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臨終

 今回は臨終に付いて書かせて頂きました。

 臨終とは 臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語で、厳密には死を迎える直前の時期を指します。この時期は 本人にとっても、近親者にとっても危機的 かつ大切な時期で、古来より 死の受入れと死の看取りに関する様々な習慣と文化が生み出されて居りました。エジプトやチべットの”死者の書”、中世ヨーロッパに書かれた”往生術”、インド仏教に於ける祇園精舎の無常院、日本では 平安時代中期に書かれた”往生要集”等です。

 現代では 事故等による突然死を除くと、臨終される場所は75%が病院、20%がご自宅となって居ります。そして ご臨終の場所に係わらず 看護は延命を目的に治療を続けることよりは ご本人とその近親者の方々が 最後の時をどの様に迎えるかを大切に考える様に変わって来ました。ご本人と近親者がより良い別れの時をどう持つかが重視される様になったと言えます。

 ご臨終の時は 本人は勿論、御家族にとっても大切な時間です。最期の看取りを行い、きちんとお別れが出来るか如何かは 御家族の後々のお心に 大きな影響を与えるからです。ご本人が安らかに最期を迎える事が出来る様 御家族は医師とのコミニケーションを密にし、ご本人が希望されていた方や近親の方々に的確な連絡を行い、面会に来て貰う様 手配するのが良いでしょう。最期に立会えず、良いお別れが出来ないときは、後々まで近親者の心の傷として残る事が有ります。離れて住む近親者の方への配慮も必要と成ります。

 そして ご本人が深い信仰をお持ちの場合は ご本人が信頼する宗教者をご臨終の床にお呼びするのも 大切な事です。

   今回は以上です。 

密葬

今回は密葬に付いて書かせて頂きました。

 密葬とは 故人様のご逝去を対外的に公表したくない場合、或いは何らかの理由で本葬儀を後日 時間を空けて行う場合に 故人様の家族、近親者、極く親しい友人のみで小規模に執り行う葬儀のことです。近親者でのご火葬を目的として居ります。一般的には 後日 対外的な本葬儀、あるいはお別れ会などを執り行うのが 本来の意味合いです。

 元来 密葬は 有力者や有名人などが亡くなった際、大規模なご葬儀を準備しなければならず、それなりの準備時間を必要とします。この様な場合 ご遺体を長時間 維持する事を避ける為、ご火葬を目的とした内輪の葬儀を執り行い、後日 お別れ会や 社葬などを執り行います。

著名人や芸能人 本人やご家族が亡くなった場合 その葬儀には 普段親交のある方だけでも大勢の方々が集まり、更にファンやマスコミも集まることで 混乱を招きかねません。その為 然るべき場所と時間を選び、きちんとした準備が必要と成ります。

又 大企業の経営者や大きな団体の責任者のような方の場合は 社員、関係会社、取引先、関連団体など ご本人やご家族との親交に係わり無く、葬儀に参列される方は多くなります。社葬、団体葬なども会葬の方々に失礼の無い様 十分な準備が必要と成ります。

 密葬は小規模な葬儀と言う点で 家族葬と混同されがちですが、密葬と家族葬は同義では有りません。

   今回は以上です。

斎場、斎苑

 今回は斎場、斎苑に付いて書かせて頂きました。

 斎場、斎苑は 主として地方自治体が火葬場を整備するに当たり、忌避感を持つ火葬場という名前を避ける為に使用されました。又 時代の要求に応えて葬儀式場を併設した総合施設として利用されて居ります。

 葬儀事情は 戦後 大きく変わりました。葬列を中心とした葬儀が姿を消し、葬儀の中心は告別式へと移ります。同時に 家族や関係者の地域拡散が進み、葬儀はお通夜 葬儀・告別式の2日間に集中 短縮する様になり、更に核家族化と共に葬儀式場は自宅から葬儀場の利用へと移行して行きました。この様な住民ニーズに応える為 都市部の自治体は式場・火葬場併設の斎場、斎苑を建設し 住民サービスの向上に努めて居ります。

 遠方よりの会葬者に便宜を図る為の 日程短縮は 葬儀式と告別式の同時進行、式の時間も一時間以内というのが一般化しました。横浜市営の斎場では お通夜は18時、もしくは19時より始まり 式は45分間 その後にお清めが続き 20時半でお開き 21時で退場と成ります。又 21時以降は火災予防の為 火気厳禁となりますので、宿泊は可能ですが灯明、線香を灯す事は出来ません。翌日は 葬儀・告別式と成りますが、約45分間の間で葬儀・告別式の同時進行と初七日法要も執り行うのが一般的です。初七日法要の後に最後のお別れとなります。そしてご火葬と続きます。初七日法要のお斎の席は ご火葬をお待ちの間に控室でお設けします。

最後にご収骨をされて終了となります。尚 市営斎場ではご火葬後に部屋を使用する事が許されず、ご火葬後の初七日法要を行う事は出来ません。

   今回は以上です。

霊柩車

 今回は霊柩車に付いて書かせて頂きました。

 霊柩車とは 貨物自動車運送事業法に定められた ”遺体の搬送を行う自動車”で、ご遺体を葬儀式場から火葬場へ移動させる際などに使用される 特殊用途自動車です。ご遺体の搬送は 国土交通省管轄の許可事業で 許可を得ていない自動車でのご遺体の搬送は出来ません(特別な場合を除き)。従いまして霊柩車のナンバープレートは青色となり、形式として 宮型、洋型、バン型、バス型の4種類が御座います。尚 俗言として ”霊柩車を見たら 親の死に目に会えなくなるので 親指を隠せ” と言われました。

 日本に於いて 古くは柩は人間により担がれて運ばれていましたが、明治時代に入り 大八車に乗せて運ぶ様になり、その後自動車が日本で作られる様になると トラックの荷台に宗教的な装飾を施して その上に柩を乗せて運ぶ様になり、昭和時代初期には 米国より パッカ-ドを改造した霊柩車が輸入されました。

 現在 宮型霊柩車は 後部に輿の様な形のデザインを施し、主としてご遺体を火葬場に搬送する為に用いられます。 

 洋型霊柩車は 欧米式の霊柩車の架装を施した形のもので、普通の車と変わらず 宮型よりもスマートで近代的と言われ 良く使用される様に成りました。宮型と同じく ご遺体を火葬場に搬送する際に用いられます。

 バン型霊柩車は 特別な外装を施さない霊柩車で 通常は病院からご自宅への搬送に用いられますが、遠隔地への搬送や ご遺族のご希望で目立たぬ様に移送する際などに用いられる、多目的のご遺体移送車です。

