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お墓の準備

 今回はお墓に付いて書かせて頂きました。

 お墓とは 故人様のご遺体、もしくはご遺骨を葬り、故人様を弔う場所を言い、墳墓(ふんぼ) 墳塋(ふんえい)などとも言います。お墓を設ける区域を墓地と言い、全て ”墓地、埋葬等に関する法律”(墓埋法)により規定されて居ります。又 ご遺体 もしくは ご遺骨を葬る場合には 市区町村役所が発行する 埋葬許可証を提示しなければ成りません。

 墓埋法によれば 墳墓とは ”死体を埋葬し、又は 焼骨を埋蔵する施設” と規定されて居り、土葬墓 火葬墓を総称して墳墓と規定されます。尚 現在の日本では99%が火葬墓ですが、土葬墓も法律的に禁止されている訳ではなく、高知県や山梨県では現在でも10%前後は土葬墓に葬られて居ります。

 墓地は ”墳墓を設けるために、墓地として都道府県知事の許可を受けた区域” と規定されて居り、勝手に設ける事は出来ません。そして 墓地経営は 事実上 自治体による公営か、宗教法人、財団法人のいずれかでないと認められません。又 許可に当っては 通常 ”焼骨の埋蔵に限る” との条件が付加されて居り、一部の地域や信仰上の問題など 特別な事情がある場合を除いては 土葬は困難な状態となって居ります。

 墓地は 経営形態により 村落共有墓地、寺院境内墓地、公営墓地、民営墓地などが有ります。

1 村落共有墓地

   古くから村落が共有して保持していた墓地を追認したもので、新しく認められる事はないと考えられます。

2 寺院境内墓地

   寺院の檀信徒の為に設けられた墓地で、檀信徒は寺院の維持 その他に義務を負います。

3 公営墓地

   自治体の条例 その他で使用条件が定められた墓地です。

4 民営墓地

   管理者と使用者が 対等な契約に基ずいて使用権を取得できる墓地です。名前は宗教法人が運営する墓地でも、実質的には 民営墓地と変わらない墓地も多数 御座います。

   今回は以上です。

墓石の準備

 今回は墓石に付いて書かせて頂きました。

 墓石とは お墓のしるしに建てる石材製品で、現在では墓石の土台部にご遺骨が納骨できる構造となって居り墓碑とも呼ばれます。石材としては 花崗岩(御影石)、大理石、石灰岩、砂岩、野石などが使われます。又 石ではなく、鉄、白銅、木、植物等を素材とした墓碑も御座います。形状としては 和風、洋型、デザイン墓などに分けられます。

 日本には 仏教の伝来とともに 石工の技術も伝来し、供養塔や墓碑として 五輪塔 宝塔 層塔などが支配階級により造られました。その後 鎌倉・室町時代に 禅宗と共に戒名と位牌が中国より伝来し、それをもとにした角型の墓石が造られ、現在の墓石の原型と成りました。更に 江戸時代に檀家制度が確立し、仏事が生活の中に定着すると、庶民の間でも墓石を建立する習慣が定着しました。そして 明治時代中期に家制度が確立すると それまでは個人名や夫婦名で建てられていた墓石は 家単位の墓へと変化し 正面には 〇〇家先祖代々の墓 と刻み、側面に建立者名と建立日、背面に故人名 命日 行年を刻む 現在の形態が出来上がりました。第二次世界大戦後には 洋型の墓碑も登場し、現在のデザイン墓へと変化して行きました。

 墓石の素材としては 硬性の高い花崗岩(御影石)が一般的ですが、本御影石 白御影石 黒御影石 等幾つもの種類が有ります。大理石や石灰石は硬度が低く、加工はし易いのですが、酸に弱い為 酸性雨を長期間浴びると 比較的早めに 碑文が溶解する可能性が有ります。野石は 墓を作る風習が始まった頃には使われましたが、現在では使われません。砂岩は日本では使用されません。

 墓石の形状は 和型、洋型、デザイン墓に大別されます。

和型は二段の台石の上に細長い石を乗せた三段墓で 背の高い形状となります。仏式の和型三段墓は 上から 竿石、上台石、中台石、下台石の四枚の石で構成され、天地人になぞって 竿石を天の石、上台石を人の石、中台石を地の石と呼ばれてもおります。神式の墓石も基本は仏式の三段墓とほぼ同じですが、神式のお墓は奥津城と呼ばれます。

洋型は 台石の上に横長の石が乗る形となり、横の長く背の低い形状となります。ストレート型とオルガン型が日本では一般的です。

デザイン墓は 既成の概念に捉われず故人様への想いを反映させた多種にわたるお墓です。生前に故人様がデザインしたものも少なく有りません。使用される素材も 御影石だけに限らず、金属 アートグラスなど多岐に渡ります。

   今回は以上です。 

友引とは

 今回は友引(ともびき)に付いて書かせて頂きました。

 友引とは 現代の日本で使用されている歴注の一つ 六曜(ろくよう)の中の一日で、葬儀は避ける日として 定着して居ります。六曜は 先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口で構成されます。横浜市内の火葬場も友引の日は原則 業務を休止して居ります。但し 横浜市営火葬場は4ヶ所御座いますが、特別な事情を考慮し 一ヶ所は友引の日でも業務を行って居ります。

 六曜は 14世紀 鎌倉・室町時代に中国より伝来し、一ヶ月(30日)を五等分して、6日を一つの周期とした暦です。六曜は中国で生まれたとされますが、何時の時代に暦として確立されたかは不詳です。俗説としては 孔明六曜星が有名で、諸葛亮孔明が発案し、六曜を用いて軍略を立てたとされますが、三国時代に六曜があったとは考え難く、後世の人がこじつけたとするのが定説となって居ります。六曜には 固有の吉凶・運勢が定められて居り、江戸時代には 勝負事の縁起を担ぐ占いのもととして定着し、明治政府からは 吉凶付きの歴注は迷信であるとして禁止されましたが、第二次世界大戦終了とともに解禁となり、現代の日本に定着しました。六曜は 仏滅や友引など 仏事と関係が有る様に思われていますが、仏教とは一切 関係は有りません。仏教では占いを否定して居り、特に 浄土真宗では親鸞上人が ”日の吉凶をえらぶ事は良くない” と和讃で説いて居り、迷信・俗信一切を否定して居ります。

 六曜は 先勝―友引-先負-仏滅-大安-赤口の順で繰り返し、旧暦の毎月一日が下記の様に固定されて居ります; 1月・7月 先勝、2月・8月 友引、3月・9月 先負、4月・10月 仏滅、5月・11月 大安、6月・12月 赤口。 従いまして 新暦のカレンダーでは 規則正しく循環していたものが ある日突然途切れたり、年によって・月によって六曜が異なる事と成ります。

 友引は 凶事に友を引く を意味し、勝負なき日としるべし と言われ、勝負事で何事も引き分けになる日 とされます。 朝は吉、昼は凶、夕は大吉。但し葬式を忌む と言われます。

又 慶事の際には 幸せのお裾分け として 結婚式の引き出物は 友引の日に発送する習慣も有りました。

   今回は以上です。

六曜とは

 今回は六曜(ろくよう)に付いて書かせて頂きました。

 六曜とは 先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六種類の曜日繰り返す歴注であり、七曜である 火、水、木、金、土、日、月 と共に 今日の日本に於いて影響力を持ち、特に 結婚式は大安の日、葬式は友引を避けるなど、冠婚葬祭の儀式に結び付けて使用されて居ります。七曜との混同を避ける為、六輝(ろっき)とか 宿曜(すくよう)とも言われます。

 六曜は中国で唐の時代に創られたと言われますが、確証は無く その真偽は不明です。何れにしろ 鎌倉・室町時代に中国から伝来し、時代の経過と共に 名称・解釈・順序などが徐々に変化し19世紀初めに現在の形が出来上がり、幕末には 民衆の間に定着しました。各六曜には 固有の吉凶や運勢が定められて居り、勝負事に関する内容が多く、縁起を担ぐことから、元来は勝負師や賭け事の遊び人の間で創られ、用いられたのではないかと考えられております。六曜の中には 仏滅、友引など 仏事と関連が有る様に見えますが、仏教とは一切関係有りません。仏教では占いを否定して居り、仏教に於いては本質的に因果関係によって物事が決まります。従い 六曜が直接原因として物事を左右する事は有りません。

先勝(せんしょう、さきがち)

