葬儀の次第

 今回は葬儀の次第に付いて書かせて頂きました。

 

 ご葬儀を執り行うに当たりましては ご葬家様にて ご葬儀の基本方針をお決め頂かなければなりません。主な項目と致しましては 如何なる宗教・宗派で行うか、式の方式は、式の会場(会葬者の予測人数)、日程、接待の方法、式場の設営、ご予算、特別なご希望等です。

 

宗教;

ご葬儀を執り行うに当たり最っとも大切な事項です。基本的には 故人様が信仰されていた宗教が最優先となり、帰依されていた檀那寺、或いは所属されていた教会にお願いして執り行います。あるいは 特定宗教をお持ちにならない場合は 無宗教でのお別れ会を催す事となります。故人様は特定宗教に帰依していなくとも、家として檀那寺をお持ちの場合は そちらにお願いする場合も御座います。又 檀那寺が遠方の場合は お願いをすれば近所のお寺を紹介して頂けます。尚 ひかりの杜では ご希望の宗教の宗教家をご紹介させて頂いて居ります。

方式;

個人葬か社葬・団体葬か、会社 団体 町内会などとの係わりを如何するか、身内だけで行う密葬とするか、その場合 後日に本葬 あるいは偲ぶ会などを行うか、などをお決め頂きます。

式場;

会葬者の予測人数、葬儀の方式などを考慮して ご自宅で行うか、火葬場が隣接する横浜市営斎場で行うか、団地の集会所で行うか、寺院で行うか、民間斎場で行うかをお決め頂きます。

日程;

火葬場の都合、宗教家の都合、式場の都合、御家族の都合等を考慮してお決め頂きます。

接待;

通夜振舞い、火葬場での茶菓子、精進落とし、会葬返礼品、香典返しなど 参列者 会葬者への接待方法、数量を概算 お決め頂きます。

設営;

祭壇、式場設営などに付いてお決め頂きます。ひかりの杜では生花祭壇を基本にお薦め致して居りますので お飾りするお花のご希望などもお受け致して居ります。他に 式場内で流す音楽、写真を用いた思い出コーナー、ビデオ放映なども可能です。

予算;

相互扶助の意味合いを持つ お香典を受けるか お決め頂いた上で ご予算の範囲をお決め頂きます。

その他;

特別なご希望や心配事が御座いましたら 忌憚なくお手伝いする葬儀社にお話頂きます。


   今回は以上です。 

 

葬儀の打合せ

 今回は葬儀の打合せに付いて書かせて頂きました。

 

 ご葬儀の打合せは 最愛の方を亡くされ 精神的にも厳しい状況の中で行わなければ成りません。多くの事をお決め頂かなければ成りませんが、何よりも先に ご葬儀に対する想いをお話し頂く事が重要です。故人様はどの様な方であったのか、故人様はご家族をどの様に思われていたのか、ご葬儀に対して言い残されて事は無いのか、そして 故人様に対するご遺族の想いはどの様なものであるかをお話し頂きます。このお話の中から ご遺族様はお心の傷を僅かでも癒して頂き、お手伝いをさせて頂く葬祭業者は 葬儀のご方針を想い描く事が出来ます。私ども葬祭業者は この想いに沿って各種のお決め頂く事を提案する事が可能となります。

 

 ご葬儀の打合せは 葬祭業者の情報開示と、ご葬家様のご決定が前提となります。一般的には ご葬儀の経験が豊富なご遺族様は居られません。私共 葬祭業者は ご遺族さまが 容易に選択・決定出来るべく、必要な情報を広く、公平に、正確にお伝えしなければ成りません。ご葬儀の打合せに当たり 大切な事は 物事を選択し決定するのは ご遺族様の権利だという事です。

 

 ご葬儀を考える際に 最も大切な事は ”故人中心”ということです。お送りする方々が 故人様への想いに集中することが 良い葬儀を実現する為のポイントとなります。故人様が生前に語っていた事、書き遺した事など、故人様が考えて居られた事を中心に進めた時が、より良い葬儀にも繋がるかと考えます。喪主様、葬儀の宗旨、会葬者の扱い方など、出来るだけ 亡くなった方本位 の方法でお考え頂くのが良いのではないでしょうか。

 

   今回は以上です。

 

 

 

葬儀の喪主

 今回はご葬儀の喪主について書かせて頂きました。

 

 人の世には 色々な悲しい出来事が待ち受けて居りますが、家族の方のご逝去ほど悲しい出来事は有りません。この悲しみの中でもやらなければならないのがご葬儀です。このご葬儀を取り仕切るのが喪主様であり、まず最初にお決め頂かなければ成りません。喪主様は葬儀全般の主宰者であり、弔問を受ける葬家の代表者であり、ご葬儀の宗教的な主宰者であると共に、その後の行事の責任者でもあります。又 喪主様は故人様の生前の意とご希望に沿うべく努め、故人様の霊を護る役柄を努めねばなりません。

 

 喪主様を何方にするか時として問題になる事があります。戦前であれば 家の祭祀を主宰する方で、戸主あるいはその跡継ぎの男子でした。戦後に民法の改正が有り、家の祭祀権を継承する方と、遺産を相続する方とは分離され、家の祭祀者が祭祀権の継承者を指名すれば良い事となりました。この指名された継承者が喪主様を努めなければ成りません。もし指名がされて居ない場合は 御家族で協議をしお決め頂きます。一般的には 世帯主以外の方が亡くなられて場合は世帯主が、世帯主が亡くなられた場合は その配偶者 もしくはお子様が喪主を務められます。喪主様は通常は一人ですが まれに複数の方々(配偶者と長男、子供たち等)が共同で務める場合も御座います。

尚 地域の習俗として 子供が親より先立った場合は 逆縁として 親が喪主にならない習慣や、夫が逝去された場合は 喪主は配偶者ではなく長男が務める、などが御座いますので 日頃よりご確認頂く事をお薦め致します。

 

 施主様と呼ばれるお務めが御座います。一般的には 葬儀を主宰する人と言う意味で喪主様と同じ様に用いられますが、厳密には異なります。施主様とは 血縁に拘らず、布施費用を納める人と言う意味で、葬儀の施行主であります。個人葬の場合は喪主と施主を御一人で務めますが、社葬や団体葬などの場合 喪主はご家族が務め 施主は費用を負担する会社や団体の代表者が務める事と成ります。又 個人葬の場合でも 跡継ぎが未成年の場合 喪主を跡継ぎな務め、叔父様が施主を務める形なども御座います。

 

   今回は以上です。

葬儀の前に

 今回がご家族のどなたかに万一が予想される場合にお決め頂かねばならない事項に付いて書かせて頂きました。

 

 ご家族のどなたかが亡くなられた場合 まずは 葬儀社に連絡をし、その後 葬儀社と葬儀の次第をお決め頂かなければ成りませんが、精神的な動揺も大きい中での判断には難しい面も多々あります。大切な方との最後の時間をより良く、後悔の無い様お過ごし頂くためには 事前に以下の事をお決め頂いて置く様 お薦めします。

1 喪主はどなたがされるか?

