戦後の葬儀

 今回は第二次世界大戦終了後の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 昭和20年8月15日 第二次世界大戦は日本の降伏により終結します。その後の日本国内は 物資の不足とインフレにより社会生活は混乱の時期に入ります。葬儀を行う事も困難な時期が続きますが、昭和25年に始まった朝鮮戦争の特需により、日本の経済と社会は回復期に入ります。経済の回復と共に葬儀に対する関心も 以前の状態に戻り、各種の祭壇や葬具が整備され、各種の葬儀様式が生まれ、宮型霊柩車が全国的に普及し、そして ご火葬の普及率が急速に高まりました。

 

 葬儀に於ける戦後の大きな変化は 祭壇、棺、葬具などの標準化があります。多くの葬具が開発されると共に、その製品は全国的な標準化が図られてゆきます。それまでは各地域で その地域特有の葬具が利用されて居りましたが次第に姿を消してゆきました。それまでは大都市だけで使用されていた 複数壇飾りの祭壇も全国に普及して行き、祭壇を飾る道具も多数 開発されて葬儀=祭壇の図式が出来上がります。

 

 大正から戦前にかけて 大都市で使用されていた霊柩車が、戦後には全国に普及して行きます。霊柩車の普及とともに、各地で行われていた葬列は姿を消して行きます。更に その後の高度経済成長の波に乗り、宮型霊柩車がご遺体移送の手段として一般化して行きます。

 

 又 戦後に大きく変化した事柄としては 火葬率の変化があります。戦前の昭和15年に初めて50%(55.7%)を超えた火葬率は 戦後 各地方自治体による 火葬設備の新設、統廃合、改善・整備が進められ、急速に向上して行きました。昭和35年には63.1%、昭和40年 71.8%、昭和45年 79.2%、昭和50年 86.5%と火葬率は増え続け、現在では 特別な場合を除いてほぼ100%のご遺体が火葬される様になって居ります。

 

   今回は以上です。 

昭和時代の葬儀

 今回は昭和時代の葬儀、特に戦前の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 昭和時代に入ると ご遺体移送の手段としての霊柩車、特に宮型霊柩車が昭和2年には出来上がりました。又 告別式の登場と共に、従来は小机の上に具足を供えた程度の祭壇が、一壇から二壇、二壇から三壇と、徐々に増えて行き、最終的には 現在 使われている5壇の祭壇が生まれました。満州事変から第二次世界大戦へと進む中で、戦局の悪化とともに葬儀や告別式を行う事も出来なくなり終戦直前では 死者が出ても 納棺をして火葬場へ行くだけの葬儀となりました。

 

 昭和時代の初期に 現在の葬儀式場の原型が出来上がります。特に 東京、大阪、名古屋などの大都市に出現した告別式では 使用される祭壇が大きく変化しました。それまでの祭壇は 現在の枕飾り程度の祭壇と、その左右に生花、造花、供物などを配した簡素なものでしたが、この部分を前机として その後ろに複数の壇を配し、最終的には白木で5っの壇を組み上げた現在の祭壇の形が使用される様に成りました。又 当初はそれぞれの壇を白布で覆う単純な形でしたが、その内 高欄をつけた祭壇等も使用される様になります。そして 祭壇を飾る為の 六道などの新しい燭台や葬具が誕生しました。遺影写真が祭壇に飾られる様になったのも昭和初期からです。

 

 昭和10年前後までは 葬列を組む事も 細々と残って居りましたが、戦時体制に入るとこれも消えました。葬具の製造なども統制される様になり、葬儀・告別式の規模もより小さくなってゆきます。更に戦局が厳しくなると 霊柩車の燃料も不足する様になり、ご遺体の移送は人でによる事となります。戦争の最終局面では 葬儀の飾り付けも出来なくなり、故人様のご遺体は 納棺して火葬場にお送りするだけとして、ご葬儀を執り行う機会は消滅しました。

 

   今回は以上です。

大正時代の葬儀

 今回は大正時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代の葬儀の中心は 葬列に有りましたが、大正時代に入ると 市街地での埋葬や火葬が制限され始め、又 明治36年より走り始めた路面電車の走行に支障をきたす事などからも、徐々に葬列廃止の方向に進み、それに代わって告別式が登場して来ます。葬列が廃止されると共に、お柩の移送には霊柩車が使用される様に変化しました。

 

 大正時代に入ると 都市部で行われていた 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げるのは良くない”などの批判が出始め、新聞などのマスコミにも 都市部では葬列を廃する などの論調が顕著と成り始め、葬列廃止の方向が急激に進み始めます。そして 葬列に代わる葬儀の儀式として、告別式が 葬儀の中止となって行きました。日本で最初に告別式が行われたのは 明治34年に行われた 中江兆民の葬儀であったと言われて居ります。中江兆民自身が無宗教であった事から、教え子たちにより 宗教儀礼を行わず、告別式によるお見送りを執り行いました。この時代 地方では 葬儀の中心は ”野辺の送り”と言われた葬列でしたが、東京、大阪、名古屋などの大都市では 葬列に代わって霊柩車が使用され、儀式のメインは告別式と成りました。

 

 霊柩車が始めて使用された時期は諸説ありますが、明確な記録としては 大正6年に 大阪で葬列の要員派遣を生業としていた大手業者の 籠友が米国より輸入した霊柩車があります。大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より輸入して居ります。当時の米国の霊柩車は 彫刻がほどこされ、破風の付けられた派手な形の車でしたが、従来の輿にも似た形態から採用されたものと考えられます。大正10年前後には これらの輸入車に日本独自の装飾を施し、後部を輿仕立てにし、和風の唐草模様を施した 宮型霊柩車が登場しました。この形態が現在まで継承されて居ります。

 

   今回は以上です。

明治時代の葬儀U

 今回は前回に続き明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代に入って変化した葬儀の形態としては 大掛りな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、に加えて 粗供養の大型化と葬列を演出する人夫の出現があります。

 

 葬儀の際に 近隣の人々や参列した方々に食事を振舞うという習慣は 江戸時代から全国的に普及して居りました、又 葬列が出発する際に 粗い目の花籠に駄菓子や小銭をいれ これを振って葬列を見送る子供達に振舞い 供養をする事なども行われ、これらの事を起源として、粗供養が行われる様に成ります。明治時代に入り 葬儀が大型化すると共に、会葬の方々に 菓子包み、饅頭、あるいは御弁当などを配る、今日の粗供養の原型が出来て来ました。この粗供養を目的に関係の無い人でも葬儀に参加したり、何回も並んだりなどが有り、葬家側も不足すると恥ずかしいと言う事から、大量に用意する様になり、粗供養の費用が 全体費用の中でも大きな比重を占める様に成りました。

 

 大掛りな葬列を組む為には その演出をする為の各種葬具が必要となり、葬具を運ぶ為の人夫も必要と成りました。これらの人夫は 数十人でのお手伝いから、大きな葬列では数千人の人夫を動員する事も有った様です。更に衣裳を揃えて人夫に着せる様にも成りました。

 

 ちなみに 明治18年2月7日に逝去した 三菱の創始者 岩崎弥太郎氏は 13日 神葬祭で葬儀が執り行われ、その葬列は 下谷茅町の岩崎邸から北豊島郡染井村まで組まれましたが、巡査、騎馬を先頭にして、雅楽の奏者、弔旗を持つ者、牡丹・芍薬・杜若等の造花と白梅・桃の花等の生花が300余、霊柩、喪主、親戚、社員一同が続いたと言われます。この日の会葬者は3万人。又 染井村の墓地の前面には仮小屋が設けられ、墓地の周囲6千坪の畑一面にむしろを二重に敷いて、会葬者に貴賤を問わず、西洋料理、日本料理を立食でもてなしたとあります。このとき 用意された料理・菓子は七万人分、葬儀の当日に雇った人員は7万人と言われます。