 バス型霊柩車は 大型のバスを使用し 柩を収めると共に 火葬場への同行者も同乗できる霊柩車です。

霊柩車の運賃体系は 運賃+緒料金+実費 の合計金額となります。

   今回は以上です。

告別式

 告別式とは 故人様に別れを告げると共に、社会 そして参列者に故人様のご逝去をご挨拶する式です。葬儀式は僧侶が主導する宗教儀礼ですが、告別式は喪主様 もしくは施主様(葬儀委員長)が主導する社会儀礼です。一般的には葬儀式の後に続けて行われますが、参列者が多数見込まれる場合は後日 改めて執り行う事も御座います。又 無宗教の場合は 葬儀式は行わずに告別式のみを行うケースも御座います。告別式の代わりにお別れ会と告知される事も御座います。最初に告別式が執り行われたのは 明治34年の中江兆民の葬送だと言われて居り、現在の葬儀式の後に続けて行われ形は 昭和時代に入ってから定着しました。

 日本で初めて告別式が行われた 中江兆民は明治時代の思想家で フランスの思想家 ジャン・ジャック・ルソーを日本に紹介し、自由民権運動の理論的指導者として名を知られ、東洋のルソーとも評されました。本名は中江篤介(とくすけ)、1847年に土佐藩高知城下で生誕し、第一回衆議院議員総選挙の当選者の一人でも有ります。中江兆民は無宗教葬に対するこだわりを強く持って居り、生前より”自分が死んだら直ぐに火葬場に送って荼毘に付せ”と遺言して居りました。しかしながら その死を悼んだ弟子達により青山葬会場に於いて、宗教儀礼によらない無宗教葬として、日本で初めての告別式が執り行われました。

 現在の告別式は 葬儀式の後、出棺の前に行われるのが一般的となって居りますが、東北地方や九州地方など特定の地域では火葬を先に行うケースもあります。告別式の流れと致しましては 施主(葬儀委員長)による式辞、参列代表者の弔辞、弔歌の奉読、弔電の披露、参列者による故人様への告別(焼香、献花など)が行われます。参列者は喪服、若しくは喪服に準じる服装(学生の場合は制服)を着用するのが慣例とされ、華美な服装や派手な美粧はタブーとされます。喪服ではなく ”平服でおいで下さい”とお断りする場合も御座います。

   今回は以上です。

火葬場

 今回は火葬場に付いて書かせて頂きました。

 火葬場とは ご遺体を火葬する為の施設を指します。現在では斎場とも言われます。古くは 天皇の御体を火葬する場所を 山作所、天皇家以外の火葬場は 三昧(さんまい) 三昧場 或いは 荼毘場 と呼んで居りました。又 近畿以西では 火屋や、三昧の呼称が定着し、関東以北では 焼き場や、竈場(かまば)の呼び名が定着した時代も有りました。

 日本国内に於ける火葬場の歴史は弥生時代後期から有すると想像されますが、確認出来る物は 日本書記に記載されている 700年以降であり 仏教の要請から発生して居ります。当時は 常設の火葬場は設けられて居らず、貴人の火葬に当っては 火床を設け その周りを幕や板塀で囲んだ 仮設の場所で行われました。その後 庶民の間でも 火葬を行う者が現れ 人里離れた野原に木薪を組み上げ その上にご遺体を乗せて焚焼しました。これを 野焼きと言います。野焼きは 特定の地域に於いて 昭和後期まで行われて居りました。

 鎌倉、室町時代に入ると 墓地の傍らなどに 棺桶より一回り大きい場所に石等で火床を設けた 常設の火葬場所だ出来始めます。これらは 火屋、火家、三昧、荼毘場などとよばれ、京都、大阪、江戸の都市に広がって行きました。そして 火葬の際に出る 臭気や灰等の弊害から 郊外に統合化され 大規模火葬場が出来て行きます。その典型的な例が 小塚原刑場近くに作られた 現在の東京博善町屋斎場です。江戸時代中期には 硬質良土を敷き込んで整地した上に 火床を設け 屋根かけもされる様に成りましたが、まだ火葬炉と呼べる状態ではありませんでした。

 明治時代に入り 製鉄用反射炉やレンガ焼成炉の技術を応用した トンネル状炉室と煙突を備えた 火葬炉が築造される様になり、火葬率の高かった 近畿、北陸、中国地方の 個人所有や 集落所有の簡易な火葬場にも普及して行きます。この火葬炉は 少ない燃料(木薪や木炭)で、ご遺体の燃え残りも少なく、使用も簡単で、煙突効果により臭気・煤煙も低減出来る事と成りました。そして 昭和初期には 重油焚きの火葬炉が開発されます。現在では 更に進んで ほとんどの火葬場では 電気式の火葬炉使用と 排煙処理により、臭気・媒炎などを気にする必要は無くなりました。

   今回は以上です。

火葬(かそう)の歴史

今回は火葬(かそう)の歴史に付いて書かせて頂きます。 日本に於ける火葬の歴史は古く、弥生時代後期(2世紀頃)と想定されるます。長崎県大村市で発屈された竹松遺跡に於いて火葬後に埋葬されたと見られる人骨が発見されて居ります。又 文献に残る火葬の記述としては ”続日本紀”に記された僧道昭の記録が最古のものとされます。 遺跡 更に日本で最初に火葬された天皇は702年の持統天皇と言われております。火葬の技術は仏教の伝来と共に伝わったとするのが一般的な理解ですが、それ以前にも国内で火葬が行われて考えられます。 火葬は葬送の一手段としてご遺体を焼却する事ですが、ご遺体の焼却を伴う葬儀全体を指す場合もあります。又ご遺体の焼却はご遺体の減容量化と安定化の為の処理とも言えます。仏教では ご火葬を荼毘(だび)に付すとも言います。荼毘とは火葬を意味するインドのバーリ語に由来し、仏教用語の一つで、釈尊が死後火葬されたことにちなみます。特に浄土真宗では火葬を強く推奨しております。 日本では平安時代以降、皇族・貴族・僧侶等の間では火葬が広まりましたが、一般庶民の間では必ずしも広がりませんでした。それはご遺体を焼骨に変える為には強い火力が必要とされ、生活の為の貴重な薪を大量に使わなければならず、又効率良く焼却する為には高度な技術を必要とした為、ご火葬は費用のかかる葬送でありました。浄土真宗ではご火葬を強く推奨して居りましたが、江戸時代の火葬化率は全国平均で2割程度と推定されます。一般庶民の埋葬は永く土葬が常識で、場所を広くとらぬ様、ご遺体を屈して縦長の桶に納めて埋葬するのが一般的でした。この様な状態が明治維新以降大きく変化して行きます。それに付きましては次回に書かせて頂きます。 今回は以上です。

明治時代と神葬祭

 今回は明治時代の神葬祭事情に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本固有の多神教宗教である神道の葬儀で有ります。神道に於いては 人は皆 神の子であり 神の計らいによって母の胎内に宿り この世に生まれ この世で役割を終えると 神々の世界へ帰り 子孫を見守る と考えられて居り、神葬祭は故人に家の守り神となって頂く為の儀式であります。

