人々は魂を祀る為に位牌を作って廟に祀り、魄の戻る場所として地中に遺体を埋めます。
天国や地獄などの7っの世界は儒教から生まれて居り、
紙幣を燃やして死者の魂を慰めるのも儒教から来ております。

2 葬儀を営む目的
葬儀とは一般的に通夜、葬式、及び告別式と理解されておりますが、臨終から死後の喪に至るまでの死者を葬リ、
悼む為の一連の儀礼のことを表します。
では、何故、葬儀が必要なのでしょうか?
人は誕生とともに多くの愛に育まれ、多くの愛を与え、様々な社会生活を営みます。
そして生が有るところには必ず死が有り、それは事故であったり、病に倒れるものであったり、
老齢になり命尽きるものであったり、短い人生、長い人生と様々です。
全ての人に、それぞれの生と・それぞれの死が有ります。
全ての死にひとつとして同一の死は有りません。
では、人が死ぬと何をしなければならないでしょうか
1 社会への告知
2 遺体の処理
3 霊の処理
4 悲嘆の処理
5 様々な感情の処理
1)は故人さまとご遺族さまの為に、
2)と3)は故人さまの為に、
4)と5)はご遺族、そして故人さまと近しい方々の為に行う葬送儀礼の大切な目的です。

人の死は大切な命が失れることであり、その死は周囲の人々に危機状況を作り出します。
葬儀は地域社会、民族、宗教、時代などをもとに長い時間をかけて作り出された文化であると共に
死者の係わりの人々が危機を乗り越える為に人々が作り出した知恵の集合体です。
そして、人々は葬儀の中から多くのことを学ぶことになります。
故人を偲んで集まる人々は、人の命の大切さを・人は何時か必ず死に直面するという事 ・
そして人の死は大きな悲しみを生み出すという事を体験します。
この貴重な体験から"生きることの大切さ"と"死は無に帰るだけではない"、ということを実感するでしょう。
どの様な生も どの様な死も非常に重く大切なものです。
葬儀の流れの中では、ご家族・ご親族・会葬ご参列の方々が故人の生き様を振り返り、
それぞれの心の痛み・悲嘆を思い遣りたいものです。
先にも申し上げましたが葬儀は有史以来、人の死と共に育まれて来た死生観であり、大切な精神文化であります。
この葬儀文化は長い時間をかけて培って来た人間の知恵の集積です。
従いまして、それぞれの儀礼には重要な意味があります。
もちろん時代の流れとともに文化は変化していくものですから過去に捉われる必要は有りませんが、
長く続いて来た、習慣・儀礼・文化を一度考え直す事も必要ではないでしょうか。
今回は以上です。
横浜市民の為の葬儀式場・西寺尾火葬場
横浜市北東部に居住する市民の方々に永らく荼毘の火を提供してきた火葬場として西寺尾火葬場が御座います。
西寺尾火葬場は横浜市神奈川区松見町に位置する大正13年(1924年)6月5日に設立された私営の火葬場で、
長らく横浜市民、川崎市民、東京都民(大田区民)に利用されてまいりました。
火葬炉利用料は6万~9万円と、横浜市営火葬場と比較して割高ではありますが、
比較的早めにご火葬が営める斎場として多くのご葬家がご利用されて居ります。
尚、横浜市民の方が西寺尾火葬場をご利用いただいた場合、
横浜市営斎場利用者との利用料金差額補助として17,000円が横浜市より支給されますので
居住される区役所への葬儀費用補助金申請と同時に、お忘れなく申請して下さい。

西寺尾火葬場には隣接して西寺尾会堂が、近隣には妙蓮寺斎場が御座いますので、
式場が必要なご葬家にはご利用をお薦め致します。

1 西寺尾会堂
西寺尾会堂は西寺尾火葬場を併設し、古くより港北、神奈川、鶴見区民に利用されている
宗旨・宗派に係わらずご利用出来る私営の葬儀式場です。
西寺尾会堂は東急東横線妙蓮寺駅から徒歩10分の丘の上に建てられて居り、
車で来場される方には首都高速神奈川1号線生麦ランプ・若しくは第三京浜道路新横浜インターより
何れも15分程の距離に位置する交通の便の良い葬儀式場です。
又、遠方より来られて宿泊が必要な方々には妙蓮寺駅から所要7分で横浜駅となり、
横浜駅周辺には多くのビジネスホテルが営業しております。
その一つとしてはヨコハマプラザホテル(横浜駅東口)シングル6000円より等がご利用頂けます。

西寺尾会堂は総二階の建物として建設され
一階には受付・待合せロビー・葬儀式場・僧侶控室が、
二階には待合せロビー・お清め室・遺族控室・通夜仮眠室が配置されて居ります。
葬儀式場は約60席の会葬者席が用意可能で200名程度までのご葬儀を執り行う事が可能です。
尚、同会堂では花輪の取り付けが出来ぬ為、斎場のお飾りは生花のみのご利用となります。
西寺尾火葬場への移動は徒歩での移動と成りますので、マイクロバス等は不要となります。
今回は以上です。
横浜市民の為の葬儀式場・横浜市久保山斎場
横浜市民の為の火葬場として横浜市久保山斎場が御座います。
横浜市久保山斎場は開港横浜を象徴する火葬場で、明治8年(1875年)6月より操業を開始し、
多くの人々が海外との往来をする中で、伝染病の拡散防止を目的とした火葬場でもありました。
第二次世界大戦後、A級戦犯として死刑判決を受けた方々のご遺体はこの横浜久保山斎場で荼毘に付され、
東京湾に散骨されました。

横浜市久保山斎場は他の市営斎場と異なり、火葬設備のみを保有する斎場で葬儀式場は御座いません。
葬儀式場は隣接する私営の小西斎場・一休庵久保山斎場他をご利用頂くと便利です。