 

 この様な葬列の肥大化は 明治20年から30年頃までをピークとして、その後 葬儀の奢侈化が非難を浴びる様になって行きます。

 

   今回は以上です。

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 江戸時代には 士農工商という身分制度の下で、身分に合わせた葬儀が営まれて居りましたが、明治時代に入り、この身分制度が廃止されると 大都市を中心に葬儀の在り方が大きく変化して行きました。まずは ひそかに夜間行われていた葬列が、昼間 大掛りに行われる様に成ります。又 使用される棺が 棺桶を使用した座棺から、寝棺へと変化します。更に 寝棺を乗せる為の 白木の輿が組まれ、その輿を彩る為の葬具が出現しました。

 

 江戸時代の葬列は 夜間に少人数でひそやかに組まれるのが普通でしたが、明治時代に入ると 台頭してきた商人層を中心にして 社会に誇示する為 日中に大掛りな葬列を組む様に成ります。葬列の要員としては 明治と共に役割を終えた大名行列の奴が動員されました。

 

 江戸時代の棺と言えば 棺桶 すなわち座棺が中心でしたが、明治に入ると 富裕層を中心とした 葬列の肥大化に伴い長方形の寝棺が使用され始め、この寝棺を運び為の白木の輿をあつらえて、より多くの人により柩を運ぶ事で、その財力を社会に示しました。但し 一般庶民の柩は棺桶が中心で、この柩を 駕籠や御輿型に飾られた人力車などで運びました。この状態は第二次世界大戦終了まで続きました。

 

 又 この葬列を彩る為の 野道具と言われる葬具も立派な物が作られ始めます。金連、銀蓮、生花や造花を挿して作った花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿などです。現代の葬具の原型となるものです、そして これらの葬具を作成する専業の葬具屋がこの時代から出現しました。

 

   今回は以上です。 

近世の火葬

 今回は前回に引き続き近世の火葬に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代に入ると 火葬は仏教の葬法であり 廃止すべきであるとの意見や、市街地に隣接する火葬場での臭気や煤煙の問題などにより、明治6年 火葬禁止令が発令されて土葬用墓地が準備されます。しかしながら その土葬用墓地は十分に用意する事が出来ず、都市部ではまもなく墓地用地が枯渇し始めます。並行して 火葬の利点を説いた”火葬便益論”や仏教徒からの建白書も相次ぎ、明治8年には禁止令は廃止されます。その後は 火葬率は急速に高まり、現代では 特別な例を除いてほぼ100%の火葬率となって居ります。

 

 明治8年 政府は火葬禁止令を徹回すると共に、火葬場の設立許可条件を定めました。これによると、場所は市街地から離れる事、煤煙が人の健康を害さない様 煙突を高くする事、火葬場と墓地は分離する事等が示されて居ります。これを受けて、京都市は 市街地にある寺院墓地での土葬を禁止します。又 東京市でも 明治24年には市街地での土葬が禁止されました。

 

 当時の火葬場の運営規則によれば 火葬は夜の8時から10時まで、拾骨は翌日の午前8時から午後3時までと定められて居りました。現在の様に昼間に火葬をして同日拾骨となるのは 昭和2年に東京の町屋火葬場が重油の火葬炉を導入して以降の事と成ります。

 

 火葬が大きく推進されたのは 明治30年の伝染病予防法制定以降です。同法では法定伝染病の患者のご遺体は原則火葬と定められました。以後 埋葬が容易で大きく土地を必要としない事からも火葬率は高まり、昭和15年には火葬率が55.7%と過半数をこえる様に成ります。

 

 日本に於いて 中世の火葬場は常設の設備では無く、毎回 設備を設営する事から始めなければならず、火葬場での荼毘は貴族や上級武士階級だけが行える、高額な葬法でした。庶民は通常 土葬でしたが、火葬の場合は野焼きにて行われました。江戸時代に入ると 寺院内に炉が設けられて火葬設備が常設される様になりますが、薪を使用した火葬の為 火力が弱く、ご火葬時間もそれなりに掛りました。又 火葬炉は露出しており、火葬時の煙や臭いは 周囲住民を苦しませたことと考えられます。明治時代に入り 公衆衛生の理由から 火葬場は厳しく管理される様になり、施設の近代化が進めます。日本で最初に造られた、火葬炉を建物の中に納めた近代的火葬場は 浄土真宗の東・西本願寺により建設された”両本願寺火葬場(明治11年、現在の京都市中央斎場)です。

 

   今回は以上です。

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於ける火葬の歴史は古く、弥生時代後期(2世紀頃)と想定される、長崎県大村市で発屈された竹松遺跡に於いて火葬後に埋葬されたと見られる人骨が発見されて居ります。又 文献に残る火葬の記述としては ”続日本紀”に記された僧道昭の記録が最古のものとされます。更に 日本で最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇と言われております。火葬の技術は仏教の伝来と共に伝わったとするのが一般的な理解ですが、それ以前にも国内で火葬が行われて考えられます。

 

 火葬は 葬送の一手段としてご遺体を焼却する事ですが、ご遺体の焼却を伴う葬儀全体を指す場合もあります。又 ご遺体の焼却は ご遺体の減容量化と安定化の為の処理とも言えます。仏教では ご火葬を 荼毘(だび)に付す とも言います。荼毘とは 火葬を意味するインドのバーリ語に由来し、仏教用語の一つで、釈尊が死後 火葬されたことにちなみます。特に浄土真宗では火葬を強く推奨しております。

 

 日本では平安時代以降 皇族、貴族、僧侶等の間では火葬が広まりましたが、一般庶民の間では必ずしも広がりませんでした。それは ご遺体を焼骨に変える為には強い火力が必要とされ、生活の為の貴重な薪を大量に使わなければならず、又 効率良く焼却する為には高度な技術を必要とした為、ご火葬は費用のかかる葬送でありました。浄土真宗ではご火葬を強く推奨して居りましたが、江戸時代の火葬化率は全国平均で2割程度と推定されます。一般庶民の埋葬は永く土葬が常識で、場所を広くとらぬ様、ご遺体を屈して縦長の桶に納めて埋葬するのが一般的でした。この様な状態が明治維新以降 大きく変化して行きます。それに付きましては次回に書かせて頂きます。

 

   今回は以上です。

神葬祭と墓地

 今回は明治時代に入り推奨された神葬祭と墓地に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代に入り維新政府は 国家神道を前提として、その葬儀も神葬祭により行う事を推奨します。その為 神葬祭の為の墓地を東京市内に設けました。しかしながら 官弊や国弊の神社の宮司が葬祭に携わることは禁じた為、神葬祭は必ずしも大きな広がりを見せる事は有りませんでした。寺請制度と言う法的な根拠は失われましたが、地域の習俗と一体化した檀家制度は根強く民衆の中に生き続け、仏式の葬儀は現代に至るまで民衆の支持を受け続けました。

 

 明治5年(1872年)には自葬禁止が布告されます。自葬とは僧侶や神職によらず、自身で行う葬儀ですが、この布告により、葬儀を行うに当たっては 一切 神職・僧侶に依頼しなければならなくなります。これまでは 神職は葬祭儀礼に携わらない事が建前でしたが、以降 神職は自由に氏子の葬儀を営む事が出来る様になり、神葬祭を営む庶民が増えて行きました。しかしながら 当時の墓地は 寺院に属したものが基本であり、神葬祭の墓地は有りませんでした。その為 神葬祭の為の墓地として、東京市営の墓地が開設されました。青山墓地、谷中墓地、染井墓地がそれにあたります。明治6年には キリシタン禁制の高札が撤去され、明治8年には ”信教の自由”が布告されてキリスト教も公認されました。共に市営墓地の使用も神葬祭に限定されなくなります。

 