 先んずれば即ち勝つ の意味で 万事に急ぐ事が良いとされます。午前中は吉、午後2時より6時までは凶とされます。

友引(ともびき)

 凶事に友を引く の意味で 以前は勝負なき日と知るべし と言われ 勝負事で何事も引き分けになる日とされました。朝は吉、昼は凶、夕は大吉。ただし葬式を忌む と言われます。

先負(せんぶ、さきまけ)

 先んずれば即ち負ける の意味で、万事に平静であることが良い とされ、勝負事や急用は避けるべきとされます。午前中は凶、午後は吉。

仏滅(ぶつめつ)

 仏も滅ぼすような大凶日 の意味で 物滅が近年になって仏の字に当てられました。六曜の中で最も凶の日とされ、婚礼等の祝儀を忌む習慣があります。

大安(たいあん)

 大いに安し の意味で、六曜の中で最も吉の日とされます。何事においても吉 成功しない事はない日とされ、婚礼はこの日が選ばれます。

赤口(しゃっこう)

 万事に用いない悪日 とされ、陰陽道の ”赤舌日”という凶日に由来します。午の刻(午前11時から午後1時頃まで)のみ吉で、それ以外は凶とされます。

   今回は以上です。

日本の葬儀の習俗

 今回は葬儀に関連した習俗に付いて書かせて頂きました。

 日本に於いて 葬送儀礼を行う事が一般庶民の間で定着し始めてから約300年が経とうとして居ります。この間では いくつもの習俗が造られ 施行されて参りました。野辺の送り、湯灌、魂呼び、食い別れ、耳塞ぎ、歳違え、犬弾き などが有り、地域によっては 現在でも執り行われて居ります。

 野辺の送りは 墓地や火葬場へ故人様のご遺体をお送りする際には列を組んでお送りすることを言います。葬列とも言いますが、大正・昭和時代に告別式が行われる様に成るまでは 葬送儀礼の中心となって居りました。野辺の送りには 宗派や地域により様々な様式が有りますが、一般的には 松明・提灯・六道を先頭にして、銘旗・花籠・香炉・四華・禅・位牌・遺影写真・天蓋・柩と続きます。葬列での役割は故人様との関係によって決められますが、ご位牌は喪主様、ご遺影写真は次に親しい方となります、地域によっては 枕飯は喪主様のご妻女が持つとされるところも有ります。又 野辺の送りの際は 死霊が家に戻らぬ様にと、道の辻では柩を回し、往路と帰路は道を変える、埋葬に使用した道具は捨ててくるなどの風習も有りました。

 湯灌は ご遺体を納棺する前に 逆さ水(普段とは反対に 水に湯を加えて作るぬるま湯)でご遺体を洗い清める習俗です。ご親族がご遺体に触れる最期の機会でもあります。現在では 病院に於けるエンゼルケアーにより ご遺体は看護師の手で清められて居りますので、湯灌をする事は少なくなりました。

 魂呼びは 故人様の枕元、自宅の屋根の上、井戸の中に向かって、海に向かって、故人様の名前を大声で呼ぶ習俗です。身体から遊離してゆく霊魂を呼び戻し 死者の蘇生を願うと共に、その御逝去を確認して 故人様を愛惜する儀式と考えられます。

 食い別れは 飲食は人同士の交わりを象徴するもので有り、故人様と食事を共にする事は 故人様と最後の交わりを持ち お別れを行うと考えられます。葬儀に於いては 通夜振る舞い、出棺に際しての 出立ちの膳(現在では行われていない)、精進落としなど 飲食をする機会が多く有ります、参列頂いた方や お手伝い頂いた方々への御礼と共に 故人様との 食い別れという性格を持つものでもあります。飲食には 故人様の魂を鎮め、死の穢れに対抗し、これを祓う力が有るともされます。

 耳塞ぎや歳違えは 近隣の方が亡くなられた時、死者と同年齢である方は死の穢れに染まり易いので、これを回避する習俗です。餅などで耳をふさぎ、死の知らせを聞かないようにします。又 豆を食べて 年を取り越し、死者との年齢を違えてしまいます。

   今回は以上です。

散骨

 今回は散骨に付いて書かせて頂きました。

 散骨とは 故人様のご遺体をご火葬し その焼骨を粉末状にして 海、空、山中、宇宙 等え 撒く葬送方法です。日本に於いては ”墓地 埋葬に関する法律(墓埋法)” により ご遺体やご遺骨の埋葬に関し その方法が定められて居りますが、散骨に関しては 直接の規定は無く、”節度を持って行われる限りは 違法性は無い” とされて居ります。海外では国により規定が有る場合が有りますので 注意が必要です、例えば ハワイでは散骨方法の法律が有り、規定に従はない場合は処罰の対象となります。又 ブータンでは 宗教上の理由から 伝統的に墓は作らず 散骨が基本となって居ります。

 散骨を 陸地で行う場合、まず 他人の私有地では 所有者の許可を得ずに行う事は出来ません。公有地に於いては 管理機関による特別な規定がなければ可能と考えられます。但し 東京都西多摩郡で起きた問題の様に 生活用水の水源地周辺での散骨は避けるべきでしょう。又 自己の私有地では可能ですが、近隣の住民からクレームが付く場合が有ると共に、散骨された不動産は売買が困難になる場合が有ります。北海道長沼町では2005年に”散骨を規制するための条例”が制定され、一定の規制がかけられました。散骨をされる前に 該当市区町村の規定を確認する必要があります。

 海で行う場合は 港湾、漁場、養殖場のある場所を避け、更に湾岸より5Km以上離れれば問題は起きません。

 空では 焼骨を きちんと粉末状にして行えば 問題は起きません。

 又 現代では 宇宙葬の予約が始まって居ります。これは 焼骨の一部を粉末状にし、容器に格納して宇宙に運び、散布するものです。

 散骨の例と致しましては 皇室では 淳和天皇は840年に崩御し 遺勅により 京都大原野西院にて散骨されました。又 墓地が信奉者たちにより聖地化される事を防止する為 極東国際軍事裁判での死刑判決者の遺骨はGHQにより東京湾に遺棄されました。ナチスドイツの死刑判決者の遺骨も同様です。同様の理由で 中華人民共和国の指導者も 毛沢東を除き原則として散骨されて居ります。 

   今回は以上です。

葬儀にの施行

 今回は葬儀に付いてつれずれに書かせて頂きました。

 葬儀の施行では 大きく分けて二つの目的を果たさねばならないと思います。一つはご遺族による故人様との最期のお別れであり、もう一つは一般の方々による故人様との告別です。通夜までが前者であり、葬儀・告別式が後者を目的にして居ります。その意味では 一般の方々は 御自身のご都合は別として 通夜への参列は避け、葬儀・告別式に会葬されるべきではないでしょうか。

 以前の日本に於ける 葬儀当日の流れは以下の様な形でした;

① 内葬礼、② 庭葬礼、③ 葬列、④ 寺内葬礼、⑤ 埋葬(火葬)

内葬礼は ご自宅での葬儀式で 最後に家族で食膳を囲みました(別れの膳、出立の膳)。

庭葬礼は 葬列を組む前に 庭で庭葬礼を行い皆さま方のお別れを受けました。ある意味では この庭葬礼が 現代の告別式の原型とも言えます。

葬列は 故人様のご遺族と関係者が それぞれの役割をになって列を組み ご遺体をお寺に移送しました。

寺内葬礼は お寺の本堂内でお経をあげて頂く最後の葬礼です。この祭礼の後に 埋葬 或いは火葬と成りました。

 今では 内葬礼と寺内葬礼がどちらか一つに収束し、庭葬礼と葬列が告別式へと変化致しました。告別用の装飾壇は お柩を運ぶ輿を原型として居り、装飾壇の前に 寺内葬礼で使用する前机を置いて、現在の宮型祭壇となりました。花祭壇は宮型の装飾壇を置き換えた祭壇となります。

 出棺前の儀礼としては 茶碗割り や 釘打ちが有ります。茶碗割りは 故人様が愛用していた茶碗を割る儀式で 故人様の死霊が戻らぬように と言う意味と、故人様はもう戻らないとご遺族が自覚する 意味を持ちます。釘打ちは 石で柩の蓋に釘を打ち止める 事で、石には死霊を封じ込める力があると信じられて居りました。又 釘のない平安時代などでは 柩を荒縄で巻いていたようです。