 明治維新によって出来た新政府は 徳川幕藩体制を否定する為 民衆把握の基本となっていた 寺請制度を廃止し その母体となっていた仏教を排斥し 神道を新たに国教と位置付けます。明治元年発令の 神仏分離令、明治4年の戸籍法により 寺請制度の法的根拠が廃絶し 庶民は仏教寺院の檀家である必要が無くなりました。更に 明治5年の自葬禁止の布告により 葬儀は僧侶又は神職により 執り行われなければならなく成り 神職は氏子の神葬祭を自由に執り行う事が可能と成ります。そして それまで寺院の墓地は有りましたが 神葬祭の墓地が存在しなかった事をふまえ 明治同年に 神葬祭用の墓地として 東京市営で 青山墓地、谷中墓地、染井墓地の三墓地が開設されました。尚 三墓地共に 後年には 神葬祭限定ではなくなります。

 その後 明治政府は 信教の自由を布告し 神社は宗教ではなく 国家神道であるとの立場をとり 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に係わる事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県社以下の神職と規定し、この規定は 第二次世界大戦終戦まで続く事に成ります。この様に神道は政府レベルでの支援を受けましたが 神葬祭はそれ程の広がりを見せませんでした。それは 法的根拠は無くなりましたが 民俗と結びついた仏教葬と檀家制度は 根強い基盤を民衆の中に持ち続けた事によります。

 尚 神道に於いて 死は穢れである為 聖域である神社で神葬祭は執り行わないと言われます。但し 神道でいう穢れとは 不潔・不浄の意味ではありません。肉親、或いは極く身近な方が亡くなり その悲しみによって 溌剌とした生命力が衰退している状態を 気枯れ=けがれ として居ります。

   今回は以上です。   

神道

 今回は神道(しんとう、かんながらのみち)について書かせて頂きました。

 神道は 古代日本に起源をたどる、日本固有の宗教で、山や川などの自然現象を敬い、それらから八百万の神を見出す多神教の宗教です。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に 豪族層による政治体制と共に徐々に成立しました。その分類としては 神社神道、民俗神道、古神道、国家神道、皇室神道(宮中祭祀)、教派神道等が有ります。一般的には 神道とは 神社神道を指して居ります。

 神道には 明確な教義や教典はなく 古事記や日本書紀など 神典と言われる古典を規範とし、森羅万象に神が宿ると考え、祭祀を重視し、浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目として居ります。又 仏教は 主として個人の安心立命や、魂の救済を目的(時代によっては国家鎮護を含む)を目的として信仰されて来たのに対して、神道は 神話に登場する神々の様に 地縁・血縁で結ばれた共同体を守る為に信仰されました。

 神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、神道と言う宗教として体系化されるのは 鎌倉時代中期以降と成ります。この体系化に大きく貢献したのが 吉田兼倶(1434-1511)です。兼倶は 密教や陰陽道を取り込み 体系や儀礼を作り上げ 神道は 儒教や仏教の宗主であり 万法の基であると理論ずけました。神仏習合により 神社内に作られた寺院は 仏教の民衆化と共に独立し始め それに比して神道の地位は低下し 神社も修験道の手に移って行きます。吉田神道はこうした 神社・神宮寺・別当寺を傘下に収め 唯一の神道として習合して 1700年頃のその完成を見ます。

  今回は以上ですが、次回は江戸時代以降の神道について書かせて頂きます。

寺請制度

 今回は寺請制度に付いて書かせて頂きました。

 寺請制度とは 1961年からの寛文年間に江戸幕府より発冷された キリシタン禁制、及び住民調査を目的とした宗教統制の制度です。武士・農民・町人に係わらず、全ての人々に仏教寺院より寺請証文を受ける事を義務付け、寺院にその人々がキリシタンではない事を証明させる制度です。必然的に 人々は家を単位として寺院の檀家とならねば成らず、檀家制度を確立させる基とも成りました。

 寺請制度は 仏教の壇信徒で有る事の証明書を寺院から請ける制度で、旅行や住居の移動の際には寺請証文の提示が必要とされました。従い 民衆は幕府又は大名家に認められた仏教寺院の檀家と成らねばなりませんでした。又 寺院側へは 現在の戸籍に当る宗門人別帳の作成、年一回の更新、キリシタンの発見 及びその家族・親族の監視などが義務付けられ、仏教寺院は 幕府の出先機関として民衆管理を行うと共に大きな権限を与えられる事と成ります。そして この権限が汚職の温床となり、宗教活動をおろそかにし、明治時代初期の廃仏棄却へと繋がってゆきます。

 とは言え、この制度により 当時としては世界一の人口調査が可能となり、人々は寺院の檀家となる事で戸籍を得る事になり、以降は 出生・結婚・旅行・移転・奉公・逝去等の際には 村役人の発行する送り状・請け状・手形と共に 寺院が発行する 送り状・請け状・手形も必要とする様になります。

 又 江戸時代も進むと 世の中は平和になり 民衆は自分の死後の葬儀や供養の事を考えて菩提寺を望む様になり、寺請制度は受入れ易い環境とも成りました。そして 仏教は 幕府や藩の行政権威を補う役割を担い、事実上の国教と成りました。現在 私共が接する 寺院と信徒の関係(檀家制度)や 葬儀・法要の基本は寺請制度を基にして作られと言っても過言では有りません。

   今回は以上です。

一家一寺

 今回は一家一寺について書かせて頂きました。

 昭和の時代には 一家一寺 即ち檀家制度が一般的でした。この一家一寺制は17世紀後半の江戸時代に制度化された”寺請制度”と共に確立されました。江戸時代 農民の自立化が促進され、そこで家という考え方出来、祖先崇拝も強まり、家の菩提寺として その寺の経済基盤を支えると共に、葬祭や仏事を寺院に委託して行く事と成ります。

 室町・安土桃山の時代には 村は大百姓により支配され、村の寺院や道場は大百姓の菩提寺としての性格が強く有りました。それが 江戸時代に入ると 徐々に大百姓が没落して行き、村は平均的な本百姓により構成される様に成ります、そして 地域共同体としての村を 精神的な結びつきにより強化する為 村惣堂や惣道場と呼ばれる寺院が出来始めます。

 江戸時代初期には それ程 一家という概念は確立されて居らず、同時に妻と夫が別々の寺院に属する等、一家の構成員全員が一つの寺院に所属する檀家制度はまだ確立されて居りませんでした。それが 17世紀後半に幕府より公布された寺請制度により一家一寺が強力に推進されました。同時に家系の考え方も庶民に間に広がる事と成ります。

 檀家制度が確立されると、それまで庶民が石碑を備えた墓を持つことは有りませんでした、家族が亡くなると 共同墓地に埋葬したり、山間に置いて来たりしていましたが、家の確立と共に 家の墓地を持ち、家の墓石を建てる様に成り、先祖崇拝も庶民の間に根付いてゆきました。

 現代のお墓は 農民(庶民)の自立を前提とした、家の確立により、家の象徴 或いは根拠として建てられ始めたと考えられます。又 お墓は 抽象的な祖先崇拝ではなく、家の先祖という具体的な対象を崇拝する形を取る事とも成りました。