 その後 神葬祭の営みにも変化が起きます、明治政府は神社は宗教ではないとの国家神道の考えから、明治15年 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に関与する事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県管理下の神社の宮司のみと限定しました。神葬祭は明治・大正・昭和前期と政府の推奨を受けますが、同時に政府の家制度 強化政策の下で、仏教寺院の檀家制度も強い基盤を維持する事なりました。

 

   今回は以上です。

 

神仏分離

 今回は神仏分離令に付いて書かせて頂きました。

 

 明治元年(1868年) 明治維新政府は神仏判然令(神仏分離令)を布告します。これは 江戸幕府が事実上の国教としていた仏教に代わって、神道を国教とするものでした。明治維新は 江戸時代後期以降の儒教や国学を その活動の精神的支柱として居り、復古神道に伴うものであったからです。明治政府の神仏分離政策は 必ずしも仏教を排斥するものでは有りませんでしたが、結果としては廃仏棄却運動がおこされてしまう事と成りました。

 

 神仏分離とは 神仏習合の習慣を止める事で、神道と仏教、神と仏、神社と寺院をはっきりと区別させる事で、明治政府が布告した具体的内容は 神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神道の神に仏具を供えることや御神体に仏像を使用する事を禁じ、神社に奉仕していた僧侶には還俗(げんぞく)を命じました。これは 維新政府に影響を及ぼした 平田派国学者が 神道国教化の為には神仏習合を禁止する必要があるとした為でした。この布告を基に 地方の神職や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持っていた民衆は廃仏棄却に走る事と成ります。中世後期以降 民衆宗教として定着し、江戸幕府の下 寺請制度により 事実上の国教として優遇されて来た仏教は、革命的 政治体制の変革により、大迫害を受ける事と成りました。

 

 神仏分離令が布告されると共に、神職の家族にも神葬祭を行うことが許可されます。更には 明治3年以降 続々と神葬祭を申請する動きが始まり、神職家族のみならず、一般民衆にも許可される様に成りました。神道の神葬祭を行うと言うことは 寺院の檀家を止める事でもあり、その様な情勢の中で、明治4年には 戸籍法が制定され、正式に寺請制度の法的根拠が廃絶される事と成りました。

 

  今回は以上です。  

神葬祭

 今回は神道の葬儀、神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本固有の宗教である神道の葬儀です。この日本固有の葬儀は 仏教の伝来以降、天皇家の庇護を受けて 急速に仏式の葬儀へと変わって行きます。更に 江戸時代の寺請制度により、神職も何れかの寺院に所属しなければならず、神葬祭を行う機会は失われました。その様な状態の中、江戸時代中期に入ると、国学が興隆し、国学者たちによる日本古来の精神・文化の研究が進み、日本古来の信仰にもとずいた葬儀を求める”神葬祭運動”が起こり、その結果として 1785年 江戸幕府は吉田家から許可状を受けた神職、及びその嫡子に限り、仏門を離れて神葬祭を行う事が許可されます。そして 明治時代になり 政府の神祇政策の一還として神葬祭が奨励され、明治5年には 明治政府の教部省により ”葬祭略式”が制定されました。

 

 江戸時代 神社は仏教からの独立を志向しましたが、キリシタン対策の為の寺請制度(檀家制度)により、神職と言えども、何れか寺院の檀家でなければ成らず、仏式の葬儀が強いられました。神社側としても 宗教としての神道を確立するとともに、神葬祭を求める運動を起しました。しかしながら 江戸幕府は寺請制度を宗教問題としてだけではなく、民衆支配体制の問題としても捉えていたため、神葬祭運動が許可されるまでには長い時間が必要とされ、許可された1785年でも大きな制限の中でしかなく、この状態は明治維新まで続く事となります。

 

 江戸時代の神葬祭は儒教葬を基本としたものにとどまりましたが、神葬祭の形式がまとめられるのは 明治5年(1872年)制定の”葬祭略式”によってとなります。明治政府は神葬祭を奨励しましたが、明治憲法では 制限付きでは有りますが、信教の自由が保障されて居りましたので、神葬祭が強制される事は有りませんでした。又 葬儀は宗教行為とされ、公務員に相当する神社神道の神職は宗教活動である神葬祭を執り行う事が禁止されていた為、神葬祭の普及は必ずしも進捗しませんでした。第二次世界大戦後 神道は宗教としての立場を取戻し、葬儀に係わる事が出来る様になりました。

 

   今回は以上です。

日本古来の宗教 神道

 今回は日本古来の宗教である神道に付いて書かせて頂きました。

 

 神道は古代日本に起源をたどる事ができる宗教で、日本の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤として、確定した教祖や創始者は居らず、森羅万象に神が宿ると考えて、祭祀を重んじ、浄明正直(浄く、明るく、正しく、直く)を徳目として居ります。神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、それが神道として体系化されたのは鎌倉時代中期以降であり、神道の体系や儀礼を作り上げる事に大きく貢献したのは 吉田兼倶(1434−1511年)で、以降 吉田神道は理論化を進め、1700年頃(江戸時代)に完成したと言われて居ります。

 

 吉田兼倶は 密教や陰陽道(おにようどう)を取り込み 神道の体系化を行い、日本の神道は儒教や仏教の宗主であり、万法の根底である、と理論付けました。

惣村に於ける寺壇関係の進捗により、地方においては 仏教の影響力が強まり、神道の地位は低下して行きます。又 室町時代後期に入ると 神仏融合によって建立された、神社内の真言宗や天台宗の寺院である神宮寺や別当寺は宗派を離れ、修験道の手に移って行きました。吉田神道は こうした神社、神宮寺、別当寺などを支配下に置き、神道を宗教として完成させます。

 

 江戸時代に入り 幕府の民衆支配の方策として採用された寺請制度(檀家制度)が始まると、神職と言えども 壇那寺に所属しなければならず、神道は埋没しますが、幕府や主要大藩の行政に儒教家が係わる様になると、民衆からの寺院に対する寄進や布施は 行政府に納める税と対立する事となり、儒教家は仏教批判を強め、水戸藩や土佐藩では仏式ではなく、儒教式の葬儀が行われる様に成ります。同時に 神社側も 神葬祭が行える様 幕府に働きかけます。長い働きかけの決果、1785年になり 神職当人、及びその嫡男に限り、仏門を離れて、神葬祭を行う事が許されました。とは言え 江戸時代は 準国教である仏教の下で、神道は祈り続けられる事と成ります。

 

 明治に入り 新政府は 江戸幕府の考えを全て廃除する為、準国教であった仏教を否定して、神道を国教として、皇室神道を作り上げました。

 

   今回は以上です。

江戸時代の葬儀(寺請制度)

 今回は江戸時代の葬儀(寺請制度)に付いて書かせて頂きました。

 

 室町時代から江戸時代初期にかけて、民衆の間では寺壇関係の確立が進み、葬祭・仏事は仏式で行われる事が主流となって来ましたが、1665年 江戸幕府が各藩に発令した寺請制度により、全ての人が何れかの寺院の檀家とならればならず、日本に於ける葬祭は全て仏式で行われる事と成りました。又 寺請制度下では個人単位での登録は許されず、家単位での入信が必要となりました。寺請制度の発令により、仏教は日本の準国教と成りました。

 

 寺請制度は 江戸幕府が宗教統制の一手段として設けた制度で、寺請証文を受ける事を民衆に義務付け、キリシタンでないこと寺院に証明させる制度です。この寺請制度を前提として地域毎に定められた寺院に対し 宗旨人別帳(宗門改帳)の作成を法令化しました。

 

 宗旨人別帳とは 壇家毎に 全員の名前、年齢、続柄、家畜、持ち高などを記された人別帳で、キリシタンでない事を 壇那寺が証明するもので、村の構成員全員に課せられました。寺が 檀家単位で邪宗(キリスト教他)の信徒でない事を証明するので 寺請制度と呼ばれました。この制度により 従来 自然発生的に生まれた 寺壇制度が法的に制度化される事と成り、全ての国民が 家単位で何れかの寺院の檀家と成らなければならなく成りました。