   今回は以上です。 

日本文化古来の神道

 今回は神道(しんとう)に付いて書かせて頂きました。

 神道は 古代日本に起源をたどる事が出来る日本独特の宗教で、日本各地の民俗信仰や自然信仰を基にし、中央・地方の政治体制とも関連しながら、自然に生まれた神観念で、時代とともに徐々に形成されてきた、八百万(やおよろず)の神をもつ多神教で、祖霊崇拝性をも 強く持つ宗教です。その神々は身近におり、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える 守護神でもあります。神道では キリストや釈迦のような開祖は存在せず、聖書や教典も存在しません、浄明正直 (浄く、明るく、正しく、直く) を徳目とし、具体的な教義は 神社と 神社が執り行う祭から学ぶ事が出来ます。

 神道は 日本の風土や 日本人の生活習慣を基に 自然、自然現象、人物を 神とした宗教で、縄文時代を始まりとして 弥生時代から古墳時代に原型が形成されたと考えられて居ります。日本で神道 という言葉が初めて出て来るのは 日本書記の中の 用明天皇紀で、”天皇 仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまう” とあります。日本国内で独自の進化を進めていた神道は 奈良時代の 仏教伝来と共に 神仏習合がされて江戸時代末までこの状態が続きますが その間 伊勢神道を始めとして 吉田神道などの各派が 複雑な教理を作り上げて行きました。そして 神道各派の教理が 尊王攘夷思想として広まり、討幕の理論根拠となって行きました。従いまして 明治政府は神道国教化を前提として成立し、五箇条の御誓文も 国家神道の影響を受けて作られ居ります。明治政府は神仏分離を行うと共に 神道国教化を図りますが、欧米列強に対抗する為の 近代化政策上 信教の自由 を認めざるを得ませんでした。しかしながら 明治時代 西欧の近代的な宗教概念が日本に輸入され、宗教学が本格化すると 学問上 ”神道” の語が確立し、世の中に定着して行きました。

 神道の神々をお祀りする社を 神社と呼びますが、全国の神社の大部分は 神社本庁(宗教法人)が統括して居ります。文化庁の宗教年鑑によれば 日本国内で8万5千の神社が登録され、信者数は1億600万人とされて居ります。この信者数は 神社側からの自己申告ですので、地域住民を全て氏子として申告したり、参拝者 全てを氏子と計算するなどの例によるものと考えられます。

   今回は以上です。

仏教あれこれ

 今回は仏教に付いて書かせて頂きました。

 仏教は 紀元前500年頃 インド北部のガンジス川中流域で釈迦(ガウタマ・シッダ-ルタ)を開祖として起こった宗教で、キリスト教・イスラム教を合わせて世界三大宗教の一つとされます。但し 現在 信徒の数としては ヒンズ-教の次の第四位に位置します。その教えは 仏教誕生の地である ネパールの世界観 輪廻と解脱の考えに基ずき 人の一生は苦であり 輪廻の中で苦しみ続けなければならないが 修行により解脱を目指し 解脱出来れば苦しみから抜け出す事が出来る とされました。又 釈迦の思想の中には 偶像崇拝の概念は有りませんでした。

 仏教では 生前の業 や臨終の心の状態により 次の転生先に輪廻するとされます。転生先は 六道であれば 天・人・餓鬼・畜生・地獄・修羅 があるとされます。生前に良い行いを続け 功徳を積めば 次の輪廻では良い境遇に生まれ変わり、悪業を積めば厳しい境遇に生まれ変わる とされます。仏教に於ける信仰とは 他の宗教と異なり 帰依と表現され 仏教に帰依する事で、信仰対象に対する絶対服従とか 神や仏陀との契約という様な考え方は存在しません。この考え方に基ずくものが 初期仏教 或いは原始仏教と呼ばれるものです。

 これらの教えは 釈迦の入滅後 弟子たちの口伝により 広くひろまりますが、徐々に解釈が異なる様になり、上座部仏教と大衆部仏教に大きく分かれる事となります。上座部仏教の一部は スリランカに伝わり その後 ビルマ・タイなどの東南アジアに伝播して 南伝仏教とも言われました。又 紀元前後には 自身の輪廻と解脱だけではなく、積極的に一切の衆生を済度する教え 大乗仏教が起こり、この考え方が広まり アフガニスタンからシルクロード(中央アジア)を経由して中国 韓国 日本へと伝来しました。中国へは紀元後一世紀、朝鮮半島へは4世紀、日本へは538年に伝来したとされます。

   今回は以上です。 

奈良時代の仏教

 今回は奈良仏教に付いて書かせて頂きました。

 西暦538年(552年ともいわれる)に日本に伝来した仏教は 聖徳太子の庇護の下、鎮護国家の経説・儀礼として飛躍的発展を遂げます。この奈良時代に 平城京を中心として栄えた仏教の宗派を総称して奈良仏教と呼び、主なる宗派が六つ有った事から 南都六宗とも呼ばれます。その宗派は 法相宗(ほうそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう、法相宗の付宗)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)の六派です。

 中国より伝来した仏教は 律令国家 創立の為の理論として重きが置かれ、その業は 教理の研究が中心と成りました。従い 研究・勉学の場である 寺院が特定宗派を奉じる事はほとんど有りませんでした。又 当初 これらの宗派は 法相衆 や華厳衆と呼ばれて居りましたが、東大寺の大仏が完成した 748年頃から 宗の字が充てられる様になったと言われて居ります。奈良時代 仏教の学僧は 仏教の研究が主たるもので 宗教上の実践行為は 鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行うだけで、平安・鎌倉時代の様な民衆の救済活動に重きを置いた活動は行われませんでした。唐に渡り法相宗を学んだ道昭は この様な状態に飽き足らず、帰国後 日本各地に赴き 民衆と共に橋を掛けたり、井戸を掘ったりしながら、民衆への教宣活動を行ったとされます。民衆への教下活動で有名な 行基は道昭の弟子です。

 奈良仏教の主なる宗派と寺院は以下の通りです;

法相宗 開祖 道昭、大本山薬師寺・興福寺

倶舎宗 開祖 道昭、大本山興福寺 総本山東大寺

三論宗 開祖 恵灌、東大寺南院

成実宗 開祖 道蔵、元興寺(飛鳥寺) 大安寺  

華厳宗 開祖 良弁・審祥、総本山東大寺

律宗  開祖 鑑真、総本山唐招提寺

聖徳宗 開祖 聖徳太子、総本山法隆寺

真言律宗 開祖 叡尊、総本山西大寺

   今回は以上です。

天台宗とは

 今回は天台宗に付いて書かせて頂きました。

 天台宗は 中国の智顗(ちぎ 538-597)が開創した 妙法蓮華経を根本経典とする 大乗仏教の一宗派で 浙河省天台山国清寺を本山とします。日本では 比叡山延暦寺で修行中の最澄が805年 唐に渡り 天台山にのぼって 天台数学(円)、密教、禅、律を伝授され、806年に帰国し、延暦寺に戻って天台法華円宗(天台法華宗)を開創します。天台宗は 平安時代 奈良仏教にあきたらない多くの学僧に受入れられ 日本仏教の母胎となり、その学僧の中から 平安末期から鎌倉時代にかけて新しい宗派を唱えた 融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などが輩出しました。又 伝教大師最澄は 866年7月に 清和天皇より”伝教”の大師号が贈られて居ります。

 伝教大師最澄は 全ての衆生は成仏出来るという 法華一乗の立場を説き、当時は認められていなかった 大乗戒壇を設立して、大乗戒を受戒した者は天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間 比叡山に籠山して 学問・修行を修めるという革新的な構想を立ち上げ、当時 奈良仏教に飽きていた朝廷は この考えを受入れて、天台宗は平安時代の新しい仏教として認められる事と成りました。

 天台宗の修行は 法華経の観心に重きを置き、その修行は 朝題目・夕念仏という言葉で集約されます。すなわち 午前中は 題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法)を行います。この作法が発展して 後の ”念仏” という新たな仏教展開の萌芽と成りました。

 天台宗に於ける密教は ”台密”と呼ばれ、真言宗の密教を ”東密”とよびます。又 天台宗は 座禅に関する造詣が深く、日本の禅宗に座禅の教科書として強い影響を与えました。架空の人物である 達磨大師は 実は天台大師ではなかったか という 天台大師達磨大師説が唱えられても居ります。