   今回は以上です。 

檀家制度

 今回は檀家制度について書かせて頂きました。

 檀家制度は 日本独特の制度であり、寺院は檀家の葬祭供養を独占的に執り行い、それに対し檀家は寺院へ布施を施し 経済支援を行うという、寺院と檀家の関係を指します。この制度は 応仁の乱以降 荘園制の崩壊と共に惣村が生まれ、家という概念が出来始めて進捗し、江戸時代の寺請制度により確立しました。

 檀家とは 壇越(だんおつ)の家という意味ですが、壇越とは 梵語のダーマパティの音写で、寺院や僧侶を援助する庇護者を意味します。仏教伝来の後 有力な氏族は壇越となって、寺院を建立し仏教諸宗派を保護しました。例えば蘇我氏は飛鳥寺を、秦氏は広隆寺を建立して居ります。この壇越が檀家の源流となります。伝来当初は 有力者の信仰対象であった仏教は その後 広く世に浸透し、仏教の庇護者は有力氏族から惣村へ、更には 家単位へと広がって行きました。そして キリシタン禁制を目的とした寺請制度により、檀家制度が始まりました。寺請制度とは キリスト教徒ではない証として、武士・農民・町民を問わず 全ての国民は家単位で 特定の寺院に所属し、寺院の住職は 檀家である証明として寺請証文を発行する という制度です。又 キリシタン改めの責任も壇那寺に委ねられ、それと共に壇那寺に権限も与えられる様に成ります。

檀家の義務として以下の様な事項が定められました;

1 4月8日の釈迦 降誕会、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りすること。

2 説教や 仏法を説く寺院の集会に参加すること。

3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。

4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。

お盆や彼岸の墓参はこの時代に定められた様です。

   今回は以上です。

庶民の葬儀

今回は庶民の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 日本に於いて庶民とは 長い間 農民で有りました。世界でも有数の農業国家であり、多くの農民により 日本は支え続けらてて来ました。その農民が ある時期から 村落(惣村)と言われる共同組織を作り始め、仏教はその村落と結びついて民衆化がより進められる事と成ります。庶民の葬儀も この村落の習俗と仏教を融合させた葬法として作られて行きました。

 鎌倉時代中期までの日本では 荘園公領制度が確立し その作業員である農民は 自らの作業地に居住し、広く散らばった状態で 生活・経済活動が行われて居りました。その後 鎌倉時代後期より 幕府に任命された地頭の進出により 荘園公領制は崩れ始め、農民 自らは 地域運営、水利配分、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛などを契機として 地縁的結合を強め 住居も集合して 村落が形成されて行きます。この様な村落を 地域内に居住する惣て(すべて)の人が構成員となる事から 惣村(そうそん)と呼ばれました。

 惣村の成立と共に 経済力も強化され 寺院を支える事も可能と成りました。南北朝から室町の時代 浄土宗を中心として禅宗、真言宗(密教)、日蓮宗、天台宗、浄土真宗(一向宗)などは 葬祭を中心として民衆化を推し進め、惣村に寺院や道場が作られて行き 葬祭仏教化がいちだんと進む事となりました。

 庶民の葬儀に於きましては 仏教式の葬儀が庶民の中に入るという事だけでは無く、其々の土地に於ける習俗との融合も進みました。この事はその後の江戸時代以降でも同じで 仏教の葬儀では 宗派の違いによる相違と共に 地域による相違は この習俗との融合によるものです。

   今回は以上です。

鎌倉時代の葬儀

 今回は鎌倉時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 鎌倉時代には 貴族階級が没落し、代わって武士が政治を司る事になります。又 宗教としては 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場して来ます。この時代に 栄西が中国から伝えた臨済宗は幕府や主要武士階級の帰依を受け、道元が開いた曹洞宗は地方武士の間で禅宗の宗派として広まりました。日本に於ける葬儀の作法としては この時代に伝えられた禅宗の僧侶の葬法が基本となり、その後 手が加えられて、武士や庶民の葬法として定着しました。

 鎌倉時代の貴族や武士の葬儀の次第を記した資料として ”吉事次第”が有ります。当時は 蔡事という言葉は 忌み嫌われ、吉事 あるいは勝事と言われました。この吉事次第によれば;

人が亡くなると 御座直しが行われます。ご遺体を北枕にして筵(むしろ)の上に寝かし直し、衣でご遺体を覆い、屏風を逆さにしてご遺体の周りに立てめぐらし、枕元に灯明を一本灯して葬儀が終るまで消えない様に守ります。香をたき、夏は死臭を消す為に酢を容器に入れておきます。人々は屏風の外で待機し、僧侶は真言を唱えます。

入棺は まず棺の中に香と土器の粉を敷き詰めます、これは 死臭を防ぎ ご遺体が動くことを防ぎ ご遺体から漏れる体液を吸収するためです。納棺は筵ごとご遺体を棺の中に移し、ご遺体には梵字を描いた布で覆い、頭・胸・足の三ヶ所に土砂加持の砂をかけます。そして 蓋をして、布で縛って、北枕で安置しておきます。

葬儀の日は 早朝に山作所(さんさくしょ)と呼ばれる墓を作ります。同日 素服と呼ばれる白無地の粗い布を素地とする喪服を裁縫し、この素服を着用して 同日夜に御仏供養を行い、出棺となりました。出棺の後は 寝所を竹の箒で掃き、集めた塵と箒を川に流すか、山野に捨てて、灯明を消します。

  今回は以上です。

吉事次第

 今回は吉事次第について書かせて頂きました。

 鎌倉時代に書かれた文献に ”吉事次第” があります。これには 当時の天皇・貴族の間で行われた 葬儀の概略が書かれて居ります。この時代には 蔡事 或いは凶事という言葉が忌み嫌われ 葬儀のことを 吉事  或いは勝事とよんで居りました。

 鎌倉時代には 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が興されました。貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、民衆は厄災に悩まされる事に成ります。日本に於ける 武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。その基になるのは 中国で編纂された禅宗の葬法で、本来は僧侶の為の葬法ですが それに手を加えて 武家や民衆の葬法と変化して行きました。

 吉事次第には 以下のように書かれて居ります。まず人が死ぬと 北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。香は燈火の火を点けて焚く。夏は酢を容器に入れて 死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。

棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。納棺は 褥のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。そして 頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて 葬儀に時まで北枕で安置する。葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで 貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り 荼毘に付す。収骨は 焼骨をカメに納めて土砂を加えて 蓋をし 白の皮袋に包む。そのご遺骨は三昧堂に納める。葬儀・火葬が終れば 貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。

この当時は葬儀の後 魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。七七日と一周忌の法要は以前から有りましたが、この時代から 三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。

   今回は以上です。

葬儀の仏教化

今回は葬儀の仏教化に付いて書かせて頂きました。

 葬儀の仏教化は 平安時代中期以降 聖による 浄土宗・浄土真宗の一般民衆への布教が大きく広がり、その教えである 極楽往生の思想は 葬儀施行の基本概念として確立して行きます。