2 お通夜までの ご遺体の安置場所は何処にするか。

3 葬儀の形式は 仏式(宗派、檀家寺)、キリスト教(所属教会)、他の宗教、無宗教。

4 葬儀のご予算。

5 ご遺影の原本。

6 ご希望の式場、火葬場 もし御座いましたら。

7 準備する情報

  故人様 氏名、現住所(含む世帯主) 本籍地(含む筆頭者)、生年月日 

  喪主様 氏名、現住所(含む世帯主) 本籍地(含む筆頭者)、生年月日

  死亡届出人 氏名、現住所(含む世帯主) 本籍地(含む筆頭者)、生年月日、故人様との続柄、連絡先


 故人様が病院で亡くなられた場合は ご遺体を搬出しなければ成りません。その場合の葬儀社への連絡内容は 連絡される本人様のお名前、故人様との関係、連絡先の電話番号、故人様の氏名・年齢・性別、病院の名称・住所・電話番号・病室、そしてご遺体の搬送先が必要となります。


   今回は以上です。 


末期の水 遺体の清拭

 今回は末期の水とご遺体の清拭に付いて書かせて頂きました。

 

 末期の水とは 死にゆく者に対して 御家族により その口許を水でうるおす作法を言います。あるいは 死に水をとる とも言います。本来は死者の命が蘇える事を願って行われたと伝わります。従いまして 臨終の間際に行われる作法でしたが、現在では息を引き取られた後に行う事が一般的となって居ります。ご遺体の清拭(せいしき)とは 死後感染を予防し、ご遺体の尊厳を守る為に行う、各種の手当を指します。

 

 末期の水の由来は 仏典”長阿含経”の中に記されて居ります。末期を悟られた仏陀は 口が渇いたので水を飲みたいと 弟子の阿難に命じました。しかしながら 近くの川は水が濁って汚れて居た為 差し上げる事が出来ません、その時 雪山に住む仏道に篤い鬼神が 鉢に浄水を汲み これを仏陀に捧げたとの事に由来します。死に水は 許されるならば病院で、許されないのであれば ご遺体がご自宅に帰り お布団の上に安置した後に行います。死に水をとる順序は 喪主様 そして血縁の近い順に行います。最初は配偶者、お子様、故人の両親、兄弟姉妹、子の配偶者、孫、そして臨終に立会った方々の順となります。使用する道具は 筆 又は 箸の先に脱脂綿を巻き付けものを使用し それに水をふくませて唇を湿らします。元来は死者の蘇生を願う民俗的儀礼であると共に、一人一人が故人様に別れを告げる大切な儀式でもあります。

 

 故人様がご自宅で亡くなられた場合 主治医が死亡の判定をした後に 看護師によりご遺体の清拭が行われます。ご遺体の表面をアルコールで消毒し、鼻や尻等の部位に脱脂綿を詰めて体液が漏れない様にし、新しい浴衣などに着せ替えを行い、女性の場合は簡単な化粧を施すなどをします。病院で亡くなられた場合も同様の手当が行われ 遺体安置室(霊安室)に運ばれて引き取りを待つ事と成ります。看護師による清拭は エンゼルケアとも呼ばれて居ります。現代では エンゼルケアが一般的に施される様になり、ご家族による湯灌を行う事は少なくなりました。

 

   今回は以上です。

 

死体火埋葬許可証

 今回は死体火埋葬許可証に付いて書かせて頂きました。

 

 死体火埋葬許可証とは ご遺体を埋葬(土葬)あるいは火葬を許可する証で、埋葬・火葬の前に取得して置かなければ成りません。許可証の発行は 死亡届を受理した市区町村役所が行います。死亡届と共に死体火埋葬許可申請書を役所に提出し、許可証を受取ります。申請書には 死亡者の本籍、住所、氏名、性別、出生年月日、死因(一般感染症かそうで無いか)、死亡年月日時、死亡場所、火葬場所あるいは埋葬場所、申請者の住所・氏名・続柄の情報と印鑑(シャチハタは不可)が必要と成ります。


 死体火埋葬許可証が無いと ご遺体を埋葬(土葬)、或いは火葬する事が出来ません。この許可証は 発行した市区町村だけでなく、全国共通で有効となります。尚 ご遺体は原則として ご逝去後24時間以内には埋葬・火葬を行う事が出来ません。但し 法定伝染病により亡くなられた場合はこの限りでは有りません。横浜市内では原則として土葬が認められて居りませんので、全て火葬となります。


 横浜市内には 市営火葬場として 横浜市北部斎場(緑区)、横浜市久保山斎場(西区)、横浜市戸塚斎場(戸塚区)、横浜市南部斎場(金沢区) 私営火葬場として 西寺尾斎場が御座います。其々の火葬炉ご利用費用は;

1 横浜市営; 横浜市民−12,000円、市外−50,000円。

2 西寺尾火葬場; 63,000円(市内、市外共に)。


 ご火葬が終り ご遺骨をお骨壺に納めた後、火葬証明書が発給されます。火葬証明書は ご遺骨を埋蔵(お墓に納める事)、収蔵(納骨堂に納める事)の際に 管理者に提出しなければならない重要な書類ですので、ご遺骨と共に大切に保管して下さい。尚 分骨をされる場合は 別途 分骨証明書が必要となりますので、ご火葬の前に 火葬場へ申請する必要が御座います。尚 分骨申請書の発行手数料は 横浜市営斎場の場合 300円となります。


 以上の手続は ご依頼頂ければ葬儀社が代行してくれます。


   今回は以上です。  

監察医

 今回は監察医に付いて書かせて頂きました。

 

 監察医とは 死体解剖保存法の規定に基ずき、都道府県知事が任命する 行政解剖を行う医師を指します。日本に於ける監察医制度は 飢餓、栄養失調、伝染病などによる死亡者が続出していた第二次世界大戦終戦直後に 死亡者の死因が適切に把握されず その対策にも科学性が欠けて居た為、その状況を憂慮した連合軍総司令部(GHQ)が 公衆衛生の向上を目的として 日本政府に創設を命令した制度で、1947年(昭和22年)に創設されました。

 

 監察医制度の目的は 死因不明の死体を検庵 又は解剖して死因を明らかにする事により、公衆衛生の向上に資する事に有ります(犯罪捜査を目的とした制度では有りません)。監察医の業務内容は 死因の明らかでない死体に付いて @死体の検案を行う事、A検案によっても死因が判明しない場合は解剖を行う事(ご遺族の同意は不要)です。その対象となるご遺体は 伝染病、中毒、又は災害により死亡した疑いのある死体 及びその死因が明らかでない死体です。監察医制度は 昭和22年 当時の人口上位7都市(東京23区、大阪市、京都市、名古屋市、横浜市、神戸市、福岡市)で運用が開始されました。監察医は常勤 或いは非常勤の形で監察医務院と呼ばれる組織に所属して死因の解明に当ります。現在 監察医務院が運用されて居るのは 上記から京都市、福岡市を除いた5都市です。それ以外の地域では 委嘱を受けた 大学の法医学教室が その任務を代行して居ります。

 

 監察医や警察の嘱託医が行う、死因を特定する為の解剖を”行政解剖”と言います。これに対して 犯罪死の惧れがある場合に行う解剖を”司法解剖”と言います。行政解剖の途中で犯罪死の疑いが出た為、司法解剖に移行することもあります。行政解剖と司法解剖は ご遺族の同意を必要とは致しません。一般的医療機関で行う病理解剖はご遺族の同意が必要です。

 

   今回は以上です。

死亡診断書(死体検案書)

 今回は死亡診断書(死体検案書)に付いて書かせて頂きました。

 

 死亡診断書(死体検案書)は 人の死亡に関する厳粛な医学的・法律的証明であり、死亡者本人の死亡に至るまでの過程を詳細に論理的に表わされた書類で死亡届提出の根拠となります。又 死亡証明書(死体検案書)は 日本国の死因統計作成の為の資料ともなって居ります。死亡診断書は 死亡の原因となった傷病の診察に携わった医師 又は歯科医師により発行されます。死体検案書は 死亡の原因となった傷病の診療に携わる医師が居ない場合、又は 死体に異常があるとと認められた場合に都道府県知事が指定した医師(監察医等)が遺体を検案の上で発行します。

