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臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 臨終とは 人が生命活動をを終える間際の時期を言い、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語です。古くから 人が必ず迎えなければならない 臨終という 危機的な時期を巡って 人は死をどう受入れるべきか、人の死をどう看取るべきか 様々な習慣と文化が生み出されて来ました。

 死を迎える事の意味を説いた古い文献としては エジプトやチベットで作られた ”死者の書”が有名です。又 西ヨーロッパに於いては 中世末期に ”往生術”として 臨終を迎える人の為の心得を書いた文献が出され、その手引書では 死の身取り手は臨終者に対して 回復するかも知れないと言う幻想を与えてはならず、臨終者が死を自然に受け入れられる様 出来るだけの手助けをすべきであると解説しています。

 インドの仏教に於いては 祇園精舎の北西の一部に無常院を作り 病人や死を迎える人々を受入れたとあります。その後 中国 唐代の僧侶 道宣は 無常院の堂内では 仏の立像が西方に向いて安置され その像手に五色の布をかけ その布を後ろに垂らし 背後に横臥した死を迎える人々はこの布を持って往生を祈願した と説いています。又 看病人は ともに念仏を唱えて 往生を助けなければ成らないとも説いています。日本の仏教に於ける 臨終の作法、習慣は これらを基にして作り上げられました。

 ご臨終は ご本人にとっては勿論、近親者にとっても大切な時です、最後の看取りがきちんと行えるかは 近親者の後のお心にも影響を与えるからです。ご本人が安らかに最後の時がお迎え出来る様、ご家族の方は 医師とも十分なコミュニケーションを図り、ご本人が会って於きたい方々を手配して 安らかなご臨終をお看取りしたいものです。

   今回は以上です。

枕経

 今回は枕経に付いて書かせて頂きました。

 枕経(まくらきょう)とは 仏教の行儀で 本来は 死に際にある方が不安にならぬ様 本人の枕元で 死を看取りながらお経をあげる事です。現在では 病院で亡くなる事が多く ご逝去の後 ご遺体を自宅に安置した上で行う 死後の儀式と成りました。ご宗派により 枕経を行わない場合もあります。

 ご葬家が仏式の場合 ご遺体を自宅の仏間、あるいは座敷に敷いたお布団の上に安置し、ご遺体の枕元に枕飾りを設営します。その上で壇那寺に故人様のご逝去をお伝えし 僧侶に来て頂いて 読経をして頂きます。壇那寺が遠方の場合は 壇那寺より紹介を受けて 近隣の僧侶にお願いをする場合もあります。

 枕経は 故人様に対して読経を聞かせると言う考え方や ご仏壇の内仏やご本尊に向かって読経すると言う考え方など ご宗派により考え方が異なります。真言宗では ご遺体の前に枕飾りを設け、僧侶が故人様へ末期の水を行い、印を結び、読経します。その際 枕元には不動明王の掛け軸を掛ける慣わしとなって居ります。曹洞宗の場合は 枕元に置いた机の上に ロウソク、線香、四華花を お供えして読経します。浄土宗では枕経の間に剃髪、授戒を行います。浄土真宗では亡くなった方を御縁として御本尊に向けて読経されます。

 枕経を上げて頂くときの 衣裳は喪服である必要なく、通常の衣服を整えて出れば良いとされて居ります。枕経の後に 葬儀の次第、その他を僧侶とご相談されるのが良いでしょう。又 戒名をいただく為に 故人様の人柄やご希望も この機会にお話されるのが一般的です。

   今回は以上です。  

火葬の流れ

 ご火葬に付きましては以前 何度か書かせて頂きましたが 今回は別の観点で書かせて頂きました。

 ご火葬の流れは 火葬場到着-火葬炉前での読経・ご焼香-ご火葬中の待機-ご拾骨-ご自宅へのお帰りと成ります。

 霊柩車が火葬場に到着致しますと 火葬場担当者が操作する お柩台車が用意され お柩を台車にお乗せし、炉前へと運ばれます。横浜市営の斎場をご利用頂く場合は 式場と火葬炉は隣接して居り 霊柩車は必要有りません、式場入口より お柩台車で火葬炉前までお運びする事となります。

 火葬炉前では ご遺族による最後のお別れの後に お柩は火葬炉内に移され ご火葬が始まります。そして 炉前で 僧侶による読経、ご焼香と続きます。ご火葬は一時間前後の時間を必要と致しますので ご遺族は控室にお移り頂いて お待ち頂く事と成ります。ここでお帰りになる方と 拾骨を待つ方とに分かれる事も御座います。

 このご待機の時間では 茶菓でお持て成しするのが一般的です。尚 横浜市営斎場の場合はご火葬後の式場利用が許されていない為、ご葬儀・告別式の後に初七日法要も合わせて執り行い、このご待機の時間を利用して 初七日法要後のお斎の席を設ける事として居ります。

 荼毘が終了致しますとご拾骨となります。火葬場からの連絡に従い ご遺族は控室から拾骨室へ移動します。その後は火葬炉担当者の指示に従い 二人一組でご遺骨の一つを拾い お骨壺に納めます。ご遺族間で一通り 周りました後は 残ったご遺骨は担当者が全てお骨壺に納めてくれます。お骨壺は桐の箱に納められ、埋葬許可証と共にご遺族に戻されます。

 ご火葬場からの帰路は 往路と同じ道を通ってはいけないと言う習俗が御座います。これは 昔 ご遺体を墓地に埋葬した後 死霊が追いかけて来ても 迷って道がわからない様にする為 道を変えた名残と言われて居ります。

   今回は以上です。

法要とは

今回は法要に付いて書かせて頂きました。

 法要とは 仏教に於いて 釈迦の教えを 仏法と言いますが、その仏法の要点・肝要を知る事を指します。それが 時代の流れと共に変化し 仏教行事の中の 儀式祭礼(法事・仏事・法会など)全般を指すようになりました。更に 日本に於いては 追善供養 即ち 死者を弔う儀式を指す様に成りました。法事、仏事とも言います。尚 供養以外に、寺の創立記念、堂宇の完成記念、仏像の開眼などの慶事も含みます。

 日本民族は 法要(死者供養)を大切にして来た民族であると言えます。供養には まず 中陰の間に行う 七仏事(初七日、ふた七日、み七日、よつ七日、いつ七日、むつ七日、ひちひち日)が有り、これはインドを起源として居ります。七仏事が中国に伝わり 百ヶ日、一周忌、三回忌が加わり 十仏事と成りました。更に 日本に於いて 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり 近世に十七回忌、二十五回忌が加わって 十五仏事と成り 現在に至ります。そして 地域によりましては 二十三回忌や二十七回忌を営む場合も御座います。又 五十回忌、そして五十年毎に営まれる遠忌が有りますが これは 宗派の祖師等に限り営まれます。

 以上の他に 祥月命日(故人様の命日、年一回)、月忌(月命日、年十一回)が有り、その他 春・秋のお彼岸と お盆が御座います。この様に日本に於きましては 遺された方は 生ある限り 故人様との関係を維持して行こうと言う 文化が長い時間をかけて作られて参りました。

 日本では古くから 三十三年、あるいは五十年をもって 死者は個性を失い 祖霊(先祖)に成ると考えられて来ました。故人様の法要も三十三回忌をもって ”弔い上げ” となります。ご仏壇から 戒名を書いたご位牌を下げ、”〇〇家先祖の霊”のご位牌に霊をお移しします。