   今回は以上です。

真言宗とは

 今回は真言宗に付いて書かせて頂きました。

 真言宗は 平安時代の9世紀初頭に空海(弘法大師)によって開かれた 日本の仏教の一宗派です。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称します。空海は804年に唐(中国)に渡り、長安の青龍寺で恵果より真言密教を学んで、その秘法を伝授され 日本へ帰国後 高野山金剛峰寺と 嵯峨天皇より勅賜された 平安京の教王護国寺 八幡山東寺を修行場として真言宗を開きました。法身仏(絶対者)である大日如来をご本尊とし、その教義は即身成仏と密厳国土のもと 身(しん)、口(く)、意(い)という人の三っの働き(三密)において 手に印を結び、口に真言を唱えて、心を静めて三昧(さんまい)の境地にはいれば即身成仏できると説きます。

 空海は835年 62歳で高野山で入定しましたが 入定に際し 住持していた寺院を弟子達に付属しました。そして これらの寺院は年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院は独立性を持つ事と成ります。まずは 東寺と金剛峰寺の主導権争いが起き、東寺長者が金剛峰寺の座主を兼ねることで結着します。その後 金剛峰寺は落雷により伽藍・講堂を焼失し、無人の状態にまでなりますが、菅原道長が高野山参拝をした事により、皇族・摂家・公家などの支援を受け復興します。そして 又 派閥争いが起こり 古儀真言宗と 新義真言宗に分かれて行きます。

江戸時代に入り 1615年 徳川家康は 真言宗諸法度を出し 真言宗全体を幕府の管理下に置くと共に、その後の寺壇制度により、本山・末寺は財政的な安定を得る事となりました。但し 一部に綱紀のゆるみも生む事と成ります。

そして 明治政府の神仏分離と それに伴う廃仏棄却など困難な時代を乗り越え、昭和14年の宗教団体法成立に伴い宗派は統合され真言宗として一本化されました。戦後は分派独立が相次ぎ、現在は約50の宗派が有りますが、その内 主要な16派 18総大本山は 各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的として 真言宗各派総大本山会を設立して融合を図って居ります。

   今回は以上です。

修験道とは

 今回は修験道に付いて書かせて頂きました。

 修験道とは 平安時代末期 日本古来の古神道を包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教・道教・陰陽道などの呪術的行法が融合された 神仏習合に宗教です。山に籠って厳しい修行を行い 即身成仏して 衆生の救済を目指す実践的な宗教です。創始は奈良時代の呪術者 役小角(えんのおずの)(尊称;役行者)によると言われ、江戸時代には 大和(奈良)金峰山を中心とした真言宗系の当山派と 熊野の聖護院を本山とする天台宗系の本山派に習合され 現在は 御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教、他が布教を行って居ります。

 修験道は 日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行う事によって 超自然的な能力(験力)を会得し、民衆の救済を目指す実践的な宗教でもあります。この修行者の事を ”修行をして迷妄を払い験徳を得る者” と言う事で 修験者、或いは 山に伏して修行を行う姿から 山伏と称しました。又 験徳を得る道を修験道と呼び ”修行をし己の心体を鍛え磨き追及し其之成果を験す 確かめ表わす道” と考えました。修行の場所となる霊山は 日本全国に存在しますが 中でも 日本古来の山岳信仰の対象であった 大峰山(奈良県)や白山(石川県)、そして 平安時代 天皇をはじめ多くの公家が参拝をした 熊野三山(本宮・新宮・那智の三宮)が著名です。

 修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏が共に祀られ、表現の形態としては 権現(神仏が仮の姿で現れた神)等の神格や 王子(参拝途上で儀礼を行う場所)があります。修験道と言うと 神道の側面が強そうに思えますが、実際には仏教としての側面が極めて強い宗派と考えられます。

 修験道独自に有名な神としては 蔵王権現(ざおうごんげん)、愛宕権現(あたごごんげん)、若一王子(にゃくいちおうじ)、九十九王子(くじゅうくおうじ)、前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)、一言主(ひとことぬし)、天狗(てんぐ)などが居られます。

 神奈川県内の霊山としては 大山、大雄山、箱根山がございます。

   今回は以上です。 

鎌倉仏教 日蓮宗系

 今回は日蓮宗系に付いて書かせて頂きました。

 日蓮宗は 鎌倉仏教の宗派の一つで日蓮上人を開祖とし、法華宗とも称されて居ります。日蓮上人の没後 多くの弟子達により布教が行われ、それに伴い 多くの派にも分かれて居りますので、日蓮宗系とさせて頂きました。日蓮上人は釈尊の教えの全ては法華経(妙法蓮華経)に凝縮されて居り、久遠の本仏として釈尊を諸仏の根源とすべきこと、滅後末法の世の衆生の救済は法華経の護持によりなされる、そして 南無妙法蓮華経(法華経に帰依する の意味)を題目として唱えよ と説きました。日蓮宗の総本山は 山梨県南巨摩郡身延町の 身延山久遠寺で ご本尊は三宝尊です。三宝尊とは 仏・法・僧の三宝をさし 仏の第一を釈迦如来、法の第一を法華経、僧の第一を日蓮大菩薩(後光厳天皇より、大正天皇よりは立正大師が贈られる)として祀られます。

 日蓮は 1222年安房国(千葉県鴨川市)の小湊で生まれ、11歳で地元の清澄寺の道善房に入門し、16歳で出家し是正房蓮長の名を与えられ、23歳の時 比叡山にのぼり就学し、その後 三井寺、薬師寺、高野山、天王寺、東寺などで遊学し、1253年 31歳で安房の清澄寺に帰山し 4月28日 朝 日の出に向かい 南無妙法蓮華経 と題目を唱えました(立教開宗の日)。そして 名を日蓮と改め、翌1254年 鎌倉に出て 辻説法を始めます。各地で辻説法を説き、1260年 立正安国論を著し、鎌倉幕府に建白しました。この建白により 日蓮は 幕府や他宗派より迫害を受けることとなります。1261年からは 伊豆国伊東へ、1271年からは佐渡へ流罪となりますが、その間にも 各地で辻説法を続け、”開目抄” ”観心本尊抄”などを著述し、法華曼荼羅を完成させました。1274年春 流罪赦免ののち 鎌倉で幕府に対し法華経 国教化の建白を行い、身延の地頭であった南部実長の招きを受けて、身延山に入山し、身延山を寄贈されて 身延山久遠寺を開山しました。1282年 病を得て 常陸国へ湯治に向かう途上 武蔵国の池上宗仲氏の邸宅近くに建立された一宇を開堂供養し 長栄山本門寺(通称池上本門寺)と命名。その一ヶ月後 10月13日 池上邸で逝去。享年は61歳でした。

 日蓮宗(法華宗)は 日蓮の死後 弟子たちにより各地で布教が行われましたが 法華教団は発展と共に分化されて行きます。多くに分かれた日蓮宗は1941年(昭和16年)政府の指導により 日蓮宗と法華宗の二つに統合されましたが、戦後は再び各宗派に分かれました。又 日蓮正宗は 日蓮の弟子 日興の流れをくむ派ですが 日蓮本仏の立場を取ります。

   今回は以上です。

日本のキリスト教

 今回は日本のキリスト教について書かせて頂きました。

 キリスト教の日本への伝来は 16世紀 ローマカトリック教会の一派であった イエズス会のバスク人司祭 フランシスコ・ザビエルによるとされて居ります。戦国時代のさなか 1549年ザビエル達イエズス会の宣教師により布教が開始され、織田信長の庇護を受ける事に成功し順調に信者を増やしましたが、仏教徒や神道徒を迫害する事例などから豊臣秀吉から宣教の禁止が出され、更には徳川幕府の鎖国令に伴い禁教として信仰を禁止されました。キリシタン(キリスト教徒)は地下に潜り 隠れキリシタンとして信仰を伝える状態が江戸時代末まで続きます。明治時代に入り信教の自由が許されると ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教、プロテスタント各教が相次いで来日し 布教活動を開始しました。現在の日本では ローマ・カトリック教会は カトリック中央協議会となり、ギリシャ正教会系は日本ハリストス正教会教団として活動して居ります。プロテスタント系では 最大の教団として プロテスタント諸教派が合同してできた日本基督教団、他に 英国国教会系の日本聖公会、ルター派の諸教団(ルーテル教会)などが有ります。