 

 通常の病死あるいは老衰死などの自然死が明白な場合は その診察・治療に当っていた医師が死亡診断書を発行します(医師法)。突然死や永らく医師の診察・治療をうけて居ないで死亡した場合は 病死や自然死であっても医師・歯科医師は死亡診断書を発行する事が出来ません。この場合は 死亡地の所轄警察署による検視を経て、監察医 又は警察の嘱託医が検案を行い死体検案書が発行されます。これは 自然死以外の可能性が無いかどうかを調べる為です。病死 あるいは自然死以外の異常死体、犯罪の疑いのある死体の場合は 所轄警察に届けて、その検死を受け、監察医 又は警察の嘱託医が 検案の上で死体検案書を発行します。警察による検視、監察医などによる検案が必要なケースは以下の通りです;

1 病死あるいは自然死であっても診察・治療に携わる医師が居ない場合。

2 病死あるいは自然死であるかどうか不明の場合。

3 伝染病死、中毒死などの場合。

4 溺死、事故死、災害死、自殺などの非犯罪死の場合。

5 殺人、過失致死などの犯罪死あるいはその危惧がある場合。

尚 横浜市には ”監察医を置くべき地域を定める政令”により監察医が置かれております。


   今回は以上です。

移植

 今回は移植に付いて書かせて頂きました。

 

 移植とは ドナー(提供者)からレシピエント(受給者)に 肉体の組織や臓器を移し植える医療行為のことです。現在の医療技術に於ける 移植の対象となる組織や臓器は 心臓、肺臓、腎臓、肝臓、膵臓、小腸、骨髄、角膜ですが、医学の発達とともにその範囲は広がりつつ有ります。そして 移植には 生きているドナーから提供される”生体移植”と、死亡したドナーから提供される”死体移植”の2っが有り、死体移植には 脳死と心臓死の場合とがあります。

 

 日本に於ける移植の歴史としましては 生体移植に付いては古くから色々な試みが行われて居りましたが、死体移植に関しては 1956年に腎臓移植が、1954年に肝臓移植が初めて行われました。そして 1968年(昭和43年) 札幌医科大学の和田教授による 世界で30例目にあたる心臓移植が行われ レシピエントは83日間生存しました。レシピエントの死後 ドナーの救命治療が十分に行われたのか、脳死判定は適切であったか、レシピエントは本当に移植が必要だったのか等で 医学界を中心に世論が紛糾しました。いわゆる 和田心臓移植事件です。和田教授は 殺人罪で刑事告発されましたが、最終的には 嫌疑不十分で不起訴となりました。その後 脳死に関する議論が続けられ、1997年(平成9年)”臓器の移植に関する法律”が成立し、脳死判定に従い臓器を提供する意思を本人が書面により表示し、かつ家族が脳死判定並びに臓器提供に同意している場合に限り、脳死が法的に人の死と認められ、脳死移植が認められる事となりました。

 

 臓器の提供を希望する方は 健康保険証 あるいは運転免許証の裏面に意思表示シールを貼るか、日本臓器移植ネットワークが発行している 臓器提供意思表示カード(ドナーカード)により意思を表明する事が出来ます。ドナーカードは 全国の郵便局、都道府県庁、運転免許試験場、市町村役場、保健所、コンビニエンスストアなどで入手する事が出来ます。又 意思を表示する場合は その意思をご家族にもご説明しておく事をお薦めいたします。

 

   今回は以上です。 

脳死

 今回は脳死に付いて書かせて頂きました。

 

 脳死とは 人の脳幹を含む脳の 全ての機能が不可逆的に回復不可能な状態まで低下し、回復不能と認められた状態を指します。その判定は 臓器を含む移植に関係しない、脳死判定の経験を持つ2名以上の医師により行います。判定は6時間の間を置いて2回行い、2回目の判定の決果に基ずいて、脳死が確定します。2回目の判定が終了した時間をもって死亡時間とされます。尚 脳死の判定基準は国毎に異なり、脳幹のみの機能低下を基準とする脳幹死を採用する場合と、大脳と脳幹の機能低下を基準とした全脳死を採用する場合とがあります。日本の場合は全脳死を前提として居ります。日本の法律では脳死を”個体死”とする旨の明記は有りません。

 

 人の死は 古来 心停止を前提として居り、医学的に厳密な定義を必要とするものでは有りませんでした。その後 法律上での定義として ”死の三徴候”が定められ 今日に至って居ります。人は 肺機能の停止、心臓機能の停止、脳機能の停止の過程を辿って死に至りますが 今日 医療技術の発達と共に 人工呼吸器、人工心臓等が開発され 自発呼吸が不可逆的に停止しても 人工呼吸器によって呼吸と心臓の拍動が維持できる様に成りました。これにより出て来たのが脳死の概念です。人工呼吸器の使用により 呼吸と心拍の停止よりも先に 腦の全ての機能が不可逆的に停止する状態が発生する事となります。これが脳死の状態です。脳死に陥ると 現在の医学では生命が蘇生される事は無いと考えられます。従来 脳死の後には数日から一週間で心臓が止まると言われて来ましたが、最近の症例では 脳死の状態で1年以上 心臓が動き続けた例がいくつか報告されて居り、最長例としては4歳の男子が脳死と判定された後 21年間心臓が動き続け、身長も伸びたとの 論文発表が有りました。

 

 この脳死を前提として臓器移植、尊厳死に関する諸問題が提起されて居ります。

 

   今回は以上です。

死の判定

 今回は死の判定に付いて書かせて頂きました。

 

 人の死は 法律上は 医師によって死亡診断書、或いは 検死医師によって死体検案書が発行される事によって確定します。従いまして 市区町村役所に死亡届を提出するに当たりましては 死亡診断書 又は死体検案書の添付が必須条件となります。死亡診断書 又は死体検案書は特別な場合を除いて、A3用紙の右側に診断書・検案書、左側が死亡届の書式となって居ります。尚 死亡届の提出先は 死亡場所、若しくは 届け出人が居住する市区町村役所となります。

 

 医師による 人の死亡の判定は 伝統的には @呼吸停止、A心拍停止、B瞳孔散大・対光反射消失の 死の三徴候を根拠としてなされます。医師は この3点の不可逆的停止を確認する事により死の判定を行います。一般的には 呼吸が停止した時刻、あるいは心拍(脈拍)が停止した時刻をもって死亡時刻とする、との事です。 これが 心停止 と言われる死の判定法で、法律上でも確立して居ります。但し 心停止により 法律上は死が確定しても、その人の臓器や細胞は生きて居り、その後 緩やかに死へと向かう事と成ります。


 不可逆的停止とされる意味は 自発的呼吸が停止しても 直後に人口呼吸を施す事により 自発的呼吸が再開されたり、強心剤や電気的ショックにより 停止していた心臓が動き出す事もあり、一時的な機能停止は 必ずしも絶対的なものではないからです。墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)に於いても これらに考慮し 死亡判定後24時間以内には 火葬や埋葬する事を禁じて居ります。古くより有り得た 生存埋葬を避ける為です。但し 法定伝染病患者の死に関しては この限りでは無く、即刻の火葬が可能です。


   今回は以上です。

死の環境 臨終

 今回は死の環境 臨終に付いて書かせて頂きました。

 

 臨終とは 死を迎える直前の時期を指し、臨命終時(りんめいしゅうじ)の略語です。人の死という 危機的な時期に関しては エジプトやチべットなどの古い文献の中で種々語られて居りますが、現代の日本に於ける臨終の手引きに関しては インド仏教の伝承を基にして創造されて居ります。臨終の時は 本人は勿論、近親者にとっても大切な時間です。最期の看取りを行い、きちんとしたお別れが出来たか如何かは 近親の方々の 後々の心の平安にも影響を与えかねません。