 986年 比叡山に於いて 25名の僧侶が集まり 二十五三昧会と呼ぶ念仏結社が結成されました。その趣旨は 月の15日ごとに衆僧25名は集結して念仏を誦し、極楽往生を願い、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する事を約しました。その中心となったのが 慶慈保胤(よししげやすたね)と恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)でした。その起請には 毎月15日に念仏三昧を修する事、光明真言を誦して 土砂加持を修する事、阿弥陀如来を奉安した往生院を建て 病んだ結衆はそこの移す、病んだ結衆が往生院に移された場合は 二人一組で昼夜なく付添い 一人は看病 一人は念仏を担当する、ひたすら西方極楽浄土を念じ 極楽往生を念ずる、などが決まりとして述べられて居ります。

 二十五三昧会が結成される前年の985年に 恵心僧都源信は 極楽往生に関する重要な文章を集めた 仏教書 ”往生要集”を著わしました。その内容は十の章から成り、第一章に 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説き、第二章に 極楽浄土を説き、第三章に 極楽往生の証拠を書き、第四章以降に 浄土往生の道 念仏の功徳 念仏修行の方法 なによりも優れているものが念仏である などが説かれて居ります。

 往来要集は その後の日本文学思想などにも大きな影響を与えると共に 本書は 北宋台州の居士 周文徳により 中国の天台山国清寺に持ち返られ 唐末五代の混乱によって散逸した教法を 中国国内で復活させる機縁となったとされて居ります。  

   今回は以上です。

仏教の布教と葬儀

 今回は仏教の布教拡大とその葬儀について書かせて頂きました。

 仏教の伝来以来 当初は天皇家、貴族、豪族を中心に布教活動が行われて居りましたが、奈良、平安と時代が進むに連れて、一般民衆へも広がり始め、死者に対する儀礼としての葬儀も 共に形を整え始めました。

 奈良時代 僧侶になり出家する為には 官度と言い 官の許可が必要でした。私度と言い 官の許可なく出家する事は禁じられ、民衆に対する布教は禁じられたり、制限されたして居りました。しかし 私度僧が多く現れ始め、寺院に定住せず 諸国を回遊しながら 布教を進め 民衆から ”聖”と呼ばれて慕われ始めると 朝廷も 民間仏教を認めざるを得なくなりました。奈良時代 民間仏教の指導者としてその頂点に立つのが 東大寺の大仏建立に協賛し その後 大僧正となった行基です。行基集団は ”死魂を妖祇す”と言われ、死者の弔いに従事していたと考えられています。行基の弟子集団である志阿彌が火葬の技術を伝え、諸国の三昧聖になったとの伝承もあります。

 平安時代中期には 末法思想が広まり 阿弥陀仏の名を唱えて滅罪を願う 浄土信仰が民衆の間に普及し、その僧を念仏聖と呼んで敬いました。平安中期の有名な聖として 市聖と呼ばれた 空也がおります。この空也の集団も火葬に従事していたと考えられて居ります。こうした 民間仏教の拡大は 仏教の民衆化を押し進めると共に 民衆の葬儀の仏教化も進める事と成りました。尚 親鸞も念仏聖であり 聖人と呼ばれました。

 今回は以上です。

平安時代の葬儀(念仏)

 今回は平安時代の葬儀に使われたお念仏に付いて書かせて頂きました。

 平安時代の葬儀の中では 光明真言、呪願、阿弥陀護摩などが行われて居りました。

 光明真言とは 密教の真言(真実の言葉、仏の言葉、呪文)で 願いを仏に直接働きかける事が出来る呪文とされて居ります。その言葉は神秘性を保つ為に 梵字を翻訳せずに 梵音を読誦します。葬儀に於いては 光明真言を108回唱える事により 死者の滅罪を願い、極楽に往生出来る様 仏に願うものです。その梵音と意味する所は;

オン アボキャ ペイロシャノウ

オーム(聖音) 不空なる御方よ 大日如来よ

マカボダラ マニ ハンドマ

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ

ジンバラ ハラバリタヤ ウン

光明を 放ち給え フーン(聖音)

アボキャは不空成就如来を、ペイロシャノウは大日如来を、マカボダラは阿閣如来を、マニは宝生如来を、ハンドマは阿弥陀如来を指しており、金剛界五仏に対して光明を放つように祈願している真言です。そして その功徳は

光明真言は平安時代に始まり、その後 庶民の間にも広まり現在に至って居ります。

 呪願とは 法会や食事の時に 施主の願意を述べて、幸福を祈る事ですが、葬儀では 悪魔を祓い、死者の霊を慰め、極楽浄土に往生する様 祈願する事となります。呪願を執り行う僧侶を呪願師と言います。

 阿弥陀護摩は 密教に於いて 阿弥陀如来を本尊とし 無病息災・延命を祈って焚く護摩ですが、死者の減罪にも力が有ると信じられて居りました。

   今回は以上です。 

平安時代の葬儀

 今回は平安時代中期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 平安時代に入ると それまで度々出されていた 薄葬令が定着しはじめ 従来の山陵を造成して葬る厚葬から、葬儀を地味に行う薄葬へと変化しました。又 この時代に天台宗と真言宗が誕生し、大きな影響を与えます。現代の日本の葬儀の原型はこの時代に作られたと言っても過言では有りません。

 平安時代中期に崩御された一条天皇(1011年6月22日)の葬儀の次第は 新谷尚紀著”日本人の葬儀”によれば;

6月22日一条天皇は危篤状態の中で時々念仏を唱えていたが、正午頃に崩御。

25日に 陰陽師を召して、葬儀の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占なわせる。同日 御体を沐浴の上、深夜に御納棺。御納棺の作業には 天台宗権僧正慶円(後に大僧正、天台座主)を中心に 数名の僧侶と、公卿数名が奉仕し、皇后や宮たちが棺に形代(人の霊を宿す為の人形等)を入れました。

7月8日葬送。素服を裁縫して人々は着用、慶円権僧正が呪願(じゅがん)を行い、院源僧都が導師を務めます。出棺には 御輿の前を2名が松明を持って先導、築垣を壊して道路に出て 御竈所(みかまどどころ、火葬場)に向かいました。葬列には 松明を持った近習が10名、香炉を首にかけて従う役、黄幡(きはた)を持つ役などが従いました。そして御竈所では呪願の後に 僧侶も立会いの下に荼毘を行いました。

7月9日終夜を通して行われた荼毘は早朝に終了し、御骨を皆で拾い白壺に御納めし、慶円権僧正により光明真言が念誦された上で、お骨壺を円成寺にお運びして安置しました。その後 人々は御骸骨所(みがいこつどころ)に祗候(側について奉仕)し、又 阿弥陀護摩も行われました。