   今回は以上です。

十王信仰

今回は十王信仰に付いて書かせて頂きました。

 十王信仰とは 中国の道教や仏教の教えで、十仏事を何故 営むのかの 前提となる信仰です。人間を始めとする衆生は 没後には中陰と言われる存在となり 節毎に十回 異なる王の審判を受けて六道の何れかに置かれ、最終的には 供養と徳を積んだ者は 極楽浄土へ、供養と徳の至らぬ者は地獄へ 行かねばならないと言う 冥界思想(他界思想)です。

 初七日には 秦広王(本地 不動明王)の審判を受け、行方の定まらない者は三途の川を渡ります。ふた七日には 初江王(本地 釈迦如来)の審判を受け ここでも定まらなければ、み七日には 宋帝王(本地 文殊菩薩)、よ七日には 五官王(本地 普賢菩薩)、いつ七日には 閻魔王(本地 地蔵菩薩)、む七日には 変成王(本地 弥勒菩薩)、なな七日(四十九日)には 泰山王(本地 薬師如来)の審判を受け この王の下で 六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何れかが決まるので 四十九日の追善供養は 特別懇ろに営まなければならないと説かれて居ります。これでも定まらない場合は 百ヶ日に 平等王(本地 観音菩薩)、ここでも定まらなければ 一周忌に 都市王(本地 勢至菩薩)、そして最後の審判は 三回忌の 五道輪転王(本地 阿弥陀如来)が行い 十分な供養がされて居れば 成仏出来るとされて居ります。

 以上の審判は 故人様の修功徳と、ご遺族様が執り行う 回向の功徳を判断して行うとされて居り、その比率は全体を七等分して 亡者に一分、生者に六分が割り振られると説かれて居ります。始めの七回で審理は決まりますが、その七回で決まらない場合は 追加の三回で決める事となります。俗には 閻魔王に対する信仰と 考えられる方が多く御座いますが、これは 閻魔王以外の各王の知名度が低かったせいでしょうか。

 この十王信仰は 中国より渡来し 平安末期に 仏教本来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透しました。又 日本に於いて 三途の川、賽の河原、奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)等が付け加えられ、江戸時代には 七回忌、十三回忌、三十三回忌が加えられ 十三王と成りました。

   今回は以上です。

中陰とは

今回は中陰に付いて書かせて頂きました。

 中陰(中有とも言います)とは 仏教におきまして 人が亡くなられてからの四十九日間を指し 死者があの世へ旅立つ期間であり、生から死 陽と陰の狭間に置かれているとの考えから 中陰と言います。但し 浄土真宗では 故人様はご逝去と共に成仏されるとの考えから 中陰期間は 故人様を追悼し、生と死を考え、謹慎して仏法を考える期間とされて居ります。

 仏教発祥の地である古代インドでは 人は輪廻転生すると考えられており、誕生の瞬間が生有、生きている間が本有、死の瞬間が死有、死んだ後 次の生を得る間の期間を中有 あるいは中陰と呼び、その期間は四十九日間であるとされました。ご臨終の日(命日)を含めて七日毎に法要を執り行い それを七週続けた四十九日目に 次の六道中の何れかの世界へ生まれ変わるかが決まると考えられて居りました。それが日本に伝わり、宗派により考え方が異なりますが 魂を清めて成仏する期間へと変化しました。尚 なぜ七日毎、七週なのかは 古代インドでは七進法が使われていたからです。

 この四十九日間は 死の穢れの最っとも強い期間であると考えられ、死の穢れを他に移さぬ様 ご遺族は謹慎して家に籠るものとされました。この期間を忌中と言い、四十九日の法要を終えると 忌明けとなり 日常生活に復帰します。又 その一方では 精神的な打撃を受けたご遺族が 日常の生活から離れて 心の痛みを癒す期間であり、七日毎の法要は 故人様を弔うと共に 周囲の人々がご遺族を思いやる時でも御座います。

 忌明け法要をもって精進落としとなり、中陰壇(後飾り)を片ずけ、白木の仮位牌を壇那寺へ返し、本位牌を仏壇にお納めします。

   今回は以上です。  

法事とは

 今回は前回とは異なる観点で法事(法要)に付いて書かせて頂きました。

 法事(法要)とは 十王信仰や十五王信仰を元にして営む 追善供養を指しており、その他に月命日、お彼岸、お盆の法要などが含まれます。

 まずは 中陰の間に営む 初七日から七七日まで の七回の法要が御座います。故人様がご逝去された日を一日目として 七日毎に営む法要ですが、現在では 初七日はご葬儀・ご火葬の後 同日に営むのが一般的と成りました。特に横浜市営の斎場をご利用頂く際は ご葬儀・告別式と合わせて ご火葬の前に初七日法要を営ませて頂いて居ります。これは ご参加頂く方が何度も足を運んで頂かなくとも良い様、又 斎場をより多くの方にご利用して頂く為で御座います。更に ふた七日から む七日までの 5回の法要はご家族だけで営み、僧侶 関係者をお呼びして営む事も少なく成りました。七七日(四十九日)は忌明けの法要と共に納骨 そして精進落とし を営まれるのが一般的です。法要の日取りは早めに 僧侶とご相談され ご出席頂く方々に ご案内状を出状して ご連絡されるのが良いでしょう。法要の日取りは ないがしろにしない と言う事で 正しい日取りより早い日に営む事が許されます。ご出席の方々のご都合を考え、早い日の日曜・祭日を選ぶのが良いでしょう。

 以降 百ヶ日、一周忌、三回忌と続きますが 日取りは七七日法要と同様に選び 営みます。尚 現在では 百ヶ日法要を営む事は無くなりました。

 ご法要に招待する方々の範囲に決まりは有りませんが 故人様との関係、ご家庭の事情を慎重に検討してお決め頂く事が良いでしょう。法要の会場は ご自宅、寺院、墓地霊苑の会場、料理屋、ホテル等 ご都合の良い会場をお選び頂けます。

   今回は以上です。

死亡広告

今回は死亡広告に付いて書かせて頂きました。

 死亡広告とは 故人様のご逝去を広く社会に伝える為の広告で 主として日刊新聞を利用します。その費用は 依頼する大きさ(スペース)と 依頼先の新聞社により異なります。又 死亡記事が御座いますが これは 新聞社が独自の判断で 著名人の物故を記事として掲載するもので 費用は発生致しません。

 死亡広告は ご遺族、或いは施主様のご希望により ご逝去の事実と 葬儀・告別式の 日時・場所を広く告知する事が目的です。通常は新聞の紙面にて 黒枠で囲まれますので 黒枠広告 とも言われます。広告内容に於ける 決まりは特に有りませんが 物故者の肩書、氏名、享年、葬儀・告別式の日程、場所、喪主、葬儀委員長(施主)などを記載します。供物・献花・香典を辞退する場合は それを明記します、何も書かない場合は お受けする前提となります。又 葬儀と告別式を別に行う場合は それも明記する方が良いでしょう。

 死亡広告は 各新聞社ともに 特別扱いとしており 希望掲載日の間際の申込みでも 極力 調整して掲載の努力をしてくれますが、あまりに急な場合は 紙面の確保が出来ない場合も御座いますので、なるべく早めの手配が必要です。

 死亡記事に付きましては 各新聞社とも 特定の 死亡記事書式を用意しており どなたでも新聞社に送る事が出来ます。記載するかどうかは新聞社の判断となります。掲載が決定すると 新聞社より内容確認の電話が入ります。