 

 この寺請制度により 当時としては 世界最大規模(約3000万人)の人口調査が可能となり、民衆は特定の寺院の檀家となる事により 戸籍を持つ事にも成りました。以降 庶民は 結婚、旅行、移転、奉公に際しては 村役人の発行する 送り状、請け状、手形の他に 寺院が発行する 送り状、請け状、手形も必要と成りました。出生、死亡の際も壇那寺への届け出が必要でした。

 

 江戸時代に記された ”宗門檀那請合之掟”によれば 檀家の義務は以下の通りです。

1 4月8日の釈迦の降誕会(こうたんえ)、12月8日の成道会、2月15日の涅槃会(ねはんえ)、各宗開祖の命日、お盆、春秋の彼岸、先祖の命日には必ず寺院に出向いてお参りする事。

2 説教や仏法を説く寺院の集会に参加すること。

3 寺院の建物の建立や修理に協力すること。

4 葬儀は必ず寺院にお願いすること。

 以上の事からも この時代に 葬祭仏教化が強く推進されました。

 

   今回は以上です。

江戸時代の葬儀

 今回は江戸時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 江戸時代の葬儀の大きな特徴は 17世紀後半に制定された寺請制度に有ります。寺請制度は キリシタン禁制を目的とすると共に、庶民の戸籍事務を寺院に取り扱わせた制度で、全ての人が何れかの寺院に登録しなければならず、寺壇制度の確立に寄与する事となりました。死者が出た場合、旦那寺の僧侶は 檀家であった者の死相を見届け、引導を渡し、然るべき役所に届け出なければ成りませんでした。従いまして 全ての日本人は仏式で葬儀を行うこととなります。

 

 江戸時代 人が亡くなりましたら ご遺体をむしろの上に移し、逆さ屏風を立て、枕元に小机を置き、樒(しきみ)と香を供えて、旦那寺に死亡の知らせ告げます。死の知らせを受けた寺院は検僧を派遣して死者が変死でない事を確認した上で葬儀の手配りを行いました。変死の疑いがある場合は その筋の証書が無ければ葬儀を行う事が出来ませんでした。故人様の死が確認された後に枕経があげられ、ご遺体を沐浴・剃髪させ、白衣を着せて納棺しました。棺は 裕福な家では寝棺が使用されましたが、一般的には早桶と呼ばれる桶が使用されました。棺の中には 故人様の衣服・調度・六文銭などが納められました。葬儀は 故人様が亡くなって後 一昼夜が過ぎてから行われ、出棺に当っては 門火を燃やし葬列を見送りました。

 江戸時代 葬列の規模は 武家の場合、格式身分により定められて居りましたが、通常の行列よりも一壇上位の列を組む事が出来ました。従い 通常は 徒・率馬・対箱・先道具などを用いる事が出来ない身分でも、葬儀の場合に限り、徒をたて、馬をひかせ、対箱を持たせ、棺前に槍を立たせる事も出来ました。但し 高張提灯は 武士のみ使用が許され、庶民が使用する事は許されませんでした。

 

 武家の葬列では 喪主・会葬者の侍は麻の裃(かみしも)を着用し、棺かき・中間・小者などの者は 白丁(白布で作られた法披のようなもの)を着用し、槍・刀の鞘・率馬・長柄傘などには白い布をかけて寺院に向かいました。武家の婦人の葬列では 柩の脇に白小袖に白い布を被った婦人が付添いました。

 町人・百姓の葬列では 位牌・香炉持ちと 喪主・会葬者は羽織袴を着用し一刀を帯びました。喪主は編笠をかぶり、喪主・会葬者で刀を帯びる者は 刀の柄を白紙で包み、これを紙縒りで結んで留めました。

 

 寺院での葬礼が終りますと ご遺体は埋葬されました。この時代 浄土真宗では火葬を推奨して居りましたが、それ以外の宗派では土葬が一般的でした。当時 江戸には 北の小塚原、南の鈴が森、東の中川の 三カ所に 火葬場が在りました。

 

   今回は以上です。

中世の葬儀

 今回は室町、安土桃山、江戸時代初期の葬儀事情に付いて書かせて頂きました。

 

 室町時代 天皇家の葬儀は鎌倉時代に続いて火葬により行われ、ご遺骨は寺院に納め、陵墓には卒塔婆を立て、樹木を植えて墓標としました。後光厳天皇(1374年崩御)は崩御された後に 京都市東山区の東山泉涌寺(とうざん せんにゅうじ)に埋葬され、以降 同寺は江戸時代末まで皇室の菩提寺として歴代の天皇が埋葬されました。一方 庶民の遺体は惣村により決められた墓地に埋葬、或いは置かれるのが一般的でした。しかし 江戸時代に入ると、大百姓は没落し民衆は本百姓として自立して行きます。本百姓には一家と言う考え方が生まれ始め、一家一寺の関係が生まれ、祖先崇拝が強まり、一家の墓が建てられる様になります。

 

 江戸時代初頭 それまで惣村を支配していた大百姓が没落すると、村は 平均的な本百姓により構成される様になります。そして 大百姓の庇護の下にあった寺院や道場は その保護者を地域共同体に変化させて、村惣堂や惣道場へと転換しました。

 

 江戸時代初期(17世紀前半)は 一家の構成員全員が家を単位として寺の檀家となる 一家一寺の状態では無く、夫と妻がそれぞれ 別の寺院に属する事もしばしばでした。これが 17世紀後半に入りますと 幕府による寺請制度の推進と、自立した農民が多数 形成された事により、一家一寺の制度が確立します。一家は 菩提寺の経済基盤を支えると共に、葬祭 仏事を寺院に委託する関係が出来上がって行きます。

 

 それまで 庶民が自前の墓を持つ事は有りませんでしたが、寺院と檀家の関係が確立して来ると、次第に 石碑を備えた自分達の墓を持つ様になって行きます。その墓は 家の確立と深く関係し、家の根拠であり、又 象徴として建てられることと成りました。それに伴い それまでの抽象的な祖先崇拝は 具体的な 家の先祖崇拝へと変化して行きました。

 

   今回は以上です。

室町時代の葬儀V

 今回は室町時代の農村に於ける葬儀事情に付いて書かせて頂きました。

 

 日本の社会は 成立以来 農業を中心として営まれて居りました。この農業社会は平安時代 荘園公領制を基に営まれて居り、荘園・公領内の農民は荘官や領主の下で 各々の農地に隣接して居住しており、その住居は散在して居りました。それが室町時代に入ると変質し始め、農民は 水利配分、水路・道路の補修、境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛等を目的として地縁的な結合を深めて行き、住居は耕地から離れて 住宅が集合する村落が形成されて行きます。この様な村落を その範囲内に住む惣て(すべて)の人により構成された事から、惣 あるいは惣村(そうそん)と呼ばれました。この惣村が大きくなり、財政的にも豊かになると、寺院を支えてゆく事が可能となり、その寺院が惣村の葬祭を司る様になります。こうして 惣村の農民(檀家)により寺院(壇那寺)が維持され、寺院は農民の葬祭 仏事を司る、寺壇関係が成立して行きました。

 

 惣村の発展と仏教各宗派の地方進出が合まって、日本各地に寺や道場が作られて行き、仏教の民衆化が図られて行きます。庶民に葬祭を広く推し進めたには浄土宗でしたが、他にも 禅宗(特に曹洞宗)、真言宗(密教)、日蓮宗、浄土真宗(一向宗)、天台宗などが民衆に布教を勧め、その際には葬祭を中心とする事が多く、葬祭仏教化がこの時代に一段と進みます。

 