 

 インド仏教では 祇園精舎の北西の一角に無常院が造られ 病者や死を迎える人が受入れられたと言われます。このインド以来の伝承に基ずいて 中国の唐代に活躍した道宣、善導の二人の僧により 臨終の作法が説かれました。この臨終論が日本に伝わり、平安時代中期の僧源信により ”臨終の行儀”がまとめられました。現在の臨終の作法は これにより定着する事と成りました。

 

 現代の臨終は 交通事故などの突然の死を除いては 病院で迎えるのが一般的です。従いまして 臨終の作法を ご自宅で行うのと同様に病院で行えるか如何かは その病院の許可次第と成ります。一般的には不可です。しかしながら その病院では 近年、延命だけを目的とする治療よりも、ご本人と近親者が 最期の時をどの様に迎えるかを重視するよう変化して参りました。本人と家族が より良い別れをどう持つか重視し始めたとも言えます。ですから 本人が安らかに最期の時を迎える事が出来る様、家族の方々は 担当医師と充分なコミニュケーションを図るようお薦めします。又 医師と相談の上で ご本人が面会を望む方々にも 連絡されると良いでしょう。

 

   今回は以上です。

 

埋葬

 今回は埋葬に付いて書かせて頂きました。

 

 埋葬とは 故人様のご遺体を土の中に埋める事(土葬)を指しますが、広義には ご火葬後のご遺骨を墓地や納骨堂等にお納めする事を指す事も御座います。現在の日本に於いては多くの場合 火葬が前提となって居り ご遺体を埋葬する事はほとんど無くなりました。特に横浜等の大都市では 衛生上の観点からも土葬が禁止されて居ります。ご遺骨を埋葬する時期と致しましては 仏教であれば四十九日法要後の忌明けに、神道であれば忌明けの五十日祭に合わせて、キリスト教では1ヶ月後追悼ミサに合わせて埋葬(納骨)するのが一般的です。

 

 日本に於ける埋葬の歴史と致しましては 旧石器時代の北海道美利河1遺跡の土抗にお墓の可能性がある遺構が発見されて居り、それに続く縄文時代の貝塚などから多くの埋葬行為が確認されて居ります。この時代の埋葬は ご遺体の手足を折り曲げて埋葬された 屈葬が主流でした。弥生時代に入ると 埋葬に当たり ご遺体を収める甕棺や石棺が現れる様になります。又 この時代には 再葬墓と呼ばれる 故人様のご遺体を一度 埋葬し、白骨化するのを待って骨壺に納め直し、埋葬する形態も現れました。何れにしろ 仏教が伝来する前の 古代から中世にかけては 神道を基にした 死は穢れ との思想が強く、貴人の墓地であっても、その管理は疎かでありました。


 ご遺骨は 御骨壺に納められている場合 ご遺骨はほとんど風化しませんが、そのまま 土壌に埋葬されたご遺骨は年と共に風化し、土に還ると言われます。土壌の種類によって差異がありますが、大体 30年でご遺骨は土に還るとされて居ります。


 尚 日本では 墓地埋葬法により 墓地以外の場所、例えば自宅の庭などに埋葬する事は出来ません。違反をすると 死体遺棄罪として罰せられる事が有ります。


   今回は以上です。

 

 

現代の墓地事情

 今回は現代の墓地事情に付いて書かせて頂きました。

 

 お墓は 親から子へ、子から孫へと承継されて行くものと考えられて居りました。しかし 昭和時代後半からの 人口都市集中化や核家族化の進展により、”家”の概念が変化し、又 菩提寺と檀家の関係も希薄に成り、”家墓を護る”形が困難な時代と成りました。墓地は先祖より承継するものではなく、ご自分で墓地を取得する場合も 少子化の中で誰を承継者とするか 良く考慮しなければならない時代と成りました。


 1965年(昭和40年)頃より高まった 人口の大都市集中の流れは 核家族化を進めると共に、大都市圏での墓地需要を増大させました。その需要に応えて 公営霊園や民間の霊園開発が盛んに推し進められました。そして 地方の寺院墓地は過疎化の影響を受ける事となり、少子化の進捗とともに 墓地の無縁化を招き 承継の問題が生じて居ります。墓地の承継は 男子承継を原則として居りましたが、現在はこの様な運営規則も改められつつ有ります。墓地の永代使用権を購入する場合は 承継者を誰にするか決めた上で購入するのが基本でしたが、現代では 永代供養墓や樹木葬墓など 承継者が居られる方は勿論、承継者が居られなくとも安心して死後を託す事が出来る墓地を利用する時代と成りました。


 現代の墓地のトレンドと致しましては ”住墓近接” ”小規模・小区画” ”ガーデニング”等が人気です。墓参の容易さを考慮して ご自宅に近く 交通の便の良い場所で、それ程 高額でない 1u以下の狭小区画をご利用される方が多くなりました。又 芝生墓地やガーデニング墓地など 花や緑に包まれた モダン造りの霊園も好まれる様です。


   今回は以上です。

 

現代の葬儀

 今回は現代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 戦後 昭和時代後半の葬儀は告別式を中心として執り行われて参りましたが、平成時代となり 少子高齢化、核家族化、無縁社会化、そして社会の個性化が進捗する事により、葬儀の目的も大きく変化して参りました。従来は葬儀の目的として 社会への告知という面が大きな部分を占めて居りましたが、現在では 家族と極親しかった友人だけによるお別れの意味が強くなり、葬儀の形も 伝統に拘らない 故人様やご遺族のご希望にのっとった形が主流となりました。

 

 以前の葬儀は 仕事の関係者などを含め多くの方々に参加して頂き、葬儀・告別式を行うのが主流でした。故人様が亡くなられてから 通夜・葬儀・告別式・ご火葬と慌しい中で ご会葬の方々の応対に追われ、故人様とのお別れも十分に出来ない事もまま有りました。現代では 亡くなられる高齢者の方が 会社生活から離れて長く、又 ご本人が 葬儀に費用を掛けぬ様 ご希望されたり等から、より小さく 落ち着いたお見送りが多く見られる事となりました。ご家族だけでお見送りをする 家族葬、ご火葬だけを行う 直葬などです。

 

 又 伝統的な形に捉われないご葬儀も増え始めて居ります。お柩やご遺影を飾る祭壇は 以前の白木の祭壇からひかりの杜が推奨する花祭壇へと変わりつつあり、更には 故人様が好きだったお花に囲まれた式場等も御座います。宗教色を持たない お別れ会を行う事も多くなりました。お別れ会では 故人様のお好きだった音楽を流したり、生演奏を行うケースも有ります。更に ご友人やお孫さんの弔辞の後に、卒業校の校歌を会葬者で斉唱する、特別な思い出の残る お見送りも御座います。

 

  今回は以上です。  

尊厳死

 今回は尊厳死に付いて書かせて頂きました。

 

 人は この世に生を受けた後、死に向かって日々生活を営む事となりますが、日本に於きましては 古くより造成された考え方や 第二次世界大戦を経験した事により、死に対して 強い忌避感が造られ、死は社会的タブ−とも成りました。しかしながら 戦後70年ともなり 医療技術の発達と共に高齢化が進む中で、忌避感は薄らぎ ターミナルケアに対する関心が高まり 尊厳死と言われる概念が生まれました。

 