 尚 日本に於ける 最初の死亡広告は 1873年1月14日の 日新真事誌に掲載された 明治政府 外務少輔 上野景範氏 ご尊父の死亡広告とされて居ります。

   今回は以上です。

焼香の作法

今回は焼香の作法に付いて書かせて頂きました。

 焼香とは 仏教に於いて 仏や故人様に対して 香を焚いて拝む事を言います。焼香には 線香焼香と抹香焼香が有りますが、一般的には 抹香焼香をさし 通夜・葬儀・法要などでの 故人様との告別に使用されます。心身の穢れを取り除き、清浄な心でお参りする際の作法とされます。左手に数珠をかけ、右手の 親指、人指し指、中指の三本で 香をつまみ 香炉にくべます。

 焼香の作法は ご宗派により異なりますが 主としては以下の通りです。

天台宗; 焼香回数に付いて特に定めは有りません。

真言宗; 焼香三回、線香も三本立てます。身、口、意の三業を清めるとされます。

臨済宗; 回数に拘りません。

曹洞宗; 焼香二回、線香は一本。初回は香をつまみ額に押し戴いてから焚きます。二回目は押し戴かずに炊きます。初回を主香、二回目を従香と言います。

浄土宗; 特に定めは有りませんが一回から三回までの間で焼香します。線香も一から三本立てます。

日蓮宗; 焼香は三回、線香は一本立てます。

    以上の宗派では焼香の前に 香を額に押し戴きます。

真宗大谷派; 焼香は二回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

浄土真宗本願寺派; 焼香は一回、香は額に押し戴きません。線香は立てずに 折って寝かせます。本数の定めは有りません。

 以上の様に焼香の作法は宗派により異なります。ご葬家の宗派と ご会葬の方の宗派が異なる場合 以前はご葬家に合わせると言う考え方が有りましたが、信教の自由の観点から 会葬者の方のお気持ちを尊重するのが良いのではないでしょうか。特に 他の宗教の場合は 焼香を禁じている場合も御座います。又 会葬の方々が多数の場合は宗派に係わらず、焼香を一回に制限させて頂く場合も御座います。

   今回は以上です。

玉串奉奠の作法

 今回は神葬祭に於ける玉串奉奠(たまぐしほうてん)に付いて書かせて頂きました。

 玉串奉奠とは 神式のご葬儀に於いて 故人様を告別する為の玉串拝礼を指し、仏教の葬儀に於ける ご焼香に該当します。真榊の小枝に紙垂(しで)をつけたもの(玉串)を神前に捧げ 故人様が神の下に戻り 無事にご葬家の守護神になられる事を祈念致します。

 神社本庁編の ”神社祭式同行事作法解説” によれば 玉串を捧げる事(玉串拝礼)を 玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受ける為に祈念をこめて捧げるものである と説明されて居ります。

 玉串の由来は 天照大御神の天の岩戸隠れの際に 神々が行った祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだ との古事記の神話によります。その語源には 幾つかの説が有り、神前に手向ける為の手向串であるという本居宣長説、本来は木や竹の串に玉を着けたものであったので 玉串と称したと言う 平田篤胤説、真榊は神霊の宿る料であり 本来は 霊串(たまぐし)であると言う 六人部是香(むとべよしか)説等です。玉串は神霊を迎える依代であり 祀られる神と祀る人の霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であると言われます。

 玉串奉奠の作法は以下の通りです。

1 神職より玉串を受取ります。

   右手のひらを下に向けて玉串の下部を持ち、左手のひらを上に向けて上部を支えます。玉串は胸の高さに持ちます。神職は玉串を渡した後 小損(軽いお辞儀)をしますが、答礼の必要は有りません。

2 神前に立つ前に作法を行います。

   玉串を時計回りに回して 玉串を立てます。左手を右手と同じ位置まで下げ、玉串を手前に引いて 祈念を込めます。そして玉串を体から離して 右手を玉串に中ほどまで上げ 右手を手前に、左手を向こう側に動かして時計回りに回します。玉串の根元を神前に向け 左右の両手で持ちます。左足から一歩進み 玉串を玉串案(机)の上にお供えします。右足から一歩退き 神前で二拝、二拍手、一拝します。尚 二拍手は 両手を打つ寸前で止める しのび手により行います。

以上ですが 要点は 玉串は時計回りに回す事、玉串は一旦 立てて祈念を込める事の二点です。

   今回は以上です。

香典とは

 今回は香典に付いて書かせて頂きました。

 香典とは 仏式のご葬儀で 故人様の霊前に供える金品を指します。古くは 香奠と書き、故人様の霊前に香を供えると言う意味でした。その後 香・線香に代えて金品をお供えする様に成りました。本来の香奠は 奠の文字が当用漢字より外されて以降、典を当て字として使用するように成って居ります。

 香典は金銭、あるいは品物を 霊前にお供えする訳ですが、古くは品物 特に米や食料が主としてお供えされました、これを食料香典と言います。金銭香典は貨幣経済の発展と共に都市部を中心に普及しました。室町時代後期には武士が金銭香典をお供えしたとの記録が有ります。

 食料香典の由来は 農村部の地域共同体では ご葬家は 故人様の成仏を願い、贖罪する為の お布施として 人々に食事を振舞う習慣が一般的でした。古い記録では 葬儀の期間 地域の共同体の人々は 子供を含めて 自宅で食事をする事無く 葬家の振る舞いで過した、などと有ります。従いまして ご葬家では 多量の食物が必要となり、故人様との交わりの濃さに合わせて、親族香典、村香典、等が 米・野菜・酒などで提供され 貧富に係わらず、共同体の相互扶助により葬儀を執り行う事が出来ました。又 葬儀を出した時の香典帳は 長く保管して 他家の葬儀の際は その香典帳を参照して 見合った香典を包む習慣にもなって居りました。

 現在の金銭香典の相場は 近隣の方;3千―5千円、勤務先関係・友人;5千―1万円、一般親族;1万―3万円、兄弟姉妹;3万ー5万円、父母;5万―10万円位となります。伝統的な禁忌としては 奇数は陽数であり、偶数は陰数として 金額や紙幣の枚数では偶数を避ける様にといわれて居ります。しかしながら 現在では 1万円の次が3万円では その差が大き過ぎると言う事で 2万円と言う金額も使用される様にも成って居ります。

 香典の上書きは 四十九日法要までは 御霊前、それ以降は 御仏前と 薄墨で書きます。但し 浄土真宗では 死去即成仏と成りますので 御霊前は使用しません。又 曹洞宗などの禅宗では 教義に浄土は有りませんので 成仏以前という考え方が無いので 御仏前とするのが一般的です。

尚 会葬者の立場から考えると 必ずしも ご葬家の宗教・宗派を理解した上で会葬するとは限りませんので、御自身の宗旨で上書きを選択しても良い考えます。

   今回は以上です。 

阿如来(あしゅくにょらい)

 今回は阿如来に付いて書かせて頂きました。

 十三仏信仰に於ける 七周忌の審判は蓮華王により司られ 三回忌までの厳密な審理と言うよりは 成仏後の導きという意味合いが強くなります。蓮華王の本地は 阿如来で 密教に於ける 金剛界五仏の一尊で 金剛界曼荼羅では 大日如来の東方(右下)に位置します。

 十三仏信仰は 中陰の間の七王は インド仏教で説かれ、中国に渡って 百ヶ日・一周忌・三周忌の三王が加わり 十王信仰となり、日本に渡来した後 七回忌・十三回忌・三十三回忌の三王を加えて 十三仏(十三王)信仰となり 現在に至ります。