 日本へキリスト教が何時 伝来したかに付いては諸説御座います。その一つは 5世紀頃 中国で景教と呼ばれていた ネストリウス派キリスト教が 秦河勝(はたのかわかつ)などにより 日本に持ち込まれたとする説が有りますが 歴史的な証拠や文書による記録が少なく 定説とななって居りません。16世紀 イエズス会来日の背景は ローマ・カトリック教会の 権威回復と収入拡大に有ります。16世紀 ドイツで起きた マルティン・ルターによる宗教革命は ヨーロッパ各国に波及し、教皇の権威に陰りが見え始めました。プロテスタント勢力への対抗上、新たな信者を増やし 献金を期待して 教団の目はアジアに向けられ、イエズス会やフランシスコ会の多くの宣教師が インドや東南アジアに派遣され 更には極東の日本にまで進出する事と成りました。

   今回は以上です

神道の葬儀 神葬祭

 今回は神葬祭について書かせて頂きました。

 神葬祭とは 日本古来・固有の宗教である神道の葬儀を言います。神道に於いては ”人は皆 神の子であり、神の計らいにより母の胎内に宿り、この世に生まれ、この世での役割を終えると神々の住まう世界に帰り、子孫たちを見守る” と考え、従って 神葬祭は 故人様に家の守護神となって頂く為の儀式であります。神道に於いては死は穢れとされて居り、神葬祭は聖域である神社では行わず、自宅 又は別の式場で行います。又 仏教に於ける戒名・法名に代わり 諡(おくりな)が贈られます。

 神葬祭を執り行うに当たりましては まず斎主(葬儀を担当する神職)様にその手順、注意事項を確認頂く必要が御座います。その上で ご納棺の前に行う事は以下の通りです;

1 まず神棚と祖霊舎(ご先祖を祀る舎)に 故人様が帰幽(ご逝去のこと)したことを奉告し、その後 前面に白紙を貼ります。

2 病気平癒などを祈願した神社があれば、その祈願を解き 故人様の帰幽を奉告します。ご自分で神社に礼拝出来ない場合は 代参を送るか、遥拝(ようはい 遠くより礼拝)により奉告します。

3 葬儀執行の為の 斎主、副斎主、祭員、伶人(れいじん 雅楽を奏でる人)などを委嘱します。

4 各祭で必要な 幣帛(へいはく 進物)、神饌(しんせん 食物)、玉串、その他 の数量や程度を協議し決定します。

5 霊璽(れいじ 仏教の位牌)、墓誌、銘旗、墓標等の揮毫を依頼します。

以上を終えましたら 枕直しの儀に入りますが 以降は次号で書かせて頂きます。

   今回は以上です。

神道の葬儀 神葬祭Ⅱ

 今回は前回に続き神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭は 日本古来の宗教である神道の葬儀ですが、全国的に統一された式次第(祭式)が有る訳では有りません。神道は 日本古来の自然崇拝・祖先崇拝を基調として自然発生的に生まれた民俗信仰だからです。従いまして 地域によって、神社によって、更には斎主となる神職によっても 異なった祭式となります。とは言え 大きな混乱を招かぬ様、神社本庁では ”神葬祭の栞(しおり)” という小冊子を用意して 信徒の方のお手伝いをして居ります。

 前回は納棺前に行う事を書かせて頂きましたが、それ以降 神葬祭の最初の儀式であります 枕直しの儀 からご説明致します。

ご逝去されたご遺体には 白の小袖をお着せし 病室から殯室(ひんしつ ご遺体を安置する部屋)にお移しします。殯室では ご遺体は頭を北 若しくは 部屋の上位に向かって右に来るように 安置します。そして 白布で顔を覆い、枕元に枕屏風を立て、小案(小机)を備えて その上に守り刀を置き灯火を点けます。守り刀は柄を向こうにして 刃をご遺体に向けない様に置きます。ご遺体の前には 案(白木八足の机)を設けて 上に 故人様が生前好まれた常饌(じょうせん 日常の食べ物) や生饌(せいせん 洗米・塩・水)をお供えし、御家族やご親族は謹んで ご遺体の側近くでご奉仕します。

 次には 納棺の儀式 となります。ご遺体を棺にお納めする儀式ですが、まず ご遺体を湯灌などによりお清めして、神衣をお着せします。男性であれば 白の狩衣に烏帽子を被らせ、女性であれば白の小袿に扇を持たせて 柩にお納めします。お納めした後に 柩の蓋を閉め、白い布で柩を覆い、正寝(表座敷 神葬祭式場)に移動して、柩前を装飾し饌をお供えして 全員で拝礼します。尚 地域によりましては 柩の蓋をする前に 榊の葉に水を付けて口を湿らせる 末期の水 の行事を行う場合も御座います。

   今回は以上ですが、次回は通夜祭以降を書かせて頂きます。

神道の葬儀 神葬祭Ⅲ

 今回も前回に引き続き 神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 神葬祭は神道に於ける葬儀式ですが 前回までの枕直しの儀、納棺の儀 に続きまして 通夜祭、遷霊祭、蔡場祭、火葬祭、埋葬祭、帰家祭、直会、そして 御霊祭と執り行われます。又 神葬祭に於いて 仏式との相違は 戒名・法名に代わり 諡(おくりな)が贈られ、その諡は霊璽(れいじ 仏式の位牌)に記されます。更に線香は使わず 代りに玉串を使用します。玉串とは 榊などの木の枝に紙垂を付けたもので、この紙垂は 参拝者の真心を表わすものとされます。

 通夜祭は 故人様がご逝去された後 葬儀を行うまでの間 ご遺体に付添い生前同様の礼を尽くして手厚く奉仕する大切な儀式です。通常は遷霊祭の前夜に行うのが一般的で、仏式の通夜式にあたります。

 遷霊祭とは 故人様の霊を ご遺体から霊璽に遷し留める儀式で、御魂移しの儀が 主なる目的で、本来は夜間に灯火を消して執り行います。神職は祝詞を奏上し、ご遺族・参列者は玉串を奉って拝礼します。現代では昼間に執り行うのが普通と成りましたので、夜を象徴するように 部屋を暗くして執り行う事が一般的と成りました。

 蔡場祭は 遷霊祭の後 故人様との最後の別れを告げる儀式で 神葬祭最大の重儀です。弔辞の奉呈、弔電奉読、神職による祝詞奏上、玉串奉奠などが行われます。仏式の葬儀・告別式に当る儀式です。

 火葬祭は ご遺体を火葬に付す前に、火葬炉の前で行う儀式で、神職が祝詞を奏上し、ご遺族は玉串を奉って拝礼します。

 埋葬祭は ご遺骨を墓地の奥津城(神道のお墓)に納骨する儀式で、奥津城の四方に竹を立てて 注連縄で囲い、ご遺骨の埋葬、祭詞奏上、ご遺族の拝礼が行われます。神葬祭では火葬を終えたご遺骨は そのまま墓地へ移動して埋葬します。しかしながら 最近ではご遺骨をご自宅に持ち返り、五十日祭で埋葬されるケースも多くなりました。

 帰家蔡 と直会(なおらい)は ご火葬・ご埋葬を終えてご自宅に戻りましたら、神職のお祓いを受けて家の門戸に塩をまきます。その後 神棚と祖霊舎(仏式の仏壇)に葬儀が滞りなく終了したことを報告します。その後に 葬儀でお世話になった神職、世話役などの労をねぎらい、直会を開いてもてなします。直会の終了により 葬儀に関する儀式は全てを終えることとなります。

   今回は以上です。

神道の葬儀 神葬祭 Ⅳ

 今回は神葬祭のⅣ回目を書かせて頂きました。

 神葬祭では ご遺体の埋葬を終え、帰家祭 直会をもって一段落となりますが、以降 百日祭までを霊前祭、一年祭以後を式年祭といい 節目毎に故人様の霊に考敬を尽くします。霊前祭には 翌日祭、十日祭、二十日祭、三十日祭、四十日祭、五十日祭、百日祭が有り 夫々 霊前・墓前に考敬を尽くします。式年祭は 一年祭、三年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭、五十年祭と続きますが、二十年祭までが一般的と成って居ります。尚 年数は仏教とは異なり満年数で行います。

 霊前日供の儀

霊璽を祖霊舎に合祀するまで(五十日祭まで)は 霊前に朝夕の二回 常饌(日常の食物) あるいは生饌(洗米、塩、水)をお供えします。

 霊前祭

翌日祭; 葬儀の翌日に 葬儀が無事終了した事を霊前に報告する為の式ですが 最近はほとんど行われなくなりました。

毎十日祭; ご逝去の日から数えて十日毎に 霊璽、ご遺影、お供物を飾った仮霊舎の前で 神職により営みます。近年は 十日祭を繰り上げて帰家祭と合わせて行い、二十日、三十、四十祭は省略される傾向に有ります。五十日祭は 仏式の四十九日に当るもので、この日をもって忌明けとなります。本来は墓前で、そうでなければ自宅あるいは式場に神職をお迎えし、祭詞奏上 玉串奉奠などを行い、その後 参会者で会食をしながら故人を偲びます。五十日祭の後に清祓いの儀を行い 神棚や祖霊舎の白紙を取り除き、霊璽を仮霊舎から祖霊舎にお移ししてご先祖の霊と合祀します。