 民衆の葬祭が仏教を中心として進められると共に、それぞれの土地が持っていた民俗とも融合して行きました。同じ仏教の葬儀であっても、その作法は 宗派の違いだけでは無く、地域によっても相違することとなりました。

 

 室町時代以降 仏式の葬儀が主流となり、貴族や武士階級では葬法として火葬が進みましたが、民衆の葬法としたは土葬が中心でした。これは 火葬の設備が多くはなく、又 費用も高額となる為と考えられます。従いまして 近世に至るまで 浄土真宗を除いては火葬が推進される事は有りませんでした。

 

   今回は以上です。

室町時代の葬儀U

 今回も前回に引き続き室町時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 この時代の仏式の葬儀は 禅宗の規範を基に行われ始めました。以前の葬儀は火葬場での儀式が主要なものでしたが、この時代になると寺院、自宅や火葬場の前などに お柩を安置するお堂が建てられる様になり、そのお堂に於いても儀式が行われる様に成ります。このお堂を龕(棺そのもの、あるいは 柩を納める容器を示す)のお堂として、龕堂 あるいは龕前堂と呼ばれました。この龕堂で行われる儀式が その後 発展して、現在の葬儀式になったと考えられて居ります。

 

 当時の禅宗の葬儀では まず ご遺体を湯灌し、剃髪をして、清浄な着物に着換えさせ、棺(龕)に納めて、柩の上を袈裟で覆いました。そして 柩の前に小卓を置き、それに白打敷をかけて、卓上に花、香炉、燭台の三具足を並べ、更に故人様が愛用した道具などを並べました。これが 現在の枕飾りであり、葬儀式場祭壇の原型となりました。柩(龕)前の用意が整いますと、一同が集まり仏事が行われました。僧侶が法語を唱え、焼香をし、茶湯を献じ、読経、回向と続きました。尚 龕堂の周り、あるいは 柩を安置した部屋の周りには 白幕が張り巡らされました。又 柩の蓋を閉じた後に 掛真(かしん)の儀式が行われました。これは 故人様の肖像画をお堂内の須弥壇に飾る事で、現在の遺影写真を思い起させます。

 

 火葬の当日には まず出棺の儀礼(起龕と読経)を行い、その後 葬列を組んで火葬場に向かいます。そして 仏事を行い荼毘に付します。ご遺族は翌朝 火葬場に赴き拾骨して、ご遺骨を自宅あるいは寺院に安置して 安位仏事を行いました。禅宗では 本来 龕前、移龕、鎖龕、起龕、火屋と ご遺体に対して所作を行ったり、ご遺体を移動させたりする毎に仏事が行われましたが、その後 次第に簡略化されて、現在では 自宅と火屋(火葬場)での仏事のみと成りました。

 

   今回は以上です。

室町時代の葬儀

 今回は室町時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 現代の仏式の葬儀は 浄土真宗系を除いて 故人様に戒律を授ける授戒や引導を中心として行われます。この儀礼の原型は禅宗(曹洞宗)より始まったと言われ、鎌倉・室町時代に作り上げられました。インドを起源とする仏教の葬儀は 当初 火葬の際に”無常経”を上げる程度の簡単なお見送りでしたが、その後中国に伝わり、儒教の影響を受けて葬送儀礼が整えられ、そおいう中で12世紀初頭に禅宗の慈覚大師により”禅苑清規”として規範にまとめあげられました。

 

 禅宗の葬儀は 出家である僧侶の葬儀の作法を定めた”尊宿喪儀法”と、修行の途中で亡くなった僧の葬儀の作法を定めた”亡僧喪儀法”の二つに分かれます。尊宿喪儀法は 亡くなった僧と その弟子たちに弔意を表すことが中心で、亡僧喪儀法は 志 半ばで死に臨む僧侶の心を思い計り 仏法の真理を伝授しようとする願いが中心であったとされます。この亡僧喪儀法に 浄土教や密教の影響を受けて念仏や往生祈願などを加えられ、更に発展して武士や在家の葬法 壇信徒喪儀法となりました。

 

 在家の葬法は 亡僧喪儀法を基にして 発展・制度化したものですから、その内容は 故人様にお経を読んで仏の悟り得させ、僧になる証の剃髪を行い、戒名を授けます。そして 引導を渡して成仏させるのです。これを 死後の僧侶とすることから 没後作僧 と呼ばれます。現在の仏式葬儀の原型は鎌倉・室町時代に ここから生まれたと言えます。

 

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鎌倉時代の葬儀U

 今回は前回に続き鎌倉時代の葬儀U(ご火葬以降)に付いて書かせて頂きました。

 

 現代の葬儀の作法は禅宗の葬儀作法を基にしているとされます。禅宗の作法全般を著わした書物としては 1103年に中国で編集された”禅苑清規”があります。この中には僧侶の葬儀作法も示されて居り、この葬法を基に日本の文化を融合して現在の葬儀作法が創られました。又 この当時は 葬儀の後に 魚・鳥などを放して故人様の冥福を祈る習慣がありました。同様の習慣はヒンズー教の中でもみられます。尚 三回忌や十三回忌の法要はこの時代から営まれる様になりました。

 

 火葬場に定められた場所には 荒垣をめぐらし、入口に鳥居をたて、中に小屋を建てて、その中で火葬を行いました。柩は御車に載せられて運ばれ、火葬場に到着すると 導師の下 儀礼が行われ、その後に柩は小屋に移されて火葬が始められます。ご火葬中は近親者や僧侶により真言が誦されました。火葬が終ると 湯をかけて火を消し、灰を水で流します。そして お骨を拾いますが、近親者が箸で骨をはさんで次々と渡して行き、最後の人が瓶に入れます。全てのお骨を瓶に入れ終ると その上に土砂を加えて 蓋をし、白の革袋で包みました。

 

 ご遺骨は 召使が首にかけて運び、決められた三昧堂に納められます。御堂の仏壇の下に穴を掘り、その中に納骨して上を石で覆い、それを石灰で塗り固めました。そして 参列者は 帰宅する前に藁で作った人形で手祓いをします。

 

 現代の葬儀は出棺前の儀礼が中心となって居りますが、この時代は 山頭念誦と呼ばれる 火葬場での仏事が中心でした。火葬場で奠湯(てんとう)・奠茶(てんちゃ)が行われ、読経もされました。

又 金銭による香奠はこの時代の武士階級により始まったとされ、家督相続者が位牌を持つ習慣もこの時代からと言われます。

 

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鎌倉時代の葬儀

 今回は鎌倉時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 鎌倉時代には 貴族階級が没落し、代わって武士が政治を司る事になります。又 宗教としては 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場して来ます。この時代に 栄西が中国から伝えた臨済宗は幕府や主要武士階級の帰依を受け、道元が開いた曹洞宗は地方武士の間で禅宗の宗派として広まりました。日本に於ける葬儀の作法としては この時代に伝えられた禅宗の僧侶の葬法が基本となり、その後 手が加えられて、武士や庶民の葬法として定着しました。

 

 鎌倉時代の貴族や武士の葬儀の次第を記した資料として ”吉事次第”が有ります。当時は 蔡事という言葉は 忌み嫌われ、吉事 あるいは勝事と言われました。この吉事次第によれば;

人が亡くなると 御座直しが行われます。ご遺体を北枕にして筵(むしろ)の上に寝かし直し、衣でご遺体を覆い、屏風を逆さにしてご遺体の周りに立てめぐらし、枕元に灯明を一本灯して葬儀が終るまで消えない様に守ります。香をたき、夏は死臭を消す為に酢を容器に入れておきます。人々は屏風の外で待機し、僧侶は真言を唱えます。

 

入棺は まず棺の中に香と土器の粉を敷き詰めます、これは 死臭を防ぎ ご遺体が動くことを防ぎ ご遺体から漏れる体液を吸収するためです。納棺は筵ごとご遺体を棺の中に移し、ご遺体には梵字を描いた布で覆い、頭・胸・足の三ヶ所に土砂加持の砂をかけます。そして 蓋をして、布で縛って、北枕で安置しておきます。