1 私営小西斎場
小西斎場は西区元久保町に位置する私営の斎場で、
横浜市久保山斎場(火葬場のみ)に隣接した大変便利な葬儀式場です。
火葬場への移動は徒歩が可能でマイクロバス等を必要と致しません。
ご来場に当たりましてはJR線保土ヶ谷駅、若しくは京浜急行線黄金町駅よりタクシ-利用が便利です。
何れも所要時間10分、千参百円前後の費用で来場頂けます。
お車で来場の場合は首都高速横浜3号線永田インターより10分の距離となります。
遠方よりご参列の方々には最寄のホテルとして
JR線横浜駅、桜木町駅、関内駅周辺のビジネスホテルご利用をお薦め致します。
小西斎場の式場は1室あり、1Fが駐車場と入口・60席・150名の葬儀を執り行う事が可能な式場となります。
その構造は、1FとB1Fの二階構造となって居り、
1Fに正面入り口・受付・待合せロビー・式場・そして宗教者控室が配置され、
B1Fには遺族控室(和室18畳)・清め室(立食100名)シャワー室が御座います。
1FとB1Fの間にはエレベーターで繋がれ、B1Fには身障者対応トイレも設備されて居ります。
遺族控室は通夜仮眠のお部屋としてもご利用頂け、大変ご利用頂き易い斎場で御座います。
尚、ご自宅でご遺体を安置する事が出来ない場合は 別棟にご安置する事も可能となって居ります。

2 一休庵久保山斎場
一休庵久保山斎場は西区元久保町に位置する私営の斎場で、
横浜市久保山斎場(火葬場のみ)に隣接した大変便利な葬儀式場です。
火葬場への移動は徒歩が可能でマイクロバス等を必要と致しません。
ご来場に当たりましては、JR線保土ヶ谷駅、若しくは京浜急行線黄金町駅よりタクシ-利用が便利です。
何れも所要時間10分、千参百円前後の費用で来場頂けます。
お車で来場の場合は首都高速横浜3号線永田インターより10分の距離となります。
遠方よりご参列の方々には最寄のホテルとしては
JR線横浜駅、桜木町駅、関内駅周辺のビジネスホテルご利用をお薦め致します。
一休庵久保山斎場の式場は2室あり、1Fが駐車場と正面入口、B1Fが第一式場、B2Fが第二式場となり、
正面入口からはエレベーターで下りて頂きます。
エレベーターで下りますと、受付と待合せロビーとなり、正面の通路を挟んで左側に式場とお清め室、
右側に遺族控室(和室12畳)手洗い・シャワー室が配置されて居ります。
式場は会葬の方々の予定人数に合わせて、広さを調整する事が可能となって居り、
ご利用される広さに合わせた利用料体系となって居ります。
式場とお清めの席の間はパ-ティションで区切る形となります。
今回は以上です。
横浜市民の為の葬儀式場・横浜市北部斎場
横浜市民の為に廉価で利用し易い葬儀式場として横浜市営の葬儀式場は三ヶ所御座いますが、
その中で最っとも新しく開設された斎場が横浜市北部斎場です。
横浜市北部斎場は平成14年4月開場致しました。

横浜市北部斎場は緑区長津田町に位置する横浜市営の斎場で、葬儀式場と火葬場が併設され、
地下と地上に大駐車場を備えた、大変便利な葬儀式場で、宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。
又、式場から火葬場への移動は徒歩となり、マイクロバス等の移動手段を必要と致しません。

1 横浜市北部斎場への交通機関
横浜市北部斎場への来場に当たりましては
ーJR横浜線十日市場駅より横浜市営バス55系統に乗車して頂き北部斎場前で下車(所要10分)の後
徒歩で10分となります。
ータクシ-をご利用の場合はJR横浜線長津田駅南口より約8分(料金1300円前後)で来場頂けます。
ーお車で来場の場合は東名高速横浜インターより10分の距離となります。

2 横浜市北部斎場最寄の宿泊施設
遠方よりご参列の方々には最寄のホテルとして、“東京 湯河原温泉 万葉の湯”が御座います。
万葉の湯は東名高速横浜インター前に位置する温泉ホテルで、
JR横浜線・小田急線・町田駅よりシャトルバスが運行されて交通の便も良く、
北部斎場まではタクシーで10分(料金1300円前後)とご利用しやすい宿泊設備です。
ご利用料金は、洋室ツイン・2名利用で10400円/人(税込)からとなります。

4 横浜市北部斎場の設備
北部斎場は正門を入りますと直ぐにトンネルとなり、
トンネルを抜けると前に駐車場、正面奥に火葬場、右手に式場の建物が配置されて居ります。
葬儀式場は4式場あり、いずれも式場も受付・待合せロビー・式場・お清め室・親族控室・
宗教家控室・シャワー室・トイレが配置されて居り、
席数100席・300名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。
通夜仮眠は5名様程度までは可能です。
但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので
灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。
北部斎場は建物も比較的新しく、駐車場も大きく取られ居り、
ご利用頂いた方々よりは好評を頂く式場で御座います。
今回は以上です。
横浜市民の為の葬儀式場・横浜市南部斎場
横浜市が市民の方々に供する廉価で利便な葬儀式場の一つとして、横浜市南部斎場が御座います。
横浜市南部斎場は1991年(平成3年)9月に操業を開始しました。

横浜市南部斎場は金沢区みず木町に位置する横浜市営の斎場で、葬儀式場と火葬場が併設され、
大駐車場を備えた大変便利な葬儀式場で、宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。
又、葬儀式場と火葬場は併設されて居り、その間の移動は徒歩が可能で、マイクロバス等を必要と致しません。