 尊厳死とは 人間が人間としての尊厳を保ちながら死に臨むこと、と解釈されます。医療は その技術がどの様に発達しても、治療優先主義の医療を行うのではなく、患者本人の生活を犠牲にする事無く、患者の生命 及び生活の質を尊重して行われなければならないとの考え方です。更には 死に方 の決定権は医師が持つのではなく、患者本人が持つべきものとの考え方から、医療情報の本人への開示、治療方針に対する本人の同意、ガンの本人告知などが積極的に行われる様に成りました。他方 尊厳死を警戒する考え方もあり、尊厳死の名の下で 殺人や自殺幇助が行われる可能性があり、患者の生存権を侵しかねない、との意見も有ります。


 尊厳死を保つ為の医療として、ターミナルケア(終末期医療)があります。ターミナルケアとは 終末期にある患者に対する医療 及び看護をさします。終末期の概念は特に 公的に明確な定義はされて居りませんが、一般的には 老衰・病気・障害の進行により死に至る事を回避する如何なる方法も無く、予想される余命が3ヶ月以内と解釈されて居ります。ターミナルケアの目的は 医学的・生物学的に延命が不可能である事を前提として、延命治療 病気・障害の進行遅延治療 心身の機能維持治療などを行わず、身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減する事により 終末人生の質を維持・向上する事に有ります。精神的側面を重視した総合的医療処置となります。


 有名になった尊厳死としては 2014年のアメリカに於ける事例が有ります。29歳の女性は 末期の脳腫瘍と診断され、動画投稿サイトに 11月1日に服薬により尊厳死する と予告して、尊厳死が合法化されているオレゴン州に移住し 11月1日 医師が処方した致死量を超える鎮痛剤を服用し、自宅寝室で家族に見守られながら穏やかに最期を迎えたとの事です。


   今回は以上です。

ご遺体の保全

 今回はご遺体の保全に付いて書かせて頂きました。

 

 故人様がご逝去されてから ご火葬、或いは埋葬されるまでの間、ご遺体は腐敗を遅延させ、又 外形的な変化が起こらぬ様、各種の処置を行わなければ成りません。この処置を ご遺体の保全処置と言います。日本に於いて 古くは塩により腐敗遅延を即す事が一般的でしたが、現在では各種のより良い処置方法が生まれ、ご遺体が生前と同様の外見で保全する事も可能に成りました。ご遺体をより良い状態にする方法としての、古くから行われて来た湯灌の他に、清拭(せいしき)、エンジェルケア等 腐敗防止としては ドライアイス、エンバーミング等が御座います。


 湯灌とは 日本古来から行われて居り、ご自宅のお風呂場 或いは寺院の湯灌場で ご遺体を湯で洗い清める事ですが、ご親族の手により行うものとされ ご遺体に直接触れる事により 故人様の死を実感して頂くという 深い意味を持つ 大切な儀式でした。現代では 専用のバスタブを室内に持ち込み 行う様に成りましたが、浴室や居室も手狭となり 横浜等の都市部では 病院でのエンジェルケアで済ませる事も多くなりました。


 清拭とは 身体を拭き清める事で、ご葬儀の中では ご遺体を納棺する前に拭き清める事を言います。


 エンジェルケアとは 病院 或いは看護士の用語で、病院で亡くなられた方のご遺体処置を指します。清拭 着せ替え 綿詰め 顔剃り、化粧などの処置を包括的に指して言います。


 ドライアイスとは 炭酸ガスを固形にした物で、非常に低い温度で昇華する為 水分が出ないので 食品や洋菓子などの保冷用として利用されますが、ご遺体の保全用としても用いられて居ります。約10Kgのドライアイスで24時間前後のご遺体保全が可能とされて居りますが、真夏などの暑い時には注意が必要となります。


 エンバーミングとは ご遺体に施す防腐処置の一つで、ご遺体の一部を切開して 血液を抜き、代りに 防腐剤を注入する事により、ご遺体を長期間保全する事が可能となります。この技術は北米で加発され、日本にも伝わりましたが、日本では 火葬までの日数がそれ程掛らずドライアイスの利用で十分と考えられて居り、ご遺体を海外に移送する等の 特別な場合にのみ利用されて居ります。尚 Embalm とは ”香料を塗る(死体に)” という意味で、本来は ミイラを作る事を指して居ります。


   今回は以上です。





 

斎場と葬儀

 今回は斎場と葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 現在 横浜市が運営する火葬場は4ヶ所有り、緑区の北部斎場、西区の久保山斎場、戸塚区の戸塚斎場、金沢区の南部斎場です。それぞれ斎場と呼ばれて居りますが、斎場とは本来は神道の用語で、祭祀や儀式を行う場所を意味します。現代の日本に於いては 神道に拘らず、葬儀が行える施設を指す様に成りました。特に 公営の葬儀を行う施設には 斎場や聖苑の名称が用いられる様になって居ります。

 

 現在では葬儀の環境は従来に比較して、大きく変化しました。その中でも最大のものは 式場の場所です。 以前 葬儀は自宅で行う事が一般的でしたが、戦後の家の構造変化や車社会の発達などを基に、葬儀式場環境の快適化を求めて、自宅以外での葬儀施行の要望が高まり、多くの葬儀式場が建設される様になります。一つは葬儀社が経営する葬儀会館やホールであり、又 大都市に於ける寺院が経営する寺院会館です。更に 火葬場に葬儀式場を付設する要望も高まり、久保山斎場を除く3ヶ所の斎場では 葬儀式場が併設されて居ります。又 横浜市営斎場では 故人様が横浜市民であれば利用料は通夜・葬儀の2日間で5万円(北部斎場のみ8万円)と 非常に廉価で利用する事が可能です。但し 廉価がゆえに 斎場の予約が埋まり易く、葬儀を執り行えるまで数日待たなければならない場合も御座います。尚 神奈川区内の私営火葬場である 西寺尾火葬場にも 西寺尾斎場が併設されて居ります。

 

 尚 斎場には 葬儀式場だけでは無く、駐車設備、遺族控室、僧侶控室、会食室、仮眠設備なども整えられております。

 

   今回は以上です。

現代の葬儀

 今回は現代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 戦後 霊柩車の普及とともに葬列を組む事はほとんど姿を消し、葬儀・告別式を中心とする儀式に変化しました。更に核家族化から 親族が一堂に会す事も困難となり 通夜・葬儀・告別式・初七日の集中化が進みます、そして少子高齢化により儀式の小型化と個性化も顕著となって参りました。

 

 現代では 御家族や知人・友人の地域拡散が進み、お別れの儀式を短期間に集中して行う事が一般的となってまいりました。通夜と葬儀・告別式・ご火葬を2日間で行う事は当然の事で、初七日法要や精進落としもこの2日間の間に終えて、各地に帰る関係者の方々に迷惑をかけぬ様、便宜を図る事となります。当然の事ながらそれぞれの儀式も短縮された時間で執り行われます。例えば 横浜市営の式場をご利用された場合、通夜・お清めの席に利用出来る時間は 1時間半から2時間半の間であり、葬儀・告別式・お別れの時間は1時間となって居ります。更に ご火葬後の式場利用が出来ない為、初七日の法要も1時間の間で行う事を推奨して居ります。従いまして 1時間の中で 葬儀・告別式・初七日法要・お別れ・喪主ご挨拶を執り行い、ご火葬の間(1時間前後)にお斎の席を設ける形となります。

 

 また 会葬の方々は 会社を休んで参列しなければならない日中の告別式より、就業後に参列出来る通夜への参加が多くなりました。本来は近親者の方々による故人様との最後のお別れの場であった通夜の席は 現在 一般の方々の弔問の場ともなって居ります。従いまして お清めの席も 弔問の方の為のお清めと、近親者の為のお清めを分けて行う様に成りました。

 

 会葬者だけではなく、御家族もお忙しい この現代では ご葬儀の簡略化がより進められる 昨今の葬儀事情で御座います。

 