7月20日 円成寺内に三昧堂が完成し、御骨を奉納しました。

8月2日 七七日の法要、8月11日 七七の正日の法要、9月12日 初めての月例法要が行われました。

翌年5月27日 円教寺で一周忌の繰り上げ法要が行われ、6月22日に一周忌の正日法要が行われて、葬送儀礼の全てが終了しました。  

   今回は以上です。

三昧

 今回は三昧(さんまい)に付いて書かせて頂きました。

 三昧とは インドに於ける ”サマーディ” が中国を経て日本に伝来する際に変化した仏教用語です。その意味する処は 仏教に於ける 禅定、ヒンドゥー教に於ける瞑想の中で 精神集中が深まり切った状態をさします。日本の仏教の中では 法華三昧や常行三昧が 重要な要素となって居ります。

 法華三昧は 天台宗の宗祖最澄により 日本に紹介されました。最澄は 812年 比叡山に 法華三昧堂を建立してその教えを広めました。法華三昧は 比叡山に於ける 朝題目、夕念仏 と言われる日常修行の一つで、法華経を読経する事によって 身を清め、罪障(極楽往生の妨げになるもの)を消滅させることが出来るとの教えによります。これが 民衆に広まる際 法華経を唱えると 死者の霊を清め、減罪し、地獄に落ちる事が無いとの信仰となり、葬儀の中で重んじられる事に成りました。法華三昧堂は 三昧堂、法華堂とも呼ばれます。

 常行三昧は 同じく天台宗の修行の一つで 阿弥陀仏の名を唱える(念仏)事により 極楽往生を願うもので有ります。法華三昧の減罪と 常行三昧の成仏が 対となって 信仰を広めたと言われて居ります。常行三昧の修行を行う所は常行三昧堂、阿弥陀堂と呼ばれました。東北今泉の中尊寺金色堂は 常行三昧堂の様式に従って建立されたと言われて居ります。

 法華三昧、常行三昧の流行により それを庇護する 天皇家や貴族は法華堂や三昧堂を建立し、死後は そこに納骨をする様になります。その広がりと共に 寺院への納骨が一般化して行ったと考えられます。

  今回は以上です。

天皇家の葬儀

 今回は天皇家の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 天皇家の葬儀は本来 神式で執り行い土葬とされて居りましたが、2013年11月14日に宮内庁より 今上天皇陛下の崩御の際は 陛下のご希望により ご火葬とする との発表がされ 巷では色々とコメントが出されました。

 火葬は仏教の葬法と言われ 仏教の伝来と共に 日本に伝わったと言われ居ります。これは釈尊が火葬された事にちなみます。天皇家は仏教伝来 以前から存在し そのご遺体は土葬にされて居りました。仏教伝来後 天皇家にも仏教に寄衣する方が出始め ご遺体をご火葬する様に成りました。最初にご火葬された天皇は 仏教の信仰に篤かった 第41代の持統天皇で 702年にご火葬とされました。以降 第120代の仁考天皇まで ご火葬が基本となって居りました。そして 幕末に崩御された第121代の孝明天皇以降 土葬に戻されて 現在に至ります。尚 第108代の後水尾天皇から120代の仁考天皇までは 色々な事情から 表向きは伝統の火葬をした事にして 実際には土葬がされました。従いまして 最後にご火葬された天皇陛下は 1617年に崩御された 第107代の後陽成天皇です。

 天皇家の葬儀の例として 第56代の清和天皇の葬儀が有ります。平安時代前期の 880年12月4日に崩御されました。天皇は既に出家の身でありましたので 西方に向かい、仏教式に結座し、両手を組み合わせて 崩御されたとあります。その身はそのまま念珠を手にかけて納棺し 即日 火葬にされました。死後 4日目の12月7日に ご遺骨は埋葬され、7日目の12月10日に初七日、翌日より円覚寺にて 四十九日までの間 昼は法華経、夜は光明真言が 延べ50名の僧侶により誦経されました。そして 1月22日に 円覚寺にて 七七日の設斎が執り行われました。

   今回は以上です。 

御霊信仰

 今回は御霊信仰について書かせて頂きました。

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 奈良時代に始まる 日本の信仰の一つで 人は死ぬと その魂は霊となり肉体から離れると考えられて居り、恨みを持って死んだり 非業の死を遂げた人の霊は 怨霊となって 特定の人を脅かしたり、天災や疫病をさせると考えられました。この怨霊を鎮めて 御霊とする事により 祟りを免れ、平穏を繁栄を祈念する信仰であります。

 史実にもとずく御霊信仰の歴史は ある意味では政争の歴史でもあります。その例で古いものは 775年に 井上内親王が その子供と共に憤死させられ、その祟りにより 夫君であった光仁天皇とその皇太子が病に悩まされた為 777年に 内親王の墓を改葬し 御墓(ごぼ、天皇家の墓)として怨霊を鎮めたとあります。又 平安京への遷都も 皇太子の座を廃され憤死した 早良(さがら)親王の怨霊により 新皇太子が病に侵されたとの 陰陽師の占いによる とされて居ります。

 平安時代に入ると貴族階級の中で 陰陽師による 怨霊鎮魂が盛んとなりました。何か事有る度に 怨霊鎮魂の為の 御霊会(ごりょうえ)が営まれて居ります。又 大宰府に左遷され 非業の死を遂げた 菅原道真の怨霊により 親王や天皇が崩御したとの占いから 御霊会を営むと共に 道真公の霊を北野天満宮にお祀りして 霊の鎮魂を図りました。

 その後 都市住民の間でも 怨霊への信仰が広まり 大規模な災害や疫病などは 怨霊によるものと考えられて 怨霊を鎮魂する為の御霊会は民間でも営まれる様になり、御霊神社も建立されるように成りました。 

疫病を防ぐ為の御霊信仰で有名な祭としては 毎年 7月1日から30日間 営まれる 京都 八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)が御座います。

   今回は以上です。

埋葬

 今回は埋葬に付いて書かせて頂きました。

 埋葬とは 故人様のご遺体を土の中に埋める事(土葬)を指しますが、広義には ご火葬後のご遺骨を墓地や納骨堂等にお納めする事を指す事も御座います。現在の日本に於いては多くの場合 火葬が前提となって居り ご遺体を埋葬する事はほとんど無くなりました。特に横浜等の大都市では 衛生上の観点からも土葬が禁止されて居ります。ご遺骨を埋葬する時期と致しましては 仏教であれば四十九日法要後の忌明けに、神道であれば忌明けの五十日祭に合わせて、キリスト教では1ヶ月後追悼ミサに合わせて埋葬(納骨)するのが一般的です。

 日本に於ける埋葬の歴史と致しましては 旧石器時代の北海道美利河1遺跡の土抗にお墓の可能性がある遺構が発見されて居り、それに続く縄文時代の貝塚などから多くの埋葬行為が確認されて居ります。この時代の埋葬は ご遺体の手足を折り曲げて埋葬された 屈葬が主流でした。弥生時代に入ると 埋葬に当たり ご遺体を収める甕棺や石棺が現れる様になります。又 この時代には 再葬墓と呼ばれる 故人様のご遺体を一度 埋葬し、白骨化するのを待って骨壺に納め直し、埋葬する形態も現れました。何れにしろ 仏教が伝来する前の 古代から中世にかけては 神道を基にした 死は穢れ との思想が強く、貴人の墓地であっても、その管理は疎かでありました。