1 横浜市南部斎場来場の交通機関
横浜市南部斎場来場に当たりましては、
京浜急行線金沢文庫駅(特急停車駅)よりタクシ-利用で約20分(料金2000円前後)で来場頂けます。
路線バスご利用の場合は京浜急行金沢八景駅より
神奈川中央交通の大船駅行、庄戸行、上郷ネオポリス行にお乗り頂き
隧道東口で下車(所要時間約20分)後、斎場まで徒歩10分です。
尚、斎場までの徒歩10分間は急な登り坂となりますのでお気を附け下さい。
お車で来場の場合は、大変便利で横浜-横須賀高速道路朝比奈インター出口前となります。

2 横浜市南部斎場最寄の宿泊施設
遠方よりご参列の方々には最寄の宿泊施設として、“上郷・森の家”が御座います。
上郷・森の家は斎場よりタクシ-で5分(料金1000円)の距離にあるご利用し易い横浜市営の宿泊設備です。
ご利用料金は2名利用で6500円(朝食付き)/人(税込)からとなります。
金沢八景駅周辺のホテルと致しましては“横浜テクノタワーホテル”が御座います。
ご利用料金はシングルルーム・8500円税込/人でご利用頂けます。
横浜市南部斎場まではタクシ-で3000円前後となります。

3 横浜市南部斎場の設備
横浜市南部斎場はトンネルを潜り正門を入りますと、正面左手に火葬場・式場の建物が御座います、
この前を通り建物奥には駐車場が配置されて居ります。
葬儀式場は1Fに1式場、2Fに1式場、計2式場があり、
いずれも式場も、受付・待合せロビー・式場・お清め室・親族控室・宗教家控室・トイレが配置されて居り、
席数100席・300名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。
通夜仮眠は5名様程度までは可能です。
但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので
灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。
横浜市南部斎場は横浜横須賀道路朝比奈インター出口に隣接し、深い緑地の中に造られた静かな斎場で
駐車場も大きく取られ居り、お車でご来場頂く方々よりは好評を頂く式場で御座います。
今回は以上です。
横浜市民の為の葬儀式場・横浜市戸塚斎場
横浜市民の為に廉価で利用し易い葬儀式場として横浜市営の葬儀式場は三ヶ所御座いますが、
その一つとして横浜市戸塚斎場が御座います。
横浜市戸塚斎場は1939年(昭和14年)より横浜市戸塚区内で火葬業務が開始され、
1990年(平成2年)に式場棟が併設され、総合斎場として永く横浜市民のご葬儀に利用されて参りました。

横浜市戸塚斎場は戸塚区鳥が丘に位置する横浜市営の斎場で、
葬儀式場と火葬場が併設され、ぺットの火葬も可能な、
駐車場の完備された、大変便利な葬儀式場で、宗旨・宗派に係わらずご利用が可能な斎場です。
葬儀式場と火葬場は併設されて居りますので、その移動は徒歩が可能でありマイクロバス等を必要と致しません。

1 横浜市戸塚斎場への来場方法
ご来場に当たりましては、横浜市営地下鉄線踊場駅より徒歩で15分、
JR線戸塚駅から路線バス利用であれば 西口バスセンターより
“戸79;弥生台駅行き”に乗車し戸塚斎場前で下車(所要時間10分前後)、
タクシ-利用であれば所要10分(料金1200円前後)で来場頂けます。
お車で来場の場合は、横浜新道を藤沢方面に向かい、
戸塚駅入り口・矢沢立体(IC)を右折して約5分となります。

2 最寄の宿泊施設
遠方よりご来場の方々には最寄の宿泊施設として、戸塚駅前西口に“相鉄フレッサイン横浜戸塚”が御座います。
同ホテルから斎場までタクシ-で10分(料金1200円前後)の距離にあるご利用し易い宿泊設備です。
ご利用料金は、シングルルーム6750円からとなります。
ご予約はインターネット予約利用が割安となります。

3 横浜市戸塚斎場の設備
横浜市戸塚斎場は小高い丘の上に建設されて居り、
坂道を登って正門に立ちますと、正面手前が駐車場、正面奥に火葬場の、右手に式場の建物が御座います。
葬儀式場は二階建てで、1Fに1式場、2Fに1式場、計2式場があり、
いずれも式場も、受付・待合せロビー・お清め室 式場 親族控室 宗教家控室 トイレが配置されて居り、
席数100席 300名程度のご葬儀を執り行う事が可能となって居ります。
通夜仮眠は5名様程度までは可能です。
但し、横浜市消防条例により夜9時以降の火気使用は不可となって居りますので
灯明・線香は9時で消灯しなければ成りません。
戸塚斎場は古くから横浜市民に利用されている火葬場であり、
ぺットの火葬は戸塚斎場でのみ可能となって居ります。。
今回は以上です。
横浜市港南区での葬儀
横浜市港南区は横浜市内の中央南部に位置し、人口22万人 9万世帯が居住する、
区の花を“ひまわり”“キキョウ”“アジサイ”の三花と制定した、緑豊かな丘陵地が連なる住宅都市です。
港南区は昭和44年南区の人口増加に伴い分区して誕生しました。
港南区の名称は区内の中心となる港南を基に命名されました。

1 横浜市港南区の交通機関
横浜市港南区の交通機関としては、
昭和5年に黄金町-浦賀間が開通した湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)、
昭和47年に開通した横浜市営地下鉄ブルーライン、昭和48年に開通したJR根岸線が区民の足となり、
道路としては、昭和54年開通の横浜横須賀道路(国道16号バイパス道路)、
横浜市内環状2号、3号が区民の方々げ便を供して居ります。