 阿如来は 梵名をアクショービアと呼ばれ ”揺るぎ無い” という意味を持ち、この如来の悟りの境地が 金剛(ダイアモンド)の様に堅固で揺るぎ無いもの で有る事を示します。阿仏国経によれば 昔 この娑婆世界から東方千仏の国を経て阿比羅堤という国があり、そこに大日如来が出現した際 無瞋の願を発して修行し、一切の淫欲を断滅し 成就完成して阿仏となり、今現在も仏国土で説法中であると説きます。インド仏教は イスラム教の台頭と共に衰退して行きます。その時期には 後期密教において 憤怒相の護法尊が信仰される様になり、五智如来の中心が大日如来から 阿金剛仏へと転換して行きました。

 日本に於ける阿如来の彫像は 五仏の一として作られたものがほとんどですが、単独の造像もわずかに御座います。阿如来の印相は 右手の指先を下げて 地に触れる ”触地印” を結びますが、これは 釈迦が悟りを求めて修行中に悪魔の誘いを受けたが、触地印により これを退けたとの伝説に由来します。煩悩に屈しない堅固な決意を示します。著名な作像としては 奈良 法隆寺大宝蔵殿南倉の木造坐像、和歌山 高野山親王院の銅像立像が御座います。

   今回は以上です。

霊柩車の費用

 今回は霊柩車の費用に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは 貨物自動車運送事業法に規定される 遺体の搬送に使用する特殊用途自動車を言います。そして 霊柩運送事業は 国土交通省管轄の許可事業となって居り、許可のない車でご遺体を搬送し 費用を請求する事は 法律違反となります。又 その料金も事前届け出制となって居ります。

 霊柩車の型式は 多きく分けて 宮型、洋型、バン型、バス型の4種類が有ります。

宮型は 車の後部(棺室)を輿の様に宗教的な装飾を施し、主として火葬場にご遺体を搬送する為に使用します。

洋型は 高級ワゴン車の後部リムジン化して 棺室として使用し 特別な装飾は施しません、このタイプも 主として ご遺体を火葬場に搬送する為に使用します。

バン型は バンやステーションワゴンの後部を棺室に改造して使用し、火葬場への搬送だけではなく 病院、自宅、葬儀会場間での搬送等にも使用する 多目的車です。霊柩車とは呼ばずに 寝台車、搬送車などと呼ばれます。

バス型は ご遺体と共にご遺族、ご親族を乗せて運用する形の霊柩車です。

 霊柩車の費用は出発車庫より目的地までの運賃となり その体系は 運賃、諸費用、実費からなります。

運賃は 基本額、加算額、特別加算額を足したものが費用となります。

  基本額は 霊柩車の型式により費用は異なりますが、最初の10Km以内の運賃となります。

  加算額は 走行距離が10Kmを超える場合の運賃で、10Km単位で加算されます。尚 ご遺体を届けた後  の 復路については費用請求はされません。

  特別加算額は 深夜・早朝に於ける作業の割増費用です。30分箪位で費用が必要となります。

諸費用は 特殊仕様車料金、遺骨宅送料、車両留置料等です。

実費は 有料自動車道使用料、フェリーボート使用料、駐車料金、依頼人の特別要請にもとずく作業実費などです。

   今回は以上です。

葬儀の祭壇

 今回は祭壇に付いて書かせて頂きました。

 祭壇とは 神、仏、精霊、あるいは死者などに 供物や犠牲を捧げる為の壇ををさします。祭壇の形状は多様で 台状あるいは板状の自然石を用いた石壇、土を盛り上げて作る土壇、石を積み上げて作る石積壇、そして木材などの自然物を加工して作られたもの等が御座います。

 葬儀で用いる祭壇を葬儀壇とも言います。仏教の古くからの仕来りでは 葬儀は 自宅での法要と 葬列を組んで蔡場 あるいは菩提寺に行ってからの法要と 二段構えでした。現在の都市部では この二つの法要は合体して 一つの法要となり、その飾り付けは 蔡場 或いは菩提寺の祭壇を原型として居ります。

 葬列では 柩は白木の輿に乗せられて運ばれ、そのまま蔡場に安置されます。時代の変化と共に 白木の輿に色々な装飾が施され、荘厳な祭壇へと変化して 現在の祭壇が出来上がりました。

 葬儀に於ける祭壇の位置付けは必ずしも明確では有りません。宗教儀礼として葬儀を営むのであれば 仏あるいは神の導きによって故人さまをあの世にお送りする事が基本となります。仏教では 仏を供養する事によって得られた功徳を故人さまに振り向けることから 祭壇は仏の供養の為に設けます。キリスト教の場合は 神を対象とした礼拝が中心となり、祭壇は神への礼拝の為に設けます。そして 告別式は 故人さまとご遺族や会葬者の方とのお別れが中心となり、祭壇はその為に設けられるべきです。

 葬儀と告別式では目的が異なりますので 祭壇も異なるべきですが、現在の葬送儀礼では 時間の制約も有り 葬儀と告別氏を同時に行うことが一般的となり その祭壇も両方を目的として設けられる様になりました。故人さまのお好きな花で飾った花祭壇などは より告別を主と考えた祭壇と言えるのではないでしょうか。

   今回は以上です。

仏教その➀

今回は仏教に付いて書かせて頂きました。

 仏教とは 紀元前5世紀にインドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ)を開祖として開かれた宗教で、キリスト教・イスラム教と並んで 世界の三大宗教の一つとされて居ります。その教えは 仏陀(目覚めた人、解脱した人)の説いた教えであり、そして 自ら仏陀になる為の教えでもあります。

 仏教は インド古来の世界観であった 輪廻 転生 解脱の考えを基に作り出されました。人の一生は苦であり 永遠に続く輪廻の中で終わり無く苦しまねばならない。その苦しみから抜け出す事が解脱であり、修行により解脱を目指すことが 釈迦の教えの目的でした。従いまして 釈迦の思想の中には偶像崇拝の概念は存在しませんでした。現在 伝来した各国で多く見られる仏像や仏閣は その土地、時代の主権者が政治的な目的で民衆に信仰を解り易くする目的で作り出されたと考えられます。

 初期仏教の歴史には時代区分があります。原始仏教、部派仏教、大乗仏教の三区分です。

 原始仏教は紀元前5世紀に インド北部ガンジス中流域で釈迦の提唱により生まれた初期仏教です。原始仏教は 他の世界的宗教と異なり、自然崇拝や民族宗教などをルーツに持たない宗教であり、世界各地で都市国家が成熟すると共に 社会不安が増大する中で、サマナ(沙門)と呼ばれる 出身・出自を問わない自由な立場の思想家・宗教家・修行者が持つ文化の中で作られました。釈迦の死後 その教えは弟子達により集められ、仏典として口誦により伝承され、後に文字化されます。更に経・律・論の三っに分類されて 仏教聖典に編纂されました。

 部派仏教は紀元前4世紀、仏滅後100年くらいに 釈迦の説いた教えの解釈に 色々な異見が出始め、考え方も岐れはじめます。その決果 上座部と大衆部の二つに大きく分裂し、その後 更に多くの部派に分裂して行きます。この時代の仏教を部派仏教と呼んでおります。上座部の一部は スリランカに伝わり、さらにミヤンマー・タイなどの東南アジアに伝わり、現在でも広く残って居ります(南伝仏教)。

 大乗仏教は紀元前後に 自身が解脱するだけではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に全ての衆生を得度する教え(大乗仏教)が起こります。この教えは急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して中国、更に韓国、日本へと伝来します(北伝仏教)。