 ご遺骨は 御骨壺に納められている場合 ご遺骨はほとんど風化しませんが、そのまま 土壌に埋葬されたご遺骨は年と共に風化し、土に還ると言われます。土壌の種類によって差異がありますが、大体 30年でご遺骨は土に還るとされて居ります。

 尚 日本では 墓地埋葬法により 墓地以外の場所、例えば自宅の庭などに埋葬する事は出来ません。違反をすると 死体遺棄罪として罰せられる事が有ります。

   今回は以上です。

もがりの儀式

 今回は”もがりの儀式”に付いて書かせて頂きました。

 もがりの儀式とは 日本の古代に貴人が逝去された際に行われた儀礼で、本葬までの間、もがりの為の屋家を建て、ご遺体を棺に納め その屋家に仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を敬い、かつ慰め、死者の復活を願う儀式です。そして 同時に ご遺体の腐敗や白骨化などを確認して、最終的な死の確認をする為の期間でも有りましたので、もがりの期間はかなり長い期間であったと考えられます。中国 隋の書物によれば 倭国・高句麗ではもがりの期間は3年間であったと記録されて居ります。もがりの後にご遺体は埋葬されますが、長いもがりの期間は 大規模な墳墓を整備する為に必要だったとも考えられます。又 この仮屋家は もがりの宮、あるいは喪屋と呼ばれて居りました。 

 古事記(712年)によれば もがりの宮の中には 旗持ち役、掃除役、死者に食事を供する役、お米を突く役、泣き役の者達が控え、歌舞により死者の霊を慰めたとあります。このもがりの儀式は 大化の改新以降に発令された薄葬令によって 葬儀の簡素化、墳墓の小型化が進められると共に 仏教の伝来により急速に衰退しました。

 もがりの宮は現代でも生きて居り 天皇陛下が崩御された際に仮設される ご遺体安置所をもがりの宮と呼び、皇后・皇太后のご遺体安置所は ひんきゅうと呼ばれます。昭和天皇 崩御の際も 崩御後13日目に ご遺体を納めた柩は御所から皇居内の もがりの宮に移御され、崩御後45日目に行われた 大喪の礼までの間 もがりの宮拝礼の儀などの儀式が行われました。

 現代 行われているお通夜は もがりの期間を1日に短縮したものとの説もあります。又 沖縄や台湾で行われている 風葬や洗骨の風習は もがりの儀式の一形態と考えられます。

   今回は以上です。

葬儀の起源

今回は葬儀の起源に付いて書かせて頂きました。

 葬儀の起源は 非常に古く 4万年以上前のネアンデルタール人の時代と言われて居ります。人類は有史以来 人が亡くなると葬儀を行って来たと言えます。フランスの歴史学者で 死に付いての学問を本格的に開いたと言われる フィリップ・アリエス(1914-1984)は その著書の中で以下の様に書いています。

” 古くより信じられて来た様に、人間は自らが死にゆく事を理解している唯一の動物である、と言う事は、実は確実では有りません。その代り 確かな事は、人間は死者を埋葬する唯一の動物だと言う事です。”

 現代の日本では ご葬儀の90%以上が仏式で執り行われて居ります。そういう意味では 仏式の葬儀の起源が 日本の葬儀の起源とも言えます。仏教は釈迦(釈尊)の教えで有りますので、葬儀の作法は 釈尊が係わった葬儀や 釈尊自身の葬儀を基にして作られたと考えられます。釈尊は長い伝道生活の後、自分の死期を悟り、南方のマガダ国から数百人の弟子を連れて北方に向かい最後の旅に出ました。そして 半年後に クシナガラで 80年の生を終えたと言われて居ります。

 釈尊の尊父は カビラ城の浄飯王で、病の知らせを受けただちに駈け付け、到着の7日後に崩御されました。

葬儀の準備は釈尊と重臣たちにより行われ、まず たくさんの香料を溶かした汁で王の体を洗い、きれいにふき取ったあと、絹の布で全身を覆い棺に納めました。ご遺体の周りを7つの宝石で荘厳し、棺を台座の上に安置して、香をたいて死者を供養しました。棺を火葬場へ送る際は 尊父の恩義に報いる為、釈尊、弟、子供、従弟の四人で棺を担ぎました。血縁の濃い者が柩を担ぐ習慣は これに由来していると言われて居ります。

  今回は以上ですが、次回に釈尊 自らの葬儀に付いて書かせて頂きます。

葬儀の意味

 今回は葬儀の意味に付いて書かせて頂きました。

 現在では 葬儀の形骸化が多くの方々により語られる様に成りました。しかしながら 葬儀は大切な営みであり、ご遺族様の心の拠り所でも御座います。故人さまの生と死は 故人さま特有のものであり、その葬儀も故人さま特有の葬儀であらねば成りません。古来からの習慣、仕来りと共に 故人さまとご遺族のご意向をふまえたご葬儀で在らねばなりません。

 私ども ご葬儀をお手伝いする立場の者と致しましては 葬儀の習慣的な営みの意味を理解すると共に、故人さまの生と死は故人さま固有の価値を持つもので有り、その葬儀は二つとない故人さまの為の葬儀とし、ご遺族の方のお心を大切にした式でなければならない事を自覚しなければ成りません。ご遺族さまの悲しみを理解してお手伝いするには 自分自身が悲しみを感じることの出来る人であらねばなりません。

 現代では 地域社会の結びつきも弱くなり、町内会や団地の組合でも 葬儀を取り仕切る事は稀なケースとなって参りました。そんな中では ご遺族の相談相手として、私共は 心の相談にものれる 葬儀の専門家であらねばなりません。又 以前とは違い、故人さまの葬儀は 故人さま ただ一つの葬儀であり、ご遺族のお心に残る葬儀であらねばならないと考えて居ります。ご葬儀のお手伝いをさせて頂く中で、ご要望を伺い、いろいろな事を学ばせて頂ければと愚考致して居ります。

 ご葬儀の主体は あくまでも故人さまであり、施行の責任はご遺族さまが そして その執行は 僧侶、神職、神父、牧師などの宗教者があたります。私共 葬祭ディレクターは それを側面からお手伝いさせて頂く訳ですが、ご遺族さまとの接触が最っとも多い私共が そのお心をくみ取り、流れの中に反映させねばなりません。

   今回は以上です。

葬儀と文化

 今回は葬儀と文化に付いて書かせて頂きました。

 有史以来 人が亡くなると葬儀が営まれて来ました。その葬儀は 地域、民族、宗教などによって育まれた文化を基にして作りだされて来ました。葬儀は それぞれの死生観を反映するだけでなく、精神文化や生活文化を反映したものともなって居ります。そういう意味では 葬儀は人の生死に係わる総合文化であるとも言えます。