2 横浜市港南区の軌跡
横浜市港南区の地域は鎌倉街道沿いの農村が散在する地域であり、
港南の地域の南北に武蔵国久良岐郡と相模国鎌倉郡の国境が走って居りました。
明治に入りそれぞれ神奈川県久良岐郡、鎌倉郡となり、
横浜市の市域拡張により横浜市に編入され中区となります。
昭和18年には中区から分区され南区となり、
そして、昭和44年分区して現在の港南区となりました。
港南地区も1859年の横浜開港と共に大きく変化して行きます、
それまでの米麦雑穀を中心とした作付から、市街地向けの野菜や養蚕へと、
更にはジャガイモやバイスケざる(竹で編んだ大ざる、土砂や石炭の運搬に使用)などが生産されます。
又、新しい産業として花の栽培が始まり、
一面のお花畑にキク、ユリ、シャクヤク、スイセン、キンセンカ等が栽培され、
カーネーション、バラの温室栽培も始まりました。
昭和8年には上大岡に港南花市場も開設されます。
大正12年に発生した関東大震災は港南地区の建物を壊滅させましたが、
その復興期には新たな産業も生まれました、上大岡の製陶業・大岡川流域の捺染業などです。
特に捺染業では、絹の“横浜スカーフ”等が有名でした。
昭和11年には横浜刑務所が根岸から現在地に移転して来ました。
戦後は交通路の発達に伴い野庭団地(昭和38年完)、港南台団地(昭和41年完)完成し、
人口が急増して田薗都市から現在の住宅都市へと変化しました。

3 横浜市港南区での葬儀
横浜市港南区でご葬儀をお考え方区民の皆様には、
公営の葬儀式場をご希望であれば、隣接する金沢区内に横浜市南部斎場が御座います。
横浜市南部斎場は横浜市営の葬儀式場で、葬儀式場と火葬炉が併設されて居り、
駐車場も十分なスペースを持ち、お車でご来場のご会葬の方々にも大変便利な葬儀式場です。
電車でご来場の場合は京浜急行金沢文庫駅よりタクシーで15分から20分の距離となります。
ご自宅周辺でのご葬儀をご希望の場合は、港南区内に御座います港南会館(私営)他の葬儀式場を
ご葬家様のご事情に合せてひかりの杜よりご紹介させて頂きます。
ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は、全て宗教、ご宗派に係わらずご利用頂く事が可能です。
この場合の火葬場としては横浜市南部斎場、横浜市久保山斎場(市営 西区)、
横浜市戸塚斎場(市営 戸塚区)等がご利用頂けます。
又、仏式のご葬儀がご希望で菩提寺が遠方等の為ご導師様のご都合が付かない場合は
ひかりの杜よりご紹介させて頂く事も可能です。
ご希望の宗派の僧侶を責任を持って紹介させて頂きます。
神道、新宗教、キリスト教他の宗教者もご紹介する事が可能です。
ひかりの杜ではご葬儀の式典に利用する祭壇として花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。
祭壇で使わせて頂いたお花は全て故人様のご遺体を飾る花としてお柩に納めさせて頂きます。
又、故人様を偲び、故人様のお好きだったお花で、お好きなデザインの祭壇を御造りする事も可能です。

4 横浜市港南区あれこれ
横浜市港南区の区の花は昭和54年に“ひまわり”“キキョウ”“アジサイ”の三花と制定されました。
ひまわりは明るく伸び伸びと栄える様に、キキョウは自然を大切に、
アジサイは寄り添う小さな花びらの集まりを区民の和、との願いを込めて制定されました。
この三花ともに特徴を持つ花であり、
ひかりの杜でお飾りする花祭壇のアクセントとして利用させて頂く事も多々御座います。
港南区の見どころとしては、
自然を楽しむ施設として四季の花と緑が楽しめる港南桜道 ホタルも楽しめる港南萩久保公園、
名所・古跡としては茶釜伝説のある東樹院、1099年創建の春日神社、縁日には屋台の店が楽しめる日限地蔵尊、
港南のこだわりとして捺染技術が見られる吉原産業捺染工場
フリーマーケットが楽しめる港南台テント村等が御座います。
今回は以上です。
横浜市栄区での葬儀
横浜市栄区は横浜市内の南部に位置し、南側を鎌倉市と接する、人口12万人 5万世帯が居住する、
区の花を“きく”と制定した、緑豊かな丘陵地を開発した住宅都市です。
横浜市栄区は昭和61年戸塚区の一部が分区されて誕生しました。
栄区の名称は公募により“新しい区として未来に向けて大きく栄える”事を祈念して命名されました。
栄区内には東西にいたち川、西側を南北に柏尾川が流れ、それを中心とした農村地帯でありましたが、
昭和40-50年代に掛けての大規模な住宅地開発により住宅都市となり、
現在は緑豊かな生活文化都市として発展を続けて居ります。

1 横浜市栄区の交通機関
横浜市栄区内の交通機関としては、JR根岸線が区民の足となり、
道路としては、県道21号線(横浜鎌倉線 旧鎌倉街道)、県道23号線(原宿六浦線)が便を供して居ります。

2 横浜市栄区の軌跡
横浜市栄区の地域では3万年前の頃から人が居住していたと考えられ、
1万年前の縄文式土器の時代の公田遺跡からは桂台式土器も出土して居ります。
桂台式土器(かつらだいしきどき)は東北地方を中心に出土した土器ですが、
最初に栄区公田町桂台より出土した事から名付けられました。
飛鳥・平安時代には相模国鎌倉郡尺戸郷として豊な水田地帯でした。
鎌倉時代に入り、鎌倉に幕府が建てられるとこの地は幕府東方警備の為の重要な拠点となります。
従いまして、栄区には鎌倉時代の史跡が多く残されて居ります。
鎌倉時代を除いては、栄区地域は永らく鎌倉街道沿いの農村が営まれて居りました。
明治22年栄区地域は市町村制度制定により、神奈川県鎌倉郡本郷村、豊田村、長尾村となります。
昭和13年には第一海軍燃料廠が設立され、昭和14年には横浜市と合併して戸塚区が誕生します。
この燃料廠の地は昭和20年から42年までの永きに渡って米軍に接収され栄区地域開発の妨げと成りました。
昭和45年には神奈川県警警察学校が開校します。
昭和48年にはJR根岸線が開通し、本郷台駅が開業します。
この開業に前後して栄区内の丘陵地に公田団地、飯島団地、県営住宅、市営住宅等が数多く造成され
人口も急増して現在の栄区が出来上がります。
尚、昭和14年の横浜市編入時の栄区地域の人口は7千人でした。