 

葬儀の日は 早朝に山作所(さんさくしょ)と呼ばれる墓を作ります。同日 素服と呼ばれる白無地の粗い布を素地とする喪服を裁縫し、この素服を着用して 同日夜に御仏供養を行い、出棺となりました。出棺の後は 寝所を竹の箒で掃き、集めた塵と箒を川に流すか、山野に捨てて、灯明を消します。

 

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恵心僧都源信

 今回は恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)に付いて書かせて頂きました。

 

 平安時代中期の天台宗の僧 源信は 恵心僧都と尊称され、二十五三昧会立ち上げの中心人物になると共に、往生要集を著わして、浄土教の基礎を創り上げました。往生要集には 地獄・極楽の観念や、厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)の精神が示され、貴族・庶民に広く普及し、後の法然上人や親鸞聖人だけではなく、後の文学思想などのも大きな影響を与えました。又 本書は 中国の天台山国清寺に伝えられ、唐末五代の混乱によって散逸した教法を 中国の地で復活させる機縁ともなりました。

 

 恵心僧都源信(942年−1017年)は 大和国(奈良県)北葛城郡当麻に生まれ、950年9歳で 比叡山天台宗の慈恵大師良源に入門し、955年14歳で得度します。15歳で村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれます。その後 名利の道を捨てて、比叡山延暦寺横川兜率谷の恵心院に隠棲して、念仏三昧の求道の道に入ります。985年3月 往生要集を脱稿します。そして 1017年 76歳で示寂、臨終の際には 阿弥陀如来像の右手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したとされます。

 

 往生要集は 浄土教の観点から、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、一部三巻からなります。死後に極楽往生するには 一心に仏を想い念仏をあげる以外に方法はない と説かれます。その内容は;

−巻上

  −大文第一 厭離穢土 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・・人間・天人の六道を説く。

  −大文第二 欣求浄土 極楽浄土に生まれる十楽を説く。

  −大文第三 極楽証拠 極楽往生の証拠を書く。

  −大文第四 正修念仏 浄土往生の道を明らかにする。

−巻中

  −大文第五 助念方法 念仏修行の方法論。

  −大文第六 別時念仏 臨終の念仏を説く。

−巻下

  −大文第七 念仏利益 念仏を唱えることによる功徳。

  −大文第八 念仏証拠 念仏を唱えることによる善業。

  −大文第九 往生諸行 念仏の包容性。

  −大文第十 問答料簡 何よりも勝れているにが念仏であると説く。

念仏による浄土信仰に関する百科全書とも言えます。

 

 平安時代には 浄土教は 地方へ、庶民へと入って行き、庶民の葬祭は浄土宗の手により行われる様になって行きます。

 

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浄土教

 今回は浄土教に付いて書かせて頂きました。

 

 浄土教とは 阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し成仏する事を説く思想で、宗旨・宗派を超越した信仰で浄土信仰、あるいは阿弥陀信仰とも呼ばれ、日本では平安時代中期より 民間信仰的思想として大きく広がりました。

 

 浄土教の思想は紀元100年頃にインドで編纂された”無量寿経”と”阿弥陀経”をもとにして成立した思想で、特に宗派として成立したわけでは有りません。その後2世紀後半に中国に伝えられ、838年に遣唐使の一員として渡海した円仁が中国五台山で法照流の五会念仏を学び、帰国後 比叡山に常行三昧堂を建立し、天台浄土教を発祥しました。

 

 986年には 慶滋保胤(よししげ やすたね)と 恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)が中心となって、比叡山の僧25名による ”二十五三昧会”なる集団が結成されます。毎月十五日には皆で集まって念仏三昧をし、臨終にある仲間には皆で助けて念仏させ、極楽往生できるようとする、浄土教の結社でした。同志に病人が出ると皆で看病し、病が重くなると往生院という建物に移し、励まし合って死に臨んでいる者の心が乱れないよにし、滅するとご遺体に光明真言をもって土砂加持を行い、三日の内に墓所に塔婆一基を建てて葬る。同志の葬式には必ず出席し、四十九日までは七日ごとに集まって念仏を修する、とあります。この臨終行事としての念仏が現在の枕経の原型であると言われます。

 

又 臨終に際しては 西方を向いた阿弥陀仏の前に病人を寝かせ、仏の右手に五色の糸をつけ、その糸の反対側を病人の左手に結んで 念仏を数十遍唱えながら寝入る様に滅すると極楽往生まちがえなし、と言われました。この臨終の作法が現在の臨終作法と言われます。この臨終作法が定着する事により、阿弥陀仏への帰依が重要となり、葬送儀礼に於ける阿弥陀仏信仰が決定的なものとなりました。

 

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民間仏教と葬儀

 今回は平安時代の民間仏教と葬儀の広がりに付いて書かせて頂きました。

 

 民間仏教の広がりは 奈良時代の行基上人を始めととして、平安時代の空也上人(903年−972年)とその弟子達による口称念仏により民間に普及して行きました。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと尊称され ”南無阿弥陀仏”の名号を唱えながら 道路・橋・寺院などを造る社会事業に奉仕し、貴賤を問わず 幅広い帰依者を得ました。口称念仏の祖、民間に於ける浄土教の先駆者として評価されて居ります。


 空也は 平安時代中期の僧ですが 複数の宗派と関わりを持って 超宗派的立場を保ち、若い頃から在俗の修行者として諸国を回り、南無阿弥陀仏を口称すれば 阿弥陀仏の絶大な力を働かせる事が出来る と口称の念仏を説きました。この事は 民間念仏として死者儀礼や農耕儀礼と結びついて仏教の民衆化を推し進めました。念仏も呪力として死者の減罪に力を持つと信じられました。空也は948年に比叡山で天台座主・延昌のもと授戒し、光勝の法号を受けて居りますが、生涯超宗派的立場を守り続けました。又 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれて居ります。そして その弟子たちは 高野聖など 以降に広まった民間浄土教行者”念仏聖”の先駆者となり、鎌倉時代の仏教界に多大な影響を与えました。


 又 空也は 風葬されたと思われる野原の委骸(いがい、遺され捨てられた死骸)を集めて、火葬して供養をしたと伝えられます。空也の弟子達も火葬の技術を伝承したと考えられます。

 こうした民間仏教の広がりは 仏教を民衆の中に定着させ、民衆の葬儀も仏教で行われる様になって参ります。


 尚 空也上人は972年 京都東山西光寺(現在は東山区 六波羅蜜寺)において、70歳で示寂されました。


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民間仏教と葬儀

 今回は平安時代に於ける仏教の民間への広がりと葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 本来 仏教の僧侶になる為には 教団の承認を得て、得度と呼ばれる出家の儀式を受ければ、誰でも僧侶となれるのが基本ですが、奈良時代には僧侶の人数を制限する為、得度は国家の許可制となって居りました(官度)。国の許可を得ずに出家することは 私度として禁じられて居り、民間への布教も大きく制限されて居りました。しかし 行基や空也などの 私度僧が多く現れ、民間仏教が盛んになって行くと、その宗教指導者は 菩薩 あるいは 聖(ひじり)と呼ばれて民衆から慕われる様になります。こうした 民間仏教の広まりは 仏教の民衆化を押し進めると共に、民衆の葬儀の仏教化を進めることにもなりました。

 

 仏教の僧侶になる為には 教団の10名の先達の承認を受けて、戒律を護る事を誓えば誰でもなれるものでしたが、中国や日本では 労働、納税、兵役が免除されていた為、僧侶になる者が続出し、国の存立を犯しかねない事態を憂慮して、年度や地域ごとに僧侶の人数を制限する為 得度を国の許可制としました。

 