 葬儀文化は 長い歴史を通じて、その地域の人々が培ってきた儀礼ですから、その中に込められた精神は大切にしなければ成りません。又 葬儀には永く 多くの人々が育んできた智恵に溢れています。過去の遺物である と単純に切り捨てる事無く、その中に込められた意味を学ぶ事は大切です。確かに文化は 過去の歴史と その時代を反映して居りますので、内容によっては 現在の事情に合わなくなって来たものもあり、全てをそのまま継承する必要はありません。しかし その文化が どの様な目的で、どの様な歴史の中で形成されてきたのかに 思いをはせれことは、永く続いて来た 文化、習慣、儀礼から古人が何を大切にして来たかを学ぶ事が出来ます。その中から 葬儀が形骸化してしまわぬ様、葬儀の意味を常に再確認して、その時代にあった、そのご遺族にあった葬儀が営める様、心する事が大切です。

 私どもも 歴史の中に連なる者として この時代に生きて居り、古人により育まれた葬儀文化を大切にすると共に、今の時代に必要とされる葬儀文化を築いていかなければ成りません。少子高齢化、人口の都市集中、核家族化、それに伴う地域社会の大きな変容は 多様な死生観ともなり、葬儀の様式も多様化することとなります。私共も 日本の葬儀文化を良く理解した上で、ご葬家様のお気持ちに合ったご葬儀を企画出来る様、心しなければ成らないと考える日々で御座います。

   今回は以上です。

生命の大切さに見合う葬祭儀礼

 今回は人の命の大切さに見合った葬祭儀礼(葬儀)とはを考えてみました。

 人が亡くなるという事は 大切な生命が喪われることです。人の死は 多かれ少なかれ、社会の中で 又周囲の方々のお心の中に危機状況を作り出します。そこで 命に見合う受け留め方が要請されます。葬儀(葬祭儀礼)は 時代や民族や地域の文化にを基に様々な行われ方が有り、又 その文化が持つ死生観によっても 大きく異なります。しかしながら 共通している事は 葬儀は 危機状況を乗り越える為には 手厚い儀礼が必要であると人々に理解され、日常的でない 非日常の特別な事として営まれて来ました。これを制度化、慣習化したものが 弔いの儀礼、葬祭儀礼です。

 故人さまの死を悼んで 人々が集まり 執り行われる葬儀は 集まった人々に 悲しみと人の命の大切さ、生ある人は必ず死ぬべき存在であることを知らしめます。人々は葬儀に接し 故人さまの死の事実に直面し、その事実の大きさから 生の大切さを知り、又 死が終りや無を来すだけのものではないという事を学び取ります。

 葬儀を執り行うと言う事は 人の生と死は 非常に重く、大切なもので有ると言う事を意味します。ご葬儀では 故人さまの生き様に思いをし、ご遺体を大切にし、故人さまに寄せる家族の心、その痛みを思い遣り、そして 会葬に訪れる方々のお心と思い遣りを大切にしなければ成らないと考えます。

   今回は以上です。 

悲嘆へのケアー

 今回は前回に続いて悲嘆へのケアーについてもう少し書かせて頂きました。

 身近な方が亡くなられ 受ける悲しみの体験は人それぞれに千差万別です。家族分散や核家族化が進み、同じ家族であっても 同じ程度の悲しみを体験するとは限りません、ある方々は 故人さまの死を納得し、それ程 悲しみを感じない一方で、少数の特定の家族だけが深い悲しみに陥る事がよく有ります。どなたが どの様な悲しみを体験しているか 周りの方は良く理解をして差し上げる事は大切です。

 最近では長い看護の末に亡くなるケースも多く見られる様に成りました。この様な場合 ご家族は 医師より早い段階で 死の告知を受け まだ入院中の生ある状態であるにも関わらず、死別の悲嘆に襲われる事も見られる様に成りました。更に 老人ホーム、老人病院、或いは その他の医療機関で長期の療養の末に亡くなられるケースでは ご家族だけではなく、付添いの方や看護師さんにも悲嘆の体験が現れる事が有ります。その他 ご家族より親しいお付き合いをされていたご友人等に 悲嘆現象が出る場合も有ります。ご葬儀・中陰の間は ご家族だけではなく こうした悲しみを体験している方々のお心にも ご配慮が必要ではないでしょうか。

 悲嘆のケアーをされる方が ご家族の死に出会った経験をお持ちであれば、その体験を思い起し、その気持ちを大切にして接する事により 共感を得て 悲しみを和らげる事が出来ます。又 そうした経験が無くとも ご自分を相手の立場に置いて 接する事は非常に良い事ではないでしょうか。

   今回は以上です。

死別の悲嘆へのケア―

 今回は死別の悲嘆へのケアーに付いて書かせて頂きました。

 故人さまと死別をされ深い悲嘆に暮れて居る方へのケアーにマニアルは有りません。それぞれ個別の状況により大きな違いが御座います。この事を理解した上で 以下の事に注意する必要が御座います。

1 ”忘れよう”、”頑張れ”、”しっかりしよう”の言葉はタブーです。

  悲しみの中に居られる方に 悲しい事実を忘れさせるさせる様仕向ける事は 一般的にマイナス効果となります。むしろ悲しい事実を見つめる事が大切です。頑張れやしっかりしようの言葉は 励ましのつもりであっても、悲しみの中の方にとっては大きな負担と成りかねません。むしろ 悲しみの状態を理解し 静かに見守ってあげる事が必要です。

2 話を聞いてあげる。

  悲しみの中に居られる方に大切な事は 説教をしたり、助言をしたりする事では無く 同じ目線で その方の想いを聞いてあげる事です。但し 無理に話させる事は 逆効果になる事が有ります。その方が話したい時に、その方の想いを吐き出させ 怒りに対しても遮る事なく その怒りを発散して頂くことが必要です。

3 一人にしない。

  悲しみの中では 孤独感が強くなり、周囲へ反感を持つ場合が有ります、そんな状態の時 大切な事は 気を付けて側に居てあげる事です。監視するのではなく、静かに寄り添ってあげる事が必要です。

4 悲しみを避けない。

  突然の子供さんの死、不慮の事故による親御様の死などでは 可哀想だから、残酷過ぎるから等の配慮で その死がら遠ざける事も有りますが、これは時として逆効果になり 死の現実をなかなか受け入れられない決果になる事が有ります。辛い現実では有りましても 現実に対面する事は大切です。その決果 不安・悲しみなどが様々な形で現れ 情緒が不安定になったり 落ち着きを失ったり、暴力的になったりしても、周囲の方々は 注意して見守りながら、悲しみを表現させる努力が必要です。

5 笑いや休息は不謹慎ではない。

  悲しみにある方が お通夜や葬儀の席で他人の冗談に笑っても、疲れて休息しても 非難してはなりません。悲しみと言うストレスには 笑い、ユーモア、休息は良薬である事を理解すべきです。

  今回は以上です。

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