3 横浜市栄区での葬儀
横浜市栄区でご葬儀をお考え方の区民の皆様には
公営の葬儀式場をご希望であれば隣接する金沢区内釜利谷に横浜市南部斎場が御座います。
南部斎場は横浜市営の葬儀式場で、葬儀式場と火葬炉が併設されて居り、
駐車場も十分なスペースを持ち、お車でご来場のご会葬の方々にも大変便利な葬儀式場です。
電車でご来場の場合は京浜急行金沢文庫駅よりタクシーで15分から20分の距離となります。
もし、ご自宅周辺でのご葬儀をご希望の場合は、栄区内に御座います寺院会館(私営)の葬儀式場を
ご葬家様のご事情に合せてひかりの杜よりご紹介させて頂きます。
ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は全て宗教、ご宗派に係わらずご利用頂く事が可能です。
この場合の火葬場としては、横浜市南部斎場、横浜市久保山斎場(市営 西区)、
横浜市戸塚斎場(市営 戸塚区)等がご利用頂けます。
仏式のご葬儀がご希望で、菩提寺が遠方等の為ご導師様のご都合が付かない場合は
ひかりの杜よりご紹介する事も可能です。
ご希望の宗派の僧侶を責任を持って紹介させて頂きます。
又、 神道、新宗教、キリスト教、他の宗教者もご紹介する事が可能です。
ひかりの杜ではご葬儀の式典に利用する祭壇として花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。
祭壇で使わせて頂いたお花は全て故人様のご遺体を飾る花としてお柩に納めさせて頂きます。
又、故人様を偲び、故人様のお好きだったお花で、お好きなデザインの祭壇を御造りする事も可能です。

4 横浜市栄区あれこれ
横浜市栄区の区の花は、平成3年の区政5周年の際に公募により“きく”と制定されました。
キクの花言葉は、高貴・高潔・高尚ですが、
ひかりの杜では白菊を基本に荘厳な祭壇を作らせて頂き、随所に赤や黄の菊を交えて祭壇のアクセントとして
利用させて頂く事も多々御座います。
横浜市旭区の見どころとしては、自然に親しむ場所として宿泊・バーベキューも可能な上郷森の家
横浜自然観察の森、飯島市民の森、いたち川プロムナードと桜並木 他が、
古跡としては、7世紀に建立されたとされる光明寺、1335年建立の玉泉寺、いぼとり地蔵尊、
遺跡として七石山横穴墓群等が御座います。
今回は以上です。
横浜市泉区での葬儀
横浜市泉区は横浜市内の南西部に位置し境川を挟んで大和市と藤沢市に接する、人口15万・6万世帯が居住する、
区の花を“あやめ”と制定した、緑豊かな農業と住宅の街です。
昭和61年戸塚区の一部が分区して誕生しました。
泉区の地名は、その中心となる和泉町を基に、
公募により泉が湧き出る様に若い活力を生み出しながら発展する街を願い命名されました。
又、泉区は市街化区域の割合が最小で、耕地面積は最大の区であり、
“ゆめはま2010プラン”ではやすらぎと潤いあふれる田薗文化都市と位置ずけられ開発が進められて居ります。

1 横浜市泉区の交通機関
横浜市泉区内の交通機関としては、
平成11年に延伸した相模鉄道いずみの線と横浜市営地下鉄ブルーラインが区民の足となり、
道路としては県道22号横浜伊勢原線(通称 長後街道)
と横浜市内環状4号線が区民の方々に便を供して居ります。

2 横浜市泉区の軌跡
横浜市泉区では旧石器時代の遺跡も発掘されて居り、1万年前には人の居住が確認され、
平安時代後期には水田が営まれていたと考えられる古い歴史を持つ街です。
平安時代には相模国鎌倉郡84ケ村の一部でした。
鎌倉時代には、鎌倉七切通しの西の道(上の道)が泉区内を通って居りました。
明治の廃藩置県により神奈川県鎌倉郡となり、
明治22年の町村合併により鎌倉郡中川村と中和田村に統合されます。
昭和14年横浜市に編入され戸塚区の一部となります。
そして、昭和61年中川地区と中和田地区の岡津・新橋両町が分区して泉区と成りました。
泉区は境川と和泉川が南北に、北側を阿久和川、東側を宇田川と4本の川が流れ、
台地の辺縁には湧水が分布する、地下水脈に恵まれた土地で、古くは水田・野菜耕作の農業が、
明治に入ってからは養蚕が盛んとなる街でした。
昭和に入り、戸塚駅を中心として建てられた軍需・民間工場の社宅として、
戦争末期には疎開地として、戦後は戸塚を中心とした宅地化により人口は増加を続け、現在の泉区となります。