更に7世紀頃にインドのベンガル地方でヒンドゥ-教の神秘主義一派であるタントラ教と融合した密教が起こり、様々な土地の習俗や宗教を包括しながら独自の修行体系を完成し、インドからチべット・ブータン、そして中国・韓国・日本にも伝えられました。

 現在の仏教は三大宗教の一つでは有りますが、大部分の仏教国は滅亡し、発祥の地であるインドでも廃れており、東南アジアの多くの国ではヒンドゥー教 或いはイスラム教へと移行が進み、中国・北朝鮮・モンゴルでは共産化により宗教は弾圧され、韓国ではキリスト教徒による廃仏運動が社会問題となっており、全体的には縮小傾向にあります。

現在 仏教を国教、或いは国教に準ずる地位としている国は タイ・スリランカ・カンボジア・ラオス・ブータンがあります。又 土着の信仰との混在・習合が顕著な国としては 日本・台湾・ベトナムなどがあります。

   今回は以上です。

日本の仏教

今回は日本の仏教に付いて書かせて頂きました。

 日本の仏教は 538年(552年とも言われます)に百済(現在の韓国・北朝鮮)より伝来したと考えられて居ります。その後 国家鎮護の道具として天皇家に支持され、聖徳太子の活動により飛躍的に発展しました。現在 文化庁の統計によれば 登録団体;85,343団体、教師(僧侶);332,971人、信者数;8,470万人とされて居ります。

 全世界の仏教徒数は3億数千万人といわれる中で、8千5百万人の信徒 約7万5千の寺院 30万体以上の仏像を有する日本は 世界有数の仏教国であると言えます。又 最古の仏典・古文書、世界最古の木造寺院 法隆寺も日本に御座います。

 日本の仏教には 数多くの様々な宗派が存在しますが、1940年公布の宗教団体法により 13宗28宗派に統合されましたが、第二次世界大戦後 多くの分派・独立が成されました。この13宗とは 華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗(おうばくしゅう)を指します。それぞれの宗の日本に於ける開祖と本山は以下の通りです。

 -奈良仏教系

   華厳宗 開祖は審祥 他、本山は東大寺。

   法相宗 開祖は道昭、本山は興福寺・薬師寺。

   律宗  開祖は鑑真(鑑真和上)、本山は唐招提寺。

 -平安仏教系・密教系

   真言宗(東密) 開祖は空海(弘法大師)、本山は東寺、高野山金剛峰寺 他。

   天台宗(台密) 開祖は最澄(伝教大師)、 本山は比叡山延暦寺。

 -法華系(鎌倉仏教法華系)

   日蓮宗 開祖は日蓮(立正大師)、総本山は身延山久遠寺。

 -浄土系(鎌倉仏教浄土系)

   浄土宗 開祖は法然(源空、円光大師、黒谷上人)、総本山は知恩院。

   浄土真宗 開祖は親鸞、本山は本願寺

   融通念仏宗 開祖は良忍(聖応大師)、本山は大念仏寺。

   時宗 一遍(証誠大師、円照大師)、本山は清浄光寺(遊行寺)。

 -禅系(鎌倉仏教禅系)・禅宗系

   曹洞宗 開祖は道元(承陽大師)、本山は永平寺。総持寺。

   臨済宗 開祖は栄西(千光国師) 他、本山は建仁寺・円覚寺・東福寺 他。

   黄檗宗 開祖は隠元(真空大師、華光大師)、本山は黄檗山萬福寺。

   今回は以上です。

日本のキリスト教

 今回は日本に於けるキリスト教に付いて書かせて頂きました。

 キリスト教の日本への伝来は 史実により確認されて居りますのは 1549年の カトリックの司祭 イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによる布教活動です。この時期 キリスト教は織田信長の後援を受け、九州から西日本を中心に多くの信者を獲得しましたが、江戸、明治、大正、昭和前半と迫害や制約を受け、自由な布教が出来る様に成りましたのは 第二次世界大戦後となります。尚 未確認の説としては 5世紀頃 中国では景教と呼ばれていた ネストリウス派キリスト教が 秦河勝らによって日本に伝えられたとする説が御座います。

 キリスト教は 日本伝来後 耶蘇教(やそきょう)と呼ばれ(耶蘇はラテン語 Jesusの中国音訳 耶蘇の音読み)、キリスト教徒を切支丹(きりしたん)、宣教師を伴天連(ばてれん)と呼び、信長、秀吉の保護を得て 大きな広がりを見せました。しかしながら その後 キリシタン大名による 神道徒や仏教徒への迫害や、ポルトガル商人による日本人の人身売買などから 1587年 バテレン追放令が出され 布教活動への制限が始まります。更に江戸時代 1612年禁教令が出されて 教会の破壊と布教の禁止が発令されました。1637年の島原の乱がおこる事により 宗教団体が政治勢力となる事を恐れた幕府は 1639年 鎖国令を発布すると共に キリスト教徒の根絶やしに乗り出し、以後 信徒は地下にもぐり,潜伏キリシタンとして 信仰を守ることとなります。

 明治維新後 日本政府は欧米諸国からの強い抗議を受けて、1873年 キリスト教禁制を徹廃します。カトリック、プロテスタント、正教会は日本へ宣教師を派遣して 教会や伝道所を立てて宣教に努めます。又 社会実践として 学校(ミッションスクール)や病院を設立して 活動を行いました。正教会はロシアからの援助により 東京神田に 大聖堂・ニコライ堂を建設しました。しかしながら 総じて 日本政府の神道崇拝との間で十分な宣教活動が出来たとは言えませんでした。

 戦後 GHQの意向により存続した 日本基督教団、教団より訣別したプロテスタント各派、正教会、そして 異端とされる 未日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、エホバの証人などが活動して居ります。

   今回は以上です。

葬儀の習慣

 今回は葬儀に付いて書かせて頂きました。

 葬儀とは 仏教に於ける葬送儀礼の略で、一般的には葬儀式を指して居りますが、本来の意味では 故人さまのご臨終から、死後の喪に至るまでの、死者を葬り 悼む為の一連の祭儀・儀礼を指して居ります。

 葬儀は 人の死を弔うために行う祭儀であり、その様式は それを行う人たちの 死生観や宗教観が深く関っており、信ずる宗教の違いが そのまま様式の違いとなります。そして 葬儀は 故人さまの為だけでなく、残された方々の為に行われるという意味合いも強くあります。残された方々が 故人さまの死を その心の中でどの様に受け止め、位置付け、処理するか、これを援助するための儀式でもあります。従いまして 葬儀は 宗教が文明の中で体系立つ以前の旧石器時代から執り行われて来た宗教的行為であると言えます。約6万年前のネアンデルタール人も葬儀を行っていたと推定される報告がなされて居ります。

 日本に於ける葬儀の習慣では 通夜、葬儀、告別式、火葬、納骨と執り行われるのが一般的です。

通夜は古代日本の ”もがり” から発しており、葬儀の前夜祭の形態をとります。魔除けの為に 灯明や線香の火を絶やさぬ様、だれかが寝ずの番をします。但し 横浜市営の斎場では 消防署の指導により、夜間に火を焚く事は禁止されて居り、半通夜と呼ばれる形態で 夜間はご遺族にお帰り頂くケースが多くなりました。

葬儀・告別式は 宗教家の指導の下に執り行われます。告別式が終ると出棺となります、多くの参列者は ここで故人さまとお別れとなります。火葬場に向かう道と 帰り道は 同じ道を通らない という習慣がありますが、本来は 埋葬した死霊が 迷ってついて来れない様にと 昔 土葬が一般的であった時代の習慣が引継がれたものです。