百日祭; ご逝去後 百日目に行いますが、近年は省略されるケースが多くなりました。

 式年祭

最初の式年祭は一年祭となります。仏教の一周忌にあたり 重要な祭儀となります。一年祭をもって 喪明けとなります。一年祭までは 柏手は 音をたてない しのび手で行いますが、以降は音をたてる 通常の柏手に戻る事と成ります。以後は三年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭と供養を行い、五十年祭をもって打ち上げとなり、故人様の霊はご先祖の霊へと合わさる事に成ります。但し近年では 二十年祭で打ち上げとされるご遺族も多く成られました。

   今回は以上です。 

天台宗の葬儀とは

 今回は 葬儀 天台宗に付いて書かせて頂きました。

 天台宗では 死は誰にでも訪れ、生者必滅、出会いの後には必ず別れがあり、これが この世の真実である。そして 残された者にとって ぽっかりと空いた穴は埋めがたく、その悲しみは 哀惜の情が深ければ深いほど大きいものでしょう。しかし 嘆いても死者が蘇えるものではありません。悲しみを乗り越えて送り出さなければならない。と説きます。

 天台宗の葬儀は 三種の儀礼によって営まれます。顕教法要の法華懺法(ほっけせんぽう 法華経を読誦する事で煩悩を薄くし減罪する作法)、例時作法(れいじさほう 阿弥陀経を読誦する事で極楽往生の指南とする作法)、そして 密教法要の光明供(こうみょうく 阿弥陀如来の来迎を得てその指導の下に故人を引導して仏となす作法)です。顕教とは仏法を理解しやすいように文字や言葉を用いて説くものであり、密教とは仏と自身が一体であることを念じ 仏の加護により仏の境地に達っしようとする秘法のことです。天台宗では顕密一致を説き、供養する遺族・縁者と 供養される故人が一体となり、仏の本性を開発し、共に仏道を成してゆくことが 天台宗の葬儀の本質であるとされます。 

枕経・通夜

 葬儀に先立ち通夜を行います。古くは臨終に当たり 臨終行儀と呼ばれる儀式が有りましたが、最近では稀と成りました。又 地域によっては 枕経をあげる場合があります。通夜は 近親の方々にとって故人との最後の交流の機会でもあり、又 死そのものを直視し考えるかけがえのない機会とも言えます。通夜の儀式は 新霊の浄土への引入を祈る事が中心となります。多くは阿弥陀如来のお迎えを頂戴するお経が唱えられます。(来仰仏)

   今回は以上です。次回は葬儀・告別式に付いて書かせて頂きます。

天台宗の葬儀とはⅡ

 今回は前回に続き天台宗の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 天台宗の教えでは衆生は全て仏性を持っており、必ず仏になることが出来ると説きます。仏に成る為には 仏様と縁を結ぶ事が大切となり、その為 葬儀にあたっては 先ず心身ともに仏様の弟子になるための儀式を行い、その後 仏弟子としてこの世(娑婆世)を離れ 仏の国(浄土)へ向かう事となります。

 葬儀

1 身体を清浄ににする。

 仏の浄土への門出に際し 姿形を改めて清浄にします。洒水(しゃすい 水で清める) 塗香(香で清める)で清めた後、髪を剃ります(剃髪)。剃髪は煩悩を除き去る儀式として行いますが 実際に髪を剃る事はあまり行われません。

2 心を清浄にする。

 次に心を清浄にします。私たちが生きて行く為には多くの助けを受けなければ成りません。生きてゆくこと自体が他の犠牲の上で成り立ち、意識 無意識に係わらず多くの罪を背負ってもいます。それらを懺悔し 心を清浄にするため懺悔の文を唱えます。

3 戒名を授かる(三帰授戒)

 心身ともに清浄になったところで、いよいよ仏の教えを授かります。ここで授かる教えは 仏教徒としての基本である 三っの戒めであります。第一は帰依仏 先ずなんと言っても仏を信じなければ始まりません、第二は帰依法で 仏の残された教えを法と言い それを信じることです、そして 第三が帰依僧で 仏の法えお実践する人を僧と言い 僧の教えに従い それを拠り所にして暮すことです。この三っを仏様に誓うことで 成仏の縁を受ける事ができます。

4 戒名

 戒を受け終わった証が戒名です。戒名は仏の弟子としての名前です。法名とも言われ 漢字二文字で表わされます。現在では 法名の上に道号二文字や院号などが付けられますが 仏弟子としての大切な名前は法名の二文字です。法名は生前に授戒して仏様を心に頂いて生活する事が本来の姿ですが、葬儀の中で頂くことも出来ます。

5 引導(いんどう)・下炬(あこ)。

 旅立ちの準備も整い、いよいよこの世とのお別れとなります。全ての執着心を絶って浄土に向かう訳です。最後にもう一度 仏の教えにより、必ず成仏することを 旅立ちの錢として言い渡すのが引導です。次に 霊棺に松明で火を点ける下炬の儀式を行います。勿論 実際に火をつける訳ではありませんが、釈尊の最期に倣って 火葬の儀式を行うわけです。

6 念仏

 最後に 新霊の往生(浄土に生まれ直す)をお迎えの阿弥陀如来にお願いし 十返のお念仏が唱えられて葬儀は終了します。

本内容は天台宗のHPを参考に書かせて頂きました。

   今回は以上です。

葬儀 真言宗

 今回は葬儀 真言宗に付いて書かせて頂きました。

 真言宗の葬儀観は 弘法大師の作と伝えられる 御詠歌により端的に示されております。御詠歌は ”阿字の子が 阿字の古里 立ち出でて また立ち帰る 阿字の古里” と詠まれます。阿は ご本尊である 大日如来と その生命を表し、葬儀は 大日如来の阿字へ還ることを意味します。葬儀の精神は 亡者(死者)を宇宙生命の源である 大日如来の大生命に包まれている 弥勒菩薩の浄土である 都率天(とそつてん 都率浄土とも言う)へ帰還させることです。

 真言宗の葬儀式は 即身成仏への引導作法として示されます。即身成仏とは この身このまま仏になること、身・口・意(しん・く・い)が行者と仏において一体となることです。こうなる為の修行を三密と呼びます。葬儀の前段階は 大日如来との一体感へ導くための準備段階の作法で、剃髪(ていはつ)、授戒(じゅかい)、戒名に授与 が行われます。後段階は 大日如来との永遠の生命との一体感に係わる作法となります。亡者(死者)に真言の教義を教え、一刻も早く仏弟子にする(即疾成仏 そくしつじょうぶつ)ため お経は微音で速めに読まれます。真言宗は 古儀真言宗と 新義真言宗に大別されますが、葬儀の基本思想に大差は有りませんが、高野山真言宗の古儀真言宗では 引導法の基軸を即身成仏に捉え、新義真言宗である 真言宗豊山派や真言宗智山派は 即身成仏に浄土思想を付加して捉える という違いがあります。尚 実際の葬儀の進行に当たりましては 宗派の違いだけではなく、地域によりましても異なる場合が御座いますので、ご導師様との事前確認が肝要となります。

 真言宗の葬儀式に於ける 焼香は 戒香、定香、解脱香 の3っを 仏法僧の三宝に捧げる意味で 三回行います。

   今回は以上です。 

葬儀 浄土宗

 今回は葬儀 浄土宗に付いて書かせて頂きました。

 浄土宗は 法然上人を宗祖と仰ぎ その教えは ただひたすらに仏に帰依すれば必ず救われる とし 南無阿弥陀仏 を口に出して唱えれば、必ず仏の救済を受けて平和な毎日を送り、浄土へ生まれ帰ることができる という 他力のおしえをひろめています。浄土宗の葬儀は 故人様を仏の弟子として 仏の本願により阿弥陀仏の下である極楽浄土に往生することを教え導き、本来の住処 生命の根源である極楽浄土へ立ち戻る凱旋式として行うとも考えられます。