3 横浜市泉区での葬儀
横浜市泉区でご葬儀をお考えの泉区民の皆様には
公営の葬儀式場のご利用をご希望であれば最寄の葬儀式場として横浜市戸塚斎場が御座います。
横浜市戸塚斎場は戸塚区鳥が丘に位置する横浜市営の葬儀式場で火葬炉も併設されて居り、
葬儀式場から火葬場への移動に交通手段を必要としない、泉区民の方々にもご利用し易い葬儀式場です。
横浜市戸塚斎場の最寄駅としては、
市営地下鉄踊場駅4番出口、JR戸塚駅西口、相鉄線弥生台駅が御座います。
踊場駅からは徒歩15分、戸塚駅西口・弥生台駅からはタクシーで10分です。
横浜市戸塚斎場の式場予約が混雑している場合は、
少々遠方にはなりますが横浜市北部斎場(緑区 火葬場併設)、
横浜市南部斎場(金沢区 火葬場併設)もご利用頂けます。
又、お通夜・ご葬儀をご自宅近くでの施行をご希望であれば、
私営の式場で通夜・ご葬儀を行い、ご火葬を市営火葬場で行う事も可能です。
ひかりの杜ではご要望に合わせた葬儀式場をご紹介させて頂きます。
ひかりの杜がご紹介する葬儀式場は全て宗教・ご宗派を問わずご利用頂けます。
この場合の火葬場といたしましては、
横浜市戸塚斎場か横浜市久保山斎場(市営 西区 火葬炉のみ)をご利用頂くのが便利かと考えます。
尚、仏式のご葬儀をお考えで、菩提寺が遠方等の為、ご導師のご都合が付かない様な場合は
僧侶をひかりの杜より紹介させて頂く事も可能です。
何れのご宗派の僧侶でも責任を持って紹介させて頂きます。
又、ひかりの杜では、神道の神官、カトリックの司祭様、プロテスタントの牧師様、
他の宗教の宗教者もご紹介する事は可能です。
ひかりの杜ではご葬儀の式典でお使い頂く祭壇は花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。
ご利用頂いた花祭壇のお花は全て故人様のご遺体をお飾りしてお棺の中にお納め致します。
又、故人様を偲び、故人様が好きだったお花を、お好みのデザインで祭壇とする事も可能です。

4 横浜市泉区あれこれ
横浜市泉区の区の花は、平成4年区制5周年を記念して公募により
水と緑をイメージした“あやめ”と制定されました。
あやめの花言葉は“良き便り”、“吉報”ですが、
季節となる5月-7月には花祭壇の周囲を飾るアクセントのお花として使わせて頂く事も御座います。
泉区の見どころとしては、
名所古跡として日蓮宗別格本山の本興寺、下飯田村の村社だった飯田神社、1526年建立と言われる日枝神社、
桜の美しいいずみ桜広場、自然が豊かな天王森泉公園、いずみ歌舞伎等が御座います。
今回は以上です。
横浜市瀬谷区での葬儀
横浜市瀬谷区は横浜市内の西端に位置し、人口12万人 5万世帯が居住する、
“アジサイ”を区の花と制定した、農業、宅地、そして米軍通信隊の街です。
横浜市瀬谷区には南北に5本の川が流れ、その肥沃な農地を基に米と布を産する街ですが、
第二次世界大戦終戦後、瀬谷区の15%の土地は2015年6月30日まで
米軍に接収され極東アジアの通信基地として使用されて居りました。
瀬谷区は昭和44年戸塚区の一部が分区されて誕生しました。
瀬谷区の名称は、古くより使用されていた瀬谷村から命名されました。
瀬谷の語源は狭谷(せや)で、狭い川瀬の小谷のある地、が地名に由来と言われて居ります。
(世野との説も有ります)。

1 横浜市瀬谷区の交通機関
横浜市瀬谷区の交通機関としては、大正15年開通の神中鉄道(現在の相模鉄道)が区民の足となり、
道路としては、国道246号線、国道16号線、横浜市内環状4号線が区民の方々へ便を供しております。
そして、区内では有りませんが、東名高速道路横浜町田ICには隣接して居ります。

2 横浜市瀬谷区の軌跡
横浜市瀬谷区の歴史は古く、2万年前の旧石器時代の遺跡が2ケ所、縄文時代の遺跡が50ケ所、
弥生時代の遺跡が9ケ所、古墳時代の遺跡が25ケ所 瀬谷区内で発掘されて居り、
出土品の一部は東京国立博物館にも収められて居ります。
鎌倉時代には、鎌倉街道の追分(分岐点)として上瀬谷、中瀬谷、下瀬谷で構成されて居り、
江戸時代には中原街道が通り、問屋場が設けられて将軍家のお鷹場も有りました。
明治となり、この地区には瀬谷村、宮沢村、阿久和村、二ツ橋村が有りましたが、
明治34年の町村合併により鎌倉郡瀬谷村と鎌倉郡中川村となります。
この2村が昭和14年横浜市戸塚区に編入されます。
そして、昭和44年分区され現在の瀬谷区となりました。
瀬谷地区では明治中期から昭和30年頃まで養蚕が盛んで、
養蚕農家の為の金融機関瀬谷銀行(後に鎌倉銀行に吸収)も設立されて居ります。