葬儀終了後に 振り塩 と呼ばれる清めの塩を撒く習慣が有りますが、これは 神道古来の習慣が仏教の葬儀に融合したと考えられます。死を穢れとは考えない仏教では教義に反するとの意見も有ります。浄土真宗では当初より 清めの塩は使用しません。

   今回は以上です。

葬儀の様式Ⅱ

 今回は前回に続き葬儀の様式(仏教)に付いて書かせて頂きました。

 現在 日本に於ける葬儀の90%以上は仏式で執り行われて居ります。これは 江戸時代に徳川幕府によれ施行された寺請制度に始まります。それ以前には 葬式組と呼ばれる村落共同体の一組織が葬式を取り仕切り、棺や葬具を作り、炊き出しなどを行って居りました。1635年頃から寺請制度が始まり、葬式は僧侶の指導により執り行われ、位牌、戒名、仏壇などが取り入れられ始めました。

 仏教の葬儀は 浄土真宗や日蓮宗を除き 葬儀は死者に対する 授戒成仏を主な目的として行われます。すなわち 死者を仏弟子となるべく発心した者とみなし、戒を授け 成仏させる為の儀式です。

 浄土真宗では 教えの上で 無戒のため授戒は無く、仏徳を讃嘆し、故人さまを偲んで報謝のまことを捧げる儀式となります。又 迷信を忌む教えから 日や方向に吉凶を選んだり、守り刀、逆さ屏風、左前の死に装束、北枕、六文銭の副葬、振り塩などの習俗は行いません。

 日蓮宗では 法華経を唱える事自体が 戒を保つことであるとして 死後の授戒は行いません。但し 寺院によっては 通夜の時に授戒作法を行うケースもあります。

 仏教の葬儀に一般的な流れは まず 死後すぐに枕経を行い、ご遺体を湯灌した後に納棺して通夜を行います。翌日に葬儀と告別式を行い、ご火葬・拾骨 又は土葬となります。現在の横浜では 葬儀会場は葬斎場で営むケースが多く 又 会葬者が度々集う事が難しい事も有り、初七日を告別式に続けて行う事が一般的となり、お斎の席も ご火葬の待ち時間を利用して営む様に成りました。 

   今回は以上です。

葬儀の様式Ⅲ

 今回は葬儀の様式(キリスト教)に付いて書かせて頂きました。

 キリスト教に於いて 信者の死は 天に昇り神の下で永遠の命を得、復活への希望を待つ事とされます。従いまして キリスト教の葬儀は 故人さまのご逝去を悼む事は勿論ですが、残された方々の為に祈る事を主な目的とします。

 カトリック教会に於ける葬儀は 第二バチカン公会議で決められた文書の一つである 典礼憲章の第81条 ”葬儀はキリスト信者の死の過ぎ越しの性格をより明らかに表現し、典礼色を含めて各地方の状況と伝統により良く適応したものでなければならない” を基に作成された カトリック教会の儀典書”葬儀”(1969年発表)により執り行われます。キリスト信者の過ぎ越しの性格を表現するもの との宣言から 死は信者にとって完全な終わりではなく、永遠の命と復活への希望に入るものとして 帰天とも呼ばれて居ります。又 カトリックの葬儀は 全世界一律ではなく 地域の文化と融合されて居り、日本に於いても 通夜、葬儀の流れで行われ、他国では無い 献花や 場合によっては焼香が行われることも有ります。

 通夜では 聖書の朗読、聖歌、死者の為の祈り、柩への献香、参列者による献花 又は焼香、遺族代表挨拶 などが行われます。通夜は教会では無く、自宅で行う行うケースも多く有ります。

 葬儀は 教会で 葬儀ミサとして行われるのが一般的です、聖書朗読、聖歌、祈り、説教が行われ、その後 告別式として 故人の紹介、弔辞、弔電の紹介、献花、遺族代表挨拶が行われます。尚 ミサ以外の司会は 信徒が行う事も可能です。

 プロテスタントに於いても 人の死は忌むものではなく、人の霊が地上の肉体を離れ、天にいる神とイエス・キリストのところえ召される事で有り、イエス・キリストの再臨に合わせて復活する為の準備に過ぎないとされ、地上に残されたご遺族の寂しさは慰められるべきであるが、故人さまの逝去そのものは悲しむべき事ではないとされます。

プロテスタントの葬儀は 本来 葬儀・埋葬礼拝の一日のみですが、日本に於いては 仏式に合わせ 前夜式と葬儀・告別式の二日間で行うのが一般的です。前夜式は自宅で、葬儀は教会で行うケースが多く見られます。葬儀の礼拝は 祈祷、聖書朗読、説教、賛美歌、祝福などが行われ、その後 追悼の辞、遺族挨拶、献花、牧師の説教などが加えられます。日本では キリスト教徒の比率が低く、参列者はもとより ご遺族すらもキリスト教徒で有る事が期待できない為、宗教的純潔主義よりも 地域の習俗を重んじる方々への配慮が優先されます。

 キリスト教の葬儀では 六曜(友引)を避ける必要は有りませんが、一般的に友引の日は火葬場が休業の為、避けざる得ないのが実情です。

   今回は以上です。

日本古代の葬儀観

 今回は日本古来の葬儀観について書かせて頂きました。

 日本に於ける古代の葬儀観としましては まず 死者を一定の期間 生きている者と同様の扱いしている事、そして 死は穢れたものであり、死の世界や死霊に対する恐怖が示されて居ります。

 前回 書かせて頂きました もがりの期間では 死者を丁重に扱い、蘇りを祈念して 食事を供する等、生きている者と同様の扱いをして居ります。古代では 現代と違い 死を明確に判定する事が出来ませんでした、従いまして 人が死んだ事を納得する為には、ご遺体の腐敗や白骨化の確認する為に一定の期間が必要とされました。現代でも 医師が死亡の判定をした後でも、24時間は火葬にお付せする事は 伝染病で亡くなられたケースを除き 法律で禁止されて居ります。現代では 死の判定は特定時点で行われますが、古代では 死の判定の為に一定の期間が必要とされた訳です。その意味では もがりの期間は 生と死の境界線の期間といえます。

 古代では 死は穢れたものであり、死霊は生きている者を死の世界へ引きずり込む恐ろしいものと考えられて居りました。古事記の中にも 黄泉の国(よみのくに)の記述があり 汚い世界として描かれて居ります。もがりの期間に 歌舞を行うのは 死霊は荒ぶるものであり、生きている者に厄災を及ぼしかねないとの考えから、その霊を鎮める為でありました。古代の葬儀観には 死者を大切に扱う考えと 死を穢れた恐ろしいものとの考えが併存して居りました。死霊への恐怖は古くから有り、縄文時代に見られる 腕や膝を折り曲げた屈葬や、遺体の上に石を置いた抱石葬は 死霊を恐れて自由にさせない為の方法と考えられて居ります。

  今回は以上です。

薄葬令

 今回は薄葬令に付いて書かせて頂きました。

 薄葬令は 646年 大化の改新の中で発令された 墳墓の規模や副葬品などを制限した勅令です。大和朝廷が中央集権国家へと変貌して行く過程で 全ての土地と人民は天皇に帰属するとした 公地公民制を推進し、地方豪族を抑える為の施策の一つでした。