 浄土宗では 生きていると言う事は 死に向かっている事で有り 人間を含めた生物は この世に生を受けた瞬間から必ず死を迎えること それを定めとして生活している と説きます。古い時代には 人の寿命も短く 医療も十分でない中で 死は身近な出来事でも有りました。その様な中で育まれた 習慣やしきたりから 現代の葬儀式があります。浄土宗の葬儀式では 故人様を極楽浄土へお見送りすると共に 参列された方々にも 、深い悲しみの内にも自らの死の意味を問い、清浄な心で仏の教えに耳を傾け、授戒し新しく仏の弟子となった 故人様と共に、一心に念仏する生活に生きる決意をする契機となるよう願っています。

 浄土宗の法要は 序文(法要を行うに当たって仏をお迎えする部分)、正宗分(法要で仏のお話を伺う部分)、流通分(法要を終えた後に感謝して仏をお送りする部分)の3段階で構成されます。この通常法要に授戒と引導を加えた形が葬儀式となります。授戒は 仏法に縁のなかった人でも 戒名を授けて仏に弟子とする事で、引導は仏の弟子として教え導くことです。生前に授戒されている方には 授戒は省略され 引導だけを行います。僧侶の場合には 授戒も引導も行いません。

   今回は以上です。

葬儀 臨済宗

 今回は葬儀 臨済宗に付いて書かせて頂きました。

 臨済宗は 千光国師(栄西 1141~1215年)を宗祖と仰ぎ、法の精神は 文字で伝える事は出来ないという ”不立文字(ふりゅうもんじ)”の伝統をもつ 禅宗の宗派です。その葬儀は 死者を大悟の境地に導くことを目的として居ります。端的には 死者が仏弟子となり、修行の道に入り、自己の仏性に目覚めることを願う儀式 です。したがって 死者を仏弟子とする為の授戒と、仏性に目覚めさせる為の引導が 葬儀式の中心となります。

 臨済宗は多くの派に分かれて居り、代表的な 建仁寺派や東福寺派を含み15の派からなりたって居ります。臨済宗の葬儀式次第としては 特に定められた葬送儀則はなく、各派本山、僧堂、僧侶が個別に 慣例による儀則を作り 執り行われて居りますが、基本的には江戸時代に作られた 清規 を基にして居ります。

 葬儀式には 人間は仏の世界から見れば まだまだ修行が不足した存在であるから、縁が無くて この世で修行ができなかったにしろ、この後 仏の世界に縁を結んで、亡くなった後でも 仏弟子として修行に励んで欲しいとの 願いが込められて居ります。又 これによって ご遺族は 亡き人の最後をきちんとしてあげ、故人様の安心(あんじん)を願うと共に、葬儀式を営むことを通して 故人様と共に平静な心(安心)を得、故人様に報いようと自ら促されます。

 葬儀式次第は 導師さまにより異なりますが、一般的には 龕前念誦(がんぜんねんじゅ、棺の前でお経をあげる)、鎖龕念誦(さがんねんじゅ、棺を閉ざしてお経をあげる)、起龕念誦(きがんねんじゅ、お経をあげて出棺)、葬列(そうれつ、葬列を組み寺院へむかう)、山頭念誦(さんとうねんじゅ、寺院でお経をあげる)‥‥と昔の葬儀の一連の流れを追う形で行われます。

 引導法語は 四六文と言われる形式を用いて漢詩文で書かれるのが普通で、漢詩作法にのっとり、禅の宗旨、生死の安心を示し、故人様の生涯や戒名の意味 を示すなど 様式に従って 導師様の修行を背景として作られます。

   今回は以上です。

葬儀 曹洞宗

 今回は葬儀 曹洞宗(そうとうしゅう)に付いて書かせて頂きました。

 曹洞宗は 日本に於ける禅宗の一宗派で 鎌倉時代に宋で修学した道元禅師(諡号(しごう) 仏性伝東国師、承陽大師)により伝えられ、専ら座禅に徹する 黙照禅であることを特徴として居ります。曹洞宗の教義では 浄土はなく、成仏以前という考え方も有りませんので、授戒と引導が葬儀式の中心となります。又 葬儀式は 故人様を偲び、讃えることであり、ご遺族をいたわり、慰める為に営むものとされて居ります。

 曹洞宗の檀信徒用の葬儀儀礼次第を示した 檀信徒喪儀法では 僧侶(特に修行途中の僧侶)の葬儀を簡略化して作られて居ります。その中心に置かれているのが 授戒(戒を授けて仏弟子にすること)と 引導(仏世界に入らしむること)です。曹洞宗の教義は ”正伝の仏法” を伝統とし、南無釈迦牟尼仏 として釈迦を本尊と仰ぎ、”即心是仏”の心をもつて、主に座禅により働きかけます。日本の曹洞宗の座禅は 中国禅の伝統と異なり教義をたてます。即ち ”修証一如”(無限の修行こそが成仏である)という道元禅師の教えに基ずいて”只管打座(しかんたざ)”(ひたすら座禅すること)をもっぱらとし、座禅による悟りによって仏性を自覚するところに信仰の中心があります。ただひたすら座禅することにより釈迦の悟りに到達し、自己と大宇宙が一つになる ”即心是仏(そくしんぜぶつ)”を説きます。本来は生前に仏教徒として授戒すべきですが、それが出来なかった人にも これを及ぼすため 葬儀式の授戒、引導により悟り(仏世界)に入らしむる訳です。又 肉親の死により悲嘆にくれるご遺族に、故人様もまたこうして仏の慈悲により救済され、仏の世界に入れることを 葬儀式で示して、慰めを与えることとなります。

 生前に戒を授かる授戒会(じゅかいえ)は 通常 七日間 お寺に籠り、座禅し 洒水灌頂(しゃすいかんじょう)を受け 法話を聞き 自らの悪業を懺悔し 捨身供養し 戒法を受けて 仏弟子としての血脈を授けられることで終わります。

   今回は以上です。

葬儀 日蓮宗

 今回は葬儀日蓮宗に付いて書かせて頂きました。

 日蓮宗は 鎌倉時代中期に 日蓮聖人(1222年-1282年 諡号 日蓮大菩薩、立正大師)により起こされた仏教の宗派の一つで 日蓮法華宗とも称しました。その教えは 法華経(妙法蓮華経)が釈迦の正しい教えであるとし、南無妙法蓮華経 という題目をとなえる(唱題)ことにより、滅度後の衆生は救済される と説かれます。その葬儀式は 日蓮聖人の ”法華経を信じ、南無妙法蓮華経の題目を受持する者は、必ず 霊山浄土に往径することができる” という言葉を信じて営まれます。

 日蓮宗の葬儀式は 故人様に 穏やかにこの世を離れ、新たな世界に清々しい気持ちで旅立っていただく為に営まれます。故人様に対して 生死の二法を明らかにし、法華経信仰を通して 釈尊 日蓮聖人との関係に於ける安心(あんじん)を説き、過去・現在・未来の三世にわたり 法華経を護持することを勧め、霊山浄土へ導くことを眼目として居ります。霊山浄土とは インドの霊鷲山(りょうじゅさん)を指し、釈尊は今尚 そこで法華経を講じている久遠実成(くおんじつじょう)の仏でであるとされ、その釈尊の下え故人様をお送りする儀式が葬儀式であります。 日蓮宗の本尊は 久遠実成の本師 釈迦牟尼仏であり、その永遠の釈尊の慈悲と救いを表わすのが 大曼荼羅であります。大曼荼羅は 日蓮聖人が 久遠の仏さまがお悟りになった世界を文字で表わしたもので、中央に南無妙法蓮華経の宝塔が輝き、その左右にお釈迦と多宝如来が座られ、地湧の菩薩や十界の代表も列座に連ねられたものです。法会の中心には本尊として大曼荼羅が掲げられます。法華経の世界の再現が法会であり、葬儀は故人様 最後の聞法修行の機会であるとも理解されますので、大曼荼羅が大切な位置を占めることとなります。

 尚 南無妙法蓮華経 という題目を唱えると言いますが、題目は経典の表題を唱えることに由来します。

   今回は以上です。

葬儀 天理教

 今回は葬儀 天理教に付いて書かせて頂きました。

 天理教は 江戸時代末期に 中山みき を教祖として成立した 新宗教の一つです。天理教の神名(かみな)は 天理王命(てんりおうのみこと)、教祖の中山みきは ”おやさま”として その魂は現世に生きており、人々の暮らしを見守り続けているとされます。人の身体は 神様から貸し与えられたものとされ、その葬儀の目的は 故人様の魂を 古い身体から 親神様の下へ移し、残った亡骸(身体)を葬り、早い機会に新たな身体を神様よりお借りし この世に出直し帰ることを願う 儀式とされます。