3 横浜市瀬谷区での葬儀
横浜市瀬谷区でご葬儀をお考えの瀬谷区区民の皆様には
公営の葬儀式場のご利用をご希望の場合は、お近くでは横浜市北部斎場(緑区)が御座います。
横浜市北部斎場は東名高速横浜町田ICに隣接し、葬儀式場と火葬場を併設した、
葬儀式場-火葬場間の移動手段を必要としない、
ご利用頂いたご葬家様・会葬者の皆様方に好評を頂いている葬儀式場です。
横浜市営斎場の中では唯一シャワー設備を備え、
昨今の暑い夏季でも通夜をお過ごしのご遺族様にはご利用し易い控室が用意されて居ります。
駐車スペースは十分取られて居り、お車で来場の方々には大変便利な葬儀式場です。
電車ご利用の場合の最寄駅は
バス利用であればJR横浜線十日市場駅(所要7分)、
タクシー利用であればJR横浜線長津田駅(所要8分)と成ります。
又、隣接する大和市の大和市営大和斎場を区民外でご利用する事も可能です。
お通夜・ご葬儀の施行をご自宅近くでとお考えのご葬家様には
ひかりの杜よりご希望に合わせて葬儀式場をご紹介させて頂きます。
ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は
仏式・神道・キリスト教・他のいずれの宗教でも ご利用頂く事が可能です。
その場合の火葬場と致しましては
横浜市北部斎場、横浜市久保山斎場(西区 保土ヶ谷バイパス利用)等がご利用頂けます。
又、信仰される宗教のお寺・教会が遠方等で宗教者の方のご都合が付かない場合はひかりの杜へお申し付け下さい。
ひかりの杜では責任を持ってご希望される宗教者を紹介させて頂きます。
ひかりの杜ではご葬儀の式典でご利用される祭壇を花祭壇でお薦め致して居ります。
花祭壇でお飾りしたお花は全てご葬儀後 故人様のご遺体をお飾りしてお柩の中にお納めさせて頂きます。
又、このお花を忌中祭壇のお飾りとしてお持ち帰り頂く事も可能です。
花祭壇では、故人様をお偲びし、故人様がお好きだったお花を、ご希望のアレンジでお創りする事も可能です。

4 横浜市瀬谷区あれこれ
横浜市瀬谷区の区の花は、昭和59年区制15周年を記念して行われた瀬谷区民の人気投票により
“アジサイ”と制定されました。
その花言葉は“辛抱強い愛情”、“一家団欒”などです。
ひかりの杜では、区の花を祭壇に使わせて頂く事もしばしばで、
季節となる6月7月には白菊の中にアジサイを入れて祭壇のアクセントとして利用させて頂く事も御座います。
瀬谷区の見どころとしては、
桜並木として、通信基地内の海軍道路、三ツ境駅前の野境道路、和泉川土手などが御座います。
古跡として鎌倉時代に鋳造されたとされる鐘を持つ妙光寺、968年に創建されたとされる熊野神社。
そして、瀬谷の風土や農村生活を体験出来る長屋門公園、瀬谷の自然に親しむ瀬谷市民の森等が御座います。
今回は以上です。
横浜市旭区での葬儀
横浜市旭区は横浜市内の中央西側に位置し、人口25万人・10万世帯が居住する、
“あさがお”を区の花と制定した、横浜中心部や京浜工業地帯に勤務する方々のべツドタウンとなる街です。
横浜市旭区は第二次世界大戦終了後、相模鉄道の沿線で始まった宅地開発と、それに伴う人口の激増により、
昭和44年保土ヶ谷区の一部を分区して誕生しました。
旭区の名称は公募により、他の区名と紛らわしく無く字画が少なく明瞭な区名と言う事で命名されました。
そして、旭区内には古くより神奈川県運転免許試験場、県立ガンセンタ-、県立公文書館などが所在し、
県行政の一助を担って居ります。
尚、横浜市内で平均年齢の最とも高い区でも御座います。

1 横浜市旭区の交通機関
横浜市旭区の交通機関としては、
大正15年・厚木-二俣川間で開業した神中鉄道(現在の相模鉄道、二俣川-横浜間の開通は昭和8年)
と昭和51年に開通した相模鉄道いずみの線が区民の足となります。
主要な道路は国道16号線(その一部は保土ヶ谷バイパス)と横浜市内環状2号が区民へ便を供して居ります。
尚、道路の整備率はまだ十分では有りません。

2 横浜市旭区の軌跡
横浜市旭区の歴史は古く、7世紀に制定された武蔵国都筑郡の一部であり、
鎌倉時代には、この地で鶴ヶ峰の乱(1205年)が起こり、勇将畠山重忠が討死して居ります。
明治4年の廃藩置県により神奈川県都筑郡となり、
明治22年の市町村制施行によりこの地は都岡町と二俣川町に統合されます。
昭和14年には横浜市に編入され、保土ヶ谷区の一部となります。
昭和21年には鶴ヶ峰に県営の住宅が建築され、その後40年代まで宅地の開発、団地の造成が進みます。
そして、人口の激増に伴い、昭和44年保土ヶ谷区より分区して現在の旭区の形が出来上がります。
旭区は横浜中心部まで7Km、東京都心まで31Kmと通勤、通学には便利な距離の街です。
尚、旭区は公園面積は市内2位、病院一般病床数 市内2位の街でも御座います。

3 横浜市旭区での葬儀
横浜市旭区での葬儀をお考えの旭区区民の皆様には
公営の葬儀式場のご利用をご希望の場合は、お近くでは横浜市北部斎場(緑区)が御座います。
横浜市北部斎場は東名高速横浜町田ICに隣接し、
葬儀式場と火葬場を併設した、葬儀式場-火葬場間の移動手段を必要としない、
ご利用頂いた ご葬家様・会葬者の皆様方に好評を頂いている葬儀式場です。
横浜市営斎場の中では唯一シャワー設備を備え、
通夜をお過ごしのご遺族様には ご利用し易い控室が用意されて居ります。
又、駐車スペースも十分取られて居り、お車で来場の方々には大変便利な葬儀式場です。
電車ご利用の場合の最寄駅はバス利用であればJR横浜線十日市場駅(所要7分)、
タクシー利用であればJR横浜線長津田駅(所要8分)と成ります。
お通夜・ご葬儀の施行をご自宅近くでとお考えのご葬家様には
ひかりの杜より、旭斎場(私営)、浄願寺会館 他 ご希望に合わせてご紹介させて頂きます。
ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は、
仏式・神道・キリスト教・他のいずれの宗教でもご利用頂く事が可能です。
信仰される宗教のお寺・教会が遠方等で宗教者の方のご都合が付かない場合は ひかりの杜へお申し付け下さい。
ひかりの杜では責任を持ってご希望の宗教者を紹介させて頂きます。
ひかりの杜ではご葬儀の式典でご利用される祭壇を花祭壇でお薦め致して居ります。
花祭壇でお飾りしたお花は、全てご葬儀後故人様のご遺体をお飾りしてお柩の中にお納めさせて頂きます。
このお花を忌中祭壇のお飾りとしてお持ち帰り頂く事も可能です。
花祭壇では故人様をお偲びし、故人様がお好きだったお花を、ご希望のアレンジでお創りする事も可能です。