 石器時代、弥生時代、古墳時代と 権力者の陵墓は時代と共により大きな形(厚葬)へと変化して行きます。その様な中、大和朝廷は 中国の故事に習い、民衆の負担・犠牲を軽減する為として、身分に応じて 作ってよい陵墓の大きさを制限し、身分別の葬制秩序を定めました。その要旨は;

 1 必要以上に大きな墓を作る事は 民の貧窮を招くと警告し。

 2 死者の身分により、墓を作る夫役の延べ人数の上限を定め。

 3 出来れば遺体は一定の墓地に集めて埋葬する様。

 4 もがり や殉死、宝物を副葬品とする事を禁ずる。

となり 墳墓は小型簡素化されて、古墳時代は事実上終わりを告げました。

例えば 持統天皇は703年に崩御し、その葬儀は薄葬でした、天皇として始めて火葬され、独自の陵を持たず、夫の天武天皇の陵に合葬されました。又 この薄葬令をもとに もがり だけではなく、しのびごと(故人の遺徳を讃える儀式)、挙哀(きょあい 悲嘆の気持ちを表わし 礼拝する事)、などの儀礼も姿を消して行きました。

 一方 庶民の間では如何かと言うと、薄葬令では 色々な場所に埋葬せず、場所を定めて埋葬する様 と有りますが、実際には 死体遺棄に近い形で葬られたと考えられます。山の麓や川原等に捨てられる事も珍しい事ではなかったと思われます。今昔物語でも 平安京の正門である 羅生門の二階に遺体が遺棄された様子を伝えて居ります。

   今回は以上です。

日本の御霊信仰

 今回は御霊信仰(ごりょうしんこう)に付いて書かせて頂きました。

 御霊信仰とは 奈良時代末期より盛んになった日本の信仰で、人々を脅かす様な天災や疫病の発生は 恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の怨霊のしわざと考え、これを鎮めて御霊とすることにより 祟りを免れ、平和と繁栄を祈願する事です。平安京への遷都(794年)は 皇太子の地位を廃され憤死した早良親王の怨霊が 新皇太子の病気を引き起こしたとの占いにより、行われました。

 日本に於いて 霊の考えは古くから有りました。人が死ぬと 魂が霊として肉体から離れるという考え方です。縄文時代に見られる屈葬は この考え方の一つとされます。そして この霊が 人々に様々な災いをもたらすという考えが拡大し、政治的 失脚者や、戦乱での敗者などの霊が その相手や敵に災いをもたらすとなり、平安時代の陰陽師の活動と共に御霊信仰と成りました。非業の死を遂げた人の霊は亡霊となり世に災いを成すが、この亡霊を復位させたり、官位を贈り、その霊を鎮魂し、神として祀れば、亡霊は御霊となり 鎮護の神として平穏を与えるとされます。

 記録されているもので最っとも古いものは 775年に子供と共に憤死させられた 井上内親王の祟りにより、その夫である光仁天皇や新しい皇太子が病に悩まされていると考えられ、その死の二年後 井上内親王の墓は改葬され 正式な御墓(天皇家の墓)とされました。御霊信仰をもとにした鎮魂の為の儀式として宮中では 御霊会が行われました。最初の確認出来る御霊会は 863年5月20日に行われました。この御霊会では 崇道天皇(早良内親王の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘逸勢、文屋宮田麻呂、監察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)の6人が祭られました。

   今回は以上です。

葬儀の次第

 今回は葬儀の次第(流れ)に付いて書かせて頂きました。

 現在の日本に於ける 葬儀の全体的な次第は平安時代にその原型が作られ、江戸時代に 仏教儀礼の式次第が整えられたとされます。

 平安時代中期の天皇家葬儀では 危篤状態で 臨終作法として念仏(光明真言)が唱えられ、崩御の後には 陰陽師が呼ばれて 納棺・葬儀の日時や墓所の方角が占われて次第を決めました。この時代には すでに玉体は北枕で安置され、納棺に当っては 皇后・宮さま・しかるべき公卿の手により 事前に沐浴(湯灌)を行い、僧侶も加わって納棺が行われました。出棺の前には僧正による呪願(じゅがん)がなされ、輿に柩が載せられ、葬列を組んで、通常の門を使わず 築垣を壊して道に出、御竈所(みかまどころ、火葬場)へ向かいました。御竈所では ご火葬の前に 導師により呪願が行われ、僧侶立会いの下に荼毘に付されます。夜を通して荼毘が行われ 翌朝 皆でお骨を拾い 白壺に収めて 僧正の光明真言の念誦を受けます。お骨壺は 菩提寺に作られた三昧堂に安置され、七七日の法要、祥月命日の法要、一周忌の法要が行われて、葬送儀礼が終了しました。以上のごとく 日本の葬送習俗の原型はこの時代に出来上がったと考えられて居ります。この原型を基に庶民を含めた仏教の葬送儀礼が江戸時代に整えられました。

 光明真言は ”おん あばきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらぼりたや うん” で これを108回唱えます。死者の贖罪に力があるとされ、この真言により加持された砂を遺体にかけると 仏の光明に包まれ、極楽往生出来ると信仰される密教の修法です。なお 罪が許されると ご遺体は柔らかくなり 納棺しやすく成ると信じられても居りました。

 呪願とは 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生する事を祈願するものです。当時は 阿弥陀護摩と呼ばれる護摩焚きも行われて居りましたが、これは死者の減罪に力があると信じられて居りました。

   今回は以上です。

神道の軌跡

 今回は神道について書かせて頂きました。

 神道(しんとう、かんながらのみち)は 日本古来の宗教で、自然や自然現象を敬い、その中に八百万の神を見出す、日本独特の多神教です。全ての自然の中に神が存在し、神と人間を取り結ぶ作法が祭祀であり、祭祀を行う場所が神社という聖域です。現在の 神道として体系や儀礼を作り上げるのに貢献した人物は 吉田兼倶(1434-1511)です。

 吉田兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 神道を体系化して、神道が儒教や仏教の宗主であり、万法の根底であると理論付けました。古代日本に起源をたどる事が出来る神道は 日本の伝統的な民俗信仰や自然信仰を基盤として居り、日本の国家形成に影響を与えた宗教でも有ります。そして 宗教名は他の宗教とは異なり 神教とは言わず 神道と呼びます。神道には 確定した教祖や創始者は居らず、経典や聖書の様な明確な聖典も有りません。吉田兼倶による体系化に当っては 古事記・日本書紀・古語拾遣・宣命などの 神典とされる古典を規範として作られました。尚 富士山の世界遺産登録に当っては 富士山に対する山岳信仰が登録決定の大きな要素と成りました。

 神道は 奈良時代以降 江戸時代までの間 仏教信仰に吸収されて来ました(神仏習合)。しかしながら 明治政府は 天皇を中心とした 国民・国家統合を図る為、神仏分離を行い、水戸学やそれまでの国体神学を基にした 国家神道を作り上げました。そして 全国各地の氏神を祀った神社に 皇統神を合祀し、国家による組織化を進めました。

   今回は以上です。

神道の神葬祭

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

   今回は以上です。

神道の神葬祭Ⅱ

 今回は神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本古来で日本特有の宗教である神道に於ける、故人様を 家の守護神となって頂く為の儀式です。仏教伝来以前には 自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰(神道)の儀式により故人様の見送りが行われて居りまでぃた。従いまして 全国統一的な祭式(式次第)は有りません。その地域により、神社により、更には執り行う斎主(神職)によっても 異なる祭式となります。