 奈良時代に 民間仏教の先達として頂点に立つのが 行基(668年−749年)です。行基は 河内国大鳥郡(大阪府堺市)に生まれ、法相宗の僧侶となり、朝廷が禁じた民衆への仏教布教の禁を破り 民衆や豪族など階層を問わずに仏法の教えを説き、朝廷からの弾圧を受けながらも 逆境を跳ね返し 多くの社会活動を成し遂げて 民衆の圧倒的支持を受けました。その後には 朝廷も認めて 日本で最初の大僧正となります。続日本紀 には 行基集団が ”死魂を妖祇す” と記されて居り、死者の弔いに従事していた事を窺わせます。又 行基の弟子集団である志阿弥(行基の法弟、架空の人物)は 火葬を行い、墓地を開創したと言われ、後に 葬送の俗聖である三昧聖として諸国に伝承したと伝えられます。

 

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平安時代に始まる現代日本の葬送習俗

 今回は平安時代に始まる現代日本の葬送習俗に付いて書かせて頂きました。

 

 現代日本に於ける葬送の習俗は 平安時代中期に始まり、江戸時代にその式次第を完成させたと考えられます。一条天皇の葬儀に見られる 各種の作法、光明真言、呪願と阿弥陀護摩などは 現在の葬送儀礼に見られるものと非常に近しいものです。

 

 現代にも通じる 平安時代中期の作法としては 危篤状態での念仏を臨終作法としていた事、ご遺体は北枕で安置していた事、納棺に先立って沐浴を行っていた事(現代の湯灌と同じようなものと考えられます)、納棺には僧侶も加わり奉仕していた事、納棺の際には近親者が形代(身代わりの人形など)を棺に納めていた事、柩は輿に載せられて運ばれた事、出棺に先立ち僧侶による儀礼が行われた事、出棺は通常の門以外で行われた事、葬列が組まれた事、荼毘の前に儀礼が行われた事、近親者が荼毘に立会った事、拾骨が行われた事、帰宅の前にお浄めを行なった事、七七日・一周忌の法事を行った事などがあります。

 

 当時 読誦された光明真言とは 正式名称 ”不空大灌頂光真言(ふくうだいかんじょうこうしんごん)”と言う密教の真言で、金剛界の五大如来に対して光明を放つように祈願する真言で、以下の功徳・利益が説かれます;

−過去の一切の罪障を除滅する。

−地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対して、光明を及ぼして諸罪を除き、西方極楽国土に往かせる。

−先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する。

密教ではその神秘性を保つ為に梵字を翻訳せずに、そのまま梵音で読誦します。24の梵字を連ね、

オン アボキャ ベイロシャノウ(オーム(聖音) 不空なる御方よ 大日如来よ)

マカボダラ マニ ハンドマ(偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ)

ジンバラ ハラバリタヤ ウン(光明を 放ち給え フーン(聖音)) と読誦します。

 

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平安時代の葬儀

 今回は平安時代中期の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 平安時代に入ると それまで度々出されていた 薄葬令が定着しはじめ 従来の山陵を造成して葬る厚葬から、葬儀を地味に行う薄葬へと変化しました。又 この時代に天台宗と真言宗が誕生し、大きな影響を与えます。現代の日本の葬儀の原型はこの時代に作られたと言っても過言では有りません。

 

 平安時代中期に崩御された一条天皇(1011年6月22日)の葬儀の次第は 新谷尚紀著”日本人の葬儀”によれば;

6月22日一条天皇は危篤状態の中で時々念仏を唱えていたが、正午頃に崩御。

25日に 陰陽師を召して、葬儀の日時、入棺の日時、墓所の方向などを占なわせる。同日 御体を沐浴の上、深夜に御納棺。御納棺の作業には 天台宗権僧正慶円(後に大僧正、天台座主)を中心に 数名の僧侶と、公卿数名が奉仕し、皇后や宮たちが棺に形代(人の霊を宿す為の人形等)を入れました。

7月8日葬送。素服を裁縫して人々は着用、慶円権僧正が呪願(じゅがん)を行い、院源僧都が導師を務めます。出棺には 御輿の前を2名が松明を持って先導、築垣を壊して道路に出て 御竈所(みかまどどころ、火葬場)に向かいました。葬列には 松明を持った近習が10名、香炉を首にかけて従う役、黄幡(きはた)を持つ役などが従いました。そして御竈所では呪願の後に 僧侶も立会いの下に荼毘を行いました。

7月9日終夜を通して行われた荼毘は早朝に終了し、御骨を皆で拾い白壺に御納めし、慶円権僧正により光明真言が念誦された上で、お骨壺を円成寺にお運びして安置しました。その後 人々は御骸骨所(みがいこつどころ)に祗候(側について奉仕)し、又 阿弥陀護摩も行われました。

7月20日 円成寺内に三昧堂が完成し、御骨を奉納しました。

8月2日 七七日の法要、8月11日 七七の正日の法要、9月12日 初めての月例法要が行われました。

翌年5月27日 円教寺で一周忌の繰り上げ法要が行われ、6月22日に一周忌の正日法要が行われて、葬送儀礼の全てが終了しました。  

 

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常行三昧・法華三昧

 今回は常行三昧と法華三昧に付いて書かせて頂きました。

 

 常行三昧(じょうぎょうざんまい)と法華三昧(ほっけざんまい)とは 天台大師 智が説いた四種の行法の内の二種で、般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)によって 九十日間 阿弥陀仏を唱念しながら その像の周囲を不断に回り歩き 極楽往生を願う 行法を常行三昧といい、法華経によって 二十一日間 座禅と行道(仏座の周囲を回り歩く)を繰り返す半行半座で 罪障の消滅を願う 行法を法華三昧といいます。いずれも 天台宗の宗祖最澄により日本に紹介されました。

 

 天台宗で重んじられた行法として常行三昧があります。阿弥陀仏の名を唱えながら修行をし、念仏によって極楽往生を願う常行三昧は 減罪を願う法華三昧と対になり信仰をあつめました。又 常行三昧は後に浄土宗の道を開くものでもありました。常行三昧の修行をおこなう所を 常行三昧堂 あるいは阿弥陀堂とも呼ばれ、藤原家三代を祀った 奥州平泉の金色堂は 常行三昧堂の様式にならったものと言われます。

 

 天台宗宗祖 最澄は812年 比叡山に法華三昧堂を建立し、法華三昧を日本に初めて紹介しました。法華三昧は 法華懺法(ほっけせんぽう)とも言われ、法華経を読経することによって この身はこのまま清められ、罪障(極楽往生の妨げとなるもの)が消滅するということから行われました。法華三昧は本来 ”朝題目、夕念仏”と言われる比叡山の日常修行の一つでしたが、三昧聖に法華経を唱えさせると死者の霊が清められ 減罪し 地獄に堕ちない という信仰が強まると、葬儀のなかで重んじられるようになり、死者供養や菩提のために用いられました。法華三昧堂は 法華堂とも呼ばれます。

 

 常行三昧、法華三昧の流行により、天皇家や貴族は 三昧堂や法華堂に納骨する事が多くなり始め、更には 死後の納骨の為に三昧堂を建立する様にもなります。寺院に納骨する習慣はこのあたりを起源にするものと考えられます。又 後々には 三昧堂は 墓所や葬場を意味する言葉として使われる様にもなります。

 

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仏教葬と火葬

 今回は仏教の葬儀と火葬に付いて書かせて頂きました。

 

 仏教の葬儀に於いては ご遺体の処理は火葬を前提として居ります。それは 釈尊のご遺体は火葬された故事にもとずきます。日本の考古学上では 5世紀頃の遺跡から焼骨が発見されている事から、日本国内では 仏教伝来以前にも火葬が行われていたと推定されますが、人工的にご遺体を焼却する葬法である火葬が日本人に受入られたのは仏教の伝来が大きかったと考えられます。記録に現れる最初の火葬は700年に僧道昭に対して行われたものです。又 天皇家に於ける最初の火葬は持統天皇の葬儀で行われました。以後 天皇家に於ける葬儀は仏教葬を前提として居りました。天皇家の葬儀が神式となるのは明治天皇以降です。