   今回は以上です。

戦後の葬儀

 今回は第二次世界大戦終了後の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 昭和20年8月15日 第二次世界大戦は日本の降伏により終結します。その後の日本国内は 物資の不足とインフレにより社会生活は混乱の時期に入ります。葬儀を行う事も困難な時期が続きますが、昭和25年に始まった朝鮮戦争の特需により、日本の経済と社会は回復期に入ります。経済の回復と共に葬儀に対する関心も 以前の状態に戻り、各種の祭壇や葬具が整備され、各種の葬儀様式が生まれ、宮型霊柩車が全国的に普及し、そして ご火葬の普及率が急速に高まりました。

 

 葬儀に於ける戦後の大きな変化は 祭壇、棺、葬具などの標準化があります。多くの葬具が開発されると共に、その製品は全国的な標準化が図られてゆきます。それまでは各地域で その地域特有の葬具が利用されて居りましたが次第に姿を消してゆきました。それまでは大都市だけで使用されていた 複数壇飾りの祭壇も全国に普及して行き、祭壇を飾る道具も多数 開発されて葬儀=祭壇の図式が出来上がります。

 

 大正から戦前にかけて 大都市で使用されていた霊柩車が、戦後には全国に普及して行きます。霊柩車の普及とともに、各地で行われていた葬列は姿を消して行きます。更に その後の高度経済成長の波に乗り、宮型霊柩車がご遺体移送の手段として一般化して行きます。

 

 又 戦後に大きく変化した事柄としては 火葬率の変化があります。戦前の昭和15年に初めて50%(55.7%)を超えた火葬率は 戦後 各地方自治体による 火葬設備の新設、統廃合、改善・整備が進められ、急速に向上して行きました。昭和35年には63.1%、昭和40年 71.8%、昭和45年 79.2%、昭和50年 86.5%と火葬率は増え続け、現在では 特別な場合を除いてほぼ100%のご遺体が火葬される様になって居ります。

 

   今回は以上です。 

昭和時代の葬儀

 今回は昭和時代の葬儀、特に戦前の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 昭和時代に入ると ご遺体移送の手段としての霊柩車、特に宮型霊柩車が昭和2年には出来上がりました。又 告別式の登場と共に、従来は小机の上に具足を供えた程度の祭壇が、一壇から二壇、二壇から三壇と、徐々に増えて行き、最終的には 現在 使われている5壇の祭壇が生まれました。満州事変から第二次世界大戦へと進む中で、戦局の悪化とともに葬儀や告別式を行う事も出来なくなり終戦直前では 死者が出ても 納棺をして火葬場へ行くだけの葬儀となりました。

 

 昭和時代の初期に 現在の葬儀式場の原型が出来上がります。特に 東京、大阪、名古屋などの大都市に出現した告別式では 使用される祭壇が大きく変化しました。それまでの祭壇は 現在の枕飾り程度の祭壇と、その左右に生花、造花、供物などを配した簡素なものでしたが、この部分を前机として その後ろに複数の壇を配し、最終的には白木で5っの壇を組み上げた現在の祭壇の形が使用される様に成りました。又 当初はそれぞれの壇を白布で覆う単純な形でしたが、その内 高欄をつけた祭壇等も使用される様になります。そして 祭壇を飾る為の 六道などの新しい燭台や葬具が誕生しました。遺影写真が祭壇に飾られる様になったのも昭和初期からです。

 

 昭和10年前後までは 葬列を組む事も 細々と残って居りましたが、戦時体制に入るとこれも消えました。葬具の製造なども統制される様になり、葬儀・告別式の規模もより小さくなってゆきます。更に戦局が厳しくなると 霊柩車の燃料も不足する様になり、ご遺体の移送は人でによる事となります。戦争の最終局面では 葬儀の飾り付けも出来なくなり、故人様のご遺体は 納棺して火葬場にお送りするだけとして、ご葬儀を執り行う機会は消滅しました。

 

   今回は以上です。

大正時代の葬儀

 今回は大正時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代の葬儀の中心は 葬列に有りましたが、大正時代に入ると 市街地での埋葬や火葬が制限され始め、又 明治36年より走り始めた路面電車の走行に支障をきたす事などからも、徐々に葬列廃止の方向に進み、それに代わって告別式が登場して来ます。葬列が廃止されると共に、お柩の移送には霊柩車が使用される様に変化しました。

 

 大正時代に入ると 都市部で行われていた 大型葬列に対して ”私事の為に交通を妨げるのは良くない”などの批判が出始め、新聞などのマスコミにも 都市部では葬列を廃する などの論調が顕著と成り始め、葬列廃止の方向が急激に進み始めます。そして 葬列に代わる葬儀の儀式として、告別式が 葬儀の中止となって行きました。日本で最初に告別式が行われたのは 明治34年に行われた 中江兆民の葬儀であったと言われて居ります。中江兆民自身が無宗教であった事から、教え子たちにより 宗教儀礼を行わず、告別式によるお見送りを執り行いました。この時代 地方では 葬儀の中心は ”野辺の送り”と言われた葬列でしたが、東京、大阪、名古屋などの大都市では 葬列に代わって霊柩車が使用され、儀式のメインは告別式と成りました。

 

 霊柩車が始めて使用された時期は諸説ありますが、明確な記録としては 大正6年に 大阪で葬列の要員派遣を生業としていた大手業者の 籠友が米国より輸入した霊柩車があります。大正8年には 名古屋の一柳葬具店も米国より輸入して居ります。当時の米国の霊柩車は 彫刻がほどこされ、破風の付けられた派手な形の車でしたが、従来の輿にも似た形態から採用されたものと考えられます。大正10年前後には これらの輸入車に日本独自の装飾を施し、後部を輿仕立てにし、和風の唐草模様を施した 宮型霊柩車が登場しました。この形態が現在まで継承されて居ります。

 

   今回は以上です。

明治時代の葬儀U

 今回は前回に続き明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代に入って変化した葬儀の形態としては 大掛りな葬列、寝棺と白木の輿、新たな葬具、に加えて 粗供養の大型化と葬列を演出する人夫の出現があります。

 

 葬儀の際に 近隣の人々や参列した方々に食事を振舞うという習慣は 江戸時代から全国的に普及して居りました、又 葬列が出発する際に 粗い目の花籠に駄菓子や小銭をいれ これを振って葬列を見送る子供達に振舞い 供養をする事なども行われ、これらの事を起源として、粗供養が行われる様に成ります。明治時代に入り 葬儀が大型化すると共に、会葬の方々に 菓子包み、饅頭、あるいは御弁当などを配る、今日の粗供養の原型が出来て来ました。この粗供養を目的に関係の無い人でも葬儀に参加したり、何回も並んだりなどが有り、葬家側も不足すると恥ずかしいと言う事から、大量に用意する様になり、粗供養の費用が 全体費用の中でも大きな比重を占める様に成りました。

 

 大掛りな葬列を組む為には その演出をする為の各種葬具が必要となり、葬具を運ぶ為の人夫も必要と成りました。これらの人夫は 数十人でのお手伝いから、大きな葬列では数千人の人夫を動員する事も有った様です。更に衣裳を揃えて人夫に着せる様にも成りました。

 

 ちなみに 明治18年2月7日に逝去した 三菱の創始者 岩崎弥太郎氏は 13日 神葬祭で葬儀が執り行われ、その葬列は 下谷茅町の岩崎邸から北豊島郡染井村まで組まれましたが、巡査、騎馬を先頭にして、雅楽の奏者、弔旗を持つ者、牡丹・芍薬・杜若等の造花と白梅・桃の花等の生花が300余、霊柩、喪主、親戚、社員一同が続いたと言われます。この日の会葬者は3万人。又 染井村の墓地の前面には仮小屋が設けられ、墓地の周囲6千坪の畑一面にむしろを二重に敷いて、会葬者に貴賤を問わず、西洋料理、日本料理を立食でもてなしたとあります。このとき 用意された料理・菓子は七万人分、葬儀の当日に雇った人員は7万人と言われます。