 神道は日本に於ける国家創成の精神的基盤でありましたが、仏教の伝来以降 宗教界に於ける その地位は後退し、江戸時代には仏教に吸収される事となります。しかしながら 明治維新という革命的 政治体制の変革の為の精神基盤として国教として復活します。1868年(明治元年)の神仏分離令により 神葬祭の施行が庶民でも可能となり、1871年(明治4年)の戸籍法の改正により 寺請制度の法的根拠が廃絶され、1872年(明治5年)の自葬禁止令により 神職が神葬祭を執り行える様に成ります。そして神葬祭墓地として 青山墓地、谷中墓地、染井墓地などの東京市営墓地が開設されました。又 全て神社は国営や公営となります。明治政府は 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり、1882年(明治15年)には 官弊社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止します。以降 第二次世界大戦が終了するまで 神葬祭は府県社の宮司により執り行われる事となります。

 神葬祭の一般的な流れとしては 枕直しの儀、納棺の儀、通夜祭 及び遷霊祭、蔡場蔡、火葬祭、埋葬祭、帰家蔡 及び直会、そして十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭・五十日祭・百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・以降五年毎の御霊祭となります。

   今回は以上です。

火葬の歴史

 今回は火葬について書かせて頂きました。

 火葬とは ご遺体を焼却する事ですが、仏式では 火葬前の読経・焼香から 焼骨を骨壺に納める 収骨までも 葬儀式の一部であると言う考え方も有ります。又 ご遺体の安定化、減容化処理の手段の一つとも言えます。世界的には 火葬は必ずしも主流とは言えませんが、日本に於いてはほぼ100%でご火葬の上、納骨 或いは埋葬されて居ります。

 日本に於ける火葬の歴史は古く、確認された火葬としては6世紀後半のものが有り、現在 検証中の遺跡としては 長崎県大村市の竹松遺跡(弥生時代後期、2世紀ころ)などが有ります。しかしながら 火葬は仏教の伝来と共に伝わったとされる説が有力で、最初に火葬された人物は 僧道昭(700年)であり、最初の天皇は 持統天皇(702年)とされます。その後 火葬の習慣は上級役人、公家、そして武士社会へと広がって行きます。とは言え 儒教の教えでは 体を傷付ける事は大罪であり、火葬もその一つと考えられ、又 火葬の為の燃料代も高額であったことから 火葬率はそれ程高くは有りませんでした。仏教が準国教とされた江戸時代でも 2割前後の火葬率と想定されます、棺桶を使った土葬が主流でした。明治時代に入り国教は神道に変わり 天皇家を必頭に土葬へと変化しますが、都市部では 土葬の為の土地確保の困難さ、火葬技術の進歩、衛生管理上の問題などから、徐々に火葬率は上昇し、現在ではほぼ100%となって居ります。そして 火葬された最後の天皇は 1617年に崩御された後陽成天皇で、以降 陵を設けて土葬ががされて参りました。今上天皇は 繁多な陵墓設営などを憂慮し、皇后・皇族の了解を得て、崩御の際は火葬を希望され、2013年11月火葬の正式発表がされました。

   今回は以上です。

火葬の歴史2

 今回は前回に続いて火葬について書かせて頂きました。

 現代の日本では ご遺体の処置はご火葬が一般的となって居りますが、その理由としては 公衆衛生上の観点、埋葬する際の場所の問題、宗教上の観点等が考えられます。又 ご火葬に際しては 法律上の規制も御座いますので注意が必要となります。

 現代の日本に於きましては 火葬を忌避する宗教を信仰する方(外国人を含む)、根強い土葬習慣を維持している特定地域の住民の方々、大規模な災害により火葬場が使用出来ない 等のケースを除いて、ほぼ100%のご遺体が火葬に付されます。その理由としては以下の事が考えられます;

1 公衆衛生上の観点から土葬よりも衛生的である。土葬の場合 ご遺体の腐敗は土中の微生物により進捗します、埋葬後 長期間にに渡って周辺地に腐敗菌が残存する為、衛生上 広域な土地が必要となります。

2 仏教では 仏陀は火葬に付された故事にならって、火葬が尊ばれて居ります。特に 浄土真宗では火葬を強く推進して来ました。ちなみに 日本で最初の 近代的火葬場は 1878年(明治11年)に京都に建設された 両本願寺火葬場(現在の京都市中央斎場)とされますが、浄土真宗の東・西の本願寺により建てられました。

3 都市部では 人口集中のため 条例により土葬が禁止されたり、許可された条件を満たす墓地を確保する事が困難である。

4 宗教への拘りが薄れ、埋葬の方法にも拘りが無くなり、又 墓を家単位で考えると 同じ墓石の中にご遺骨を納めるには火葬が必要となり、火葬は世間的にも認知された処理方法と成りました。

 日本では ”墓地・埋葬に関する法律” があり、その規定によれば

1 死体(もしくは妊娠7ヶ月以上の胎児)は 死後(もしくは死産後)24時間以内は 火葬してはならない とされて居ります。但し 一類から三類までの感染症や新型インフレンザ等の感染症の場合はこの限りではない。

2 火葬を行う場合は 死亡届を提出した 市区町村長の許可が必要となります。

  許可を受けずに火葬をした場合は 墓地・埋葬に関する法律違反と共に、死体遺棄・死体損壊罪に問われる可能性が有ります。

なお 墓地・埋葬に関する法律では、土葬等 火葬以外の埋葬方法を禁じては居りませんが、各地方自治体は 環境衛生面等から 火葬を奨励し、東京・大阪・横浜などの大都市では条例で土葬を禁止して居ります。

    今回は以上です。

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 現代の葬儀様式のルーツは明治時代にあると言われます。江戸時代に 葬儀は 士農工商の身分制度を基に、身分ごとに葬儀基準が示され、葬儀の簡素化が奨励されて居りましたが、明治時代に入ると 身分制度が取り払われ、大都市を中心に 大きく変化して行きます。大掛りな日中の葬列、白木の輿と寝棺の増加、葬列を飾る葬具の出現、大掛りな粗供養等です。

 江戸時代までは ご遺体の移送は夜間にひっそりと葬列を組むのが習慣でしたが、明治に入ると 台頭してきた商人層を中心に 家を誇示する為の大きな葬列を、日中に組む様に成ります。なかには その役割を終えた 大名行列の奴を動員した葬列なども出現しました。

 葬列の大規模化と共に 従来 使用されていた座棺は寝棺へと変化し、寝棺を運ぶ為の白木の輿が出来、多くの人で運ぶ様に成ります。そして 白木の輿には色々な装飾がされました。現代の宮型霊柩車は この装飾された白木の輿を原型として居ります。ただし 庶民の間では 長い間 座棺が使用され、それを 駕籠や 装飾した人力車などで運ぶかたちが第二次世界大戦終了まで続きます。

 大きな 葬列を飾る為の 野道具(葬具)もきらびやかな形に成りました。金連、銀蓮、生花や造花を挿した花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥籠、位牌を運ぶ位牌輿、輿も 寝棺用、座棺用、遺骨用などが作られました。近代的な葬具の始まりと言えます。

 そして 粗供養が大型化します。葬儀に 地域の人々に食事を振舞うという習慣は江戸時代でも行われて居りました。又 葬列の出発に当たり 花籠に菓子や小銭を入れて、これを振って 近隣の人々へ振舞うと言う様な事が 粗供養の起源と考えられますが、明治に入り大型化しました。

 明治18年に行われた 三菱の創設者 岩崎弥太郎氏の葬儀は 神葬祭で行われ、会葬者3万人、用意した料理は和洋食合わせて6万人分、葬儀に雇った人員は7万人と言われて居ります。

    今回は以上です。

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