 

 7世紀後半に行われた 聖徳太子の葬儀には仏僧が係わったと記録されて居りますが、あくまでも部分的なものであったと考えられます。天皇家の葬儀に仏教が深く係わったのは持統天皇の葬儀が最初であろうと推定されます。持統天皇は703年12月22日に崩御され、その玉体はご火葬がされました。天皇はご遺詔(いしょう、遺言)をのこされ、葬儀は倹約をこととし、素服(そふく)と挙哀(きょあい)を禁止しました。素服とは 質素な白服で 喪服として裁縫し、喪の期間に着用しました。挙哀は ああ悲しいかな と唱えて礼拝することをさします。いずれも 仏教葬が始まる以前の葬儀の基本となるものでした。これらを止める事により葬儀が大袈裟になる事を戒めました。25日には四大寺で法会が行われ、29日 飛鳥宮 西殿に殯(もがり)、2月17日(七七日、四十九日) 四大寺を含む三十三の寺院で法会、12月17日 飛鳥岡でご火葬、同月26日に 大内陵にご遺骨が納められました。

 

 以後 天皇、貴族階級に於いては仏教葬、火葬が定着してゆきます。

 

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奈良時代の霊魂信仰

 今回は奈良時代から顕著となる霊魂の信仰に付いて書かせて頂きました。

 

 霊魂とは 肉体とは別に精神的実体(生命や精神の原動力)として存在し、死後も存続する、非物質的な永遠の存在であると考えられて居ります。古代エジプトの時代から 人が死ぬと肉体から離れるが、肉体に再び戻ると信じられ、古代インドでは 霊魂は何度もこの世に生まれ変わる(輪廻転生の思想)と信じられて居りました。霊魂は 生きる事、そして死生観を解釈する為の概念の一つと位置付けられても居ります。現代日本に於ける霊魂とは 日本古来の霊魂に対する考えと、仏教の伝来に伴い持ち込まれた霊魂の考え方が相交わり、作り上げられたものと考えられます。

 

 奈良時代になると、それまでは死者の霊魂を慰める為の葬儀に加えて、非業の死を遂げた人の霊は祟りをなす という事が言われ始め 鎮魂や慰霊が盛んに行われる様になります。775年 子供と共に憤死させられた井上内親王の祟りにより、その夫である光仁天皇や新皇太子が病に悩まされていると考えられ、鎮魂の為 井上内親王の墓を正式な御墓(天皇家の墓)に改葬しました。又 平安京への遷都(794年)は 皇太子が病に悩まされるのは 先に皇太子の地位を廃されて憤死した早良親王の怨霊によるものである という陰陽師の占いにより、慰霊を込めて行われました。

 

 平安時代に入ると 陰陽師の活動は 更に活発となり、貴族階級の中では 怨霊・鎮魂が盛んに行われる様に成ります。そして 都に疫病が流行った 863年には 平安京大内裏に隣接する神泉苑に於いて 早良親王他5名の御霊を鎮魂する 御霊会(ごりょうえ)が催されました。又 大宰府に左遷され非業の死を遂げた菅原道真の怨霊により、親王や天皇が崩御したとして、道真の霊が北野神社に祀られました。10世紀末になると 災害や疫病の流行は都市に込められた怨霊により起こされると考えられて 街から怨霊を追い出し、鎮魂の為の 御霊会が行われ、御霊神社が建てられる様に成ります。970年から始まった祇園祭(正式名称は祇園御霊会)もその一つです。

 

   今回は以上です。

飛鳥時代の葬儀

 今回は飛鳥時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 飛鳥時代に入り 中国 魏の文帝により発令(222年)された ”葬制の令”を参考にして、646年 薄葬令が定められた事により 大型の古墳を前提とした死者儀礼はその姿を消してゆきます。又 一般民衆の埋葬も ”よろしく一所にさだめて、おさめ埋めしめよ、けがらわしく、処々に散らして埋むことをえじ” として いろいろな場所に遺体を埋葬するにではなく、場所を定めて埋葬する様、薄葬令により定めました。そして この時代に仏教が中国より伝来しました。

 

 飛鳥時代 薄葬令により死者儀礼は規模的に大きくな制限を受けることとなりますが、同時に仏教の伝来により 葬送儀礼は質的にも大きな変化を生じさせました。特に仏教を擁護し、その普及に勤めた聖徳太子の葬儀は、”扶桑略記”に ”葬送で輿に乗せられ、葬列に加わる陪従の人々は、おのおの雑花を手に捧げ、仏弟子は仏を讃える歌を歌い、道の左右の百姓も、手に花を持ち仏歌を歌い、あるいは声を失い大声で泣いた。荼毘にふされたあとには、諸国の百姓が遠くからの墓参が絶えなかった”と書かれています。

これが事実であったかは疑問視されております。当時 仏教の主な目的は 鎮護国家 すなわち国家の平安を祈念する為に利用されており、祈念の執行者である僧侶は 病気回復の祈祷は行いましたが、死亡した後の葬儀には立ち入らず、葬儀は従来通りに神式で行われたものと考えられております。但し 追善供養の一つである 盂蘭盆会などは657年からに執り行われたと言われております。

 

 一般民衆のご遺体処理の実体としては 薄葬令に書かれていた内容から想像するに、死体遺棄と同様のかたちであちこちに埋葬されておりました。この様な状態はその後も変わらず、平安時代の今昔物語では 平安京の正門である 羅生門の二階に遺体が遺棄される様子が描かれ、八幡愚童訓 では 辻に捨てられた死体を犬などが食べる様を書いて居ります。ご遺体を 山の麓や川原などの放置することは珍しことでは無かった様です。長い間に渡り 墓を作る事が出来たのは上層階級に限られており、一般民衆には 鎮めなければならない霊魂の存在など認められて居なかったと考えられます。

 

   今回は以上です。

薄葬令

 今回は薄葬令に付いて書かせて頂きました。

 

 薄葬令とは 大化の改新の中で646年(大化2年)に発令された勅令で、身分に応じて墳墓の規模などを制限したものです。薄葬令は 地方豪族の権力の象徴であった巨大古墳の築造を制限するものであり、大和朝廷が地方豪族を管理下に従え、中央集権国家に変貌した象徴と解釈されます。それに従い 前方後円墳の築造を象徴とした厚葬の時代 古墳時代が終焉を迎え、墳陵は小型簡素化された飛鳥時代へと入って行きます。

 

 薄葬令は 中国の故事にならい、民衆の犠牲を軽減するために 権力者の葬送に多くの財や労力を費やしてはならない との考えから生まれたと共に、身分ごとの葬制秩序の確立という側面も備えて居りました。その内容は;

1 必要以上に大きな墳墓を造る事は 民衆の貧窮を招くと警告し。

2 死者の身分により墳墓を造る夫役の延べ人数の上限を定め(天皇の陵にかける日数は7日以内)。

3 一般階級の遺体は 一定の墓地に集めて埋葬することとし。

4 殯(もがり)や、人馬の殉死 殉葬、そして 宝物を副葬することを禁じました。

これらの事により 旧来の習俗を否定しました。薄葬政策は その後もしばしば発令されます。

703年に崩御された女性天皇である持統天皇は 倹約・簡素な葬儀を遺詔(天皇による遺言)され、火葬された初めての天皇となり、ご遺骨は 独自の墳陵を持たずに夫君であった天武天皇の陵に合葬される薄葬でした。この様な事から 巨大墳墓や殯などの習俗が姿を消して行きます。しかし 地域によっては 民俗として殯や泣き女などが生き続けておりました。

 

   今回は以上です。

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