 

 この様な葬列の肥大化は 明治20年から30年頃までをピークとして、その後 葬儀の奢侈化が非難を浴びる様になって行きます。

 

   今回は以上です。

明治時代の葬儀

 今回は明治時代の葬儀に付いて書かせて頂きました。

 

 江戸時代には 士農工商という身分制度の下で、身分に合わせた葬儀が営まれて居りましたが、明治時代に入り、この身分制度が廃止されると 大都市を中心に葬儀の在り方が大きく変化して行きました。まずは ひそかに夜間行われていた葬列が、昼間 大掛りに行われる様に成ります。又 使用される棺が 棺桶を使用した座棺から、寝棺へと変化します。更に 寝棺を乗せる為の 白木の輿が組まれ、その輿を彩る為の葬具が出現しました。

 

 江戸時代の葬列は 夜間に少人数でひそやかに組まれるのが普通でしたが、明治時代に入ると 台頭してきた商人層を中心にして 社会に誇示する為 日中に大掛りな葬列を組む様に成ります。葬列の要員としては 明治と共に役割を終えた大名行列の奴が動員されました。

 

 江戸時代の棺と言えば 棺桶 すなわち座棺が中心でしたが、明治に入ると 富裕層を中心とした 葬列の肥大化に伴い長方形の寝棺が使用され始め、この寝棺を運び為の白木の輿をあつらえて、より多くの人により柩を運ぶ事で、その財力を社会に示しました。但し 一般庶民の柩は棺桶が中心で、この柩を 駕籠や御輿型に飾られた人力車などで運びました。この状態は第二次世界大戦終了まで続きました。

 

 又 この葬列を彩る為の 野道具と言われる葬具も立派な物が作られ始めます。金連、銀蓮、生花や造花を挿して作った花車、放鳥する為の鳩を運ぶ放鳥輿、位牌を運ぶ位牌輿、香炉を運ぶ香炉輿などです。現代の葬具の原型となるものです、そして これらの葬具を作成する専業の葬具屋がこの時代から出現しました。

 

   今回は以上です。 

近世の火葬

 今回は前回に引き続き近世の火葬に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代に入ると 火葬は仏教の葬法であり 廃止すべきであるとの意見や、市街地に隣接する火葬場での臭気や煤煙の問題などにより、明治6年 火葬禁止令が発令されて土葬用墓地が準備されます。しかしながら その土葬用墓地は十分に用意する事が出来ず、都市部ではまもなく墓地用地が枯渇し始めます。並行して 火葬の利点を説いた”火葬便益論”や仏教徒からの建白書も相次ぎ、明治8年には禁止令は廃止されます。その後は 火葬率は急速に高まり、現代では 特別な例を除いてほぼ100%の火葬率となって居ります。

 

 明治8年 政府は火葬禁止令を徹回すると共に、火葬場の設立許可条件を定めました。これによると、場所は市街地から離れる事、煤煙が人の健康を害さない様 煙突を高くする事、火葬場と墓地は分離する事等が示されて居ります。これを受けて、京都市は 市街地にある寺院墓地での土葬を禁止します。又 東京市でも 明治24年には市街地での土葬が禁止されました。

 

 当時の火葬場の運営規則によれば 火葬は夜の8時から10時まで、拾骨は翌日の午前8時から午後3時までと定められて居りました。現在の様に昼間に火葬をして同日拾骨となるのは 昭和2年に東京の町屋火葬場が重油の火葬炉を導入して以降の事と成ります。

 

 火葬が大きく推進されたのは 明治30年の伝染病予防法制定以降です。同法では法定伝染病の患者のご遺体は原則火葬と定められました。以後 埋葬が容易で大きく土地を必要としない事からも火葬率は高まり、昭和15年には火葬率が55.7%と過半数をこえる様に成ります。

 

 日本に於いて 中世の火葬場は常設の設備では無く、毎回 設備を設営する事から始めなければならず、火葬場での荼毘は貴族や上級武士階級だけが行える、高額な葬法でした。庶民は通常 土葬でしたが、火葬の場合は野焼きにて行われました。江戸時代に入ると 寺院内に炉が設けられて火葬設備が常設される様になりますが、薪を使用した火葬の為 火力が弱く、ご火葬時間もそれなりに掛りました。又 火葬炉は露出しており、火葬時の煙や臭いは 周囲住民を苦しませたことと考えられます。明治時代に入り 公衆衛生の理由から 火葬場は厳しく管理される様になり、施設の近代化が進めます。日本で最初に造られた、火葬炉を建物の中に納めた近代的火葬場は 浄土真宗の東・西本願寺により建設された”両本願寺火葬場(明治11年、現在の京都市中央斎場)です。

 

   今回は以上です。

火葬の歴史

 今回は火葬の歴史に付いて書かせて頂きました。

 

 日本に於ける火葬の歴史は古く、弥生時代後期(2世紀頃)と想定される、長崎県大村市で発屈された竹松遺跡に於いて火葬後に埋葬されたと見られる人骨が発見されて居ります。又 文献に残る火葬の記述としては ”続日本紀”に記された僧道昭の記録が最古のものとされます。更に 日本で最初に火葬された天皇は 702年の持統天皇と言われております。火葬の技術は仏教の伝来と共に伝わったとするのが一般的な理解ですが、それ以前にも国内で火葬が行われて考えられます。

 

 火葬は 葬送の一手段としてご遺体を焼却する事ですが、ご遺体の焼却を伴う葬儀全体を指す場合もあります。又 ご遺体の焼却は ご遺体の減容量化と安定化の為の処理とも言えます。仏教では ご火葬を 荼毘(だび)に付す とも言います。荼毘とは 火葬を意味するインドのバーリ語に由来し、仏教用語の一つで、釈尊が死後 火葬されたことにちなみます。特に浄土真宗では火葬を強く推奨しております。

 

 日本では平安時代以降 皇族、貴族、僧侶等の間では火葬が広まりましたが、一般庶民の間では必ずしも広がりませんでした。それは ご遺体を焼骨に変える為には強い火力が必要とされ、生活の為の貴重な薪を大量に使わなければならず、又 効率良く焼却する為には高度な技術を必要とした為、ご火葬は費用のかかる葬送でありました。浄土真宗ではご火葬を強く推奨して居りましたが、江戸時代の火葬化率は全国平均で2割程度と推定されます。一般庶民の埋葬は永く土葬が常識で、場所を広くとらぬ様、ご遺体を屈して縦長の桶に納めて埋葬するのが一般的でした。この様な状態が明治維新以降 大きく変化して行きます。それに付きましては次回に書かせて頂きます。

 

   今回は以上です。

神葬祭と墓地

 今回は明治時代に入り推奨された神葬祭と墓地に付いて書かせて頂きました。

 

 明治時代に入り維新政府は 国家神道を前提として、その葬儀も神葬祭により行う事を推奨します。その為 神葬祭の為の墓地を東京市内に設けました。しかしながら 官弊や国弊の神社の宮司が葬祭に携わることは禁じた為、神葬祭は必ずしも大きな広がりを見せる事は有りませんでした。寺請制度と言う法的な根拠は失われましたが、地域の習俗と一体化した檀家制度は根強く民衆の中に生き続け、仏式の葬儀は現代に至るまで民衆の支持を受け続けました。

 