 天理教では 信者の方が亡くなることを ”出直し” と言います。人の魂は永遠のものであり、その器である身体は親神様から借用したものであるとされます。従いまして 人が死ぬことで お借りしていた身体を 親神様へお返しし、永遠の魂は霊様として 親神様に一時 お預かり頂き、新しい身体が見つかれば、再び親神様にお預かり頂いた魂と 新しい身体でこの世に生まれ変わる、即ち 出直す こととなります。天理教では 死というものは 恐ろしいものではなく、新たな出発であるとされます。

 天理教では 葬儀の形式にはあまり厳密な次第を設けては居りませんが、明治時代に 教派神道十三派に属されたことから 神葬祭を基本とした形式をとって居ります。又 天理教の教理は ”世界中の人々が心を澄まし、仲良く助け合う人間本来の生き方 陽気ぐらし” であることから、その中心は現世の過し方にあり、死後の世界に付いては余り深く言及をして居りません。天理教では信者であっても 墓地などの関係で事情が有る場合は他の宗教で葬儀を営むケースを許して居り、個人の自由に任せているのが実情の様です。

 天理教では 仏教の通夜式にあたるものが 遷霊鎮霊祭、葬儀式にあたるものが 発葬祭として執り行われます。玉串奉奠の作法は 玉串を受取り、玉串を持ったまま二礼、祭壇側に根元を向けて置き、四拍手、一拝、四拍手、一礼 を忍び手で行います。

   今回は以上です。

葬儀 金光教

 今回は葬儀 金光教に付いて書かせて頂きました。

 金光教は 教派神道連合会に属する 幕末三大新宗教(天理教、黒住教、金光教)の一つで 1859年備中国浅口郡(岡山県浅口市)にて 赤沢文治(金光大神)に立教神伝の神示が下り、立教されました。祭神は 天地金乃神(てんちかねのかみ)と 生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)で その教えは 神と人とは”あいよかけよ”の関係(人が助かるには神に願い、神の助けを必要とするが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)であるとします。そして ”生きている間も死んだ後も、天と地は我が住処である”と教え、人は神から肉体とともに分霊を授けられて生きており、体の活動が停止した後 霊は 神の下へ還ると考えられて居ります。

 備中国地方では 古くから金神思想というものが有り、日柄方位の吉凶を重視する習慣が重んじられて居りましたが、金光教祖は もろもろの凶事は 人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行いをすれば、すべてが神に守られた中での生活が行える、と説きました。又 あいよかけよ の関係とともに 人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も 神のいとしごであるという考えから、他の宗教を否定しないという思想を持ちます。こうした性格から 布教活動的な言論は多く有りません。そして 金光教は 取次ぎの宗教 とも言われ 信者は 各教会の広前に設けられた結界の場に於いて 生神金光大神のてがわり(代理)となる取次者を通じて、それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝える事により、その願い・祈りを神に届け、そして神からの助けを受けると事します。 

 金光教祖は 生死を超えて神の懐に抱かれ、安心の境地に生きることを促しました。人の死は忌むべきものではなく、葬儀も凶事とはして居りません。従って 死者の柩は神前に置かれ、葬儀は神前で営まれます。活動を停止した肉体の霊は もとの神に帰一し、その個別性を失わずに、霊を祭祀する肉親・縁者とともに生き、交流することで、真に霊としての助かりを得て、その働きをなし得ると考えられて居ります。葬儀は 神に帰一した霊と生者との 新しい関係を生み出す儀式と考えられます。

 金光教の拝礼は 一拝四拍手一拝を忍び手で行います。金光教では 四の数字を忌む一般の風習を戒め、四に よかれ、しあわせ の意味を込めて 拍手を4回と定めました。

   今回は以上です。

通夜を営む

 今回は通夜の施行に付いて書かせて頂きました。

 通夜の施行は 仏式であれば 弔問客 ご導師(僧侶)のお迎えに始まり、読経 焼香 喪主の挨拶 の通夜式、そして 通夜ふるまい で終えます。神式 キリスト教式の場合も同様の形ですが、宗教者のご指導を受けて 式次を決めます。

 弔問客の受付は 参列者の方々が多数の場合は 式開始の一時間前から、少人数の場合は30分前から開始します。ご導師には 世話役がお迎えにあがり、通夜の始まる30分前には会場にお着き頂くようにします、到着後 先ず祭壇の状態を確認頂き、控室のご案内して茶菓でもてなします。世話役は その後 読経 法話の有無 通夜ふるまいを受けて頂けるか等 を確認した上で、喪主様は ご導師にご挨拶します。ご挨拶とともに ご導師への お布施・お膳料・御車代を お渡しするケースもあります。ご導師への御礼は 葬儀終了後にお渡ししても構いません。そして 喪主様 ご遺族様は通夜式開始に10分前には着席して ご導師の入場を待ちます。

 通夜式は ご導師の入場で始まり 読経、焼香、喪主の挨拶の順で進行し、一般的には40分前後の時間を必要とします。ご導師の読経が始りましたら 参列者は故人様の冥福を祈りながら、静かに読経を拝聴します。そして ご導師の 焼香をどうぞ との案内に従い 喪主様 ご遺族様 近親者 一般弔問客 世話役の順で焼香をします。読経の後に 法話や説教が行われることも有ります。ご導師が これで通夜式の法要を終わります と告げて退場し、通夜の式次第が終了します。ご導師の退席後に喪主様より弔問客に挨拶を行います。その内容は 参列への御礼 逝去の報告 生前の厚誼への感謝 を手短に伝え、通夜ふるまいの席へお誘いします。但し 焼香後 そのまま通夜ふるまいにお誘いする場合は 挨拶は省略されます。

 通夜ふるまいの席は 故人様への供養と共に 弔問へのお礼とお清めのしるしとして設けられます。従来は夜更けまで行われて居りましたが、最近は1時間から2時間の間で行われるのが一般的と成りました。横浜市営の式場では 式は午後6時 又は7時から始まり、9時には式場出入り口が閉門と成りますので、その時間内で通夜ふるまいを行わなければ成りません。

   今回は以上です。  

葬儀・告別式を営む

 今回は葬儀・告別式の施行に付いて書かせて頂きました。

 葬儀と告別式は 本来 異なる目的を持って執り行われます。葬儀は ご遺族や近親者の方々が故人様をあの世にお送りし、成仏させる儀式であり、告別式は 故人様と親交のあった方々が故人様に最後のお別れを告げる為の儀式です。正式には 葬儀式の後 僧侶は一度退席し、再度 入場頂いて告別式を執り行うのが本来ですが、最近では葬儀に引きつずいて告別式を行ったり、葬儀と告別式をまとめて営む事も多くなりました。横浜市営斎場では 葬儀・告別式の後 初七日も合わせて営む事を前提として居ります。

 葬儀・告別式の一時間前には喪主様、世話役、葬儀社で 再度 式次第を確認し、各世話役は 其々の持ち場の最終点検をします。葬儀・告別式は時間通りに執り行う事が大切です。会葬者の数が想定よりも多くなることも考えられますので、その場合はどこで時間を調整するかも事前に決めておくと良いでしょう。式場の準備や飾り付けは葬儀社で行いますが、御供物やご供花の配置順序は 送り主に失礼の無い様、喪主様と世話役により最終確認をされるべきです。

 喪主様を始め ご家族、近親者、世話役の方々は 葬儀開始の10分前には指定の場所に着席をして 僧侶の入場を待ちます。僧侶が入場をし、司会の開式の辞が終ると、読経が始ります。この読経により 故人様を悟りの世界へ導く為の 引導 が渡されます。引導とは 死者を仏の道に導き入れることです。引導を渡す作法は宗派により異なります。引導は葬儀に加わる僧侶の中で、最も位の高い僧侶により渡されますが、この僧侶を導師と呼びます。引導を渡す儀式が葬儀の中で最も重要な部分となります。葬儀と告別式を分けないで行う場合は 僧侶の焼香に続いて 喪主様、ご遺族、近親者が焼香をし、そして 一般会葬者の焼香に移ります。会葬者の焼香が終わると 僧侶は退席し、その後 司会者の閉会の辞により 葬儀・告別式は終了します。尚 僧侶の入場、退場時には 合掌をしてお迎え、お見送りをします。

   今回は以上です。

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