4 横浜市旭区あれこれ
横浜市旭区の区の花は、平成元年区制20周年を記念して、旭区民の公募により“アサガオ”と制定されました。
その花言葉は“愛情”、“かたい絆”です。
ひかりの杜では区の花を祭壇に使わせて頂く事もしばしばですが、
残念ながらアサガオの花は開花が朝のみの為、祭壇でのご利用は出来ません。
旭区の見どころとしては、毎年6月22日に畠山重忠の慰霊祭を行う薬王寺、
源義家、頼朝が尊崇したと言われる不動明王を本尊とする白根神社(白根不動とも通称される)、
木造大日如来坐像(室町時代の作)を本尊とする長源寺、
源氏ほたるが見られるこども自然公園、四季折々のお花が見られる追分市民の森、
そして、よこはま動物園ズーラシア等が御座います。
今回は以上です。
横浜市緑区での葬儀
横浜市緑区は横浜市内中央北側に位置し、人口18万人 7万世帯が居住する、
区の花をシラン(紫蘭)と制定した、区内の山林・公園の緑・農地が52%を占める緑の多い街です。
横浜市緑区は中央を鶴見川が西から東に向かって流れ、その南側は丘陵地で宅地として利用され、
北側はIR横浜線鴨居駅と中山駅を中心として工業団地を持ち、それ以外を農地とした街で、
昭和44年に港北区より分区して誕生しました。
緑区の名称は分区の際に公募により、緑の美しい街との願いを込めて命名されました。
又、緑区の梨畑では浜なしと呼ばれる独自ブランドが育成されて居ります。

1 横浜市緑区の交通機関
横浜市緑区の交通機関としては、明治41年開通の横浜鉄道(現在のJR横浜線)、
昭和41年開通の東急田薗都市線、そして横浜市営地下鉄グリーンラインが区民の足となります。
道路としては、昭和44年開通の東名高速道路(横浜町田IC)
一般道として国道246号線、国道16号線、横浜市内環状4号線が便を供して居ります。
但し、緑区内は都市計画道路整備率が低く、区内幹線道路の整備が求められて居ります。

2 横浜市緑区の軌跡
横浜市緑区の地域は、古くは武蔵国都筑郡の農村が散在する主として山林でした。
江戸時代に入り東海道の脇街道として中原街道が造られ、更に大山参りの流行と共に大山街道が整備され
長津田宿が宿場町として繁栄します。
明治に入って後は横浜鉄道沿線の農村地帯となります。
昭和14年都筑郡の主要部は横浜市に編入され港北区となります。
そして、昭和44年の行政区再編成により港北区より分区して緑区となります。
更に平成6年の行政区再編成により青葉区と都筑区が分区して現在の緑区となりました。
尚、緑区は東京工業大学、東洋英和女子学院大学、昭和大学、横浜商科大学、
横浜創英短期大学のキャンパスを持つ学園都市でもあります。

3 横浜市緑区での葬儀
横浜市緑区で葬儀をお考えの区民の方々には、
ご利用頂ける区内の葬儀式場・及び火葬場として横浜市営の横浜市北部斎場が御座います。
北部斎場は東名高速道路横浜町田ICの裏手に位置し、十分な駐車スペースを持ち、
ご利用頂いたご葬家 ご会葬の方々からご好評を頂く葬儀式場でもあります。
最寄駅はバス利用でしたらJR横浜線十日市場駅より所要7分、
タクシ-利用であればJR長津田駅より所要8分です。
又、北部斎場の葬儀式場予約が多く ご希望の日程で予約出来ない場合は
ひかりの杜より、大林寺会堂・他の私営葬儀式場をご紹介させて頂き、
お通夜・ご葬儀は私営式場で、ご火葬は横浜市北部斎場で執り行う事も可能です。
尚、ひかりの杜よりご紹介させて頂く葬儀式場は宗教・ご宗派に係わらずご利用頂けます。
又、仏式でのご葬儀をご希望で菩提寺が遠方等の為、ご導師のご都合が付かない場合は
ひかりの杜より信仰されるご宗派の僧侶をご紹介する事も可能です。
ひかりの杜では神道のご神官、キリスト教の司祭様・牧師様、他の宗教の宗教者も紹介させて頂いて居ります。
ひかりの杜では ご葬儀の式典でご利用される祭壇は花祭壇のご利用をお薦め致して居ります。
花祭壇のお花は全て故人様をお見送りする花として、お棺のご遺体を飾らせて頂き居ります。
又、故人様をお偲びし 故人様のお好きだったお花でお好みのアレンジをした
花祭壇をお創りする事も御座います。

4 横浜市緑区あれこれ
緑区の区花は平成6年に青葉区が分区された記念として“シラン”(紫蘭)と制定されました。
シランの花言葉は“美しい姿”ですが、この美しい紫のお花は厳かな白い花祭壇の良いアクセントとなります。
緑区内の見どころと致しましては 緑を楽しむ公園として
県立四季の森公園、三保市民の森、新治市民の森、鴨井原市民の森 他多くの公園が御座います。
神社仏閣として558年創建の鴨井杉山神社、大石神社、1449年創建の林光寺、
桜や四季の花々が楽しめる萬蔵寺(まんそうじ)など。
又、四季おりおりの風景や夏の蛍が楽しめる新治里山交流センター、
JSAT横浜衛星管制センターなども御座います。
今回は以上です。