 明治5年(1872年)には自葬禁止が布告されます。自葬とは僧侶や神職によらず、自身で行う葬儀ですが、この布告により、葬儀を行うに当たっては 一切 神職・僧侶に依頼しなければならなくなります。これまでは 神職は葬祭儀礼に携わらない事が建前でしたが、以降 神職は自由に氏子の葬儀を営む事が出来る様になり、神葬祭を営む庶民が増えて行きました。しかしながら 当時の墓地は 寺院に属したものが基本であり、神葬祭の墓地は有りませんでした。その為 神葬祭の為の墓地として、東京市営の墓地が開設されました。青山墓地、谷中墓地、染井墓地がそれにあたります。明治6年には キリシタン禁制の高札が撤去され、明治8年には ”信教の自由”が布告されてキリスト教も公認されました。共に市営墓地の使用も神葬祭に限定されなくなります。

 

 その後 神葬祭の営みにも変化が起きます、明治政府は神社は宗教ではないとの国家神道の考えから、明治15年 官弊社・国弊社の宮司が葬祭に関与する事を禁止し、神葬祭に関与出来るのは 府県管理下の神社の宮司のみと限定しました。神葬祭は明治・大正・昭和前期と政府の推奨を受けますが、同時に政府の家制度 強化政策の下で、仏教寺院の檀家制度も強い基盤を維持する事なりました。

 

   今回は以上です。

 

神仏分離

 今回は神仏分離令に付いて書かせて頂きました。

 

 明治元年(1868年) 明治維新政府は神仏判然令(神仏分離令)を布告します。これは 江戸幕府が事実上の国教としていた仏教に代わって、神道を国教とするものでした。明治維新は 江戸時代後期以降の儒教や国学を その活動の精神的支柱として居り、復古神道に伴うものであったからです。明治政府の神仏分離政策は 必ずしも仏教を排斥するものでは有りませんでしたが、結果としては廃仏棄却運動がおこされてしまう事と成りました。

 

 神仏分離とは 神仏習合の習慣を止める事で、神道と仏教、神と仏、神社と寺院をはっきりと区別させる事で、明治政府が布告した具体的内容は 神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神道の神に仏具を供えることや御神体に仏像を使用する事を禁じ、神社に奉仕していた僧侶には還俗(げんぞく)を命じました。これは 維新政府に影響を及ぼした 平田派国学者が 神道国教化の為には神仏習合を禁止する必要があるとした為でした。この布告を基に 地方の神職や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持っていた民衆は廃仏棄却に走る事と成ります。中世後期以降 民衆宗教として定着し、江戸幕府の下 寺請制度により 事実上の国教として優遇されて来た仏教は、革命的 政治体制の変革により、大迫害を受ける事と成りました。

 

 神仏分離令が布告されると共に、神職の家族にも神葬祭を行うことが許可されます。更には 明治3年以降 続々と神葬祭を申請する動きが始まり、神職家族のみならず、一般民衆にも許可される様に成りました。神道の神葬祭を行うと言うことは 寺院の檀家を止める事でもあり、その様な情勢の中で、明治4年には 戸籍法が制定され、正式に寺請制度の法的根拠が廃絶される事と成りました。

 

  今回は以上です。  

神葬祭

 今回は神道の葬儀、神葬祭に付いて書かせて頂きました。

 

 神葬祭とは 日本固有の宗教である神道の葬儀です。この日本固有の葬儀は 仏教の伝来以降、天皇家の庇護を受けて 急速に仏式の葬儀へと変わって行きます。更に 江戸時代の寺請制度により、神職も何れかの寺院に所属しなければならず、神葬祭を行う機会は失われました。その様な状態の中、江戸時代中期に入ると、国学が興隆し、国学者たちによる日本古来の精神・文化の研究が進み、日本古来の信仰にもとずいた葬儀を求める”神葬祭運動”が起こり、その結果として 1785年 江戸幕府は吉田家から許可状を受けた神職、及びその嫡子に限り、仏門を離れて神葬祭を行う事が許可されます。そして 明治時代になり 政府の神祇政策の一還として神葬祭が奨励され、明治5年には 明治政府の教部省により ”葬祭略式”が制定されました。

 

 江戸時代 神社は仏教からの独立を志向しましたが、キリシタン対策の為の寺請制度(檀家制度)により、神職と言えども、何れか寺院の檀家でなければ成らず、仏式の葬儀が強いられました。神社側としても 宗教としての神道を確立するとともに、神葬祭を求める運動を起しました。しかしながら 江戸幕府は寺請制度を宗教問題としてだけではなく、民衆支配体制の問題としても捉えていたため、神葬祭運動が許可されるまでには長い時間が必要とされ、許可された1785年でも大きな制限の中でしかなく、この状態は明治維新まで続く事となります。

 

 江戸時代の神葬祭は儒教葬を基本としたものにとどまりましたが、神葬祭の形式がまとめられるのは 明治5年(1872年)制定の”葬祭略式”によってとなります。明治政府は神葬祭を奨励しましたが、明治憲法では 制限付きでは有りますが、信教の自由が保障されて居りましたので、神葬祭が強制される事は有りませんでした。又 葬儀は宗教行為とされ、公務員に相当する神社神道の神職は宗教活動である神葬祭を執り行う事が禁止されていた為、神葬祭の普及は必ずしも進捗しませんでした。第二次世界大戦後 神道は宗教としての立場を取戻し、葬儀に係わる事が出来る様になりました。

 

   今回は以上です。

日本古来の宗教 神道

 今回は日本古来の宗教である神道に付いて書かせて頂きました。

 

 神道は古代日本に起源をたどる事ができる宗教で、日本の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤として、確定した教祖や創始者は居らず、森羅万象に神が宿ると考えて、祭祀を重んじ、浄明正直(浄く、明るく、正しく、直く)を徳目として居ります。神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、それが神道として体系化されたのは鎌倉時代中期以降であり、神道の体系や儀礼を作り上げる事に大きく貢献したのは 吉田兼倶(1434−1511年)で、以降 吉田神道は理論化を進め、1700年頃(江戸時代)に完成したと言われて居ります。

 

 吉田兼倶は 密教や陰陽道(おにようどう)を取り込み 神道の体系化を行い、日本の神道は儒教や仏教の宗主であり、万法の根底である、と理論付けました。

惣村に於ける寺壇関係の進捗により、地方においては 仏教の影響力が強まり、神道の地位は低下して行きます。又 室町時代後期に入ると 神仏融合によって建立された、神社内の真言宗や天台宗の寺院である神宮寺や別当寺は宗派を離れ、修験道の手に移って行きました。吉田神道は こうした神社、神宮寺、別当寺などを支配下に置き、神道を宗教として完成させます。

 

 江戸時代に入り 幕府の民衆支配の方策として採用された寺請制度(檀家制度)が始まると、神職と言えども 壇那寺に所属しなければならず、神道は埋没しますが、幕府や主要大藩の行政に儒教家が係わる様になると、民衆からの寺院に対する寄進や布施は 行政府に納める税と対立する事となり、儒教家は仏教批判を強め、水戸藩や土佐藩では仏式ではなく、儒教式の葬儀が行われる様に成ります。同時に 神社側も 神葬祭が行える様 幕府に働きかけます。長い働きかけの決果、1785年になり 神職当人、及びその嫡男に限り、仏門を離れて、神葬祭を行う事が許されました。とは言え 江戸時代は 準国教である仏教の下で、神道は祈り続けられる事と成ります。

 

 明治に入り 新政府は 江戸幕府の考えを全て廃除する為、準国教であった仏教を否定して、神道を国教として、皇室神道を作り上げました。

 

   今回は以上です。

▲このページのトップに戻る